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筑紫倭国伝

大和蘇我政権



 大和(ヤマト)王朝の大臣(おおおみ)蘇我馬子は、「丁未(ていび)の乱」(587年)で大連(おおむらじ)の物部守屋を滅ぼすと、崇峻(すしゅん)天皇も殺害して、欽明天皇の皇女で敏達天皇の皇后であった豊御食炊屋姫(とよみけかしきやひめ)を第三十三代の推古(すいこ)天皇として即位させ、大和蘇我政権を樹立(592年)した。


筑紫倭国へは、紀男麻呂(きのおまろ)・巨勢猿(こせのさる)・大伴嚙(おおとものくい)・葛城烏奈良(かつらぎのおなら)らを大将軍に任じて、二万余の軍を派兵して牽制した。この派兵は推古三年七月まで続くが軍事衝突の形跡はみられない。


蘇我馬子は、大和(ヤマト)王朝が筑紫王朝に代わる日本列島の覇者になったことを中国隋王朝に認めさせるよう、筑紫王に迫った。


 蘇我馬子の大和(ヤマト)王朝新政権は、推古天皇の摂政で厩戸皇子(うまやとのみこ、聖徳太子)が、冠位の制定と憲法十七条を発布して、三宝(仏・法・僧)を敬うことを国是とした。蘇我氏の執念が実ったといえる。のちに分かることだが「国記・天皇記」の編纂も行っていた。「日本」や「天皇」という言葉もこの頃から内外で使いだした形跡がある。


中国王朝の対応


 推古八年(600年)に筑紫王「阿毎(あめの)多利思比孤(たりしひこ)」は隋の高祖文帝に使者を送り、以下のように述べている。


「倭王は天をもって兄となし、日をもって弟となす。天いまだ明けざる時、出でて政を聴き跏趺(かふ)して坐し、日出ずればすなわち理務を停め、我が弟に委ねんと云う」


「俀王以天爲兄 以日爲弟 天未明時 出聽政跏趺坐 日出便停理務 云委我弟」(『隋書』倭国伝)


要約すれば、「倭王は隋の文帝を兄と思い、日(大和)王を弟としてきた。隋朝の建国以前から、中国王朝には政(まつりごと)を相談してきたが、日(大和)王が真の実力者になったから、政権は日(大和)王に委ねる」つまり、禅譲(ぜんじょう)すると言っている。


 これを聞いた文帝は「これ大いに義理なし」と。つまり「全く道理が解らない」と言い、「ここにおいて訓(おし)えてこれを改めしむ」、認めないと言っている。


 『隋書』は、この記述の後に、倭王には妻と太子と、後宮には女が六~七百人いて、内官には十二等級の官位があり、阿蘇山があることも書いている。そうした体制を有する筑紫王朝が、政権を日(大和)王に禅譲すると言い出したのだから、これはとても道理ではないと文帝が訝(いぶか)るのも当然であった。


 中国の冊封体制は、朝貢をしてきた周辺諸国の君主に、中国皇帝が官号・爵位などを与えて君臣関係を結び、彼らにその統治を認める一方、宗主国対藩属国という従属的関係におくことである。これが古代東アジアの国際体系であった。


 倭国は、後漢の光武帝から「漢委奴国王」の金印を授かった時(57年)から、その冊封体制に組み込まれ、邪馬台国時代には「魏」から軍事支援も受けた。


 「倭の五王」の時代には、倭国はその冊封体制の中で朝鮮半島の権益を求めてきた。しかしここにきて「多利思比孤(たりしひこ)」は、勝手に政権を日(大和)王に禅譲すると言っているのだから、統治の任命権者を自負する中国皇帝としては認められるものではない。


 推古十五年(607年)に、筑紫倭王「多利思比孤(たりしひこ)」は再び遣使を送った。使者は、蘇我馬子の命を受けた大和(ヤマト)王朝の「小野妹子(おののいもこ)」である。

 

大業三年、その王多利思比孤、使を遣はして朝貢す。使者いはく、「聞く、海西の菩薩天子、重ねて仏法を興すと。故に遣はして朝拝せしめ、兼ねて沙門数十人、来って仏法を学ぶ」と。その国書にいわく、「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す、恙なきや、云々」と。帝、之を覧て悦ばず、鴻臚卿にいっていわく、「蛮夷の書、無礼なるもの有り、復た以て聞するなかれ」と。


大業三年 其王多利思北孤遣使朝貢 使者曰 聞海西菩薩天子重興佛法 故遣朝拜兼沙門數十人來學佛法 其國書曰 日出處天子致書日没處天子無恙云云 帝覧之不悦 謂鴻臚卿曰 蠻夷書有無禮者勿復以聞
(『隋書』倭国伝)


 このときのことは中国史書『新唐書』日本伝には「隋の開皇末に直(あた)り、始めて中国と通ず」とあって、大和国王が「日本の天子」だとして、国際舞台に「初デビュー」したのである。ここに倭王「多利思比孤」の遣使だと書いているが、これは『隋書』編者の誤認か、あるいは小野妹子の策略だったとも考えられるが、いずれにせよ、倭王「多利思比孤」の上表でないことは、その文面からも明らかである。

 

 翌年(608年)、隋の煬帝は、「無礼な蛮夷の書」の真意を探るために、裴世清(はいせいせい)を派遣してきた。小野妹子(蘇因高)も一緒に帰国している。


 小野妹子は、煬帝から授けられた国書を「帰国途中に百済人から掠め取られた」と報告した。群臣は妹子を流刑に処すべきとしたが、「天皇はこれを赦(ゆる)した」と『日本書紀』は書いている。当然のことだが、隋の煬帝が、その「無礼な蛮夷の書」の者に国書を授けるはずはない。裴世清(はいせいせい)の派遣は、日本列島の国情の視察が任務であった。


 裴世清(はいせいせい)は、筑紫から内陸を徒歩移動(現在の国道201号線沿いか)して、再び乗船し瀬戸内海を進んで大和入りしているようだ。


その王、清と相(あい)(まみ)え、大いに悦びていわく、「我れ聞く、海西に大隋礼儀の国有りと。故に遣わして朝貢す。我れは夷人、海隅に僻在(へきざい)して、礼義を聞かず。これを以て境内に稽留し、即ち相見えず。今故(ことさ)らに道を清め舘を飾り、以て大使を待つ。冀(ねがわ)くは、大国維新の化を聞かむ」と。清、答へていわく、「皇帝の徳は二儀に並び、澤は四海に流る。王、化を慕うを以て、故に行人を遣わし来らしめ、此に宣論す」と。(略)この後遂に絶つ。


其王與淸相見大悦曰 我聞海西有大隋禮義之國 故遣朝貢 我夷人僻在海隅不聞禮義 是以稽留境内不卽相見 今故淸道飾館以待大使 冀聞大國維新之化 淸答曰 皇帝徳並二儀澤流四海 以王慕化故遣行人來此宣諭 (略) 此後遂絶 (『隋書』倭国伝)


 このときに、筑紫王の多利思比孤(たりしひこ)は、筑紫で裴世清を出迎えて、会談も行った筈だが記録されていない。


 大和で裴世清(はいせいせい)と会談した「その王」とは、その文脈から、女帝の「推古天皇」でないことは確かであろうが、摂政の「聖徳太子」とも思えない。おそらく蘇我馬子が裴世清と会談したのだと思われるが、そこは『日本書紀』も文飾し糊塗している。


 「願わくは大国惟新の化を聞かせて欲しい」と、「その王」は、筑紫王から日(大和)王への禅譲(ぜんじょう)を認めるよう迫っているが、裴世清は「皇帝の徳は日月と同じで、世界に満ちて輝いている」それを教え諭した。つまり「隋帝の政(まつりごと)は勝手に変えられない」と伝えた。その後、遂に倭国との連絡は絶えた。


 612年、隋の煬帝は高句麗遠征を開始する。113万の兵力で三度の攻撃を受けた高句麗は、遂に煬帝に恭順の意を示すが、隋は高句麗遠征の無理がたたって内乱が起き、隋王朝は瓦解し唐が建国する。


 618年に「大唐」が成立すると、高句麗はその翌年すぐに遣使し、二年後には、百済・新羅と揃って朝貢したが、日本は直ぐに唐に遣使していない。


 630年(舒明2年)になって大和(ヤマト)王朝が、犬上三田耜(いぬがみのみたすき)と薬師恵日(くすしえにち)を唐に派遣している。


 翌年、唐の太宗(たいそう)は高表仁(こうひょうじん)を遣わして、犬上三田耜(いぬがみのみたすき)を送らせた。唐王朝も日本の国情の視察が急務であった。これを大和では、難波津に船三十二隻を揃え、鼓をうち、笛を吹き、旗を飾って出迎えた。


 『日本書紀』の記述によれば、高表仁は大和で大歓待を受けたのち、とくに何事もなく唐に帰ったはずだが、『旧唐書』倭国条に「表仁、綏遠(すいえん)の才無く、王子と礼を争い朝命を宣べずして還る」と記している。高表仁はこのとき、大和と筑紫の両方を訪れているのである。


 大和(ヤマト)の蘇我政権は、中国王朝「隋」と「唐」の二度の視察を受けたが、筑紫倭国に代わる中国王朝の朝貢国とは認められていない。『旧唐書』日本条に「その使者は尊大で、誠実に答えないので、中国は、これを信用していない」と記している。


日本国は倭国の別種なり。その国日辺にあるを以て、故に日本を以て名となす。あるいはいう、倭国自らその名の雅(みやび)ならざるを悪(にく)み、改めて日本となすと。あるいはいう、日本は旧(もと)小国、倭国の地を併せたりと。その人、入朝する者、多くは自ら矜大(きょうだい)、実を以て対(こた)えず。故に中国焉(こ)れを疑う。またいう、其の国の界、東西南北各々数千里あり、西界南界は咸(み)な大海に至り、東界北界は大山ありて限りをなす。山外は即ち毛人の国なり、と。


日本国者倭国之別種也。以其国在日辺、故以日本為名。或曰、倭国自悪其名不雅、改為日本。或云、日本舊小国、併倭国之地。其人入朝者、多自矜大、不以實對、故中国疑焉。又云、其国界東西南北各数千里、西界南界咸至大海、東界北界有大山為限。山外即毛人之国。
(『旧唐書』日本条)


朝鮮半島の外交


 朝鮮半島の新羅は、大和(ヤマト)王朝の蘇我氏と結託することで、任那(みなな)を滅ぼし加羅諸国を併合して強大化してきた。一方で、倭国筑紫王朝の後ろ盾を失った百済は、高句麗と結んで、新羅と対峙するようになっていく。


 蘇我氏の祖先は百済系の渡来人でありながら、これまでは倭国筑紫王朝の親百済外交の陰に隠れて新羅と通謀していたのであるから、以後の大和蘇我新政権としての朝鮮半島外交は、むつかしい舵取りを迫られて、多面外交を演じることになる。


 『日本書紀』推古十一年(603年)に、新羅攻略の将軍となった来目皇子(聖徳太子の同母弟)は、軍兵二万五千人を引き連れて出立したが、筑紫で急逝する。代りの将軍となった当摩皇子(聖徳太子の異母兄)が、難波を船出するが、明石で同行していた妻が死に、当摩皇子は引き返して、結局、新羅征討をやめている。


二万五千人の兵を動員したとしながら、相次ぐ事故に遭遇したとはいえ派兵中止はあり得ない。最初から新羅に派兵などする気はなく、事故は事実であったとしても、それは派兵中止の口実に過ぎない。


久米神社 久米神社

 祭神 底津綿津見・表津綿津見神・中津綿津見神・来目皇子
 来目皇子が率いた軍の本営地、あるいは皇子の仮埋葬地とも伝わる。周辺集落には、「大館庁・小館庁・射手」など皇子屯営の頃より伝わるとされる地名も残っている。
 福岡県糸島市志摩野北


 『日本書紀』推古八年と推古三十一年にも新羅征討の記事があって、ともに新羅が降服したとあるが、中国史書や『三国史記』にもそうした記載は見当たらない。『日本書紀』編者の虚構である。


乙巳の変(いっしのへん)


 推古二十九年に聖徳太子が薨去すると、推古三十四年(626年)には、蘇我馬子も薨去した。馬子の子の蝦夷(えみし)が大臣(おおおみ)となって蘇我本宗家を継いだ。その二年後に、推古天皇は継嗣を定めないまま崩御した。


 蘇我蝦夷は、蘇我氏の血をひく山背大兄(やましろのおおえ)王(聖徳太子の子)を避けて、田村皇子(たむらのみこ)を第三十四代の舒明(じょめい)天皇(息長足日広額天皇(おきながたらしひひろぬかのすめらみこと))にした。


 田村皇子は、敏達天皇の第一皇子「押坂彦人大兄皇子(おしさかのひこひとのおおえのみこ)」の長子で、蘇我氏の血統ではない。それにもかかわらず、山背大兄王を次の天皇に推した境部摩理勢(蘇我氏の一族)を絞殺してまで、舒明(じょめい)天皇を擁立している。


 これより三十五年前に蘇我馬子は推古女帝を奉じて大和蘇我王権を起てたとき、倭国筑紫王朝と政権移譲の談合がなされた筈であり、それに沿った措置だった。馬子の遺訓があったものと思われる。


舒明(じょめい)天皇の即位(629年)は、倭国筑紫王統の復権でもあるわけだが、推古天皇と同様に蘇我王権の傀儡であることに違いはない。


 631年、百済の義慈王(ぎじおう)は、王子の豊璋(ほうしょう)を大和に送った。『日本書紀』はこれを「人質」だと書いているが、この時期、百済王が日本に人質を入れる事情は見受けられない。


三輪山 三輪山

 乙巳の変(いっしのへん)の前年(644年)に、豊璋が三輪山で養蜂を試みたが失敗した、という記述が『日本書紀』にある。豊璋が乙巳の変に係わったことの暗示であろう。
 奈良県桜井市三輪


 舒明十三年、天皇が崩御すると、皇后の宝女王(たからのおおきみ)が第三十五代の「天豊財重日足姫天皇(あめとよたからいかしひたらしひめのすめらみこと)」皇極(こうぎょく)天皇として即位(642年)した。皇極女帝は「押坂彦人大兄皇子(おしさかのひこひとのおおえのみこ)」の孫であり、蘇我氏の血はひかない。


 蘇我蝦夷(そがのえみし)が、それまでどおり大臣(おおおみ)であったが、国政は、子の入鹿(いるか)が執った。盗賊も恐れをなして、道の落し物さえ拾わなかったという。


 入鹿(いるか)の国政は傲慢に過ぎた。かつて蝦夷(えみし)が、蘇我の血をひく山背大兄王(上宮王家)の皇位継承を避けたが、入鹿(いるか)は山背大兄王を殺害して、やはり蘇我氏の血をひく古人大兄皇子(舒明天皇の子、母は馬子の娘の法提郎女)の擁立を企てた。


蝦夷(えみし)は、入鹿(いるか)が山背大兄王一族を殺害したこと聞くと、怒り罵って「入鹿、甚だ愚かにして、お前の命も危ういぞ」(『日本書紀』巻第二十四)と言った。


 この前年になるが、蘇我蝦夷(えみし)大臣は、畝傍(うねび)の館に「百済国王の子、翹岐(ぎょうき)弟王子」を招いて、親しく対談している。


 この翹岐(ぎょうき)は、百済国王(義慈王)から島流しで追放されたことになっているが、これは義慈王の、蘇我氏を討つための謀略である。翹岐(ぎょうき)は、義慈王の密命を受けた刺客であった。11年前に人質として送ったという「豊璋」のことでもある。


 642年に百済の義慈王は高句麗の淵蓋蘇文(えんがいそぶん)と軍事同盟(麗済同盟・れいさいどうめい)を結び、加羅諸国の奪還を開始する。新羅の金春秋(後の武烈王)は、高句麗に救援を求めて来使するが、捕られて一時監禁されている。


 唐の太宗は高句麗に対して新羅との和解を勧告するが、淵蓋蘇文はこれを拒否した。激怒した太宗は645年に、10万余の大軍を率いて高句麗に侵攻した。


 同年に新羅は、大和(ヤマト)王朝にも救援依頼のため使者を送った。『日本書紀』は三韓(新羅・百済・高句麗)からの調(みつぎ)を進(たてまつ)る儀式を朝廷で行うとあるが、この時期、三韓の使者が揃って進貢するなどということはありえない。おそらく新羅が大和に救援を請う使者を派遣したものであろうが、この使者を前に、蘇我入鹿(そがのいるか)は斬殺された。乙巳の変(いっしのへん・おっしのへん)である。


蘇我入鹿首塚と飛鳥寺 蘇我入鹿首塚と飛鳥寺

 中大江皇子(なかのおおえのみこ)らクーデター派は、直ちに法興寺(飛鳥寺)へ入り戦備を固めた。漢直(あやのあたい)らは、一族や兵を集めて戦を起こそうとしたが、中大兄皇子が、巨勢徳陀(こせのとくだ)を派遣して説得すると、武器を捨てて立ち去った。
 奈良県高市郡明日香村飛鳥


 この事件の首謀者は中臣鎌子(なかとみのかまこ)で、中大江皇子(なかのおおえのみこ、後の天智天皇)と計り、蘇我倉山田麻呂(そがのくらのやまだのまろ)、佐伯子麻呂(さえきのこまろ)、葛城稚犬養網田(かつらぎのわかいぬかいのあみた)らを引き入れて、宮中大極殿で起こしたクーデターである。


 この時、大極殿には他に皇極女帝と古人大江皇子(ふるひとのおおえのみこ)が居たが、古人大江皇子は私宅に走り入って、人々に「韓人(からびと)が鞍作臣(くらつくりのおみ)を殺した。われも心痛む」と言っている。


 「鞍作臣」は蘇我入鹿のことで、「韓人」は中臣鎌子しか該当者はいない。つまり中臣鎌子は、豊璋(翹岐)と同一人物であり、緊迫する朝鮮半島情勢の最中にあって、新羅に通謀して肩入れする蘇我氏を、百済の王子として看過することはできない。当然に義慈王の指令であったことも違いない。


 この事件の翌日に入鹿の父の蝦夷(えみし)は、自らの邸宅に火を放ち自殺するが、このとき全ての天皇記・国記・珍宝を焼いた。船史恵尺(ふねのふびとえさか)が素早く焼かれる国記を取り出して、中大江皇子(なかのおおえのみこ)に奉った。


 中大江皇子(なかのおおえのみこ)は、丁未の乱で蘇我馬子が物部氏を亡ぼして以来の、およそ六十年ぶりの王権の奪還を果たした。王統(押坂彦人大兄皇子(おしさかのひこひとのおおえのみこ)」の血流)の復権でもある。


 皇極女帝は、退位して「皇祖母尊(すめみおやのみこと)」となり、弟(同母弟)の軽皇子(かるのみこ)が即位して「天万豊日天皇(あめよろずとよひのすめらみこと)」孝徳天皇となった。


皇祖母尊(すめみおやのみこと)の娘、間人皇女(父は舒明天皇)を皇后にして、その兄、中大兄皇子(父は舒明天皇)を皇太子とした。阿倍内麻呂(あべのうちまろ)を左大臣、蘇我倉山田麻呂(そがくらのやまだのまろ)を右大臣、中臣鎌子(なかとみのかまこ)を内臣として新政権を発足させた。


 孝徳天皇は即位後、元号を「大化」と定めて、改新の詔(みことのり)を発して、これまでの大和(ヤマト)政権の土地・人民支配のあり様を改めた。厚葬の廃止や冠位の制定など数々の改革も行い、これを「大化の改新」という。


 「改新」の草案は中臣鎌子(豊璋)によって作られた。百済の王子「豊璋」は、日本に百済王国を作りたかったに違いない。だが、阿倍内麻呂と蘇我倉山田麻呂は旧蘇我政権の一翼であり、これを重用せねばならなかった新政権の事情が「改新」の足かせであった。