セイロンのゼロ戦

サンフランシスコ平和会議とセイロンのゼロ戦





サンフランシスコ平和会議とセイロンのゼロ戦
日本帝国軍機、セイロンを爆撃す>
日本兵、トリンコで救助される①
日本兵、トリンコで救助される②
爆撃関係資料1
爆撃関係資料2
参考→サンフランシスコ平和会議のことを詳しく知りたいのですが



日本兵、トリンコで救助される①
  

 私が最初に「トリンコの日本兵」の話を知ったのはウォーカーズのドライバーからでした。かれはスリランカを空爆した日本軍機が攻撃を食らい機体が損傷し不時着の場所を探している時、田んぼを広い草原と見誤り降下したという話を聞いていました。機体は田んぼの中へ突っ込み、燃料タンクから流れ出た油で一面が埋められ稲が全滅したと彼は話してくれました。
 この話は誰に聞いても大同小異で、後にこれがトリンコ空爆のときの日本軍機墜落による被害だと言うことをスリランカ独立50周年の新聞記事(Sunday Observer、1992-04-05)で知りました。
 この事件について触れた『南の島のカレーライス・オリジナル版』(丹野冨雄)から「トリンコの日本兵」に関する部分を抜きだしてご紹介します。

---英領セイロンへの2度目の爆撃は、4月9日、島の東北部にあるトリンコマリ港に対して行われた。(コロンボの爆撃の時のように)やはり早朝であった。ゼロ戦を主力とする120あまりの編隊が空を覆った。新聞記事によれば、その日の出来事を伝える碑が近くのチンナワーティ貯水池にあるという。碑文が語るのは人間の狂気の証である。
 「シゲノリ・ワタナベ、トモヤ・ゴトウ、ツトム・トシラが乗った攻撃機はこの池に落ちた。燃え盛る炎が7日間続き、火が収まってみればそこに残されたのは頭蓋骨一つであった」---「ゼロ戦と稲作」P.150
 
 前出のサンディ・オブザーバーにアルファベットで記された氏名は防衛研修所戦史部の資料から再確認することができます。トモヤはトキヤの読み違い、トシラはシマバラの漢字を訓読みせず音読みにした誤りです。3人は空母飛龍から97艦攻で飛び立った1等・2等の飛行兵曹で、この時のトリンコ空襲では同じく飛龍から発艦したゼロ戦1機、艦上にあったゼロ戦1機が英軍機の攻撃で墜落・爆破されています。
 兵士追悼の碑文には、97艦攻が落ちて炎上、火は7日間燃え盛り、頭蓋骨一つが残ったとあるのですが、残り二人の遺骨が見当たらない。これは記事のレトリックかもしませんが、97艦攻は墜落後すぐに炎上したのか、あるいは乗員が機を離れて後か、いや、体当たりの自爆か。ミッシングです。
 トリンコマリでは作戦終了後に英空母ハーメスの駆逐艦3隻を確認し、これを日本軍が攻撃しています。このとき、蒼龍の99艦爆4機、翔鶴のゼロ戦1機を日本海軍は失いました。99艦爆は海に落ち、パイロット生存の可能性はないようです。ゼロ戦は、しかし、消息が不明です。戦闘で機体にダメージを追い、陸地を目指して降下したか、操縦不能でスリランカ山中にまで飛んで行ったか、あるいはもっと先の港町近くに…か。とにかく記録では洋上墜落が確認されていません。
 こうした経緯から、トリンコマリ爆撃の際の行方不明機はゼロ戦1機と言うことになります。そのパイロットも、また、行方が知れません。

 1997年に企画された映画では、このゼロ戦がコロンボ近くに不時着しパイロットが地元の僧侶たちに救助されると言う話になっています。戦史部資料を読んだ軍事の関係者は、トリンコとコロンボの距離は短く飛行が可能で、だから、ゼロ戦はコロンボまで飛んだ、という可能性を指摘し、映画立案者はその論を取ったようです。
 不明のゼロ戦は墜落したか、あるいは不時着したか。どちらにしても可能性が最も高いのはトリンコ周辺でしょう。そこはシンハラ地域ではなくタミル地域です。寺院にゼロ戦のパイロットがかくまわれたのなら、そこは仏寺ではなくヒンドゥ寺院だったと言うことにもなります。はたして、負傷したパイロットを救ったのはシンハラか、タミルか。
 ゼロ戦の話からは外れますが、トリンコなどのタミル地域の情報が日本へは、というより日本語世界へは、ほとんど入ってきません。未曾有の悲惨な災害をもたらした昨年末の津波にしても、日本ではシンハラ地域の情報しか集まりませんでした。
 日本から援助に向かった多くのボランティアの方もシンハラ地域に入り、劣悪な環境で瓦礫を片付け救援活動をしました。しかし、彼等が現地で得た情報は、タミル地域は恐ろしいというアナウンスの繰り返しだったようです。こうした傾向は、彼等が行動する善意の若者であるだけに、逆に何か恐ろしいような気がします。
 『かしゃぐら通信』はシンハラ語とシンハラ文化を扱うHPで、シンハラにエールを送りつづけます。しかし、LTTEに極悪非道と言うレッテルは貼りません。そうしたレッテルをわれわれが貼れば、日本が侵した過去の行為にも、今侵していると指摘されるいくつかの行動にも、極悪非道のレッテルが張られることでしょう。
 八紘一宇を奉じた日本の善意の若者たちは極悪非道でインド洋作戦に加わったのではない。当時の日本が、今風に言えばテロリスト国家と連合国に名指しされていたにしても。

スリランカの日本軍人墓地

 防衛研究所戦史部の資料は1942年4月9日のトリンコマリ爆撃の際の日本軍人死者を14名としています。これは行方不明とされるゼロ戦パイロット1名を入れた数です。
 9日の爆撃の4日前にはコロンボ空爆をしていますが、このときの戦死者は13名です。12名が瑞鶴・翔鶴からの99艦爆、残る1名が蒼龍から発艦したゼロ戦のパイロットです。
 コロンボ空爆はスリランカの人々にとって驚天動地の出来事でした。
 コロンボの空を120あまりの戦闘機、爆撃機が埋めつくした光景は今も語り継がれています。
 スリランカ独立50周年記念行事のとき、日本軍の爆撃に先だって敵機急襲を報じた英国空軍のヒーローが新聞紙面を賑わしました。ラトマラナ飛行場から対空砲火を120の爆撃機に向けて浴びせ、日本軍機を撃ち落した1人の連合国兵士が英雄になりました。独立記念行事に戦時中の連合国関係者が集まり、墓地で式典が開かれました。日本の大使はこの鎮魂の儀式に参加しませんでした。その墓地にはコロンボ空襲の時捕虜となり、その後現地で死亡した日本軍兵士の墓があるのですが。
 日本軍のコロンボ空爆の様子を、先の『南の島のカレーライス』はこう記しています。

 ---イースターの日曜日の朝である。(中略) 5空母から発艦したのは97式艦攻と99式艦攻が合わせて92機、ゼロ銭が36機であった。爆撃はコロンボ港、コロンナワの鉄道施設と石油施設、そしてラトマラナ飛行場を目標にした。ラトマラナ飛行場の英国ハリケーン記は壊滅に近かった。だが、コロンボ港には英国極東艦隊はおらず、帝国艦隊の大編隊は奇襲の大きな目的を失した。(中略) ラトマラナ空港を襲った時、この飛行場からゼロ戦を迎え撃つべく離陸できたのはハリケーン1機のみだったが、地上からの砲撃でゼロ戦1機がセント・トーマスのグラウンドに落ちた。蒼龍から出撃したゼロ戦だった。---p.147

 スリランカ側の資料からは、この時の爆撃で戦死し、当時のセイロン政府によってコロンボ市営墓地に葬られた日本人兵士の墓がカナッテ墓地に4基、ジャワッタ墓地に5基、計9基が確認できます。葬られた兵士で名が確認できるのは2名だけです。名を確認された兵士は1956年に火葬され日本に送り届けられました。
 不明とされた方々は氏名を特定する所持品が確認できず、日本の資料では戦死者の名が分かっているのですが、それをスリランカで葬られた兵士の方々に擦り合わすことが出来ません。前出の日本側資料ではコロンボ急襲のときに戦死した兵士はゼロ戦の1名と艦爆の12名となっていますから、4名の兵士の所在はまったくわかりません。また、火葬され日本に送り届けられた兵士の方の名は先の戦史部の資料にありません。
 スリランカ側の資料ですが、市営墓地に葬られた日本人兵士の死亡年月日が記入されています。それによれば爆撃の当日に亡くなった兵士が2名、不明とあるのが2名、残りの兵士は1942年11月と1945年4月に亡くなっています。つまり、兵士たちは捕虜として生存していたのです。

 1992年4月5日の追悼式典の時、日本軍兵士の墓には誰も花を手向けなかったと、サンデー・オブザーバーは報じています。ただ、それを見かねた夫人がただ1人、1輪の花を捧げたと報じています。


戦場情報は正確か

 戦史部の資料から正確な情報をつかむことは至難な技に思えてきます。
 トリンコマリーとコロンボにそれぞれ120機の大編隊が押し寄せた。英国艦隊に打撃を与え、チャーチルを震撼させた。そこまでの流れはインド洋海戦をご存知の方なら周知のこと。しかし、兵士の消息を含めると戦場の情報はおよそ不確実な影の部分に覆われます。