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七匁二分ななもんめにぶの銀一つは壱分いちぶ三つ
7メース&2カンダレーン

KhasyaReport 2025/05/20



参考
今日はハリスのカレーの日 オイレンブルクとハリスのカレー会食



仮名垣魯文は滅法うるさいジャーナリスト。幕末から明治にかけて活躍した。そもそも軍艦外交のペリーはけしからんと憤慨して書き始めた「ゑひす」だが安政大地震で途中頓挫。再び書き始めたらちょっと雲行き代わって「ゑひす」って驚きなんだよね、「七匁二分の銀一つ」ってお触れが両替商にも出回っているけど、なんか「ゑひす」のやること、すごいことになっていくという具合になった。
 「七匁二分」は7メースand2カンダレーンの直訳、「銀一つ」は貿易用の銀のコインのことで、アメリカの1ドルコイン、メキシコの8レアル・コインなどのこと。どちらもアメリカ人貿易商が使う。仮名書は早速この情報に飛びついた。上のイラストは『ゑひすのうわさ4巻』に掲載されたアメリカ・ハーフ・ダラーの拓本。仮名書がどこでこの銀貨に出会ったかって、そりゃハリスとヒュースケンの取材に出かけた下田、その両替商辺りしかない。ちなみにこれは50セント銀貨だから重さは七匁二分の半分しかない。七匁二分は注1を参照。
コインイラスト;『ゑひすのうわさ』 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/11223270
 仮名垣魯文は戯作をぶら下げて歩く滅法うるさいジャーナリスト。
その仮名書が「外国銀ドルラル七匁二分ななもんめにぶの銀一つは壱分いちぶ三ッ」と「ゑひすのうわさ」に書いた。この「外国銀ドルラル七匁二分ななもんめにぶの銀一つは壱分いちぶ三ッ」とはハリスが日本との通商交渉の本題として持ち込んだ為替レートの変更案「1ドル=3」のこと。ペリー条約の時、「1ドル=1」にレートを定めたがこれがアメリカにとって不条理極まりないとワシントンDCの議会でやり玉に挙がっていた。玉泉寺に仮のアメリカ公使館を間借りしてすぐに下田奉行所との間でこの為替レート変更案が協議されたがアメリカ側の論点は老獪な日本政府出先の下田奉行所担当者にノラリクラリとかわされる。
 仮名書が書く「銀ドルラル」はアメリカの商人や軍人が下田に持ち込むアメリカドル、メキシコドルのこと。アメリカ、メキシコと言うが、また、ドルとも言っているが、商人にとっては純度の高い27グラム程の交易決済用の銀塊のことだから貿易銀トレード・シルバーtrade silverと呼ぶ方が的を得ている。
 交易決済はgold金で行われる。東アジア、特に中国と日本が相手だとsilver銀で行われる。中国の絹・茶・陶磁器を東アジアで仕入れるアメリカの商人たちは慣習でスペインの”8レアル銀貨”相当の銀塊コインで決済をする。
 8レアル銀貨での決済はスペインが16世紀にガレオン船でメキシコ・アカプルコからフィリピン・マニラに持ち込んだことに始まる。メキシコを植民地にして銀山を接収したスペインは8レアル銀貨を鋳造し、主に中国、日本との貿易で決済用通貨トレード シルバーとして使い続けた。トレード シルバーはメキシコのレアルからアメリカのドルへ、ドルから清の圓へ、また日本の円に代わりもする。仮名書が「外国銀ドルラル七匁二分ななもんめにぶの銀一つ」はこのトレード・シルバー(貿易銀)だ。
KhasyaReport



 

下田に出回る貿易銀と『ゑひすのうわさ』

   仮名書が『ゑひすのうわさ』で紹介した貿易銀をじっくり見てみよう。下田のバザールに出回る貿易銀はアメリカ商人が扱うものだけじゃない。ロシアもオランダもそれぞれの貿易銀で下田バザールでの支払いに充てている。
 『ゑひすのうわさ』に仮名書が載せたアメリカドル。仮名書はこれをアメリカ「ドルラル」と言うが拓本の文字を読めばメキシコで鋳造された8レアル銀貨と分かる。東アジアでの交易が増え、決済用の銀が不足していたアメリカはメキシコから銀貨を買い日本へ送った。8レアル銀貨もドルと呼ばれ貿易決済に用いられた。
 仮名書が『ゑひす』で紹介したこのコインは1857年メキシコ・シティ造幣局のメキシコ8レアル銀貨。10Ds、20Gs(10ディネロ20グラノ)で銀の純度は903。メキシコ銀貨は純度も安定し質がよかったので交易の支払いに使われた。

 ちなみに下の写真はEbayで扱われているアンティークのメキシコ銀貨。Ebayは現代の貿易銀流通の中心にある。コイン・マニアが19世紀の貿易銀を狙うからだ。多くの貿易銀が売りに出されているがフェイクも多い。人気コインの勲章だ。
 メキシコ銀貨の下は1859年にアメリカ・フィラデルフィア造幣局が鋳造した50セント銀貨。貿易銀が使われた時代は短く、しかも、その使用が中国、日本にほぼ限られるためコイン・マニアの垂涎の的。スリランカではセイロン植民地時代に中国で使い古したこれらの貿易銀を使っていた。インド、中国での貿易商時代が長いハリス。コロンボへの立ち寄りも多かった。中国の貿易銀鑑定士の刻印を打ってセイロンに流れて来た貿易銀にも接しているだろう。
republica-mexicana-1857-8r-m


1859 50cent us dollar / spgs
spain-dollar-ceylon1780. アカプルコ―マニラ―中国へ渡り、その後セイロンで使用されたスペイン・ドル。この1780年のコインが発行された年、セイロンはオランダ領植民地の真っただ中にあった。刻印されたVOCVereenigde Oostindische Compagnieはその証。
Wikipedia, the free encyclopedia Spanish dollar

こちらは『ゑひすのうわさ』(仮名垣魯文)に掲載された1859年鋳造のアメリカ50セント銀貨。上のspgsに紹介されている銀貨と同じもの。仮名書がこれをアメリカ50セント銀貨だと知って掲載したかどうかは本文にあたっても分からない。『ゑひす』の本文から察するに仮名書は銀の重さが貨幣価値を決めるという当時の国際ルールを下田で取材中に誰かから―両替商?―丁寧に吹き込まれたようだ。吹き込んだのは仮名書と親しい福地源一郎(桜痴)だという可能性もあることはあるが。

当分の間外国銀ドルラル唱えられ候目方七匁二分の銀一つは 壱分三ッと取りやるべく通用致し…
        『ゑひすのうわさ四』安政5年6月の記事
/国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/11223270


 仮名書は「七匁二分の銀一つは 壱分三ッ」と『ゑひす』に記す前段でアメリカドル、オランダドルをイラスト入りで紹介してその形状、重さ、大きさをメモしている。コインマニアなら『ゑひす』に描かれたコインイラストのオンパレードでこれらが貿易銀だとすぐに見抜く。

「外国銀ドルラル七匁二分ななもんめにぶの銀一つは壱分いちぶ三ッ」の語句はコインに彫られた額面が価値を決めるのではなくコインが含む銀の重さ、その質が価値を決めるという意味を伝えている。でも、そんなことは詳細に説明するものではない。ペリー条約の時にアメリカ・ドルが不当に低く(実際の評価額の三分の一)扱われることになったことも、下田の奉行所公認バザーでは日本産品が市価の三倍以上で売りに出されていることにも触れてはいけない。銀貨為替レートの不当を正面からすっぱ抜けば仮名書は下田バザールの取材などできず、奉行所の牢に投げ込まれた挙句、蒲生に巻かれ下田の海に投げ捨てられるよ。そんなことになったら仮名書の物書き商売に祟る。仮名書さん、ルポの突込みはその位にしときなよ。明治の時代に入ったらあなたはカレーのレシピを日本で真っ先に紹介する役割を果たさなくてはならない大事な人になるんですから。

スペインの8レアル銀貨に始まる貿易銀

 蒸気船が生み出す貿易革命の中で中国と日本をターゲットにアメリカが東アジアに貿易の手を広げたとき、嘗てマニラを拠点にして貿易を始めたスペインが用いた貿易決済用の銀貨8レアルを決済に用いた。スペインの植民地アメリカ人は8レアル銀貨をスペインドルと呼び、重さ27.22グラム。純度0.9の銀の塊は中国日本での貿易決済の基準となった。
 スペインドルはアメリカドル、オランダドル、中国の光緒元寶、更には明治日本の貿易銀と名目を変えて各国の貿易決済を担ってゆく。何とも由緒ある「ドル」ではないか。
 スペインがフィリピン・マニラを拠点にアジア貿易に手を広げたとき、貿易決済を銀の塊で処理した。通称スペインの8レアル。スペインはメキシコの銀を狙って植民地にし、メキシコで8レアルの貿易銀を作り、太平洋を越えてマニラに運びアジア市場を席巻した。8レアルのスペイン貿易用銀貨の重さが東アジア貿易決済の標準になった。
 貿易銀は重さが単位だから、そこにドルと書いてあろうがペソだろうが、一分だろうが、表記された通貨の名目は銀の重さの価値と関係ない。スペインの8レアル銀貨の重さが裏にあって、これが東アジア貿易の原点。注4

 仮名書は銀貨の説明に「異国人唱ふるにデラースともドラアーとも聞ゆるアメリカ製ノ銀トルラル表目方七匁弐分」と記しているがそれは安政五1858年六月の記事、日本とアメリカの通商条約が結ばれた時である。この記事は貿易に用いる銀貨は額面ではなく重さで通用することを踏まえている。七匁弐分は中国の光緒元寶七銭二分(品位90%)と同じ重さ(量目)。七銭二分はその広東方言が英語になって7 MACE AND 2 CANDAREENSと表記され貿易銀貨光緒元寶の裏面に刻印されている。七匁弐分は27グラム。半端な数字だがこれがポルトガルの交易ではじまる世界貿易の銀による決済、秤量貨幣の基準となった。



腰かけた姿の自由の女神をかたどったハーフ・ダラー(50cents)銀貨。魯文はこれをイギリス製のアメリカドルと紹介している。図柄が英国で発案されたことを誤認したか。この記事が下田での取材によるものならば、同様に『ゑひすのうわさ四』に掲載されている銀貨のイラストも下田で描いたものと言うことになろう。


イラストはどちらも「ゑひすのうわさ四」 国立国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/11223269 (参照 2025-04-18)から


こちらはオランダ製の銀ドルラル、目方七匁□□とある。これも貿易銀だ。アジアを最初に征したポルトガルの用いた貿易用銀貨の重さが27グラムだったことから、そのあとに続く西欧諸国も貿易決済に用いる銀貨の重量をポルトガルの銀貨に倣って鋳造した。スペインの8レアル、中国の光緒元寳(七銭二分銀貨)、日本の幕末安政二朱銀、一分銀の貿易銀もこれに倣っている。ただし日本の銀貨は銀の品位を卑しめたり、使える区域を小さく囲んだりしたので、貿易商から相手にされず貿易決済には役立たなかった。  

下田のバザールで生じた不満

 下田バザールではゑひすの商人たちに不満が生じていた。下田は生活物価が高い。輸出品の仕入れにしても日本の陶磁器、漆、絹は市価の倍以上だし、気に入った商品に目を掛けて翌日購入予約をしようと再びバザールに行くと値札が付け替えられ更に二倍、三倍に値が上がっている。購入予約と言うのは売り手と買い手同士では直接売買ができないシステムだから。商品に買いを入れると奉行所が出てきて、まず支払いを奉行所に入れる。そのあとに商品が届く。ハリスが日本に乗り込んできた大きな理由は為替レートの是正が第一の目的だが、この売買への政治介入を改めて売りて買い手が直接通商をできるように計らうことも交渉条件だった。

   下田奉行所は鼻の下をなでる。思い知ったか、ゑひす諸君。日本の奉行所行政を見くびるな。江戸から離れて辺鄙な場所だが、ここは”貿易港”下田だ。アメリカ商人が目を付けた品を奉行所はマークする。高く売ってやる。高く買ってもアメリカに持って帰ればさらに高く売れるじゃないか、と言ってやる。今度やって来たハリスとかいうコンシェルジュもかつてはインド中国で抜け目のない商売をしてきたそうじゃないか…と、今でも極東の歴史研究者はそういうタイプのハリスのうわさ話しかしない。ニューヨーク州の教育委員会トップだったとか、インド中国で貿易商をしていたとか、貧しくて学校へ行けなくて独学したとか、そんな噂話も決してしない。奉行所が廻した下田にたむろするスパイはそういう情報をなべて燃やして消し去ったか? ハリスを悪者にするにはそのタイプの好感を与えるハリスのうわさって邪魔なんだよね。  

貿易用「ドル」を『えびす』で転写した仮名書


 日本とアメリカの貿易は決済代金は日本通貨、アメリカ通貨での支払いになる。ここに問題が生まれた。ペリーのやらかしたミスなのだけど、為替レートの不公平さにアメリカ商人の不満が集中した。日本は為替レートを三倍に吹っ掛けていてずるいと彼らは口をそろえて言う。日本へドル銀貨を持って行くとその価値が三分の一に減ってしまう。ペリー条約の時、日本独自の金の四進法と銀の十進法をまぜこぜにして金銀交換の日本ルールを目も彩に披露して、煙に巻いて、日米の為替レートをアメリカにとって三倍不利に設定してみたらペリー総督配下の軍人会計担当は騙されて1ドルと1分銀は同じ価値と認めてしまった。日米の為替レートは「1ドル=1分銀」で決着、アメリカにとって不利で不平等だけどアメリカは日本と和親条約を結んで(英語での正式名称はTreaty of Peace and Amity between the United States of America and the Empire of Japan)を結んで、ペリー総督はその”不平等条約”を喜んでワシントンに持ち帰った。アメリカ軍人を煙に巻いてあの時、日本側は抜け目がなかった。
 これが二年後のハリスの下田上陸でドルの価値を三倍にする為替レートを新たに持ち込まれて談判になった。結局、新生下田条約ではハリスの言い分が通り、決済は銀の重さで平衡を測るという、当時のアジア貿易経済の習慣に戻って落ち着いた。日本ではこれが不利で不平等な交換レートだ、不平等条約だと後にごだごだ説明されるようになるけど、通商条約の日本側担当者らは翌年アメリカ海軍の軍艦に便乗して渡米し、ニューヨークで通商条約をにこやかに批准している。アメリカ側にしてみればキリシタンは芝札ノ辻で磔刑の火あぶりにされるとかの、そんな日本の江戸前刑法に合わせたらアメリカ人は皆、火あぶりだし、貿易なんか出来っこない。関税がなにかも知らない当時の日本相手にまずは手ほどきで輸入時に港湾税を取って国家財政に充てるとか、半分文明国から文明国へ脱皮する日本の実態に合わせたハリスの「懇切丁寧な関税指南」もハリスのアメリカ帰国後に薩長がドンパチやっておかしなことになった。江戸城の中堅がハリス路線をとって開国し、まずは地道にゆこうか、となったが薩摩長州の血気盛んな若侍には偉そうなハリスが憎い、若造アメリカ憎し、老練な英国仏蘭西なお憎し。愛国心を燃えたぎらせる憎悪の源になった。

 アジアでの貿易決済は銀で行われる。最初の基準はスペイン1ペソ銀貨の26.96g。言い方を変えると8レアル銀貨の品位と重さが標準。
 ここからは仮名書がすっぱ抜く「七匁二分の銀一つは 壱分三つ」に話を移そう。江戸幕府が両替商に向けて発した文書だ。ジャーナリスト・ルポライターの仮名垣魯文は『ゑひすのうわさ』にこう書いた。

当分の間外国銀ドルラル唱えられ候目方七匁二分の銀一つは一分三ッと取りやるべく致し…
        『ゑひすのうわさ四』安政年間


 目方七匁二分は27.75g。一分三ッは25.8g。「七匁二分の銀一つは 壱分三つ」は江戸幕府(日本政府)からの両替商への通達だ。下田欠乏品バザールでは両替商たちがこの通達を受けて日米の銀貨を交換した。

 仮名書はこの銀の貿易用「ドル」を正確に『えびす』で模写してみせた。注2
 幕末日本ではこれら西洋の貿易銀を洋銀と呼んだ。そして仮名書がこれを「ゑひす」のルポ記事の中にイラストとして残したのだ。幕末期、下田のバザールでは日本人商人が貿易実務の実際として貿易銀と一分銀を同等の銀の重さで支払いをし、幕府政府の干渉なく平等な通商交易をすることになった。
 
 当初は、しかしそうではなかった。日本が晴れ晴れしく貿易国として港を開き世界の経済市場に登場した。満を持しての世界経済への日本の登場だ。そして、幕末江戸幕府は頑張った。アメリカのメキシコ銀なんか知らないよ。日本の一分銀はアメリカの1ドル銀と同じだよ。銀の重さなんか関係ないよ。4進法の金貨小判と10進法の銀貨分を巧みに交差させて算盤をはたき魔法を働かせれば一分銀はやすやす貿易銀に早変わりする。一分銀は銀の重さが足りないのだがペリー艦隊は日本国幕府の勘定方の算盤魔法に騙された。アメリカ、とろいね。
 ああ、ペリーは悠々去ってゆく。
 もう来ないね、きっと。ああ、よかった。
 安堵していたら、一年が過ぎて、アメリカ全権大使として、おせっかいで、正義を振りかざし、敬虔な聖教会信徒で、また、時にあざとく悪事を働くハリスがドルと分の交換レート変えるぞ、そう決心してやって来てしまった。彼の子供のような幼いヒュースケンを秘書兼オランダ語通訳として従えて。たった二人で。
 あッ、今回カレーライスの話が出て来ない。何て失態だ。カレーが大好きなハリスを追っているのに。ぜひ次回は!    
   

注1
幕末の数年間、伊豆半島先端にある下田は外国船の往来で大いに潤った。砲弾外交の無理押しで日本をこじ開けたペリー総督は友好条約の中に下田を正規に各国の蒸気船が物資の調達に立ち寄れる港に挙げた。
 下田には港に出入りする内外の船を管理する幕府奉行所がある。英米露などの捕鯨船や軍艦、郵船商船が下田湾に停留するのでその監視が主な任務だ。条約では下田が緊急補給場所とされていて、蒸気船に必要な薪などの燃料、乗組員が必要とする水、食料などを日本の商人がアメリカ船に売り渡す。それと同時に船員や軍人、商人などの乗客がバザールと彼らが呼ぶ日本の産物を取り扱う商店に群がる。商人に取って下田奉行所に併設された緊急補給場所はバザール、輸出入品の並ぶマーケットだ。
 結局、ここは緊急補給場所転じて日米の商人が商品を互いに買いあさる国際交易のマーケットに化した。気の早いアメリカ商人は家族を引き連れて国際港下田にやって来て、定住し、あからさまに商売を始めようとした。でも、さすがにこれはアウト。ペリー条約は外国人の定住権を認めない。商人夫婦と幼い子供二人はアメリカに向かう船の入港を待って帰らざるを得なかった。
 抜け目のない商人は、しかし、下田に住み、バザールでしっかりと貿易商売を始めていた。
 ペリー条約の規定でアメリカ人は日本に住めないでしょって?そこは抜け目がない。帰国までの一時居留という名目で仮の宿舎を下田の寺に構えて”定住”しバザールでしっかり輸出入の仕事をこなした。 注2
 『南の島のカレーライス』で仮名書の『西洋料理通』の中のカレーレシピを紹介した。その原点が江戸幕末期に彼が出した『ゑひすのうわさ』にないかと探していたら「外国銀ドルラル七匁二分ななもんめにぶの銀一つは 壱分いちぶ三ッ」の文句に出会ってしまった。七匁二分の銀一つとはアメリカドルのこと。アメリカと言って触れ回るけど、あの時新興国アメリカでは銀が不足してたから工面して集めたメキシコ・ドルだったり、スペイン・ペソだったりする。要は7メース、2カンダレーンの銀の重さを持つ銀貨なら何でもいい。
 こんな計算してもあんまり意味ないけど、言葉通りに受け取ればメースは匁(大体3.75g)のこと、カンダレーンは分(大体0.36g)のことだから、七枚のメースに二枚のカンダレーン(合わせて大体26.97gの銀の重さ)を一分銀三枚(8.6g×3=25.8g)と交換するということ。こちらはグラム数を尺貫法の標準で計算して出したけど、これ、あくまでも大体。銀の品位やら銀の含有量(並みで9割)、貿易銀通貨の使用中の擦れ具合で銀が減って正確な比較などできるものじゃない。御託並べたけど、計算者はコンマ以下を四桁五桁までたたき出して取引するから大したもの。
 銀の重さなんかどうでもいいだろう、名目貨幣ってものがあるんだから一分銀は一ドルでいいんだ、つべこべ言うな、ってえのが昨今令和の日本の論陣の勢いだけど、幕末当時、1860年ごろの東アジア貿易は銀の本当の重さが貿易を支配していた。  ハリスはインド、セイロン注*、中国上海香港で貿易商をしていたのだから、貿易における銀の重さの価値を知り尽くしている。

注3
参照ゴードンとモラレスの「銀の道」The Silver Way: China, Spanish America and the Birth of Globalisation, 1565-1815 (Penguin Specials) Paperback – June 1, 2017 by Peter Gordon (Author), Juan José Morales (Author)

注4
 ペリーが去り、ハリスが現れるまでの間に日米為替レートの不当を指摘した男がいる。F・A・リュードルフvon Fr. Aug. Lühdorfだ。彼は『グレタ号日本通商記』Acht Monate in Japan nach Abschluß des Vertrages von Kanagawa/1857で円の価値をドルの三倍に設定したペリー条約は明らかにアメリカ側の失敗だったと憤懣を込めて記している。