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筑紫倭国伝

壬申の乱


扶余豊璋の帰国


 「白村江の戦い」の敗戦で百済復興に失敗した筑紫倭国は、唐・新羅軍の侵攻の脅威に直接さらされることになり、筑紫沿岸の防衛の整備が急務になった。対馬・壱岐・筑紫に防人(さきもり)と烽(すすみ、のろし台)をおき、太宰府に大堤(水城)を築いたと『日本書紀』が記している。


 白村江の敗戦から五ヶ月後(664年)の二月には、中大兄皇子(なかのおおえのみこ)は大和にいて「大皇弟」に命(みことのり)して「甲子の宣布」をおこなったと『日本書紀』が記している。。


 「甲子の宣」の詔(みことのり)を大皇弟「大海人」、つまり筑紫王「薩夜麻」から宣布されたことにすることで、筑紫の政権は大和に移譲され、統合された新制「日本国」が誕生したと、ここで顕示して見せたのである。


 『日本書紀』は大海人(おおあま)を「大皇弟」としているが、大海人は中大兄(なかのおおえ)の弟ではない。後世の史書によるものではあるが、年齢も中大兄を越えていたふしがある。大海人(おおあま)は、薩夜麻(さちやま)と同一人で、白村江の戦いで唐軍に捕えられ、長安に連行されて抑留生活を送っていた。


 白村江の戦いの翌年(664年)五月、唐の百済鎮将劉仁願(りゅうじんがん)は、郭務悰(かくむそう)らを筑紫に送りこんだ。白村江から行方をくらました豊璋の探索が主な目的であったが、豊璋を見つけることはできずに帰国する。


中大兄は、郭務悰らを送り出す勅をだし、「中臣内臣は沙門智祥(ちしょう)を遣わして、品物を贈り饗応した」のだと、『日本書紀』は、ここでわざわざ「中臣鎌足」の名をだして、扶余豊璋とは別人だと粉飾している。


 白村江の敗戦のとき、「百済王豊璋は、数人と船に乗り高麗へ逃げた」と『日本書紀』は書いているが、唐軍に封鎖された白村江を船で脱出して、海路で高句麗に向かうのはどだい無理がある。


 『新唐書』百済伝では、豊璋は「走りて、所在知れず」になったと記している。おそらく豊璋は陸路を行き、新羅軍によって捕えられ保護されている。中大兄が秘かに、新羅に豊璋の救出保護を要請していたに違いない。


 豊璋(中臣鎌足)が新羅から、いつ帰国を果たしたかは定かでないが、天智称制七年(668年)九月に、新羅が金東厳(こんとうげん)を大和に派遣している。このときに中臣鎌足は、新羅の干庚信(金庾信)に船一艘と、新羅王(文武王)に調物を運ぶ別の船一艘・絹五十匹・綿五百斤・なめし皮百枚を贈り、金東厳らに託した。これは、豊璋(中臣鎌足)の救出保護の返礼品である。


 この年(668年)の十月に、唐と新羅の攻撃によって高句麗が滅びるが、百済・高句麗と倭国は同盟して、唐・新羅軍と戦っていたのであり、この時期に新羅の使いを大和で饗応するのは、中大兄に新羅との内通があったと考えるのが普通であろう。


 中臣(藤原)鎌足は、この翌年に死ぬが、病気見舞いに訪れた天智天皇(中大兄皇子)に、「生きて軍国の務めを果たせず、死してまで迷惑を重ねられない」と白村江の敗戦の悔いを語っている。『日本書紀』に「中臣鎌足」の名は、孝徳天皇十年(654年)一月に紫冠を授かる記事以来の登場であって、中大兄が最も信頼したブレーンの中臣鎌足の名が、白村江の終戦までの十年以上も政治の表舞台から消えている。この間は「扶余豊璋」として百済復興に身を挺していたのである。


天智天皇の即位


 「白村江の戦い」から二年後(665年)、高句麗はまだ持ちこたえて、唐・新羅軍と戦っていたが、その年の九月、唐は倭国に、劉徳高(りゅうとくこう)と郭務悰(かくむそう)ら総勢二百五十四人を、再び派遣している。こんどは白村江の戦いの戦後処理のためで、このとき中大兄が直接に詰問を受けたかどうか、史料からは窺えない。


 十二月、劉徳高らは帰途につくが、これに守君大岩(もりきみのおおいわ)と坂合部石積(さかいべのいわつみ)らを送使させて、唐に送り弁明させている。


 天智称制六年(667年)三月、中大兄は唐軍の侵攻に備えて都を近江に遷すと、八月に倭京(筑紫太宰府)に現れた。唐の百済鎮将劉仁願(りゅうじんがん)が、太宰府に司馬法聡(しばほうそう)を遣わして、坂合部石積(さかいべのいわつみ)らを送るとの情報が入った。


近江神社 近江神宮

 白村江の敗戦の4年後(667年)三月、中大兄皇子は、唐軍の侵攻を警戒して、都を近江に遷した。

 近江神宮は大津宮の地に昭和十五年の御鎮座である。
 滋賀県大津市神宮町
 


 司馬法聡は、十一月九日に太宰府に着いて、十三日に帰途についている。まさにとんぼ返りであるが、これに伊吉博徳(いきのはかとこ)・笠諸石(かさのもろいわ)を再び送使させている。戦後交渉がはかばかしくない状況で、事態は急を要していたのである。


 翌年(668年)の一月二十三日に伊吉博徳らは帰朝し、使命を果たしたことを報告した。この月の初めに、中大兄は「天智天皇」として即位している。伊吉博徳らの帰朝と天皇即位時期を『日本書紀』は意図的に微妙にずらして記しているようだが、いずれにしろ中大兄は、唐の弾劾を回避できたことを確認して「天智天皇」として即位した。


 このときの二度の使者の弁明が、『新唐書』咸亨(かんこう)元年(670年)の記事になっている。記事の原文と訓み下しは以下の通りである。


 咸亨元年、遣使して高麗(こうらい)平ぐるを賀す。後に稍(ようや)く夏(か)音を習い、倭名を惡(にく)み、更(あらた)めて日本と號(ごう)す。使者、自(みずから)言う、國、日の出ずる所に近く、以って名を爲す。或いは云う日本は乃(すなわ)ち小國にして、倭の并(あわ)す所と爲す。故に其の號を冒(おか)す。使者、情を以って不ず、故に焉(これ)を疑う。又、妄(みだ)りに誇り、其の國都は方數千里、南・西は海に盡(つ)き、東・北は大山に限られ、其の外は即(すなわ)ち毛人と云う。


 咸亨元年、遣使賀平高麗。後稍習夏音、惡倭名、更號日本。使者自言、國近日所出、以為名。或云日本乃小國、為倭所并。故冒其號。使者不以情、故疑焉。又妄夸其國都方數千里、南・西盡海、東・北限大山、其外即毛人云。(『新唐書』日本) 


 まず、高句麗平定の祝言を宣べて、日本(大和)は、倭国(筑紫)に併合された。国号の「日本」は、倭国が使っていた国号であると云い、つまり、百済に出兵して唐軍に敵対したのは倭国であって、大和(ヤマト)のあずかり知らないことだと弁明している。唐の劉仁願(りゅうじんがん)は、これを疑ってはいたが、おそらく新羅の口添えもあって取り敢えず矛を収めた。


薩夜麻の帰国


 668年10月、唐軍と新羅軍は高句麗の王都平壌に攻め入り、遂に高句麗も滅ぼすと、唐は、高句麗の地に「安東都護府」を置き、旧領百済の地に「熊津都督府」を、新羅に「鶏林州都督府」を設置して、朝鮮半島全域に羈縻(きび)政策を敷いた。


 そして日本も羈縻(きび)統御するために、郭務悰(かくむそう)ら総勢二千人を筑紫に派遣し、倭国王(筑紫君)薩夜麻(さちやま)を送還した。『日本書紀』は、このことを天智天皇八年(669年)と十年(671年)に、意図的に重複記載して事実の混乱隠ぺいを図っているようだが、朝鮮半島情勢からしても前者とみるべきだろう。


 ところが、中国側史料に、この時に薩夜麻(さちやま)を都督や刺史などに任命し、都督府を設置したという記録はない。「筑紫都督府」は、478年頃に「倭の武王」が、自ら開府して設置したことが『宋書』倭国伝で読める。


 羈縻(きび)政策は、唐の周辺異民族国に対する統御政策で、唐に友好的な国王を、都督・刺史・県令などに任じて、その国を統治させ、親唐政策を行わせるものである。


 第二次世界大戦(1935年~1945年)後にGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)は、日本政府を存続させて間接統治とする占領政策を行い、親米政策を日本に敷いたが、これと似た構図である。


 いっぽう、長い戦渦を勝ち抜いて、ようやく朝鮮半島の覇者となった新羅に対しても唐は、文武王を「鶏林州都督」に任じて、百済・高句麗と同様の措置をした。


 これに反発した新羅の文武王は、百済旧領の熊津都督府に駐留する唐兵の大半が筑紫に移動したのを見計らって、高句麗遺民の高句麗復興運動を支援して唐軍を攻撃(670年3月)し、「羅唐戦争」を始めた。


 筑紫に進駐した唐の二千の駐留軍は、朝鮮半島と日本列島情勢の両すくみにあって、動きが取れなくなった。新羅を牽制するためにも、親唐政策を行う薩夜麻(大海人)政権を一刻も早く樹立(羈縻(きび)統御)する必要に迫られた。


 薩夜麻(大海人)は、六年余りの長安での抑留生活で懐柔され、これまでの反唐政策の危うさを痛感した。唐の政治機構や律令制度を見聞して、これからの日本の統治体系のありように心を巡らせ、新たな日本再興を抱いての帰国であった。


 『日本書紀』は、「筑紫君薩夜麻」としての、帰国のその後は記していないが、白村江の戦いで薩夜麻とともに捕虜になり、薩夜麻らの帰国費用を捻出するために、我が身を奴隷に売り、三十年後にようやく帰国を果たした筑紫国上陽咩(かみつやめ)郡の軍丁大伴部博麻(おおともべはかま)に、持統天皇は、「務大肆」という官位に任じ、絹を五匹、綿を十屯、布を三十端、稲を千束、水田を四町与えて曽孫まで引継ぎ、課役は三代まで免じて、「朕嘉厥尊朝愛国売己顕忠」の勅語を宣べた。(『日本書紀』持統天皇四年)この勅語は、天皇が一般個人に向けた唯一の勅語で、「愛国」の語源になったとも言われている。


大伴部博麻碑 大伴部博麻の碑

『日本書紀』持統天皇四年
 朕、嘉厥尊朝愛國・賣己顯忠。「朕(われ)、その朝(みかど)を尊び国を愛(おも)いて、己(おのがみ)を売りて忠(まめなるこころ)を顕(あらわ)すことを喜ぶ。」天皇から一般個人に向けられた最初で最後の勅語。
 福岡県八女市上陽町北川内


 大伴部博麻の帰国は、持統天皇の夫である天武天皇(大海人)崩御の四年後である。天武天皇と「筑紫君薩夜麻」が同一人でなければ、特に大伴部博麻に対して、持統天皇がこれほどの厚遇を処すことはない。


虎に翼をつける


 筑紫に進駐した唐の二千の駐留軍は、新羅と通じた天智天皇の近江政権をこのままにして、百済に戻ることはできない。しかも新羅が筑紫に侵攻する恐れも出てきたために、しばらくは筑紫太宰府を唐兵が警護する嵌めになった。薩夜麻は長子の高市(たけち)を連れて、中大兄(天智天皇)と豊璋(中臣鎌足)のいる近江をめざして瀬戸内海を東進した。


 薩夜麻には、白村江へ出兵のとき、筑紫に八人の后妃とその子らがいたが、戻ってみると、「宗像徳善の娘」の尼子郎女(あまこのいらつめ)と子の高市(皇子)だけが筑紫に残り、他は天智天皇が近江に連れ戻していた。鸕野皇女(うののみこ)・新田部皇女(にいたべのみこ)と大江皇女(おおえのみこ)の三人の我娘(大田皇女(おおたのみこ)はすでに早世)と、豊璋(中臣鎌足)の二人の娘らと、額田姫王(ぬかたのおおきみ)とその娘の十市皇女(とおちのみこ)である。


 十市皇女は、薩夜麻(大海人)の最初の子で、額田姫王との間にできた子だが、すでに大友皇子(後の弘文天皇)の室となっていた。「壬申の乱」は大友皇子と大海人の皇位継承をめぐる戦いのように言われるが、この娘婿の皇位簒奪が目的で大海人は近江をめざしたわけではない。


 近江政権内の新羅派勢力を一掃して、親唐政策を行う薩夜麻(大海人)政権の樹立が唐軍の大義であり、大海人は百済復興の戦いでの中大兄と豊璋の裏切り行為が許せない。その真意を糾す必要があった。


 大海人と高市が近江京に入ると宮廷は騒然となったであろうことは想像にたやすい。天智天皇は、大海人を慰撫して、鎌足(豊璋)や娘たちも引き連れ、蒲生野(がもうの)や山科野(やましなの)などで薬狩り等を挙行したと『日本書紀』は書くが、『籐氏家伝』では、大海人が怒り、長槍で敷板を刺し貫くことがあったと記している。


 藤原鎌足(豊璋)は天智天皇八年(669年)に病死、天智天皇も十年(671年)に病没したと『日本書紀』は書いている。


 唐が郭務悰(かくむそう)ら総勢二千人を筑紫に派遣し、筑紫君薩夜麻を送還したとする記事は、藤原鎌足が死んだ年と天智天皇が死んだ年に、それぞれ記載があって、おそらく書記編者は意図的に重複記載した。二人の死因に薩夜麻の帰還が関係したのを暗示している。


 大海人は、鎌足と天智の暗殺を決意したに違いない。それを配下に命じて、いったん近江京を離れて吉野を目指した。吉野には役小角(えんのおづの)や山伏集団が大海人を迎える。付き添ったのは鸕野皇女(後の持統天皇)であった。


吉野山 吉野山

 天智天皇十年(671年)に、役行者(えんのぎょうじゃ)が吉野の金峯山(金の御岳(かねのみたけ)とも言う)で金剛蔵王大権現を感得し金峯山寺を開いたと伝わる。同年に大海人皇子(天武天皇)も吉野に入っている。
 奈良県吉野郡吉野町吉野山


 近江朝の左大臣蘇我赤兄(そがのあかえ)・右大臣中臣金(なかとみのかね)と大納言蘇我果安(そがのはたやす)らは、宇治まで見送って「虎に翼をつけて野に放つようなものだ」と大海人と鸕野皇女のことを言っている。


 「壬申の乱」後に鸕野皇女は、わが子草壁皇子(くさかべのみこ)への皇位継承を執拗に拘っている。「壬申の乱」に皇位簒奪の様相が見えるとすれば、それは鸕野皇女と大友皇子の姉弟の確執である。


 天武天皇元年(672年)春三月十八日、筑紫に駐留する唐軍の郭務悰らに、天智天皇崩御の知らせが届いた。「郭務悰らは、喪服を着て三度挙哀(こあい、死者を弔うために泣き声をあげる礼)し、東に向って拝んだ」と『日本書紀』は書くが、これは書記編者の潤色甚だしい。


 五月三十日、郭務悰ら唐軍は、この後に起こる「壬申の乱」の結末を見ることなく、筑紫を離れることになった。唐が旧領百済の地に設けた熊津都督府を新羅が攻撃し羅唐戦争を始めた。


赤の軍団


 倭国王薩夜麻(大海人)の直属軍の筑紫兵は、白村江の戦いで壊滅状態になり、壬申の乱ではほとんど使えなかった。だが、倭国筑紫王朝は、もともと日本列島各地に派生した王国の宗主国であり、この時期でも筑紫王に追随する各地の豪族は多くいた。また代々の筑紫王には、古代から続く隠し兵ともいえるような山伏集団もいた。


 『魏志』倭人伝に「女王国より以北には、特に一大率(いちだいそつ)を置き、諸国を検察せしむ。諸国之を畏憚(いたん)す。常に伊都国に治(ち)す。国中に於(お)いて刺史(しし)の如き有り」とあって、邪馬台国の時代の「一大率」は女王の警護も担っていたが、時を経て、日本列島の山々に展開する山伏集団となっていた。


 この山伏集団は、古代からの山の民で、天狗とも鬼とも、あるいは「土蜘蛛」とも言われ、狩猟と採掘を生業(なりわい)とし、弥生時代以降にあっても平地にでて稲づくりをすることはなく、そのために在地の豪族支配に組み込まれず、各地の山にアジールを形成した。吉野もそのひとつであった。


 これらの山で採掘される鉱物(金・銀・銅・鉄そして朱砂など)は、大陸との主要な交易品であり、この運送を担っていたのが宗像海人族である。


 天武天皇の長子の高市(たけち)皇子は、この海人族の長(おさ)宗像徳善(むなかたとくぜん)の孫であって、瀬戸内海・紀伊水道・熊野灘の海域沿岸の豪族とも通じていた。


織幡神社 織幡神社

 『万葉集』に、「ちはやぶる金の岬を過ぎぬとも我は忘れじ志賀の皇神」と詠まれた岬の佐屋形山に建つ織幡神社は、武内宿祢が神功(じんぐう)皇后の三韓出兵のおり、赤白二流の軍旗を織ったと伝わる。
 福岡県宗像市鐘崎


 『日本書紀』天武天皇元年七月に「恐其衆與近江師難別、以赤色着衣上」、近江の兵と識別がむつかしいのを恐れて、赤色の着衣をさせた。また『古事記』序には「絳旗耀兵、凶徒瓦解」、赤い旗のもとに兵が輝き、凶徒は瓦解したとあり、高市皇子が集め率いた兵は、赤ぞろえで戦った。


この赤色は、山の民が掘り出す朱砂(硫化水銀)あるいはベンガラ(酸化鉄)で 染めたもので、このころ大量の染色を可能にするには、この赤色が最も手っ取り早かったからである。


 漢の高祖劉邦(りゅうほう)が赤色を尊び、赤色の幟(のぼり)を用いたのにならい、大海人(天武天皇)が自らを漢の高祖に見たてて壬申の乱を戦ったと言われることもある。


 壬申の乱は、高市皇子の奔走と吉野の山伏集団の暗躍、そして鸕野皇女の執念によって、大海人(薩夜麻)が勝利した。倭国筑紫宗家の復権であるが、大海人は筑紫に戻ることなく、飛鳥(あすか)を王都とし「天武天皇」として即位した。飛鳥は、鸕野皇女(持統天皇)の生誕地であり、皇祖母(斉明天皇)の宮であった。


 倭国筑紫王朝は、中国隋朝の冊封を離脱し、唐朝が成立しても朝貢を拒否し続けていたが、白村江の敗戦と壬申の乱を経て再び中国王朝への朝貢を「日本国」として再開した。それから約二百二十年ほど、菅原道真が遣唐使を廃止するまで、中国王朝への朝貢は続いた。


威徳天満宮 威徳天満宮(金峯山寺)

 菅原道真を祭神とし天徳三年(959年)に鎮座。

 日蔵上人(如意輪寺の開祖)が、菅原道真を九州の太宰府へ流した醍醐天皇の苦しみを救うため、吉野山に威徳天満宮として祀ったとつたわる。