聴いた、観た、買った ---淡々と音喰らう日々。

1999.06.16-30

>07.01-15
<06.01-15
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★は借りた新着、☆は新規購入。


6/17 ミルトン・ナシメント『アンジェルス』
おお、これそろそろ返しに行かなくちゃ。買うぞそのうち。

奥田民生『股旅』(1998)☆
新譜のほぼ半額で入手。シングルカット曲以外は全て初耳。だもんで、歌詞に笑わされて苦しい勤め帰りの車内である。いや、別にお笑い的にだけでなくいいっすよこれは。
バンドの一体感(バックはドクター・ストレンジラヴ)がまた素晴らしいのだが、自分はギター少年でなかったせいか、特にドラムスが印象的。どっちかという緩めのチューニングと思われるスネアとタムで叩き出す重々しいフィルインが実に気持ち良くハマる。この古田たかしっていうドラマー、以前佐野元春with the Heartlandで叩いてた人だっけ? 記憶違い?

6/18 カーティス・メイフィールド『Curtis(1970)/Got To Find A Way(1974)
1996年の復活作だけってのも何なので。2in1CDかと思って買ったら何と2枚組の輸入盤。いきなり得した気分。
『Curtis』の解説では、これがマーヴィン・ゲイの『ホワッツ・ゴーイング・オン?』に数ヶ月先駆けて発表されたことの重要性を説いているが、確かにT-1の凝った構成(話し声のテープにオーヴァーラップして始まり、間奏の途中で一度終わりかけてまた盛り上がるなど)を始めとして、そのくらい評価されていい作品だろうと思う。いや、渋谷系的な文脈では既にその地位を得ているのだろうが。敢えて解説者が力説するというのは、つまり本国での評価はそうでもない、ということか。

6/22 トゥーツ・シールマンス『ブラジル・プロジェクト Vol. 2』
イヴァン・リンスの「セー」が聴きたいばかりにヘヴィロ化。うう、これって本人のオリジナル録音はないのかな。ディスコグラフィ見る限りでは無いので、他人への提供曲か。いずれにしても、ウカツだ、こんな名曲知らぬとは。

6/23 トゥーツ・シールマンス『ブラジル・プロジェクト Vol. 2』
今度はドリ・カイミの「オブセッション」が聴きたくて。うーん確か彼は国内盤出てないよなあ、ってことは買うしかないか。買うか。

アントニオ・カルロス・ジョビン『アントニオ・ブラジレイロ』(1994)
『パッサリン』(1987)
このアルバムが出た年の来日公演(日比谷の野音で実に気持ちよさそうだった)をTVで見たのが、その後ジョビンにはまるきっかけだった。そのライヴはそよ風のように軽快で爽やかでソフィスティケイトされていて...というボサノヴァそのもののイメージだったのだが、同年に出ているこのアルバムの悲痛とも言える沈潜ぶりは何なのだろう。一言で言えばそれはジョビンのエコロジーへの強い、持続した関心が帰結した一つの様式とも言うべきものなのだろう。それは遺作の『アントニオ・ブラジレイロ』においても顕著なのだが、それでも驚いてしまうのは、1987年ライヴと同様の、女声ユニゾンの軽快なヴォーカルに加え、ドラムセットが比較的強調された「米国経由で国際標準化されたボサノヴァ様式」に則りながら、決して踊れない、流せない、厳しい音楽を紡ぎ出してしまうジョビンの只ならなさゆえだ。

6/26 ジプシー・キングス『エストレージャス』(1995)
『コンパス』(1997)
『エストレージャス』を聴いて感じた違和感は、やっぱり三和音が紛れ込み過ぎなのが一番根本の原因なんだろうが、それがまたストリングスの多用によって強調されているというか、益々固定的なイメージを植え付けるというか、そういうことだったのだろう。だから、そういう点へのこだわりを除けば、結構「愛らしい小品」とでも言うべき素朴な作品に溢れたアルバムではあるのだろう。

6/27 『喜納昌吉&チャンプルーズ』(1977)
マーヴィン・ゲイ『レッツ・ゲット・イット・オン』(1973)☆
記憶がいい加減なもんで、『ホワッツ・ゴーイング・オン?』(1971)の翌年だと思ってたらもっと遅かった。しかし、当時「濃厚な愛の世界への転向」としてセンセーションを巻き起こしたというが、この程度で濃厚だったなんて当時は随分と素朴な時代だったのか。いや、こういう濃密なラヴソングばかりのものを出したからといって転向扱いされるなんて、やっぱイヤな世の中だったのか。個人的には後者説。だって、人間の心の機微あった上での政治的ステートメントでしょう、やっぱ。それなしに政治的な正義を振りかざす人のほうが信用ならんと思うし。ゆえに私はこういうマーヴィンが好きだ。おっと、全然音楽評になってないなあ。まあ皆さんご存知だからいいですよね。

ジョニ・ミッチェル『ミンガス』(1979)☆
これも、裏ベスト『mis s es』収録の「ザ・ウルフ・ザット・リヴズ・イン・リンジー」が気に入ったので買ってきたもの。チャールズ・ミンガスの曲4つにジョニが歌詞をつけ、他に彼女のオリジナル2曲。当初ミンガスとの共作になる予定だったものが途中でこういう形に企画変更、その制作中にミンガスが亡くなってしまった、という経緯を持つそうな。
知っている曲と、そういったアルバムの成り立ちから考えて、かなり落ち着いて聴いた方がいいタイプだろうと思って、買ってしばらく放置していた。...正解。夜中にじっくり聴くに限る、こういうのは。冒頭の「ゴッド・マスト・ビー・ア・ブギー・マン」はじめ、何かほどけたような不思議なアンサンブル(それをジャコ・パストリアスが時々思い出したようにかがり縫いしている)。いわゆる「歌モノ」的な求心性というか、統一性/一体感(ユニティ?)とはほとんど無縁。究極のアソビとでも言うべき。こりゃ売れなかった訳だとは思うが、でも個人的には大傑作扱い。

6/28 奥田民生『股旅』
ビーチ・ボーイズ『ペット・サウンズ』(1966)☆
今頃になってようやくちゃんと聴くという遠回りは、言ってみればキャピトルが仕組んだ周到なイメージ戦略に、ネガティヴな意味でまんまと乗ってしまっていた、ということに他ならない。そのおかげで、至る所で「ブライアン・ウィルソンこそ真にプログレッシヴな云々」と聞かされても信じないで来てしまった。あ、それはプログレッシヴつう言葉の胡散臭さのせいか(笑)。ともかく、正面きって聴く気がしなかったのである。つい昨年「神のみぞ知る」にハマるまでは。
で、最初2週間ほど前に流して聴いたときはそれほどとも思わなかったのに、聴けば聴くほど凄くなる、恐るべき作品なのだった。実に恥ずかしい遠回りであったことよ。
トッド・ラングレンへの影響というのも、トッドだけ聴いていては今一つピンと来なかったが、これを聴いてなるほど得心した。T-11 "I Just Wasn't Made For TheseTimes" (「駄目な僕」っつう勘違いな邦題は駆逐せよ! 全然意味ちゃうやん)の高音を張り上げるところなんて客演かと思うくらい。という瑣末な点はもとより、この博覧会的、もしくは百科全書的とも言うべき膨大なリソースを接続、融合あるいは変形して新しいポップを作り上げようという孤軍奮闘ぶりそのものまでが、ブライアン・ウィルソンからトッドへと引き継がれているのだ(だからトッドは「グッド・ヴァイブレーション」をリメイクしたのだろう)。
そう、それほどこのアルバムは、アメリカン・ポピュラー・ミュージックの一大交差点なのだ。最大の影響を与えたと思われるフィル・スペクター(ブライアンは彼のスタジオに入り浸って勉強したそうだ)、フォー・フレッシュメンに代表されるコーラスワーク、サーフィン/ホットロッドという形でビーチ・ボーイズ自身が受け継いでいたロックンロールの流れ、そしてサイケデリック・ムーヴメント。いやそれだけでなく、恐らくはクラシックからブロードウェイ・ナンバー、バート・バカラックなどに至る膨大な「正統的な」ポピュラー音楽とされてきたリソースをも、ブライアンは参照している。
それを「こんなの誰が聴くんだ、犬か?」と言った(らしい)マイク・ラヴって何。時代背景抜きにしても鈍すぎやしないか。おまけに、実質ビーチ・ボーイズを背負わされた結果としてブライアンが精神的にズタズタになったというのを、さっぱり理解していなかったんだろうか。ブライアン・ウィルソンの悲劇は聞けば聞くほど人災だなあ、とつくづく思う。

6/29 エルメート引っ掛けてさあ行くぞ、と思った矢先に3トラック目でいきなりDiscman停止。おいおい今朝充電終わったばっかだろうに。単に充電のコンセント差し込みが緩くて抜けてたか。たはは。こういう日は万事ろくなことがない。たとえば腰痛寸前のつらい背中。育ち過ぎだあ>わが子

6/30 エルメート・パスコアール『神々の祭り』
仕切り直し。
ビーチ・ボーイズ『ペット・サウンズ』
回りっぱなし。(7月へ続く)



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