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七匁二分ななもんめにぶの銀一つは壱分いちぶ三つ
仮名垣魯文の7メース&2カンダレーン
KhasyaReport 2025/05/20,2026/04/10



参考
タウンゼント・ハリス、カレー粉を注文する



 上のイラストは『ゑひすのうわさ4巻』に掲載されたアメリカ・ハーフ・ダラー(50セント)の拓本。メキシコ・ドル銀貨の二分の一の価値を持つコイン。メキシコ・ドルは「七匁二分」の重さ。→「七匁二分」は注2を参照。

 仮名垣露文(おっと『ゑひすのうわさ」は作者不詳とされているんだけど)がどこでこの銀貨に出会ったかって、そりゃ下田に軒を並べる両替商しかない。どうやって両替商に繋いだって? う~ん。顔の効く御仁がいたはずです。
 魯文は滅法うるさいジャーナリスト。重箱の隅をつついてものすごい発見をしてしまう天才。でも、どうやってアメリカ銀コインを拓本にして本に載せたかって、ここが大いにミステリー。
もっとも、この『ゑひすのうわさ』ってのは権威筋では作者不詳扱いで学術派は反古扱いします。作者不詳って…? 何言ってんだい、分かってるじゃない。書いたのはあいつだよ、あいつ!ー-このリポートの本文をお読みになれば出てきます。ともあれ、下田バザールでの買い物はすべて「七匁二分」が支払いの"通貨"です。

参考/「外国銀ドルラル七匁二分の銀一つは壱分三ッ」
「七匁二分」は7mace and2candareens の直訳。「銀一つ」は貿易用の銀コインのことで、アメリカの1ドルコイン、メキシコの8レアル・コインなどのこと。貿易用銀コインは「七匁二分」の秤量、重さが肝です。下田ではハリス条約で正式に開港する前に「七匁二分」(メキシコ・コイン/アメリカ・コイン)が飛び交っていたことが『ゑひすのうわさ』4巻のスクープ「外国銀ドルラル七匁二分の銀一つは壱分三ッ」をご覧になればわかります。

コインイラスト;『ゑひすのうわさ』 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/11223270

  そもそも軍艦外交のペリーはけしからんと憤慨して仮名垣露文が出版企画した『ゑひすのうわさ』(並みの解説では作者不詳)だったのですが安政大地震で途中頓挫。再び書き始めたらちょっと雲行き代わって、こんな風に言い出した。―「ゑひす」って驚きなんだよね、「七匁二分の銀一つ」ってお触れが両替商にも出回ったのをちょっとしたルートで手に入れたんでスクープしたけど、なんか「ゑひす」のやることって大胆で、真っ当で、抜け目なくて、これからの日本経済、自由と平等とかですごいことになっていく様なんだ。まあ、これ、某筋からの受け売り情報だけどね。

 仮名垣魯文は戯作をぶら下げて歩く滅法うるさいジャーナリスト。魚屋の息子で、読み本が好きで滅法利発だったから、親が早くから文才を磨く師匠を付けて育てました。
 その露文が「外国銀ドルラル七匁二分の銀一つは壱分三ッ」と『ゑひすのうわさ』にすっぱ抜いた。そのスクープの日付が「安政5年6月」とあるから通商条約が成立した安政5年6月19日(1858年7月29日)辺りの前後。なんですっぱ抜きが適時にできたかって、日米通商条約交渉に関係する人物の中に露文に通じている人がいる、それしかない。それは誰だ?
 「外国銀ドルラル七匁二分の銀一つは壱分三ッ」に戻ろう。タウンゼント・ハリスが日本との通商交渉の本題として持ち込んだ為替レートの変更案「1ドル=3分」のこと。ペリー条約の時、「1ドル=1分」にレートを定めたがこれがアメリカにとって不条理極まりないとワシントンDCの議会でやり玉に挙がっていて、その日本にめっちゃ有利な為替固定相場をアジア基準に直しましょ、という議会の要望を踏まえて日本にやって来た。
 この憤懣やるかたない「1ドル=1分」の不条理を解消すること、そして、アメリカ人が日本で貿易商売するために居住権を確立して腰を据えること、日本に居を構え貿易業務をこなす彼らを守るために領事裁判権の条約への組み込みを図ることがアメリカ政府から領事としてのハリスに与えられた”外せない任務”でした。そうそう、それから信仰の自由も。そうしないとアメリカ人は普通キリシタンだから日本の土を踏むとみんな捉えられて獄門磔、柱に括り付け焼かれて奉行所がアメリカ人を往来のさらし者にしてしまいます。だからキリシタン弾圧を止めること、日曜日の礼拝のために教会を建てることもハリス立案の通商条約に入れました。
 
 
KhasyaReport




 

 ハリスが下田玉泉寺に仮のアメリカ領事館を間借りしてすぐに下田奉行所との間でこの為替レート変更案が協議されました。ハリスの論点は当時のアジアでの貿易決済事情。「通貨の価値は銀の重さが決定する」というアジアでの貿易のコンセンサスです。ここでアジアと言うのは中国経済圏に属して貿易決済を中国に倣い銀で行う国や地域です。西欧諸国は中国の絹、綿、陶磁器、茶が欲しい。商品の支払い決済は中国の慣行である「通貨の価値は銀の重さが決定する」に倣わざるを得ない。まず中国の銀決済に倣ったのはスペイン。銀を集めちゃ8レアル銀貨(中国での決済用貿易銀)に鋳造して中国へ持ち込んだ。スペインの後を追いかけて中国へ出向いた国々はスペイン産8レアル銀貨で貿易決済するか、8レアル銀貨相当の重さの銀貨を用いました。露文がすっぱ抜いた「七匁二分の銀」はこの8レアル銀貨相当の重さのアメリカドル即ちメキシコドル(共に銀貨)だったのです。さてさて日本は江戸初期にキリシタンを徹底的に弾圧して以降ーこれを1614年の「伴天連追放之文」の時とすればハリスの「七匁二分の銀一つは壱分三ッ」を取り入れて1858年7月29日に開港(開国)するまで250年近くも8レアル銀貨を知らず、ロシア、アメリカ島各国の貿易銀も知らず、ガラパゴス経済を粛々と続けていました。
 露文のスクープはそこを突いているわけです。もし露文のスクープの情報源が日本政府官僚(江戸政権です)の岩瀬源一郎にあったなら、魯文は貿易銀の「世界戦略」のことも耳にしていた、かも。

ハリスは「七匁二分の銀一つは壱分三ッ」と言って攻めてきます。しかし、さすがガラパゴス日本政府(江戸幕府のことです)、出先の下田奉行所に厳命して手続きやら何やかやの言い訳つけてハリスの要望をノラリクラリとかわしていました。
 仮名垣露文が『ゑひすのうわさ』にスクープした「七匁二分の銀一つ」はアメリカドル(あるいはメキシコドル)はアメリカの貿易商や軍人が下田に持ち込むアジア用決済貨幣でした。ハリス条約締結前に実態として通商貿易は始まっていましたから何とも日本臭い裏事情が覗いています。
 アメリカ、メキシコと言うのですが、また、ドルとも言ってますが、貿易商人にとっては純度の高い27グラム程の交易決済用の銀塊のことですから貿易銀trade silverと呼ぶ方が的を得ています。露文はこれを「七匁二分の銀一つ」と銀塊コインを重さで表現したのです。これを「壱分三ッ」と結び付けたら露文の読者感覚に七匁二分がすんなり溶け込みました。仮名垣のキャッチ・フレーズ、さすがだねえ。

重さなんてどうでもいい、「名目」が大事さ

 世界の貿易決済はgold金が背負って立つ。東アジア、特に中国と日本が相手ですとgold金はsilver銀に変わる。絹・茶・陶磁器を中国で仕入れるアメリカの貿易商人たちは慣習でスペインの”8レアル銀貨”相当の銀塊を売り手の中国商社に決済代金として支払っていました。”8レアル銀貨”はいわゆる「秤量貨幣」です。ハリスはインド・中国で交易を重ねて来た貿易商の一人でした。(下田に着いてアメリカ政府から年俸の支払いが始まってからはアメリカ大統領特使です。この特使、アジア経済での銀の重さと価値を実務で知り尽くしています。
 重さなんてどうでもいい、「名目」こそが価値だなんて言い続けて「1ドル=1分」を頑張るものだから日本の銀貨も金貨もガラパゴス状態です。通商条約策定のとき、日本に秤量貨幣はないと「ごねる」幕府側でしたが、「丁銀」という秤量貨幣で自身が服用する輸入品の朝鮮ニンジンを買い求めていた堀田正睦。佐倉藩城主で政府の老中首座兼外国掛としてはそこがなんとも座りが悪い。いっそ、「我が国も銀の重さで貨幣を流通させている。私もその恩恵に浴している」と正面からハリスに腹を打ち明けて「自由と平等の経済原則」による条約交渉を正睦が太っ腹にすんなり進めたならノラリクラリは要らなかったと思うのですが、貿易の自由も平等もまだ知らない日本人にはムズカシカッタ、かも。
 日本政府は(徳川幕府です)「大人の論理」をつかって通貨の価値は重さの実質じゃないよ、名目だよ、とおたおた交渉をごまかして進めていくのですが、はっと気づいたら知らぬ間に薩摩の若造らに政権を取られていたという、あれほどの素っ頓狂な明治維新の混乱は日本ガラパゴスならではの様相です。
 下田バザールでの買い物はすべて「七匁二分」が支払いの"通貨"です。劣悪な「名目一分銀」のまま、「これは1ドルと同じだ」と日本が頑張っていたらどうなったでしょう。中身の伴わない一分銀の正体はもうばれています。「名目一分銀」は空手形みたいなものだから日本国内は開港と共に強烈なハイパーインフレに見舞われ、英仏は不正をじわじわと陰険に指摘して容赦なく勝ち目のまったくない戦争に日本を引きずり込みます。
 後々、優秀な青少年を集める受験用サイトで「鹿児島戦争のようなことが大阪、江戸で起こりました。維新だと言って政権の奪い合いをしている余裕はありませんでした。日本は名目一分銀を押し通したのでエリツインの怒りを買い英仏の植民地に甘んじました」と教え込まれかねない。「大人の論理」は偉そうだけど、それは「終わり・の・始まり」です。

   

下田に出回る貿易銀の数々
 『ゑひすのうわさ』が知らせたこと

 仮名垣が『ゑひすのうわさ』で紹介した貿易銀をじっくり見てみましょう。下田のバザール--ペリー条約で誕生した”船舶の航海に必要な品々を売る欠乏所”という名目ですが、実は日本土産や貿易商品まで多彩に並んだ---に出回る貿易銀はアメリカ人が支払う”通貨”だけじゃない。ロシアもオランダもそれぞれの貿易銀で下田バザールでの買い物の支払いに充てています。下田では両替商が軒を並べるようにもなった。三井などの大手両替商では足らず、下田港に停泊した船舶の船員らは手持ちの銀貨を中小の両替商に持ち込み「分」に替え、下田での遊興費に充て、国への土産物の購入代金に充てました。
 『ゑひすのうわさ』に仮名垣が載せたアメリカドル。仮名垣はこれをアメリカ「ドルラル」と言うが拓本の文字を読めばメキシコで鋳造された8レアル銀貨と分かる。東アジアでの交易が増え、決済用の銀が不足していたアメリカはメキシコから銀貨を買い日本へ送った。8レアル銀貨もドルと呼ばれ貿易決済に用いられた。
 仮名垣が『ゑひす』で紹介したこのコインは1857年メキシコ・シティ造幣局のメキシコ8レアル銀貨。10Ds、20Gs(10ディネロ20グラノ)で銀の純度は903。メキシコ銀貨は純度も安定し質がよかったので交易の支払いに使われた。

 ちなみに下の写真はEbayで扱われているアンティークのメキシコ銀貨。仮名垣『ゑひす』の七匁二分は今も”通用”しているのです。Ebayは現代の貿易銀流通の中心にあります。コイン・マニアが19世紀の貿易銀に食指を動かすので多くの貿易銀が売りに出されています。フェイクも多いんです。フェイクは人気コインの勲章です。
 メキシコ銀貨の下は1859年にアメリカ・フィラデルフィア造幣局が鋳造した50セント銀貨。貿易銀が使われた時代は短く、しかも、その使用が中国、日本にほぼ限られるためコイン・マニアの垂涎の的。スリランカではセイロン植民地時代に中国で使い古したこれらの貿易銀を使っていました。インド、中国での貿易商時代が長いハリス。セイロン・ゴールへの立ち寄りが多く、寄った際にはフォートの中、馴染みのオールド・マンション・ホテル注5に泊った。中国の貿易銀鑑定士の刻印を打ってセイロンに流れて来た貿易銀にもここで接しているかも。
republica-mexicana-1857-8r-m


1859 50cent us dollar / spgs
spain-dollar-ceylon1780. アカプルコ―マニラ―中国へ渡り、その後セイロンで使用されたスペイン・ドル。この1780年のコインが発行された年、セイロンはオランダ領植民地の真っただ中にあった。刻印されたVOCVereenigde Oostindische Compagnieはその証。
Wikipedia, the free encyclopedia Spanish dollarWikipedia, the free encyclopedia Spanish dollar

このページのトップに掲載したアメリカ50セント銀貨と同じ。1859年鋳造とある。二つ上のspgsに紹介されている銀貨も1859年物。貴重な年代の関連だ。露文がこれをアメリカ50セント銀貨だと知って『ゑひすのうわさ』に掲載したかどうか、本文にあたっても分からない。これらのコイン拓本にはその重さが書き込まれていることから察すると露文は銀の重さが貨幣価値を決めるという国際ルールを下田取材で吹き込まれたようだ。吹き込んだのは取材先の両替商か。露文と親しい福地源一郎(後の桜痴)か。『ゑひすのうわさ』のは内海海防掛のトップでなければアクセスできない広範で詳細な情報が並んでいるところを察すると福地のリークの可能性が高い。特に『ゑびす』のテキストの半分を占めるほどの安政地震関連の被災者向け寄付物品と寄付者(団体)総覧は被害地区全体を網羅していて部外秘行政資料の丸写しだ。


当分の間外国銀ドルラル唱えられ候目方七匁二分の銀一つは 壱分三ッと取りやるべく通用致し…
        『ゑひすのうわさ四』安政5年6月の記事
/国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/11223270


 仮名書は「七匁二分の銀一つは壱分三ッ」と記す前段でアメリカドル、オランダドルをイラスト入りで紹介した。形状、重さ、大きさをメモしている。

「外国銀ドルラル七匁二分ななもんめにぶの銀一つは壱分いちぶ三ッ」はコインに彫られた額面が価値を決めるのではなくコインが含む銀の重さ、銀の質が価値を決めるということだ。
 仮名書は知っていたのではないか。ペリー条約の時にアメリカ・ドルが不当に低く(実際の評価額の三分の一)扱われたこと。もしペリー条約の為替ルールのまま、「外国銀ドルラル七匁二分ななもんめにぶの銀一つは壱分いちぶ一つ」で開港すれば、日本はその不正を強面の英仏につつかれてとんでもない試練、勝ち目のない戦争に持ち込まれる。ハリスの「七匁二分の銀一つは壱分三ッ」に急遽決定すれば日本に貿易銀を持ち込めさえすれば日本の金銀相場のからくりを利用して世界の金相場の三分の一で金が手に入る。上海、香港から貿易銀をたんまり詰め込んだ英仏、それにアメリカの商船まで長崎、横浜目指してやって来ているぞ。貿易なんかしなくても為替相場で三倍儲かる。そのことを福地源一郎から耳にしていたにしても銀貨為替レートのこれまでの不当を正面からすっぱ抜くなんてことを仮名書はしない。こんな思いが胸をよぎっていたか…スクープ情報を私に漏らして下田奉行所と私を繋いだ源一郎さんに迷惑が掛かる。幕府の検閲はすさまじいから、私の物書き商売にも大いに祟る…(そんな事じゃないよ、仮名垣さん。日本の将来なんだ、問題は。でも、こう言っておこう…)そうなのだ、仮名垣さん、「七匁二分」で止めておけ。もう少し先の話だけど、明治に入ったら早速、仮名垣魯文はカレーのレシピを詳細に書き込んで---英国流にシトルト・スプーンで粉をカレーソースに振り込むことまでね---、日本で真っ先にカレーを紹介する『西洋料理通』を出すことになるんだから。そっちの方が大事だもん。
 仮名垣にそんなみみっちい思案をさせた源一郎さんは明治に入るとすぐ、新政府の引き留めを蹴って役人辞めた。浅草観音のいろは長屋に引っ越したようだ。もちろんそこには仮名垣がいる。いろは長屋の住人だ。源一郎さんがやって来たのは仮名垣の長屋住まいのどぶ板道を挟んだ向かいだった。目と鼻の先は大川沿いの新興吉原だ。どこかこの二人、根っこのところの信条が近いね。その身の軽さ。自由を手に入れたかな。源一郎のこの動き、「自由と平等」を唱えて日本との通商条約草案を下田であっという間にまとめてしまったハリスの影が濃く映る。ハリスは論が立ち氷の刃で論敵を突き刺す。そして、心情に篤く強い磁力が宿っている。源一郎はハリスのなりふり構わぬバーバリアン然としたその行動力、人を動かす不思議なパワー、公平(平等)を貫き通す底力に惹かれている。

スペインの8レアル銀貨に始まる貿易銀


 蒸気船が生み出す貿易革命の中で中国と日本をターゲットにアメリカが東アジアに貿易の手を広げたとき、嘗てマニラを拠点にして貿易を始めたスペインが用いた貿易決済用の銀貨8レアルを決済に用いていました。スペインの植民地がアメリカにあってその地に暮らすアメリカ人は8レアル銀貨をスペインドルと呼んでいました。それは重さ27.22グラム。純度0.9の銀の塊。中国と日本での貿易決済の基準が8レアル銀貨だった。
 スペインドル(8レアル銀貨)はアメリカドル、オランダドル、中国の光緒元寶、更には明治日本の1円貿易銀と名目を変えて各国の貿易決済を担ってゆくのは先に触れた通り。誰も隠していないけど誰も表口で言わないから隠された世界史の一面と言える。何とも由緒ある「ドル」ではないか。
 スペインがフィリピン・マニラを拠点にアジア貿易に手を広げたとき、貿易決済を銀の塊で処理した。通称スペインの8レアル。スペインはメキシコの銀を狙って植民地にし、メキシコで8レアルの貿易銀を作り、太平洋を越えてマニラに運びアジア市場を席巻した。8レアルのスペイン貿易用銀貨の重さが東アジア貿易決済の標準になりました。
 貿易銀は重さが単位だから、そこにドルと書いてあろうがペソだろうが、一分だろうが、表記された通貨の名目は銀の重さの価値と関連がありません。スペインの8レアル銀貨の重さが裏にあって、これが東アジア貿易の原点。注4

 仮名垣は銀貨の説明に「異国人唱ふるにデラースともドラアーとも聞ゆるアメリカ製ノ銀トルラル表目方七匁弐分」と記しているのは安政五1858年六月の記事。日本とアメリカの通商条約が結ばれた、まさにその時です。この記事は貿易に用いる銀貨は額面ではなく重さで通用することを踏まえています。七匁弐分は中国の光緒元寶七銭二分(品位90%)と同じ重さ(量目)。七銭二分はその広東方言が英語になって7 MACE AND 2 CANDAREENS(7メース&2カンダレーン)と表記され貿易銀貨光緒元寶の裏面に刻印されています。七匁弐分は27グラム。半端な数字だがこれがポルトガルの交易ではじまる世界貿易の銀による決済、秤量貨幣の基準となりました。

腰かけた姿の自由の女神をかたどったハーフ・ダラー(50cents)銀貨。魯文はこれをイギリス製のアメリカドルと紹介している。図柄が英国で発案されたことを誤認したか。この記事が下田で取材したものならば、銀貨イラストも下田の両替商で拓本を採ったことになる。




こちらはオランダ製の銀ドルラル、目方七匁□□とある。これも貿易銀だ。アジアを最初に征したポルトガルの用いた貿易用銀貨の重さが27グラムだったことから、そのあとに続く西欧諸国も貿易決済に用いる銀貨の重量をポルトガルの銀貨に倣って鋳造した。スペインの8レアル、中国の光緒元寳(七銭二分銀貨)、日本の幕末安政二朱銀、一分銀の貿易銀もこれに倣っている。ただし日本の銀貨は銀の品位を卑しめたり、使える区域を小さく囲んだりしたので、貿易商から相手にされず貿易決済には役立たなかった。
イラストはどちらも「ゑひすのうわさ四」 国立国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/11223269 (参照 2025-04-18)から


下田バザールで高まる不満

 下田バザールではゑひすの商人たちに不満が生じていました。下田は生活物価が高い。ハリスは上海のヘラルドの記事で「下田のキャベツは上海の三倍の値段」を読んでいたから下田の物価高を知ってはいましたが、アメリカ国旗を領事館前に立てる旗竿を船具店に注文して後から廻って来た請求書を見てその高額極まることに目を丸くしています。ハリス、足元見られたな。なんで旗竿を船道具の店でって、訳はありません、丈夫で長い旗竿なら船の帆柱に限る。

 下田の物価高は国策臭い。アメリカのバイヤーが輸出品に日本の陶磁器、漆、絹を選べば市価の倍以上だし、気に入った商品に目を掛けて翌日購入予約をしようと再びバザールに行くと値札が付け替えられ更に二倍、三倍に値が上がっている。通商条約はハリスが交渉中の段階だから輸出税だ、港湾使用税だ、なんて話はまだない。何より困るのは自由貿易ができないことだ。購入予約と言うのは売り手と買い手同士では直接売買ができないシステムで、奉行所が介入することだ。商品に買いを入れると奉行所が出てきて、まず支払いを奉行所に入れる。そのあとに商品が届く。ハリスが日本に乗り込んできた大きな理由は為替レートの是正が第一の目的だが、この売買への政治介入を改めて売り手買い手が直接通商をできるように計らうことも交渉条件だった。注5

  下田奉行所は鼻の下をなでる。思い知ったか、ゑひす諸君。日本の奉行所行政を見くびるな。江戸から離れて辺鄙な場所だが、ここは”貿易港”下田だ。アメリカ商人が目を付けた品を奉行所はマークする。高く売ってやる。高く買ってもアメリカに持って帰ればさらに高く売れるじゃないか、と言ってやる。今度やって来たハリスとかいうコンシェルジュもかつてはインド中国で抜け目のない商売をしてきたそうじゃないか…と、今でも極東の歴史研究者はそういうタイプのハリスのうわさ話しかしない。ニューヨーク州の教育委員会トップだったとか、インド中国で貿易商をしていたとか、貧しくて学校へ行けなくて独学したとか、そんな噂話も決してしない。奉行所が廻した下田にたむろするスパイはそういう情報をなべて燃やして消し去ったか? ハリスを悪者にするにはそのタイプの好感を与えるハリスのうわさって邪魔なんだよね。 

貿易用「ドル」を『えびす』で転写した仮名書

 日本とアメリカの貿易は決済代金は日本通貨、アメリカ通貨での支払いになる。ここに問題が生まれた。ペリーのやらかしたミスなのだけど、為替レートの不公平さにアメリカ商人の不満が集中した。日本は為替レートを三倍に吹っ掛けていてずるいと彼らは口をそろえて言う。日本へドル銀貨を持って行くとその価値が三分の一に減ってしまう。ペリー条約の時、日本独自の金の四進法と銀の十進法をまぜこぜにして金銀交換の日本ルールを目も彩に披露して、煙に巻いて、日米の為替レートをアメリカにとって三倍不利に設定してみたらペリー総督配下の軍人会計担当は騙されて1ドルと1分銀は同じ価値と認めてしまった。日米の為替レートは「1ドル=1分銀」で決着、アメリカにとって不利で不平等だけどアメリカは日本と和親条約を結んで(英語での正式名称はTreaty of Peace and Amity between the United States of America and the Empire of Japan)を結んで、ペリー総督はその”不平等条約”を喜んでワシントンに持ち帰った。アメリカ軍人を煙に巻いてあの時、日本側は抜け目がなかった。
 これが二年後のハリスの下田上陸でドルの価値を三倍にする為替レートを新たに持ち込まれて談判になった。結局、新生下田条約ではハリスの言い分が通り、決済は銀の重さで平衡を測るという、当時のアジア貿易経済の習慣に戻って落ち着いた。日本ではこれが不利で不平等な交換レートだ、不平等条約だと後にごだごだ説明されるようになるけど、通商条約の日本側担当者らは翌年アメリカ海軍の軍艦に便乗して渡米し、ニューヨークで通商条約をにこやかに批准している。この渡米、ハリスがお膳立てをしている。アメリカ側にしてみればキリシタンは芝札ノ辻に柱並べて立てて、括り付けられて磔刑の火あぶりにされるとかの、そんな日本の江戸前刑法に合わせたらアメリカ人は皆、火あぶりだし、貿易なんか出来っこない。関税がなにかも知らない当時の日本相手にまずは手ほどきで輸入時に港湾税を取って国家財政に充てるとか、半分文明国(万国公法ではバーバリアンの国と)から文明国(つまりキリシタンの英仏米など西洋諸国)へ脱皮する日本の実態に合わせたハリスの「懇切丁寧な関税指南」もハリスのアメリカ帰国後に薩長が英国船相手にドンパチやって、そして反対に英軍艦から鹿児島市内に砲撃食らっておかしなことになった。江戸城の中堅がハリス路線をとって開国し、まずは地道にゆこうか、となったが薩摩長州の血気盛んな若侍には偉そうなハリスが憎い。若造アメリカ憎し、老練な英国仏蘭西なお憎し。愛国心を燃えたぎらせた。

 アジアでの貿易決済は銀で行われる。最初の基準はスペイン1ペソ銀貨の26.96g。言い方を変えると8レアル銀貨の品位と重さが標準。
 ここからは仮名垣がすっぱ抜く「七匁二分の銀一つは 壱分三つ」に話を戻そう。江戸幕府が両替商に向けて発した文書だ。ジャーナリスト・ルポライターの仮名垣魯文は『ゑひすのうわさ』にこう書いた。

当分の間外国銀ドルラル唱えられ候目方七匁二分の銀一つは一分三ッと取りやるべく致し…
        『ゑひすのうわさ四』安政年間

 目方七匁二分は27.75g。一分三ッは25.8g。「七匁二分の銀一つは 壱分三つ」は江戸幕府(日本政府)からの両替商への通達だ。下田欠乏品バザールでは両替商たちがこの通達を受けて日米の銀貨を交換した。

 仮名垣はこの銀の貿易用「ドル」を正確に『えびす』で模写してみせた。注2
 幕末日本ではこれら西洋の貿易銀を洋銀と呼んだ。そして仮名垣がこれを「ゑひす」のルポ記事の中にイラストとして残したのだ。幕末期、下田のバザールでは日本人商人が貿易実務の実際として貿易銀と一分銀を同等の銀の重さで支払いをし、幕府政府の干渉なく平等な通商交易をすることになった。

   当初は、しかしそうではなかった。日本が晴れ晴れしく貿易国として港を開き世界の経済市場に登場した。満を持しての世界経済への日本の登場だ。そして、幕末江戸幕府は頑張った。アメリカのメキシコ銀なんか知らないよ。日本の一分銀はアメリカの1ドル銀と同じだよ。銀の重さなんか関係ないよ。4進法の金貨小判と10進法の銀貨分を巧みに交差させて算盤をはたき魔法を働かせれば一分銀はやすやす貿易銀に早変わりする。一分銀は銀の重さが足りないのだがペリー艦隊は日本国幕府の勘定方の算盤魔法に騙された。アメリカ、とろいね。
 ああ、ペリーは悠々去ってゆく。
 もう来ないね、きっと。ああ、よかった。
 安堵していたら、一年が過ぎて、アメリカ全権大使として、おせっかいで、正義を振りかざし、敬虔な聖教会信徒で、また、時にあざとく悪事を働くハリスがドルと分の交換レート変えるぞ、そう決心してやって来てしまった。彼の子供のような幼いヒュースケンを秘書兼オランダ語通訳として従えて。たった二人で。
 あッ、今回カレーライスの話が仮名垣魯文の処以外は出て来ない。何て失態だ。カレーが大好きなハリスを追っているのに。ぜひ次回は!



注1
 幕末の5年間1854-1859、伊豆半島先端にある下田は外国船の往来で大いに潤った。砲弾外交の無理押しで閉ざされた日本の扉をこじ開けたペリー総督。各国の蒸気船が物資の調達に立ち寄れる港として、幕府の提言通りに下田を開港場と認めた。下田は開港前の戸数800、人口3000前後の漁村だった。開港後に戸数900、人口4000弱となり、やや増えている。
 下田には港に出入りする内外の船を管理する幕府奉行所が新たに設置された。英米露などの捕鯨船や軍艦、郵船商船が下田湾に停留するのでその監視が主な任務だ。ペリー条約では下田が船舶物資の緊急補給場所とされた。蒸気船のエンジンに必要な薪燃料、乗組員が必要とする飲料水、食料などを日本の商人が下田奉行所を介してアメリカ船に売り渡す。また、船員や軍人、貿易商人などの乗客がバザールと彼らが呼ぶ日本の産物を取り扱う”補給場所”(商店)に群がる。商人にとっては下田奉行所に併設された緊急補給場所が輸出品展示会場だ。
 結局、ここは緊急補給場所転じて日米の商人が自国で売れる商品を互いに買いあさる国際交易マーケットに化した。政府公認の非公開の闇市といったありさまだ。
 気の早いアメリカ商人ヘンリー・ドーティは商船カロライン・フート号(画像探索中)に売り物とする荷を積み込み家族子供を引き連れて”国際港”下田にやって来て、定住し、あからさまに貿易商売を始めると言ってきた。でも、さすがにこれはアウト。ペリー条約は外国人の定住を認めない。
 ロシアとの平和条約交渉に幕府から下田に派遣されていた川路聖謨がカロライン・フート号の乗客を描写している。日記にはカロライン・フート号乗客の貿易商人ヘンリー・ドーティ夫人は「白い肌と黒い髪、蜂のように腰の細い美女」とある。ヘンリーは夫人のエマEmmaと幼い子供二人と共にアメリカに向かう船の入港を待って帰らざるを得なかった。帰船の手配をしてほかの乗客二家族二商人と共に一か月、下田で過ごした。宿は、そう、ハリスが1年後にアメリカ総領事館を開く1856あの玉泉寺だ。ここにはペリー来訪のときに弔いをした軍艦乗組員、兵士らの墓もある。
《資料》「カロライン・フート号婦人図をめぐる若干の考察ーペリーとハリスのはざまで― / 山本有造 / アリーナ2014 第17号/2014年11月5日 / 中部大学研究推進機構会議
下田「欠乏品交易」とその貨幣問題─ペリーとハリスのはざまで─ / 同上 / 経済史研究19/ 2016-01-31 大阪経済大学日本経済史研究所

 抜け目のない商人は、しかし、下田に住み、バザールでしっかりと貿易商売を始めてしまう。
 ペリー条約の規定でアメリカ人は日本に住めないでしょって?そこは「抜け目のない商人」ならではの知恵がある。帰国までの一時「居留」という名目で仮の宿舎を下田の寺に構えて”定住”しバザールでしっかり輸出入の仕事をこなした。そんな、まさか。日本商品を買い集めるお金は?
 大丈夫。日本商品を買うお金が足りなければ下田奉行所が証文取ってお貸しします。アメリカへ戻ってお金ができたら返してください。日本政府(徳川政権のことです)が1ドル=1分の途方もないドル安為替レートで下田で日本製品を仕入れても優秀な日本製品はサンフランシスコでバカ売れしますから元は取れます。奉行所が保証します。元が取れたら、利子付けてお金返してください―なんて言ったかあ? そうか、日本のお役人もなかなか抜け目がないぞ。
 ハリスにはその借金証文のお金を返済する野暮な仕事も領事として引き受けてニューヨークから下田へやって来た。そうした野暮用はあれこれ沢山抱えています。そりゃ、タウンゼント・ハリスは領事だもの。

注2
 『南の島のカレーライス』で仮名垣の『西洋料理通』の中のカレーレシピを紹介した。そのカレーの原点が江戸幕末期に彼が出した『ゑひすのうわさ』にないか、下田バザールの絵の中にカレー粉瓶は描き込まれていないか、と探していたら「外国銀ドルラル七匁二分の銀一つは 壱分三ッ」の文句に出会ってしまった。
 七匁二分の銀一つとはアメリカドルのこと。アメリカと言って触れ回るけど、あの時、新興国アメリカでは銀が不足していた。工面して集めたのはメキシコ・ドルだったり、スペイン・ペソだったりする。要は7メース、2カンダレーンの銀の重さを持つ銀貨なら何でもいい。
 こんな計算してもあんまり意味ないけど、言葉の額面通りに受け取ればメースは匁(大体3.75g)のこと、カンダレーンは分(大体0.36g)のことだから、七枚のメースに二枚のカンダレーン(合わせて大体26.97gの銀の重さ)を一分銀三枚(8.6g×3=25.8g)と交換するということ。こちらはグラム数を尺貫法の標準で計算して出したけど、これ、あくまでも大体。銀の品位やら銀の含有量(並みで9割)、貿易銀通貨の使用中の擦れ具合で銀が減って純な比較などできるものじゃない。御託並べたけど、計算者はコンマ以下を四桁五桁までたたき出して取引するから大したもの。
 銀の重さなんかどうでもいいだろう、名目貨幣ってものがあるんだから一分銀は一ドルでいいんだ、つべこべ言うなってえのが昨今令和の日本の論陣の勢い。それはまた、幕末の日本政府(徳川政権のことです)のスタンスだった。幕末から現在に至る200年弱の間、日本の論理は変わらない。「一分銀は一ドル」が永久不変の真理なのだ。けれど、繰り返すね、1860年当時の東アジア貿易は銀の重さが貿易決済を支配していた。
 ハリスはインド・カルカッタ、セイロン・コロンボ、中国では上海、香港を駆け巡り貿易商として、ちょっとした政治ゴロとして名を上げ富裕な商人然としてニューヨークに戻った。熱烈な民主党員として、米聖公会の熱心な信徒としてニューヨークを駆け巡り市教育界に旋風を巻き起こすのはそのあとだ。アジアでの貿易における銀の価値をハリスは身を掛けて知り尽くしている。カネの亡者?いや違う。通商貿易には自由と平等の理念が欠かせないことを胸に刻んでいる。
 ハリスは自由貿易主義者。自由貿易はハリスのような闊達な論客の貿易商人には「自由」と同義語だった。自らの求める「自由」を時代の求める新風として理解している。
 ハリスは通商条約に期限を区切って(5年間)見直すことを盛り込んだ。その規定は薩摩が仕掛けた英軍への鹿児島湾局地戦でもろくも崩れ落ちる。条約に盛り込んだハリスの理想は地獄へ落ちた。幕末明治の歴史は以降、暗黒へ向かう。薩摩が目論んだ新政府樹立は幕府の精神、シンボル上野寛永寺の瓦を撃ち崩し、彰義隊戦士は首を刎ねられ、境内に晒し物として置き去りにされた。当時の強国英仏のように容赦しない英雄として残虐を重ねて御一新がこの島国に君臨する。
 明治の理想国家が峠の上の雲を望みながら英仏のように強い国になろうとして誕生した。

注3 参照/ゴードンとモラレスの「銀の道」The Silver Way: China, Spanish America and the Birth of Globalisation, 1565-1815 (Penguin Specials) Paperback – June 1, 2017 / Peter Gordon, Juan José Morales 注4
準備中

注5
 ビッグ・マンション・ホテルはセイロン(現・スリランカ)ゴール・フォート内にある。フォートを俯瞰すれは、海に突き出た半島のほぼ中央に建っている。ジョージ・H・ボガーによって19世紀中ほどに建てられた。ゴールに寄るP&Oなどの郵船の乗客が乗り換えの船便を待つ間利用された。オランダ植民地時代の真っただ中、フォートのこのホテルでもオランダ銀貨が支払い用通貨として流通していただろう。本文に記したようにVOCの刻印をオランダ・ドルに刻み込まれながら。オランダの貿易銀も中国との交易に用意された8レアル銀貨の重さを持つ”通貨”だ。
 ハリスがビッグ・マンションを根城にしていた時代はセイロンがイギリス植民地に変わってからなのでVOL銀貨がまだ通用していたかは分からない。銀貨は重さが価値なのだから信用の置ける銀貨=貿易銀ならどこで発行していようが「価値」は変わらない。
 ハリスはインド、中国での商品買い付けをしていた際、このボガーズ・マンション・ハウスの一室を借りていました。日本を追われるように米軍艦で出国したとき、懐かしさがよみがえったのでしょう、上海で船を降りP&O郵船に乗り換えセイロン・ゴールへ向かいました。
 ビッグ・マンション・ホテルは所有者を何人か変えて帰国途中のハリスを迎えたときはロレット・ホテルとなっていました。6年前、日本へ向かう時に来るときにハリスを迎えてくれたマクドナルド船長も、シンハラのカレーもマレーのカレーも極上の絶品に仕立てる夫人もゴールには、もういなかった。時は移ろうのです。
 坂田精一はハリスの動向研究が日本に限られていることに殊更不満だったようで、ハリスが日本を離れてからの足取りを丁寧に追っています。ハリスはプロイセンから日本を再訪するためにこのホテルに宿泊していたM.V.ブラントに偶然出会います。セイロン・ゴールのホテルでの出来事も、その時のハリスを知るには、あの時の歴史と人を知るには大切なのだけど、ハリスのカレーライス同様、誰も扱わない。坂田精一だけがセイロンで帰国途中のハリスを捉え、その動向を記録しています。
 ブラントが手記にロレット・ホテルで出会ったハリスの様子をこう記されています。「何処かおどおどしていて、日本はこれから大変なことが起きる。日本へは行かない方がいい」ハリスは口ごもりながらそうつぶやいたというのです。

   日本でのハリス研究は幕府とハリスの条約折衝その詳細を殊更精密に綿密に描くのですが、日本を離れるとこの島国は絶海の孤島になって「鎖国」の風情が今も漂います。徳富蘇峰が大正七年創刊の「近世日本国民史」の「堀田正睦(4)」(昭和6年) で解説する江戸期日本政府の「応接禄」よりほかには開国へ向かう日本とその時代を知らせる資料はないかのように。
 いや、蘇峰の「国民史」が読めるならまだましなようです。薩長の新政府は江戸末期のハリス領事と日本政府(徳川政権のことです)の二人の条約審議官の開国開港へ向けた審議を政治上ないことにしましたから。日本を開国して世界に披瀝したのは恐れ多い新政府のしでかした大いなる功績なのですから。その、”新政府偉い”が日本の常識でハリスが様々に発する声など聞こえてきません。
 静かに耳をそばだてましょう。意地を通せば窮屈だ、とかくにこの世は、なんて昔の人は嘆いていましたけど明治の仮名垣魯文のカレーライスの前に、江戸末期にはタウンゼント・ハリスのカレーライスがあったのに、ハリスがあんだけカレーのこと書いているのに消えちゃったんだから、放っておけないんですね。

 ゴール・フォートのロレット・ホテルは1973年にセイロン商業銀行が買い取り、内外装を往時19世紀の様子に復元し、歴史遺産として政府に登録しゴール支店として営業しています。1900年、英国へ向かう夏目金之助(漱石)が「名物のカレー」を食べるためにコロンボで立ち寄ったブリティッシュ・インディア・ホテルBIHはコロンボ港をほかの国に貸し出したので軍港化が進み、その開発のあおりで消え去りました。コロンボはその先のスリランカへ向かい、ゴールはビクトリア時代以前の昔のセイロンに帰る。コロンボのBIHは今、スマホ・ショップに変わっています。ゴールのビッグ・マンション・ホテルBMHは往時に復元され、復元された当時の壁からATMが飛び出しています。なにか異様で、おどろきの圧巻で、最先端だけどノスタルジック。セイロン商業銀行はゴール・フォートの中にすでに支店を持っていますから、こちらのセイロン商業銀行ゴール支店はビルを歴史遺産として保存するためにインドの企業から建物を買い戻しスリランカ企業が所有しました。「植民地」セイロンの優雅な時代がこの元ホテルの梁や壁や床や、図書室や、入り口のドアに刻まれ蘇りました。

注6
 ペリーが去り、ハリスが現れるまでの間に日米為替レートの不当を指摘した男がいる。F・A・リュードルフvon Fr. Aug. Lühdorfです。ドイツ人の彼は『グレタ号日本通商記』Acht Monate in Japan nach Abschluß des Vertrages von Kanagawa/1857で一分銀の価値をドルの三倍に設定したペリー条約は明らかにアメリカ側の失敗だったと憤懣を込めて記しています。  このかすかな1850年代というたぐいまれな日本の転換の時期に、タウンゼント・ハリスなりの「自由と平等」を彼が日本に持ち込もうとした時に、おそらくは世界でも稀有な、自由貿易がもたらす理想国家の誕生を彼が思い描いていたその時に、日本が明治政府の看板を掲げると共に、戦力と国の法を整え世界の先進国の仲間入りをして、その先の先にアポカリプスの地獄の空へきのこ雲を巻き上げてゆくなんて誰が空想したでしょう。ハリスとヒュースケンが日本へ向かう米国の新造軍艦の船室で日記に記した、(そして、第二次アヘン戦争での勇猛野蛮な、機知に富んだ指揮官エルギン卿でさえ記した)「私たちは西欧の地獄を日本へ持ち込み子供たちから笑顔を奪おうとしているのではないか」という予見がすでに始まっていました。

※8レアル銀貨
8レアル銀貨での決済はスペインが16世紀にガレオン船でメキシコ・アカプルコからフィリピン・マニラにその銀貨を持ち込んだことに始まります。メキシコを植民地にして銀山を接収したスペインは8レアル銀貨を鋳造し、主に中国との貿易で決済用通貨として使いました。トレードシルバーはスペインのレアル通貨からメキシコ銀山でのレアルへ、アメリカのドル銀貨へ、ドルから清の圓銀貨へ、また明治初期には日本の1円(龍洋)も生まれ貿易銀、決済用通貨に仲間入りします。  仮名垣がイラスト入りでスクープした「外国銀ドルラル七匁二分の銀一つ」はこのトレード・シルバー(貿易銀)。このスクープが出た安政5年6月、日本はやや怪しげなハリス条約注4を足掛かりにしてオランダ、ロシア、イギリス、フランスとも相応の条約を相次いで結び世界貿易に参入したのです。