セイロンのゼロ戦

日本帝国軍機、セイロンを爆撃す





サンフランシスコ平和会議とセイロンのゼロ戦
日本帝国軍機、セイロンを爆撃す
日本兵、トリンコで救助される映画にならなかったセイロンの日本兵
映画にならなかったセイロンの日本兵映画にならなかったセイロンの日本兵
爆撃関係資料1
爆撃関係資料2
参考→サンフランシスコ平和会議のことを詳しく知りたいのですが




日本帝国軍機、セイロンを爆撃す

 話は日本が当時のセイロンを2度にわたり爆撃したことに始まります。
 爆撃は1942年4月5日にコロンボ、同月9日にトリンコマリーに対して行われました。この攻撃はインド洋作戦として知られています。しかし、前々回にもお話しましたが、戦争ファンの方々が爆撃の成果や軍備の優劣を競ってこの作戦を語るのとは違う視点で、ここでは爆撃された側の視点に立って「セイロン島」爆撃のその後をお話します。これはインド洋作戦の影の部分に焦点を当てて映画化しようという話が1997年に持ちあがったことにも関係しますし、何より独立後のスリランカとサンフランシスコ平和会議以降に再独立した日本との友好にもかかわる見逃すことの出来ない事件だったのです。スリランカで語られる日本のことが日本では一切語られることがない。こうしたことは外交儀礼の上ではよくあることなのですが、外交のテーブルの上では取り沙汰されずとも、世間では影の部分がやり取りされて人々の心情を形成して行くことも、やはり多くあるものです。

 No/83では日本の潜水艦が座礁し日本兵がトリンコマリーの沿岸で救助されたと書きました。しかし、先週、読者の方からいただいた情報ではトリンコマリーの攻撃の際、日本のゼロ戦が1機、行方不明になったとされています。そのゼロ戦は不時着し、パイロットが住民によって救助され、寺にかくまわれ、そののち日本に送り返されたというのです。この話はスリランカで語り伝えられ、たまたまその話を当地スリランカで聞き得た日本の映画プロディーサーが映画化のプランを立てました。

 映画化の話は1997年8月8日の東京新聞、同11日の中日新聞などに掲載されました。日本とスリランカの友好を語り、築き上げてゆくには格好の題材ですから、いくつかの設定上の理不尽な点をを取り除いた上でシナリオが書き上げられ、日本人監督が選定され、そこにこの話を日本人プロデューサーに持ちこんだスリランカの映画監督が協力して日本-スリランカ合作、ということになるはずでした。新聞も特報部扱いの見開きでその動きを伝えたのですが、映画化は残念なことに頓挫しました。
 この話がフイになったのは、折からのバブル景気破綻で資金が工面できなかったという憶測や、また、中には映画化は金集めの方便などという、やや中傷めいた噂もくすぶりました。
 さて、そうして頓挫した話を蒸し返すのが、ここでのテーマではありません。
 あの「トリンコの日本兵」の出来事を、残された資料から、より正確に辿ることはできないか。
 シンハラ人の誰もが知っていることなのに、当地に赴任してスリランカのために働く日本人が知らないでいるのでは、友好の基礎が揺らぐのではないか。
 それらの疑問・懸念を払拭するために今回、このお話をすすめていきます。

ゼロ戦、97艦攻、99艦爆、撃墜される
 スリランカで撃ち落された日本の戦闘機はゼロ戦ばかりではありません。97艦攻、99艦爆の急降下爆撃で高名を馳せた軍用機も攻撃され、撃墜されています。そのパイロットたちはどうなったのでしょうか。戦後処理に疎い日本政府のことだから何もわからないのだろう、という憶測は当たっていません。少しはわかるからです。
 では一方、スリランカは日本の戦後処理をどう捉え、どう理解しているのか。また、スリランカの人々はこのことをどう考えているのでしょうか。日本との友好は心から生まれたものでしょうか。それとも、友好はプロジェクトやドネーション目当ての功利なのでしょうか。撃墜されたパイロットに関する情報を探れば、そのあたりの事情が見えてくるでしょう。
 「トリンコのゼロ戦」の噂が、再び映画化の話に昇華しないとも限りません。映画を作る事情は10年前とはすっかり変わりました。誰もが映画を作れる時代です。また、1997年の時とは違った意味で、日本とスリランカを結ぶ創作活動が必要な時代にもなりました。「トリンコの日本兵」の事実が創作によって再び変形させられる前に、この話を事実の中で理解しておく必要があるでしょう。
 次回から、数回に分けて「トリンコの日本兵」のお話を続けます。