ちなみに下の写真はEbayで扱われているアンティークのメキシコ銀貨。Ebayは現代の貿易銀流通の中心にある。コイン・マニアが19世紀の貿易銀を狙うからだ。多くの貿易銀が売りに出されているがフェイクも多い。人気コインの勲章だ。
メキシコ銀貨の下は1859年にアメリカ・フィラデルフィア造幣局が鋳造した50セント銀貨。貿易銀が使われた時代は短く、しかも、その使用が中国、日本にほぼ限られるためコイン・マニアの垂涎の的。スリランカではセイロン植民地時代に中国で使い古したこれらの貿易銀を使っていた。インド、中国での貿易商時代が長いハリス。コロンボへの立ち寄りも多かった。中国の貿易銀鑑定士の刻印を打ってセイロンに流れて来た貿易銀にも接しているだろう。 republica-mexicana-1857-8r-m
1859 50cent us dollar / spgs spain-dollar-ceylon1780. アカプルコ―マニラ―中国へ渡り、その後セイロンで使用されたスペイン・ドル。この1780年のコインが発行された年、セイロンはオランダ領植民地の真っただ中にあった。刻印されたVOCVereenigde Oostindische Compagnieはその証。
Wikipedia, the free encyclopedia Spanish dollar
仮名書は銀貨の説明に「異国人唱ふるにデラースともドラアーとも聞ゆるアメリカ製ノ銀トルラル表目方七匁弐分」と記しているがそれは安政五1858年六月の記事、日本とアメリカの通商条約が結ばれた時である。この記事は貿易に用いる銀貨は額面ではなく重さで通用することを踏まえている。七匁弐分は中国の光緒元寶七銭二分(品位90%)と同じ重さ(量目)。七銭二分はその広東方言が英語になって7 MACE AND 2 CANDAREENSと表記され貿易銀貨光緒元寶の裏面に刻印されている。七匁弐分は27グラム。半端な数字だがこれがポルトガルの交易ではじまる世界貿易の銀による決済、秤量貨幣の基準となった。
日本とアメリカの貿易は決済代金は日本通貨、アメリカ通貨での支払いになる。ここに問題が生まれた。ペリーのやらかしたミスなのだけど、為替レートの不公平さにアメリカ商人の不満が集中した。日本は為替レートを三倍に吹っ掛けていてずるいと彼らは口をそろえて言う。日本へドル銀貨を持って行くとその価値が三分の一に減ってしまう。ペリー条約の時、日本独自の金の四進法と銀の十進法をまぜこぜにして金銀交換の日本ルールを目も彩に披露して、煙に巻いて、日米の為替レートをアメリカにとって三倍不利に設定してみたらペリー総督配下の軍人会計担当は騙されて1ドルと1分銀は同じ価値と認めてしまった。日米の為替レートは「1ドル=1分銀」で決着、アメリカにとって不利で不平等だけどアメリカは日本と和親条約を結んで(英語での正式名称はTreaty of Peace and Amity between the United States of America and the Empire of Japan)を結んで、ペリー総督はその”不平等条約”を喜んでワシントンに持ち帰った。アメリカ軍人を煙に巻いてあの時、日本側は抜け目がなかった。
これが二年後のハリスの下田上陸でドルの価値を三倍にする為替レートを新たに持ち込まれて談判になった。結局、新生下田条約ではハリスの言い分が通り、決済は銀の重さで平衡を測るという、当時のアジア貿易経済の習慣に戻って落ち着いた。日本ではこれが不利で不平等な交換レートだ、不平等条約だと後にごだごだ説明されるようになるけど、通商条約の日本側担当者らは翌年アメリカ海軍の軍艦に便乗して渡米し、ニューヨークで通商条約をにこやかに批准している。アメリカ側にしてみればキリシタンは芝札ノ辻で磔刑の火あぶりにされるとかの、そんな日本の江戸前刑法に合わせたらアメリカ人は皆、火あぶりだし、貿易なんか出来っこない。関税がなにかも知らない当時の日本相手にまずは手ほどきで輸入時に港湾税を取って国家財政に充てるとか、半分文明国から文明国へ脱皮する日本の実態に合わせたハリスの「懇切丁寧な関税指南」もハリスのアメリカ帰国後に薩長がドンパチやっておかしなことになった。江戸城の中堅がハリス路線をとって開国し、まずは地道にゆこうか、となったが薩摩長州の血気盛んな若侍には偉そうなハリスが憎い、若造アメリカ憎し、老練な英国仏蘭西なお憎し。愛国心を燃えたぎらせる憎悪の源になった。
注3
参照ゴードンとモラレスの「銀の道」The Silver Way: China, Spanish America and the Birth of Globalisation, 1565-1815 (Penguin Specials) Paperback – June 1, 2017
by Peter Gordon (Author), Juan José Morales (Author)
注4
ペリーが去り、ハリスが現れるまでの間に日米為替レートの不当を指摘した男がいる。F・A・リュードルフvon Fr. Aug. Lühdorfだ。彼は『グレタ号日本通商記』Acht Monate in Japan nach Abschluß des Vertrages von Kanagawa/1857で円の価値をドルの三倍に設定したペリー条約は明らかにアメリカ側の失敗だったと憤懣を込めて記している。