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筑紫倭国伝

神郡宗像



 福岡県宗像(むなかた)市の沖合約60Kmの洋上に玄海灘の孤島「沖ノ島」がある。周囲4kmほどの無人島で、宗像大社の沖津宮(おきつみや)が置かれ、宗像三女神の田心姫神(たごりひめのかみ)を奉り、神官一人が交替で詰めている。今でも女人禁制の島である。「お言わずの島」とも言われ、この島で見聞きしたことは、一切他言してはいけないとされ、一木一草一石たりとも島外に持ち出すことはできない。


沖ノ島 沖ノ島

 東西約1km、南北約500m、周囲約4km、最高標高243m。全島が宗像大社の境内地で、沖津宮(おきつみや)は島の南部、標高約80mに位置する。
『神宿る島』宗像・沖ノ島と関連遺産群は、2017年、世界文化遺産に登録された。


 昭和29年から学術調査が行われ、その結果、四世紀後半から十世紀初頭の祭祀遺跡で、中国製の青銅鏡や、朝鮮半島は新羅製の金製指輪・金銅製馬具など、約十二万点の遺物が出土し、そのうち八万点が国宝に指定され、沖ノ島は「海の正倉院」ともいわれるようになった。


 『日本書紀』によると、素戔嗚尊(すさのおのみこと)が、姉の天照大神(あまてらすおおみかみ)に別れの挨拶に来ることを、高天原(たかまがはら)を奪いに来ると思った天照大神は、天の安川で、素戔嗚尊に誓約(うけい)を強いて、それぞれが生んだ子で、素戔嗚尊に悪しき心がないことを知る。


このときに生まれた三女神を「海北道中」の、沖ノ島の沖津宮(おきつみや)、筑前大島の中津宮(なかつみや)、宗像田島の辺津宮(へつみや)に天照大神が降ろした。これが宗像大社の祭神であり『日本書紀』は「此(これ)(すなわ)ち、筑紫の胸肩(むなかた)の君等が祭(まつ)る神、是也」(『日本書紀』巻第一神代上)と記している。


 『日本書紀』の神代上(かみのよのかみ)から登場する宗像の民は、古代から海人(あま)族として創成期の日本列島の歴史に深くかかわってきた。


宗像大社辺津宮 宗像大社辺津宮

 田心姫神(たごりひめのかみ)を沖ノ島の沖津宮、湍津姫神(たぎつひめのかみ)を大島の中津宮、市杵島姫神(いちきしまひめのかみ)を田島の辺津宮にそれぞれ奉り、三宮を総称して宗像大社という。三姫神を「道主貴(みちぬしのむち)」ともいう。
 福岡県宗像市田島


 大和(ヤマト)王朝の初代神武天皇の東征出発地が遠賀川河口(筑紫国岡水門)であったことは、『記紀』ともに書き記している。遠賀川(大神川)流域は古代豪族物部氏の本貫地であり、その物部氏が大和(ヤマト)王朝建国の祖であった。宗像海人族は物部集団の水軍として、多くの移民団の移送を担った。『先代旧事本紀』に「赤間物部」とあるのが宗像海人族である。


乃ち日神の生せる三女神を以て、筑紫洲(つくしのくに)に降(あまくだ)りまさしむ。因りて教へて曰はく、「汝(いまし)三神、道の中に降り居して、天孫(あめみま)を助け奉(まつ)りて、天孫の爲に祭(まつ)られよ」とのたまふ。(『日本書紀』巻第一)


 これを天照大神が三女神に下した「神勅(しんちょく)」というが、「天孫(あめみま)」とは天照大神の子孫をいう。つまり、三女神を祭る「筑紫の胸肩(むなかた)の君等」は「天孫」だといっている。


みあれ祭 みあれ祭

 毎年10月1日から3日の宗像大社放生会の初日に行われる「みあれ祭」は、宗像三姫神をのせた御座船のまわりを神送り船(供の漁船)が周回する荘厳な海上パレード。神送り船は玄界灘に雄飛した宗像海人族の残影である。
 福岡県宗像市神湊


 奈良時代に編纂された風土記の逸文に宗像の名の起こりが記されているが、そこでもこのことが分かる。


西海道の風土記にいう、―宗像の大神が天から降って崎門山(さきとやま)に居られた時に、青蕤(あおに)の玉をもって、《一本には八尺絮蕤玉とある》奥津宮の表象とし、八尺瓊(やさかに)の紫の玉をもって中津宮の表象とし、八咫の鏡をもって辺津宮の表象とし、この三つの表象をもって神体の形として三つの宮に納め、そして納隠れ給うた。それで身形(みのかた)郡という。後の人は改めて宗像といった。その大海命(おほあまのみこと)の子孫は、今の宗像朝臣らがこれである。云々 (『防人日記』下)


 この「大海命(おおあまのみこと)」が、『日本書紀』にいう「大海人皇子(おおあまのみこ)」のことであり、つまり「天武天皇」である。


 天武天皇の和風諡号「天渟中原真人天皇(あまのぬなはらおきのまひとのすめらみこと)」の「瀛」は、道教における東方三神山の一つ瀛州(えいしゅう)のことである。「瀛」は「エイ」と読み、「オキ」の音はないはずだが、『日本書紀』は「沖ノ島」を「瀛津嶋」あるいは「遠瀛」と書いている。「瀛」は特殊な字で普段使いの字ではない。書記編者は、あえて「沖ノ島」にこの字を充てた。


 倭国筑紫王朝は、527年の「磐井の乱」で「葛子(筑紫火君)」が王となって存続していくが、その筑紫王家と豊国王(物部氏)は姻戚関係となり、やがて胸形(宗像)系の筑紫王を輩出するに至った。これが「大海人(おおあま)」で、後に「白村江の戦い」で中国唐軍と戦った「薩野馬(さつやま・さちあま)」であり、672年の壬申の乱を経て「天武天皇」となる。


 天武天皇の第一皇子で、「壬申の乱」の将軍となって戦う高市皇子(たけちのみこ)の母が、「胸形君徳善(とくぜん)の女(むすめ)尼子娘(あまこのいらつめ)」であると『日本書紀』が記している。この「胸形君徳善」が、宮地嶽(みやじだけ)古墳(福岡県福津市)の主であろうと推測されている。


宮地嶽神社 宮地嶽神社

 宮地嶽古墳は宮地嶽神社の奥の院、不動神社になっている。全長23mの横穴式石室があり国内で2番目の長さで、明日香の石舞台古墳より長い。副葬品に金銅製の馬具・金銅製冠・金銅装頭椎大刀などがあり、全て国宝に指定されている。
 福岡県福津市宮司元町


 宮地嶽(みやじだけ)古墳は、6世紀から7世紀頃に造られた直径約34メートルの円墳で、内部に巨岩を使った横穴式石室を持ち、最大幅2.8メートル・最高高3.1メートル・長さは23メートルで、全国で二番目に長い。副葬品に金銅製頭椎大刀(長さ約2.6メートルの大大刀)・金銅製馬具・宝冠などがあり、国宝に指定され、その豪華さと貴重さから「地下の正倉院」とも呼ばれ、まさしく天皇陵に匹敵する。


 現在は宮地嶽神社の奥宮として不動神社が祀られているが、この横穴式石室古墳内で、戦前(昭和十一年頃)まで「筑紫舞」が舞われ奉納されてきた。(古田武彦『よみがえる九州王朝』)


 筑紫舞は、『続日本紀』天平三年(731年)の記事で、宮廷雅楽寮(うたりょう)に属する品部(楽戸)で舞われていたことが分かるが、それ以降は史料から消え、筑紫くぐつ(傀儡子)と呼ばれる人々によって、一子相伝の口伝によって秘かに伝承されてきた。


 天武天皇の血をひかない桓武天皇(天智天皇の血をひく)が即位することで、奈良時代は終焉を迎える。倭国筑紫王朝から続いた皇統が、大和(ヤマト)王朝の天智系に移ったことことで、桓武天皇は遷都(784年、長岡京)を断行した。宮廷舞として舞われてきた筑紫舞の楽戸(がっこ)らもこのときに放逐された。


京都御所の宗像神社 宗像神社(京都御所内)

 京都御所の宗像神社は、平安京遷都の翌年(795年)に桓武天皇の命で、藤原冬嗣が祀ったものである。桓武天皇の平安京遷都は、天武天皇系勢力が集まる奈良から脱して、新たな天智天皇系の都を造る意図があったといわれる。天武天皇の祟りを恐れた建立なのかもしれない。


 宗像は律令制下において伊勢・出雲などと共に、「神郡(しんぐん・かみのこうり)」として特別扱いされている。


 「神郡」とは、特定の神社の所領を神域として定め、その社領(神領)からの収入は、その神社の修理・祭祀費用等に充てられた。いわゆる「特区」である。『令集解』所収養老七年(723年)「太政官処分」で全国に八神郡(筑前国宗形郡・伊勢国渡相郡・伊勢国竹郡・安房国安房郡・出雲国意宇郡・常陸国鹿島郡・下総国香取郡・紀伊国名草郡)を確認することができる。


 「神郡」制度は、681年に天武天皇が律令制定を命ずる詔の発令によって、701年に完成した「大宝律令」によるものと考えられる。「神郡」の文献初見は『日本書紀』持統天皇六年(692年)であるので、「筑前国宗形郡」の「神郡」の制定は天武天皇(686年崩御)の存命中に行われたと思われる。


 天武天皇が、風土記に記された宗像朝臣の祖先「大海命」でなければ、宗像の「神郡」指定はありえない。


 大和(ヤマト)王朝の皇統の継続性を書き綴らねばならない『日本書紀』は、天武天皇が倭国筑紫王朝の最後の大王であったことは記せなかった。