Wynton Kelly / Kelly At Midnite
(テイチク UXP-70-JY ―1977年の再発盤)

 ウィントン・ケリーは、1931年12月2日、ニュ―ヨークのブルックリンに生まれ(別説によると、西インド諸島のジャマイカに生まれ、4才の時、ブルックリンに移住したと言われる)、71年の4月12日、カナダのトロントで、病のために倒れた。享年わずか39才であった。(校註;「享年」の原文は「亭年」)
 ピアニストとしてのケリーの絶頂期は、58年のはじめにリヴァーサイドに吹込んだころに始まり、彼がマイルスの許を去った63年あたりまで続いた。64年の夏に、ケリーは、マイルス時代の同僚であったポール・チェンバース、ジミー・コブとトリオを組んで、世界ジャズ・フェスティヴァルの出演者として来日したが、その時には、すでに往年の強烈なスイング感の片鱗もなく、レコードで彼のプレイに親しんで来た人々の期待は完全に裏切られた。こうしたケリーの急激な凋落の原因が奈辺にあったかはまったく分からなかったが、いずれにせよこれでは、ポール・チェンバースの低調さともども、マイルス・デヴィスとの音楽的な訣別は、避け得なかったであろうという印象を強く受けた。
 ケリーがプロのピアニストしてデビューしたのは43年のこととされているが、もしそれが事実とすれば、当時の彼はいまだ10才を越えたばかりの少年であった。従って、そうした彼がただちに一流の仕事にありつけなかったのも無理はなく、ミュージシャンになった当初の数年間、ケリーはもっぱら、リズム・アンド・ブルースやドサ廻りの半端な仕事に甘んじて、その日の糧を稼いでいたものらしい。(校註;「少年」の原文は「小年」)
 ケリーがはじめて出世のための糸口を掴んだのは、50年代のはじめにダイナ・ワシントンの伴奏者となってからのことで、同じころ(51年の夏)、彼はブルー・ノート・レーベルに、自身の名を冠した、最初のレコーディングを行なう機会にも恵まれている。このころのケリーのピアノ・スタイルは、残された録音によって判断する限り、後年のケリー節とはほど遠い平凡なもので、当地の若手ピアニスト達が、まだまだ、バド・パウエルの、磁気の圏外に飛び出すことの難しかったことを物語っている。
 52年から54年まで、ケリーは兵役のために楽界を離れたが、除隊後ガレスピーの中近東楽旅のためのオーケストラに加わり、そのころから、彼独特のメリハリの効いたクリーンなタッチと、内側からこみ上げて来るような豪快なスイング感が、新しいスターの登場を待ち受ける聴衆達にアピールするようになった。兵役中のブランクをはさんで、いつ、いかなる時期から、ケリーが彼自身のスタイルを主張出来るようになったかは明らかでないが、いずれにせよ、折からのハード・バップ全盛の波に乗った、明快で小気味良い彼のプレイが、中堅ピアニストのナンバー・ワン的存在としてもてはやされるのに時間はかからなかった。
 先にも述べた如く、このあと間もなく、ケリーは、当時全盛のマイルス・デヴィス・コンボに迎えられて、名実共に第一線スターの仲間入りをしたが、レッド・ガーランドからビル・エヴァンスを経て、ウィントン・ケリーにと受け継がれたマイルス・コンボのピアニストの椅子は、50年代のマイルス・デヴィスが、共演のピアニストから多大の影響を受けるタイプの演奏家であっただけに、きわめて意味するところの大きいポジションと言えた。事実、外盤ライナー・ノーツの執筆者ナット・ヘントフ氏は、「ケリーは、煙草につける火のような存在だ。彼が居なくては煙草は喫えない」というマイルスの言葉を恭しく引用して、彼とケリーとのあいだに存在した、阿吽の相互作用の不可欠さについて言及している。
 ところで、このアルバムに収められたトリオのセッションが録音されたのは、60年の4月27日。上記の如き、マイルス・コンボにおけるケリーの重要性が、日を追って明確になりつつあるころのことであった。このレコーディングが行なわれる直前まで、マイルスの一党はヨーロッパを巡演していたが、この時のテナー・マンは、申すまでもなくジョン・コルトレーンであり、これら2人の巨人にはさまれたケリーが、いかに目覚ましい演奏を行なっていたかは、想像に難くない。
 50年代におけるマイルス・コンボのリズム・セクションのうちでは、「ザ・リズム・セクション」と畏称された、ガーランド〜チェンバース〜フィリー・ジョー・ジョーンズのコンビが最も有名であったが、ケリーが加わった59年には、すでにドラムはジミー・コブに代わっていて、ケリーとフィリー・ジョー・ジョーンズとの顔合わせは、ことマイルス・コンボの録音に関する限り、一度も記録されないままに終わった。それだけに、ウィントン・ケリー〜ボール・チェンバース〜フィリー・ジョー・ジョーンズという黄金のトリオが顔を合わせた、このヴィー・ジェイのセッションは、50年代を代表する屈指のリズム・マン達が、彼等の最盛期において共演した貴重な記録として、今もなお、ファンを充分に魅了するだけのたしかな内容を持っている。このレコードが発売された当時、ダウン・ビート誌では、トリオの3人のプレイを称讃しながらも、フィリー・ジョー・ジョーンズのドラミングが、全体のデリカシーを壊しているとして意外なくらいに辛い点をつけた。今にして思えば、60年代のはじめと言えども、いまだ従来のワンマン・トリオ的なピアノ・トリオのイメージが、評者の頭の中にあったからだと納得出来るのだが、トリオの3人のうち、誰をリーダーとして聞いてもおかしくないような対等の協調性こそ、実はこのユニークなピアノ・アルバムの、最大の聞きどころであったのである。
 以下、各トラックについての短いコメントを述べるが――、演奏はまずAABA型のケリーの自作<テムペランス>によって始まり、ケリー特有のメロディック・ヴァリエーションの妙と、フィリー・ジョー・ジョーンズとの8小節、4小節の交換が、アルバム全体のムードをいち早く設定する。
 続く<ウイアード・ララバイ>は、特異なスキャット・シンガー、バブス・ゴンザレスの書いたマイナー・チューンで、1曲目に続いて、7分を越す演奏だが、フィリー・ジョーの、一転して繊細なブラッシュ・ワークの魅力もあって、まったく飽きさせない。
 フィリー・ジョー・ジョーンズのドラミングは、いわゆる前衛風の耳目を奪うような斬新さはあまりなく、ホイットニー・バリエット氏の名言<good old-Fashioned Emotion>に象徴されるような、シドニー・カトレット以来の伝統を強くふまえたものであったが、彼がソロイストをバック・アップする時の上手さは、次の<オン・ステイジ>でも遺憾なく発揮されている。
 <スケイティン>は、32小節のテーマだが、実質的には16小節を二つつないだブルース・ナンバーで、ラストの<ポット・ラック>(これもブルース)と共に、ケリーのファンキーな感覚を満喫することの出来る名演となっている。ケリーと言えば、なんとなく、アップ・テンポのナンバーにおける歯切れの良いプレイをまず想像し勝ちだが、彼の本当の上手さは、こういったミディアムからミディアム・スローの曲において、最も効果的に聞かれたように思う。
 ともあれ、トリオの3人の、各自の代表作に挙げられても不思議でない名盤の復活に、録音日時を超えた喝采を送りたいと思う。


→粟村政昭
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