Jazz Abstractions / John Lewis Presents Contemporary Music (Atlantic SD-1365)
(ワーナーブラザーズ・パイオニア P-6052A 1972年の再発)


 サード・ストリーム・ミュージック――即ち「第三の流れ」と呼ばれるタイプの音楽が、移り気なジャズ・ジャーナリズムの口の端にのぼらなくなってから、もう可成りの歳月が経ったような気がする。
 五十年代の後期に、ジャズでもなく、クラシックでもない――いわばこの両者のイディオムを共に吸収したところから生まれた新しい音楽の確立を目指し、これを「サード・ストリーム・ミュージック」と名付けて実践に移したのは、メトロポリタン・オペラ・ハウスの首席ホルン奏者であったガンサー・シュラーであったが、時を経ずしてジョン・ルイスもこれに共鳴し、彼等二人の作編曲と指揮から生まれた幾枚かの美しいアルバムは、「第三の流れ」という言葉そのものが現実性を失なった今となっても、依然としてジャズ愛好家達のライブラリーを優雅なサウンドによって飾り続けている。
 しかし結論的に申して、「サード・ストリーム・ミュージック」派の掲げ旗は、あくまでもその理想の表明に終わって、ジャズ並びにクラシックの両分野に対抗して未知の領域を切り拓くまでには至らなかった様だ。
 その原因としては、無論、アメリカのジャズ界全体が抱えている不可避の問題――創造に費すべき経済的並びに時間的な余裕の無さを以って第一の障碍に数えるべきであろうが、「第三の流れ」そのものが内蔵していた“意外性の乏しさ”も、その不完全燃焼に輪をかけたのではないかと筆者は推測する。
 「サード・ストリーム・ミュージック」という言葉に象徴されている音楽は、ジャズ並びにクラシックに源を発しながらも、そのいずれの原型をもとどめぬまでに諸々の要素を昇華し尽した音楽となるべきであった。またそうでなければ、音楽の世界に於いて新しい一分野を第三者に承認させることは不可能であったろう。しかし現実に「第三の流れ」として演奏あるいは録音されたものは、アレンジとアドリブの対比乃至は葛藤という意味に於いては従来のジャズの常識を破るものでは全くなかったし、クラシックの手法に基いて書かれたアレンジをバックに秀れたインプロヴァイザーがソロを演ずるというアイデアも、屡々木に竹を継いだ様な違和感、またはソロの魅力が則ち全体の価値を代表する――といった、作編曲者にとっては極めて不本意な評価さえ招来することが多かったのである。
 即ち「サード・ストリーム・ミュージック」と銘打たれた幾つかの作品群に於いては、絃楽器演奏者達はあくまでもクラシックのイディオムに則った奏法で、クラシックの手法を用いて書かれた譜面を演奏していた。クラシックのトレーニングを積んだミュージシャン達にとって、ジャズ的なリズム感覚やフレージングを体得することが(少なくとも短期間の接触によっては)不可能である以上、これは当然の配慮であると言えたかも知れない。
 しかし、こうしてクラシックのパートにはクラシックが“生”で顔を出し、ジャズのパートにはジャズが“生”で顔を出すという行き方を採ってそこに何らかの新しい発見を期待するとするならば、アンサンブルそのものの部分的な新鮮さ、耳慣れぬバック・グラウンドがソロイストに与えるであろう刺激を別にすれば、あとは専ら異質のものがぶつかり合う瞬間に生じるであろう一瞬の(あるいは点在する)スリルの発生を待つしかない。
 サード・ストリーム派が直面した現実は、こうして充分な時間的余裕のないままに、作編曲者のペンが完全に支配し切れぬ空間にまで成功の鍵を求めねばならないことになり、当然の結果としてその発展性は限られた数のアルバムの中につつましく――と言うよりはいささか生硬な形のままに提示されるにとどまってしまった。

 ジャズとクラシックとを折衷させてそこに何らかの耳新しいサウンドを求めんとする動きは、遠くスイング時代の昔からも幾度か着想を改めては我々の前に現われ、そして消えた。しかしその大半は、単にクラシックのメロディあるいは手法をジャズ的に借用または咀嚼せんとした―いわば単純な動機に基くものであって、結果としては精々「一寸面白い」から「あっぱれ、あっぱれ」程度の無責任な讃辞を以って終わるケースが多かったのである。
「サード・ストリーム・ミュージック」はこうした意味に於ては確かにジャズ史上他に類例を認め得ない高い理想に貫かれた試みであった。ただ現実に創られた作品が、旧来のジャズやクラシックに対する観念を以ってしては到底想像もつかない――といった類のニュー・ミュージックではなく、想像力という点ではむしろ平凡な、そのくせ卓抜な成果を収めるには困難な条件を多々背負っていたために、最終的には何曲かの、聞く者の心に食い入る幻妙なサウンドの断片を残したままで消え去ってしまったのである。

 「サード・ストリーム・ミュージック」とは、本来MJQの一アルバム(本邦既発売)に対して与えられた表題であったが、ガンサー・シュラー、ジョン・ルイス両氏のコラボレーションは、その後も幾枚かのレコードをめぐって緊密に維持され、いつしかこの言葉は三番目の音楽の確立をめざす一つの運動の名称として用いられる様になった。
 第三の流れの停滞の因がクラシックとジャズの体質を共に損うことなく組合わせることへの妥協の限界にあったことはほぼ明白だが、それでも本LPに代表される二、三の充実した演奏は、彼等の試みが単なるセンセーション目当てのお遊びにあらずして、純粋に音楽的な情熱から発したものであったことを雄弁に証明している。
 いささか前置きが長くなってしまったが、ここらで本LPの録音データ並びに各曲についての短かいコメントを記しておきたい。作編曲者並びに指揮者の側から語られた本アルバム吹込みの意図についてはジャケットの裏面に記されたガンサー・シュラー氏の一文が絶好の資料になると思う。
 尚「Abstraction」「Variants On A Theme Of John Lewis」「Variants On A Theme Of Thelonious Monk」の三曲は本アルバムの吹込みに先立つ1960年春のコンサートのために書かれ、その模様は、ホイットニー・バリエット氏らによって各紙に紹介され絶讃を博した。このレコーディングに際しても、当夜のコンサートに出演したミュージシャン達の、一、二の例外を除いてことごとく集められたと裏解説には記されている。

<SIDE 1>

1.アブストラクション/Abstraction (By G. Schuller)
 まず最初にストリング・クヮルテットがシュラーによって書かれた無調のアンサンブル・パートを演じ、その途中からインタープレイの形をとってコールマンのアルトが加わる。コールマンはリハーサルに際してこのバック・グラウンドに数度耳を傾け、彼の楽想が点火した時点に於いて合奏に加わったと言われるが、こうした着眼は(年代的に見た場合)やや陳腐と言えなくもない現代音楽の手法に前衛ジャズのスピリットを注入したという意味で、極めて合理的なものと言うことが出来よう。
 曲の構成はABAという形式をとっているか、このBの部がコールマンの無伴奏によるカデンツァとなって居り、これが前後の混沌たるサウンドと鮮やかな対比を成している。
2.ギターとストリングスのための詩
  Piece For Guitar & Strings (By J. Hall)

 この演奏のみがジム・ホールの作曲、ジョン・ルイスの指揮で吹込まれているが(あとはすべてシュラーの指揮)、全楽器がストリングスとなっているあたりが興味の焦点となろう。ホールの目指したものがジミー・ジュフリー・スリーの延長線上にあったことは一聴して判然とする。
3.ジョン・ルイスのテーマによるヴァリエーション
  Variants On A Theme Of John Lewis (By G. Schuller)
 ジョン・ルイスの高名な「Django」をテーマに書かれたヴァリエーションで、三部に分かれているが、ジム・ホールのギターによってストレートにメロディが示されたあと、ラファロのハイ・レジスターを駆使した縦横のソロに移り、絃楽四重奏団が加わったところで第一部を終わる。二部はヴィオラによってテーマのファースト・パートが弾かれるが、これはいささか平板な感じを免れない。第三部はギターとベースのデュオに始まり、ドルフィーのフルート・ソロがジャズ的な興味を盛り上げたあと、ギターによるテーマのセカンド・パートが現われるが、全体に見て原曲のメロディをこなし切れなかった感じで、本アルバム中では最も興味薄の出来栄えとなっている。

<SIDE 2>

1.セロニアス・モンクのテーマによるヴァリエーション
  Variants On A Theme Of Thelonious Monk (By G. Schuller)

 モンクの古典的な名曲「Criss-Cross」を素材にしているが、原曲と作編曲、演奏が渾然一体となった名演で、コールマン、ドルフィー、コスタが各々前者のラスト・コーラスを自己のソロのファースト・コーラスにオーヴァーラップさせるという形でソロをつないだあと、最も非ジャズ的な短かい第二部に移り、ドルフィーとラファロの対話が完全に聞き手を呪縛する第三部を経て、終結部に入る。この第四部はコスタのソロに始まって次々にソロイストが加わり、最後に突然コーダが現われて終わりを告げるが、この一曲はサード・ストリーム派が残した最高の遺産とさえ呼びたいほどの完璧な構成を持った演奏になっている。

《解説・粟村政昭》

註――最後の曲目紹介の部分で、<SIDE 1>の2と<SIDE 2>の1の後にそれぞれ一行空いているのは、原文のまま(原文は半行で合わせて一行分)。また、<SIDE 1>3の曲名の後にスラッシュ(/)が抜けているのも、原文のまま。


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