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筑紫倭国伝

肥の国日本



 『魏志』倭人伝によると、邪馬台国の奴国(筑後平野)の南に狗奴国(菊池平野)があり、邪馬台国とは交戦状態(245年頃)にあったが、邪馬台国の女王「卑弥呼」が死ぬと、新たに男王が立ち、の塞曹掾史(国境守備の属官)張政の介入もあって、奴国と狗奴国は和睦した。


 この事態を巡って、邪馬台国の国々は、卑弥呼の後継の男王に服せず内戦状態になったが、卑弥呼の宗女で十三歳の「壱与(いよ)」を新たな女王に立てて、ようやく内戦は治まったと『魏志』倭人伝は記す。ここに「筑紫・豊・肥」の三国を主軸にした倭国の原形ができ、倭国筑紫王朝が成立する。


江田船山古墳 江田船山古墳

 5世紀末頃に築造されたと推測されている。豊富な副葬品(銀象嵌銘大刀など)、が出土し、国宝に指定されている。古墳の周りには、短甲を着けた武人の石人が配置されていて、岩戸山古墳と同様である。
 熊本県玉名郡和水町


 以後、肥(日)国は筑紫王朝の外戚として、倭国の発展の一翼を担ってきた。『筑後国風土記』逸文でも、筑紫王家と肥国王家が早くから姻戚関係にあったことがわかる。


昔この堺の上に麁猛神(あらぶるかみ)が居て、(略)この神は「人の命尽くしの神」と呼ばれた。その時、筑紫君と肥君らは占って、筑紫君らの祖である甕依姫(みかよりひめ)に祝い祭らせた。(『釈日本紀』五)


 そして、527年(継体二十一年)倭国筑紫王朝に王位継承争いが起こった。肥国王は自分の孫で、磐井の庶子である「葛子」を擁立して乱を起こし、これに豊(とよ)国の物部麁鹿火(もののべのあらかひ)が呼応して共に磐井を攻めた。


 これを『日本書紀』は、磐井の大和(ヤマト)政権への叛逆の戦いだと、仕立て上げて書いている訳だが、もしそうなら、肥国王も磐井といっしょに戦うはずであり、共に敗者である。するとその後の肥国の発展はあり得ない。しかし、八世紀に作られた戸籍や他の文献を見ると、肥国は広く各所に侵出している。肥国は敗者ではありえない。


しかも、継体天皇陵(今城塚古墳)から馬門石(阿蘇ピンク石)の石棺破片が出土した。これは「磐井の乱」以降、肥(日)国が大和にも侵出したことの傍証である。


 馬門(まかど)石の石棺は、吉備王朝の王の墓だと推定される造山古墳(全国第4位の規模)や推古天皇陵(植山古墳)からも出土している。肥(日)国王の海運力の強大さには刮目すべきであろう。


 『日本書紀』は、『三国史記』百済本紀の「日本の天皇及び太子・皇子、供に崩薨」の記事から、継体天皇崩御年を継体二十五年(531年)にしたと記載しているが、「継体天皇と供に太子・皇子の死亡」記事は『日本書紀』にはない。他の史料からもそうした形跡は見受けられない。これは「磐井の乱」で滅んだ筑紫本宗家一族のことをいっている。


「磐井の乱」の後、倭国筑紫王朝は「葛子」が王となって、肥(日)国王の傀儡政権が樹立した。「日本」という国号と「天皇」という呼称も、この頃から使われ始めたと想起できる。


 「日本」の国号の語源は、「肥の国」が「日のもとの国」、そして「日本」となった。「倭国自らその名の雅ならざるを悪(にく)み」ということもあるが、倭国の実権は、「日の国王」が掌握していることを内外に知らしめるために国号を改めたものである。


鞠智城 鞠智城

 『続日本紀』698年に大野城・基肄城・鞠智城を太宰府に命じて修理させたという記載のあることから「白村江の戦い」の後に大和政権によって築かれたと推測されているが、鞠智城は肥国王によって建造されたものである。
 熊本県山鹿市菊鹿町米原


 中国史書として初めて「日本国」の名が登場するのが『旧唐書』であり、945年に完成した。『旧唐書』日本国条は、「日本国は倭国の別種なり。その国日辺にあるを以て、故に日本を以て名とす。あるいはいう、倭国自らその名の雅ならざるを悪(にく)み、改めて日本となすと。あるいはいう、日本は旧(もと)小国、倭国の地を併せたりと」と記している。


 『新唐書』(1060年に成立)では、「倭国条」はなくなり「日本国条」だけになって、「日本は小国、倭に併合された故に、その号を冒すともいう」と、670年の遣使の弁として記述しているが、これによれば、そもそもは倭国(筑紫王朝)が号を「日本」としていて、大和(ヤマト)王朝が併合されたから、そのまま「日本」を号としたということになる。


不動岩 不動岩

 古生代の「変はんれい岩」が崩れて海に流され、小石や砂(さざれ石)になり、海底に積み重なって強い圧力を受け岩盤となり、その周囲が削り取られて、国歌「君が代」の歌詞にある「さざれ石の岩盤(いわお)」となったものが不動岩である。
 熊本県山鹿市菊鹿町蒲生


 「肥の国王」の本拠地は鞠智城である。その地「米原」には、米原長者伝説というのがあるが、「肥の国王」の後裔の伝説ではないかと考える。