更新 

筑紫倭国伝

白村江の戦い


古代東アジアの国際体系


 古代の東アジアの国際体系は、中国の冊封体制で成り立っていた。中国王朝は、朝貢をしてきた周辺諸国の君主に官号や爵位などを与えて君臣関係を結び、彼らにその統治を認める一方、宗主国対藩属国という従属的関係においた。


 倭国は、後漢の光武帝から「漢委奴国王」の金印を授かった時(57年)から冊封体制に組み込まれ、邪馬台国の時代には「魏王朝」から軍事支援も受け、「倭の五王」の時代には、倭国はその冊封体制の中で朝鮮半島の権益を求めてきた。


 527年の「磐井の乱」以降、倭国筑紫王朝の朝鮮半島への影響力が減退すると、朝鮮半島南部の加羅諸国は次々に新羅に併合され、弱小国であった新羅は強大化していく。それまで百済と新羅は、羅済同盟(らさいどうめい)を結んで高句麗の南下進出に抵抗していたのだが、加羅諸国の領有争いで、この同盟は553年に破たんする。それ以後、百済と新羅は敵対関係が続くようになる。


 中国では、三百年ほど続いた南北朝分裂状態を589年に「隋」が統一すると、百済は即座に対応し、高句麗は翌年の590年に、新羅は594年に朝貢する。


 筑紫倭国王「阿毎(あめ)多利思比孤(たりしひこ)」は600年になって遣使して、政権を「日(大和)王に禅譲(ぜんじょう)する」旨を通告した。


「倭王は天をもって兄となし、日をもって弟となす。天いまだ明けざる時、出でて政を聴き跏趺(かふ)して坐し、日出ずればすなわち理務を停め、我が弟に委ねんと云う」


「俀王以天爲兄 以日爲弟 天未明時 出聽政跏趺坐 日出便停理務 云委我弟」(『隋書』倭国伝)


 607年に再び、倭王「阿毎(あめ)多利思比孤(たりしひこ)」は、日(大和)王の遣使(小野妹子)を送り、あの有名な国書「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す、恙なきや、云々」を献じた。


 これに隋の煬帝は「無礼だ」と怒り、裴世清(はいせいせい)を日本(大和)に派遣して「皇帝の徳」を教え諭した。それ以後、倭国からの遣使は絶えたと『隋書』は記している。この時から倭国は、中国王朝の冊封を離脱した。


 高句麗は、590年に隋王朝に朝貢し、形ばかりの恭順を示して、周辺国へ侵略を繰り返していた。これに業を煮やした文帝は、598年、遂に高句麗征討軍を派遣し、高句麗王の官爵を剥奪した。隋王朝は高句麗を、その冊封体制から放逐した。


 文帝の後を継いだ煬帝は612年・613年・614年と続けざまに遠征を行ったが、その都度、退却を繰り返して、高句麗を降すことはできなかった。結局は、高句麗王が朝貢するという条件で和議となった。


 隋は相次ぐ高句麗遠征が祟って、国内各地で内乱が発生し、618年に煬帝は近衛軍によって殺害され、唐が代わって成立した。


 618年に「唐」が成立すると、高句麗はその翌年すぐに遣使し、その二年後には、百済・新羅と揃って朝貢したが、筑紫倭国王は、唐に遣使しようとはしなかった。


 ところが、630年になって大和(ヤマト)王朝が、犬上三田耜(いぬがみのみたすき)と薬師恵日(くすしえにち)を唐に遣使させた。


 翌々年、唐は高表仁(こうひょうじん)を遣わして、犬上三田耜(いぬがみのみたすき)を送らせた。このとき高表仁は三月半ほど滞在し、大和と筑紫の両方を訪れた。


 大和では、難波津に船三十二隻を揃え、鼓をうち、笛を吹き、旗を飾って出迎えたと『日本書紀』と記すが、『旧唐書』は、大和での歓待の様子などには触れずに、高表仁は「王子(『新唐書』では、王)と礼を争い朝命を宣べずして還る」とある。つまり唐の朝貢要請に、筑紫倭王は応じなかった。


 大和(ヤマト)王朝は、筑紫王朝に代わって中国(唐)王朝の臣下に入り、列島の覇者として、唐王朝に認知させようとしていたが、『旧唐書』日本国条に「其の人、朝に入る者、多くは自ら大を矜(ほこ)り、実を以って対(こた)えず、故に中国は焉(これ)を疑う」とあり、唐王朝は大和(ヤマト)王朝を、筑紫王朝に代わる朝貢国(臣下)として認めていない。


東アジア各国の内乱


 641年、百済に義慈王(ぎじおう)が即位して専制的な体制の構築を進め、独裁の強化と反対派の粛清を行った。そして翌年、義慈王(ぎじおう)は自ら兵を率いて新羅に侵攻し、四十余りの城を陥落させて、加羅(任那)諸国の奪還に成功した。だがこれが東アジアの国際体系を一変させ、百済滅亡の引き金になった。


 642年、高句麗の淵蓋蘇文(えんがいそぶん)は、国家体制の再編を目論んでクーデターを起こし、栄留王(えいりゅうおう)と180人余りの臣下を宮中において殺害し、王弟の子である宝蔵王(ほうぞうおう)を王座に就けて、実権を握った。


 殺された栄留王(えいりゅうおう)は、唐の冊封を受けて高句麗王となっており、これを殺害するという行為が、唐の太宗(たいそう)に高句麗侵攻の口実を与えることになった。高句麗の淵蓋蘇文は、百済の義慈王(ぎじおう)と同盟を結び、新羅領内へ進攻を繰り返していた。唐は新羅からの救援要請を受けて、645年、太宗は10万余の軍勢を率いて高句麗への侵攻を開始した。


 645年は大和(ヤマト)王朝内においてもクーデターが起きている。女帝の皇極(こうぎょく)天皇を抱き込んで政権を我が物とし専横を極めた蘇我入鹿(そがのいるか)が宮中において斬殺された。翌日、入鹿(いるか)の父の蝦夷(えみし)も自死して、蘇我本宗家が滅びた。乙巳の変(いっしのへん)である。


 蘇我氏の祖先は、百済系の渡来人であったが、早くから新羅と通じて交易を行い、それが蘇我氏の財政基盤となり蘇我権勢を支えていた。これに業を煮やした百済の義慈王は、王子の扶余豊璋(ふよほうしょう)を大和に送り、蘇我氏を討たせた。


 クーデターの首謀者は、中臣鎌子(扶余豊璋)で、中大江皇子(後の天智天皇)と計り、蘇我倉山田麻呂(そがのくらのやまだのまろ)、佐伯子麻呂(さえきのこまろ)、葛城稚犬養網田(かつらぎのわかいぬかいのあみた)らを引き入れて、宮中大極殿で起こしたクーデターである。


 このころ新羅は、高句麗と百済(麗済同盟)の侵攻に晒され、唐に救援を求めたが、援軍の条件として善徳女王を廃し、唐の王室から新王を立てることを唐が求めたために、親唐派と反唐派が対立した。


 647年、親唐派の毗曇(ひどん)は、女王を廃すべく反乱(毗曇の乱)を起こした。 この反乱は金庾信(きんゆしん)金春秋(きんしゅんじゅう)らによって鎮圧されるが、善徳女王は陣中に没した。


 女王を廃そうとする親唐派を倒して、再び女王(真徳女王)が擁立された。これは唐の太宗の意に添わぬことであったが、金春秋(後の武烈王)は唐に出向き、太宗を説得した。金春秋の外交交渉の巧さがあった。唐は善徳女王に対する追贈と、真徳女王の王位を認めて冊封を行なった。新羅の王統を守りつつ、唐の軍事支援も取り付けて「羅唐同盟」が成立した。


新羅の牽制


 親唐派の反乱を鎮圧し「真徳女王」を即位させた金春秋は、すぐに日本に向かった。大和(ヤマト)王朝の親新羅派の蘇我本宗家が倒されていたので、その対策が急務であった。


 『日本書紀』は、金春秋を「仍りて春秋を以て質とす。春秋は姿顏美くして善みて談笑す」と記しているが、金春秋はこのあとすぐに唐に入朝しているのだから「人質」のはずはない。


金春秋が、この時に大和(ヤマト)王朝の誰と「談笑」したのかは分からないが、乙巳の変(いっしのへん)のあと、孝徳朝の左大臣は阿倍内麻呂(あべのうちまろ)、右大臣は蘇我倉山田麻呂(そがのくらのやまだのまろ)であり、これまでの蘇我氏の政権体制と変らないことを確認して、金春秋は帰国した。


 その約1年後、孝徳朝の左大臣であった阿倍内麻呂(あべのうちまろ)が薨去した。右大臣の蘇我倉山田麻呂(そがのくらのやまだのまろ)は、蘇我日向(そがのひむか)の讒言(ざんげん)によって自殺に追いやられる。中大兄皇子は、蘇我日向を筑紫宰(つくしのかみ)に命じて配流にした。


 乙巳の変(いっしのへん)で中大兄皇子は、蘇我倉山田麻呂を味方に取り込んで蘇我本宗家を倒している。そのため孝徳朝の政権体制は、旧蘇我勢力のままで継続され、新羅派の政治介入を許していた。


 蘇我倉山田麻呂の冤罪事件のあと、「新羅王は、沙飡金多遂(こんたすい)を遣わして人質とした。その従者は三七人であった」と『日本書紀』は記しているが、これは人質ではない。金春秋が派遣した、大和(ヤマト)政権の監視が目的の駐在員である。


 この翌年(650年)に、新羅は百済を攻めて百済の軍を撃ち破った。朝鮮半島の争乱は、いよいよ山場を迎えて、百済と高句麗はたびたび日本に支援を求めて来たが、663年の「白村江の戦い」まで朝鮮半島に派兵した形跡がない。大和(ヤマト)王朝は、新羅からの牽制を受けていた。


 大和の孝徳天皇は、都を難波長柄豊碕宮としていたが、中大江皇子(皇太子)は、新羅派(旧蘇我氏勢力)の政治介入を排除するために、百官など皆を率いて、飛鳥河辺行宮に遷った(653年)。一人残された孝徳天皇は翌年に崩御する。


百済の滅亡


 655年1月、中大江皇子の母親である皇極上皇(皇祖母尊)が、飛鳥板蓋宮(あすかのいたふきのみや)で、斉明天皇(天豊財重日足姫天皇(あめとよたからいかしひたらしひめのすめらみこと))として重祚(ちょうそ)した。


 飛鳥に都を戻して、中大江皇子は、ようやく派兵準備を始めた。都の防衛工事を行うとともに、阿倍比羅夫(あべのひらふ)を東北から北海道まで遠征させて、蝦夷(えみし)を兵員にするために徴集した。


 この年、「百済・高句麗と靺鞨(まつかつ)は協力して新羅の三十城を攻めて奪った。新羅の武烈王(金春秋)は、唐に使者を送り救援を求めたので、高宗(こうそう)は蘇定方(そていほう)に命じて、これを討たせた。」(『新唐書』新羅伝)


 中大江皇子は、中臣鎌子(扶余豊璋)の願いもあって、百済支援軍を派兵するつもりだった筈であるが、唐と新羅を敵にして戦うことに迷いがあったことも否めない。中大江皇子は、新羅と唐に探りを入れたりもしている。


 斉明三年(657年)に、大和(ヤマト)王朝は新羅に遣使して、「沙門智達(ちだち)らを新羅の国の使いにつけて大唐に送りたい」と申し入れ、新羅からいったんは拒否されたが、翌年には新羅の船で唐に行っている。またその翌年(659年)には、伊吉博徳(いきのはかとこ)を遣唐使として派遣したことも『日本書紀』にみえる。


 伊吉博徳は、大和(ヤマト)王朝の遣使であるが、唐の東都洛陽(らくよう)で筑紫王朝の使人「韓智興(かんちこう)」と鉢合わせして何やら揉めている。筑紫王も独自に使人を送って、唐の動向を探っていたのであろう。


このあと高宗(こうそう)の勅旨があって「国家、来らむ年に、必ず海東の政有らむ。汝等倭の客、東に帰ること得ざれ」(『日本書紀』伊吉博徳書)と、百済に攻め入ることを聞かされ、西都長安(ちょうあん)で幽閉されて帰国できなくなった。


 斉明六年(660年)3月、蘇定方(そていほう)率いる唐軍は山東半島の城山から黄海を渡って白江(錦江)河口から上陸し、百済侵攻を開始した。新羅の武烈王は兵馬を率いて陸路から進撃し、戦うこと三日、百済の王都泗沘(しひ)は陥落(660年7月)した。義慈王や王子の隆らは捕えられ、長安に送られた。


斉明天皇の筑紫行幸


 百済の王都泗沘(しひ)陥落の報がもたらされたのは、660年9月で、10月には百済の佐平鬼室福信(きしつふくしん)が使いを送り、援軍要請と「王子糺解(くげ、豊璋)を百済国王として迎えたい」と言ってきた。


 豊璋(中臣鎌足)は、渡海して百済王として迎えられ、その年(660年)の内に、百済城(泗沘城)にいた唐の郎将劉仁願(りゅうじんがん)を包囲したと『新唐書』が記している。


 『日本書紀』は、翌年(661年)の一月に斉明天皇が、鬼室福信の援軍要請の願いに応じて将軍を送ろうと思われ、筑紫に行幸したと記している。


 筑紫行幸の船は一月に出航して、大伯(おおく)の海に至ると、大田姫皇女(中大兄皇子の娘)が大伯皇女(大海人皇子の子)を産み、伊予の熟田津(にぎたつ)に泊った。三月に娜大津(なのおおつ)に着いて、五月、斉明天皇は「朝倉橘広庭宮」に移ったが、七月に崩御している。


 九月、中大江皇子は長津宮(筑紫大津)で豊璋に織冠を授けて、軍兵五千余で護り送らせたとあるが、その翌年の五月にも軍船百七十艘を率いて豊璋を送ったと記している。


 このころの『日本書紀』の記事は混乱していて、重複や暗示めいた記載が多く、編者自ら「いま書き記しておくので、それを決めよ」と、放り出したような書き振りもあって、記事の信憑性が疑われる。


 『日本書紀』は、中大江皇子も斉明天皇の筑紫行幸に同行したように匂わせているが、中大江皇子は大和を出立していない。大和朝を留守にできる状況ではなかった筈だ。


 斉明天皇(天豊財重日足姫天皇(あめとよたからいかしひたらしひめのすめらみこと))は、舒明天皇の皇后になる前は、筑紫王であった「高向王」に嫁いでいて「漢皇子(あやのみこ)」を生んでいる。この「漢皇子(あやのみこ)」が「大海人(おおあま)」で、のちの「天武天皇」となるが、このときはまだ筑紫王であった。中大江皇子とは父を異にする兄弟である。


 中大江皇子は、母の斉明天皇を筑紫の大海人(おおあま)のもとに人質として送り、百済王豊璋の支援軍派兵を要請した。


 斉明天皇の筑紫行幸以前に中大江皇子は、大田姫皇女(おおたひめのみこ)鸕野皇女(うののみこ)・新田部皇女(にいたべのみこ)と大江皇女(おおえのみこ)の四人の娘も人質として、筑紫の大海人のもとに送っている。中臣鎌足(豊璋)も二人の娘を大海人のもとに送って、妃にしている。


 ほどなく(661年7月)、斉明天皇は筑紫の朝倉宮で崩御した。このとき「朝倉山の上に鬼が現れ、大笠を着て喪の儀式を覗いていた」と『日本書紀』は記して、何やら不穏な動静を暗示している。


朝倉宮 朝倉橘廣庭宮

 天皇遷居于朝倉橘廣庭宮。是時、斮除朝倉社木而作此宮之故、神忿壤殿、亦見宮中鬼火。秋七月甲午朔丁巳、天皇崩于朝倉宮。皇太子奉徙天皇喪、還至磐瀬宮。是夕於朝倉山上有鬼、着大笠臨視喪儀、衆皆嗟怪。『日本書紀』
 福岡県朝倉市大字須川


百済の役


 百済の王都泗沘(しひ)が陥落して、義慈王や王子の隆らは捕えられ長安に送られた。百済の地には都督府を置いて、唐軍の主力は高句麗討伐に向かった。


 鬼室福信(きしつふくしん)らの百済復興運動は、豊璋を王に迎えて百済遺民の士気を上げたが、やがて新羅軍が主力となって百済残党の掃討を開始した。だが新羅軍は各地で苦戦を強いられ、新羅の武烈王(金春秋)も陣中に斃れた。


 唐は、義慈王と共に長安に送った百済王子の扶余隆を連れ戻し、将に任じて、百済遺民の懐柔を謀った。扶余隆と豊璋は共に義慈王の子であり、百済遺民には百済復興の戦闘意義を失う者が続出した。何より豊璋が、是が非でも百済復興を果たして、その王になろうとは考えていない。豊璋には「日本に百済国を創る」という夢があった。それが鬼室福信と豊璋の意識の齟齬で、二人の確執の原因となった。


 『新唐書』は、「福信は国を思いのままに支配するために、王の豊璋を殺そうとたくらんだが、豊璋が部下を率いて福信を斬殺した」と記している。


 新羅は、豊璋が鬼室福信を斬ったことを知ると、百済復興の活動拠点であった周留城の攻略を開始した。


 中大江皇子(なかのおおえのみこ)は豊璋の帰還を画策した。だが筑紫王「薩夜麻(大海人)」は、百済復興に失敗すれば、やがて唐は筑紫討伐に兵を向けるのは明らかであり、豊璋の帰還を断じて許すことはできなかった。


 豊璋は、周留城に籠城する諸将に「日本の兵士一万余の救援軍が来るので、自分は周留城を出て白村で迎える」と言い置いて姿を消した。有能な戦闘指揮官の鬼室福信を失い、豊璋もいなくなった周留城は、呆気なく陥落した。


 唐軍は、白江(錦江)河口を百七十余艘の兵船で封鎖して、日本の水軍を待ち受けた。周留城救援に白江を遡ろうとする日本水軍と交戦状態となり、「倭国水軍の船四百艘を焼き払い、煙は天を覆い、海水は真っ赤になった」と『旧唐書』は記している。(663年)


 百済復興の拠点であった周留城が落ちると、他の諸城もみな降伏した。「百済王豊璋は、数人と船に乗り高麗へ逃げた」と『日本書紀』は記すが、唐軍の主力部隊が移った高句麗に逃亡するとは思えない。『新唐書』は、「豊璋は逃げて行方が知れなくなった」と書いている。いっぽう筑紫王「薩夜麻(大海人)」は捕えられ、長安に送られた。


 百済復興は潰えた。唐・新羅連合軍は総力をあげて高句麗への攻撃を開始した。666年、高句麗の淵蓋蘇文(えんがいそぶん)が死ぬと、その息子たちで内紛が起こり、それを機に唐と新羅は平壌に攻め入り、高句麗も滅亡した。(668年)


百済王神社 百済王神社

 百済の義慈王の子、善光(禅広)は持統天皇7年に「百済王(くだらのこにきし)」の姓を賜り、その曾孫の百済王敬福が当地に建立した。現在の本殿は、春日大社の本殿を移築(春日移し)したものである。
 大阪府枚方市中宮西之町