ループな日常
〜普通に聴いて考える
[1999年1月分]


考えてみると、常に自分の知らない、あるいは詳しくない音楽を探し求めて、次から次へと聴いている状態というのは、それ自体尋常な聴き方とは言えない気がする。大体、借りまくる一方で、以前から買おうと思っているものはほとんど購入していなかったりするのだ。これはいびつである。

というわけで、暫くは「図書館天国」から地上に戻って、日常好きなものを聴きながら思ったことなどをメモしてみる。これこそが等身大の「音楽について考えること」なのかもしれない、なんて思いつつ。

 



1999.1.28-31

1/28 パット・メセニー・グループ『ザ・ロード・トゥ・ユー』(ライブ)

スタジオ盤の隙のない仕上がりもいいが、アルバム出すたびに超ハードなツアースケジュールをこなすという、ジャズ/フュージョンらしからぬツアーバンドとしてのメセニー・グループの音を納めたライブ盤もまた、一期一会の絶妙な呼吸やバンドの一体感ある音をすくい上げていて楽しい。「ファースト・サークル」や「サード・ウィンド」あたりは明白にライブ版が上。

スガシカオ『ファミリー』

思わずフロイト流の分析をしてみたくなるような歌詞のオンパレード。いや、フロイト的な象徴に読み替えてもすくい切れないものが大き過ぎるか。

1/29 あああポータブルCDプレーヤーがイカれてしまったあああ。音飛び修復モードも空しくぶち切れまくり。既にハブが一部欠けてしまっているなど問題ありつつも使ってきたがさすがに寿命か。しかし昨日まで大丈夫だったのに何で今日? 充電レベル下がってトルク弱くなると揺れが顕著になるってことか。

と思って昼休みにちょっといじってみたら直った。何故だ。まあしかしチャッキングが緩くなっているのは間違いなさそう。近日中に買い替えだなこりゃ。で

暴力温泉芸者『ネイション・オヴ・リズム・スレイヴス』

何これ、つまんねー。聴いて損した。
と言っては丸損なので、少し書く。タイトルから想像するケミカル・ブラザーズ的な音とは殆ど無縁の無拍節ノイズ音楽。それだけなら「ああそーゆーのもあるよね、オレは聴かないけど」で済むんだが(そもそもこれってノイズとしても上質なのかねえ、ミュジーク・コンクレートの安易な焼き直しにしか聞こえないぞ)、だれたレトロポップスが4曲入ってるのは何なんだ? 意図わかんないしそもそも下手すぎ。大体、歌をナメてる奴ってのはそれだけで嫌いなのだ。歌書きのはしくれとして。

何だこれ1996年? 名前チェックしてから2年は経ったってことか。これだけ引っ張ってハズレ、てのも何か辛いな。

1/30 スガシカオ『クローバー』
『すくすくどうよう 2〜4才児向』
矢野顕子『ウィウィ』
ディック・リー「シャナナナナナ」

以上ほとんど息子の要望により。特に「シャナナナナナ」と矢野「クリームシチュー」のリクエスト多数。何だか休みの日の選曲基準はこればっかという気がする。まあでも、こういう曲を童謡と同列に聴けるというのはいいことだとも思うが。その点、色々バイアスありつつもポンキッキーズ(フジ系)の音楽面での努力は一定の評価に値する。

そして何とも久々にコンサートに出かけたのだった。息子は実家で祖父祖母叔母(妹をオバサン扱いするのは悪いが血縁的に事実だしなあ)と遊ばせておく。演目はラヴェル「ダフニスとクロエ」のバレエ付き全曲。主催は何とアマチュアの合唱団でオケもアマチュア。この公演自体大変面白かったし、バレエと併せて見ることでこの作品とラヴェル自身の特殊性を再認識した。ちょっと長くなったのでこれは別途コラムに掲載。宜しかったらお読みください。

終演後、実家に電話して息子が寝入ったのを確認すると、一緒に見に行った友人たちとタイ料理をほおばりつつ話し込む。人文系の研究者が2人いたこともあって、その方法論の話なども飛び出す。初めに方法論ありきで、それに合った題材を探すという馬鹿馬鹿しい傾向が最近顕著なこと。興味のないものを研究対象に選ぶ研究者が多いこと。学問の内部にいる彼らの良心はそれを嘆くが、そういう話を第三者として色々聞いてきた自分の立場からは、むしろそれは学問の制度内で生きて行くためにそうならざるを得ない部分があるように思えた。一方で、その制度とは学問の内部での有効性に向けて組織されている体系であり言説であるから、外に居ながら、本当はその学問を必要としているだろう人々には有効たり得ないのではないか、ということも思った。

今まで自分がここのサイトで目指して来たことは、本当はそういうニーズに対して何らかの橋渡しを試みることだった。そしてそれは自分にも何らかの果実をもたらすはずだった。だが、どうにも自分は単に学問っぽいタームにおぼれて、かぶれてしまい、音楽を考えるきっかけさえあれば考えるだろう人たちに届く言葉は書いていなかったように思う。自分の勉強にだけはなったのだが。そもそも決定的に重要なことは、音楽が好きで、そういう場所に居ながら、しかしそのことにおぼれずに物を言うことなのだ。「内在批評」こそが大事なのだ。その有効性を確保するのはとても難しいとは思う。内にこもったファンの独り言に陥る危険はいくらもある。でも、これが原点なのだから、ここに戻らなければ。まあ上手く行くかどうかよくわからないが、ぼつぼつとやっていこう。折角の演奏会後のたのしい食事だというのにこんな話に付き合ってくれた友人たちに感謝。

1/31 実家でたらたらと。息子を連れて散歩し、ついつい夕食まで世話になる。しかしこんな具合なのでこの週末も中古屋に行けずじまい。これが普通の日常なのである。同様に本屋にもなかなか立ち寄れないのが実状。でも、そういう状況にある人たちがループな聴取に閉じこもらない手だては何かないものか。そういう状況の人が単に「昔から聴いてるアーチスト」の新譜やベスト盤だけを買って安心している、それ以上の豊かな音楽体験の場を、ある意味「社会・経済的に」実現することは出来ないだろうか。結局のところコンテンポラリーな音楽がほとんど未婚者、とりわけ学生に支えられているという現状は、あまり普通とは思えないのだ。実はこの辺が自分的には最大の課題なのかも。

実家の近所には何故か沖縄物産の店があり、初めて入ってみたらCDも置いていたので、以前から聴きたかった大工哲弘のものを1枚、缶入りゴーヤ茶などと共に購入。妹のCD棚も勝手に物色し、Misiaを借りる。こうなると彼女も世間への窓の1つである。



1999.1.24-27

1/24 モーツァルト「ディヴェルティメント」ブロムシュテット/シュターツカペレ・ドレスデン
「交響曲第35番『ハフナー』」ベーム/ウィーンフィル

久しぶりに気分的に余裕のある(昨日は洗濯・掃除もはかどったし)日曜の朝なので、それらしく。だが、ディヴェルティメントはともかく、ハフナーあたりになるとモーツァルトも、当時評されたような「人工的すぎる」感じが表立ってくる。出だし2オクターヴの跳躍はまだしも、次の繰り返しはフーガにして半音差でぶつけてくるなど、とても「爽やかな日曜の朝のBGM」に適切とは言い難い緊張感でぶっ飛ばす。そのテーマの提示が終わった後、狂気のコロラトゥーラとでも譬うべき速い弦のパッセージに移る変わり身も、よくよく考えれば 尋常ではない。

なお参考までに、アーチストの選択は今買うなら全然違うかも知れない。「ハフナー」なんかは以前聴いた古楽器アンサンブル系の方が面白く聴ける。

スティーヴィー・ワンダ『イン・スクエア・サークル』

を、1曲目「パートタイム・ラヴァー」をスキップして。別にクズな曲ではないと思うが、何か今一つ肌に合わない。「オーヴァージョイド」が聴きたいのもあって掛けたのに、そこに到達する前に時間切れ。買物に出掛ける。

そして買ったのである買ったのである。というほど買ってはいないのだが。大体、CDがメインの用事ではないし。とりあえずは

ディック・リー「シャナナナナナ」

知る人ぞ知るポンキッキーズの人気ナンバー。黄色いシルクハットに黄色いタキシードのディック・リーが、マザーグースナンバーを交えて歌い踊る楽しいレビューである。ああこのダンディズムがJ-POPとか言われるものにあればなあ。しかしこれ、3年前に出てるシングルなのに何であったんだろう。しかもちゃーんとワールドの棚に。

スガシカオ「黄金の月」from『クローバー』

家人がいたく感動しまくっているのである。「どうしてこんな宝物のような歌を教えてくれなかったの」と言うのだが、いや私は逃げも隠れもせず何度も掛けてるし、時には鼻歌まで唄ってたんだけどなあ。それでも気が付かないアンタがワルい(笑)。などといって掛けているうちに、息子が意味も分からないくせにご執心になってしまい、今や単品ループ状態である。

1/25 ディック・リー『ホエン・アイ・プレイ』

何となくディック・リーづく。私は自分が歌下手なくせして、聴く分には歌の上手い人というのがとても好きである。当たり前か。ディック・リーは、スティーヴィーとか佐藤竹善なんかと並んで、技のバラエティと歌心とのバランスが絶妙なヴォーカリストだと思う。昔少年合唱団で鍛えたというコーラスワークも秀逸。

しかし、これも『マッド・チャイナマン』も実は図書館で借りてカセットに落としたもの。買おうと思って何度かCD屋を見たが、廃盤なのか全く見当たらないのである。最近、近所の古本屋がCDも扱ってることを知ったので、今度はそっちを調べてみよう。中古屋が地元から消滅して久しかったので、これは朗報である。ってもなかなか寄る時間がないなあ。就学前の児童は手が掛かる。まその分成長ぶりがめちゃ面白いが。

1/26 スガシカオ『ファミリー』

やっと2ndも落ち着いて聴けるのである。収録曲中、シングルで出ていた「愛について」「ストーリー」だけは知ってたので、それだけを根拠に「こりゃ1stほどではないかも」と思って聴いたのだが甘かった。全然違うじゃん方向性が。よりブルージーでソウル寄りな楽曲と、深く傷つきおののいている歌詞と。それらがまたマッチして鋭く深く切り込んで来る。ああ朝っぱらからこんなもの聴いてまずいかも。でも眠い目は覚める(笑)。

ケイト・ブッシュ『レッド・シューズ』

今はなきカフェバーの発祥地とは何の関係もありません(笑)。タイトル曲はアンデルセンの「赤い靴」、一度履いたら死ぬまで踊るしかないという、あのおっかないお話に基づく。この1993年作品は、以前ビデオクリップを見てあまりに怖かったのでそれっきりにしていたのだが、蛮勇を振るって試聴。何だ結構ポップスじゃん。プリンス(当時)が1曲参加してるせいか、他にもプリンスっぽい曲があったり。ジェフ・ベックとクラプトンが1曲ずつ参加してるせいか、全体にロックンロールテイストの曲が多かったり。そして、タイトルからの連想に反して全く「トータル・アルバム」ではなかった。『ハウンズ・オヴ・ラヴ』を推す身としてはちょっと物足りないような。でも単品の曲はそれぞれ結構いい感じ。も少し聴いてみよう。

1/27 それにしても『レッド・シューズ』の解説(山田道成のほう)、子宮感覚だとか、ケイトが聖女だとか聖母だとか。こういう人って多いんかな。よく見る気がする、この手の発言。以前サイズ(当時)の松浦も、「ドント・ギヴ・アップ」でのケイトのヴォーカルを評して「母なる」みたいなこと言ってたし。何でみんなそういう型に押し込めて理解したいんだろうねえ。

同じ事が矢野顕子の評価のし方にも散見される。母としての何じゃらとか何とか。私が彼女らの音楽を愛するのは、そういう陳腐な理解を超越した部分ゆえなんであって、それを型に押し込めようというのは所詮「理解し難いものは恐ろしいので、既存の枠組みにあてはめて理解して、はみ出た部分は捨象する」ってことではないの? 理解の枠組みをずらしたり変容させたりする勇気がカケラもないって言明しているようなもんではないの?

しかし、こういう個性のアーチストって男性ではあまり見ない気がするのはどういう訳か。個人的な大雑把な仮説としては、生物学的って言うよりは社会的な性システムの問題かと思っているのだけど(「男性性」へのプレッシャーがない状態がポジティヴに機能している稀少な例とでも言うか)。男性批評家諸君はそういう問題をこそ考えた方がいいと思うぞ。

スガシカオ『ファミリー』

「愛について」の歌詞と曲とを寿司ネタと酢飯のごとく噛みしめ、控えめにあしらわれたワサビに人知れず目頭を熱くする。



1999.1.19-23

1/19 心身ともにヨレヨレの状態から、ようやく立ち直ろうかというときにどんな音楽が役に立つのか。正直言って、頭で考えていてもまるで思い当たらない。手当たり次第に引っ張り出しては、頭の中で鳴らして、気乗りのしないものはそのまま棚に戻したりする。メセニーとかトニーニョ・オルタなんかは一見こんな時に良さそうだが、実は全然。心を落ち着けすぎて胸騒ぎがするとでも言うのか、カタルシス的な吹っ切れは全く期待できないのだった。

で、行き当たったのはスティーヴィー・ワンダーだった。やっぱり人の声がないとカタルシスは得られないものなのか。ひょっとしてそれは自分が歌うことの疑似体験ってことなのか。それにしても、この人のヴォーカルほど解放感を与えるものも、なかなかない気がする。

『オリジナル・ミュージックエリアム』(ベスト盤)、『キー・オヴ・ライフ(DISC 1)』などを聴く。曲単品としては「オーヴァージョイド」が好きだが、あのアルバムには「パート・タイム・ラヴァー」も入っているので、どうしても手がすくむなあ。

1/20 ケイト・ブッシュ『ハウンズ・オヴ・ラヴ』

ちと重かったか。でも「クラウドバスティング」の歌詞と力強いマーチング・ドラムで自分を鼓舞するのだ。

会社の同期で、最新のヒット曲をカセットテープに録って送ってくれる奴がいる。歌が相当上手い彼の動機としては、営業の延長で行くカラオケ用の情報集めなのだが、流行歌に疎い私などにネタをインプットする狙いもあるらしい(感謝_o_)。残念ながら、カラオケが好きでもなく滅多に行かない私には、狙い通りの役に立っていないが、ちょっと別の意味で重宝している。これを聴いておけば、流行っているくだらない曲を「くだらない」と自信をもって断言できるのだ。実際、この日聴いた中で良かったのはスガシカオの「ストーリー」(しかも、とっくに知ってる)だけ、他はまあまあ半分、聴くに耐えないクズ半分であった。ELT みたいな音程が正しいだけの歌って何でみんな聴くんかねー。

1/21 吉田美奈子『ミナコ・フェイヴァリッツ』

先週末に返し損ねた勢いで繰り返し聴いたりしている。自分的には1999年のドラマティックかも。

ディック・リー『マッド・チャイナマン』
スガシカオ『クローバー』

心の愛唱歌、「黄金の月」。もう私が歌詞など書く必要はないよなあ、と思ってしまう。10年間ほったらかしの曲に歌詞つける宿題があるのに。

1/22 トッド・ラングレン『ラント バラッド・オヴ・トッド・ラングレン』

トッドも全部聴くと凄い量と幅なんだろうけど、つまみ食いリスナーである私にとってのトッドは常に「歌」なのだった。例えばこのアルバムの「ロング・フローイング・ローブ」や「ウェイリング・ウォール」のような。と言いつつ過去アルバム単位でつまんだのは、これ以外は『アカペラ』とユートピア名義の2枚(うち1枚はビートルズのパロディ)だったりする。あとは『シングルズ』で概観。ポリシーなきつまみ食いのツケは、今となって「乏しい知識」として私に重くのしかかる。勉強は若い頃しておいたほうがいいわ(<森高千里)。

1/23 パット・メセニー・グループ『ファルコン・アンド・ザ・スノーマン』オリジナル・サウンドトラック
セミソニック『ストレンジリー・フィーリング・ファイン』

聴けば聴くほど、実は意外とパラノイアック。キャッチーなメロディとの落差で聴かせるというか。食事中には却って耳に引っかかり過ぎかも。



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