久保田塾
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ここは私(久保田實)のつぶやきのページです。
お暇な折りにちょいと覗いてみて下さい。


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2006年

◎11月9日(金)
先日テレビで、公立小学校の先生の再指導という話題を取り上げていた。
私が見た番組では、ベテラン教師が、若手教師の授業を実際に参観しながら
えんま帳のようなものに色々気づいた点を書き留めて
授業後に気付いた事をアドバイスしていくという取り組みを紹介していた。

番組で放送されていたのは次の二点だった。
(1)チョークが短いからきれいな字が書けなかった先生への注意。
ベテラン教師からのアドバイス「事前に長いチョークを用意しなさい。」
(2) 音読で間違え、他の生徒から失笑が起こった時の、間違えた生徒へのフォローをしなかった先生への注意。
ベテラン教師からのアドバイス「その場で『君も頑張ったんだよね』と肩でも叩きながら励ましなさい。」

見ていて違和感を覚えたのは私がへそ曲がりだから?
(1)については、物を大事にするのを教えるのも大切だから、小さいチョークでもきちんと板書できるように練習しろと言うべきでないのか。
(2)については、むしろ、間違えを指摘した生徒を褒め、間違えた生徒にも「この字は○○と読むんだよ。他にも読めなかった子はノートに書いておけ。」と言えば良いのでないか。
もし既習事項の漢字だったら、何年生の時に習っているね、とか、この教科書の何ページで勉強した字だねとか具体的に話して、今日こそしっかり覚えろよと話せば良いのでないか。
努力して覚えた生徒と、努力を怠り知識に欠けた生徒を同列に扱うのも良し悪しだと思う。
ベテラン教師は、こうした事がいじめにつながるのだと、誇らしげに語っていたが、できないのに変に贔屓されるのもいじめの原因になる気もする。
注意された生徒が傷つかないようにというのがベテラン教師が言いたかった事なのだろうが、表面的な配慮にしか思えなかった。

むしろ、これ見よがしに、大きなえんま帳を両手で持って
授業中の教室を複数のベテラン教師が徘徊する事自体が
その授業を担当している先生への相当な圧力になるのでは、と感じた。
要は、生徒がどう受け止めるかという事だ。
思慮ある先生なら、せめて後ろから参観するといった形で
なるべく授業に支障の出ないように対応するのではないのか。

この指導の仕方に限らず、
教育現場は想像力に欠けていると思う。
とにかく、生徒の気持ちを想像する。
これが何より大切だと思う。

そして、生徒が教科の具体的な学習内容をどこまで理解しているか
どう理解しているか
これを想像できるかが一番のポイントだと思う。

学校授業では、知力以外の部分にも様々な配慮をしなければならないと思うが
塾では、何と言ってもまず学習内容の理解についての想像が必要とされる。

先日も、小学3年生のお母さんが
「あれほどやったのに、うちの子、分数が全く理解できてないんです。どうしましょう。」と嘆いていた。

どうなっているのかと学習内容を見てみたら
円を与えられ、その中にいろいろな分数(真分数)の量を書き込みましょうという課題だった。
その子は、1/5(5分の1)を示すのに、まず円を2等分し
その一方を2つに切って、その一つをまた2等分して、ひとつを塗りつぶしていた。
前回の授業では、1の線分図を使って、分数の考え方を示しながら
いろいろな真分数を具体的に図示していく勉強をしたのだが、
飲み込みも良く、後半では全く間違える事がなかった。

ではなぜ一週間でできなくなってしまったのだろう。

だが、しばらく授業したら、原因がすぐ分かった。
その生徒は、分数の事はきちんと理解していたのだが、
円を5等分する術を知らなかったのだ。
まだ角度の勉強をしていない子に、なぜ円で分数を示させるのだろう。
それは、その子の通う、ある中小塾から出された課題だった。
正直言って、その塾に若干の不信感を抱いてしまった。
定規と直線でできることをなぜ円でやるのか。
チーズケーキでもイメージさせようと思ったのか。
ならば、せめて羊羹を使えよ。
ここでも、想像力の欠如があるように思った。

とりあえず、4等分と5等分では、一あたりは、どっちが小さい?
と言う問いかけから、なんとか1/5を示させる事はできたけれど、
本来の分数の学習とは少しずれてしまった様な気もした。
お母さんには、分数自体が理解できていないと映ってしまっていた。
プロの講師でも、「この子は努力が足りない」と断じてしまう人もいるような気がする。

想像力をさらに研ぎ澄ませていきたい。

 


◎9月28日(木)
先日、出光美術館(日比谷)で久しぶりに宗達・光琳を見てきた。
この前は、ボストン美術館展の
光琳の松島屏風図に圧倒されてきたが、


今回は宗達の風神雷神屏風図に打ちのめされてきた。


松島図にしても、風神雷神図にしても、
17世紀前期に活躍した宗達の作品を
17世紀後期の光琳が一人見つけだし、模写して学んだことが知られている。
松島図については、光琳は宗達のものを大きく変容させているが
風神雷神図については、ほとんど原図をなぞっている。
ただし、目の表情など、意識的に変えている部分も少なくはないが。

この違いは、模写した年代による差なのかもしれないが、
風神雷神図については、変えようのない迫力を光琳自身が感じ取ったのであろうか。

光琳の松島図の前では、息が止まるほど感動し
小一時間もたたずんでいた。
このインスピレーションを与えたということだけで宗達に感謝してしまった。

一方、今回の風神雷神図では、ひたすら宗達の偉業に打たれた。
風神の左足など、明らかに異常な構図なのだが、
やはり「動」の感じがここからも生まれている様に思うので
この異常さも意識的なものかと思う。
描きなぐった様な腹の感じなど、同時に展示してあったムンクの筆致すら思い浮かべてしまった。
全くの独学でここまで来たのかと思うと、
教育とは何なのかと思ってしまう。

宗達が風神雷神図を作り上げた力
光琳が宗達の松島図を見て、自らの松島図を作り上げた力
これらの力は決して教育が授けたものではない気がする。

とは言え、彼らに絵の具の使い方を手ほどきしたした人間は必ずいたはずだ。
誰がどのように手ほどきしても、
宗達、光琳のような人は余人の及ばぬ高みに至れるのかもしれないが
その手ほどきが必要であった事もまた確かな事実と思う。

そうしたことを感じながら、今日もしっかりと「手ほどき」をしていこう。

さらには、独学、自学ということの価値をより深く意識していきたいと感じてもいる。

 

 



◎9月16日(土)
私は宗教のことはよく分からない。
民族についても同様だ。
たまたま日本という国に生を受け
日本語を母国語として育ってきた。

もう10年以上前のことだが、
ケアンズのナイトマーケットで
アボリジニの即興演奏家たちと遭遇した。
その時、そこに置いてあったタンバリンを無意識に取り
一緒に演奏に加わった時、
バンドリーダーらしき男がくれた微笑みを今でも覚えている。
その時、私は、日本人であることを忘れ、アボリジニとして
オーストラリアの一隅に白人社会とは異質の空間を生きる
彼らの一員であるような錯覚を覚えた。

私は、私としてここにある。
もはやそれ以上を望むものではない。

甚だ高踏的な出だしだが、
最近のニュースをにぎわしている
デリケートな話題について触れたいから
刺激的にならないように気を配っているだけだ。

ある家庭の会話を想像してしまった。

娘(一人っ子)「ねえママ、私が女の子に生まれてきてゴメンね」
母「え、何のこと?」
娘「叔父様のところには男の子ができたからみんなで大騒ぎしているでしょう?
  叔母様のことをみんなが褒め称えているは。
  ママずっと苦しそうだった。
  ママも私が男の子だったら、こんなに苦しまなくて済んだんでしょう?
  みんながママのこと悪く言ってるの知ってるのよ。」
母「そんなことないは。
  あなたは私のかけがえのない唯一の宝よ。
  みんなだって、叔母様にも私にも同じように親しくしてくれているはよ。」
娘「ウソ!親戚の人も近所の人も、みんな今は叔母様のことばかり話しているは。
  ママ、ゴメンね。私が女の子で。」

以前、塾の講師をしていた頃、
受験校選びの面談で、あるお母さまが次のように発言された。
「うちは社宅にいるんですけど、今、この学校より下の方は一人もいないんです。
だから、うちの娘もこの学校より下の学校は受けません。」
その学校は、彼女の成績ではとうてい届かない学校だった。
子供を自分の道具の様に思っている態度に唖然とした。

だが、これと同様の、子供の道具化が公然と行われている。

私は宗教のことも民族のことも分からないが
子供の気持ちだけは分かるような気がしている。
道具とされた子供たちは、好ましい子も
好ましくないと思われている子も
同様に人権を踏みにじられている気がしてならない。

さっき想像した会話があり得ない事なら嬉しい。
せめて、私の関わる生徒たちには、そのような心の痛みを与えたくない。

東条英機についても同様。
彼の負の遺産だけではなく、
ABCD包囲網に対する見解なども吟味する必要があると思う。
南京虐殺のことばかり取りざたされているが、
東京や広島や長崎やドレスデンへの大量破壊行為は
明らかに民間人を殺傷することを目的とした虐殺行為だったと思う。
それは犯罪ではないのか。

国家の利益の為に、いろいろな形で人権が侵害されているような気がしてならない。

 

 

◎8月8日(火)
毎年この時期になると必ず原爆のことがニュースで取り上げられる。
その目的は平和を守るため、戦争の悲劇を繰り返さない為ということになっているが、
だが、2つの意味で、今既にもうこの世界は平和ではない。

一つ目は、この日本の日常に溢れる程になってしまった考えられないような殺人の数々によって象徴される平和の崩壊。
親殺し、子殺しについて、改めて具体的に述べなくても
今日伝えられた千葉の事件、そして今も話題の秋田の事件が証している。
また、大人の無責任による、市営プールでの未必の故意の殺人も。

二つ目は、レバノンの今の状況が示す平和の崩壊。
国家間の目先の利害での平和の崩壊は、日朝間には顕在化してしまった。

ジダンの頭突き事件ですら、その真相は未だに藪の中の状態だ。
「同じ人間同士だから」というのは、やはり幻想なのだろうか。

既に平和でない世界を、いったい誰がどうしていくのだろう。
私はとりあえず、目の前に現れる子供たちに真摯に相対し、
彼ら彼女らが、明日の世界を少しでも改善していける人間になれる様に力添えするだけ。

 


◎8月4日(金)
まだヴォランティアという言葉がこれほどもてはやされていなかった頃
すでにその精神を実践していた大学生が横浜にいた。
もう何十年も前の話だ。
その彼が今も変わらずその心持ちを維持しているのを知って嬉しかった。


私も必要に迫られ、昨年は物理を学び直した。
今年もまた復習しておこうか
ふと、そんな気持ちになった。

ありがとう、村上ちゃん。

この夏もたくさんの子供たちが
汗だけではなく
知恵も絞り出している。

単に彼ら彼女らの手助けの為にとどまらず
自分の内世界を拡げるという気持ちで
私自身も学びを続けていきたい。


以下、北海道新聞のサイトからの引用
(リンク切れの対策で転載してあります。)
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「物理学の息吹」触れて 故都筑教授記念室、札幌に   2006/08/03 08:10
 ベストセラー「四次元の世界」をはじめ、一般向けの物理学解説書や科学エッセーで親しまれた故都筑卓司・横浜市立大名誉教授の教え子が、札幌市内の自宅に恩師の記念室を開いた。蔵書や研究ノートのほか、旅行好きだった故人の旅のコレクションも展示。「学者の息遣いと物理の魅力を感じて」と話している。

 都筑さんは一九二八年、浜松市生まれ。東京文理科大(現筑波大)でノーベル賞物理学者の朝永振一郎氏に師事。相対性理論などを数式を使わずに説く科学読み物を多数執筆、講談社ブルーバックス版は累計三百万部を超え、読み継がれている。

 教え子は東区のパソコンコンサルタント村上博行さん。遠軽高校時代に都筑さんの著作に魅せられ、横浜市立大へ。「ボランティア活動に没頭し、不肖の生徒でした」。卒業から二十年以上たった二○○二年秋、交通事故で勤めを辞めたのを機に無性に恩師に会いたくなり、連絡を取ろうとして七月に死去したのを知った。遺族を訪ねた際、書斎を処分すると聞いて記念室開設を申し出た。

 記念室はアパートの六畳間。遺品の机や書棚を並べ、膨大な資料を三年がかりで整理して今春、開館した。「南極で犬が北を向いたら尾は?」など物理クイズのアイデアが書かれた手帳などのほか、旅先で集めた二百五十本ものネクタイや切手、紙幣も展示する。

 「『巨人の星』の大リーグボール2号で量子力学を説く先生は、物理学の語り部だった」という村上さんは、若者の物理離れを惜しむ。「物理は物事の根本を考える学問。先生の息吹に触れてぜひ、著書の一冊も開いて」と願っている。

 記念室は東区本町二の四。無料。日曜開館。平日の訪問は要予約。
 問い合わせは記念室(電)011・784・0909。

 


◎7月10日(月)
ジダンが発作的に怒りを爆発させた。
その原因について世界が関心を寄せているが
フランスからもイタリアからも何も情報は伝わってこない。

北朝鮮のミサイル発射も何が原因か、今ひとつ明確な説明は為されていない。

片や世界的な英雄、片や世界的なわがままもの
同じ次元で語っては失礼かもしれないが、
真相を知りたいという事では、同じくらいのレベルだ。

「言わぬが花」という言葉があるが、
真相を知るものだけが特権者のようになるのはいけないと思う。
「言わなくても分かるよな」というのも
聞きようによっては馬鹿にした言い方に聞こえる。

私はどちらについても真相が知りたい。
いつか分かるよとも言ってられない。
なぜなら、世界には不明なまま葬られてしまった真相が少なくないからだ。

例えばケネディ暗殺の真相。

横田めぐみさんを初めとする、拉致被害者の方々についての詳細な経緯と
その償いについても不明なままだ。

ミサイルや頭突きについては
まだ今なら当事者たちが生きている。
鉄を熱いうちに打って欲しいと思っている。

 


◎7月6日(木)
これだけつぶやかないと
「ご活躍なんですね」とか
「お忙しいんですね」とか
「さびしいです」なんてのまで
とにかく、何かつぶやけ!という、励まし(?)の連絡を頂く。
こんなちっぽけな塾の独りよがりの塾長に対し
少しは関心を寄せてくれている方がいるのかと思うと
世の中まだ捨てたもんじゃないと感じる。
嬉しい。

ただ、いざつぶやこうと思うと、世の中まだまだ暗いニュースが多い。
多いなんてもんじゃない、あふれている。

個人的なレベルなら嬉しいニュースが多い。

その一つ、バンド活動の再開。

中高時代の同窓生から突然
「 バンドやるけど入んない?」というメールが来た。
で、先日、顔合わせを兼ね、セッションしてきた。
久々のバンドは楽しかった。
ブルースとかジョージアオンマイマインドとか
当たり障りのない曲目だったが、合わせているだけで楽しかった。
中には高校卒業以来のメンバーもいたので
数十年ぶりの再会となるのもいたが
昨日の続きのような感じでセッションできた。
在学中はそれほど親しくなかったはずなのに、今会っても気が置けない。
やはり中学高校時代は大事な節目だったのだなと痛感した。

セッション終了後は呑み会と思いきや
「俺、医者から酒止められてる」とか言うのがいて
喫茶店でパフェを食いながらの世間話になった。
その話も興味深かった。
話題は、同級生たちの現況についてだ。
それなりの進学校だったからかもしれないが
同窓生たちの現在はそうそうたるものが多かった。
だが、今自分の周りにいるのは、私を始め、変わり者ばかりだった。
いわゆる「出世」をした者は一人もいない。
皆お気楽に毎日を送っている奴ばかりだ。
類は友を呼ぶのだなと実感した。
それがおかしかった。

その一方で、既に亡くなっている者も少なくないと知ってショックだった。

もっとショックだったのは、その半数以上が自殺だったことだ。
その一人は、私の高一時代、席を並べていた者だった。
成績(中途半端に)優秀で、ギリギリで文一を狙える奴だった。
「久保田、おまえ将来、何やるんだ?」と聞かれて
「そうだな、今は美学なんかに興味がある」と答えたら
こいつアホか。みたいな目で見られたのを覚えている。
以来、そいつから、進学についての話題を振られた事は一度もない。
趣味嗜好は全く共通点がなかったにもかかわらず
その一年もとても楽しかったのを覚えている。
だからそいつだって全く悪い奴じゃない。
いや、真面目な良い奴だった。
中三までの3年間、高二からの2年間、
クラスが違う間は一度も会話していなかったかもしれない。
だが彼の、度のきつい眼鏡の奥の眼差しは今もはっきり思い出せる。
少なくとも私よりはいつも上位の成績で
きっとその後の進路だって、世間から見たら悪くないものだったろうに・・・・・

次の練習は今月末だ。
課題曲のCDromをたくさんもらってきている。
私は淡々と一曲ずつこなしていく。
高校生の時もこうやって曲を覚えていったな〜と思い出す。
心が高校時代に戻っている。
そのせいか、この頃、毎日がなぜか楽しい。

 

◎5月28日(日)
百聞は一見にしかず
とは至言なり。
金曜の「つぶやき」で触れた
今日の武満作品の演奏会の感想だ。
「カシオペア」「アステリズム」「ジェモー」の3作品が演奏された。
いずれもCDでは何度か聴いていた作品だったが、
生演奏で聴くのは初めて。
CDで聴く限り、
「アステリズム」は無限の宇宙を感じさせるような奥深い作品だと思っていた。
「ジェモー」も2つのオーケストラを要するという破天荒な企画の作品で
さぞ斬新な響きなのではと期待していた。

前から3列目で、ステージに近すぎたのかもしれないが
どちらの作品にも大きな満足は与えてもらえなかった。
指揮者や演奏者の問題ではない。
作品そのものに力がないのが伝わってきた。
耳触り(?)の良い響きが脈歴薄く羅列されていくだけのような印象だった。
私自身が老化したのだろうか。
いや、そんなことはない。
オーケストラから新鮮な響きを引き出す風を装いながら
オーケストラそのものの因襲には手を付けずにいる態度に不満を覚えてしまったのだ。
オーケストラは20世紀で終わったのか。

ここまで書きながら、オーケストラという言葉を
そのまま公教育と置き換えたらどうだろうと感じてしまった。
公教育を新鮮なものとしようとしながら
公教育そのものの因襲には手を付けずにいる現状。
公教育は20世紀で終わったのか。

そうそう、「カシオペア」はCDではそれほどの作品とは思っていなかったのが
ライブでは意外と面白かったのも発見だった。
(単に1曲目で、久しぶりの武満トーンを生で聴いただけの感動かもしれないが。)
それにしたって、この曲は打楽器奏者をソリストとする協奏曲なのだが、
いくら打楽器の名人芸だと言っても
記譜されたものの再現による響きは
例えばスティーブ・ガッドのような円熟のジャズプレイヤーの即興演奏に比べれば
パワーと創造力に欠けるものだった。

数百年の歴史を持つオーケストラという形態が公教育
20世紀の産物だと思われる即興演奏主体のバンドという形態が私塾教育
ふと今、そんな思いがよぎった。

もはやオペラハウスに何ら新しいレパートリーが定着しなくなって久しいが
それはオーケストラ演奏会についても同様なのかもしれない。
いや、でもそう考えると、実はジャズバンドにも何ら新しいものは生まれていないぞ。
何かひょっとしたら、今は大変な時代なのかもしれない。

 

 

 

◎5月26日(金)
なかなかできない体験というのがある。
ゲーテは「第9」を聞くために山越えをしたと
昔、何かで読んだ記憶がある。
私も武満の「アステリズム」と「ジェモー」という貴重なオーケストラ作品を聞く為に
今度の日曜に出かける。
山越えなどしなくてよい。
電車に数十分乗るだけでよい。
大変不遜な言い方だが、晩年の武満作品には共感できない。
私の好みではピークは「グリーン」(1967年)とか「アステリズム」(1968年)あたりだ。
70年代に入って、「カシオペア」(1971年)などはどこかダレを感じてしまう。
しかし、いわゆる「タケミツトーン」に満ちているのは言うまでもないが。
それが、「鳥は星形の庭に降りる」(1977年)あたりから
「グリーン」の生硬さが取れたような優しい響きになったように感じた。
単に調性的になったということとは違う。
ジョイスのフィネガンズウェイクに触発されたと言われる
「リヴァラン」(1984年)は、南アジアの緩慢な民族音楽とは全く違うルーツから
同じような弛緩の世界を体現している。
この曲を聴いていると、
ガンジス川で仰向けになって浮遊しているような気になってくる。
まさにリヴァーランだ。
「ジェモー」は、1972年から1986年まで書き続けた作品とのこと。
第2の「弧」(1963年〜66年)と言った趣すら感じる。

最近は、カラオケボックスに誘われるようになり
何か自分も歌える曲をと思ってミスチルを聞きまくっていた。
とりあえず「抱きしめたい」をマスターした(つもりでいる)。
そうした音楽状況の中で、久しぶりに接する
武満ワールドがどう自分に響いてくるか、とても楽しみだ。

ところで、私は学校の音楽教育の中で、一度も武満について語られたことはなかった。
ではなぜ彼の音楽作品を知り得たのか。
それは中学時代の同級生からだった。
彼が、私が音楽好きであるのを知って
「こういう音楽もあるんだぜ」と貸してくれたのが
武満徹全集という5枚組のLPだった。
そういう友達は、やはり私立に行けたから出会えたのかと思う。
もし私が中学受験に失敗していたら
今頃はどんな人間になっていたのだろう。
ひょっとしたら、社会的にはもっとましな人間になっていたかも
などと思うこともある。

 

◎5月20日(土)
メールに返信していると、自分でも驚くような事を書くことがある。
つまり隠れた自分の発見という事だ。

先日も、今春の受験で、第一志望に進むことが叶わなかった生徒のお母様からのメールに返信していたら
自分で書きながら、ああそうなんだと思ったことがあった。
子供の近況報告を兼ねての、学校の様子を知らせていただいたメールだ。

個人の特定ができない範囲で引用させていただく。

以下、そのお母様への返信メールの一部。

> 参観日も○月○日にありましたが、学校にいくたび、先生方と話すたびに本当にこの学
> 校を選んで良かった、
> 6年間信頼して預けられる、と確信しています。

この言葉、私もとても嬉しく読ませてもらいました。
当初、受験の結果だけを見て、
彼女の指導で、何が不足だったのか、実は私なりに悩みもしました。
でも、やはり、大きな間違いはなかったと確信できました。
単にどれだけの合格を取らせたかではなく
どういう進学をさせられたか
また、進学後の姿勢をどんなものにできたかが大事なのだと感じました。

この部分は、半ば無意識に打って、打ちながら
「お〜」っと自分で感動してしまった。

そうか、自分のしている事はこういう事なのかと思ったという次第である。

 

 

◎4月1日(土)
今は春休みなので、普段、夜お邪魔している家庭教師生の家に
昼間出かけることもある。
昨日、通い慣れたお宅に伺うのに、前を通り過ぎてしまった。
夜伺う時は、シルエットで認識していたのだろう。
昼はこれに色彩など、より多くの情報が加わる。
また、明るい環境だと遠くまで見通せる。
すると距離感などにも影響が出る。
同じ道筋、同じ建物なのに違った印象になる。
そのために、夜の時間感覚で進んでいたら通り過ぎてしまったのだ。

問題に対するアプローチでも、少し見方を変えるだけで
問題の違った面が見えてきたりする。
色分けすると図形問題がとらえやすくなることもある。
ただし、度が過ぎると混乱することもあるが。

例えば濃度の問題ひとつでも
面積図、チャート、もう少し原始的な絵によるアプローチなど色々だ。
どの解法を使うかで、難易の印象がガラッと変わる。
どの問題で、どの解法を使えば良いか、
これは数多くの問題を解いて、経験を通じ、つかんで欲しい。
色彩情報が余計な惑いを生むように、
過剰な情報が問題の本質を見失わせることもある。
何が必要か、これをつかめるのが算数の一番の基本と言える。

 

◎3月23日(木)
「金で魂を売ったのか〜」
と宣った方が
実は自身が
目先の功名に魂を売っていたというのは、あまりにも皮肉な話。
いくら立派な学歴が在っても、これでは・・・・・

ああ、だが、これも他山の石
真摯に指導していかなくては
明日は我が身かも

佐藤栄学園のニュースもがっかり、
良い学校だと思っていただけに・・・・・

 

◎3月10日(金)
またお問い合わせが多くなる時期となった。
今年はさらに低学年のお子さんについての問い合わせが増えた。

そのため、教材チェックのため、久々に大型書店に出かけた。
「最レベ」ばかりが低学年用の教材でないと知った。
内容についてのコメントは、もうしばらく内容を吟味してからにしたいが
そもそも、数の多さ自体に時の流れを感じた。
少子化とは言え、中学受験の熱は当分下がりそうにない。
いや、少子化したからこそ、受験を意識した学習スタートが
より低学年に移ったのだろうか。

ところで、話が少しそれるが、
低年齢の子供への教材として
案外これは
と思っているものがある。
女子にはちょっと勧められないが
男子ならかなり良いのではないか。
実は我が子へのプレゼントに頂いたものを
場所がなくて、長く開けずにいたものを最近開いたのだ。
これがなぜか、図形感覚を磨くのに役立ちそうに思えた。

さて、いったい何のことでしょう?

答えは画像で示そう。

これです。

そう、プラレールです。

子供の為と言いつつ
私自身がその発展性にのめり込んでしまった。
どうレイアウトを組み立てていくか
これは図形的試行錯誤の鍛錬になると思った。

で、どうでしょう、私の労作のできは。

そうそう、サピックス新6年生の第4回入室選抜テスト
その四角2の(13)は、私には1/4曲線レール6本のセットに見えた。
これなら、すぐにどう計算すれば良いかが分かる。

 

 

◎3月5日(日)
2日につぶやいた2問(桜蔭と開成)の解説をアップした。
ウェブに書き出すことも含め快調にこなせた。
やっと本調子に戻ってくれたようだ。
ベートーベンの四重奏ではないが
こういう時はやはり神への感謝と思わずにはいられない。
(あ、私はクリスチャンではありませんよ)

 

◎3月2日(木)
年を取ったのか、今度の風邪は長かった。
ある方から、免疫力を付ける為にも
薬に頼らず快復させるべきだとお聞きし
それを忠実に守ろうと、一切医者や薬の世話にならずに治そうとした。
それで時間が掛かった。
それでも何とか治ったから、まだ少しは見込みありか?

その間も、今年の入試問題を解き続けた。

今年感じたのは、
上位校の算数はもはや算数の力ではなく
問題を読み、理解する力
すなわち国語力に大きく左右されるのではないかと言うことだ。
つまり、意味を理解するのに手間取った問題が多かったということだ。
風邪で頭がボーっとしていたから
というのもあるかもしれないが、
いったん意味がつかめれば、算数としてはそれほどの難問ではない。
むしろ根気と注意力を試すような問題と言える。

そして今年も同じ発想の問題が複数の学校で出題された。
開成と桜蔭
桜蔭については簡単な解説をアップしたので参照してほしい。

開成、麻布、桜蔭、駒場東邦
算数については、明らかに同じ潮流を感じる。

その中でもやはり
麻布の問題が今年も一頭抜きん出ている気がする。
なぜなら、算数というフィールドから抜け出ることなく
しかも自由に振る舞っているからだ。

 

◎2月12日(日)
中学入試もやっと落ち着いた。
皆の奮戦ぶりにこちらのエネルギーも燃焼しきったのか、終わった途端に風邪にやられてしまった。
今はすっかり元気になったが、まだ半分ぼーっとしている。
複数回受験の最後で決める生徒が複数いたので、こちらの神経もかなりすり減ったからだろう。
安易な妥協をせず、1月校に進学を決めた子もいる。
この子は、今猛然と勉強しているとお母さんから報告が入った。
12才の時点では苦杯をなめたが
6年後どうなっているか、それが楽しみだ。
今回、他にも第一志望を決められなかった子もいる。
今はつらいと思う。
だが、このつらさを是非新たな向上の礎にして欲しい。

単なる受験テクニックではなく
考える力、考えることの面白さを伝えてきたつもりだ。
どうか、その面白さを忘れずに
いや、むしろもっともっと大きく育てて
中高での学習がより多彩なものになることを願う。

 

◎2月2日(木)
2月1日2日の結果は8勝6敗。
1月校の結果も合わせれば私立に進学できない生徒はゼロとなった。
すでに本命を決めたにもかかわらず
更なる上位校を目指す子などもいて、
明日も全員が試験に臨む。
明日が本命の子もいる。
早くこの重圧から解放されたい。
当事者の思いはさらに深いのだろうが
こちらも2日目にしてかなりしんどくなっている。
今日は音楽を聴くゆとりもない。
ただ問題を解き続ける。
もうファックスも来ないだろう。
そろそろ教室を閉めようか。

 

◎1月31日(火)
ついにまたこの日となった。
何をやっても気がせく。
もう酒を呑んでいるが、全く眠気がやってこない。

彼ら彼女らの夢を想像する。

いや、ひょっとすると
同じように寝付かれずに何度も寝返りを打っている子もいるのかもしれない。

だが、とにかく目をつむりじっと心身を休めてほしい。
睡眠となっていなくとも
ただ横になって目をつむっているだけで脳も休息していると聞いている。

実はこの話
私の中学受験の直前にどなたかに授かった知識。
おかげでか、前夜、未明まで熟睡できなかったにもかかわらず
試験当日は頭が冴え渡っていた。
今でも当日の中庭での集合風景や
試験会場の教室の様子
国語や算数や社会の問題の一部を思い出せる。
だからか、「日本進学教室」で私より上位だった子が何人も落ちたのに
見事合格を勝ち取ることができた。
まぐれか。

まぐれでも良い。
明日も教え子すべてにこのまぐれが起こってほしい。
冴え渡れ、彼ら彼女らの張り裂けんばかりの知よ。
ふくらめ膨らめ思いの触媒
合格の一線を越えるまで。

今日は気を静めるため
夜はずっとジャワのガムランを聴いている。

寝付かれぬ子がいたら
この永遠の砂時計とも言えるような音に耳を傾けさせたい。
何かしらの安らぎを感じてもらえるだろう。

この静謐な階調の彩を、悶々としているすべての受験生に送り続けよう。
安らかなれ、君が血潮よ。

 

◎1月29日(日)
ネットでぼろもうけの実業家(実は最近「虚業家」とばれたが)が
かつてネットの計り知れないパワーを語っていた。
共感した。
便利な時代だ。
居ながらにして、全国の主要中学の入試問題を無料で閲覧できるのだ。

算数について
今、6年の生徒に、これらの問題をどんどん解かせている。
受けない学校なのになぜと思われるかもしれないが、
どの中学も、かつての名作をベースに新たな作問をするケースが多いからだ。
だから、同年度に似たような問題が複数校に出題されることもあるのだ。

例えば今年でも
すでに私が見ただけで
次のような類題をみつけた。

市川中の大問6と大阪星光学院中の大問3
どちらも上り下りのある道を往復する時間の差から距離について問うている。

市川中の大問7(2)と渋谷教育学園幕張中の大問5
どちらも底辺と高さが1:2の直角三角形と正方形の面積を絡めて
5倍という数字を使っている。
(市川中はまさのその5倍が答えとなる)

1月の他校の入試問題を見て、2月からの入試の差し替えを行う学校はまずあるまい。
だから、1月の各校の入試問題は
これから受験する者にとって、過去問に匹敵するほどの宝の山なのだ。

函館ラサールに出た排水口のある水槽の問題を
別の学校の入試前に解かせた子供から
受けたその学校(東邦大東邦中)で排水口のある水槽の問題が出たと喜びの報告を受けた。
その問題はどちらもとても良く練られた問題なので
まだ見ていない受験生は是非とも目を通してほしい。

 

◎1月20日(金)
最近の、生徒との会話から。

久「補助線は何のために引くの?」
生徒「問題を解きやすくするため。」
久「違う」
生徒「問題をわかりやすくするため。」
久「違う」
(生徒、しばしキョトン)

久「相似を作るため」
(生徒、とりあえず納得)

解法はなるべく具体的に覚えましょう。

栄東中、浦和明の星女子中
今年の入試にも良い問題がたくさんあります。
忙しい中、問題を送ってくださった学校に感謝。

 

◎1月14日(土)
全員合格でした。
授業で直接伝えたかったということで電話で連絡しなかったということでした。
ありがとう。
普段物静かな生徒なのに、今日はやけに明るかった。
合格の知らせはこうも大きな効果を発揮するのか。
先日の授業の子も何かというと笑みがこぼれてしまう感じだった。
ただしその子はその日はポカミスが何度か出た。
今日の生徒も、そういえば少し浮き足気味だったかな。
良いですよ、宿題さえきちんとやっておいてくれれば。

 

◎1月13日(金)さっきの続き
ちなみに、さっきつぶやいた生徒に受験の1年後に再会したら(つまり中1の終わり頃)
きちんと挨拶をして、見違えるほどの礼儀正しさを身につけていた。
それがとても自然なものに思えてとても驚いた記憶がある。
寮生活の効用は案外大きいのかもしれない。

私の友人に、イギリス駐在中に子供を産んだのがいる。
奥さんも英語は堪能なので言葉で困ることはなかったと思うが
やはり初めての出産を慣れない地で行うにはそれなりの覚悟が要ったと思う。
で、その友人
結局日本に戻ることになったときも
長女はそのままイギリスの全寮制の学校に置いてきた。
その子もすでに大学生だが
高校までイギリスで済ませた。
大学進学時に日本に戻って今は某国立大生だ。
親子関係は良好である。
クリスマスには親子で楽しくプレゼント交換などしている。
寮生活の効用はこれからもっと注目されるかもしれない。

◎1月13日(金)
うまく行かなかったと報告してきた生徒宅から
「追加合格の知らせが来ました〜」との電話をもらった。
よかった。これで現在のところ全員合格じゃ〜ん。
と思ったら、一人まだ結果が不明の生徒がいる。
答案のできは良かったんだが・・・・・

ま、もうすぐそいつの授業だから、その時に確かめよう。
あくまでお試し受験だからということで特に知らせてもこないのか。

だが、合格したうちの2名は、他に受からなかったら、地方のその学校に行くという。
単なるお試し受験ではない。
寮生活も悪くないというのだ。
親子で話し合っての結論だという。

塾講師をしていた頃には、教え子の中に
地方の全寮制の中学に進学した生徒もいるにはいた。
だが、初めからそこに進学するという考えは持っていなかった。
お試しのつもりで受け、結局他が決まらず、半ばやむなく選択した結果だった。

教育というものに対する考え方も日々歳々変化しているのだろう。

 

◎1月12日(木)
すでに何名かから合格の知らせを聞く。
その一方で苦杯をなめた子もいた。
まだまだこれからだ。
思い通りにいかなかった子は、悔しさをバネとして今後の試験で満足いく結果を出してほしい。

その一方で、京都の事件の被害者宅ではどのような心境でこの時期を送っているのだろう。
また同級生たちはどのような授業を受けて受験に臨むのだろう。
犯人に改めて怒りがわく。

 

◎1月9日(月)
土曜に行われた函館ラサール中学の入試問題が入手できたので早速解いてみた。
受験した生徒が持ち帰った問題をファックスしてくれたのだ。
大問2(1)@は面白い。
早速紹介のページを作った。
これは是非他の生徒たちにも挑戦させようと思う。
だから、全員への解説が終わるまでは解法は載せないことにした。

他にも上位校受験者でもしばし頭をひねるような良問がいくつか含まれていた。
昨日つぶやいたばかりだが、
改めて中学入試問題を作成される先生方へのお礼を述べたい。

 

◎1月8日(日)
うーん、歌を忘れたカナリヤならぬ
つぶやきを忘れた塾屋である。

久々につぶやこうかと思ったら
もう入試始まってしまいました。

それにしても、各中学の先生方の創意には改めて敬服する。
何でこんなおもしろい問題が作れるのだろうと思うことしきり。

ある女子が中堅女子校の過去問で苦しむ。
それを別の男子に力試しにやらせてみる。
御三家レベルを受ける子だから、その女子が解けなかったものを
苦もなく解いてしまう。

なのに、その女子が苦もなく解けたものを
その男子が間違えていたりする。

だからといって、男子上位校の問題は、女子中堅校を目指す子には与えられない。
その男子は、目指す御三家問題を比較的易々とこなしている。
だったらなぜ中堅校の問題でつまずくのか。
視点がちょっとだけ違うからだ。
その視点のずれをこちらの解説から感じ取れる子
こういう子は本当に強い。

そして、そのデリケートな違いを引き出せる問題が
あの学校にも、この学校にも転がっている。

中学の先生方の創意には改めて関心すること
しきりである。

 

 

2005年

◎12月11日(日)
今日はブックオフの使い方などつぶやこうかと思っていたのだが
(「社会」の参考書や問題集は古いのを買ってはダメとか)

京都で起きた事件にぶっ飛んでしまって
もうお気楽なことを言う気分でなくなってしまった。

広島や栃木での幼子への変質者の犯罪に触発されたとも思うが
とにかく呆れた。

また殺された本人
そのご家族はもとより
同じ塾で受験準備をしている子供たちのことを思うと
何と言って良いのか言葉が出ない。

私は一人で塾をやっている。
その方針が良かったと思う。
全ての生徒に100%の責任を負いたい。
誰にも転嫁したくない。
今言えるのはそれだけ。

事実が更に明らかとなってから
何らかのコメントをしていきたいと思っている。

 

◎12月6日(火)
私はへそ曲がりか。
遊園地の長蛇の列で何十分も並びながら
その列がアウシュビッツのガス室へのものでないことを心底喜ぶ。
と同時に、そうした現場に居合わせた人たちの少なからずいたという事実に心痛める。

私はへそ曲がりか。
あどけない幼女たちが変質者の欲望のためだけに無残に殺されたニュースに触れつつ
無実なのに突然生肌に傷を受け、死ななければならない境遇に置かれる幼少者の
例えばイラクに複数いること、および
それらの事実に誰も心痛めていないことに思いを馳せてしまう。

私はへそ曲がりか。
南京大虐殺は話題になるが
広島での長崎での
ドレスデンでの東京での
市民を対象とした無差別攻撃
それを誰も虐殺と言わないことに未だに合点がいかない。

こうした思い
どこまで子供たちに伝えてよいやら。
いや、とりあえず、この場を使って吐き出すに留めよう。

 

◎11月23日(水)
既にして早一月の経過。
つぶやく暇もなし。

と言いつつも音楽を聴いたりの息抜きはしている。
トランス系のテクノから好きな映画のサントラ
果てはトリスタン全幕の流し聞きまで
片っ端から手に取ったCDを聴いている。

そんな折、先日図書館にて「頭がよくなるクラシック入門」なる本をみつけた。
早速借りてみた。
隠れたベストセラー作家(?)樋口裕一先生の量産著作の一つだ。
小論文指導で名を上げた人だけに、文作はお手の物のようだ。
だが、ホントに小手先だけの実用書
いや、実用になるのかと疑ってしまうほどの
対象者不明の本だった。

これを読んでクラシックを聴いてみようと思う人はいるのだろうか。
ましてや、「頭を良くするために音楽を使おう」と思って読む人はいるのだろうか。

売れているようだから、いるのか。
その時点で「頭悪い」と断言する。


この本を読んで感じるのは
「頭が良い人はクラシックが好きになる可能性が高い
だって、僕ちゃん、こんなに頭良くて、こんなにたくさんのクラシック知ってるんだもんね」
というある種の自慢話だ。

私も自分の音楽遍歴を語ることはあるが、
それで頭が良くなったとは思わない。
また、人にも同じ道を辿れという気もしない。
まあ、殆どの人は呆れ、その聴き方の無節操に不可解だとの感想を持つ。

自慢ではないが、(自慢だが)
この本に添付のCDに入っていた入門のための23曲は全て馴染みの曲だった。
しかし、その曲の選び方、またその後に聞く曲の選択など
解せないものもいくつかあった。
ただし、どうでも良いことなので、樋口という人を知るためには役立つかもしれない。

ラーメンについてかつてつぶやいたが
人に薦められたラーメンで美味しかったのは半分もいかない。
本でも映画でも
自慢げに、これ良いから好きになれとは、恥ずかしくて言えない。
これが好きとなら言えるし、良いと思うとなら言えるけれど。

例えば私が好きなワーグナーの作品は
「トリスタン」と「パルシファル」だけ
とか、
モーツァルトでは
「フィガロ」と「後宮」だけとか
こういう感想は、こちらの偏狭を語りこそすれ、
誰の参考にもならないと思う。

いや、実は本当はそれなりの魂胆がある。
そう、同じ指向の嗜好の人(駄洒落ではありません)と出会ってみたいという考えだ。
「マイスタージンガー」にも「ドン・ジョバンニ」にも全く食指が動かされない。
こう語って、そうそう分かる分かると言ってくれる人に出会ってみたいもんだという願望はいつだってある。

単なる樋口氏批判のように思われてしまったかもしれないが、
彼ほどの有名人には、より多くを語ることが求められているということもあると思う。
彼の人は、そが望みに忠実たらんと誠をもっての対応をしているのみなのかもしれない。

そもそも、生徒に論文作りの極意を語るように
クラシック音楽への馴染み方の極意を語っているつもりなのかもしれない。
ある意味で、樋口氏の聞き方は、クラシック音楽鑑賞の王道かもしれない。
音楽の作り方や仕組みについては多くの本があるが、
どう聞いていくかという、いわば鑑賞法のような本はなかったかもしれない。
(必要かどうかは置いておく)
そこを埋める
いわば、彼の指導者魂の一環としての著述なのかもしれない。

私はただ自分のためにしか語れない。
(だからつぶやき?)

もうしばらくの語りを続ける。

もうブラームスは聞かない。
シューマンも聞かない。

今はシュトラウスの歌曲に少し興味を感じてきている。
だが、共感を覚える作品は多くはない。
お気に入りは「4つの最後の歌」と作品29の第1曲目。
新しく聞いていきたい音楽は、今はシュトラウスだけだ。

そして、なぜか、安心して薦められる参考書のことを最後に語って、
塾のサイトだとの帳尻を無理やり合わせようとする小心者だと暴露して終わる。

算数で、誰にも安心して薦められるのは「ベストチェック」だけだ。
日能研は、授業は「うーん?」のところもあるが、この教材は良いと思う。
ただし、あくまで問題集として。
解法については参考にしない方が良いものもあるので要注意!

ああ、それにしても、つぶやきとはいえ、何とまとまりのない文章だろう。
樋口先生の小論文指導講座で、徹底添削をしてもらわないといけないかもしれない。

 

 

◎10月23日(日)
今日は酩酊の上でのつぶやき。
ふと思いついたことがあったので、忘れないうち、寝る前につぶやいておこうと思って。

今日は久々にワインを呑んだ。
懇意にしているワイン屋さんから出物の連絡をいただいたのがきっかけだ。

で、ふと、私の酒の呑み方
いや、酒に限らない
ラーメンの食べ方から缶コーヒーの飲み方まで
ある共通のパターンがあったことに気付いた。

それは、「比べる」ということだ。

味比べ。

日本酒だと、利き酒ということを聞くが
それを何にでもやりたがっていたのだ。

「あったことに気付いた」?
「やりたがっていた」?

そう、今、過去形で語っている。

今日も、2種類のワインを開封して呑んだ。
いつものクセで、つい、味についての比較をしてしまったのだ。
明らかに違っている。
そして初めに呑んだワインの方が美味いと感じた。
頂き物で価格も違うから当然なのだが。

では、2本目のワインはなぜ手元にあるのか。
それはやはり何か引かれるものを感じ、自分で買い求めたからだ。
ところが、1本目を美味いと感じてしまった上で呑んだせいか、
どうも味がピンとこなかった。

でも1本目は美味いと感じた上に、なかなか高価なもので
そういつも呑めるものではないとも感じ、
今日1日で空けてしまうのは勿体無いと思ったから、
半ばで封をし、仕舞った。

で、残ったもう1本に相対したわけだ。
赤ワインだし、しばらく置いておいた。
時も経ち、飲酒再開。

そうしたら、これはこれで、まあいける味なのだ。
大気と和んだせいもあるのかもしれないが、
とにかく、これはこれでいける味なのだ。

そこでふと思った。

世の親よ、決して子供を他と比ぶべからず。
その子独自の味わい、いや、持ち味、個性を見るべし。

と。

入試、模試の成績は仕方のないこと。
だが、それ以外に、その子には何にもないのか?

私はこの時期、模試の結果を見てさえ
いつも40だった子が48を取っているのを見ると
55付近だった子が68を取ったのと同じくらい嬉しい。
48と68とだけを比べれば、それは誰だって68の方が良いと思うに決まっている。
ポイントの差でみても
片や8
片や13だ。

でもずっと40付近から離れることができなかった子が
この時期50近くに浮上したのを見ると
本当に、背筋がゾクッとするくらい嬉しいのだ。
55から一気に68だって凄いのは確かだが、
40から48も凄いじゃないか。

まだあまり伸びが出ない子もいる。
その子にも他の良い味がある。

それは、1000円札でお釣りが来るワインなのに
それなりの渋みや酷を発揮してくれるワインを呑んだときの喜びと同じなのだ。
そして、実はこの酷は、このワイン独自のものだと感じられるのだ。
そう感じられるのはどういう時?

それは、それ1本だけを呑んでいるときだ。

酒と子供とを一緒にされては
世の親としては不愉快かもしれないが、
まあ酔っ払いのたわ言にも五分の魂と思って欲しい。

世の親たちよ、
わが子ただ一人に相対せよ。
彼、彼女に宿りし
ただ一つなる個性、持ち味を吟味しつくせよ。

そんな思いがふとよぎって
酩酊でありながらも、睡魔をかき消し
深夜にふとパソコンを開いてみた。

つぶやいて、もっと気分がよくなった。
今日はきっと快眠の夜だ。

 

 

◎10月3日(月)
算数は説明の仕方が大事だ。
どう説明されるかで、理解できるかできないかが違ってくる。

その好例がみつかったので披露する。

学習院中等科の過去問集を見て欲しい。
本屋で立ち読みで充分。

都内大型書店ですぐ手に入るものには2種類ある。
東京学参のものと声の教育社のもの。
2002年入試問題、大問の3番(私と母と弟とがテニススクールに通う問題)の解説を見比べて欲しい。

さあ、どちらが分かりやすいですか?

通常、声の教育社の解説の方が良いと言われているが
この問題の解説は、明らかに東京学参に軍配が上がる。

実は、急に質問されて、私なりの解説をした後で、
生徒が持っている過去問集ではどんな解説がしてあるのだろうと思い
持っているものを出してもらったら、それが声の教育社のものだった。
そして、その解説を読み、これでは理解できないのも仕方ないかなと思ったのだ。

では、東京学参のものはどんな解説なのだろうと思い、書店で確認したら、
とてもシンプルな(私がすぐ思いついたのと同じような)やり方で説明してあった。

実は、どちらの出版社のものを買えば良いですかという質問をされることもあるのだが、
一般には、声の教育社の方が定評があるので、そのように話してきた。
だが、こうなると、学校毎に確かめないと、どちらを薦めてよいか分からないということになってきた。
と言って、全教科、収録年度の問題全てについて確認することもできないから、
要はどちらでも良いということだ。
自分で考え調べ、分からないものはこちらに質問してくれと、それだけしか言えないということだ。
そもそも、自分で考え、調べるというのは、学習で最も大事なことだ。
だから、過去問集の解説だけで全てが解決できない方が、本人の力を伸ばすには役立つのかもしれない、
などと、ろくでもないことまで思ってしまった。

 

◎9月28日(水)
ちょっと昔、淀川長治という素敵なおじさんがいた。

高名な映画評論家だ。

でも、私は彼を評論家とは思わなかった。
彼は、映画啓蒙者だ。
彼は、どの作品も決してけなさなかった。
必ず何かしらの魅力をみつけ、それをことさらに強調し、
いわば、言外に「実は他に魅力はないのだ」と(無言に)語った。
そういう優しいおじさんだった。

その淀川氏の忘れられない言葉がある。
「映画は昔、学校でした」
という言葉。
そう、映画を観て、人生の何たるか
人たる者の何たるかを知ったという言葉だ。
確かに私にとっても、ある時期までは映画は学校だった。
「愛すれど心さびしく」
この映画から、どれだけの人生の機微を教わったことか。

だが、いつの頃からか、映画は学校でなくなった。
SFXとかいうものの進歩で、単なるアクロバット競技会となってしまった。
もはや、学校はどこにもないのか?
と暗澹たる気持ちでいたが、
最近あることに気付いた。

そう、今や、テレビドラマが学校なのだ。
「ドラゴン桜」「女王の教室」は文字通り、学校の話だった。
どちらも色々と考えるきっかけをくれる面白いドラマだった。

だが、もっと素敵な学校ドラマがあった。

「電車男」だ。

初めはバカにしながら観ていたが、
回を追うにつれ、主役2人の魅力と、構成の妙に操られ
段々とのめり込んでいった。
最終回は、「女王の学校」以上に感動した。

人生をどう生きるべきか。
新たな示唆をもらった。

学びは、実はこんなにも身近にあったのだ。

 


◎9月19日(月)
あれれ、この間まで夏休みだったのに、もう9月も半分以上が過ぎている。
サピックス6年生はSSが始まり、教材がさらに増えた。

で、面白いのは、校舎ごとに出される指示(教材の優先順位)が違うことだ。
同じサピックスでもである。
クラスによる違いもあるのかもしれない。

何からやったら良いのかの相談も受ける。
私としては、志望校がはっきりしているなら
その志望校対策講座を優先すべきと思っている。
サピックスに限らず
「○○中学校対策講座」の教材は
形は色々だが、中身は殆どがその学校の過去問をアレンジしたものだ。
だからこれをしっかり勉強していけば、過去問演習をしているのと同じことになる。

弱点補強の教材は、ホントに弱点なら基本はさらっておくべきだろう。
いくら傾向があるとは言っても、過去出されていない分野からは絶対に出ないという確証はない。
それに、そもそもが中学進学後の学習の礎になるのだから無駄なことはない。

通常授業の教材にしても、ややレベルを下げ、解きやすいものでの既習事項の再確認だから
(これまでそれなりにやってきた子にとっては) あまり負担にはならない。


以上は、算数についての話。
これに他の3教科もあるのでから、
やることが多いように感じるかもしれないが、
美味い料理を作るにはそれなりに手をかけないといけない。
並行していくつもの準備をしなくてはいけないのは受験生も一流シェフも同じなのだ。
その準備は、多少の前後があっても、どれもが為されなければならないのは確か。

ただし、どうしても物理的に無理な状況があったら
指示されている優先順位に従えば良い。
クラスの現状に即した指示が出されているはずだから。

大事なのは、一つに偏らないこと。
好きな教科だけの勉強をしたり、
得意な単元ばかりやって
「勉強しているのだからこれで良いのだモード」に逃げないことだ。


◎9月13日(火)
今回の選挙は面白かった。
まるで安手のドラマのように分かりやすく
しかも予想通りの、いや、予想を上回るような劇的なラストで
超ど派手に幕を閉じた。

私も安直に塾に無理やりこじつけてみた。

その塾には二人の大物先生がいた。
二人は仲が悪く、いつも父母の人気取り合戦をしていた。

一人は、若いが、真面目だけが取り柄のような岡田先生。
口癖
「目先の勉強法だけ変えたってダメだ。
私はそんなものには興味はな〜い。 もっと先を見据え
20年後、30年後の自分がどうなっているかを考えろ。」
で、何かというとすぐ
「合格をあきらめない!」とくる。
じゃ、今まで諦めたりもしてた?

片や、ちょっとお年は召しているが
パーマで決めて、ノーネクタイで活動感なんかも醸しながら
独特のにやついた笑顔でお母さんに人気の小泉先生。
口癖
「まず勉強法を変えなくちゃダメ。
全てはそこから始まる。
20年後、30年後のことなんか、真剣に心配したってしょうがない。
人生色々だ、なるようになるさ。
まず学習法の改革だ。」
そんなんで大丈夫?と心配にはなるが
自信たっぷりに「何でもいいから変えてけば良いんだ!」と断言されると何だか安心できる。
で、この先生の決めゼリフは
「合格への工夫を止めるな!」
そうか、今までも、何か工夫はしてきてたんだ。

うーん、「諦めない」と言われるより
「止めるな」と言われた方がポジティブになれるかな。

やっぱ、今のところは小泉先生が圧倒的な人気だ。
岡田先生は、お母さん方からあまり相手にしてもらえず
いじけて、辞めるみたいなことも言ってる。
あれあれ、もう諦めるんだ。
ま、父母の半数以上が私を信頼してくれなければ辞めると言ってしまってたからね。

そうだね、岡田先生がこのまま残っても、
いつもしかめ面で「そんなんじゃダメ」しか言わないと周りが暗くなるばっかだよね。

小泉先生だと、勉強の中身のことはあんまり知らないみたいだけど
「大丈夫、私の言うとおりにしてれば必ず合格できるんだから」ムードが漂ってるから
この先生がいれば何とかなるのかな、なんて気がしてくる。

ただ、まだ本番はかなり先だからね。
それに小泉先生も、「合格の結果が出る前に後進に道を譲る」みたいな逃げをうってるみたいだしね。

要領が良くて、機転が利く上に決断力まであるから、小泉先生の一人舞台だ。
昔いた、村山先生とか、細川先生があまりにも頼りなかったから
やっぱ小泉先生の明るい自信は保護者を安心させるのだろうな。


◎9月9日(金)
一昨日のつぶやき、菅直人の菅の字が違ってました。
何だか変だなとは思っていたのだが
マストリストに溺れてほったらかし。
社会で漢字の間違いは0点なのを思い出し、慌てて訂正した。

ところで、小泉は、他はほとんど三日坊主なのに
なぜ郵政だけにはこれほど固執するのだろう。
かつての塾時代の上司に、濃度は何でもかんでも面積図で解かせようとする先生がいた。
生徒が呆れるほど偏狭だった。
小泉のことを考えていたら、ふとその先生とダブった。

 

◎9月7日(火)
小泉首相についてもう一言。
やはり業績も少なくはないと思う。
一番の仕事は、北朝鮮に拉致問題を認めさせたことだろう。
帰ってきていない人がたくさんいるのも事実だが
そもそも北朝鮮がそんなことをするわけがないと主張してきた
それまでの凡百の政治家に比べれば格段の進歩だ。
薬害エイズ打開と菅直人が一体化したように
私の中では拉致問題打開と小泉純一郎は一体化している。
公団公社などについても、何もしないよりは良いのかとも思う。
イラクのことだって、外交事情も考慮しなければならないのも分かる。
だが、アメリカも含め、世界は非情だ。
他と強調し
他を頼む姿勢だけで
後悔する結果にはならないのか。
鎖国をしろとも言わないが、
特定の国家にのみ傾倒していく姿勢は怖い。

悩みつつも、ケセラセラ(なるようになるさ)という気分もある。
江戸幕府消滅も太平洋戦争終結も
日本にとって致命的なダメージとはならなかった。
今問題とされている選択は
それらに比べれば些細なことに思える。


◎9月6日(月)
選挙公報を見る。
自民党の欄に
「日本を今一度洗濯いたし申し候」とある。
坂本龍馬の名言だ。
だが待てよ、これは外国にへつらう幕府の姿勢を嘆いて吐かれた言葉ではなかったか。
ならば、ブッシュに尻尾を振り
憲法改正もせぬうちに、姑息に自衛隊を外国の戦闘地に送り込む
コイズミ将軍さま自身が洗濯される対象なのでは?

ところで、龍馬がこの言葉を姉乙女に書き送ったときの年齢は20代後半。
その年齢の、信頼に足る政治家が現在いるのだろうか。
平均寿命も違うから単純な比較はできないのかもしれないが、
脳の成長の仕方などは100年や200年で変わるわけがないから
環境さえ調っていれば、同じ位の「政治力」を持った若者だって出て良いはずだ。

今は受け身の人生をアクセク送る人間か
さもなくば目先の金稼ぎにアクセクする人間ばかり。

鎌倉幕府の人間には、江戸幕府はより完成度の高い制度に見えるかもしれない。
だが坂本龍馬には頼りない機構と見えた。
現代の行政組織は、坂本龍馬には完成度の高い制度に見えるかもしれない。
だが携わっている人間の問題も含め、現状のままではいけないのは確かだ。
そこをしっかりと洗濯してくれる人に現れて欲しい。
岡田〜?
う〜ん、どうなんだろう?

私が指導した子供たちには
少しはまともな判断力のある人間に育ってほしいと思う。
あからさまな政治教育は言うまでもなく
表層的な技術伝授だけに終わるような授業もしたくはない。
具体的な内容は学習事項だけでも良いと思うが
行間の豊かな授業をしていきたいと思う。
その為には、もっともっと自分自身も向上しなくては。



 

◎9月1日(木)
あれよあれよという間に9月となってしまった。
世は選挙で騒がしい。
テレビにて、チャンネルを変えながら、党首討論というのが頻繁に行われるようになった。
それらを見ての素朴な感想。
小泉がゴルバチョフに見えてきた。
画期的な破壊を行うが、その後の展望が何もなくて、急速に過去の人となっていく。
では岡田がプーチンかというと、私には直感はあっても、それを言い切れるだけの見識はない。

それにしても、聞けば聞くほど、どの党にも失望してくる。
バカの壁ではないが、
前提となる発想が違うのだから、かみ合わないのが道理かもしれないが。

十進法では2+3=5が当たり前だが
五進法では2+3=10となる。
どちらが合っているとか間違っているとかではない。
一口に国民と言っても、何を指すのか。
先日死刑となった宅間守とか言う男は国民だったのか、国民ではなかったのか。

今度の選挙は難しい。

この難しさの感触を何とか子供たちにも伝えていきたい。
そんなことも感じた。
条件反射的に1行問題や計算の答えをだすのは構わないが、
短絡的な人間にだけはなって欲しくないと思っている。



◎8月10日(水)
よくバイクを使っていたが、最近は自転車が多くなった。
目的の場所へ行くのに、事前に地図でルートを探す。
バイクだと、単に直線距離の最も短そうなところを探れば良いのだが
自転車だと、それだけでないことに気付いた。

高低を考慮しなくてはいけないのだ。
つまり、坂の少ないルート。
多少距離は伸びても、坂が少ない方が自転車で行くには具合が良い。

これはそのまま、算数で、どういう解き方が最善かということにもつながる。
つまり、高性能のエンジンを積んだオートバイのような子には
ひたすら最短距離だけを示してあげれば良く、
自転車でコツコツと進んでいくような子には
多少遠回りとなっても、あまり高低さのない道筋を示してあげる
ということだ。

人生のルート選びにも似た様なことが言える気がする。

自転車に乗るだけでも、色々なことが考えられる。

 

◎8月8日(月)
昨日は久しぶりに休みがとれた。
買い物したり、読書したり、有意義な一日だったが、
最も有意義だったのは夜のテレビだった。
NHKテレビで沖縄戦最後の33日というドキュメンタリーを見た。

大東亜戦争、太平洋戦争、第2次世界大戦
色々な名前で呼ばれるあの戦争について、
一つの視点を与えてくれた。

沖縄戦末期、兵士を優先して、一般市民を避難壕から追い立てた軍人たち。
彼らももし祀(まつ)られているとしたら
少なくとも、あの体験をした沖縄の人にとって、
そして、それに共感を覚えた私にとって、
靖国神社とは一体どれほどの意味のあるものなのか疑問に思わざるを得ないと思った。

民放にこれだけの番組を作る力があるのか。
やはり、もうしばらくNHKの受信料は払い続けよう。

 

◎7月27日(水)
私は、小学生のとき、読点の打ち方が分からなかった。
1年から4年まで担任だった関根先生は国語が専門の先生だったが、
「うーん、難しいですね、
ここでちょっと切っておいた方がいいかな
と思ったところに打つって感じかな。」
と言った内容のお答えを頂いたことがあるような気がする。
勿論、その答えで納得できなかったのは言うまでもない。
ただ、それ以上質問することができなかったのも確かだ。

フランス語は厳密でないと言った政治家だか作家だかがいたが
読点について言えば、日本語は超アイマイだと思う。
例えば、英語では、カンマを打つ位置というのははっきりした規則があって、
ここで打ちたいから打つ
というわけにはいかないと思う。

でも、日本語では、
例えば小林信彦の本を読んでいたら
新井素子の文章に触れ、
「それ、何か文句、ある?」
という部分。
ふつうだと、「なんか、文句ある?」と書いてしまうのだが、「文句」と「ある?」の間に、点を入れたために、より開き直った感じが出る。
とあった。

綿矢りさの「インストール」にも
突然煮詰まった会話の雰囲気を
「沈、黙。」と書いていた。
例えば、英語で
si,lence
なんて書いても、読んでる方は何のことか分からないだろう。
あるいは、単なる稚拙な文と思われるだけかもしれない。

でも日本語だと何となく雰囲気が伝わってきてしまう。

何かの本に、読点が多い文を書く奴はバカが多いとあった。
私は、比較的、読点が多い文を書く。
ドキッとしたが、書いてる奴も大した文を書いてなかったのであまり気にしないことにした。

これから、記述指導が増える時期だ。
実は、読点の打ち方をどう指導するか、私は個人的に結構悩む。
読点の打ち方に個性が出るのが、日本語の面白いところの一つだと思うからだ。

そんなことを思いつつ、最近買った、大村はま先生の本を読んでいたら
やたら読点が多かった。
なんだか、嬉しかった。

 

◎7月22日(金)
今日は待望の日。
やっと今日になり、すぐに買いに行った。
これまでの全巻、生徒が貸してくれたが
もう待てない。
買うことにした。

うーん、期待以上の内容。
この作家の背景に、どれだけのブレーンがいるのだろう。
あるいはこの作家はどれだけ文献を調べ上げたのだろう。
それだけでも敬服してしまう。
いや、あくまで内容の良さで敬服しよう。
何より、内容が具体的なのが良い。

「ドラゴン桜」第9巻が今日発売された。

大村はま先生の本もまた2冊買った。
「ドラゴン桜」と矛盾していないから凄いと思った。
どちらが凄いのか、それはまだ何とも言えない。
共通しているのは、教え導くという明確な姿勢と
教える側の不動の視座だ。

 

◎7月4日(月)
卒業生のひとりが遊びにきてくれた。
中学受験で御三家のひとつに受かった、そのときの指導生。
現役で東工大に受かった。
その彼があっけらかんと言ってくれた。
「早稲田にも受かったけど理科大と慶応は落ちたんですよ。」
彼の学習内容を詳しく聞けて、大学受験とはずいぶん面白い世界だと思った。
たまたま今の生徒が貸してくれた「ドラゴン桜」を読んだ直後だったので、受験のゲーム性を実感してしまった。

 

◎6月20日(月)
6月7日の教材についてのご相談の方から後日、ご報告を頂いた。
クーリングオフにてキャンセルし、私がお奨めした問題集を買ってきたということだ。
私からの助言は、理科が苦手ということだったので、
理社出版の問題集を見てみたらということだった。

遠地なので、ファックスを使った添削指導のご希望を受けたが
以前にやってみて、隔靴掻痒の感を受け、こちらも不完全燃焼が続くのでお断りしたことがあるとお話し、お断りした。
実力分析等で、問題の解き具合を見てあげるくらいだとファックスでも充分なのだが、
それを完全に理解・消化させるとなると、私の力では、ファックスだけでは心もとない。

それでも、何か、遠地の方にもお役に立てることはないかと模索はしている。
ただ、今のところ、「これだ!」
というアイデアは浮かんでいない。



◎6月13日(月)
クールにという方針で、最近の国会議員はネクタイをしていない。
ただ、上着は脱げないようで、何とも間の抜けた格好で国務大臣クラスが闊歩している。
小泉首相、靖国に行くときはわざわざ和服になるのなら
いっそ、夏の間は、議員全員、小千谷ちぢみというのはどうだろう。
日本の伝統を強調しているようだから、格好も伝統に根ざすのはどうだろう。
人民服を脱いだ、中国の官僚も、再び人民服になるかもしれない。
そうやって、お互いの国が、実はいかに価値観の異なる国家であるかを認識しあうのも悪くない。
それにしたって、
中国の官僚がビジネススーツを着ているのを見ると
大東亜共栄圏構想に乗らなかった中国が
西欧化の波
いや、ひょっとすると、
大米亜共栄圏の波には乗ってもいいかもしれないと思っているような気すらしてしまう。

 

◎6月7日(火)
今日受けた相談も、参考としていただける部分が多いと思うのであえて公開する。

高額教材の訪問販売についてだ。

初めてご相談をいただく方だったが、
お子さんは、今春、晴れて第一志望の中学に進学されたという。
当サイトは、お母様が、お子さんへの家庭でのフォローに活用していただいていたそうだ。
どれほどの貢献ができたかは不明だが、ひとつでもふたつでも役立てたのなら幸いだ。

さて、教材販売のことに話を戻そう。
先日、中年の女性の声で、お子さんのお勉強のことでお困りではないですかと
突然電話が入ったそうだ。
ちょうど中間試験の直後で、そのお子さんは数学や理科が振るわなかったという。
そのことを正直に話すと、
「良い教材がありますから、是非ご検討ください」ということで
一度、説明に来てもらうことにしたそうだ。

お父様は仕事で帰宅が遅いということで
夕刻、母子にて、その教材会社の社員の訪問を受け、説明を聞いたという。
ところが、その説明が実に長い。そして、しつこい。

そのセールスマン氏(言うまでもないが、電話でアポを取った人とは全くの別人)
まず子供に、現在、勉強で困っていることを根掘り葉掘り尋ね
困っていることを聞き出してはそれに対して、この教材を使うといかに有効かと話す。
また、お母様にも、月の教育費に幾らくらい掛けているかを聞く。
そして、幾ら掛けられるかも。

そうこうするうち、時間はどんどんと経過し、
結局、子供がこれを契機に、勉学に発奮してくれるなら
ということで、契約書に判を押したという。

しかし、翌朝になってみると、3年分を一括で払うことに何か引っかかりを感じたそうだ。
だが、お父様は、お前が良いと思ったんら良いだろう、ということで、相談には乗ってくれない。
そこで、思いあぐねて、ふと私のサイトを思い出してくれたらしい。
そこには確か、「いつでも教育相談受け付けています」とあったはず。

それで、ご相談をいただいたという次第です。

さあ、どうしたもんか。
だが、私の結論は勿論最初から決まっていた。

「お母さん、学校の勉強だけでもアップアップの状態で、
更に新しい教材を押し付けて、お子さん楽になると思いますか?」と尋ねた。

「でも、相当お金を掛けて開発した良い内容のものらしいですよ。
それに、これ買ってくれれば絶対勉強頑張る!
と、子供が言うし。 」

子供は一種の洗脳を受けたのだ。
それを餌に、今度は母を洗脳していく。

私が強調したのはただ一点。
「ただ買うだけで、先生の細かい指導フォローもなく、いきなり成績が伸びるなど、有り得ない」
ということだけ。
そして、もう一つ疑問だったのは、
私立の独自カリキュラムに付いていけないのに、
なぜ市販もされないような、通り一遍のことが体よく書いてあるだけの教材を買うだけで
いきなり成績が伸びるのだろうと疑問に思わないのだろうか。
ということだった。

 

◎6月2日(木)
現在、新規生の募集は行っていないが、ご相談だけは受け付けている。
この時期、一番多いご相談は、
「成績が思うように伸びないが、どうしたらよいだろう」というものだ。

伺って、殆ど共通のことは、
塾のペースで推移していて自分を見失っているということだ。
自分を見失うというのは、もう少し平たく言うと
何をやって良いか分からない状態ということだ。

原因ははっきりしている。
塾の要求が過剰なのである。

例えば今日頂いた日能研6年生のお母様からのご相談では、
話を聞いていったところ、
3組の授業でも、発展問題の次に、練成問題まで入っているというのだ。
それで、公開模試などでは、算数は平均に届いていないという。

もし、私がその子を指導しているなら
まず、練成問題には手をつけるなと言うだろう。
基本問題と演習問題が終わったら
次は「算数プリント」の基礎をマスターすべきだ。
「算数プリント」は自習教材という意味で、
授業では使わないのかもしれないが、
内容からしたら、まず解説の後に解くべきは
「算数プリント」の基礎と共通だと思う。

それらが充分こなれてから、発展問題、そして練成問題だと思う。
ここまでで充分その単元はマスターできている。

さらに上位を狙いたい子だけに「算数プリント」の応用をやらせればよい。

過激突進のように言われているサピックスの方が
案外こうした進路ペースは妥当な気がする。
デイリーサピックスとデイリーサポートに加え
デイリーアプローチやウィークリーサピックス、ウィークリー確認テストなど
とにかく教材が多い。
ところが、授業で扱われる量はそれ程、多くはない。
だから、使われていない教材がかなり残る。
その量は多いのだが、一貫した内容だから、教えるこちらにとっては助かる。
なぜなら、同じような内容の数字変えの問題が豊富に提供されているからだ。
この点はサピックスは実に良い。
本来、家庭でやるべきとして渡されている教材が多いから
フォローで個別指導をする際に、新たな教材を一々こちらで用意しなくて済むのだ。

そして、やる子は、本当にこれらの教材を自分ひとりの力で家庭で解いてくる。
その上で、分からないものだけを質問してくる。
だから、効率よく高いレベルに達せる。

では、四谷大塚はどうだろう。
私は以前CS四谷大塚でも教えていたので、
四谷大塚の教材である、予習シリーズばかりを使っていた時期もあるが
今、他塾の教材と比べてみると、じつは算数については、かなり問題点があるようにも感じる。

一番の不思議は、なぜ一週に関連もない2つのことを学ばせるのだろうということだ。
6年のものは1週に1項目となっているのだが、
5年のものは、例えば1週に「つるかめ算」と「円とおうぎ形」とを学ばせる。
しかも、もっと不可思議なのは、「円とおうぎ形」について、
わざわざ円周の長さについてと、面積とを別々に学ばせることだ。
この2つのことは、形の上でも実戦の問題としても、実に関連が深い。
それをなぜあえて別の週に分けて教えるのだろう。

昔、英語の指導をしていて、前置詞のlikeが出てきたときに生徒が言った。
「なぜ動詞と一緒に教えてくれなかったんだろう。
もし、その時に、動詞の他に、前置詞や接続詞として使われることもあると聞いていれば
今こんなにも悩まなくて済んだのに」と。
この言葉は今でも印象に強く残っている。
なるほどと思ったからだ。
確かに語源が全く違うから英語学の先生方には全く違う単語に見えるのだろうが
実際に英語を使う立場では、同じ単語にしか見えない。
しかも使われる頻度は決して動詞の方が高いわけではない。
ポップスなどには、like you do のようなフレーズはかなり出てくる気がする。
だったら、一緒に教えてあげた方が、かえって混乱しないように思うのだが。

話がそれた。
四谷大塚の算数教材のことに話を戻そう。

予習シリーズの完璧な数字変えの「演習問題集」というのがある。
ところが、これは形式まで似ているので、正直、辟易することがある。
その点、サピックスの教材は
デイリーサピックスは冊子形式
デイリーサポートはプリント形式
といった具合に、見た目をがらりと変えているので、
一見同じ問題を解いているように感じない。
だから、デイリーサポートで徹底的に指導したものを
デイリーサピックスで確認するということも、より効果があるような気がする。

加えて、デイリーアプローチだ。おっと、基礎トレなんてのもあったな。

そもそも、四谷には、シリーズの上のレベルの「応用問題集」というのもあるが
形式が似ているだけに、新鮮味は薄い。


より高度な問題を解くぞ!
という気構えが、形からは入ってこないのだ。

また、教材の改定ということも
サピックスや日能研は毎年のようにやっているようだが、
四谷大塚は、予習シリーズがきっちりとした本として作られてしまっているだけに
小回りはきかないようだ。

それもあってか、四谷の先生は、各自が独自のプリントを出す。
同じ四谷の生徒でも、校舎によって、持ってくるプリントが違う。
しかも、作った以上は思い入れがあるのか、各先生とも、そのプリントをかなり重視する。
これは先生の熱心さを示すのか、四谷の脆弱性を物語るのか。

以上、簡単ながら、本日思いついたことを勝手にまとめてみた。
まずご家庭では、お子さんの現状を的確につかんで欲しい。
その上で、今どこまでやれば良いのかをしっかりと見極めてあげて欲しい。
判断しきれないときはどうしたら良いか。
簡単である。
家庭教師か、個別指導を頼むのである。
個別指導講師の一番の仕事は、その手伝いである。
これは、実際の指導と同じくらい大事なことだ。

その一助として、とりあえず、教材についてまとめてみた。
何かの参考になれば幸いである。


◎5月18日(水)
今日は、N研に通う生徒が嬉しそうに「裏ワザ習ったんだ」と語る。
扇の、紙の部分の面積を求めるのに、
分配法則を使うと、
大きな半径の平方-小さな半径の平方の計算が出てくるが
A×A-B×B=(A+B)×(A-B)で良いんだと習ったと言う。

確かにその通りだが、「どうしてそうなるかは習ったの?」と聞くと
「うん、何だか、ウネウネと、長い式書いて説明してくれた。」と言う。
「じゃ、俺にも説明してよ」と言うと、
「え、もう忘れたよ。だって、長かったんだもん。」

根拠が分からないで使わせるのは抵抗があったので
面積図を使って説明した。
すると、目を輝かせて、「何だ、そんなに簡単に説明できるのか」
と感動した面持ちだった。

さらに確信を持って、以降の問題で、この裏ワザを使いまくっていた。

<平方の差は和と差の積>
因数分解の鉄則のひとつだ。
決して小学生に教えるなとは言わない。
ただ、折角教えるなら、面積図くらい使って説明して欲しい。
すると、裏ワザに加え、面積図の一歩進んだ使い方にまで知識が広がる。

万一、もし、そのN研の先生がこの記事をお読みになっていたら
是非、次の授業からは、面積図による説明もしてやってください。


◎5月4日(水)
イチローがまた凄いことをやってくれた。

<以下、日刊スポーツのサイトよりの引用>
 7回表、1死二塁の場面だった。4番アンダーソンがすくい上げた打球を追ったイチローは、右足のスパイクの歯をフェンスに食い込ませ、その反動を使ってジャンプ。さらに右手で体を支えて滞空時間をかせぎ、フェンス最上部手前でもぎ捕った。しらけムードの球場が一気に感動と興奮のスタンディングオベーションに包まれた。
 「普段考えているプレーではありましたけどね。でもなかなか機会は巡ってこなかったし…」。長いシーズンでも千載一遇といえるプレーにも準備、イメージはできていた。敵軍の知将、マイク・ソーシア監督は「練習しているかのような信じ難い捕球だった。あれ以上のキャッチは見たことがない」と興奮気味に舌を巻いた。
 イチロー本人が話す通り、計算し尽くされたプレーだった。開幕直前の4月3日、セーフコフィールドでの練習だった。打撃練習を終えたイチローは右翼の守備位置に就くと、おもむろにフェンスまで走り出し、よじ登るようにして捕球体勢を取った。その練習のイメージがシーズン26試合目で現実のものとなった。
<以上、引用終わり>

あのスーパーキャッチはやはりまぐれではなかったのだ。
「普段考えているプレーではありましたけどね。」という発言
そして、実際、それに向けての「よじ登りトレーニング」
いやはや何とも

先日紹介した大村はま先生の著作のあるエピソードがダブった。

森繁久弥氏の講演についての話だ。
(「灯し続けることば」(小学館)p.156〜)
氏が
「なんにも考えてこないで、先生がたの前でお話をするなんておこがましいようですけれど」
というふうに講演を始めたというのだ。
ところが、その話はとても面白く、心にしみる話だったという。
講演終了後、質疑応答となって、ある人が
「大変面白かったですが、どうしたら、なんにも考えてこないのに、
そういうふうに、のびのびと、しかし筋の通ったお話ができるようになるのでしょうか」と尋ねたそうだ。
氏、答えて曰く。
「なんにも用意してこなかった、と言いましたが、本当は、うーんと用意してきました。みなさんに楽しんで聞いていただけるように、長い間、この話の案を練っていました。なんにも考えてこなかったと言ったのも、それも私の案でした」

何事にも周到な準備が肝心ということだ。
「気軽に聞いてもらうには何倍もの苦心がいることを知りました。」(同書p.158)
と、これは大村先生自身のご感想。

その場の思いつきでできることなど、やはりたかが知れているということだろう。

 

◎5月1日(日)
どこに書こうか迷ったのだが
(初め、「好きな言葉」に書こうと思ったが、一言を抜粋することなど不可能と思ったので)
とりあえずここに書くことにした。
前から存在は何となく知っていたが
まさかこれほどの人とは。

大村はまという人のことだ。

今日は久しぶりに終日フリーの日となり
返却もあったので図書館に行った。
まだ何冊か未読のものもあるから新たに借りずに帰ろうと思ったのだが
せっかく足を運んだのだし、ということであちこち物色。

すると、やはり何かがありました。
ふと目に留まった本。
あれっ、と言う不意打ちを受けました。
「灯し続けることば」(小学館)
勿論、大村はまさんの著作だ。
いや、「さん」ではいけない。
大村はま先生と呼ぼう。

正確には、先生の著作ではない。
先生の色々な場面での発言の中から
小学館の編集者の印象に残ったものを
その編集者が拾い出し、まとめたものだ。

とりあえず手に取り、まず、お写真を始めて拝見し
そのご高齢にびっくり。
だが、中身を読み出したら、もっとびっくり。
もう止まらなくなってしまった。
そうだ、ここは図書館だ。
だったら借り出して家でしっかり読めるじゃないか。
そう思い、すぐに借りた。
帰路の電車を待つ間、駅のベンチで読み出す。

感動の連続だ。
私が何気なく心に浮かび、しかし怠惰ゆえにそのまま消え去るに任せていた思い
その多くが語られていた。
それもとても平易に、分かりやすく。
「そうなんですよ、先生、私もそういうことが大事だと思います。」
そんな言葉を内部に発しながら読み進んだ。

殆ど見開き2ページでひとつの話のようにまとめられている上、
字が大きいので、とても読みやすい。
それもあるから、つい無批判に受け入れてしまうのかも
などと多少邪気に満ちた思いも抱きながら読んだが
やはり凄い。
どの1ページも読みとばすことはできない。
金言の連続。

あまりにも陳腐に聞えてしまうのを覚悟で言う。
これは、教育者たる者の
いや、親たる者の
いや、人間たる者の
バイブルであり、コーランであり、経典だ。
つまり、主義主張を超えて、あらゆる人間が読むべき本だということだ。

再度書く。

「灯し続けることば」(大村はま)小学館
本体952円+税

今、目の前に置いてある。
見ているだけで涙が出そうだ。

私は、返却と同時に買いに行くだろう。
いや、明日もう買いに行くかもしれない。
そして、何かに困ったら、すぐに何処かのページを開けるだろう。
どのページでも構わない。
先生の言葉なら、どの一言でも必ず何かの示唆を与えてくれるに違いない。

またひとつ図書館に恩になった。

 

◎4月25日(月)
久しぶりにターミナル駅に出る用事ができた。
あまった時間に、知人から「美味い」と聞いていたラーメン店に寄る。
え、これがあれほど彼が騒いでいたラーメン?
普通のラーメンと大きな違いが感じられなかった。
決してまずくはないと言ったレベルの味だ。

更に大型書店で参考書類を立ち読み。
裏ワザ、秘伝などと銘打たれた仰々しい本が並ぶ。
気になるので片端から立ち読みする。
え、これのどこが裏ワザなの秘伝なの?
既にどこでも習う解法だったり
多少変わったものでも、
よくある解法と比べ、特に大きな長所が感じられなかった。

別解を色々並べるのは楽しい。
だが、前にも書いたと思うが
子供によって、ピンと来る解法は違う。
ラーメンだって同じだ。
私が美味いと思ったものも、別の人にそのまま合うとは限らない。
人に薦められてガッカリすることもある。

私はとりあえず、
彼、彼女にもっとも受け入れられやすかろうと思われる解法を提示する。

「美味い」と思ってもらえるのを期待はしているが、
受け入れられない時には速やかに別のメニューに移行する。
個別指導だからできることだと思う。
これが個別指導の醍醐味でもある。
生徒が心底納得してくれること。
ただその一点のみを目指す。
決して自分が美味いと思う味だけに固執してはいけない。

だから最近、私は人にラーメン店を薦めることをしなくなった。

 

◎4月20日(水)
やはり最近の子供はどうも融通が利かなくなった。
いきなりで申し訳ないが
かなりできると思っていた子が
ある大問の(3)が分からないと質問してきた。
一応確認のため(1)(2)を見てみた。
すると

(2)で、
17秒までの間に起こることへの時間を問われて
68秒と答えて平気でいた。
これっておかしいよねと言うと、
不思議そうな顔をして何で違うのとでも言いたげ。
通っている塾の先生に見せたら、「それで合ってる」と言われたと言うのだ。
「でも17秒で終わってしまった事への途中のでき事についての質問だよね、
だから、17秒より小さい答えでないと筋が通らないよ」と言って何とか納得させた。

これでは、(3)が解ける訳がない。


生徒にもびっくりしたが
わざわざ質問を受け付けた先生が
ろくに内容も確認せずに合っていると言ってしまうことにもびっくりした。
こっちの方が大問題だ。
実は名の通った大手塾だ。
しかもそこの専任の先生とのこと。
更に言えば、その塾から配られたプリントの問題についての質問だ。
その塾では、春期講習のテキストについても同じようなことがあった。
テキストの問題について質問に行ったら
先生が解けなくて、「これはできなくて良い」と言ったと言うのだ。

質問を受け付ける以上は、教材くらいしっかり研究しておいて欲しい。
もし医者や看護士が同じような姿勢で仕事したら
下手したら刑事罰を受ける身となってしまう。
わが身を含め、しっかり肝に銘じたいと思う。

 

 

◎4月4日(月)
今日もテレビネタだ。
起きぬけ、天気予報を見た。
気象予報士さんが予報している。
東京は今朝は雨だ。
予報に耳を傾ける。

「でも、この低気圧、速い速度で東の海上に抜けていくそうです。
ですから、昼ごろにはもう雨もやむでしょう。」

おかしいと思った。
単なる言い間違えだろうか。
それとも、この人はこういうスタンスで天気予報を担当しているのか。
気象予報士を名乗っている以上
「抜けていくそうです」ではなく
「抜けていきそうです」と言って欲しかった。
アナウンサーではなく、気象予報士が担当しているのだから
その人が、状況を見て予報しているというスタンスで臨んで欲しい。

言葉の微妙さについてと同時に
受け取られ方についても良い示唆を得た。

 

◎4月2日(土)
昨日のテレビは面白かった。

まず「金スマ」という番組でマツケンサンバの振り付けをした方を見た。
小さい頃から踊りが好きで、踊れれば幸せだと言っていた。
そして、15才で単身上京し、踊り一筋を貫いてきたのだ。
日劇ダンシングチームのトップとなり
一日3回公演、かつ休憩中も練習していたと言う。
呑んでは踊り、浮かれては踊りの人生だと紹介されていた。
好きなことを早くから見付け、それに打ち込み続ける。
こういう人生が最も楽しいだろうな。
何より、一番感心したのは、マツケンサンバの振り付けの
指導の仕方だった。
まず教える側に迷いがない。
そして、伝えたくて仕方ないという様子がありありと伝わってくる。
例えがうまい。
生徒の様子を細かく見て、的確なコメント
さらには褒め言葉を欠かさない。
こんな風に教われば、誰でも覚えたくなるだろう。
かくいう私も途中からテレビの前で一人踊っていた。
指導するということの核心を教わった気がした。

次に見たのはNHKの「にんげんドキュメント」という番組だ。
セーラー万年筆の72才の職人社員が
全国で、メーカーを問わず、書けなくなった万年筆の無料出張修理をしているという話だった。
一歩間違えば、万年筆会社のプロモーション映像となりかねない内容が
気品ある番組作りで、立派なドキュメントとなっていた。
(こういう番組があるから、私はやはり不払いには踏み切れない。)
この職人さんは、万年筆のペン先を磨くことだけに専心してきたのだ。

先ほどの振り付けの方、
この万年筆職人さん
私の最も憧れる人生を迷いなく歩まれている。
「井の中の蛙、大海を知らず」という言葉があるが、
どなたか偉い方が、いや違う
「井の中の蛙、天を知る」だと仰ったと記憶している。
私も、良い意味での井の中の蛙でいようと思いを新たにした。

 

◎3月30日(水)
考える力を育てます!
と謳って(うたって)いる以上、まず自分が考えないと。

算数をやっていて、子供が苦手だと言うのが
ニュートン算と差集め算だ。
この解法は私自身も色々模索した。
面積図を使ったり、線分図を使ったり・・・・・
だが、結局、そのどちらも一長一短で
今はそれぞれ独自の解法(のつもりのもの)でも指導している。
もっとも、塾で習ったやり方が分からないという生徒には
塾の先生が使った面積図の意味、線分図の意味を教える。
それで充分に納得できる子には、その解法で覚えてもらう。

こいつはどうもピンと来てないなと感じたり
逆に、もっと鋭い技も覚えたがっているなと感じたとき
そう、その両方の場合に
「実はさ〜」と
やおら、別解の解説を始める。

だが、船頭が多すぎるとスープが冷める(笑)
あくまで、次の未知の問題に、より果敢にアタックできる姿勢を育てたいのだ。
だから、単にいくつもの別解を紹介することが良い指導ではない。
このへんの匙(さじ)加減が大事だ。

些事(さじ)と笑うなかれ。

 

◎3月21日(月)
ライブドアの社内風景をまた放映していた。
今度は自由な服装で仕事をしている人が多かった。
何だ、要は各自の好きな格好で良いんだ。
先日のつぶやきでは、その辺を誤解していたようだ。
また、堀江氏自身もジャケットを着始めた。
先日の連想はやはり的外れだったと言わざるを得ない。
まあ、私ごときの発言だから、殆ど害にもなっていないと思うが
とりあえず非を認めておく。

さて、長崎から帰ってから
あの坦々麺の味を東京でも味わえないかと
ネットなどの情報を頼りに
もう2軒、初めての店を訪ねて食べてみた。
800円のと892円のと。
見た目はどちらも長崎のものと殆ど変わらない。
ところが食べてみると、味は全く違う。
と言うより、あの絶妙のハーモニー感は全く感じられなかった。
値段はどちらも上なのに。

授業も同じだと思った。
形だけ同じようなことをやる塾や先生は数多いると思うが、
受けた生徒に学びがいを感じさせられる先生は、そうはいないと思う。
私は是非そうした授業をやりたいと思った。

素材が違うのか、調理の仕方が違うのか分からないが
とにかくあの坦々麺は絶妙の味だった。
価格が735円なのだから、それ程の素材は使ってないと思う。
やはり調理人の技なのだろう。
私もまさにそうした授業人になろう。
教材、問題はありふれたものなのに
学べることが一味違う授業。
ある問題の答えを出せるようにすることが指導ではない。
解く喜びを与え、次の課題に立ち向かいたくさせることが指導だと思う。
まだまだそのレベルには達していないと思うが
それでも授業中に子供の喜ぶ顔を見られることもある。
それが常態となることをまず目指そう。

それにしても、ネットの力はまだまだだな。
坦々麺をキーに様々な検索をかけてみたが
碌でもない情報ばから出てきて
あの長崎のお店のことなど誰も語っていなかった。


◎3月19日(土)
面積図や線分図の簡単な解説を載せたせいか
その解法についての問い合わせが増えた。
だが、速さの問題などはやはりダイヤグラムを使うのが王道という気がする。
例えば、速さのつるかめ。
サピックスの生徒も面積図で習ったと言う。
確かにその解法が一般的だが
ダイヤグラムと比を使っても案外と簡単に解ける。
中堅レベルの子にもそうした解法は結構新鮮に映るらしく
受ける。
受けるということは印象が深いということで
即ち記憶にはっきり残るということだ。
ダイヤグラムと比の解法が印象に残れば
これはもっとひねった速さの問題に応用が利く。
先生がテクニックや力をひけらかす為の別解はどうしようもないが
次につながる別解はやはり時間の許す限り触れたいと思う。

 

◎3月17日(木)
北九州を駆け足旅行してきた。
この年(非公開だが)にして初めての九州だった。

感じることは多々あったが
一番印象に残っているのは食べ物だ。
そもそも旅の楽しみの一つは食べ物だ。
仕事だろうが、遊びだろうが、初めての地を訪れるとき
そこにどんな店があるのか、どんな食べ物があるのか
それを思うとわくわくする。

今回の一番のヒットは
長崎中華街で食べた坦々麺だ。
735円で、私は一時天上世界に遊ぶことができた。
今まで食べてきた坦々麺は一体なんだったのか。
しかもどれも735円以上の値段だった。
味は好みの問題もあるので、人によっては月並みと思う人もいるかもしれない。
だから、あえて店名までは載せない。

私は再び長崎の地を訪れたい。
時間がなく、ゆっくり訪れることができなかった
平和祈念公園やグラバー邸のため
ではない。
あの坦々麺をもう一度食べたいからだ。

路面電車の車窓から垣間見えた出島の風情
古い洋館の外観
そうだ、200年前、ここには唯一外国の空気があったのだ。
そして、その中には、オランダの人だけではなく
中国の人たちもいたのだ。
中華街の由来はあるいはそこまで古くはないのかもしれないが
長崎は確かに独特の気配の漂う街であった。


◎3月9日(水)
しばらく人里を離れていた。
久しぶりに街に戻り
インターネットやテレビにまた触れた。
考えたら凄いものだ、どっちも。
勿論ラジオも。

堀江という人は、一代で今のライブドアを作り上げた。
いや、作り上げつつあるという言うべきか。
実際、私のような小人(しょうじん)には、彼の業績の意味どころか
規模さえつかめない。
節税と口にしながら、100円ショップのレシートを探し回っている男が
800億円をすぐに借りられる男のことを書いても何の説得力もないかもしれない。(笑)
「自らの仕事の内容を語らない」と前回のつぶやきに書いたが、
仕事の一端は絶えずネットにさらされている。
むしろ、金融関係など、具体的に語られてもこっちの頭が着いていかないだろう。

対する亀淵という人も、昔は名だたるDJの一人だった。
オールナイトニッポンは今も続いているのを最近知った。
こちらだって、やってきた仕事
やっている仕事は周知なのだ。
それを今からまた細かく語る必要もないのだろう。
テレビが世に出てきて、ラジオの隆盛は終わったのかもしれないが
ラジオならではの機能もあるようだ。

インターネットが万能のように言われても
テレビの機能、ラジオの機能を補完できない部分もある。

ネットの力と既存のメディアが対立するのではなく
補完しあいながら発展してくれたらと思う。
新しいメディアが生まれれば古いメディアに影響は出るだろうが
単に規模の大小の変化ではなく、質の変化を考えれば
その効果はプラスと捉えて(とらえて)いけるのではないか。

ちょうど電子辞書に似たものを感じる。
英語学習の際の英和辞典のことだ。
電子辞書が出てきて紙の辞書はなくなるように言う人もいたが
機能が違うと思う。
サッと引き、すぐに表層をなぞるだけなら電子辞書が良い。
でも、構文を知り、複数の品詞のあるのを知り、様々な例文を一気に比較するなら
やはり紙の辞書が勝っている。
書き込めるのも良い。
そして、電子辞書メーカーは全て紙の辞書メーカーとタイアップしている。
だからこれだけの伸びを示せたのだろう。

ある学校で、生徒に電子辞書を使わせたら、生徒の学習意欲が増したとのニュースを先日見た。
そういう面もあるのだろう。
だが、私は生徒には紙の辞書で引かせる。
それも大学受験までなら、ジーニアスを使わせる。
構文、例文を読ませ、比較させる為だ。
そして、私も同じ辞書を持っているので、何ページの何行目と言いながら
辞書を使って文法的な解説をする。
究極の文法書という気がする。

話が飛んだ。
要は、そういう連携は、株の買占めなどしなくても行われたということだ。
(いや、ひょっとしたらあったのかもしれないが、ニュースになるほどのことはなかった。)
少なくとも、利用者の利便という視点からなら
電子辞書の発達はありがたい。
しかも、それにより、紙の辞書が廃れるということはないと思う。
むしろ利用の仕方がより深まるのではないか。
少なくとも私にとってはそうだった。

インターネットもそうした発展をしていくと思う。
コンテンツと入れ物という点は、
辞書の話ほど単純ではないが、
何らかのメタファーは感じられると思う。


◎3月5日(土)
ライブドアという会社の内部をテレビで映していた。
全員社長と同じような格好で仕事しているのかと思ったら
Yシャツにネクタイの人も結構いた。
取材に応じている広報の女性も
ビシッとビジネススーツを身につけていた。
だったら、あの社長は何故あのような格好のままマスコミに露出するのだろう。
若者への親近感をアピールするためか?

労働者への親近感をアピールするためにか、
側近にはスーツや軍服を着せておいて
いつも自分だけ作業服を着ている何処かの国の独裁者をふと思い出してしまった。

他意はない。ただ思ったままを書いた。
ニッポン放送にも
ライブドアにも
何の思い入れもない。

「私の夢は会社を大きくすることなんです」とか
「フジテレビの子会社になることを望んでいます」とか
自らの仕事の内容について語らない経営者に全く興味は沸かない。

街の片隅の、ちっぽけな個人塾とはいえ
私も経営者の端くれと思っている。
だが、規模だとか、系列化だとか
そうしたことと、自分がやるべき仕事との間に
何のつながりも見出すことができない。

私はただ
子供の好奇心をどうしたらより活性化できるか
とか
遠くからわざわざ通う子をいかにガッカリさせないか
とか
自分へのサービスをどう捻出していくか
とか(笑)
そんなことしか考えられない。

節税のことも考えているが
利に走りすぎて
挙句に拘置所で寒さに耐えるような境遇
にだけはなりたくない
とも思う。

めでたさも中くらいなりおらが春

こんな良い忠告が二百年も前に為されているのに
なぜみな心に留めないのだろう。

一番と二番の違いは限りなく大きいと
ある人が最近忠告してくれた。

金メダルを取った選手のことは覚えているが
銀以下のメダルの人はみな同じように忘れ去られる
といった根拠が示されていた。
聞いたときは成る程!
と思ったが、時間が経ってみれば、
中くらいのめでたさの方が楽しいような気がしてきた。

少なくとも受験は一番でなくてよい。
中くらいのめでたさを感じられる力があれば
必ず合格者の側に入れる。
300人合格の学校なら、
1番も300番も同じなのだ。
だから、小ざかしいテクニックに走るのではなく
あくまで一問一問にじっくりと取っ組める実力を養おう。
そうすれば上位でなくても、合格にはきっと食い込めるだろう。

あれ、ビリで合格しようとする方がよっぽど小ざかしいかな?

 

◎2月18日(金)
何人かの方から今年も新規のお問い合わせを頂いている。
現在空きコマはないが、空きが出次第に募集するつもりでいる。
お問い合わせを頂いている方には、サイトで公開募集する前にお知らせするつもりだ。
だから、新規募集開始を確認するためだけにサイトを見る必要はない。
安心して、お子さんの学習フォローに専念してほしい。

新年度の準備が一段落し、今年の入試問題を解いているが
開成と駒場東邦の算数にはびっくりだ。
普通の問題になってしまった。
昨年までのハードな問題を想定して試験問題をめくった受験生の中には
あまりの様変わりにずっこけた子もいるのではないか。
いや、これにはきっと何か落とし穴があるんだと疑心暗鬼になった子もいたかもしれない。
まあ、これは冗談だが、でも、「あれ?」と思った子は少なくなかったと思う。
(そして、きっとそう思えた子は合格したのだろうな。)
案の定、今年の合格最低点は両校とも昨年より大きく上昇している。
一方、作問方針を維持した麻布と武蔵は例年通りだ。
各校毎に、どんな創意工夫が為されたのか
これが入試問題を見る楽しみの一つでもある。
今年の武蔵の4番など、敬服の1題だ。
これは本サイトでも紹介している今年の開智の問題の系列に入れられると思う。
もし事前に、開智の本問を真剣に解いた子がいたら
武蔵受験にとても有利だったろう。

ところで、方針転換した(?)開成と駒場東邦は来年どうするのだろう。

 

◎2月6日(日)
第一志望に不合格となってしまった生徒のご家庭よりメールを頂きました。
「『私はもう○○中学に合格したし気に入ってるんだから、
パパとママはもう落ち込むことないよ』という娘の発言等、
ここに来ての娘の急成長ぶりに驚かされ、喜んでおります。」
とありました。
またその中学の合格者説明会に参加し、
「先生方の真摯な言葉に接し、
この学校に娘を託そう、という気持ちが心からわいてきました。」
ともありました。
その学校の説明会に伺ったとき、私も同じような感想を持ったので
自信を持ってその学校を押さえ校として推薦しました。
それでよかったのか?
という迷いも自分の中にあったのですが、
今日のメールでその迷いも消えました。
今週から久保田塾も新たな年度の開始です。
たった一人の塾ですが、
今年もできる限りのサポートをしていくつもりです。
(今日は気分も優しく、敬体でのつぶやきとなりました。)

 

◎2月4日(金)
今年は昨年夏前から継続して指導した受験生は6名だった。
付属の内部進学試験の子も入れると7名。
うち6名が第一志望合格。
つまり受験校全部に合格だったということだ。
残る1名も押さえはきちんと決めてくれた。
これで今年の入試も一段落だ。

この時期は毎日が選挙翌日のような気分だ。
開票速報が毎日ある感じ。
徐々に判明していく開票結果の代わりに
入試問題の内容がジワジワと最終結果へと導く。
「おお、これなら何とか行ったか?」
とか
「あれ、こんなん出たけど解けたかな〜?」
とか
様々な思いが駆け巡り、段々具体的な合否の予感が強まってくる。

そしていよいよ発表。
今はネットでの発表もかなり普及してきたので
こちらが先に合否の結果を見てしまうこともある。
それでも本人からの合格報告の電話は嬉しい。
お母さんが知らせてくれることもある。これも嬉しい。
だが、もっと嬉しいのは
(誤解しないで欲しいが)
不合格の報告を頂いたときだ。
この嬉しさは、本人やご家庭のものでないのが確かなのは言うまでもなかろう。
本人ご家族にしてみたら、どれだけ悔しいことか。

ではなぜ嬉しいのか。
不合格を人のせいにせず
その事実を受け入れ、きちんと人に発せる
その気持ちのありようが嬉しいのだ。
本来閉じてしまう殻をあえて打ち壊して
自分の位置をしっかり把握しようとしてくれていると感じられるのが嬉しいのだ。
百歩譲り、殻ができつつあるとしても
少なくとも私をすぐにはその外に排除しなかった。
これだけでも嬉しい。

そもそも「合格」はゴールのひとつではあるが、
最後のゴールではない。
むしろ、新しいスタートラインに立てたということなのだ。
もっと先にまた新たなゴールが設定される。
最も肝心なのは、最終ゴールを通過するときの状態だ。
そのゴールは卒業の時ではない。
卒業よりもっと先にある。
小学生も中学生も高校生も
もう人生をしっかりと歩んでいるのだ。
ゴールと新たなスタートライン、そして新たなゴール
その連鎖が人生なんじゃないか。

ゴールを迎えると、実はそれが新たなスタートになる。
ひとつの謎が解けるとそれが新たな謎の誕生になるという
ベストセラー推理小説のストーリー構成のようだが
人生はそういうものだと思う。
あるいは次のゴールは「設定される」のではなく
それを決めることが人生の課題かもしれない。
小説は作家が敷いたレールの上を走るだけだけれど
人生は次のゴールを自分で決められる。
「だから大変」なんじゃなくて
「だから面白い」となって欲しい。

私がそのときを振り返るように
君たちもいつかこのときを振り返るときがくる。
今度の結果は、君の人生では、今は世界を揺るがすほどの大きなものかもしれないが、
ずっと先から見たらほんの一瞬のことに過ぎない。
「残る1名も押さえはきちんと決めてくれた」
これは自分の成果を良く印象付けようと書いたのではない。
君の期待に応えられなかった自分を元気付けるために書いているのだ。
今日のつぶやきは文字通り私の心の弱さからもれ出たつぶやきだ。
だから、誰の心にも何も伝えられないかもしれない。
あるいは何処かで誰かが既に書き記したことと殆ど同じようなことかもしれない。

だが、私もこの結果をひとつのゴールとして
また新たにスタートラインを切る。
その決意には、やはりこういうつぶやきが必要なのだ。

それにしたってやはり

不合格の知らせで嬉しい訳がない。
私も悔しくてならない。

 

◎2月1日(火)
今や試験開始の時限である。
僕も彼ら彼女らとともに苦闘しよう。
問題集を積み上げ解き続けよう。
彼ら彼女らの頭脳が僕の頭脳とリンクし
最大の力を発揮してくれることを祈りつつ。
乙女よ益荒男よ
あらん限りの知恵をしぼれ
そしてくだらぬ読み違えなどよもやなかれ。
向かう壁の厚きが君の闘志を
いやましにかきたてんことを。
祈念。

 

◎1月28日(金)
今週は、通塾の小6受験生最後の授業だ。
今年の小6にも色々なタイプの子がいた。
その中の一人。
普段殆ど無表情で、こちらの質問にだけやっと答える子がいる。
やる気があるのかないのか、当初は皆目見当が付かなかった。
質問にもなかなか答えられず、分からないのか
声が出せないだけなのか
初めのうちは、それすらもつかみかねるような状態だった。
宿題も忘れてくることが多かった。
繊細そうな子だし、ちょっと心配だったが
宿題についてはしつこく聞いた。
「忘れちゃった」
やっとその一言を発する。
こっちも更に聞く。
「やったのに持ってくるのを忘れたの?
やるのを忘れたの?」
「持ってくるの忘れた」
こちらとしては黙るしかない。
「じゃ、来週は必ず持ってきてね」
この子には、この信頼が利いたのか
苦手だったものが少しずつ克服されていった。
受け答えも少しずつだが早くなっていった。
だが、質問の答え以外は一切しゃべらないというのは変わらなかった。
ひょっとしたら笑顔も見たことがないかもしれない。
ただ黙々と問題に取り組むだけ。
最後に帰るときも挨拶もなしに去る。
気にはなっていたが、反抗的な態度ではないし
単に精神的に幼いだけだろうと看過してきた。

その生徒が昨日
玄関を出るときに
「ありがとうございました」と
本当に小声ではあったが口にして帰っていった。
幻聴か?
いや、確かに言ったぞ
しばし佇み
閉まった扉を見つめた。

私は、育て方のマニュアル本とかをあまり信じない。
一人一人が微妙に違う。
まず目の前の子供を見て、自分が感じ取れるものを信じる。
それで大丈夫か?
判断ミス、見落とし、見誤りはないか?
毎年、その確認をしているような気がする。
だから、一年を掛け、実は私も色々と学ばせてもらっているのだ。


 

◎1月26日(水)
千葉、埼玉での入試問題が手元に来た。

これからの受験に、少しは役に立つかと思い
面白い問題をいくつかピックアップして
自分なりの解法をまとめてみた。
各中学の解答ではないので、責任は全て当塾にある。

最後の知識確認に活用してほしい。

 

◎1月26日(水)
私は最近、ニホンと呼ばれる国を旅行した。
その国にはニホン新聞協会(NSK)という新聞社があった。
その新聞は意志の有無を問わず、全ての家に配達される。
郵便ポストがあれば片っ端から配達され、購読料が取られる。
紙面内容は誰にも必要なものをとのことらしいが
総花的な内容は、万人に受けるというよりは
万人に中途半端と受け取れるようなものだった。
また国とは独立して取材しているとのことらしいが
政治家からは内容のチェックを受けているらしい。
よくそれで新聞と言えるなと思ったが
その国の住人は文句を言わず購読料を払っている。
なぜなら、法がそう定めているから。
国の政策としてその新聞を全国民に強制的に読ませているのだ。
自由の国、日本に生まれ育った私には不思議な光景だったが
その国民の殆どはそれが当たり前と思っているのか
表立って異を唱える人はいなかった。

所変われば品変わるとはよく言ったもので
そんな国もあるんだな〜
よくその国の国民は黙っているもんだと
感心しながら帰国した次第だ。

 

◎1月14日(金)
日能研に通う生徒から、必勝鉢巻きへの激励文を頼まれた。
思いつくままに書き始めて
ケアレスミスの偶に出る子なのを思い出し
「落ち着いて問題を読む」などと書こうとして
慌ててペンを止めた。
受験の激励に「落ち」はまずいだろうとふと思ったのだ。
思案の果て、「冷静に」と言う言葉を思いついた。

何のそれしきのことと思われる向きもあるやもしれないが、
やはり気を使う。

それにしても、ちょっとした一言の持つ大きさにうなることがある。

今日の歌会始の佳作には思わずうなった。

〈群馬県 天野莉那さん〉小3だそうだ。
 お母さんお母さんてばお母さん影ふみ歩き明日も天気

こんな短歌を作ってもらえるお母さんは幸せだな。
この短歌に感動できる小学生も幸せだな。
勿論大人だって。
大の大人の私だって、凄く凄く感動させてもらいました。

でも、この歌の幸福感があまりにも大きいだけに
子を失う親の悲しみ
親を失う子の悲しみ
そうしたものにも自然に心が動く。
阪神淡路大震災、中越地震、スマトラ沖地震
世にはびこる変質者犯罪、交通事故
数限りのない毎日の事故
そして難病

私の母も現代医学の及ばぬ病で、発病から3ヶ月で逝った。

たった三十一の音が、見事に私の琴線をかき鳴らしてくれた。

 

◎1月12日(水)
毎日スマトラ沖地震の津波映像がこれでもかこれでもかと映し出される。
新着映像と強調して放映したりもしている。
マスコミは新しいものはないかと必死で探しているようだ。
視聴者を飽きさせないため?

「被害写真集を観光の為に売っている人がいる、許せない」と言った報道もあった。
そのテレビ局が視聴者の関心を引くために新しい津波映像はないかと奔走している。
何だか寂しい気持ちになる。

日本での地震について、損壊家屋への補償金を出す出さないの話もテレビで見た。
阪神淡路地震や鳥取地震でどういった対応が取られたかも報じていた。
県が独自に補償金を出し、国からクレームをつけられたと報じていた。
何故国はクレームをつけるのか、それは許せないという姿勢の報道姿勢だった。
確かに損壊家屋をいかに建て替えるか、あるいは補修するかは大きな問題だと思う。
倒壊家屋の撤去だけでも相当な費用が要る。
「住む城が確保され、初めて生きる気力も沸く」
という、被災された方のコメントも紹介されていた。
その通りだと思う。

だが、ふと思ったのは不謹慎かもしれないが
「3匹のこぶた」の話だった。

壊れた原因が狼ではなく
地震だとしたら。
ケチって、先見の明もなく、藁や木で家を作り
全壊となった2匹の豚には満額の補償が為され
がんばってレンガで家を建てた子豚には
家が少ししか壊れなかったからとすずめの涙の補償しか為されなかったとしたら
それは妥当なのか
ということだ。
(あくまで例え話として思いついたままを書いたので
実際の現場の実情とはかけ離れているかもしれない。
被害にあわれた方がご不快になられることのないのを祈る。)

今回の大津波に関しても
内陸の貧困地帯の住人が
海岸部の救援物資をもらいに出てきて
地元民ともめているとのニュースもあった。
誰を何のために救う為の救援物資なのか。
そもそも、津波すらないのに食べるに窮する人たちには
何の援助もいらないのか。

また内戦状態の地域では、
援助を政治的に利用している動きもあるようだ。
規模が違うだけで
津波が与えるのと同じレベルの被害を与え続ける「兵士たち」が
その被害者たちに救援活動をしているのは皮肉としか思えない。

募金に応じる人たちはその使途まで考えているのだろうか。
募金する側も、もっと具体的な使途を特定して募金したらどうだろう。
例えばインドネシア政府に送る募金とか
国連に送る募金とか。

 

◎1月7日(金)
数々の著名人が今回の災害に莫大な寄付をしている。
純粋な動機での行動だろう。
だが、いつもこうした報道に接して思うことがある。
数の力だ。
自然災害で亡くなる人はこれまでにも何人もいた。
中越の地震やその前の台風で、村自体がなくなるかもしれないとの報道もあった。
被害に遭われた方々にとっては、他の犠牲となられた方が何人いるかは無関係だろう。
数が集まった時、初めて耳目を集める。
そういう意味で今回の津波被害ほど世界の注目を集める事件はない。
だが、被害者一人にとっての被害は同じだと思う。
今回の惨状の映像を見て、確かに尋常ではないと思うが
他の災害被害者と今回の災害被害者とを区別することはできない。
例えば今回の援助金についても
何千人も亡くなられた国にはそれなりの額が届くのだろうが
犠牲者が一人とか、震源からあまりにも遠い地域の被害地域にも何かが届くのだろうか。

更に思う。
被害者の悲しみで言ったら、
むしろ神戸や長崎や奈良での変質者が起こした事件の被害に遭われた方の方がよりやるせないのではと。
全く話が異なってしまうが、
ヒロシマの名前は今でも深く記憶に残っているが
例えばソンミと聞いて、どれだけの人が事件を思い出せるか。

 

◎1月6日(木)
新たな年の始まり。
とは言っても、3日から授業を始めている。

6年生は過去問演習の真っ最中だ。

過去問演習のやり方についての問い合わせをよく受ける。
塾ごとに、先生ごとに、様々な意見があると思う。
私のやり方がベストとは思わないが、
私のやり方、私の考えを少しだけ述べておく。

過去問演習の第一の、そして最大の目的
それは敵を知ることである。
どんなことを、どの程度の深さで聞いてくるのか。
それを知るのが一番の目的。
だから初めから無理に合格点を取る必要はない。
むしろ、何がまだ弱いのかがはっきり分かった方が良いと思う。

(もし入試より一月も前に充分な合格点を取れるなら
ひょっとして、もっと上の学校を狙っても良いかもしれないし。)

最近の5年分くらいを解いてみると、その学校の癖が感じられてくる。
また、1次と2次とでは、出題の感じを変える学校のあるのにも気付く。
どちらを受けるのかで、対策も若干変わってくる。

第二の目的は、出題形式に慣れておくこと。
計算問題はどの程度出るのか。
初めにあるのか、途中にあるのか。
独立した計算問題は全く出さない学校もある。

また、計算を何題も出すが、逆算を出さない学校もある。
単位換算だけの計算を出す学校もある。
「出ないだろう」と何もやらないわけにもいかないが、
苦手なことがあまり出ていないようなら
思い切って、その部分は重点対策から外しても良いと思う。

実際に合格点を取れるかどうかはあまり大きな意味を持たない。
家でやる方が本番の試験場でよりも気が緩んだり、リラックスできたり
相当にコンディションが違うと思う。
また、直前は、一日ごとに実力が伸びる。(はずだ)
だから、何日も前に合格点に届かないと言って不安になることもない。
「あと、どれを取れば合格に届くか?」
そういった目で点数を捉えれば良い。

そして、何度でも繰り返しやってみよう。
答えを覚えるくらいにやってしまおう。
そこまでやれば、試験当日、相当自信を持って
また安心して本番試験に対峙できると思う。
「あ、またこれだよ」なんて気分で入試を迎えられたら最高だろう。

以上が、私の過去問演習への基本姿勢だ。