▲TOPへ



今日はハリスのカレーの日
Heute ist Harris Curry Day
オイレンブルクとハリスのカレー会食

KhasyaReport 2025/Feb/07



関連/
タウンゼント・ハリス、インドへカレー粉を注文する


Briefen Philipp zu Eulenburg TownsendHarris プロシア通商交渉団代表オイレンブルクFriedrich Albrecht Graf zu Eulenburgと(左)と米国公使タウンゼント・ハリスTownsend Harris(右)。
Ost-Asien 1860-1862 in Briefen des Grafen Fritz zu Eulenburg. Hrsg. von Graf Philipp zu Eulenburg-Hertefeld / Townsend Harris, first American envoy in Japan Griffis, William Elliot, 1895 Boston, New York, Houghton, Mifflin and Company

 1861年1月14日(安政7年12月4日)、ハリスとヒュースケンは江戸芝赤羽のプロシア使節団宿舎を訪ねます。プロシア公使オイレンブルク伯爵から通商条約締結前祝に招待されていました。プロシアが求める日本(江戸幕府のことです)との通商条約が二人のおかげで早期に調印の運びとなったからです。注1
 同じくハリス条約を足掛かりにしてすでに日本との通商を結んでいる英仏の公使たち、また、幕府の条約担当者らも招かれてプロシアが主宰する通商条約締結前祝パーティに豪奢なメニューの数々が並びました。そう、そして、ここからです。テーブルには最先端の、流行中の、繰り返して言わずもがなですが「ハリスが絶賛するアジアの美食カレーライス」が香ばしい香りを立ち上げて並んでいます! 
 ハリスはカレーライスが大好き。ハリスのためにカレーライスがテーブル満載の西洋料理に加えられたのです。だから、KhasyaReportとしてはこの日、1月14日を「ハリスのカレーの日」と呼ぶことにしました。パーティに招待された日本人(外交担当の幕府の武士たちです)にとっては初めてのカレーライス体験。江戸に芳醇なスパイスの香りが広がります。食は文化の源。ここからも文明国としての一歩が踏み出せる…はずでした。それなのにオイレンブルクからご招待を受けた外国掛(外務担当)武士たちはシャンペン、ワイン、ウィスキーばかりが気がかりでなりません。洋酒の接待をこれまでも受けていたのでそれらの味を「好物」として覚えているのです。カレーには目もくれない。仕方がありません。日本はまだ、万国公法で言う処の「半文明国」ですから「カレー」という西洋の最先端の食文化を受け入れるにはまだちょっと…

 
KhasyaReport




 

  1861年1月14日のプロイセン友好・通商両条約締結前祝パーティ。なんでそこにカレーライス登場かって、そのいきさつを覗いてみましょう。
 幕末とは言え江戸時代。まさか、カレーだなんて、といぶかる方ばかりのようですが---「文明開化」は明治維新の後に、という19世紀維新政府の宣伝が21世紀初頭のいまでも働いているのですね---文明開化も開国も江戸時代末期、徳川政権のときに、もう始まっているんです。
 プロシアの通商交渉団代表フリードリヒ・アルブレヒト・ツー・オイレンブルク伯爵Friedrich Albrecht Graf zu Eulenburgが祖国プロシアの甥フィリップ・フリードリヒ・アレクサンダー・ツー・オイレンブルク伯爵Philipp Friedrich Alexander Fürst zu Eulenburgに送った手紙の中に、こんな一通があります。※カッコ内はKhasyaReportの補注

―芝赤羽の我プロシア遠征団宿舎に何やらワサワサと幕府の護衛をぞろぞろ引き連れて米国のタウンゼント・ハリスTownsend Harris公使がやって来た。丁度夕刻で私(オイレンブルク公)はヨーロピアン・サドル(江戸にやって来た時ハリスから戴いたプレゼントです)を載せた馬にまたがり散歩に出た帰りでした。
 宿舎の庭にサムライ護衛団が持ついくつもの明かりが揺れています。テロ集団を抱える大名屋敷(薩摩藩です)が近くにあるので彼らが突然襲撃してくる事態に備えているのです。日本政府(徳川幕府です)はアメリカ公使ハリスを守る姿勢を外国要人テロを起こして政権交代を目論む薩摩屋敷に対して明確に示しています。
 ハリス公使は私にいい知らせを持ってきてくれました。日本との通商条約に幕府は全権を委任する担当者を指名して調印への準備を進めたそうです。交渉は早くまとまるよ、とハリス公使は内々の情報を私に伝えてくれました。
「感激です、ハリス公使。今夜は是非とも私と夕食をご一緒してください」
 そう誘いました。(ハリス公使は幕府に根回しして条約締結の進み具合をスムーズに調整してくれたのです注1。オランダ語で作成する条約文はハリス公使の秘書ヒュースケン氏が私たちに加わって手伝ってくれました。まずはハリス公使と晩餐をご一緒してプロシアからの感謝のしるしを贈らせていただくとをお話しする積りです。でも、ハリス公使は意にそぐわない無駄なことは一切しません。なので、)
「いや、断らないでください、ハリス公使。わかっています、酒も肉も出しませんから。食事も清廉潔白にご用意します。カレーライスです。ハリス公使の大好きなカレーライスで歓待します」と誘いました―

 「え?カレーライス!」とハリスは思わず声に出してしまいました。喜び相好崩して「それじゃあ断れないなあ」とオイレンブルク公が語りかけるフランス語に対してハリスはにこやかに英語で返します。二人は何故かフランス語と英語で会話します。プロシア人のフランス語とアメリカ人の英語が双方のプライドを掛けてぶつかり合うのですが、いがみ合う様子など全くありません。
「これが結構通じるんだよ。面白いほどに」と甥へ送った手紙の最後にオイレンブルク公は記しています。英語はフランス語の語彙を滅法内包するから、それで「結構うまく話は通じるんだ」と言うのです。

 カレーライスを鼻先にぶら下げてオイレンブルク公はハリス公使を晩餐に誘いました。日本政府(幕府のことです)との通商条約締結を真正面から援助してくれるのですからハリス公使には感謝しかありません。高揚する感謝の気持ち。オイレンブルク公の人柄です。英国使節団のエルギンもハリスが助力した日本との通商条約交渉に感謝しましたが、こんな風にあからさまに喜ぶ様子はありません。オールコックに至っては「我々を助けてくれると言うんだけどハリスの算段には裏があるに決まってる」と斜に構えています。「通商条約があんなに簡単に結べるはずがない」と勘ぐって怒ってもいます。アメリカに条約締結を出し抜かれたことへのひがみでしょうか。オランダ、フランスも同様、同様。
 オイレンブルク公は日本国首相(当時の職名では老中首座兼外国掛)堀田正睦に劣らず実直で人が好い。第一秘書兼オランダ語通訳のヒュースケンもフランス語のジョークでみんなを笑わせながらオランダ語できれいに条約文を編む作業に没頭しています。「第一秘書」って第二、第三がいるの? ハリスのアメリカ外交団は二人構成。もともとヒュースケン一人しかハリスの下に人材はいません。
 アメリカは文明国ですけどまだ未開で内陸を東西に結ぶ鉄道開発もこれからですし、金goldはカリフォルニアで発見されて大喜びですけど、大国として英仏と肩を並べるにはまだ途上国なのです。アジアでは英仏に出遅れて進出しました。遅れを取り戻せ、いまだにどの国も成しえていない日本との「通商条約」を真っ先に結んで、「アメリカここにあり。どうだ、見たか知ったか」という栄誉をアメリカ政府はつかみたかったのです。ハリスがその栄誉のための先兵になった―「兵」とハリスを呼ぶのは語弊がありますけど―でも、西欧諸国は、そして日本(徳川幕府です)もペリーと同じ剛腕な軍人のように当初、ハリスを遠ざけて見ていました。単なる「カレー好きのおじさん」なんですけど。

 英語でもフランス語でもカレーはCurry、つまり、カレーです。アジア生粋のスパイス料理カレーはタミル語でカリகறிと呼ぶ料理が語源とかで、南アジア原産の言葉です。でもタミル語のカリகறிがどんな料理を意味したかなんて明白に決定するには無理が立ちます。カリகறிとカレー粉curry powderは同じような顔つき、音素の言葉だけど食文化としては別仕立てなので一緒にして包み込んではいけません。カレーには大胆に、繊細に、変幻自在なレシピ―がいくつも語られます。それは現在に至ってなお混とんとしている。どうしようもない有様なのかって、いや、これがインド世界の妙味なのです。ここにビクトリア朝の英国が彼らの生んだカレー粉curry powderを持って来て腕力に任せて押し入るのですからインド混沌世界にイギリス資本の金満エネルギーがバケツをひっくり返してぶち込まれ、七つの海は大騒ぎです。

 カレー粉という絶品は英国人が発明したものです。ポルトガル人がインドでカリகறிを見つけて、それがcurryに転じて、ロバート・ノックスがセイロンでの軟禁生活を脱して英国に戻って「手記」を出した時、そこにカレーのうんちくを記して注目を浴び、その後、英国がインドを植民地にしてカルカッタにインド統治の本拠を置いて、カルカッタ滞在の英国人家庭に雇われた現地のコックさんが「おいしいカレー」を作り、カルカッタ滞在を終えてロンドンに戻った英国人はインドの味を懐かしみ、英国でインドの味カレーを求めてビクトリア時代の大発明「カレー粉」を生んで英国でヒットさせて、それが華々しくインドへ里帰りして、今度は英国企業が新聞広告を駆使して英国製カレー粉を世界に広めましたって、ああ、だらだら長い文章でした。皆さん、ご苦労様。要約します―1860年代のロンドン&チャイナ・テレグラフ紙にカレー粉を売り出すペイン商会の広告がほぼ毎号掲載されるほどカレーは斬新なエスニック食文化だった。注2
 ハリスと言えばカレーライスです。ハリスと秘書兼通訳のヒュースケンを乗せてセイロン・ゴールから日本へ向かうはずの米国新造の軍艦サン・ジャシントはいくら待ってもゴールに現れない。日本へ行く前の一仕事、タイでの「通商条約締結」はP&O船でゴールからバンコクへ向かって、国王と条約を結んで、さて、今度こそはサン・ジャシントにやっと乗船。だけど、またもや香港でこの軍艦はエンジントラブル。修理で一月余、グズグズしました。その折、ハリス公使はインドのカルカッタに駐在する旧知の米国総領事ハフナグルに「カレー粉、送っておくれ。一緒にチャツネも」と書面を認めました注3。カレーを上手に作るという触れ込みで現れた中国人コックさんをその奥さんと一緒に香港で雇ったからです。
 カレー粉をカルカッタから彼のアメリカ領事としての赴任先、下田に取り寄せるためのハフナグルへの手紙の、その指示がなんとも細かい。注4
 まず、ハリスが懇意にしている香港のアームストロング&ローレンス(A&L)商会にカルカッタのハフナグル米国総領事からレー粉を送ってもらいます。A&L商会はハリスの友人の香港在住ドリンカー氏にカレー粉の到着を知らせ、それをマカオの別宅に常駐するドリンカー氏の奥さんが受け取り日本へ向かう郵船にカレー粉を乗せて下田に送る。日本へ向かう船便を新聞で見つけたら出航日を常にマークしてくださいと、ここもハリスらしい細心の指摘を忘れません。かくしてインドのカレー文化がハリスの注文した瓶入りカレー粉の姿となって香港、マカオを通過して日本へやって来る手配が整いました。でも、カレー粉が届いた、下田で食べるカレーは旨かった、という記録が『ハリスの完全日記』に残されていないので、当方のごときカレー探検者にとって、これは困った。
 そうなんです、オイレンブルク伯とのカレー会食のこともハリスは一切、記していません。沈黙のカレーライス。でも、KhasyaReportとしてはこう書きます―文明開化じゃ。カレー食文化の夜明けぜよ。幕末日本、江戸城おひざ元に英国植民地のインド・カルカッタからカレー粉がやって来るじゃっ―あれ、土佐言葉?
 ハリスのカレーライス。もう維新が後に控えていて、「ハリスさんどいてくれない?」と頬を膨らませている時代がもうそこに。維新になったら王政復古、維新だけど昔に戻るからハリスのカレーなんか出て来やしない。出てくるのは軍服仕立ての「別のカレー」。
 
 いや、「別のカレー」を口にするのはまだ早い。もう少し江戸末期のハリスのカレーを別の角度から探ってみましょう。  

今日はハリスのカレーの日。ハウスじゃないよ、ハリスだよ。

 わざわざインドからカレー粉を取り寄せるカレー好きのハリス。ここはカレー通認定試験のポイントだな、押さえておこう。KhasyaReport主幹は『南の島のカレーライス』で試みた技注4をいまだに使っていて、カレーというキーワードから社会と歴史を文化史として読み解こうなんて算段しています。無謀で無茶な試みです。あれから30年も経っているというのに。
 ハリスのカレーは探らなきゃ、って探ってどうする。どうなるわけでもない。だけど、何かその先に見えて来るようです。アジアの歴史と文化と。西洋の国々のアジア「開拓史」、そこに繋がる様々な人々の生きざまと考え方も。不思議なことだけど。
 ハリスは日本へ向かう途中、セイロンのゴールに寄りました。貿易商時代のハリスが足場にしていた南の島のハブ港です。ヨーロッパとアジア海洋部を結ぶゴールでハリスはサン・ジャシントに乗り込む予定です。乗り換えがゴール港にやって来るまで一か月。その間にハリスのカレー生活は充実します。貿易商時代の友人マクドナルド船長の邸宅に食事に呼ばれてセイロン料理(スリランカのカレー料理!)を振舞われました。船長夫人はイギリス人だけどセイロン産まれでゴールからは一歩も外に出たことがない。そして、ここがポイント、船長夫人はスリランカ料理にめっぽう強い。食後のセイロン・デザートは至高の逸品。カレーが好きでたまらないハリスは『完全日記』の中で何度も夫人のカレー料理をほめちぎっています。

タウンゼント・ハリスがカレー好きだったなんて、そんなこと知らなかった。そういう方が多いかと思います。でも、それは仕方ありません。ハリスがカレー好きなこと、ハリスを語る歴史研究者の誰も、ハリスをたたえる方も貶す方もこのカレーのことに一切触れません(ハリスの一代記を書いたカール・クロウを除いて)。だから、今、これをお読みになっている皆さんは知らなかったのです。カレーのことは誰も書かない。なぜかな。きっとそこには深い深い歴史の闇があるんだ、とKhasyaReport主幹は腕を組んで考えました。オールコックのように斜に構えて「裏があるに違いない」と勘ぐってみたり。

 そこでちょっと触れるけど…

 幕末の研究者は多く、オイレンブルク伯に触れるとき、シュピースのプロシャー日本遠征記Die preussische Expedition nach Ost-Asien: nach amtlichen Quellen1864を資料に用います。この「遠征記」にはカレーという言葉が出て来ません。でも、『オイレンブルク日本滞在記』Ost-Asien 1860-1862 in Briefen des Grafen Fritz zu Eulenburg. Hrsg. von Graf Philipp zu Eulenburg-Hertefeld/1900にはカレーという言葉が三度登場します。前者『遠征記』はシュピースが編んだ日本遠征の公式記録。後者『滞在記』はフリードリヒ・アルブレヒト・ツー・オイレンブルク自身が書いて甥のフィリップ・ツー・オイレンブルクHrsg. von Graf Philipp zu Eulenburg-Hertefeldに送った数多の手紙を集成、編集した書簡集です注6
 前者1864はあまりに高名なので言及はさておき、後者1900は当時(幕末)の当事者(オイレンブルク伯)の現場(通商条約交渉の場)の肉声が文字で記されています。有体に言えば、プロシア国のシュピースによる公使記録に記されていることをひっくり返してしまうチャチャが手紙にあれこれこぼれている。アルブレヒト・オイレンブルク伯ならやりそうなこと。その一つがカレー話です。

オイレンブルク日本滞在記1900に記されたカレーのこと

 ハリスがカレーをプロシア遠征団の宿舎で振舞われたのは1860年12月6日です。でも、1864年に発刊されたプロシア政府の公式報告書「オイレンブルク日本遠征記」には1860年12月6日の出来事が記されていません。シュピースが残したプロシアの公式記録にはないのです。カレーが出てくるのは「オイレンブルク日本滞在記」(和訳は「日本滞在記 : 第一回独逸遣日使節」と題される注7)です。オイレンブルクの手紙の中にカレーが記されているのです。まずは1860年12月6日・木曜日の記述に、

 今日私が夕方5時半頃遠乗りから帰ると、私の庭はノリモン(駕籠)と駕籠揑きの提灯で一杯だった。それはハリス氏の一行で、今日日本の閣老達と会談した氏が、私に嬉しい報告を齎(もたら)す為に自分で来て呉れたのだ。閣老達は、終にプロシアと条約を結ぶ為に全権を任命する積りであると説明したといふ。恵み深い神はこのやうに再び又救ひ給ふた。
「日本滞在記 : 第一回独逸遣日使節」日独文化協会 1940


とあって、こう続きます。

 私の胸は感謝の念で一杯である。
 私はハリスに私の許で食事するやう頼んだ所、これを承諾して呉れた。彼は酒を飲まず、肉も滅多に食べない。彼にはカレーライスを供するのだったが、これが為に私達が快活に語る妨げにはならなかった。私がハリスと話をする時には、向ふは英語で、私はフランス語で話すので非常に都合よく運ぶ。
出典/同上


 ハリスは酒を飲まず肉も食べず、カレーライスじゃないとダメ。でも、にぎやかに食事したよ。ハリスは英語で、私はフランス語で話すけど、それがうまく会話が弾むんだ。
ハリスは英語で、私はフランス語ってところにオイレンブルクの貴族らしい優越感みたいなものを忍ばせるけど、どうにもこのくだり、エスプリですかね。
 
 食に滅法こだわるオイレンブルク伯。伯爵ならではのハリスへのもてなしはカレーライスでした。公的報告書「オイレンブルク日本遠征記」に登場するのは晩餐の名にふさわしい豪華盛大な日本料理です。幕府側がプロシア代表団をもてなして「遠征記」の筆者シュピーゲルはその日本料理の繊細で上品なさまを褒めたたえ、我々西洋人はこうした自然の風味というものを忘れていると記して欧州の食文化が絢爛の中で陳腐化するさまを嘆いて見せますが、これは外交上のお決まりのくすぐったい誉め言葉。同じ幕府の饗応をオイレンブルク伯は甥っ子のフィリップ・ツー・オイレンブルク伯に送った手紙に一言、「まずい」と評しました。酒、まずい。米、まずい。実直に評する。我々西洋人の舌は劣化しているから繊細な日本料理が分からないなんてシュピーゲルのように上品には言わない。
 あれから150年も過ぎた。日本食がユネスコ文化遺産になってしまうと日本酒もコメも寿司も天麩羅も世界最高級の食文化が生み出した極みの逸品だということになった。ああ、時代は移った。ニッポンすごい。

 いや、日本食と日本酒のお話はこののテーマではありません。ハリス公使は酒を召し上がらない。江戸城で供された日本食も断っている。そうだ、お話はハリスのカレーライスだ。それもハリス好みの肉の入らないベジのカレーだ。   

タウンゼント・ハリス、純なベジタリアン?

 オイレンブルク伯はハリス公使は肉を召し上がらないと言うが、いやいやそうでもないみたい。ハリス公使の日記にこうあります。

1856-10-22
nation that it is the baibarossa, or hog deer of India and the Indian Archipelago, and I am much surprised to find it so far to the north. The flesh is peculiar. It is very tender,juicy and of an excellent flavor. The taste is something between delicate veal and the tenderloins of pork

 『ハリスの完全日記』を紹介するコセンザ教授はハリスが書くbaibarossaを「鹿の肉」としていますが、 グリフィスWilliam Elliot GriffisはTownsend Harris: First American Envoy in Japan1896の中でイノシシの肉P.71としています。hog deerを取れば鯨偶蹄目シカ科の動物、角を持つ鹿になり、wild hogを取れば「野生の豚」すなわち「猪」になります。注8
 伊豆半島下田で奉行所役人がハリスに持ってきたのは鹿肉という設定はどうだろう。伊豆ならイノシシが跳ね回っているし、脂の乗りがいいという指摘もイノシシだと納得しやすい。グリフィスの作家としての視点がハリスの視点を正確に文献検討するコセンザ教授に勝るか。
 私はtomocaの食材仕入れにスリランカへ毎年出かけていた時、ミーガムワ(ネゴンボ)で日曜日早朝、軒先に赤い肉の塊をぶら下げている家に出くわしたことがあります。イノシシの生肉の塊を天日に晒して軒先で売っているのです。熱帯の朝の太陽にさらされている赤い肉質が痛く目に焼き付きました。熱帯の猪は脂身が薄い。ハリスが「セイロン(スリランカ)の猪肉より日本の下田の猪肉の方が脂が乗っててやわらかで美味い」と記したのはその通りかな。
   




注1
 アメリカ、英国、オランダ、フランスに遅れること2年、日本との通商条約締結を求めてプロイセン使節団が江戸にやってきますが、外交担当の堀織部守はオレインブルク公につれない申し渡しをします。「条約は手いっぱいだからあんたの国、ちょっと待って。貿易って日本が損するばかりだし、日本の通貨もないがしろにされてインフレですよ。まったく。後でね」と言って口頭でやんわり条約締結を拒絶して、拒絶理由を記した文書も公に手渡します。オイレンブルク公、ああ困った、のところへハリスが手を差し伸べます。江戸に滞在している各国駐在公使たちも条約締結の後押しをしましたが、幕府への進言(軍事の脅しではなくて説得です)で功を奏したのはハリスでした。オイレンブルク公が条約を結び終えプロシアに帰ってから堀織部守から渡された二通の文書を外交文書として図書館に寄贈し、それをネットで読むことができます、日本語で。当時の日本語と現代語訳とが掲載されています。一緒に森山通辞の記したオランダ語訳もあって、流麗達筆な筆さばきです。その内容はこれが1860年9月の文書とすればあまりに暢気です。1860年下半期は激動のときでした。安藤対馬守の公武合体が取りざたされ、通貨としての価値を下げる小判改鋳はすでに行われ日本での金漁りは止んでいます。長崎では輸入が増え、横浜では輸出が増大して貿易のブームはうなりを上げて広がっていました。幕府の後ろ向きに前進する亀歩きの様子はオレインブルク公プロイセン日本派遣資料からも読みとることができます。

注2
 ちなみにこの頃のロンドン-チャイナ・テレグラフ紙にはペイン商会のカレー粉広告Payne's celebrated curryが隔月で掲載されている。

payne=curry
The London and Chaina Telegraph Sept.16,1861

ペイン商会Payne and Co.はロンドンのリージェント通り、職業訓練校前にビルを構える輸入品全般とワインを扱う卸売業者。それが料理書にカレーの作り方が載り、カレー粉がブームになるとカレー粉とマリガトーニー・ペーストに扱い品目を特化させて宣伝しまくった。

paynecurry
ペイン商会のインド・カレー粉広告


インドからカレー粉を輸入して販売すると宣伝文句は言う。インドにスパイスはあってもホールの各スパイスを料理に加えても魔法の万能スパイスとなるカレー粉などない。英国のカレー粉はブラック・ペパーに唐辛子、おまけにターメリックまでそこに加わるという豪華絢爛さで、その支離滅裂さには到底、敵う相手はない。世界中に売りまくった。

payne=curry
ロンドンのリージェント通り
職業訓練校前のペイネ社屋


カレー粉が必要となるのはホールのスパイスを組み合わせて料理が作れない人々で、アングロ・インディアンと呼ばれる外来者の一群、つまり英国商人、植民地経営者とその部下、家族たちでインドの食文化に慣れ親しんだ人々だ。現地採用した現地の料理人に彼らは食事メニューに踏み込んだ要求をした。我々に合ったインド料理を作ってくれないか。それとメイン料理の前にスープが欲しいんだ、ここにアングロなインド料理が生まれた。アングロ・インド料理のためのアングロなカレー粉が生まれ、前菜のスープにはマリガトーニーという新種のスープさえ生みもした。例えれば、幕末の横浜から番茶を緑茶に変えて米国に輸出していたようなきわどいトリックが商業資本を絡めてカレーの周辺に生まれた。
 番茶トリックだけど、これは明治初期に至っても日本の「平民」暮らしには緑茶などなかったから、日本中から集めた茶色い番茶をお茶のエージェントが横浜に建てた工場で日本人を日雇いして緑色に染めてグリーン・ティを仕立て上げて「幻の緑茶」を米国に輸出していた商法だ。番茶の枯葉色では売れやしない、極東アジアのお茶は清涼なグリーン・ティだと米国の消費者は決め込んでいるから番茶を魔法で緑茶に変えて輸出した。
 商人は消費者の嗜好を掴んで商品開発をする。調理の度につくる混合スパイスを均一に混ぜ合わせて万能スパイスのカレー粉なるものを発明して瓶に入れてペイン商会がロンドンで売り出し、テレグラフ紙で世界中に広告した。産業革命に気ぜわしいロンドンならではの商人魂の成果だった。これは売れた。日本人がカレーの神様とするC&B社の、後にアラブ料理で一世を風靡する磁器入りC&Bカレー粉はこの時期、まだ知られていない。ペイン商会の洗練されたカレー粉Anglo-Indian curry powderがインドの魂だった。

注3
 英領インドのハフナグルCharles Huffnagle総領事はハリスの古い友人。ハフナグルの英領インド赴任とハリスの下田行きが同時期だったことから二人は赴任途中に落ちあう約束をしたがうまく会えなかったとハリスの日記にある。ハフナグルに関しては執筆した書籍を探せなかったので彼に関する詳細は不明。ただし、彼が残した書籍などがリストアップされ公開されているのでそこから彼が興味を持つ文化対象が垣間見られる。THE HUFFNAGLE COLLECTION
 言語、自然科学、地誌などの書籍が多い。英語の初歩文法解説書が何冊かあるのだが、執務室の書棚にそれらが並んでいれば、それはまるでハリスの部屋でもあるかのようだ。歴史書にはギリシア、ローマなどのタイトルに混ざって日本に関する書(Golowins - Japan)もあるが残念なことにその著者がネットからは探せなかった2025-Feb-15。Golowinsはディアナ号船長のゴロウニンVasily Mikhailovich Golovninだろうか。
 ハフナグルは読書家であり旅行の大好きな冒険家だ。医師という肩書もある。彼がカルカッタのどこのどんな店からカレー粉を仕入れてハリスの送るかは分からない。ここでハフナグルがカルカッタから香港に送るカレー粉について仮定の計算をしてみる。ロンドン‐チャイナ・テリグラフ紙の広告欄からペイン商会が扱う厳選カレー粉の価格を引き出して現在の価格に割り出した。ペイン商会の厳選カレー粉は1861年9月の広告なら1lb(453g)瓶入りで3s,6d(3シリング6ペンス)、これをUKの通貨換算サイトhttps://www.nationalarchives.gov.uk/currency-converter/で1860年に購入したことにして2017年の価格に転換設定すると£ポンド10.35となる。1,998円、約二千円。これを6瓶だから1万2千円。同時にハリスはチャツネを6瓶注文している。チャツネを1瓶1s 6dとすれば£4.63(=852円)だから、これも6瓶購入で5112円、合わせて1万7千円強。ハフナグル領事がこれを米国政府専用船、つまり軍艦に潜り込ませて香港に送ればロハで輸送できたか。いや、新興国アメリカはハリスとヒュースケンが乗った故障ばかりする軍艦しかもっていなかった。なら、あるいは商船、郵船で送り送料を負担したか。ハリスの所望するカレー粉が公用に供されるか、私用か、で分ければ輸送費用負担が決まる。ここは米国大統領の代理公使ハリスが関わるのだから公用としておこう。どちらにしても費用の支払いはハリスが負う。
 ハリスは金目に細かい。当り前だ、彼は長い間、インドと米国を繋いで儲ける貿易商人だった。最強のビジネスマン・インド商人を相手に渡り合っていたハリスが後にニューヨーク州教育委員会長となり、市立の高校(無償で入学できる学校アカデミー!)を創建するとき、無料学校の建設に反対する市の老練な議員たちを相手にアカデミー建設予算の計上と執行を入念に説き伏せた。ハリスは金目に細かく、また、キリスト者として公平に公金をして万人、貧しき者に与える。下田に上陸してからの彼の日記に記される出納の記録は、だから細かく、真っ当に正義を貫き、妙にあからさまに支払いの相手を罵倒したりして、実に面白い。

注4
 『南の島のカレーライス』などと表題を掲げながら、南の島(スリランカ)にはカレーライスなんてないんだ、と妙なことを言う本がある。オイレンブルク伯が読んだなら笑い転げただろう。
 南の島のカレーライス: スリランカ民族文化論 kindleペーパーバック 2022/10/7 およびKindle版2013/11/19 丹野冨雄著 かしゃぐら通信
 南の島のカレ-ライス: スリランカ食文化誌 丹野冨雄著 南船北馬舎刊 (1995/5/1) ※原題は「椰子・唐辛子・かつお節」 第1回小学館「21世紀国際ノンフィクション大賞」最終候補作5作品の一つ。南船北馬舎版発刊の時「南の島のカレーライス」と表題を変更した。


注5
※1856年8月9日付けのハリス日記(フロリダ大学所蔵の「ハリスの完全な日記」)にカレー粉のことが記されている。サンジャヤント号の修理のために寄港が長引いていた香港からハリスはインド・カルカッタへ「カレー粉送れ、チャツネも一緒に」と手紙を書いた。カレー粉とチャツネの送り先は香港のアームストロング&ローレンス商会として、カレー粉代金は同商会が代わって支払うと記した。同じ内容の文書をドリンカー夫人(スザンナ)にも書き送って、香港のアームストロング&ローレンス商会にカレー粉が着いたらドリンカー夫人の手でマカオから下田へ向かう商船に乗せてほしい、そのためにマカオから下田へ向かう商船の情報をエクスプレス・ニュース紙を通していつもチェックしていてほしいと指示してる。イリノイ大学所蔵の同「完全な日記」はカレー粉の件が記された日記の日付を8月10日としている。

原文 Request Mr,Huffnagle to send me six bottles of sweet sliced chutney,and six bottles curry powder,and send to Armstrong & Lawrence,Hongkong,who will pay for the same.
The Complete Journal of Townsend Harris: First American Consul and Minister to Japan / 1930 Topics Harris, Townsend, Garden City, N.Y., Published for Japan Society, New York, by Doubleday, Doran & Co.

注6
 オイレンブルク公がハリスに供したカレーライスがどんな風に作られ、どのように供されたか。それを知るレシピも食器もない。公の手紙から得られる情報は、タミル船員たちのカレー料理を甥への手紙に記していること、ハリスがカレー好きで、肉はめったに食べないと記していること、後のことだが、プロシア国の議員となってからセイロンへ視察に出ていること、そこからオイレンブルク公自身のカレー観を妄想するよりほかにないか。セイロンで見かけるドイツ人は日本人の様子に近い。ドイツ人が経営していた時代のカンディ・シティ・ミッションと、事務を手伝っていたバーガー夫婦の手料理と、ゴール・ロードに面するビルの屋上にレストランを開きシンハラを使ってセイロン風のアングロ・インディア料理を出していたドイツ人と、私にはそれらがオイレンブルク公の食の嗜好を連想するときのエッセンスになってしまう。

注7
「第一回独逸遣日使節日本滞在記」 日独文化協会 1940
 タウンゼント・ハリスが幕府から得た「いい知らせ」をもって芝赤羽のプロシア使節宿所を訪れたときのことだ。「いい知らせ」というのは幕府がプロシアとの通商条約文書取り交わしに近々手を付けるという情報で、これはオイレンブルクが大いに待ち望んでいた。ハリスは12月6日夕刻に赤羽を訪ねその件を告げ、歓喜したオイレンブルクはその場でハリスに夕食をご一緒できないかと誘った。それをハリスが受け入れてカレーライスの食事会ということになるのだが、そこのくだりが公的報告書にはない。
 公的文書だという処が引っかかるから、もっとピュアな歴史資料はないだろうかと探していたらオイレンブルク自身によって記された手紙を集成した書に出会った。すでに和訳されていて昭和15年に日独友好協会が発行した「遣日使節滞在記」がそれだ。オイレンブルク伯が日々書き込んでプロシアの甥伯に送った手紙を集めた書。ここに官製遠征記に省かれた生のオイレンブルク伯の言葉が並んでいる。
それは滅法料理にうるさい。カレーライスがその筆頭に挙げられるが、幕府側が使節団に供した日本食についても、こんなことを言っている。公式記録は日本食のきめ細かな味など、酒のうまさと共に品よくきれいにまとめて褒め上げているが、当の使節団代表は一言、「まずい」と私信には評して書き送っている。香気豊かな日本の酒も「くさい」と評した。なんてこった。

注8
William Elliot Griffis Townsend Harris: First American Envoy in Japan1896 P.71参照
※参考 Complete Journal of TOWNSEND HARRIS First American Consul and Minister to Japan INTRODUCTION AND NOTES BY MARIO EMILIO COSENZA, Ph.D., L.H.D. Dean Emeritus of Brooklyn College and formerly Director of The Townsend Harris Hall High School in New York City WITH A PREFACE BY DOUGLAS MacARTHUR II United States Ambassador to Japan (REVISED EDITION)

MARIO EMILIO COSENZA, Ph.D., L.H.D./ナポリ生まれのイタリア系アメリカ人・古典、人文学者・Townsend Harris Hall Prep School初代校長