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筑紫倭国伝

儀同三司


太宰府(だざいふ)


 太宰府史跡の発掘調査は、昭和43年に始まり現在も続いているが、これまでの発掘調査結果から、それまで言われてきた定説を、変更しなければならないことになった。


 それまでの定説は、太宰府は663年の「白村江の戦い」の敗戦による唐・新羅の本土進攻に備えるため、中大兄皇子(後の天智天皇)の命によって現在地に、水城(みずき)・大野城(おおのじょう)・基肄城(きいじょう)とほぼ同時期に建造された。現在、地上に見える礎石は創建時のもので、上層の建物は、941年の藤原純友の乱によって炎上し、その後に再建されることはなく、太宰府は事実上終息したとするものであった。


太宰都督府跡 太宰都督府跡

 関東の平将門の乱と藤原純友の乱は、日本の東西で相呼応するように勃発する。奈良時代から二百数十年続いた律令制度は、これを境に崩壊の一途をたどる。純友によって焼かれた太宰府を再建するだけのちからは、もう大和政権には残っていなかった。
 福岡県太宰府市観世音寺


 ところがこれまでの発掘調査の結果、現在地上に見える礎石の下、約60cmに同じような配置の礎石が確認され、さらに、その下層に掘立柱建物の柱穴があり、遺構は大別して三期からなることが明らかになった。


 そこで、定説の変更になる訳だが、第一期の掘立柱建物は663年の「白村江の戦い」の敗戦後に、水城・大野城・基肄城と同時期に建造され、第二期の地中の礎石建物は大宝律令施行の702年頃に建造され、941年の藤原純友の乱により焼失した。現在地上に見える礎石は、その後に再建された建物のものということになった。一緒に出土した瓦や土器片が、それを裏付けるらしいが、どうも俄には信じ難い。


 10世紀なかば以降の太宰府再建ということであれば、その国家的大事業が記録に残らないはずはない。第二期の建物にしても、大宝律令施行の702年頃の建造だとすれば、律令制のシンボルとして記録も必ず残されるはずであるが、しかし太宰府建造の記録は一切存在しない。


 第一期の建物にも不可解なことがある。同時期に建造されたとする大野城・基肄城の倉庫群は山頂にあるにもかかわらず、礎石建物であるが、平地の太宰府中枢建物が、掘立柱で建造されたというのも腑に落ちない。これは明らかに建造時期に相当のずれがあると考えるのが自然である。


 それに大野城・基肄城・水城と太宰府建造物を同時に建造しようとすれば、当時の土木技術では数万人の労力をもってしても二年や三年でできる代物ではない。ましてや敗戦直後の倭国に、それほどの労働力の創出などできるはずがない。


大野城跡 大野城跡

 太宰府の北に、なだらかに拡がる四王寺山にある山城で、約8kmにわたる土塁や石垣で山頂を囲み、その中に建物を建てた。
 現在も倉庫跡と思われる約70棟分の礎石が、山中に点在している。
 福岡県大野城市四王寺山


 発掘調査の結果、明らかになった第一期の掘立柱建物は筑紫王朝創期ものであって、第二期の礎石建物は、西暦470年頃に倭国筑紫王「武」によって、都として整備された時に建造されたものである。そしてこれは527年の、いわゆる磐井の乱により焼失したと考えられ、第三期の礎石建物は、その後の筑紫王によって再建されたものだと思われる。


 681年に天武天皇の律令制定を命じる詔によって、大宝律令が701年に完成する。大宝律令の施行によって筑紫と大和の政権は統合され、国号も「日本国」に正式に改められた。


 以後、太宰府は地方役所として存続することになったが、やがて律令制の崩壊が始まると、藤原純友の乱(941年)が勃発し太宰府は炎上する。その後は中央政権によって再建されることもなく、歴史の表舞台から姿を消し、現在地上に見える礎石だけを残すこととなった。


太傅府(だいぶふ)


 太宰府の北東約14kmに大分(だいぶ)の地名があって、ここに大分八幡宮がある。宇佐八幡宮の社伝『八幡宇佐宮御託宣集』によれば、「大分宮は我本宮なり」と記されている。


 宇佐八幡・岩清水八幡とともに日本三大八幡宮の一つである箱崎八幡宮は、923年(759年説あり)に、大分宮が箱崎の地に遷座したものである。すなわち大分八幡宮は、宇佐八幡宮の本宮であり、箱崎八幡宮の元宮でもある。これほどの格式をもつ神社がこの地にあるが、地元の人以外には案外と知られていない。神殿裏山は皇室古墳埋蔵推定地になっていて、境内には応神天皇産湯の井戸がある。宇美八幡宮で生まれた応神天皇が、ここで産湯を使ったとする伝承の地である。


大分八幡宮 大分八幡宮

 祭神は応神天皇・神功皇后・玉依姫命。
 大分は「だいぶ」と読み、太傅(天子の師傅となる官)の事である。倭国筑紫王家は、ここに天子の養育に携わる府が置いた。宇佐八幡宮の本宮だという。
 福岡県飯塚市大分


 宇美八幡宮から大分八幡宮に至る途中に「ショウケ越え」という奇妙な名前の峠があるが、「ショウケ」は、竹で編んだザルのことで、神功皇后が誕生間もない応神天皇をこの「ショウケ」にいれて、峠を越えたことから名づけられたという。


 竹で編んだザルのことを、この地方では「ショウケ」というが、関西地方では「ソウケ」という。すなわち「ショウケ」は宗家のことで、「筑紫王朝宗家が越えた峠」が本来の意味だと思う。神功皇后伝説は、このことを語り継いだ。


 神功皇后伝説は大分(だいぶ)の地名についても抜かりなく説明している。それによると神功皇后は、新羅遠征の軍勢をここで解散し、それぞれの故郷に帰らせた。これが「大分(おおわ)かれ」で大分(だいぶ)の地名になったとするものである。なかなか苦心している。


大分廃寺塔跡 大分廃寺塔跡

 現在は塔跡以外は見ることはできないが、創建当時は七堂伽藍といって、塔・金堂・講堂等がそろった大規模寺院であったと考えられている。新羅系文様の華麗な古瓦が出土している。
 昭和16年に国指定史跡なっている。
 福岡県飯塚市大分


 大分八幡宮の東に約1km程の所に「大分廃寺塔跡」と言われる古代寺院跡がある。発掘調査の結果、寺域は南北94m東西102mで、建立は8世紀初頭と推定されているが、太宰府の造営時期と同様に建立時期はあまり当てにならない。いずれにしろ、心礎柱座の直径から、30mを超える3重の塔が建っていたと考えられているが、なぜこの地にこうした遺跡が残るのかは、あまり検証されていないのではないかという気がする。


王塚古墳 王塚古墳

 石室の大部分は地元産の花崗岩等が使われているが、石屋形や石枕・灯明台は阿蘇の溶岩製である。このことは、この墓の主が単なるこの地の豪族でないことを物語る。
 福岡県嘉穂郡桂川町寿命


 この付近には古墳もたくさん点在するが、中でも特筆すべきは「王塚古墳」である。6世紀の前方後円墳とのことであるが、石室内は壁面全体に色彩豊な文様が描かれ、石枕・灯明台を設置するなど、その構造にも技巧を凝らしている。装飾古墳としての豪華さは他に例をみない超一級のもので、昭和27年には国の特別史跡に指定されている。おそらくこれは筑紫王家の墓であるはずだが、古墳は何も語ってくれない。


太保府(だいほふ)


 太宰府の南、約14kmに大保(おおほ)の地名がある。ここに「御勢大霊石(みせたいれいせき)神社」というのがあって、『延喜式神名帳』にも記載されている。


御勢大霊石神社 御勢大霊石神社

 社伝によれば、神功皇后は、熊襲征伐のおり、この地で死んだ仲哀天皇の代わりに御魂代の石を軍船に積み鎧兜を着せ、三韓遠征を行い、帰国後にその石を殯葬のこの地に奉った。
 福岡県小郡市大保


 この神社は、第十四代仲哀天皇の「殯葬傅説地」、すなわち殯宮(もがりのみや)であるという神社由緒を持つ。由緒は後に神后皇后伝説として創作されたものであるが、創作の背景にあるのは、この地が「天子の徳を保ち安んずる官」の太保府(だいほふ)の地であったからにほかならない。


 御勢大霊石神社の南、約1.5kmに小郡(おごおり)官衙遺跡といわれる掘立柱建築物跡がある。「官衙(かんが)」とは役所の意味であるが、7世紀中頃から8世紀後半までの3期と、それ以前のものを併せた複合遺跡である。


小郡官衙遺跡 小郡官衙遺跡

 旧石器時代から8世紀後半に掛けての複合遺跡で、建物跡群は筑後国御原郡の郡役所跡であろうと推定されているが、規模が異常に大きい。およそ方二町(約240m)の区画があった。
 福岡県小郡市大保


 地方役所(郡衙)であろうと推定されているが、それにしては規模が異常に大きく、単なる地方役所跡とは思えない。1期以前の遺構も確認されており、ここが太保府の地であったことは間違いない。


 小郡官衙遺跡の東、約2km程の所に井上という集落があるが、そのなかに「井上廃寺跡」と記された石碑が建つ。昭和35年の測量調査から、古瓦の分布範囲等によって、およそ方二町の寺域を持つ古代寺院があったことが判明している。


 現在は礎石なども移転されてしまい見ることはできないが、嘉永六年(1853年)に矢野一貞により著された『筑後将士軍談』によれば、方一間(約180cm)ほどの礎石が二つあり、一尺一寸(約35cm)ほどの柱穴があったと記している。


 太傅府の地に大分廃寺があり、太保府の地に井上廃寺がある。これらは筑紫王朝によって計画的に造られ、その滅亡と共に、朽ち果てていくことになったものである


鴻臚館(こうろかん)


 外国使節を迎える客館、すなわち迎賓館(げいひんかん)は、都の機能として欠かせない。古代中国風には、これを鴻臚館(こうろかん)と言い、太宰府の北西約16kmに所在する。「鴻臚館」の名は文献上838年に初出するが、勿論この時期に設置されたものではない。


 『日本書紀』に、688年に新羅の使節を筑紫館(つくしのむろつみ)で饗応したとする記録があり、これが鴻臚館のことである。日本書紀編纂時には既に難波に大和政権の迎賓館が設置されており、これとの区別のため筑紫館(つくしのむろつみ)という名で記された。


鴻艫館発掘現場 筑紫館(つくしのむろつみ)

 福岡城内に建てられた平和台球場は解体され、鴻臚館(こうろかん)の発掘調査は、1988年から続いている。2004年5月に国指定史跡となった。
 福岡県福岡市中央区城内


 筑紫館(つくしのむろつみ)すなわち筑紫鴻臚館は、文献上688年が最古の記録であるが、これより遥か以前の邪馬台国の時代、240年頃には既に存在していた。


 『魏志倭人伝』によれば、伊都国(いとこく)は「郡使の往来、常に駐まる所なり」とあり、これが筑紫の鴻臚館のことであるが、筑紫王朝成立以前のことであり、どういう名前で呼ばれたかは定かではない。


 『魏志倭人伝』の伊都国は、「委奴国」であり、『後漢書』に紀元57年、漢の光武帝が倭に「漢委奴国王」と刻印された金印を贈ったと記す国である。この金印は、1784年に志賀島で発見され、「かんのわのなのこくおう」と読むということになっているが、「かんのいとこくおう」と読む方が自然であり正しいと思う。


 この委奴国王(いとこくおう)が、紀元57年以前に志賀島から糸島半島、博多湾岸一帯の福岡平野を統治し、邪馬台国の時代には女王国を成立させ、やがて筑紫王家へと発展し、太宰府を造営するのである。


 太宰府から鴻臚館は、北西に16kmの位置にあるが、近年の発掘調査で、両側に幅2m深さ1mの側溝が完備された、幅員10mの一直線の道路で結ばれていたことが確認されている。これはまさに古代の高速道路であり、アジア大陸につながる国際道路だったのであるが、遅くとも700年代末には既に廃道になっていたことも、発掘調査の結果から解っている。


 もし本当に、太宰府が「白村江の戦い」の敗戦後に造営されたものであるとするなら、この高速道路も、太宰府や水城(みずき)とほぼ同時期に造られたことになり、そしてわずか100年たらずで消滅したことになる。これはどうにも不自然さが拭えない。


水城

太宰府側(天拝山)から博多湾方向を望む。中央を横切る緑の帯が水城。


 水城は、福岡平野(博多湾)から太宰府への進入を遮断するように築造された、全長1.2km、高さ13mの堤であるが、古代の高速道路は博多湾から太宰府への進入を容易にし、太宰府防衛上の観点では、築造目的が明らかに相反する。この二つの施設が、同時期に造られたとは考えにくい。


 太宰府が、西暦470年頃に倭王武によって造られた時、卑弥呼の時代から外国使節の客館としてあった施設が、倭国筑紫王朝の「鴻臚館」となった。そして太宰府と鴻臚館は、当時としては超一級の高速道路で結ばれ、外国商人や使節団もこの道を往来したに違いない。しかし首都が奈良に移ってのちは、この道路は必然的に使われなくなり、まぼろしの古代国際高速道路となった。