更新 

筑紫倭国伝

磐井の乱



 日本古代史上最大の内乱といわれた「磐井の乱」(527年)は、筑紫を舞台に、一年半に及ぶ戦いが続いた。この事は『日本書紀』も詳しく書いているが、事実が忠実に記されているとはいえない。


 倭国筑紫王朝は「倭の武王」の頃に、その絶頂期を向かえている。その武王の子か孫が『日本書紀』にいう「筑紫国造磐井」である。


石人山古墳 石人山古墳

 耳納山地から西にのびる長さ10数Kmの丘陵を「八女丘陵」といい、約300基の古墳が点在する。その西端付近に位置し丘陵上の前方後円墳では最も古く、磐井の祖父の陵ではないかと云われる。被葬者を守るように武装石人が立っている。
福岡県八女郡広川町一條人形原


 倭王武は、478年に宋の順帝に送った上表文で、歴代の筑紫王の列島覇権と王城(太宰府)設置の次第を述べている。


 「封国は偏遠にして、藩を外に作(な)す。昔より祖禰(そでい)(みずか)ら甲冑を擐(つらぬ)き、山川を跋渉して、寧処に遑(いとま)あらず。東は毛人を征すること五十五国、西は衆夷を服すること六十六国、渡りて海北を平ぐること九十九国。王道融泰(ゆうたい)にして、土を廓(ひら)き畿を遐(はるか)にす。(後略)」(『宋書』倭国)


 この上表文の「東は毛人を征すること五十五国」の内に、大和(ヤマト)王朝が興ったのであり、『日本書紀』はこのことを「神武天皇の東征」として描いている。東征勢力の主体は、筑紫・豊(とよ)の物部(もののべ)集団である。


 九州北部の遠賀川流域が物部氏の本貫地「豊葦原中国(とよあしはらなかつくに)」である。物部集団は「邪馬台国」の終焉から、およそ250年を経て、関東地方付近までを制圧し入植していった。それに必要な武器や武具・農具類等の多くは、筑紫本宗家が朝鮮半島との交易などで入手し供給していた。


 物部集団の一派で、遠賀川上流の彦山川流域を本貫とした「大伴氏」は、天忍日命(あめのおしひのみこと)を祖先神として天孫瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)の降臨に随従したとされる豪族である。初期大和(ヤマト)王朝は、物部氏大伴政権で形成され存続してきた。


金村神社 金村神社

 天智天皇七年(668年)に中臣金連(なかとみのかねのむらじ)によって造営されたと伝わる。
 この地の地名の泌(たぎり)は『先代旧亊本紀』の「天物部等二十五部人」の田尻物部の地である。
 福岡県田川郡糸田町泌(たぎり)


 六世紀になると、大和に居た大伴金村(おおとものかなむら)は、越国(こしのくに)に入植し勢力旺盛であった男大迹(おおど)王(継体天皇)を大和国の王にした。


 『日本書紀』は、「磐井の乱」の原因を、新羅から賄賂を贈られた磐井が、大和軍(毛野臣が率いる6万の兵)の朝鮮半島への派兵を阻んだために起きた戦いだとしているが、賄賂の授受があったとするなら、おそらく事実は逆で、新羅から大和の男大迹(おおど)王に賄賂が贈られたはずである。


 近江毛野臣、衆六萬を率て、任那に往きて、新羅に破られし南加羅・喙己呑(とくことん)を爲復し興建てて任那に合せんとす。是に、筑紫國造磐井、陰に叛逆くことを謨りて、猶預(うらもひ)して年を經、事の成り難きことを恐れて、恆(つね)に間隙を伺う。新羅、是を知りて、密に貨賂を磐井が所に行りて、勸むらく、毛野臣の軍を防遏へよと。是に磐井、火・豐、二國に掩(おそ)ひ據(よ)りて、使修職(まつ)らず。(『日本書紀』巻第十七)


 倭国筑紫王朝の母体は、筑紫・豊・火(肥)である。「邪馬台国」の時代に遡るが、女王「卑弥呼」は、筑紫と豊(とよ)の王らによって共立され、卑弥呼が死ぬと、火(肥・狗奴国)が併合されて倭国筑紫王朝が形成された。


 肥国の王と筑紫王が古くから姻戚関係にあったことは、「筑紫」の名の起こりを記した『筑後国風土記』逸文にある。肥国王は筑紫王家の外戚として、長く倭国筑紫王朝の一翼を担っていた。


岩戸山古墳 岩戸山古墳

 八女古墳群を代表する岩戸山古墳は、九州最大級の前方後円墳で、『筑後国風土記』逸文に磐井が生前に築造した墓だといわれている。阿蘇凝灰岩で作られた石人石馬が、この古墳から100体以上も発見されている。
 福岡県八女市吉田


 ところが、527年に、筑紫本宗家に「筑紫王磐井」の後継争いが起きた。磐井には葛子(くすこ)とそれ以外にも数人の子がいたようであるが、葛子は)王を外祖父に持つ庶子であり、磐井の後継者ではなかった。


 肥国の王は、葛子(くすこ)を擁立して決起した。これに豊国王の物部麁鹿火(もののべのあらかひ)が同調して筑紫本宗家に抗ったのが、いわゆる「磐井の乱」の真相である。


 『日本書紀』欽明十七年(556年)に『百済本記』を引用して「筑紫火君(つくしのひのきみ)は筑紫君の子、火中君(ひのなかのきみ)の弟」という。この「筑紫火君」が、磐井の乱から30年後の「筑紫本宗家の王となった葛子」のことであろう。


 継体二十一年(527年)八月に、大伴金村とともに、大和(ヤマト)王朝の大連(おおむらじ)であったする物部麁鹿火を将軍として、磐井討伐軍を送ったと『日本書紀』は書いているが、


「今こそ使者たれ、昔は吾が伴として、肩摩り肘觸りつつ、共器にして同食ひき。安(いづくに)ぞ率爾(にわか)に使となりて、余をして俾(い)が前に自伏(したが)はしめむ」


「長門より東をば朕(われ)(かと)らむ、筑紫より西をば汝(いまし)制れ。專賞罰を行へ、頻(しきり)に奏すことに勿(な)(わづら)ひそ」

(『日本書紀』巻第十七)


こうした記述は、明らかに書紀編者の脚色であって、物部麁鹿火は男大迹(おおど)王(継体)の大連(おおむらじ)でも配下でもない。物部麁鹿火は豊国王として、自らの意思で、豊国の兵を率いて筑紫の御井郡に進軍した。


そうでなければ、九州島上陸戦をやった形跡もなく、兵糧の調達もできず、一年半に及んだこの戦いは続けられない。


 北から物部麁鹿火(あらかひ)率いる豊国軍、南から肥国軍に挟撃されることになった筑紫王磐井は、その本拠地である御井郡(福岡県久留米市)の決戦で敗れ、「独りで豊前国上膳県(かみみけのあがた)の南の山に逃げた」と『筑後国風土記』は記している。


磐井逃走経路 磐井の逃走経路

 北から豊国軍、南から肥国軍に挟撃された磐井は、その本拠地である御井郡(福岡県久留米市)の決戦で敗れ、「単身で豊前の国の上膳(かみみけ))の県(あがた)に逃げて、南の山のけわしい峰の間(くま)で生命を終わった」

(『筑後国風土記』逸文)


 「豊前国上膳県の南の山」とは、英彦山のことである。英彦山は、かつての邪馬台国の卑弥呼の在所「女王国」である。ここには卑弥呼の時代に、女王の警護と諸国の検察を行う「一大率」が常駐し、伊都国王によって統率されていた。


 磐井の時期、その機能はかなり変質していたであろうが、筑紫王朝の祭祀場として庇護され存続していた。磐井はここに逃げ込む以外に身の保全の場所はなかった。磐井は英彦山入山以後、かつて「一大率」といわれた「山武師(土蜘蛛)」を使って、抵抗を続けた。


英彦山坊跡 英彦山坊跡

 英彦山は豊前の南、豊後の北、筑前の東に位置し、日本三大修験道の一つとされる。
 英彦山の修験道における「山伏」のルーツは邪馬台国の女王「卑弥呼」の守護兵であり、伊都国王によって統率されていた「一大率」である。
 福岡県田川郡添田町英彦山


 『日本書紀』に、屯倉(みやけ)設置(535年)の記事がある。穂波(旧、穂波郡)・鎌(旧、嘉麻郡)・我鹿(田川郡赤村)・桑原(田川郡大任町)・肝等(京都郡苅田町)など英彦山周辺地が数多く記されている。これは英彦山包囲網である。


 筑紫君葛子は「父(磐井)の罪に連座して罰せられることを恐れ、糟屋(粕屋)の屯倉(みやけ)を献上して死罪を免れることを請うた」と『日本書紀』は記しているが、糟屋の地は、筑紫君葛子が物部麁鹿火に与えた「磐井の乱」の論功行賞である。


 この「糟屋」は宗像(むなかた)の西に隣接し、現在の福岡市東区箱崎付近までを含む領域であった。物部氏の勢力範囲は九州北部沿岸に沿って拡大した。大和の男大迹(おおど)王(継体)は「濡れ手で粟」で朝鮮半島との交易ルートの確保に成功した。蘇我氏とともに、ほくそ笑んだに違いない。


 そして肥(火)国の王も「磐井の乱」後、その勢力を大きく拡大している。肥の国(肥後)は有明海を挟んで、現在の長崎・佐賀県方面(肥前)に進出し、『魏志』倭人伝に記された「末蘆国・一支国・対馬国・狗邪韓国」へと向かう交易ルートを確保した。倭国の筑紫本宗家は「葛子」が王となって肥国王の傀儡政権となった。


 「磐井の乱」が終息すると男大迹(おおど)王(継体)は、新羅の任那進出を止めさせるためと毛野臣を朝鮮半島に派遣するが、毛野臣は百済と戦うなど、加羅をかき乱した(『日本書紀』)とある。大和と新羅の間に密約があったことは想像にたやすい。


 新羅は、それまで倭国筑紫王朝の勢力下にあった金官加羅を併合(532年)し、以後着々と加羅諸国(任那)を侵食し勢力を拡大している。「磐井の乱」は、新羅の外交戦略の勝利であった。


 『百済本紀』に、辛亥の歳(531年)に「日本の天皇及び太子・皇子、供に崩薨」の記事があって『日本書紀』は「継体天皇の崩御の年を、531年にしたが、ある本では甲寅の歳(534年)と書いてあって、よく判らない。後の世の人が明らかにするだろう」と記している。


 『日本書紀』の編者は、『百済本紀』の「日本の天皇」という文字に、天皇は大和にしかいないと考えたために混乱しているのである。しかし大和(ヤマト)王朝内に継体天皇と太子・皇子がともに死ぬような異変があった形跡はない。


 『百済本紀』の「日本の天皇及び太子・皇子、供に崩薨」の記事は、「磐井の乱」で滅んだ筑紫王家一族のことを言っている。


今城塚古墳 今城塚古墳

 全長約350m、二重の濠を持ち淀川北岸では最大級の古墳である。この古墳が延喜諸陵式にいう継体天皇三嶋藍野陵であるとしたのは、歴史学者の「天坊幸彦」であり、この説は考古学の古墳の年代観からも裏付けられているようである。
 大阪府高槻市郡家新町


 宮内庁の陵墓指定による継体天皇陵は、大阪府茨木市太田に所在する「太田茶臼山古墳」であるが、その東に約1.5Km程にある「今城塚古墳」が、真の継体天皇陵であることは多くの考古学研究者等の指摘するところである。宮内庁も陵墓指定の変更を一時検討したようであるが、変更されずにそのまま現在に至っている。


 したがって、唯一発掘可能な大王陵となって、高槻市教育委員会による発掘調査が進められ、国内最大級の家形埴輪(はにわ)が出土するなど、さすがに大王陵を彷彿させるが、特筆すべきは、出土した石棺破片が「阿蘇ピンク石」だったことである。


阿蘇ピンク石の石棺 阿蘇ピンク石の石棺

 阿蘇ピンク石(馬門(まかど)石)は、熊本県宇土市で産出する阿蘇溶結凝灰岩である。畿内と中国地方で十四古墳の石棺が阿蘇ピンク石製だと確認されている。重量約7tの石棺は筏に乗せられ有明海から九州北部沿岸を廻って瀬戸内海を渡った。


 この事実は、肥国王と大和(ヤマト)王朝の男大迹(おおど)王(継体)は戦っていないし、筑紫本宗家の外戚であった肥国の敗戦もない。そうでなければ、石棺の石材を切り出して加工し、有明海から九州北部沿岸を廻って瀬戸内海を通る石棺搬送(『大王のひつぎ海をゆく』読売新聞西部本社編)など出来るはずはない。