Charlie Christian Memorial Album (CBS Sony SOPZ 4〜6)


チャーリー・クリスチャン・メモリアル・アルバム/解説:粟村 政昭

 チャーリー・クリスチャンは1916年Texas州Dallasで生まれ、1942年3月2日、肺結核のため New York Staten Island の Seaview Sanitarium で死んだ。享年わずか25才であった。

 はじめにその楽歴を記しておく。

 チャーリー・クリスチャンの父は盲目の音楽師で、ギターと唄の弾き語りに長じていたと言われる。また彼の四人の兄弟達もそれぞれ楽器を手にして居り、少なくともそのうちの二人は後にプロ入りしたと目されているから、クリスチャンの幼年時代は、こと音楽に関する限り可成り恵まれた環境にあったと見做せるかも知れない。
 1921年にクリスチャンの一家は幼いチャーリーを連れてオクラホマ市へ移住したが、そこでクリスチャンはまずトランペットを習得。次いで12才頃よりギターに専念する様になったが、その傍らベースやピアノまでマスターして、実際にそれらの楽器で仕事をしたと文献には記されている。ただし三十年代のはじめに兄のバンドThe Jolly Jugglers で働いていた当時は、この他にタップ・ダンサー、シンガー、野球選手、プライズ・ファイターの職まで兼ねたと言われているから、プロ入り当座のクリスチャンの万能楽士ぶりについてはどこまで高く評価してよいものやら筆者には判らない。ただ38年に彼が楽旅を共にしたAl Trent のバンド(ここでクリスチャンはギターとベースを担当した)は、識者にはつとに知られた幻の名バンドで、Sy Oliver、Peanuts Holland、Henry Bridges といった名手達が新旧のトレント楽団を去来している。
 このほか三十年代にクリスチャンが籍を置いたテリトリー・バンドとしてAnna Mae Winburn、James Simpson、Leslie Sheffield といった諸々のローカル・グループの名が記されているが、いずれもクリスチャン故に今に名前の残ったバンドばかりで、勿論一聴すべきレコードも残されていない。
 しかしこうした地味な演奏歴しかなかったにも拘らず、三十年代の終わりになると驚異の新人としてのクリスチャンの名はサウスウエストの全域に広まって居り、テディ・ウイルソン、ノーマ・ティーガーデン、メリー・ルウ・ウイリアムスといった著名なミュージシャンが屡々彼のギターの素晴らしさを口にする様になった。
 そして39年の夏、今ではいささか言い古されたエピソードながら、彼クリスチャンにとって決定的な飛躍のきっかけとなる幸運が東方から訪れて来た。即ち三十年代を通じて最高のプロデューサーであり、タレント・スカウトであり、同時にベニー・グッドマンの良き助言者でもあったジョン・ハモンド氏(彼は後にBGの義兄となった)が、メリー・ルウ・ウイリアムスの話を聞いてクリスチャンに興味を持ち、カリフォルニアへ向かう予定を変更してオクラホマ市に立ち寄ったのである。この時クリスチャンが加わっていた小バンドは、彼自身のギターを除けば殆ど聞くべきものもない文字通りの田舎バンドだったが、ハモンド氏の慧眼は直ちにクリスチャンの偉才を見抜き、そのまま彼を滞同してロスのグッドマンの許へ向かうという急転直下の引抜き劇となった。
 当時のグッドマン楽団はと言えば、依然としてキング・オブ・スイングの盤石の人気を誇ってはいたものの、既にテディ・ウイルソン、ハリー・ジェームス、ジーン・クルーパといった花形ソロイストはなく、バンドの内幕は彼等に代わるべき強力なアトラクションの存在を絶対に必要としていた。ハモンド氏の行動も無論このあたりの事情を考慮に入れてのものであった訳だが、色々と難問山積して頭の痛かったBGは、ハモンド氏が連れて来たCountry Hick と古ぼけたギター・ケースにはさっぱり興味を示さず、クリスチャンのオーディションはハナから暗礁に乗り上げた形で一頓挫を来たした。しかしあくまでもクリスチャンの採用を期するハモンド氏は、BGの出演が決定していたVictor Hugo'sのオープニング・ナイトを狙い、ベーシストのアーティ・バーンシュタインと謀ってクリスチャンを台所から潜入させ、そのままインターミッションのステージに上げてアンプをセットさせた。あわただしい夕食から戻って来たBGはステージの上にクリスチャンの姿を認めても殊更表情を変えなかった由だが、やがて「ローズ・ルーム」が始まった時、舞台袖に居たハモンド氏は思わずクリスチャンがコード・チェンジを知っているように祈ったと言う。
 しかしこうした気毒なまでの楽屋裏の工作と苛立ちも、やがてクリスチャンにソロ・オーダーが廻った途端、すべては全くの杞憂と化した。当初3分間の予定で始まった「ローズ・ルーム」は延々と続くクリスチャンのソロとこれを受けて立ったBGの熱演に遂に45分間の長きに及び、食事を中止した聴衆達は次々にステージの前につめかけて、この新しいスター誕生に祝福を送ったからである。
 かくしてクリスチャンは、BGバンドがVictor Hugo'sに出演中に早くも契約が出来てレギュラー・メンバーとなり、9月にはバンドと共に憧れの土地ニューヨークに第一歩を記す幸運を掴んだ。この年の10月6日に行なわれた第2回目のカーネギー・ホール・コンサートに於いて、リーダーBGは次の様な言葉でクリスチャンを紹介している。
 "………our new discovery, Charles Christian on the electric guitar………I really think is one of the most terrific musicians that's been produced in years."(注1)

 このコンサートに先立つ4日前の10月2日にクリスチャンはBGセクステットの一員としての最初のレコーディングに参加しているが、レコーディングの場に於いてはともかく、実際のステージ出演に際してはフルバンドの方のギターは従前通り Arnold Covarrubias が弾いて居り、クリスチャンが全面的にギターの椅子に座る様になったのは40年3月19日のCocoanut Grove出演の際からだと言われている(もっともBGはこのあと間もなく George Rose という人をバンド・ギタリストとして傭ったという説もあるが、レコーディングには加わっていないので真偽の程はさだかではない。またこれ以降のフルバンドの録音に際してはクリスチャンとMike Bryanが交代に参加しているので、いずれにしてもフルバンド演奏に於けるクリスチャンの存在を明確にするのは今となっては仲々困難な仕事であろう)。
 しかしグッドマン傘下に於けるクリスチャンの役柄がいかようなものであったにせよ、セクステット並びにセプテットの一員として残した名演の数々は本アルバム添付のディスコグラフィーにても明らかな如く、次から次へとレコード化されて当時のジャズ・ファン達を熱狂させた。そして40年の7月にグッドマンが坐骨神経痛の手術のためにバンドを解散した際にも、彼はジギー・エルマンやハンプトンと共にサラリーを貰いながらリーダーの復帰を待つという破格の好待遇に浴している。
 はっきりした記録はないが、クリスチャンがミントンズ・プレイハウスに於ける新しい試みの中心人物としてアフター・アワーのジャム・セッションに熱中する様になったきっかけは、恐らくはこの有給休暇の頃に始まるのではないだろうか(ミントンズ・プレイハウスの開店はこの年の10月と言われている)。ミントンズで録音されたクリスチャンの演奏に関してはこの稿の枠をはずれると思うので改めて紹介はしないが、当時の僚友ケニ―・クラークの思い出話によれば、クリスチャンは二つのアンプの内の一つを常にミントンズ・ハウスに置き放しにしていたと言う。そしてその伝説を秘めたクリスチャンのアンプは今も当時の建物の一隅に眠っている筈だとクラークは付け加えている。
 話がいささかノスタルジックになってしまったが、10月にグッドマンが病癒えてジャズ界に復帰するとクリスチャンは再び迎えられて行を共にし、本アルバムの後半に聞かれる古典的な名演を次々に録音し続けた。
 しかしやがて中西部への楽旅中に肺結核の症状が表面化し、41年 6月 Bellevue Hospital へ送られて診断を受け、間もなく冒頭に記した Staten Island のサナトリュームに移されたまま、再度ジャズ界に姿を見せることなく25才の短かい生涯を終えたのであった。恐らくは病気に対する無知識と日頃の不節制が病状の悪化に拍車をかけたのであろうが、彼より 2才若くして同じく42年の7月に世を去ったジミー・ブラントンと共に、四十年代初めの激動するジャズ界は、史上最も偉大なミュージシャンの二人を、束の間の光芒の裡に見失なったのであった。

 ギタリストとしてのクリスチャンに最も大きな影響を与えた先人ジャズメンは Eddie Durham と Jim Daddy Walker の二人であったと言われる。このうちエディ・ダーハムは最も早く電気ギターを手にしたミュージシャンの一人として有名だが、ジム・ダディ・ウォーカーの方はJulia Leeキャピトル・セッションに加わったという以外は殆ど華やかな話題とは無縁に過ごしたアンダーレイティッド・ミュージシャンであった。ウォーカーは、タルサを拠点として南西部や太平洋岸を巡演していたClarence Loveコンボのレギュラー・ギタリストであったが、このバンドがカンサス・シティに出演していた頃にはレスター・ヤングやジョー・スミスもサイドマンとして働いたというから、可成りレヴェルの高い演奏をやっていたのではないかと推測される。
 しかしいずれにしてもハイ・ティーン時代のクリスチャンの奏法にこれら先人達の影響を投影して考えることは、証拠となるべき(クリスチャンの)レコードが全く存在しない以上、あらゆる面で不可能である。従ってここでは、18才になった当時のクリスチャンが既に電気ギターに持ち換えてサックスを思わせる様なフレージングで弾いていた――という目撃談あるいは伝説みたいなものを容認しておくだけで充分かと思われる。ただしエディ・ダーハムがランスフォード楽団に加わって弾いた「Avalon」(1935年9月録音)のブレークが本アルバム中の「Gilly」で再現されたり、Floyd Smith のスチール・ギターを思わせる三弦コードのソロが「Stardust」で顔を出すあたりの面白さは、クリスチャンのバックグラウンドを探らんとする研究家にとってはこたえられない絶好の資料となろう。
 だがいずれにしても、チャーリー・クリスチャンが出現するまで、ソロ楽器としてのギターがバンドの中で果す役割は極めて限られたものに過ぎなかった。勿論クリスチャン以前のギタリストの中にも名を成した巨匠は幾人かあったが、何と言っても音量的な意味でブラスやサックスと対等に張り合う訳にはいかなかったからである。スイング・イーラを通じて最良のギター奏者の一人に数えられていたアル・ケイシーにしてからが、渋好みのファンを唸らす程度の範囲でしかソロをとるチャンスには恵まれていない。勿論、ジャンゴ・ラインハルトという偉大なる例外はあった。しかしジャンゴの場合、その活躍の舞台がヨーロッパであったということと、彼の加わったグループは常に彼自身のギターを中心に組まれていたという事実によって他と同列に論ずることは出来まいかと思う。
 こうしたハンディを解消する有効な手段として、やがて三十年代後半のギタリスト達はエレクトリック・ギターに着目する様になったが、そのパイオニア的存在として我々は、前記エディ・ダーハムと Leonard Mare、それにフロイド・スミスといった人々の名を記憶しておくべきであろう。
 しかし、電気ギターと生ギターの差――勿論この場合、バンドの中に於ける楽器としての比重を指す訳だが――が、単なる音量上、音質上の相違によってのみ生まれるものとすれば、のちにアンプをつけて弾く様になったアル・ケイシーは旧に倍する盛名を得たであろうし、エディ・ダーハムはクリスチャンに一歩先んじてジャズ・ギターの解放者としての道を歩んだに違いない。ここに我々は楽器自体の性能や技術以前の問題として、クリスチャンが持っていたインプロヴァイザーとしての無限の才能とその革新性を認めるのである。 

 ジャズマンとしてのクリスチャンのルートはブルースにあった。しかし現実の演奏にあたって物を言ったのは、むしろ彼の持っていたリフ・メイカーとしての抜群の才能であったに違いない。例えば本アルバムの第6面に収録された「Waitin' For Benny」は、題名からも推察される如く、リーダー・グッドマンの到着を待つ間のウォーミング・アップ的演奏だが、ここでクリスチャンによって提示された最初のリフが様々に変化して、最後に出来上がったものが同日吹込みの「A Smo-o-o-oth One」のテーマになってしまうあたりの成り行きは、フォーマルなスタジオ録音のテイクのみからでは想像もつかない<Birth Of A Masterpiece>の内幕である。かかる興味深々たる記録がよくも消されずに残っていたものと感心するほかないが、こうしたBGセクステットに対するコンポーザーとしての寄与もさることながら、もっと根本的な意味でクリスチャンは彼自身のソロを強固なリフによって性格づけていた。即ちリフの連続によって惹き起こされたテンションが、続くメロディック・ラインによって緩和され、あるいは持続される――クリスチャンはこうした<緊張>と<寛ぎ>をソロ・コーラスの中に巧みに配置することによって彼自身のパートを常に精彩あらしめていたのである。
 勿論こうしたユニーク且つ有効なコンセプションは、あらゆる楽器を含めて同時代のミュージシャン達に広く影響を与えたが、それとはまた別に、当のクリスチャンをして<スイングからモダンへの移行期に現われた最初の強力な指導者>たらしめた要因は、メロディーとハーモニーの両面に於ける、時代に先駆けた斬新な感覚であった。
 即ち――クリスチャンは原曲のハーモニーに盲従することなく、パッシング・コードに基いてアドリブを行なったが、これは同時代の他のソロイスト達の誰もが立ち入ったことのない未知の領域であった。同時に彼はレガートを重視し、あたかもサックスを思わせる独自のフレージングによって従来のギター・ソロに対する概念を塗り変えたが、等価8分音符の連続する長いフレーズは、後にパーカーによって確立されたビートの細分化に対する先駆的感覚としても注目に値しよう。加えて「Blues In B」や「Airmail Special」に於いて明瞭に聞かれるオフ・ビート・アクセントの使用は、彼が疑いもなく、来たるべきバップ時代への架け橋的存在であった事実を示していた。
 これらを綜合し、更には本アルバム中、最も初期の吹込みに属する「Seven Come Eleven」(39年11月録音)に於けるバップ臭濃厚なフレージングを耳にすると、前記ミントンズ・プレイハウスに於ける不朽のジャム・セッションの成果を待つまでもなく、モダン・エイジへの重い扉がこの運命のギタリストによって開かれたという主張を認めざるを得まい。これはクリスチャンと並んで次代のミュージシャンのインスピレーションの源泉となったレスターやロイ・エルドリッジが終生自身としては革命を意識せず、スイング時代の耳慣れたリズムとハーモニーの世界に安住していた姿とは正に対照的であった。
 しかしその惜しまれる夭折の時点に於いて、未だクリスチャンがバッパーと呼ばれるほどの自己改革を成し遂げていなかったこともまた事実であった。上述の如くクリスチャンはBGセクステットが吹込んだ幾つかのオリジナルや自作のリフ曲に於いて屡々従来のスイング・ジャズの定石を破ってはみせたが、「I Surrender Dear」の如きバラードでは、メロディーに密着した地点でソロを構築するというスイング時代の典型的なアプローチの一つを踏襲しているし、スタジオ吹込みの「Stardust」と前記カーネギー・ホール・コンサートに於ける同曲のソロが殆ど同じ内容という、やや期待を裏切った一例をも残している。勿論こうした結果に対する好意的な解釈はいくらでも可能だし、また筆者としてもこれをクリスチャンに対する不満として採り上げている積りは毛頭ないが、四十年代後期に於けるバッパー達の演奏姿勢と比べれば(結果に対する評価は別として)、そこになんらかの差異のあることは認められるべきかと思う。

 しかし改革を目指しつつ、その行為の半ばに斃れたとは言え、チャーリー・クリスチャンは、はかり知れないほど多くの示唆を後進達のために残した。極言と恐れるまでもなく、クリスチャン以降に現われた無数のギタリスト達はことごとくその下流に立ち、それぞれの立場で彼を模倣した。曰く、タイニー・グライムス、オスカー・ムーア、レモ・パーミエリ、チャック・ウエイン、アーヴィング・アシュビー、ビル・デアランゴ、バーニー・ケッセルといった人々は、程度の差こそあれすべてクリスチャンの傘下より育ち巣立ったギタリストであった。そしてまた彼等に続くジミー・レイニー、ビリー・バウァー、ジョニー・スミス、タル・ファーロー、ジム・ホール、ハーブ・エリスといった名手達の活躍も、クリスチャンの遺産なくしては全く異なった形をとっていたに違いない。

 筆者は今なおジャズ史上最高最大のギタリストはチャーリー・クリスチャンであると確信しているが、この意見がノスタルジアを混えた一愛好家の妄言ではないことを、本アルバムに収められた珠玉の名演が雄弁に証明してくれる筈である。
 スイング時代のスタジオ録音が許した短かいギター・ソロの一節々々の中に、クリスチャンは無限の可能性を秘めて我々に語りかけている。

粟 村 政 昭

<註> チャーリー・クリスチャンの生年に関しては、これまで1919年とされていたが、ここでは John Chilton 氏の労作「Who's Who Of Jazz」に準拠して1916年とした。また同書によれば、ジミー・ブラントンの生年も1918年とされて居り(通説では1921年)、この点から考えてもクリスチャンの1916年が1919年のミスプリントでないことは明らかである。

(注1)「musicians」の原文は「musicicians」


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