Lennie Tristano / The New Tristano / Atlantic SD-1357
(ワーナー・ブラザーズ P-6017A ―1971年の再発盤)

 本アルバム裏面の英文解説中に次の様な記載が見える。
 "No use is made of multi-tracking, over-dubbing or tape-speeding on any selection."
 ピアノ・ソロのレコードにこの種の註記はいさゝか異例だが、これは本アルバムの録音に先立つ55年6月の吹込み(Atlantic 1224 中に収録)に際し、トリスターノが二重録音、三重録音を試み、更にスロー・テンポで弾いたピアノ・ソロのテープを早廻わしにしてリズム・セクションと合わせるという、ジャズ録音史上前例のない離れ業を演じた経歴があったゝめである。
 その結果に対する毀誉褒貶についてはトリスターノ自身は多くを語っていないが、この手法にヒントを得て風変わりなベースの二重録音を完成したピーター・インドは、「はじめにベース・ラインを録音したテープを作り、そのテープ・スピードを半分に落とした上で、これをバックにインプロヴィゼーションを行なう。次いでこの合成録音のテープの速度を元に戻してプレイ・バックすると、本来のサウンドのベース・ラインの上にチェロの音域を持ったベースのソロが聞こえるという結果になる」と、その楽屋裏を説明している(インド自身が出版したLP "Looking Out"のライナー・ノーツより)。
 勿論トリスターノが行なったテープ操作はこれと同一ではないし、またピーター・インドのケースとはその理想のサウンドを求める姿勢に於いて可成りの差があった様だが、――リズム・セクションに常に不満を抱きつゝ、遂にその究極の状態として完全なソロ・アルバムを吹込むに至ったトリスターノという音楽家の、頑なゝまでの理想追求の姿が象徴されたエピソードではないか。
 以下この孤独の天才にまつわる幾つかの神話(?)を紹介して行くが、それに先立ってまずこのアルバムの録音データを記載しておきたい。

 このレコードに収められたピアノ・ソロが何年何月に吹込まれたかという正確な記述は、今のところ各種ディスコグラフィー中にも見当らない様だ。イエプセン氏は「58年から62年までの間」という甚だ大雑把な推定しかしていないし、レナード・フェザー氏の「ジャズ百科辞典」中には62年と記されている。その他の文献も参照して、どうやら62年というのが正しい様だが、いずれにしても前作の "Line Up"のセッション以来、数年ぶりのスタジオ・レコーディングであったことには間違いない。しかも本LP以降、トリスターノのアルバムは発売されていないから(吹込んだという噂はあるが)、この一枚が未だに彼の最新作ということにもなる訳である。
 トリスターノは極めて屡々既成の曲のコード進行の上にオリジナルのメロディーを乗せることを好んだ。彼が何故こうしたやり方で満足しているのかは誰にも判らないが、本アルバム中にもこの種の実例は沢山見受けられる。そのうちで原曲の判ったものを次に記しておこう。

 Becoming (What Is This Thing Called Love?)
 Deliberation (Indiana)
 Scene And Variations (My Melancholy Baby)
 Love Lines (Foolin' Myself)
 G Minor Complex (You'd Be So Nice To Come Home To)

 こうした素材を基として、トリスターノは彼の音楽を最も著しく特徴づけている異なった長さの長いメロディック・ラインを次々に結び合わせて行く。しかもタイム・シグニチュアは複雑であり、テンポは時に急激に変化する。過去に於いてトリスターノはリズム・セクションにメトロノーム的な均一ビートを要求するのが常であったが、それを知る者にとっては、このアルバムに聞く異常なタイム感覚に貫かれたピアノ・ソロは正に "tour de force"だと言うほかはない。
 トリスターノはかねがね理想的なベース奏者とドラマーを得られぬことに不満を抱き、「今日ではサイドメンと呼べる人はもはやジャズ界に残っていない様だ。今では皆んがソロイストだよ」と語った由だが、恐らくはその点のジレンマが昂じて、彼は唯一人で理想のサウンドに挑戦する結果となったのであろう。そして彼にとっての最上のリズム・セクションがほかならぬ彼自身の左手であることを事実を以て証明した今となっては、今後の彼のレコーディングは必然的にピアノ・ソロとならざるを得ぬことをも自己体験的に確信したのではないだろうか。
 トリスターノがこのアルバムの録音を通じて目指したものは、言うところの”ジャズの形式”内に於ける最大限の自由の獲得であった。彼自身の言葉を借りて言うならば "stretching out in the forms"であり、トリスターノはそのピアノを駆使して与えられた枠内に於けるあらゆる可能性の探求に全力を傾注した。彼の欲したものが”完全なフリー”でなく”最大限のフリー”であったあたりは、現在のジャズの感覚から言えばいさゝか意外に響くかも知れないが、音楽理論家としてのトリスターノの在り方〜理想からすれば、これはこれで至極当然の帰結だということになるのかも知れない。
 いずれにしてもこのアルバムは、一時期のジャズ界を震撼させたレニー・トリスターノが、風雪を経たのちに残した孤高の一里塚として、繰り返し傾聴さるべき無限の内容を秘めた問題作である。

 レニー・トリスターノは1919年3月19日、シカゴに生まれた。幼少時、悪性のインフルエンザに罹患したゝめ早くより視力が弱く、28年頃からは文字通りの全盲となった。
 七歳頃より正式にピアノのレッスンを始めたが、ハイ・スクールを出る頃には、アルト、テナー、ギター、トランペット、ドラムと、驚くほど多種類の楽器をマスターしていたと言う。事実、ピアノに専念する様になる以前の彼はクラを吹いて自身のディキシーランド・グループをリードし、また幾つかのルンバ・バンドにも籍を置いてクラとテナーを持ち換えで担当していたと記されている。(校註;「吹いて」は、原文「吹いてて」)
 ハイ・スクールを終えてアメリカン・コンサーヴァトリー・オブ・ミュージックに入学を志望した時、周囲は法律か政治の道をとる様彼に勧めたが、音楽に賭ける彼の決意は固く、初志を曲げなかったばかりか、二年間の和声コースを僅か六週間で仕上げる天才ぶりを発揮したと言う。しかし三年でバチュラーを、一年で作曲部門のマスター・コースを終えるというスピード進学を果しながら、結局トリスターノは卒業証書を貰うことなく学校を去った。と言うのは学校側が通常期間分の授業料五百ドルを支払う様要求したのに対し、トリスターノの方は当時シカゴ周辺のギグで一晩わずか数ドルしか稼ぐことが出来なかったからである。
 しかしこうして稀に見る音楽の天分に恵まれたトリスターノではあったが、四十年代の中期にカクテル・ラウンジで弾いていた頃には、偉大なるジャズ・ミュ−ジシャンになろうなどという野心は殆ど無かったらしい。後年彼は自身が影響を受けたミュージシャンとして、ロイ・エルドリッジ、レスター、テディ・ウィルソン、チャーリー・クリスチャン、ビリー・カイルらの名を挙げているが、こうした選択にも形成期のトリスターノが極端な改革を志すピアニストではなかったであろう事実を暗示している。
 だが彼自身の意向がどうであれ、抜群の音楽的素養とアート・テータムに並ぶほどのテクニックを持ったピアニストを周囲が無視してしまう訳もなく、トリスターノは間もなくチュビー・ジャクソンの勧めを容れてニューヨークへ進出することになった。そして46年の10月に彼としては最初のレコーディングをキーノート・レーベルのために行なっているが、これはやがてSP三枚組のアルバムとして発売され、当時極めて点の辛かったメトロノーム誌上で絶賛を博した。
 しかしトリスターノの音楽が真にジャズの新しい方向を示唆するものとして一般に認められる様になったのは、49年の春にキャピトルのスタジオで行なわれたセクステットの演奏が世に出てからのことであった。このセッションでトリスターノと共演しているリー・コニッツ、ワーン・マーシュ、ビリー・バウアーらの当時いずれもトリスターノの理論に深く傾倒していた高弟達で、彼達があたかも六人のトリスターノの如く一丸となって織りなして行く長く厳しいメロディック・ラインは、黒人バッパー達の演奏とは完全に一線を画した新しいジャズの響きとして、当時のファンやミュージシャン達に衝撃を与えた。唯一つこれら一連のトリスターノの録音についての疑義を求めるとするならば、前にも述べた如くリズム・セクションに画一的なフォー・ビート――それもブラッシュでスネアーを正確に叩くだけという註文を出した点であろう。勿論これが当時のトリスターノの音楽にとって絶対不可欠のバック・グラウンドであったとすれば、それはそれで第三者の容喙すべき余地は全くなかった訳だが、ために聞き手は長い流麗なメロディック・ラインのもたらす絶えざる緊張に直面を余儀なくされ、傘下のミュージシャン達は余りにも外の音楽(パーカーらの演奏)との交流を絶った彼の在り方に次第に不自由さを感じることゝなったのである。

 かくして一度はトリスターノと一心同体の如き存在であったリー・コニッツが、より幅広い活動を目指して師を離れ、一方トリスターノの方では依然として固く彼自身の城門を閉ざしたまゝ、いつしかジャズ界の趨勢はこの盲目の天才を遠く隔絶した立場に置きざりにしてしまったが、このアルバムはそうした一人の理想家があらゆる妥協を拒否した後に辿りついた究極の姿を映しだしたものとして誠に感銘深いものを内蔵していると言わねばなるまい。しかも今後のトリスターノのレコーディングが再び三度びソロの形式で行なわれるであろうことを思えば、この一枚はまたその価値ある第一作ということにもなるのであろうから……。
(校註;「置きざり」の原文は「追きざり」)


→粟村政昭
→ジャズの聞こえる喫茶室

→村のホームページ