セイロンのゼロ戦

サンフランシスコ平和会議とセイロンのゼロ戦


2005-7-15
サンフランシスコ平和会議とセイロンのゼロ戦
日本帝国軍機、セイロンを爆撃す映画にならなかったセイロンの日本兵
日本兵、トリンコで救助される映画にならなかったセイロンの日本兵
映画にならなかったセイロンの日本兵映画にならなかったセイロンの日本兵
爆撃関係資料1
爆撃関係資料2
参考→サンフランシスコ平和会議のことを詳しく知りたいのですが



トリンコの日本兵;資料1

 前回まで3回に分けて連載した「日本兵、トリンコで救助される」の記事を作成するに当たっては次の資料を参考にした。
 以下の資料のうち英文資料はウェブサイトで公開されている。なお、ウェブサイトでは個人名が特定できるが、ここでは匿名にして記載した。また、防衛研究所の資料にある個人名はここには掲載していない。
 日本語で書かれたインド洋作戦の記録は一般市民の被害に触れたものがない。また、当時のスリランカの国内事情に言及したものもない。こうした現状は戦争が与える市民への負の影響を隠蔽している感が否めず、スリランカでの日本の評判にも影を落している。スリランカの国土建設に膨大な額の貢献をしている日本は援助額をかざしてスリランカの公道を大手を振って歩く。それを眺める市民は日本人の様を裸の王様の行進と感じている。大盤振る舞いの旦那はその「善意」に陶酔して普通の人々から失笑を受けていることに気づけない。日本軍の空爆はスリランカの人々に語られ伝えれている。日本人はそのことをまったく知らない。


資料1
 ディリ-・ニュース 2002年4月5日記事 「1942年の今日、日本人はコロンボを攻撃した」から

 
大英帝国の極東における支配地が日本人によって奪われると全軍がセイロンに引き揚げてきた。すぐさまルイス・マウント・バッテン卿がインドから呼び寄せられペラデニアの植物園に最高司令部が置かれた。
 コロンボの全学校が閉鎖され病院・兵舎とされた。国立博物館は陸軍司令部となった。ここに主計官が配置され、陸軍少年兵の募集部がゴールロードのコルピティヤ399に設置されグナティラカ少佐がその長に任命された。
 各地区には政府支局が開設され、幕営地が主要港およびトリンコマリー、カンディ、ケキラワ、ダンブッラなどに置かれた。バッテン卿の使用に供するためマーワタガマに飛行場が作られた。
 通信には特に配慮が為された。電話は盗聴の恐れがあるため、フーラーフォンの名で知られる技術が採用され、司令部とトリンコマリー、カンディ、ケキラワ、クルナェーガラ、ベントータの間が地中ケーブルで結ばれた。
 また、高射砲がゴール・フェイスのハブロック公園、オーステンバーグ、ニラワリ、プランタン・ポイント、エスプラネードとトリンコマリの各所に設置された。高射砲には王立砲兵隊とセイロン砲兵隊が配置された。
 
海軍将官ジェフリー・レイトンが民生防衛軍を組織するためにジャワから呼ばれた。セイロンの港に着いたとき、多くの船舶が港湾の外に停泊しているのを見て、これは日本軍とイタリア軍の潜水艦の餌食になると指摘した。

米は配給制となり、キップが支給された。「食料生産を増大せよ」「食料の略奪には死を」というスローガンが張り出された。

空襲が始まるとサイレンがならされ、市民は外気を遮断したシェルターに逃げ込み歯に枝を挟んで噛み締め「イエロー」が去るまで閉じこもった。

コロンボ空襲は米国太平洋艦隊に大打撃を与えたパールハーバーのヒーロー南雲忠一と淵田美津男を指揮官にして行われた。

セイロンの英国空軍は20機、淵田美津男の部隊は120機。英空軍20機はゴールフェイスの競馬場から飛び立ち空中戦となった。1942年4月5日。イースターの日曜日の朝である。

セイロン砲撃隊と王立少年砲撃隊は日本軍機を地上から狙った。日本軍機の1機がセント・トーマスのグラウンドに、また1機がケラニア寺院の近くに落ちた。アンゴダ精神病院も日本軍機に爆撃され15人の入院患者が亡くなった。これは誤爆であるとされ、後に日本はセイロン政府に対し謝罪している。


資料2
 ディリ-・ニュース 2002年4月7日記事 「60年前、日本はトリンコを攻撃した」から


1941年、第二次世界大戦に加わった日本は42年4月9日、トリンコマリーを空爆した。

石油タンクに 自爆 攻撃をかけた97式艦攻の記念碑
「シゲノリ・ワタナベ、トモヤ・ゴトウ、ツトム・トシラが搭乗した攻撃機はこの池に落ちた。燃え盛る炎が7日間続き、火が収まってみればそこに残されたのは頭蓋骨一つであった」
※この記念碑はスリランカの石油公社によって建てられた。シンハラ語と英語で事件が記されているが、日本語の説明文はどこにもない。
 Sunday Observer Mar-7-2002

トリンコマリーの市民は当時、英国海軍本部、軍司令部に就職口を見出していた。防衛を固める英国軍が雇用を増やしたため、他の地区の人々もトリンコマリーに集まって来た。軍施設で働けば秋にはまとまった金が手に入り、故郷に帰って野菜・果物・魚を扱う小商いを始めるられるはずだった。

6時30分、日本軍機がトリンコマリー上空に現れ、造船所、フレデリック空軍基地、石油貯蔵タンクなどを爆撃した。このとき造船所、空軍基地で働いていた市民はその多くが日本軍機の空爆の犠牲になった。

空軍基地で働いていた市民の一人がそのときの様子をこう証言している。
「爆撃機は6機が一団となって空軍基地の上にやって来た。そして、急降下を始めた。銀色のものをいくつも落し始めた。それが地上に落ちると爆発した。このとき始めて空襲だとわかった。屋根で働いていた男たちは枯葉のように吹き飛ばされた。私は慌ててコンクリート管の中に逃げ込んだ。爆撃が終わっても小1時間、コンクリート管の中にいた。外に出てみるとあたりは死体の山だった。生きている人なんていなかった。自転車を見つけたのでそれに乗って基地を出ると沢山の人々がアヌラーダプラへ向かう道を歩いていた。みんな、着の身着のままだった。手にしているのはちょっとした身の回りのもの、多くは衣類だった」

こんな証言もある。
「海軍造船所で働いていた多くの市民が死んだ。混乱の中で指揮など取れるものではなかった。だれも死体に気を払うことはできなかった。死体は4日間放置され、そのあとでニラウェリ道路に面する現在の戦争墓地に運ばれ荼毘に付された」

日本軍機が目標とした石油施設爆破は失敗に終わった。爆弾は一つとして石油タンクに命中しなかった。最後に3名の乗組員を乗せた攻撃機がタンクの一つに突っ込んで行った。大爆発が起こって機体が吹き飛んだ。3人の命を犠牲にして’敵’が破壊できたのはただ一つの石油タンクだけだった。自爆で1週間にわたって燃え盛ったタンクは今では人々の語り草になっている。
 自爆をした攻撃機は機体の一部が燃え残った。乗員の頭蓋骨が一つ残っていたが、あとで誰かが持っていったようだ。そのタンク(No91)は現在、セイロン石油会社が所有している。

トリンコマリーの人々は爆撃でパニックに陥った。再度の空爆を逃れようと8時30分発の汽車に乗ってトリンコマリの町を離れた。キップなど勿論ない。荷物は身の回りの衣料だけだ。母親は赤ん坊をしっかりと抱いていた。貨車や荷馬車に乗って逃げ出す人々の姿は悲惨なものだった。