粟村政昭

粟村政昭氏はジャズ評論家です。
1950年代末から1981年まで、『スイングジャーナル』誌を中心に評論活動を続け、
『ジャズ・レコード・ブック』(東亜音楽社 1968/75/79年)と『モダン・ジャズの歴史』(スイングジャーナル社 1977年)という二冊の著書があります。
82年以降は、84年と91/2年の「奇跡のカムバック」を除くと、ほぼ引退状態です。
2013年末に訃報が届きました。

(2026年追記)
――正確にいうと、『スイングジャーナル』には、1958年11月の「読者論壇」に初の投稿が載ったのが始めで、
1959年10月号に「「リヴァイヴァル以後のディキシーランドジャズとその将来(上)」の記事が載り、(注1
その後、不定期に、サッチモ、グッドマン、エリントンといった比較的古いジャズを中心にした記事が載るようになり、
1965年2月から1967年末まで「ベスト・プレイヤーズ ベスト・レコーズ」の連載、
1973年1月から1977年末まで「モダン・ジャズの歴史」の連載、(注2)
1967年4月から1981年8月までディスクレヴューを担当、ということになります。(注3a/b)

『モダン・ジャズの歴史』の巻末には
「著者 粟村政昭(あわむら・まさあき)
医師、ジャズ評論家。1933年12月14日大阪に生まれる。
1957年京都大学薬学部卒。1962年同医学部卒。
著書に「ジャズ・レコード・ブック」がある。」
と記されています。

もともと私が自分のホームページを作ろうと考えた動機の一つに、粟村政昭氏の文章を集め、個人的に『粟村政昭全集』を作ろうと思ったことがあります。
70年以降の、雑誌に載った、氏の文章は、ほぼスクラップして持っています。雑誌といっても、大半は『スイング・ジャーナル』ですから、そう難しくはありません。それに、雑誌に載った文章は、図書館に行けば全て集めることも可能です。でも、レコードのライナーノーツなどは、個人の力では、全て集めることは出来ません。そこで、日本中になら、少なくとも何人かはいるであろう、氏のファンもしくはマニアと協力して情報交換し、全ての文章を集める、ということを考えていたのです。
そのためには、氏の文章を公開することが一番効果的なのですが、著作権というものを無視することは出来ません。商業的な利益には何の関係もないとは言っても、人の書いた文章ですから、引用の範囲を超えて、勝手に公表することは出来ないのです。

―ちょ、著作権? そんなもん気にせずに、ドバーッとやればいいんだ。
―あ、ナカヤマ先生!
―マイルスのブートとか、出さない方が犯罪なのである!
―そ、そうですか。
―特に、Sony! マイルスだけじゃない。1930年代の原盤を持っておろうに、Ellington のCDをなぜ出さん!?
―それは、本当にそうですよね。粟村さんも、それは、むか〜し、仰ってました。
(2026年 追記)

ところで、粟村氏のどこがいいのか、と言うと、
1)批評眼の確かさ
2)味のある文章
という二点に尽きます。
私は、1970年代の中頃から『スイング・ジャーナル』を読んでいるのですが、音楽の評価なんて、個人差がありますから、この人の言うことは信用できる、という批評家を見つけることは重要です。ジャズ界の大御所の故油井正一氏とか、当時の編集長の児山紀芳氏とか、けっこう信用していたものです(逆に、今も健筆を振るっておられる岩浪洋三先生とかは…)。なかでも当時「モダンジャズの歴史」を連載中で、「ユーモラスで歯切れのいい」(油井正一評)粟村氏の文章には、段々注目するようになっていったのです。(油井正一氏の評論家としての見識は尊敬しますが、文章はやや軽薄な所があります。児山氏は、何と言っても編集長でしたから、多少割り引いて読まなくてはなりませんでした。)
そういう訳で、溜まった雑誌を捨てる前に、粟村氏の文章は、スクラップして取っておいたのですが、後で読み返しても、けっこう楽しめるのです。今となっては、その名を知る人も少ないでしょうが、全集として後世に残したいという気になります。
また、氏の二冊の著書も、名著で、大学生の頃に、繰り返し読んだものです。(『ジャズ・レコード・ブック』の方は、初版と改訂新版と改訂第二版と、三冊持っています。作品の選択など、内容がそれぞれ違っています。)

ところで、粟村氏がどういう人なのか、75年の『ステレオ』に載った「ジャズと私」という文章から知ることが出来ます。
要約すると、1933年大阪生まれ、実家は製薬会社を経営、自身は京都大学の薬学部、(その封建的な雰囲気に嫌気がさして、医学部に移って)医学部を卒業、その後、医療に従事しながら、ジャズ評論家として活躍。(病院は、1968年『ジャズ・レコード・ブック』初版では、「京都大学付属病院内科」と出ていました。また76年末に「マンネリを自覚しながら仕事を続けるのも……と考えて開業医を止めることにしました」という近況報告がありました。)
氏がジャズに出会ったのは、高校卒業前(1950年頃)のことだそうです。一部、引用すると、
「小生とジャズとの出会いは、ある日突然に、それもこちらから『ひとつ、ジャズなるものを聞いてみよう』といった具合に訪れたのであった」のだそうです。
「夢のお告げの如くに、ジャズをきこうと思い立ったものの、周りに頼りになる友人がいるわけでもないし、止むなく、行きつけのレコード屋へ出向いて、『なんでもいいから、ジャズのレコードを二、三枚……』と申し出る、型破りの入門ぶりでこの道に入ったのであった。
その時、レコード屋のオヤジさんが選んでくれた三枚のSP盤は、スタン・ケントンの『帰れソレントへ』、ラルフ・フラナガンの『唄う風』、それにいま一枚、ビング・クロスビーの唄ものであったが、ケントンの『ソレント』は、ヴィド・ムッソの荒っぽいテナーが気に入らず、『唄う風』は一日で飽き、ビングの唄は『こんな歯ごたえのないのが、アメリカ一の歌手か』ということで、いずれも最低クラスの視聴感で、最初の経験を終えた。」(「申し出る、」の原文は「申し出る。」です。)
こういう具合に引用していると、全部書いてしましそうです。(注4)

ともかく、学究肌の人で、ちゃんとレコードを聞いて内容を評価するという点では、ジャズ界でも一二を争う人だと思います。
氏の文章は、「…ではあるが、」という副文章の多い、粘液質の文体で、関西人特有のユーモアを交えた、一種の名文です。雑誌の中に載っていると、読めば署名を見なくとも分ります。
内容的にも、歴史的な観点を持ちながら、演奏の本質を率直に語る、いい文章だと思います。

私が、何より粟村氏を羨ましく思うのは、スウィング時代の終りにジャズを聞き始め、モダンジャズの誕生から発展の時期を、同時代として生きながら、歴史的な名盤を同時代で聴いてくることができた、という点です。私のように、「ジャズは死んだ」と言われ続けた70年代にジャズを聴き始めた者にとって、「Kind of Blue」を新譜として聴くことが出来たなどというのは、信じられないほど幸運なことに思えます。
また、誰でも、自分の時代というものに条件付けられています。ポスト・コルトレーンの時代に育った者にとっては、モダン以前のジャズは勿論、バップやハード・バップでも、リズムや演奏スタイルが、ちょっと古く聞こえるのです。だから私が心から楽しめるのは、60年代以降のジャズであり、せいぜい50年代末くらいからが同時代なのです。モダン以前のルイ・アームストロング(サッチモ)とか、デューク・エリントンとか、レコードやCDも持っていおり、聞けば素晴らしいことは分りますが、「聞いて心から楽しむ」という心境には遠いのです。またモダン・ジャズでも、チャーリー・パーカーやクリフォード・ブラウンといった辺りは、殆んど全ての(正式な)録音を持っていますが、やはり「愛聴する」とは言えません。自分と音楽の間に、少し距離があるのです。(70年代にジャズに巡り会った私――たちの世代?――にとっては、コルトレーン以降のモード奏法がデフォルトだったということでしょう。)
「キング・オリバーからアルバート・アイラーまでを一貫して語れる人は、そう多くないのである」という『ジャズ・レコード・ブック』の推薦の言葉(油井正一)を引用するまでもなく、モダン以前のジャズから、ポストモダンのジャズまでを、音楽的な内容に重点を置いて、同じ視点で評価することができるのが、氏の注目すべき特質です。それは、現在進行形のジャズを、同時代に、一枚一枚レコードを買い聞いて楽しんできたという経歴が、根本にあるからでしょう。
同じ関西に生まれ、ほぼ同じような時期にジャズ・ファンになったらしい児山紀芳氏でも、「ジャズ」という名前で意味されているのは、50年代以降の「モダン・ジャズ」です。その「モダン・ジャズ」でさえ、ウイントン・マーサリスの出現以降は、一つの美学によって作られた「伝統」的な形式の一つになりました。
もう、こういう評論家は、現われないのではないかと思います。)


(注1)
この記念すべき初論考は、油井正一編『ディキシーランド・ジャズ入門』(荒地出版社)に再録されています。

(注2)
1976年4月号の巻末「アウト・コーラス」には
「目下連載中の拙稿も近く完結。それを待って小生もジャズ論壇から姿を消すことにしました。特別な理由はありませんが、なんとなく、自分の仕事は終わったという心境になりました。来る者あれば、去る者ありです。」とあり、
その連載の完結した12月号には、
「40才を過ぎて色々と思うところあり。マンネリを自覚しながら仕事を続けるのも……と考えて開業医を止めることにしました。あとは本を読みながら、静かに暮らすつもりです。収入を放棄するというのは、もちろん気になりますが、まあ人生はお金だけじゃないから……。同じような気持ちで、ジャズの原稿を書くのも止すべきだと考えたのですが、この方は、思いがけずも多くの方々から激励をいただくことになり、何度も迷った挙句、細々ながら続けることに翻意しました。色々お騒がせしましたことを深くお詫び申し上げます。今後は、退き時を求めるなどという生意気なことは考えず、野垂れ死にもまたよしという心境で、ささやかな貢献ができればと願っています。」
とあり、82年の静かな引退も意外なことではありませんでした。

(注3a)
1984年の奇跡の復活というのは、7月号の「ソウルトレーン」の月評と9月号の「グレイト・ワイド・ワールド・オブ・クインシー・ジョーンズ・ライブ」の月評2本だけです。
前者の方を再録
「シーツ・オブ・サウンド」の最も完成された形
「ソウルトレーン」のようにすでに評価の定まったアルバムについて、いまさら寸評がいるとは思えないし、小生の如く、人のためにレコードを聴かなくなった人間の意見など益々不要であろうと当方では思うのだが、『そんなことはありません』と編集部では言う。以下なんと抗弁しても、『そんなことはない』のくり返しである。いっそ『雑誌というものは、公正や信義に縛られるものではないのです』と言ってくれればよくわかるのだが、給料の手前、先方ではそうは言わない。それを考えると少々愉快である。しかし、愉快々々で前置きが長くなると、今度は『益体もないことを書いて原稿用紙のマス埋めをしている』と非難の声が出るだろう。もちろん、これを口にするのは編集部である。読者はそんな下品なことは言わない。しかしこの下品は、ある程度まで会社公認の下品であるから、彼らは小生の知らないところで、大いに人を罵って留飲を下げるであろう。かくして彼も我も、ともに陰湿な愉快を味合いつつ、奇妙な妥協の産物を活字にするのである。
ジョン・コルトレーンが生前吹込んだ膨大な数にのぼるアルバムのうちの幾枚かは、いまでも小生のコレクションの中に残っているが、建前の意見を言わなくてもよい立場になった途端に、聴くレコードと聴かないレコードとの色分けが鮮明になった。聴かない方の代表は「アセンション」で、これはもう死ぬまで耳にすることがないかもしれない。反対にいまでもくり返し聴いて飽きない演奏は、56年の秋から59年の春くらいのあいだに録音されたもの。アルバム・タイトルで言えば、マイルスの「クッキン」に始まってアトランティックの「ジャイアント・ステップス」にいたるあたりの作品がこれにあたる。初期のインパルス盤も無論よいが、サンダースの入ったものはもう願い下げである。これを要するに、聴き手というものは所詮わがままな存在であって最終的には自分に理解可能な言語で語られたメッセージしか受けつけなくなるということであろう。
それはともかく今回≪ゴールド・ディスク≫として久々に脚光を浴びることになった「ソウルトレーン」は、58年の2月7日に録音され、トレーンのプレスティッジ時代を代表する名盤として発売当時からすでに世評の高かったものである。「ソウルトレーン」に独立したアルバムとしての価値を与えているのは、とかく雑然とした編集の多かったプレスティッジ盤の中にあって、同日吹込みのすぐれた演奏5曲を残らず収録したという統一感にあったことはもちろんだが、さらに重要な点は58年2月という録音時期にあり、前年伝説的なモンクとの共演を経験したトレーンは、シーツ・オブ・サウンドと形容された特異な演奏スタイルの、最も完成された形をここにとどめている。ことあとすぐにコルトレーンは、マイルス共々モードの世界へ突入して行っただけにこのアルバムの示唆するところは大きい。トレーンのソロがいつごろから異様に長くなり始めたかは不明だが、ジャズはやはり行為であるよりは演奏であってほしいと小生は思うし、この1枚が昔も今も演奏そのものであることを喜ぶ者だ。」

(注2b)
1991の方は、『スイングジャーナル』1991年10月「名盤蒐集クラブ Capitpl Jazz Classics」の記事
1992の方は、『スイングジャーナル』1992年3月「ビ・バップv クール・ジャズ」、児山氏との対談です。
前者の記事の冒頭を引用。
「私が最後にスイングジャーナルに書いたのは、あれは何年前のことであったろうか。いずれにせよ、本稿の活字になるのがお盆と鉢合わせにならずに済んだのはよかった。
 その昔、斉藤緑雨は文人の寿命ということで森鴎外に触れ、「山寺の灯の如く明滅しながら命長かるべし」と諷して、伝え聞いた山人の不興を買った由だが、たんに「明滅しながら命長かるべし」というだけのことなら、ナニ私だって決して鴎外に引けを取るものではない。
 ところで今を去る何年も昔、東芝EMIがいまだ東芝音楽工業という日本字だけの会社名であったころ、〈キャピトル・マスト・アイテム・シリーズ〉という企画があって、私もその一端に連なってお手伝いをしたことがある。「キャピトル・コレクターズ・アイテムズ」「ビ・バップ・プロフェッサーズ」「スイング・オール・スターズ」といったところが、そのとき私が手がけたオムニバス盤で、数曲の未発表曲を混えて当時としてはそれなりに好評を博した。そのあと何年かして、先に発表されたアルバム中の何枚かを再発しようという計画が持ち上がり、このとき私ひとりで仕事に当たったが、会社の方で原形を残したいというアルバムもあって、全面的な改訂を施すにはいたらなかった。
 こうした過去の経緯があったため、今回キャピトル創立50周年記念のひとつとして企画されたCD8枚組の「キャピトル・ジャズ・クラシックス」の監修役が私に廻って来たのだと思うが、ジャズの仕事を離れてすでに久しい私に今さら力以上のことができようわけもなく結局は”可能な範囲でベストを尽くした”といったあたりで終わったのは是非もなかった。もっともCDの解説書にだって「可能な限り良い音質にしようと努力しましたが、実は……」といつも断ってありますが……。
 まあそれはともかく、今回この選集を編むに際してまず私が留意したことは、CDの利点を考えてできるだけ多くの演奏を詰め込もうということではなく、その利点に溺れることなくできるだけ細心に愚演を締め出そうということであった。今日流行のコンプリート大全集というのも悪くはないが、ああなってしまうと、これはまるでレコード会社の資料室がそのまま我が家に移転して来たようなもので、レコード本来の持つべき神秘性などは、もはやどこにも見出すことができない。それに凡演駄作の類までが代金の一部(あるいは大半)を占めているのかと思うと、どうも単純にありがたがってばかりはいられないような気がする。
 そういうことでこのCD8枚組には、二流三流の演奏がまぎれ込まぬよう極力注意をはらったつもりだが、それよりも現実に困ったのは、キャピトルというのが40年代の初めにスタートした比較的新興の会社であったため、それ以前のいわゆる歴史的名演の音源には縁がなかったこと、西海岸に本拠地を置いていたという都合もあってビ・バップの録音がきわめて少なかったこと、マイルスの「クールの誕生」のように古典中の古典というべき演奏でありながら、すでに単独のCDとして発売中のものがあったことなどであって、一口に「キャピトル・ジャズ・クラシックス」とは称しても、それはあくまで上記の事情をつき混ぜた上での「クラシックス」であることを、この際特にご諒解いただきたいと思うしだいだ。
 さて少々前置きが長くなったので、急ぎ本題に入りたいと思うが今回の選曲に当たっては1枚1枚のCDに意識して独立性を持たせ、それぞれを1枚ずつのケースに収めて、単独のCDとしても通用するように特に工夫を凝らした。その点で、ファン諸兄のご賛同をいただければ幸いである。(以下、略)」

(注4)
『スイング・ジャーナル』1968年2月号「僕の青春時代」から引用
蛮風を固守した学生時代
 昭和8年12月生まれの僕に、青春時代を語れとはいささか酷である。しかし「はじめに神話ありき」というあのみずみずしいペーターカーメンチンドの青春の哀歓は、悲しいけれども今の僕にとっては無縁のものになってしまった。その意味でも僕もまた、過去を語り得る資格者になったのかも知れない。
 僕の入学した小学校はスパルタ式教育で有名だった大阪の偕行社学院であった。ここでは教師の生徒に対する鉄拳制裁は日常茶飯事であり、コブや鼻血といったものには生徒はもちろんのこと、父兄でさえも不感症となっていた。事実、僕のクラスを担当したある若い先生などは「慈愛の鉛」と名付けた鉛塊を常備し、物おぼえの悪い生徒がいると、遠慮会釈もなく「コツリ」とお見舞いしたものである。しかもなぐられた当の被害者は、この愛のしごきに対して大声で「ありがとうございました」と深甚の敬意を表するのがシキタリとなっていた。
 中学はこれまた喧嘩が有名だった旧制の天王寺中学へ入った。生来内攻的な性格であった僕がいかなる経由でそうした荒っぽいコースばかりに放り込まれたものやら判らないが、ともあれ「大和魂」の養成という意味では確かに僕は絶好の鍛錬の場を得たというべきだった。中学時代はもっぱら小説に親しみ、機会を見つけては油絵を描いた。絵の方は一水会入選を最後として自身の才能に見切りをつけてしまったが、その頃好きだった漱石は今でも一番敬愛する作家である。中学3年の時、無法な政府の方針によって男女共学が実施された。僕は女の子と机を並べて勉強することが訳もなく嫌で、この後の4年間、高校を卒業するまで、公用以外にクラスの女生徒とは一切口をきかなかった。
 初めて音楽なるものに興味を抱いたのは高校2年の時であった。当時は「素人のど自慢」の全盛時代で、その伴奏楽器であるアコーディオンはちまたの若者たちの憧れの楽器であったが、その頃流行歌に凝っていた友人の感化でこの楽器を手にした僕は、やがて1人で弾いているのに飽き足らず、友人3人を語らってアコ2、ギター1、ヴァイオリン1という世にも奇妙な編成のカルテットを組織するに至った。レパートリーはいわゆる「軽音楽」が主で、これに若干の流行歌が加わったが、ジャズなるものにはいまだ何の関心もなく、アイドルもアート・ヴァン・ダムならぬ長内端であった所がおかしかった。バンドの編曲は主として僕が担当したが、これがまた恐るべき怪編曲で、簡単なストックアレンジを数種買い込んで来ては、自分たちの手に合いそうな部分を少しずつ継ぎ合わせるというヤリクリ算段を講じた。しかし誠に不幸なことに、このバンドのデビューは惨憺たる結末のうちに終った。今でも忘れぬが、高校2年の秋の文化祭に出演した我々のコンボ(?)は、意気揚々とホールの大ステージに上がったまでは良かったのだが、そこが素人の浅はかさ、なるべく派手に見えるようにと一列に散在したのが運のツキでいざ弾き始めてみると、隣にいる仲間の音がほとんど聞こえない。ましてや一ばん端にいる者同志は音どころか秋波さえ届きかねるという有様で、マラソンのゴール・インみたいに次々と遅れてエンディングに入るというお粗末さ。全員ゴウゴウたる罵声を浴びて楽屋へと逃げ帰った。
 ジャズに開眼したのは、その後間もなくのことではなかったかと思う。今考えても不思議なことだが、当時の僕には影響を受けるべき友人もなく、これがジャズだと意識して聞いたレコードさえなかった。自分でも信じられないような話だが、ある日のある夜、僕は天来の啓示の如くに「明日からひとつジャズというものを聞いてみよう」と決心し、翌朝直ちにレコード屋へ駆けつけて「ジャズのレコードを、2、3枚ほしい」と申し出たのである。「ジャズ」という言葉の持っている不思議な響き、ただそれだけがローレライの歌のごとくに僕をこの奥深い道へとひき入れたのであった。当然ファンとしての僕はまわり道をした。文献でディキシーランド・ジャズという言葉を見つけても、それがどういうスタイルのジャズをさすものやら僕には長いこと判らなかったし、サッチモが歌うことを知った時には、この新しい発見に対して、しばしの感嘆を禁じ得なかったものだった。
 そのうちにクルーパ・トリオが来日し、JATPもやって来て、一部の物好きのためのものであったジャズは、全若人のための音楽として迎えられるようになったのである。
 大学は京大を選んだ。27年のことである。当時は今ほどの受験ラッシュではなかったが、それだけに浪人生活に対する周囲の理解も足りず、心理的な圧迫感はかえって強かったように思う。ただし僕個人に関しては苦労はむしろ入学試験の後にやって来た。
 薬学部ですごした専門課程の2年間は、その学問に人並み以上の関心の持てなかった僕にとって、文字通り青春の浪費のように思えた。医学部に転ずる決心を固めたのは薬学部を卒業して研究室に在籍していた間のことである。すでに完全に忘れ去っていた数学や物理の公式に再度挑むのは決して楽しい仕事ではなかったが、この期間が僕の全学生々活を通じて、最も意欲的に机に向かった時期であったような気もする。ジャズとも全く絶縁して暮らした1年間であった。
 それ以後のことについてはあまり語ることもないように思う。人が大学の関を突破して一息ついている間に、僕は薬剤師国家試験、薬学部大学院入試、医師国家試験、医学部大学院入試と追いまくられ、その間推理小説をかじったり、学生ストに反対してたった一人で講義を受けたり、数年間下宿の隣の人の顔も知らずにマイ・ペースの生活を送っているうちに、いつの間にやら恰好だけは医者になり、同時に34才にもなっていたという訳だ。
 思えばシンドイ前半生だった。しかし、この間、絵を描き、書に親しみ、生き物を愛し、ジャズに耽溺し、そして人並みに何度か恋もした。欲を言えばキリがないが、まずは人並みの青春時代を送ったとも言えるだろう。
 だから今、おせっかいな人がいて「今度生まれ変わったら、もっと要領良い人生コースを選ぶんだね」と忠告してくれたとしても、僕はニヤッと笑ってこう答えるだけだろう。
 「ありがとう。だけど、どの道大して変わりばえもせんやないか」とね。」

ついでに、『スイングジャーナル1974年4月臨時増刊 幻の名盤読本』「MY COLLECTION」からも引用
(自宅のリスニングルームの写真が公開されたのは、これだけだと思います。
その写真の手前にカメラのレンズとフィルムが写っているのが、私には気になります。)
「 今を去る20数年前のある日、あたかもジャズという言葉の持つ響きに魅せられたかの如く、この道に迷い込んだ僕は、頼るべきジャズ友もなく、拠るべき文献も知らぬままに、可成りの廻り道をして今日に至った。行きつけのレコード屋ではじめて買ったジャズらしきSP盤が3枚。いずれも「ジャズのレコードをなにか……」という当方のリクエストに応えてオヤジさんが選んでくれたものだったが、スタン・ケントンの「帰れソレントへ」、ラルフ・フラナガンの「唄う風」、それにもう1枚、曲名は忘れたがビング・クロスビーの歌もの――と、よくもまあ、こんな愚選曲を押しつけられてジャズに絶望しなかったことよ、と苦笑のほかないが、いったん始めたら仲々には諦めない性格が、幸か不幸か今日のコレクションにつながってしまった。
 「コレクターとしての信条は?」などと問われても、そんな高級なもの、あるわきゃないが、無理に探せばただ一つ、やっぱり <諦めない> ということでしょう。とは申しても僕の場合、根が照れ屋で、おまけに頭(ズ)が高いときているから、お目あてのレコードを追って三顧の礼を尽したり、大熱弁をふるった挙句に強奪するてな、エネルギッシュな蒐集法はどうにも手に合わぬ。従って、その発掘の対象は、もっぱら本職のレコード屋か、くだらんことでウジウジ言わない外人のコレクターということになるが、近頃では入札などにも手を出す結果として、不当に高い買物を余儀なくされるケースが段々多くなった。
 学生時代は「親から貰った金」を必要以上に意識して、昼飯代を少しづつ削ってレコード代に廻し、開業医になってからは「何事にもケジメが肝心」と大見得切って、医院の収入は一切レコード代に充当せぬまま今日までやって来たが、まあこのクソ意地が健在である限り、わがコレクションも漸増の道をたどることは疑いなし。目出たきと言うべきか、はたまた、お目出たきと称すべきか……。

粟村さんは、開業医を営まれるかたわら、バップ期を中心にスイングからモダンまでコレクトされている。またテープのコレクションにおいても世界的に著名である。
(以上、この注記すべて、2026年 追記)


レコード解説 (その他)
Louis Armstrong
Joe Bushkin / Piano After Midnight
Charlie Christian Memorial Album
Ornette Coleman / The Shape of Jazz To Come
John Coltrane / Coltrane (Prestige)
Miles Davis / Kind of Blue
Bill Evans / Portrit in Jazz
Tal Farlow / Fuerst Set
J.J.Johnson
Wynton Kelly / Kelly At Midnite
Lee Konitz / Motion
Lee Konitz & Ted Brown / Figure And Spirit
Thelonious Monk with John Coltrane
Bud Powell
Tony Scott Quartet
Sonny Stitt plays from the Pen of Quincy Jones
Lennie Tristano / The New Tristano

Jazz Abstractions / John Lewis Presents Contemporary Music

ブルー・ノートSP時代 ハイライト (そのうち書きます)

最近、CDで持っているLPなどを処分しています。持っているのは輸入盤が多く、もともと国内盤は少ないのですが、その中に、粟村氏がライナー・ノーツを書いているものがいくつかありました。それを暇な時、ここに書き写しておきます。
(著作権についてセロニアスだ、とかモンクだ、という人は、いつでもご連絡下さい。)

2026年追記
Discogs で偶々「粟村政昭」の項目があるのに気がつきました。(→Discogs
ディスコグラフィーに上がっているのは、粟村さんが監修者として関わった、もしくはライナーノーツを書いたLPのようです。上に記載したものの多くが載っています。
そこに写真版のライナーノーツが上がっていても、しかし、たいていは解像度が低く、ちょっと読めません。
もしちゃんと読めるものがあれば、書き写しておきたいと思います。


蛇足
先日、某掲示板を読んでいると、「粟村政昭って奴はレコード会社からサンプル盤が送られないと点数を辛くするって豪語した奴」云々という書き込みを目にしました。事実や真実というものは必ず誤解されるものですから、こういう発言を気にしていると、切りがありませんが、今となっては、その典拠を確かめることも困難でしょうから、一言しておきます。
この誤解は、『スイング・ジャーナル』誌で毎年行われている「ジャズ・ディスク大賞」の選考を巡って、当時、評論活動を行っていた慶応大学教授(英文学)の鍵谷幸信氏が『スイング・ジャーナル』1977年3月号(288頁)に書いた一文に端を発しています。引用すると、
「本誌2月号の「ジャズ・ディスク大賞」の投票と選考後記における粟村政昭氏の感想は、まさしく暴言以外のなにものでもない。氏は書いている。「…ただし、テスト盤の来なかった東芝、コロンビアの候補作については、プロモーションというものについて公平を期す意味で、悪いけれど、選考の対象から、はずした」。これはいったいどういうことか。氏はここ数年同じ趣旨のことを書いている。粟村氏はまずなによりも怠慢である。候補作品がレコード会社から送られて来なかったからといって、全く無視するというのは、批評家なる者当然レコード会社からテスト盤は送られてくるもの、という前提に立っている。(中略)ヒヒョウカにはテスト盤を送るべきだと氏は考えているようだが、思い上がりも甚だしい。(後略)」
これに対して、翌4月号(290頁)に、粟村氏の「鍵谷幸信氏に答う」という文が寄せられています。
「小生が、テスト盤の来ないレコードは聴かない――などとは、妄想もいいところ。当方では、テスト盤など来ようが来まいが、目ぼしいレコードは大抵その前に輸入盤で聴いています。投票するとかしないとかは、それとはまったく別の話。スイング・ジャーナル社が主催し、各レコード会社が協賛するという建前で<ジャズ・ディスク大賞>の催しがある以上、建前を無視した商業主義のありかたが指摘されるのは当然と思いますが…。(後略)」
さらに翌5月号には、氏の「論敵(?)」である岩浪洋三氏の「粟村氏の文に一言」という文章も掲載されています。
従って、客観的に見れば、元気はいいが多少思慮に欠ける所のある鍵谷氏が、粟村氏の発言を誤解した上で、無用の論争をした(さらに、以前からの因縁のある岩浪氏が、その尻馬に乗った)、という所でしょう。
実際にレコードのライナー・ノーツにしても、氏は自分が好きな作品しか解説を書かないというスタンスですし、雑誌のレコード評でもレコード会社への苦言も多く、レコード会社の顔色を窺うという様子は全くありません。むしろ、こんなことを書いたらレコード会社に嫌がられるだろうなという発言ばかりです。『スイングジャーナル』1972年1月号のお笑いコーナーには「粟村政昭氏=ライナー・ノーツの申し込みが殺到中。近く休診日を現在の毎週金曜から思い切って月水金にする予定。」などと書かれています。もちろんこれは反語です。


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