ハリスは幕府との通商条約交渉で軍事力の脅しを使わなかった。黒船の大砲を江戸に向けるぞ。江戸を焼き江戸城をつぶしてやる。さて、どうする老中諸君、と脅し幕府を委縮させ交渉を有利に進める。西欧が中国に食指を向けてから外交は常に大砲で脅し、中国が歯向かえばいくさを交え収奪を重ねる。当時のアジアを席巻しつつあった西欧諸国の「外交交渉」のやり方です。ハリスが日本にやって来たのはアジアでの英仏の戦争と収奪の時代、第一次アヘン戦争と第二次アヘン戦争の間でした。イギリスは東インド会社が印度で栽培したアヘンを中国に持ち込み密貿易の三合会、一部の公行商人などを通して売り払い貿易銀を手に入れ、それを元手に中国の茶、絹、陶磁器を買い英国へ持ち帰りました。もちろん、こんなの非合法です。やってる皆さん、百も承知です。そんなアジアを荒らす行為が横行し今まさにその波が日本を襲おうとしている時代での日本との通商条約交渉です。「そんなことはもってのほかだ。私はそんなことはしない。誰にもさせない」。ハリスの憤りが目に浮かんできます。短気で、実務家で、実直すぎる方でしたから。
私は自由貿易主義者です
もっとも江戸湾に待機させた黒船で幕府を脅す余力が1850年代の新興国アメリカにはありません。40隻ばかりの黒船フリート艦はコロンビア(ニューグラナダ共和国)、中国、ニカラグアの戦闘に出払っています。ハリスを守るアメリカ海軍は江戸湾にいない。伝えるところによれば日本との通商条約交渉には決して軍を使わない、丁寧に、平和裏に進めよというフランクリン・ピアース大統領の指示が大統領特使のハリスに下されていたとされています。
後に福地源一郎は『幕府衰亡論』1883で「私は民主党で自由貿易主義者だ」とハリスがニューヨークで彼に語って聞かせたことを記しています。グーグルaiは明治4年に福沢諭吉らと共にアメリカへ行った時か、岩倉使節団随員として明治5年にニューヨークへ行ったときに福地はハリスの邸宅を訪ね旧交を温めたと丁寧に教えてくれます。でも『衰亡論』には「明治四年、余が亜国に至りし時」72pとありますから福地さん本人の言を取りましょう。
また、福地はその時にハリスが漏らした言葉をこう伝えています。「私が日本を離れてすぐ、何かが狂ってしまったようだ。私が描いた自由貿易による立国は消え去った」と。念頭にあるのは何でしょう。英仏が日本に大砲を向け撃った、鹿児島は焦土と化した、これが自由と平等を信条とする文明国が半文明国に向かってやることか。半文明国とは、野蛮国とは英仏ではないか、とそのあとにハリスの口から激しい言葉が続いたかは分からないのですが。ハリスのことですから、引退して在野にあっても円明園の略奪を糾弾したビクトル・ユーゴと同じように悪態つく言葉を吐き散らかしたでしょうか。印刷本にはない。福地さんに直接聞かないとわかりません。
この福地とハリスのニューヨークでの会話を引き合いに出して幕末を紐解く研究書はないものかと探しましたがなかなか見つからない。ジェームズ・ハフマンの『Politics of the Meiji Press: The Life of Fukuchi Gen'ichiro』1980がさらりと自由貿易に触れていますが日本の研究者はそこんとこ、触れたくないかのようです。エビデンスが取れないって?そうか。福地もハリスも日本の近代史には表れてほしくない異人だからでしょうか。福地は反明治政府の位置にありハリスは持ち前の自立心で自由と平等を標榜します。新生明治政府にとって、昨今幕末混乱期の様相を表し始めてごたごたしている今の日本のおちゃめな政府にとっても丸腰の自由とか平等とか、そういうこと何やかや言われるの迷惑だからでしょうか。
英仏は戦争を仕掛け収奪に明け暮れる。そんな道に私も巻き込まれ落ちてゆくのか。ハリスが残した日本でのジャーナル(日記)の最後にそう記されているような夢を見ました。いや記されてなどいません。通商条約締結の段取りがつくとすぐ、ハリスはジャーナルを記すのを止めています。
自由と平等をハリスは訴えました。私は大統領特使であると将軍徳川家定に直接伝えた後、老中筆頭堀田正睦の江戸屋敷に老中の面々を集め通商の利を説く実に長い時間を持ちました。自由貿易と状況分析のレクチャー、それに続く質疑応答。いわく、私は自由貿易主義者です。アメリカは貴国との貿易で儲けるのだから日本の商人もアメリカへ行き日本のために儲けて日本を半文明国から文明国へ導きましょう。以前から幕府実務担当者との会合で港湾税、関税などの子細をハリスは説き聞かせていました。貿易は利を生むのだ。七年にわたるインド、中国、マレイ、セイロンでの貿易商としての実績が彼にはありました。友好的な他国に居を構え束縛のない自由貿易free tradeを丸腰で唱える腹の座り方はアジアを渡り歩き貿易品の売買を重ねて来た男の実務の結晶でした。
終わり・の・始まり
下田にアメリカ公使館を置き、星条旗を掲げたとき「終わりの始まりThe begining of the end」注2とハリスは日記に記しました。半文明国の日本は「終わり」、新しい開国日本が「始まる」。「終わりの始まり」はそう理解されています。「終わり」が始まって黙示録の限りない暗黒へ落ちてゆくのではない。日本の終末ではなく、徳川幕藩体制が終わるのでもない。
極東に孤立していた日本は港を開き文明国となって西洋文明の中に加わります。それが「始まり」でした。自由と平等の旗を立てる仲間たちが貿易で経済資本を動かし、国力を増大させる。貿易立国。産業立国。この時代、英仏がやっていたようにアジアを略奪するのではなく、軍の暴力もなく、主権国家を束縛しない自由貿易によってアメリカが富み日本が富み、人々は潤う。そのはずでした。日本は港を開き貿易で外貨を蓄える国を当初は目指しました。国に束縛されない自由貿易。ハリスの敷いた路線でした。
日本との通商条約締結を主導する形で終えたハリスは体調の不良を訴え日本に領事として残らず、江戸を去りニューヨークへ戻ります。教え子のように、そして、友としての付き合いを重ねていたドリンカー夫妻の長子キャサリン(先に触れたケイトのこと)に宛てた手紙がニューヨーク市立大学City College of New York図書館に保管されています。CCNYは1847年、ハリスの創立したニューヨーク市立無料アカデミーFree Academy of the City of New Yorkです。以下は1861年6月1日付のケイトに宛てたハリスの手紙です。この年の1月15日、ヒュースケンが薩摩藩の(と思しき)刺客に暗殺された後のどたばたをハリスが記しています。
ヒュースケンの事件は江戸にいる欧州代表たちの間で大きな騒ぎになりました。彼らは身の安全の為に横浜へ移りました。私は一人で江戸に残りました。私が江戸に残ったことでフランスとイギリスが企んでいた日本攻撃を防いだかもしれません。私がとった行動を日本と中国人コミュニティは歓迎していました。日本人は恐ろしい戦争がもたらされるのを防いでくれたと大いに感謝してくれました。この事件で、私とフランス公使館、イギリス公使館との交流は完全に断たれ、私の立場は非常に孤立したものになりました。私は時々神奈川に行き宣教師の女性たち(3家族)を訪ねるのですが、彼女たちはとても感じの良い人たちです。しかし、その件を除けば私の生活は下田に住んでいた時とほとんど同じくらいに孤立しています。
Letter 8 July 1st 1861 / Some unpublished letters of Townsend Harris edited by Shio Sakanishi Japanreference library New York/1941
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「日本人の感謝」というのはヒュースケン事件へのハリスの対応で幕府外交筋のハリスへの信頼が大いに高まったことを指しています。福地さんは事件がすべて丸く収まったかのように言いますが、戦争を避けたいハリスは戦争に持ち込みたかった英仏に疎まれ孤立したのです。
ケイトは聡明な娘です。ハリスはその成長を見守っていました注2。確証はないのですが1851年、10歳の時にケイトは父に連れられ香港へやって来ました。その時ハリスは生年が1803年として48歳です。ケイトにとっては世界に見開かれた眼を持つ教師でした。自学して貿易を学び自由と平等に照らして我が道を行くハリスはドリンカー家の四人の子供たちの中で長女ケイトと最も気が合いました。米国特使として日本へ向かう途中、ハリスはタイ、香港から、また、日本に着いてからは下田、江戸からケイトへ手紙を送りました。ケイトの手紙は公開されていないのでやり取りの流れは不明ですが、ハリスは彼を取り巻く日本の状況を知らせています。日本は極東の不思議な国だがこんなに面白いんだぞ。江戸のキャッスルに住むタイクーンに謁見するときの様子、ヒュースケンが遭遇した不幸など、時にシリアスに、また、時にジョークを加え内容は仔細です。ハリスはベジタリアンだとよく噂されますが、ケイトにはこっそりこう伝えています。
「ジャワ、インド、マラッカ海峡の猪肉とは違って日本の猪は軟らかでジューシィ。そのかぐわしい匂いと言ったら最高だよ」
まじめでややヒステリックになりがちなケイトはハリスとよく似ています。ケイトはハリスの「自由と平等」への限りない信頼を学びとったでしょうか。
1893年、夫となったジャーナリストのトーマス・A・ジャンヴィエと共にフランス・プロビンスへ旅に出て数年を過ごした時、ケイトはマルセイユで一冊の本に出合います。「レッド・ミディ」(南フランスの革命家たち)。フェリックス・グラスによるフランス革命勃発時の農民漁師を主人公にした歴史小説です。「レッド・ミディ」の主人公鰯漁師パスカルはナポレオンの革命を支持してマルセイユからパリへ同士の農民らと共に「ラ・マルセイエーズ」を高らかに歌いながら行進します。私たちは貧しくとも自由と平等を勝ち取る。そのためには死もいとわない。自由と平等と連帯、さもなくば死。フランス革命のスローガンです。
ケイトはその小説を英語に訳し出版しました。夫が序文を寄せています。「自由と平等」を獲得せよ。それは江戸で通商条約締結に孤軍奮闘するハリスが声高に述べていた言葉です。ケイトのこころに幼いころからこだましていたでしょうか。このハリスの言葉が。
勇気を奮い起こしなさい
hope ever,hope always --- I have no doubt you will follow.
US Consulate General Simoda Townsend Harris/ November 1st. 1858 /"letter to kate 5"/ |
ケイトの人生は優雅で波乱に富んでいました。香港で船会社を経営するケイトの父サンドゥイズ・ドリンカー氏が1857年、英仏の横暴を怒る中国人による外国人ヒ素毒殺事件の渦中で亡くなりました。それを知ったハリスはドリンカー夫人と娘のケイトに神の教えを様々に解いて、立ち直りなさい、勇気を奮い起こしなさい、と励ましの長い手紙を送っています。
ドリンカー夫人と言えばハリスがカルカッタのアメリカ領事ハフナグルにカレー粉を購入し日本の下田へ送るよう依頼したとき、その橋渡しをした女性です。香港でカルカッタから送られたカレー粉を受け取り、マカオから下田へ向かう船に載せるよう細かな指示を認めてハリスは夫人宛の手紙に手配を託しました。
こまごまとした自らの「家計」のことも夫人に知らせています。ハリスの日本での懐事情。日本ではアメリカ政府から為替で送られる私の報酬は何の役にも立たない。日本には為替交換所、つまり、銀行がない。為替で送られる金は単に紙切れでしかない。何枚もの紙きれが机の中にたまっているとぼやきの連続です。
ハリスの裏金作りと日本の研究者がすっぱ抜く彼の数々の薄汚れた悪行の件ですが、ハリスは自身の日記Japan Journalに何の小細工をせずとも濡れ手で粟の大儲けをしてしまう成行きを克明に記しています。研究者たちが指摘する「悪行」のおかげで領事館にかかる経費、人件費、そのほか雑費を差し引いても自身の年収を上回る額をニューヨークへ送れてしまうというのです。そのほか小銭も2500ドル稼いでしまったとこれも仔細に。このあぶく銭をどこで運用して増やそうか。ニューヨークか、香港か、とあからさまに記しています注3。
これを悪行と蔑んでハリスを獲物穴に落とし込む論には首をかしげてしまいます。実に真摯に日米通貨の為替処理と手数料処理をしているのですから。ま、ハリスのことです、仕返しはします。Mに対してはペリーが徳川幕府と結んだ条約のままに”セニseni”(日本の基軸通貨を「銭」と呼んでいる)とドルの交換をしてやりました。つまり、ドルの価値を三分の一に下げて「一分=一ドル」で両替をしてやり、Mからアメリカドルを安値で巻き上げ、Mの鼻を明かして喜んでいるのです。嬉々として書き記す様は感心できません。まあ、常人じゃあない。えッ、M?あの通辞モリアマのことかぁ?
ハリスが去った、カレーライスが消えた
ハリスは1861年5月10日に横浜港から出港しニューヨークへ帰りました。そして、ハリスのカレーライスも日本から永遠に消えました。ほとんど跡形もなく。もう、誰もハリスを知らないし彼がカレー好きだということも昨今の日本人は誰一人、口にしません。香港でカレー調理が上手だと触れ回る中国人コックを雇い、カルカッタからカレー・パウダーを六缶、チャツネも六瓶取り寄せる手配をハリスが組んで意気揚々と日本へ向かったことなど誰も知るまい、語るまい。ついでだけどケイトを動かしたハリスの自由と平等など知れるものか。
あッ、短歌が浮かんだ。
あまゆるい ハリスのカレーに触れもせで 腹ぞ減らぬや 歴史説く君
うんん、どこかパクったような。カルカッタのユーラシアンが作るマレー・カレーを好んだハリスがこの島国から離れてハリスのカレーも消えた。上記短歌の意味は「ああ、あの甘いハリスのカレーは消えてしまった、お腹空いたなあ、仮想の歴史譚はこのぐらいにしておこう」で、真意は「ハリスのカレーが食べたい」です。おっと、オイレンブルク卿がハリスのために供したベジタリアン・カレーも、です。それって、どんなんでしょう?
ハリスのカレーは消えました。大丈夫です、消えると同時に日本海軍が兵隊向けに編み出したカレーライスが産まれましたから。終わり・の・始まり。古きは終わり、新しきが始まる。満を持して生まれたのは今を盛りの海軍カレーです。
海軍カレーは軍艦の厨房を飛び出し日本人の日常の食卓に降臨した。今、レトルトの波に乗って大挙生産され、再び戦場に返り咲こうとしているかのよう。家に、街に、前線に、カレーライス。腹が減ってはいくさができぬ。いつか来た道。海軍のカレーライス。またどこぞへ大砲抱えてレトルト・カレー抱えて出かけるのです。大丈夫、軍艦は日本を守ります。カレーは日本を救います。幕末カレーは消えても明治のカレーが日本に生まれこの島国は坂の上の雲を一心不乱にめざすのです。
ハリスのカレーライスが消えた
そして、オイレンブルクのカレーライスも
ハリスの好んだカレーも、オイレンブルクがハリスとの食事のために用意したベジタリアン・カレーも、何も残さず消えました。プロシアのオイレンブルクが江戸城の通商条約担当外国掛を招いて催した条約締結前祝パーティの大テーブルに並べられた冷製のキジ、アヒル、ローストビーフ、卵に温かい蒸した牛肉とジャガイモ、魚にボルドーワイン、雪で冷したスパークリングワイン、シュナップスのボトル数本に、そしてカレーライス(オイレンブルク公使日記p149)。このカレー、外国掛のサムライたちは召し上がったかしら。オイレンブルクはみんな酒ばかり飲んでいたとしか書いていないから、どんなカレーかちょっと分かりません。いったいどんなカレーだったの?
勝手にあてずっぽう。英国調アングロ・インディアンのカレーではあるまい。パーティのカレーは戦争用のカレーじゃないから。明治期、日本海軍がカレーライスを採用して、C&Bのカレー粉の輸入が増えて、後々S&B赤缶が絡んで大ヒットするあの海軍カレー、つまり日本のカレーとは姿もかたちも違っていたはず(---はず、としか言えない、今は)。じゃ、アングロ・インディアン・カレーではないとすると?
プロシアからやって来たオレインブルク伯爵はプロシア連合国と江戸幕府との貿易締結に難渋しハリスの力を借りました。ハリスはヒュースケンをプロシアの公舎に差し向け条約作成の手伝いをさせ、ハリス本人は江戸城幕府中枢とプロシアとの条約調印の段取りを調整しました。オレインブルク伯爵がそうしたことのお礼にとハリスにベジタリアン・カレーを御馳走したいと申し出ました。
オレインブルク伯爵は江戸芝赤羽のプロシア公館でカレーライスを食べながらハリスと談笑のひと時を持ったことを、楽しそうにプロシアにいる甥に書き送っています。
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私はハリスに一緒に食事をしようと誘い、彼は承諾しました。ハリスはワインを飲まないし、肉もめったに食べません。ご飯とカレーを用意しなければなりません。でもね、お酒も肉もなくてもご飯とカレーが私たちの楽しい話を盛り上げてくれました。ハリスと話すとき、私はフランス語だ。ハリスは英語だよ。互いに別の言葉で話すのだけど、愉快だね、これが結構うまく通じてしまうんだ。注5 |
肉も食べないからカレーライスって、ベジ仕立てだったのかしら?
ところで、何を話したかって、そこには大いに興味がわくよね。カレーの話?当然しているでしょう。お二人とも日記にカレーのうんちくを並べるぐらいだから。でも、二人の会話の記録は見つからない。その時のベジタリアン(かな?)・カレー、どんなものだったか。分からないから仕方ない、google ai先生(昔のギニョール・ケペル先生みたいだ)に訊きながらAIバーチャルな空間に持ち込んでみましょう。
オレインブルク伯爵は日本へ向かう船の甲板で船員のタミル人たちが車座になってミラグ・タンニールを食べているのを目撃しています。
Q:ミラグ・タンニールって?
A:タミル人のカレーさ。カレーの原型だぞ。
オレインブルクにはプロシア議会へ向けたセイロン視察記録があります。ここにカレーの記述があればいいのですが、彼の日本滞在記録に掲載されたセイロンの部分がそのセイロン視察記録ならそこにはカレーはありません。議会の記録には直接当たっていないので何とも言えないのですが。
ニューヨーク市立大学のマリオ・コゼンツァ学長Dr. Mario E.Cosenzaがまとめた「ハリスの日記・完全版」The complete journal of Townsend Harris, first American consul general and minister to Japan 1930にはカルカッタとコロンボでのカレーに纏わる記録が残されています。
ハリスはカルカッタでユーラシアンの青年が(おそらくマレータイプの)カレーを食べながら娘を誘惑する話を日記に残していて、その落ちのけったいなさまを含めて笑い話にする会話術に長けています。ここではカレーを指食する様子が描かれていて、指先でカレーを召し上がる機会に恵まれたことのある方なら「あッ、あれか」と気づいて、思わず微笑んでしまいそうです。
とっておきなのはセイロン(当時)のコロンボで食べた椰子の”キャベツ”料理のおいしさのこと。そうそう、そのあとに供されたデザートのハクル菓子まで含めて。
「椰子の”キャベツ料理”」とかデザートの「ハクル」とか聞きなれない方がいらっしゃると思います。いや、ほとんどの方には疎遠ですね。私はスリランカ料理店TOMOCAを東京四谷で開いていたものだから馴染みがあります。そもそも、ハリスがコロンボでカレーを食べたと知って、このハリスのスリランカ・カレー探索に出かけたらこんなところにまで導かれてしまったのですから。漱石も…きっと鴎外や邦武も?…セイロン(当時、現スリランカ)でカレーを食べていることは昔掴んでいたのですが、ああ、まさかタウンゼント・ハリスが。ハリスがカレーライス!
ハリスが「椰子の”キャベツ料理”」と記して130年ほどを経て、私が毎年、TOMOCAで使う料理素材と紅茶の仕入れにスリランカへ行くとき、できれば”キャベツ料理”に出会いたいと胃袋が期待して凛々に出かけるのですが、それがなかなか。瓶詰や缶詰で椰子のキャベツを売ってはいるのですが、なにやらの保存料でへなへなになったやつなんて食べる気はしないし。
1856年1月1日、ハリスはセイロンのコロンボにいます。ゴールでハリスは日本の下田へ彼を乗せて行くサン・ジャシント号の入港を待っていました。でも待てど暮らせどエンジン機関のトラブルに再三見舞われる新鋭艦サン・ジャシント号は一向にゴールへ辿り着きません。ハリスは喜んだ。
こりゃあいい、これ幸いとにんまり。英国の植民地総督代理を務める友人を訪ねてコロンボへ出かけよう。これまで私はたかが貿易商人だったが、今はアメリカ大統領直属の特命大使だ。セイロン中のアメリカ人が私の前で跪く。たかが貿易商人と見下げて私を無視していた公職連中、軍人たちが今度は私をおだて持ち上げる。へッ、それ、うんざりだね。
うんざりだ、と言いながらハリスは、そう、あのもったいぶった顔つき、まんざらでもない様子。何より、うれしいのです。おいしいカレーにありつけるぞ。総督代理の夫人はセイロン生まれの英国人でシンハラ料理が大の得意。それに夫人のつくるマレーシア・カレーがまた絶品なのです。うんざり連中と言葉を交わすのは疲れるし面白くもないのですがゲスト・ルームで彼らのお相手するのも大統領代理の仕事の内。いやいや、何より美味いマレーシア・カレーをごちそうになるには潜り抜けなければならぬ儀式です。フォーブス夫人のマレー・カレー!カレーのためだ!注6
終わり・の・始まり カレーライスの場合
芝赤羽の接遇所。そこでのハリスとオイレンブルクのカレー会食。カレーが結んだ二人の男のささやかな友情の時間など浜辺の砂で積み上げた楼閣のようなものでした。西欧列強は資本主義の注入と軍隊の派遣をアジアに向けていました。ハリスもオイレンブルクもその波に乗って勇ましく日本へやって来た。ちょっと二人とも文学青年くずれって感じがいささかですけど。
その日本ですけど、西欧に遅れて軍艦で船出して坂の上の雲を目指しています。波に乗って日本を出てアジアの硝煙のきな臭い匂いを求め追いかけて。そして、パシフィック・オーシャンのサンドイッチ諸島の奇襲に始まって、アジア、ミクロネシアの国々を辿り、挙句連合国軍に神国の列島へ押し戻されあの途方もなく悲惨な終末のきのこを迎える日、二人のカレー会食から数えて八十四年後まで、ただただ忙しく一心不乱に峠を駆け上って行きました。それが…、
いや、この書き物のテーマはカレーです。カレーの話に戻りましょう。
ハリスが去ってハリスのカレーは消えた。終わり・は・始まり。まったくもって悲惨で悲しい歴史の出来事というべきか、カレーの幸運な大出世というべきか、日本固有のカレーライスが西洋に倣う軍備拡張の戦艦の中、日本海軍の食事として突如産まれます。
それはハリスのカレーライスとは似つかない(って、ハリスのカレーがどんなかわからないんだけど)。インド・カルカッタや、セイロン・コロンボのカレーとは育ちが違う(これははっきりわかる)。ビクトリア時代の英国人が、軍人も商人もインドからUKへ帰りロンドンでアングロ・インディアン式のカレーを流行らせたけどそれとも違うのがなんとも(しかし、この類ではありそう、亜流かも?)。
ハリスの言い方に移れば、ハリスはアングロ・インディアンという呼び名を嫌いました。ユーラシアンというべきだ、少なくともカルカッタでは、と日記に記しています。ここ、大事なんです。アングロ・インディアンは英国式のカレーを発明しそこにこだわり、ユーラシアンはカルカッタ式のカレーを好んでこれにこだわるから。短略して言えばアングロ・インディアン式のカレーは軍人のカレー、カルカッタ・カレーは市民商人のカレーです。
日本海軍のカレーはアングロ・インディアン式のカレー、言い換えて純英国産のカレーに繋がりますが、日本の軍艦の中では独自に簡略の極みに走り、おまけにじゃがいもとニンジンを必須にするという唯我独尊路線にはまり込みます。日本人は料理においても実に独創性に長けていますから。
カレーの誕生にはいくつものルーツがあり、ルートがあり、様々なオリジンがあり、そして、それぞれの民族に合わせた様々な味覚の味わいがあります。
日本では兵士の脚気予防名目で画一化したカレー指南レシピを作り、日本式カレーライスを配給しました。これで脚気は消えたと言うのですが、カレーの本来のダイバーシティ多様性こそいっぺんに消えた。同質同一にこだわるのは日本の画一的文化現象、単一化礼賛の美徳。多様性なんて何ぼのもんか。明治以降、丘の上の雲を目指して凝視してきたものだから視野狭窄が起こってしまったのかもしれません。
特にここ数年の風潮なのですが、幕末から明治に掛けての日本海軍がなければカレーライスは誕生しなかったと確定的に唱える論ばかりが横行しています。のうのうとプロシアの伯爵と優雅にカレーライスを食ってるなんて、ハリス、けしからん。カレーは軍隊食だ。早飯、早ナントカだ。じれったいな、早く食え。ハリスのカレーは邪魔だな。そうさ、そうだ。ハリス自身が気に食わん、不平等条約なんて幕府に結ばせやがって日本を野蛮国と見下げているな。不埒極まりない。ハリスを葬れ。そうさ、そうだ、そんな奴、葬れ。幕末パンパンを泣かせたコン四郎とかいう奴だろう、とんでもねぇ野郎だ。憎むはアメリカコン四郎。そうさ、そうだ。ハリス、やっつけろ。
明治の日本海軍カレーが復活しています。今風にバージョン・アップしていてパウチのレトルトで保存食化されています。その種類、いったいいくつあるやら。基本がワンパターンなんだけど。最初は海軍カレーのオリジンは横須賀にあると地域おこしで説かれて、満を持して九州の商工会議所が、うちこそ本家とばかり海軍医カレーを旧薩摩藩から出しました。「始まりの終わり」がここでも芽を出した。この新しい薩摩の海軍医カレー、昔はベリベリberiberi脚気を治した妙薬という扱いだったけど、これがほかの軍隊レトルトより段違いにうまいんだから、さすが薩摩藩。大いに喝采しちゃうんだ。日本の市販軍隊カレーのトップを行く薩摩の海軍医カレー。軍隊カレー、召し上がるなら薩摩の海軍医カレー。
薩摩の海軍医カレーには定番のジャガイモ、ニンジンがゴロッと入っています。日本の軍隊カレーのルーツにあたる英国海軍のカレーにはジャガイモ、ニンジンなんてない。英国軍のカレーはシンプルなんです。こんな具合にアングローインディアン・スタイルですから。
curries made by the British military were a simplified, Anglo-Indian style, relying heavily on pre-made curry powder. The general method involved stewing meat (often chicken or mutton) with onions and adding a commercial or homemade "curry powder," finished with cream or lemon juice.
イギリス軍のカレーはアングロ・インディアン・スタイルの簡略形です。既製のカレー粉を多用しています。作り方は通常、肉(多くは鶏肉かマトン)を玉ねぎと一緒に煮込んで市販または自家製の「カレー粉」を加え、最後にクリームまたはレモン汁で味を調えるものでした。
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アングロ・インディアンはインドに住むイギリス人、イギリス人男性とインド人女性の間に生まれた混血の子孫を言う言葉です。カルカッタではユーラシアンと呼ばれる人々だとタウンゼント・ハリスは彼の「ジャーナル」に記しています。ハリスはアングロ・インディアンの名を嫌いました。一般にはインドとイギリスが融合して生まれた料理、ケジョレー、ムリガターニィ(マリガトーニー)、カレーなどの料理も同様にアングロ・インディアンと呼ばれます。
この定義もイギリスのことだからどんどん進化し変化します。進化して進化して何が何だか分からなくなるのもイギリス風?
私達がカレーにイメージするのはインド料理というよりこのアングロ・インディアン料理で、インドからイギリスへ帰った人々がイギリスで再現した準インド料理と言った方が正確です。この再現されたカレーが、もともとインドにはないカレー・パウダー(混合粉末スパイス)を生んでインドへ赴任するイギリス人と共に里帰りします。イギリスが生んだカレー粉はインドでも売られるようになって、七つの海をわたって世界中に広がっていきます。イギリス人のいるところにカレーあり。およそ英語が通じる地球上のあちこちで新聞にはカレー・パウダーの宣伝が毎号掲載されます。例えばThe London and China Telegraphに掲載されているカレー広告には必ずマリガトーニィ(ムリガターニィ)も高級カレーとして宣伝されました。インドへ行ったイギリス人が自家用の料理に英国産カレー粉を使ってインド式カレーを拵えた、なんて言ってしまうと何が何だか分からなくなったけど、仕方がない、七つの海を制したイギリスだから何でもありなのです。定義なんて持ち出すのが土台、間違っています。
当時、世界を制するには、って今もそうですけど、軍隊の力が必要です。世界を制する先にはまず兵隊が行き、次に植民地行政に関わる官吏が行き、資本主義を纏う商人が行き、兵隊も官吏も商人も英国印のカレー粉で拵えたカレーを食べました。兵舎で、公館で、市民の私宅で。
日本にやって来て広く定着したカレーは兵隊のカレーです。イギリス海軍のカレーを真似て日本海軍はカレーを兵隊食に取り入れました。日本のカレーは軍隊に始まるのです。
だから明らかに違うのです、このカレーとハリスのカレー。ハリス、オイレンブルク、魯文のカレーは民間人のカレーです。ハリスが好んだカレー(おそらくカルカッタのマレイ・カレー)はハリスがアメリカに戻るとともにきっぱりと日本から消えました。幕府外国掛のサムライを招いてオイレンブルク公使が催した通商条約締結パーティに供されたカレーも、ハリスへのねぎらいもあったからユーラシアンの(たぶんですけど)野菜カレーで「市民用」です。横浜に居住した英国商人に雇用されたコックが持つ料理の手控えを手に入れ、日本語に訳した(と魯文が言っている)「西洋料理通」に掲載されているカレー2品も、当時英国で流行のシチュウ仕立てのカレー。これも「終わりの始まり」に乗って誕生した新生軍隊カレーとは違います。
魯文が「西洋料理通」に紹介したカレーのレシピには小麦粉を入れるときシトルト・スプーンを使うとあります。
Q:シトルト・スプーンってなんだ?
A:これってslot / slotted spoonだと思うんですけど。
シトルト・スプーンがslot / slotted spoonならsugar sifter spoonもその一つ。デザートに砂糖を振りかける小粋な小道具。slottedがシトルトに化けるのは座りがいまいちですが、ebayで探せば1850年代の「シトルト(スロット)」スプーンを好い値段で売っているのに出会います。小麦粉をソースに均一に篩い入れてシチュー仕立てのカレーを作る。シチューのとろみ付けの為に穴開きのシトルト・スプーンを代用するなんて賢い。だけどキッチンでシトルト・スプーンなんて優雅で、勿体ない。ビートン夫人のビクトリア時代って余裕満々です。それを映した仮名書の西洋料理訳本。仮名書も偉い。だけど、日本に入った軍隊カレーには英国家庭のキッチンのそんな優しさ柔かさに溢れた調理術は微塵もない。だから、兵隊食カレー派は誰もカレー調理に使うシトルト・スプーンが分からない。戦場のカレーライスだから。
古きはただ消え去るのみ。新しく生まれたカレーは見事に日本中を席巻して現在のカレーに受け継がれます。人参とジャガイモが入ったカレー。日本独自の特異なカレー料理。インドカレーと肩を並べる日本カレーなのです。肩を並べると言いましたがこの両者は決定的に違う性格を持っています。インドにはそもそもカレー粉などはない。日本にはカレー粉しかない。
日本人からは忘れ去られた、あるいは初めから無視されたタウンゼント・ハリスのカレーライス。カルカッタのマライ・カレーです。マライと名がつくカレーはインドにいくつもあって、マライとは「ミルク」のことでオリジンはインドだと昨今まことしやかに言われていますが、このマライ・カレーにただ一つ、マレーシアがオリジンだろうと目されるカレーがあります。それはイギリスのインド総督府が置かれたカルカッタに駐在する欧州人に好まれたカレー。エビのマレー・カレーChingri Macher Malai Curryと言います。日本へ向かう途中のハリスがわざわざカルカッタ駐在の米国領事ハフナグルMr,Huffnagle―彼はハリスの古くからの友人だ―にカレー粉を送れ、チャツネを送れと頼みました。インドへカレー粉を注文するカルカッタのカレーにぞっこんだったからです注6。
ハリスの好きなカレーライスはカルカッタのマレー・カレー。コロンボへ行ってもマレー・カレーを供する副総督夫人の料理をべた誉めしています。マレーシア人とインド人の間に生まれたカルカッタの女性を世界一の美女であると礼賛するハリス。それが理由ではないでしょうけど、マレー・カレーを絶賛しているのです。
終わりの始まり。幕末の自由貿易主義者(ハリスのことです)の市民カレーは終わり、明治時代の血気盛んな軍隊カレーが始まる。家庭のキッチンから戦場へ。居留地の街角から最前線へ。ハリス・コン四郎を不埒なやつと日本人が見限ってハリスのカレーから目を背けて以降、誰もまだ、この二極化したカレーライスの話を始めない。昨今の日本が新しい幕末の様相を呈しているからでしょうか。クワバラ、クワバラ。
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注1
ヒュースケン殺害に対して英仏が取った江戸幕府への抗議行動にハリスが加わらなかったことに関する同時代の報道がある→/the London and China Telegraph: Vol.Ⅲ-No.59. London Friday April 26,1861 241p Summary of News from the Far East
このLCT-No.59がもっとも詳細な情報を示している。
注2
1841年フィラデルフィア生まれ。4人兄弟の長女。いつ頃香港へ移ったかはっきりとしないが10歳に時には香港に暮らしていた。父ヘンリー・ドリンカーは香港・マカオで配船業を営みハリスとは友人関係にあった。1858年、第二次アヘン戦争の最中、ヘンリーが開いたパーティでヒ素が混ぜ込まれた英昌のパンを招待客と共に本人も食べ赤痢様の激しい下痢を生じ亡くなった。中国人の英仏に対する憎悪がヘンリーを襲った。翌年、母のスザンナは四人の子供を連れてアメリカ・ボルチモアへ帰った。当時の報道でスザンナもヒ素事件の翌年に中毒で亡くなったと報じられ、ハリスはドリンカー家の子供たちを憂うが亡くなったのは別人だとケイトに知らされる。ケイトに宛てたハリスの手紙(letter-5)にはハリスのケイトへの慰めが力強く、そして、やわらかな目線で語られている。
ケイトが後にジャーナリストと結婚し、英国、フランスに暮らし、仏蘭西では南部に暮らしパリ政府に圧迫される南部の分離独立ムーブメントを後押しする活動に奔走する様子は自由と平等を実践して生きたハリスの影響がちらつく。
ハリスは子供の教育を最も大事にしていた。麻布のアメリカ公使館にまだ元服していない子供をボーイとして預かり、横浜のヘボン塾に通わせ公使館では英語を実地学習させていた。そのボーイは後に三井を起こす立役者の益田孝であり、経済界を離れて風流の茶人鈍翁と慕われる人物になる。三井文庫が国会図書館に「ゑひすのうわさ」を寄贈しているが、この仮名書露文の冊子が三井に収蔵されていたことは益田孝が元服するころタウンゼント・ハリスのアメリカ公使館善福寺に通っていたことと関係するだろうか。「ゑひすのうわさ」には下田領事館時代のハリスとヒュースケンの様子が仮名書流に描かれている。
注3
"At half past two p.m. of this day I hoist the first consular flag ever seen in this empire. Grave reflections. Ominous of change. Undoubted beginning of end."
本日の午後2時半、私はこの帝国(日本)で初めて見られる領事旗を掲げる。重大な省察。変化の前兆。間違いなく終わりの始まり。
本日とは1856年9月4日。初代アメリカ合衆国総領事としてタウンゼント・ハリスが下田の玉泉寺に星条旗を掲げた日。国を閉ざす時代は終わった。日本にアメリカ国旗がはためく。間違いなく自由貿易の時代がやって来る。この国旗を道しるべにして日本は閉ざされていた門戸を開ける。ハリスは日記にthe beginning of the end(終わりの始まり)と記した。そして、開港し貿易によって門戸を開くことは「本当に日本のためなのか?」という問いかけをしている。
出典/The complete journal of Townsend Harris, first American consul general and minister to Japan; Harris Townsend Japan Society,New York1930
関連/TOWNSEND HARRIS DAY Sept. 4, 1928 Page 20 The New York Times https://www.nytimes.com/1928/09/04/
archives/townsend-harris day.html
「本当に日本のためなのか?」とハリスが日記に記し問い掛けたのに対して1928年9月4日付のニューヨーク・タイムスは次のように返した―「その質問に答えるのは日本人が一番いいだろう」。記事が掲載された日の第一回ハリス記念日式典で渋沢栄一がためらうことなく「日本の永遠の利益になった」と応えた。そしてNYTはこれはアメリカの利益でもあり、日本の発展は「世界の利益のためにもよい」と付け加えた。渋沢栄一はこの式典の主催者であり強力な推進者だった。下田玉泉寺へのハリス記念碑建立は渋沢の尽力によるところが大きい。ヒュースケンが暗殺された直後の英仏が採った行動をハリスが批判し、江戸から動かず日本と米国の商人による自由貿易の推進されることを主眼にしたことを渋沢は讃えた。ハリスの武士道精神をそこに見たという。アメリカの正義を見たという。しかし、歴史の歯車は軋み始める。この後、日米の間に何が起こったのか、世界に何がもたらされたのか私たちは知っている。「重大な反省」 「変化の不吉な予感」 紛れもなく「終焉」の始まり。ハリスが日記に記した予感、危惧を忠実に辿って、そして、予想もしなかった規模に膨れ上がって日本にはThe end of the endがもたらされた。
注4
Saturday, November 7, l857- I paid my bills to the Goyosyo for my bills with them for four months, amounting to 754 ichibus, or $260; but this covers a good deal of carpenter's work and other extras. My bills with the Japanese for supplies will be about $700 per annum. To this add supplies from Hongkong, say $500, servants $650, gives a total of $1,850 per annum, less $365 per annum paid by Mr. Heusken as his share of household expenses, — leaving my outlay about $1,500 per annum. But, at the rate of exchange against the United States, which varies from thirty to forty-five per cent., I can remit to New York some $6,000 per annum as my savings out of a salary of $5,000! Besides, I have made a little sum of about $2,500 by taking from the Japanese foreign gold at the rate at which they took it, — i. e., 34½ cents per dollar. This I send to Hongkong to be disposed of by remittance to New York or for sale, as may be most for my interest.
1877年11月7日(土)御用所からの4ヶ月分の請求書を支払いました。合計754分(一分銀)、約260ドル(銀貨)ですが、これは大工の仕事代やその他の雑費をかなりカバーする金額です。日本人への物資購入費は年間約700ドルです。これに香港からの物資購入費500ドルと使用人費650ドルを加えると、合計は年間1,850ドルになります。ヒュースケン氏は年間365ドルを生活費として私に支払うので差し引き私の支出は約1,500ドルになります。しかし、対米為替レートは30~45%と変動するため、給与年間5,000ドルなのに年間約6,000ドルを貯めてニューヨークに送金することができます!おまけに私は日本の金外貨受け取り手数料レート、それは1ドルあたり34½セントですから約2500ドルの小金を稼ぎました。この小金は香港に送り、ニューヨークへの送金か、私の利益に最も合うと思われる売却方法で処置してもらいます。・出典/同上
参考→七匁二分の銀一つは壱分三つKhasyaReport Khasyabook mini
注5
Ich bat Harris, bei mir zu eſſen, und er acceptirte. Er trinkt nie Wein und ißt ſelten Fleiſch; man muß ihn mit Reis und Curry füttern. Das hinderte aber nicht, daß wir ganz munter waren. Wenn ich mich mit Harris unterhalte, ſo ſpricht er engliſch und ich franzöſiſch; dasgeht ſehr gut.
page 122 /Ost-Asien 1860-1862 in Briefen des Grafen Fritz zu Eulenburg, Königlich Preussischen Gesandten, betraut mit ausserordentlicher Mission nach China, Japan und Siam
ハリスに一緒に食事をしようと誘ったら、快諾してくれた。彼はワインを飲まないし、肉もめったに食べない。ご飯とカレーしか食べない。でも、それでも私たちはとても楽しい時間を過ごしていた。ハリスと話すときは、彼は英語、私はフランス語で話す。とてもうまくいっている。
注6
Mrs. Forbes is a very charming person, daughter of a judge, born and educated in Ceylon; she has never been one hundred and fifty miles from her birthplace, yet she is well informed and most pleasing in her manners. The dinner was somewhat different from the usual English one in the colonies. A great number of excellent Cingalese plates made their appearance: among others, the cabbage, as it is called, of the cocoanut tree, dressed half a dozen different ways, — the meat of the cocoanut which has just begun to germinate, in which state the cavity is quite filled up with a sweet, crisp, vegetable substance that is quite agreeable. ・出典/The complete journal of Townsend Harris
フォーブス夫人は大変魅力的な方で、裁判官の娘さんで、セイロンで生まれ教育を受けました。生まれた地から150マイルを離れたことはないのですが、それにもかかわらず物知りで礼儀も十分にわきまえています。夕食は、植民地のイギリス料理とはどこか違います。たくさんの素敵なセイロン料理が並んでいるのです。中でも、キャベツと呼ばれるもの、それは椰子の木から採れるのですが、この”キャベツ”を6種の異なる料理に仕上げていたのです。”キャベツ”は発芽したばかりの椰子の木で、中身は甘くてサクサクした野菜の味でいっぱいで、とても美味しいです。
出典/1856.January 1;The complete journal of Townsend Harris, first American consul general and minister to Japan; Harris Townsend Japan Society,New York1930
この1856年正月元旦の日記には「”私の小説”をキャプテン夫妻に返した」というメモのような記述がある。”私の小説”My novel は英国ビクトリア朝時代の流行作家Edward Bulwer Lyttonによる作品。ゴシック怪奇小説で売れていた(としか日本では評価されない、あるいは後々スヌーピー並みの低俗な文で小説冒頭を書き始める作家とレッテルを張られた)Liptonが英国の田舎の農村を舞台に村人たちの日常を淡々と描いた1876年の作品。ハリスはこの作品My novelをこれまでのLiptonのビクトリア朝小説とは格段に違う、と評する。「道徳と哲学がある」と記している。→タウンゼント・ハリスのコロンボ日記1856年1月1日・キャプテンに”私の小説”を返し、フォートを見下ろすフォーブス氏の公邸で夫人手作りのシンハラ料理とマレー・カレーを食す
The Malay curries of Mrs. Forbes were unexceptionable.・出典/同上
「まったくもって申し分ない」とハリスが評するフォーブス夫人のマレー・カレー。この短文が先の1856.January 1の文章の後に続いて記されている。これがどのように調理されているカレーなのかは記されていないので詳細には触れられない。しかし、マレー・カレーと記しているのはそれが典型的なマレーシア・スタイルのカレーだということであったなら、マライ・ティッカ・カレーを思い浮かべるべきだろう。インド北東部のカルカッタに駐在する欧州人が好んだ「インド・カレー」だ。現在の一般的な説明ではマライは古ヒンディ語、つまりサンスクリット語でありミルクを意味する、とgoogle aiに尋ねればまず回答される。そこでしつこくaiに、本当にしつこく「本当?」と尋ねなおすと「いや、実はマレーシアのことです」と答えが返ってきて、ネットでは皆さんこんなことを言っています、マライ・ティッカ・カレーはマレーシアからその昔移入された料理です、と回答を変える。G-aiは何の衒いなくこうした回答のすり替えをして、質問者を幻惑する。しかし、ここは醍醐味だ。ネットの知識保管庫には裏表、正誤、嘘と真、何でもそろっている。そこを見透かして質問を繰り返せばaiはいくつもの回答をひねくり出してくる。
ハリスは日本の下田へやって来る時、カルカッタからカレー粉を取り寄せるほどのカレー好きです。彼の好きなマレーシアのカレーがカルカッタの異邦人に愛されたマライ・ティッカ・カレーだという推測は十分成り立つでしょう。もっともハリスはベジタリアンを自認しています。scarcelyだけどハリスは肉も食べます、とはカール・クロウCarl CrowがHe open the door of Japan 1939に記した観察。実際、下田では幕府の現地奉行所から届けられた鹿も猪も召し上がっています。
以下は本文、および上記の推敲に至るまでのgoogle aiとkhasyareportのやり取り。2025-11-29
Q:malai means cleam, if so, is'nt it relate with malay coconut cleam don't it
A:いいえ、ヒンディー語の「malai」(クリーム)と、マレーシア・マレー半島を指す「Malay」という言葉は、意味的にも語源的にも直接的な関係はありません。
両者は偶然音が似ているだけです。
ヒンディー語の「malai」(クリーム): 牛乳から作られる乳製品のクリーム(クロテッドクリームclotted cream)を指す言葉です。インド・アーリア語に由来するか、サンスクリット語の「manda」(濃厚なクリーム)に由来する可能性があります。
「Malay」(マレー): この言葉は、マレー半島(現在のマレーシアやインドネシアの一部)の住民や言語を指します。語源はタミル語(南インドの言語)の**「malai」**(山または丘)に由来すると考えられています。古代インドの商人たちが、山の聳える地形を指して「山脈の土地」(Malayadvipa)と呼んだことが起源とされています。
したがって、マレーシア料理などで使われるココナッツ・ミルク(ココナッツクリームは通常「santan(サンタン)」と呼ばれます)とも直接的な言葉のつながりはありません。
ただし、興味深い例外として、ベンガル地方の「Chingri Macher Malai Cury」(エビのマライカレー)という料理では、ココナッツミルクが使われており、この料理名の一部はマレーシア(Malay)から来たという説もあります。この場合、「Malai」は「ミルククリーム」ではなく「マレー風」を意味している可能性があります。
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Facebook/DEY's Kitchen/2021年7月25日 ·
A bit about the history of the Chingri (Golda) Macher Malai Curry. Some people believe that this dish has a Malaysian influence and the early version of the recipe might have been bought by Malaysian sailors to the Bay of Bengal, many years ago.
The word “Malai” is actually “Malay”, meaning Malaysian. The use of coconut paste or milk in curries across Asia is one common thread among the cuisines. Interestingly, Malai in Hindi means “milk cream”, but the dish doesn’t use milk cream. So, it is apparent that Malai is the distorted way of saying “Malay”. But, this is just one school of thought.
The curry prepared in coconut milk and aromatic spices rejuvenates the Sunday Lunch
Seat Back and Enjoy Chingri Maacher MalaiCurry served with Steamed Rice
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google ai
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Q:if there any curry that use clotted cream
A:Yes, there are a number of recipes for curries that use clotted cream, typically to add a rich, velvety texture and creamy flavor.
Clotted cream is often used as a substitute for heavy cream, plain yogurt, or coconut milk in various curry recipes, particularly in the UK where brands like Rodda's and Langage Farm promote its use in versatile ways beyond the traditional scone.
Recipes that incorporate clotted cream include:
Chicken Curries: Mild or butter chicken-style curries often use clotted cream to achieve a smooth, rich sauce. Meal kit services like Gousto have also featured clotted cream in their mild chicken curry recipes.
Massaman Curry: Some variations of this Thai curry use clotted cream for added richness alongside or instead of coconut milk.
Pasanda Curries: Clotted cream is used in recipes for creamy lamb and chicken pasanda curries, which are a mild, Mughlai favorite known for their tender meat and fragrant spices.
Leftover Turkey Curry: It is a popular ingredient in recipes designed to use up leftover turkey, especially around the holidays, adding a luxurious touch to a simple dish.
When using clotted cream in a curry, it is typically stirred in near the end of the cooking process to melt into the sauce and create the desired creamy consistency. It provides a subtle flavor that is not overpowering, making it a good fit for a variety of spice profiles.
You can find specific recipes on the websites of dairy producers, such as Langage Farm and Rodda's, as well as on various food blogs and cooking platforms.
2025-11-29
Q クロテッドクリームを使ったカレーがあれば…
Aはい、カレーには、濃厚でベルベットのような食感とクリーミーな風味を加えるためにクロテッドクリームを使用するレシピがいくつかあります。クロテッドクリームは、さまざまなカレーのレシピで生クリーム、プレーンヨーグルト、ココナッツ・ミルクの代用としてよく使用されます。特に英国では、Rodda's や Langage Farm などのブランドが、伝統的なスコーン以外にもさまざまな用途でクロテッドクリームの使用を推奨しています。クロテッドクリームを使ったレシピには次のようなものがあります。
◎チキンカレー:マイルドカレーまたはバターチキン風のカレーでは、滑らかで濃厚なソースにするためにクロテッドクリームがよく使われます。Goustoのようなミールキットサービスでも、マイルドチキンカレーのレシピにクロテッドクリームが使われています。
◎マッサマン カレー:このタイカレーのいくつかのバリエーションでは、ココナッツ・ミルクと一緒に、またはココナッツ・ミルクの代わりに、クロテッド・クリームを使用してコクを増しています。
◎パサンダ カレー:クリーミーなラム肉とチキンのパサンダ カレーのレシピにはクロテッド・クリームが使われます。柔らかい肉と香り高いスパイスで知られる、マイルドなムグライ料理です。
◎残った七面鳥のカレー:特に休日の時期に残った七面鳥を使い切るように作られたレシピで人気の材料で、シンプルな料理に贅沢な味を加えます。
カレーにクロテッド・クリームを使う場合、通常は調理の終盤で混ぜ込み、ソースに溶け込ませてクリーミーな舌触りに仕上げます。クロテッド・クリームは、強すぎない繊細な風味を与え、様々なスパイスと相性抜群です。
具体的なレシピは、 Langage FarmやRodda'sなどの乳製品生産者の Web サイトや、さまざまな料理ブログ、料理プラットフォームで見つけることができます。
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Q:How many curries in Calcutta have the name "malai-" in 1850s
A:There is no evidence in historical records or food literature of any curry menu items explicitly named "malai-" in Calcutta in the 1850s. The term "malai" (meaning cream or the top layer of milk in Hindi/Bengali) likely refers to a rich, creamy sauce in modern Indian cuisine, or specifically to the Bengali dish Chingri Malai Curry (prawn malai curry), which is a traditional Bengali delicacy.
1850年代のカルカッタで、歴史的記録や料理文献の中に「マライ」という名称のカレーメニューが明確に存在したという証拠はありません。「マライ」(ヒンディー語/ベンガル語でクリームまたはミルクの上層を意味する)という用語は、現代インド料理における濃厚でクリーミーなソース、あるいは特にベンガル料理のチングリ・マライ・カレー(エビのマライカレー)を指していると考えられます。これはベンガルの伝統的な珍味です。
Here are the key reasons why such a specific menu item is highly unlikely to have existed in 1850s Calcutta menus, especially for European patrons:
1850 年代のカルカッタのメニューに、特にヨーロッパの常連客向けに、このような特定のメニュー項目が存在した可能性が非常に低い主な理由は次のとおりです。
"Malai" in Bengali Cuisine:
The term Chingri Malai Curry is a traditional Bengali dish and a local specialty, popular in modern Kolkata. The name refers to the use of coconut milk (historically, not dairy cream as the word "malai" might suggest in North India) to create a rich, creamy texture and color.
ベンガル料理における「マライ」:
チングリ・マライ・カレーは、伝統的なベンガル料理であり、現代のコルカタ(カルカッタ)で人気の郷土料理です。この名前は、濃厚でクリーミーな食感と色合いを出すためにココナッツ・ミルク(歴史的には、北インドでは「マライ」という言葉から想像されるような乳製品のクリームではなく)を使用することに由来しています。
Absence in Anglo-Indian Cuisine:
European menus in 19th-century colonial India focused on Anglo-Indian cuisine, which was an adaptation of various Indian dishes to British tastes (e.g., "mulligatawny soup", "chicken curry and rice", various kedgerees). Historical research into colonial-era menus does not show the use of specific regional dish names like Chingri Malai Curry, but rather generalized "curries".
アングロ・インド料理の不在:19世紀の植民地インドにおけるヨーロッパ人のメニューは、様々なインド料理をイギリス人の好みに合わせてアレンジしたアングロ・インド料理(例:「ムリガタウニースープ」、「チキンカレーライス」、様々なケジャリー)に重点を置いていました。植民地時代のメニューに関する歴史的研究では、「チングリ・マライ・カレー」のような特定の地域料理名の使用は見られず、むしろ一般的な「カレー」が使用されていました。
Lack of Historical Menu Records: Detailed, authentic menus from the 1850s are rare, but the available historical snippets of food culture from that era focus on generalized "curries" and the European adoption of local Indian cooking techniques, not specific named regional dishes with the "malai" prefix.
歴史的なメニュー記録の欠如:1850年代の詳細で本格的なメニューは稀ですが、当時の食文化に関する歴史的な断片的な資料は、一般的な「カレー」やヨーロッパ人が現地のインド料理の調理法を取り入れたことに焦点を当てており、「マライ」という接頭辞が付いた特定の地域料理の名前は含まれていません。
Origin of "Malai" Dishes: Modern dishes like Murgh Malai Kebab are popular contemporary items, but their origin traces back to later periods, not the mid-19th century.
Therefore, while the key ingredients for a malai curry would have been available in Calcutta, and Europeans certainly ate curry, a menu item specifically named "malai-" was not a documented part of European dining in Calcutta during the 1850s.
「マライ」料理の起源:ムルグ・マライ・ケバブのような現代料理は現代でも人気がありますが、その起源は19世紀半ばではなく、後世に遡ります。したがって、マライカレーの主要な材料はカルカッタで入手可能であり、ヨーロッパ人も確かにカレーを食べていたものの、「マライ」という名称のメニューは、1850年代のカルカッタにおけるヨーロッパ人の食事に記録されていません。
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Q:Chingri Malai Curry, its Malai means hindy "milk".yes,i understand.but if there is malaysia origin named "Malai-"curry,is't it?
A:Yes, you are correct in your suspicion: the "Malai" in Chingri Malai Curry is widely believed by food historians and locals to be a transliteration of the word "Malay," referring to Malaysia, not the Hindi word for dairy "cream".
チンリマライカレーの「マライ」はヒンディー語で「ミルク」を意味します。はい、分かります。でも、マレーシア発祥の「マライ」カレーがあるなら、どうでしょう?
はい、あなたの推測は正しいです。チンリマライカレーの「マライ」は、マレーシアを指す「マレー」という言葉の音訳であり、ヒンディー語で乳製品の「クリーム」を意味する言葉ではないと、食文化史家や地元の人々は広く信じています。
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