お気楽CDレビュー
図書館天国:書き捨て御免


1996年のメモ

少ないです。たった4点。


k.d. ラング「アンジャニュウ」 k. d. lang: Ingenue

あるコンサート評ではスティーリー・ダンを引き合いに出していたけれど、もっと内向的な感じで、じめじめしたスザンヌ・ヴェガとでも言うような。中には中島みゆきみたいなのもあって、どうもそういう情念に曲が絡め取られて飛翔できないって感じ。但しこの作品は1992頃のものだったはずだから、今は違うのかもしれない。誉めていた来日コンサート評も1996年の来日のものだったし。


カウボーイ・ジャンキーズ「レイ・イット・ダウン」 Cowboy Junkies: Lay It Down

静謐な感じ。カナダに対して持っているイメージそのものに近い。寒い冬の中で透き通っていく結晶のような。それでも、フレーズにときどきアイリッシュ・トラッドの痕跡らしきものが顔を出す。もう少し聴き込みたい。(というわけで購入。)


マドレデウス Madredeus「海と旋律」「リスボン物語 オリジナル・サウンドトラック」
1996.12.13

マドレデウスを聴いて思い出したのは、大して聴いたこともないはずの、ルネサンス期のマドリガル(名前が似てる?)と、それより更に古いFranco-Flemmishの合唱曲。同じドレミファソラシド(ヨナ抜き=ドレミソラ=ではないということ)を使っているのにやたらと透明な。そのピュアな感じってすごくなごむし、嫌いではないんだけれど、じゃあ買おうっていう気にはならなかった。食べたい物がそのとき不足している栄養素に左右されるように、今自分が渇望している音楽のタイプとはちょっと違ったのかも知れない。

ピュアだというのは、自分から見て衝突や軋轢の痕跡がないということだろうか。ひるがえって、自分が今好き好んで聴く音楽を考えると、たいていそういう「痕跡」がどこかに埋め込まれているような気がする。それはブラジルだったり、沖縄だったり、ハンガリーの作曲家(バルトーク)だったり、ジプシーだったり(フラメンコやジプシー・キングス)、あるいはアイリッシュだったり。いずれもこの数世紀、政治的・文化的に平穏とは言えない、日々異文化との衝突にさらされて生きてきた土地や民族の音楽だったりする。ポルトガルはどうなんだろう。自分のイメージでは、世界の疾風怒涛に背を向けて、一人夕日を見ながら余生を送っている、という感じ。「心なごむけど、今は要らない」という印象はそんなイメージとの重ね合わせから生じたのだろう。

ワールド・ミュージック全般が苦手だった時期がある。マドレデウスは、ちょっとだけそれを思い起こさせる。ワールド・ミュージック全盛のあの頃、その「それらしさ」がいやだった。本当は内部に異質なものもたくさん含んでいるのに、あえてそういうものを全て包み隠して、あるいは削ぎ落として、無傷の「○○らしさ」を演出してみせる、そういう胡散臭さに辟易していた。マドレデウスの「無傷」はそんな演出とは無縁なはずだけれど、自分にとって今「無傷なもの」は必要ない、という意味においては同じように距離を感じてしまう。マドレデウス自身には何の責任もない話ですみません。


コーネリアス 「69/96」

ここ数年の日本のポップスでは最高傑作ではなかろうか? なぜもっと早く聴かなかったのか。反省!(というわけで、購入。)いやしかし、何がそんなに傑作なのかと言われても、誰かが言っていたような「デス渋谷系」という表現は、カリカチュアにはなっても何か本質には届いていない気がするので、自分なりに説明を試みる。

「渋谷系」と括られるアーティストに、自分ではそれを否定する人間は多いが、それを作品として否定できた人は少ないのではないだろうか。コーネリアスにしても、前作は何と言うことはない凡庸な渋谷君だった。「凡庸な渋谷君」とは、わかりやすく言えば、基本的な技法である引用・模倣がそれだけで終わっている感じがするということだ。最近の田島貴男などはその悪い例にはまっている方だろう。単なる引用や模倣は結局のところ、今この時代に、この場所でその素材を使うことの意味を伴っていないため、単なるノスタルジアや現実逃避(ここでない何処かへの憧れ)で終わってしまう、それが「渋谷系」と言われる音楽の多くに共通した弱点だったと思う。

69/96はこれを見事にひっくり返している。それにはいくつかの側面がある。一つには、「渋谷系」的な手法が非常に豊かな可能性を含んでいることを示したということ。ヘビーメタルやオルタナティヴの語法を、従来から自分で得意にしてきたR&B系の手法とぶつけるという奇抜なアイディアが、音響的な斬新さをもたらしたことは、引用・模倣という手法の可能性の豊かさを改めて証明するものだろう。もう一つは、その「ヘビメタ」「オルタナ」「SF」というチョイスが、互いに共鳴して「今、この時代の、この場所(=東京、であるが)」とシンクロしていること。細かい分析は省くが、混沌と強靭さとナイーヴさが同居するバランスは、鮮やかなまでにリアルだ。さらに言えば、そのアナーキーな引用・模倣・ミックスアップの戦略によって、「渋谷系」について回っていたノスタルジックなものを一切無化することに成功したことだろう。その意味においてもこの作品は、全く過去のほうを向いていない「SF」だと言えるかもしれない。



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