セイロンのゼロ戦

サンフランシスコ平和会議とセイロンのゼロ戦






サンフランシスコ平和会議とセイロンのゼロ戦
日本帝国軍機、セイロンを爆撃す映画にならなかったセイロンの日本兵
日本兵、トリンコで救助される①映画にならなかったセイロンの日本兵
日本兵、トリンコで救助される②
爆撃関係資料1
爆撃関係資料2
参考→サンフランシスコ平和会議のことを詳しく知りたいのですが



 日本兵、トリンコで救助される②


 かつて日本‐スリランカ合作映画として企画された戦争映画の主人公はゼロ戦のパイロットでした。トリンコマリを急襲した120機の日本軍機のうち、撃ち落された爆撃機・戦闘機の中にゼロ戦がありました。そのパイロットが負傷しながらもスリランカの人々に助けられ、スリランカで生きていた…、映画はそこから話が進展します。
 ストーリーの中で、スリランカ人に救出されたパイロットが一時、僧侶の姿に身を宿してスリランカ脱出を図るというシーンがあります。
 軍を離れた兵士が僧侶となり、戦場で白骨となったまま放置される戦死者を弔う。竹山道雄の「ビルマの竪琴」に出てくる水島上等兵はそうして戦場をさまよいました。水島上等兵の行動は日本人としての心情から発したのです。今も、その弔いの心を持つ方がたくさんおられます。日本の象徴がサイパンの地で当時の敵味方であったすべての戦争の犠牲者に向かって頭を下げたのは、水島上等兵の思いと同じだったのではないでしょうか。
 ご存知の方が多いでしょうが、ペラデニア植物園には現皇后の植えられた花がジャパン・アラリヤと人々に呼ばれて咲いています。花を手向けることを仏陀へのなによりの供養(プージャ)と考えるスリランカの人々は、日本人がコロンボにある日本人兵士の墓に花を手向けても何ら非難をしないでしょう。そのとき、ジャパン・アラリヤは63年前の日本軍による爆撃で犠牲となったすべての人々への鎮魂の花となるのです。

 日本とスリランカの関係は戦後、急に大きく膨らんだように伝えられています。
 それは大平首相の時代に日本のスリランカへのODAが飛躍的伸びたことに原因があるようです。故ジャヤワルデネ大統領は日本がスリランカへの経済援助を膨らませた理由を女性誌とのインタビューで「日本からのお礼」だと言いましたが、それはサンフランシスコ講和会議(連合国の対日本平和会議)での彼の日本擁護の演説に対するお礼だという意味でした。
 しかし、そればかりではないでしょう。日本からの返礼はトリンコの日本兵救出へのお礼であるし、日本兵捕虜を丁重に弔ったスリランカへのお礼でもあるはずです。できることなら、日本は国としてスリランカの地で戦争の犠牲となったすべての人々を供養する慰霊碑を建ててほしいものです。日本の軍人ばかりではなく、英国の兵士とスリランカの人とを含めて弔う慰霊碑をコロンボとトリンコの二つの地に同時に建てて欲しいのです。あの戦争が太平洋だけでの戦争ではなく、インド洋の、大東亜共栄圏にも入れられなかったこの小さな島国でも起こされた戦争であったことを後世に伝えて、二度とその過ちを繰り返さないと誓って欲しいのです。

 コロンボのカナッテ市営墓地には日本兵のための戦争慰霊碑があります。
「大日本海軍慰霊碑」と表に彫られたその碑には、「第二次大戦中大日本海軍戦死者の遺体を丁重に埋葬供養されたスリランカ国民の■を記念し戦死者の霊の平安を祈り之を■■ 日本国■■全権■■ 越智■介」 ※■は不明文字
 この慰霊碑は昭和54年、カナッテ市営墓地の日本人墓地内に建てられました。こうした慰霊碑があるのですから、インド洋海戦で命を落したすべての人を弔う慰霊の碑が、日本人墓地の枠を出て、日本政府を中心にして、建立されることの必要があるのです。橋・道路・病院の設置、空港改修、上水整備、空手柔道指南、バレー・ボール指導、農業指導、津波支援部設置などのプロジェクトはスリランカに多いに寄与するでしょう。だからこそ、それらの寄与の基盤に宿すべきテーマを日本人の私たちは心に培っておかなくてはならないのです。

 ODAなどの経済援助は戦後の復興を成し遂げた日本のとり得る友好の証なのでしょう。しかし、ODAをどれほど膨らませても日本とスリランカの友好を深めたことにはなりません。
 日本人は戦前からスリランカで活躍していました。ヌワラエリヤでイチゴ栽培をしていた日本人。ネゴンボで長靴工場を経営していた日本人。ホテルをコロンボで経営していた日本人。そうした日本人と日常の付き合いを持ったスリランカの人々は、日本人に好印象を持っています。日本流の経営はトップダウンではない。ボスが汗して働く日本人の姿に新たな組織の姿を発見して共感を覚える人は多いのです。ODAの気前のいい援助はいつもスリランカの人々を驚かせますが、日本人の好感度が大盤振る舞いの援助額でアップしたのではありません。今、多くの若い日本人がスリランカを応援するために活動しています。これから駆けつける日本人も沢山います。日本とスリランカの友好はその人たちが作っているのです。平和と信頼はお金でもらうことも買うこともきはしない。お金で平和が買えないことは、この間も赤坂の東京会議が教えてくれました。

 カンディのペラデニア植物園にジャパン・アラリヤを植えた当時の皇太子夫妻は時を経て’日本国民統合の象徴’となりました。そして、この間、サイパンに出向き、サイパンの海に向かい頭をたれました。戦争で亡くなった島の人々と、敵国の兵士と私たちの国の兵士に頭をたれました。
 日本軍のトリンコマリー空爆でゼロ戦のパイロットが1人、行方不明になりました。後始末はまだつけていません。
 あと1月ほどで、日本が戦争の終結を世界に宣言した日がやってきます。