ループな日常
〜普通に聴いて考える
[1999年2月分]


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1999.2.19-28

あああ10日も溜めてしまった。この更新方法はもう無理かも。読みにくかったらごめんなさい。

2/19 トッド・ラングレン『シングルズ』

1989年頃までのシングルのA、B面全曲が並ぶ。B面ものにはトッドらしい意欲的なインスト曲なんかもあって実に面白い。こういうインスト曲も含めて、トッドは自分にとっては常に「唄」であって、だからこそ、何も聴きたくないときに聴きたくなる。詞も含めた全てを味わいつつ。パーソナルな呼びかけ、それも真摯な。

2/20 『Walt Disney Children's Favorite Songs Vol. 2』
ピチカート・ファイヴ「スウィート・ソウル・レヴュー」from『ボサノヴァ2001』
(1993)

半年くらい前に童謡に紛れてよく掛けていたのだが、最近息子のお気に入りとして復活。先を聴きたいのにこればかりループさせられる。ああ、最近の子はこうやって、何でも何度でも見たり聴いたりできると思って育つんだなあ、とちょっと心配になる。ビデオだともっと極端で、テレビを見ていても「もういっかい」と騒がれたりする。全ての出来事は一過性なのであって二度と全く同じには起こらないのだ、ということを意識して教え込まないと、その辺の感覚があいまいなまま育つこともあるんだろうか。そう言えば、アメリカで以前、一緒に遊んでいた友達を本物の銃で殺してしまった子供が、「(テレビゲームみたいに)また生き返ると思った」と言ったとか何とか、そんな話も聞いたし。

矢野顕子『ウィウィ』

これは何とか言いくるめて、最後まで聴かせることに成功した例。

ジョニ・ミッチェル『mis s es』

いかんいかん、これは明日図書館に返すんだから、気に入っちゃいかんってば。

2/21 ザ・ブーム「島唄」from 『The BOOM』(ベスト盤)

これも「スウィート・ソウル・レヴュー」同様、最近突如復活。しかし、以前は凡百の沖縄趣味の曲をはるかに凌駕すると思っていたけど、今聴くとかなり不満。というか、これはこれで納まる場所があるのだろうけど、やはり文脈を欠いている感がなくもなし。しかも、それを宮沢和史が自覚してその後の道を進んでいるならともかく、以前読んだ彼の本では、今でもこれは彼にとって特別な曲なんだそうだ。それはちょっとどうか、と。

矢野顕子『ウィウィ』
ジョイス『フェミニーナ』
(1980)『水と光』(1981) [2 in 1]

陽差しが暖かいとつい掛けたくなる。というだけではまるでブラジルに対するオリエンタリズムだが、殊このCDについては事情が違う。あくまでも、そういう気持ちにさせるのは冒頭の曲「フェミニーナ」にある。女性であることとは、を女性である自身の立場から、簡潔な力強い比喩で歌い(引用しませんが是非ご一読をお薦めする)、テンポの速いボサノヴァで軽快に疾走するこの曲には、晴れた空と陽の光こそがふさわしい。

スガシカオ『クローバー』

2/22 『ベストCDコレクション バート・バカラック』

久々に原点に戻って。A&Mから出ている、バカラックの1980年頃までの自作自演からのコンピレーション。自らヴォーカルを取る「Make It Easy On Yourself 」「A House Is Not A Home」も聴きものだが、ここは何と言っても「Close To You」の自演版に尽きる。有名なカーペンターズのヴァージョンと違い、ここは3連でなく8ビートで淡々と進む。そして終盤にあっと驚くクライマックスが...説明省略。関心のある人は是非ご一聴を。

イービーティージー『Walking Wounded』(1996)

Everything But The Girlだけだろうか、何だかんだとデビュー盤からのフルアルバムが全部揃うのは。これも自分には原点の一つだが、バカラックと違って自分の音楽にとって「参考になる」気がしたことは一度もない。でも目が離せない存在。ドラムンベースの大衆化を推進するのに一役買ったと言えるこの作品は、何故か夜の東京の街並によく馴染む気がする。彼ら自身日本が好きでよく東京にも来ているということもあるのだろうが(こともあろうに前作『アンプリファイド・ハート』では古川橋あたりとおぼしき交差点の写真が使われていた)、敢えて言えば彼らの「細部の仕上げが丁寧で」「テクノロジーに裏打ちされていて」「それでいて何かひどく内向的な」表現というのが、華やかなのに所在なげな東京の夜にマッチするとでも言えようか。

2/23 カーティス・メイフィールド『ニュー・ワールド・オーダー』(1996)

そういえば01さんも推してたなあ、と思いつつ借りたもの。ふんふん、なるほど良質...と思って聴いていたら、ラスト3トラックくらいから一気に感動がこみ上げる。本当にスウィートなものはかくも力強いのか。夢中になって繰り返し聴いてみる。と、楽曲の幅の広さ(レゲエを採り入れたものもあり)と歌詞の誠実さに気付いたり。聴くたびにふくらみを増していく音楽。

2/24 カーティス・メイフィールド『ニュー・ワールド・オーダー』
ユナイテッド・フューチャー・オーガニゼーション
(1993)

さて、この音楽は聴くたびに違う顔を見せてくれるだろうか。どうもそういう気がしない。UFOは以前人に少し聴かせてもらって、「あ、これは合わんわ」と思ってそのままにしていたのだ。おまけに、UFO矢部氏がどこかで書いていた「クラブ文化の可能性」に関する一文を読んだとき、その音の記憶と重ね合わせてすっかり白けてしまったのだった。語りかけずにひたすらバックグラウンドを形作ろうとする音楽。それを作る人が、クラブをインタラクティブな場として語り、ささやかなレジスタンスの発信源としての期待を表明する。いや、単に私はそうはしない、という意味でしかないのだ。無闇に否定すべき筋合いのものではない。だが、何か空しい。

トニーニョ・オルタ『Terra Dos Passaros』

1976-79録音の幻のファースト、とは言うが、かつてアナログで発売されていたのかどうかもよく判らない。ふっ、と聴きたくなって掛けてみたところ、真夜中にも結構いい。不思議な浮揚感、解放感。ディストーションかけたトニーニョのギター、というのも新鮮。

2/25 坂本龍一『未来派野郎』(1985)

今日は事情があって遅出の日なのだ。家事片付けBGMとして久々に掛けてみる。「ブロードウェイ・ブギウギ」の気っぷの良さは今でも特筆ものである。発売当時は笑えてしまったコンセプトも今となっては意味深長ですらある。マン・マシン・インターフェイスの見る血気盛んな夢と、そのヤバさと。

パット・メセニー・グループ『イマジナリー・デイ』(1997)

いつもより空いた電車で出勤。頭の中が仕事で占拠されている状態のときは、本を読むのは苦痛だし、ヴォーカルものを聴くのもつい言葉に引っかかって上手くない。いや、もっと言えばあらゆる音楽は自分にとっては何らかの「語りかけ」を成してしまう以上、本当は何もしたくないのだが、一方では電車の中の環境を遮断したいこともあって、とりあえずの1枚を引っ張り出してDISCMAN に装填して行く。...やっぱだめ。特にこのCDは語りかけるエレメントを沢山、かつ精巧に埋め込んでいるので気が散ること甚だしい。無理して意識的に聞き流す。ああもったいない。ただ、中でも最終トラック「アウェイクニング」だけは、いつどんな時聴いても心躍る曲だ。ベースは一応ケルティックとはいうものの、あらゆる地域の3連符系3拍子が交錯して織りなすかのごとき生命の交歓。

2/26 ミルトン・ナシメント『ミナス』 (1975)

アルバムを通して、収録曲の一つ「パウラとベベート」のフレーズが児童コーラスで浮かんでは消えていくという、不思議な仕掛けを持ったトータル・アルバム。彼の70年代の作品は明らかなビートルズやサイケデリック・ムーヴメントの影響が残っているが、それが息の長い一連の語りの中に溶け込んでいるこの作品や『Milagre Dos Peixes』(1973)などの作品の持つ独特の雰囲気は特筆に値する。非常に単純な連想だが、ガルシア=マルケスの小説の語り口のうねりを思わせるものがあるような気がする。

2/27 『たのしいどうよう ベスト50』DISC 2
ザ・ブーム「島唄」

飽きた。飽きたよう。

オムニバス『ベリー・スペシャル・クリスマス』

子供が熱を出して看病。親は言いなり状態。だからこんなものまで掛ける羽目に。

ピチカート・ファイヴ『ボサノヴァ2001』

息子を言いくるめ、ようやく全曲かけることに成功。

久々にN響アワーを見てみる。常任指揮者のデュトワが振る『ペール・ギュント』。何だかひどくお上品にまとまってしまっているのだ。舞曲の部分はもっと野性味があってほしいところだが。デュトワは(何だか芸風が固まりすぎて最近は興味も失せてきたが)、リズム処理に最大の特徴がある指揮者で、徹底してタイムを合わせること、リズムを無闇に揺らさないことにより、ラヴェルの一部のスペイン色の強い作品などでは圧倒的な力を発揮するのだが、この曲はそれが裏目って軽すぎるのか。いや、それだけではないかも。モントリオール響はきらびやかな管とパワフルな打楽器を具えていたが、N響の個々のセクションの音色や鳴り方というのは、良くも悪くも優等生的で、表面の仕上がりは綺麗だがおとなしい。それをやたら拍を揃えてしまったら、意外とのっぺりとした音に仕上がってしまった、ということではなかろうか。

ラヴェル『ラ・ヴァルス』デュトワ/モントリオール響

というわけで聴いてみたが、これは1996年6月に見に行った来日公演が最高だった。録音版は仕上げに迷いがある。グルーヴが足りない。

2/28 ラヴェル『ラ・ヴァルス』
『ピアノ協奏曲ト長調/左手のためのピアノ協奏曲』
ロジェ(Pf)/デュトワ/モントリオール響

思えばクラシックに再び足を(耳を?)突っ込むきっかけとなったのがこのCDだった。そもそも『左手』を聴くために買ったのだが、ハマったのは『ト長調』の2楽章、息を呑む美しいラルゴ。今でも一番好きな曲と言っていいかも知れない。タッチの差でスティーヴィー・ワンダーの「Come Back As A Flower」(『シークレット・ライフ』所収)が続く。ロジェも一度来日公演に行って「しまった」と思ったが、この録音の頃は一番脂が乗っていたのではないかと思われる。リリカルでその上よく指が回る回る。

ピチカート・ファイヴ『スウィート・ピチカート・ファイヴ』(1992)

息子が引っ張り出してきたので見てみるとコレ。ジャケットの色使いに惹かれたらしい。これ幸いとかける(笑)。

ピチカート・ファイヴ『オーヴァードーズ』(1994)
ユナイテッド・フューチャー・オーガニゼイション

夜中に掛けてみる。夜中だけしか選ばない音楽。



1999.2.12-18

2/12 ニール・ヤング&クレイジー・ホース『スリープス・ウィズ・エンジェルズ』

スリーコードみたいなもんなんだけど、豊かな音楽。「だけど」ってのは変だなあ。要はスリーコードかどうかというのは、さして重要な問題じゃないということ。それは枠組みであって、そこから先が問題。

U2『B-Sides/ベスト・オヴ・1980-1990』

ん、先日ポータブルプレーヤーが針飛びまくったのは盤のせいだったのか。何だ。でもこうやってコンポで掛けると問題ないのである。返品に行っても瑕疵の証明ができないし、こういう場合どうすりゃいいんだろ。

それはともかく、U2ベスト盤の限定2枚組のDISC 2はシングルB面集である。DISC 1のハイ・テンションとは対照的に渋めの曲が並ぶ。食事中なのでボリュームを下げていたのだが、BGMとして妙にハマる。確かに全トラックの半分くらいはイーノがからんでるけど、特段BGM向きの曲って訳じゃない。それでも小音量で聴くとそうなる、というのは、それが聴く側の聴き方、聴くものにとっての聞こえ方を明らかに変えているということ。そう言えば、それを初めて意識的に音楽表現に組み込もうとしたのもイーノだ。

パット・メセニー・グループ『トラヴェルズ』

ミルトン・ナシメントの盟友のパーカッショニスト、ナナ・ヴァスコンセロスとの出会いから大きくブラジル方面に傾き、やがて『スティル・ライフ』という傑作をものにする長い旅の、その始まりとも言うべき1983年の2枚組ライブ。いわゆるフュージョン的な語法・サウンドからの決別の萌芽と、それへの愛着とが微妙なバランスで入り交じる。

2/13 パコ・デ・ルシア『炎』『フラメンコ・ギター・ベスト』

1988年リリースのベストのタイトルに注目。『パコ・デ・ルシア・ベスト』ではないのである。リーフレットにもパコの紹介文はかけらもなし。全く何考えてんだろうかフィリップス。選曲も「シェリト・リンド」「コーヒー・ルンバ」「ベサメ・ムーチョ」と言った中米ナンバーが、「マラゲーニャ」などフラメンコの定番ナンバーと伍する比率で並ぶ怪盤。でも恐るべき快演。

『炎』(1978)は今世紀初頭のスペインの作曲家、マヌエル・デ・ファリャの作品をギターに翻案したもの。有名な2つのバレエ『恋は魔術師』『三角帽子』からの曲が中心だが、個人的には原作よりこの超絶ギターデュオ版(もう一人は実兄ラモン・デ・アルヘシラス)を推す。オケ版にはないリズム処理の鋭さ、一息で弾き切るパッセージのうねりに酔え。

矢野顕子『ウィウィ』

そんなに好きか「じんじん」。でも「ねこちゃんのうちゅうのほしのうたなの」とか言ってるし。子供の勝手な解釈もここまで行くと壮絶である。

2/14 『たのしいどうよう ベスト50』DISC 1
『Walt Disney Children's Favorite Songs Vol. 4』

風呂に早く入れようと思ってお目当ての曲までスキップすると怒るし。ほんまにもう曲順なんか気にするなっつうの。

2/15 キンクス『トゥ・ザ・ボーン』

1996年発売の2枚組ライブベスト。これもXTCに続いてお勉強モード。...はい、図書館行って来ました。ってか、本借りに行くとついでに借りてしまうのである。

XTCも影響を受けたと言っているキンクスだけど、素直で繊細なバラードとか多い、実際は。1980年代前半のヒット「ドント・フォーゲット・トゥ・ダンス」「カム・ダンシング」は、キンクスと知らずに聴いてたなあ。若っ恥。

2/16 キンクス『トゥ・ザ・ボーン』
電気グルーヴ『ビタミン』
(1993)

このころようやく電グルのことを知って、聴こうと思っているうちに『ドラゴン』が出てそっちに行ってしまったので、今頃ようやく。『ドラゴン』は良くも悪くも重かったけどこれは軽いわ、いい意味で。ただ、その中でもシングルになった「N.O. 」は、アルバムで聴くといくら何でも軽すぎ。何でこんな曲出したんかなあ。誰の差し金の戦略だったのか。

『Walt Disney Children's Favorite Songs Vol.2』

2/17 電気グルーヴ『ビタミン』
パフィー『ジェットCD』
(1998)

買ったら満足してしまってあまり聴いていなかった、ということを思い出して。でもやっぱいい、これ。奥田民生が自分の声ではできないことを大体やってるんじゃないかと思うほど。で、ヘッドホンで聴くと実は結構しょぼい音使ってたりする。それがまた面白いんだが。生ストリングス調達する金がない筈もないから、わざとなんだろうか。

『たのしいどうよう ベスト50』DISC 2

2/18 ジョニ・ミッチェル『Mis s es』

至高の裏ベスト。邦題? 忘れた。(笑)

オムニバス『魂の大地』(1996)

アイルランドの大物プロデューサー/ミュージシャンであるらしいドーナル・ラニーのプロジェクト。U2のボノ、クラナドのモイア・ブレナンらも含む錚々たる面々が集まり、「現在形の」アイリッシュ・ミュージックを聴かせる。

面白いのは、これ決して単純なルーツ回帰趣味ではないということ。敢えて言うなら、ルーツにあるリソースを使って、今どんな面白い音楽が出来るか、というアプローチだろうか。実際、参加アーチストにはニュージーランドのフィン兄弟も居るし、そもそもラニーの得意とするギターに似た楽器で、今やアイリッシュ・ミュージックで重要な位置を占めてさえいるらしい「ブズーキ」は、ギリシャの民族楽器を彼が改造したもので、アイルランドの伝統楽器でも何でもないのだ! 「伝統音楽」という言葉にまつわりつく本質主義の胡散臭さを笑い飛ばすような痛快な実践がここにある。

ドビュッシー『練習曲集』『喜びの島』ほか クロスリー(Pf)

たにぐちさんと演奏についての話をしたのでドビュッシーを引っ張り出してみたが、思ったより手持ちのディスクが少なくてショックを受ける。何と有名な『前奏曲集』がない!2通りくらい 借りて聴いてそれっきりなのだ。買わねば買わねば。

ところでクロスリーの演奏は良く言えば分析的、悪く言えば色気のない、ブーレーズの指揮のような感じで、『練習曲集』の人を食った音運びにはマッチするが、他はちょっとどうかな。



1999.2.7-11

2/7 スガシカオ『ファミリー』

っても出掛ける支度しながらなんで聴いてたんだかどうだか。

家人の行きつけの美容院に初挑戦する。スタイリストのI氏は、聞きしにまさる強靭さを見せる私の髪に闘志を燃やしたらしく、ガチガチにロットを巻き、思いっきり薬液をかけまくり(それも2度塗りじゃなかったろうか)、遂に彼らしい、センス溢れる髪型を作り上げてくれた。んーでも強いて言うなら如何せん私の顔はデカ過ぎる(笑)。

こういう店ならではの雑誌(「ブルータス」「スタジオ・ボイス」など)をぱらぱらと。そんな中に大場正明が最近の映画や音楽に絡めてサバービア論を書いた一文があって(「SWITCH」どの号か忘れた)読んでみる。懐かしいなあこの人、在りし日の『CityRoad』の常連ライターで一番好きだった。だがこれはちょっと物足りなかった。日本の読者にとってアメリカのサバービア幻想の崩壊は身近なテーマではないはずだが、それを日本での問題意識にうまく接続しようという試みがなされていない。さすがはハイブラウ・スノッブ雑誌用の記事か。私は個人的に興味あるテーマだから読んだけど。

まあ確かに、アメリカン・ファミリーの理想像としてのサバービアというイメージの抑圧性はすごくあって、その矛盾がレーガン政権以降徐々に再浮上して来た経緯は多分その通りではないかと思う。そんな中で、そのイメージ(例えばスポーツマン!)に適合できない若者が強い閉塞感をいだき、大都市スラムの黒人の状況と自らを重ね合わせてイメージしているとの指摘も興味深い。興味深いし鋭い指摘だとは思うが、所詮それらは、実は精緻な階層社会であるアメリカのごく一部分の話に過ぎず、それだけではこの狂いつつある巨大なメカニズム---それはアメリカという枠をはるかに超えているのだが---の病巣の深さに届いていないように思うのだ。

大工哲弘 (1995)

沖縄きっての唄っしゃー(民謡の歌い手)との評価も高い彼は、ジャンルを超えたコラボも幾つか発表しているようだが、これは原点の島唄に立ち返っての一枚。結局、買って一週間聴かずにいた。これは落ち着いて聴きたかったのだ。

今まで聴いた彼の唄は、1970年代半ばに竹中労が編んだシリーズで聴いたのと、最近録音された『誇(ふくい) 』の2つで、そこから得ていた印象は、張りの強い声で一本気に唄う人だなあといったくらいで、大した感慨はなかった。それは、前者が若々しい唄いっぷりが前に出た録音だったことと、後者は祝いの唄に絞った選曲と唄の生真面目さが今一つ馴染まないように思えたことのせいだろう。

今回、月にまつわる唄を中心に編まれたこのCDを聴くと、その生真面目さが並々ならぬ覚悟に裏打ちされていることに気付く。それは例えば、彼の弟子でもある安里勇が同じ曲を唄うのと比べれば、安里が風に漂うように、夜の空気に溶け込むように唄うのに対し、大工は彼を囲む夜といい月といい、その全てと凛として対峙している、断固として人間の唄を唄うのだというのっぴきならなさが感じられるのだ。決してそっちのほうが上だとか言うつもりはない。ただ、大工の唄が凄みを持つのはまさにそういう瞬間だろうし、それを捉えるのにこのCDの選曲はうってつけだとは思うのだ。

2/8 ジョニ・ミッチェル『永遠の愛の歌 ジョニ・ミッチェル・ベスト2』

だああああ何で『ベスト1』と同じ(しかも原題と関係ない)邦題つけるかね。あまりにも芸なさ過ぎ。原題は"Misses"、つまりレアな名曲集と言うことで、"Hits"と題されたもう1枚のベストとは一対を成す。

いやあ最高っすよジョニ自選の「裏ベスト」。こういうもんが「孤高の歩み」にならざるを得ない音楽産業の実状とは何なんでありましょうか。単により強い刺激を求め続けるマス市場経済の狂騒、って言葉が頭に浮かぶ。電子音とか打ち込みとかを熟考の上で取り込んでゆくジョニの姿勢というのは、商業的には単なる「地味」でしかないのだろうが、しかしそういうテクノロジーの変化をバックに益々際立つ強靭な個性---それはメロディラインとも、唄いっぷりとも、はたまた声の質とも弁別し難いのだが---には驚嘆してしまう。

それから、彼女のこうした慎重なアプローチから紡ぎ出される、あたかも人跡未踏の荒野に人ひとり立っているかのごとき遠近感のある音は、メセニーやフリートウッド・マックなどとあわせて一つの指向性を作り出しているように思える。それは譬えるなら、「アメリカの典型的なサバービアの裏庭にぽっかりとひらけた、エアポケットとしての中西部の無限の荒野」といった感じか。サバービアの若者たちの閉塞状況はかなり前から指摘されてはいたが、それを打開するもう一つの、巧まざる回路としてこれらの音楽はあったのかも知れない。あ、だから商業的には今一つだったりするのか(除フリートウッド)。

2/9 ニール・ヤング&クレイジー・ホース『スリープス・ウィズ・エンジェルズ』

これも長い懸案で、ニール・ヤング(それも比較的近年の)を少し聴き込もうと思っていた。でも、これ(1994年)がスターターに相応しかったかどうか。彼の作品としては特異な位置づけなんだろう、やはり。解説(中川五郎)は、カート・コバーンが彼の歌詞の一節を書き記して自殺したことの影響を読み取ろうとしすぎては見誤る、と言うが、それによってもたらされたであろう歪みと詠嘆とを聴き取るなという方が難しい(特に「チェンジ・ユア・マインド」の長い、永遠のごとく長いリフレイン)。この一つ前の『ハーヴェスト・ムーン』と比べてみたいと思う、そのうち。

パット・メセニー『ニュー・シャトークァ』

カントリー・フレーバーが最も顕著な1979年の一人多重録音ソロ。サバービアの自宅の裏庭に腰掛けてギターを掻き鳴らしながら、ミズーリの空とその向こうにある世界と、音楽の可能性とを考えていたメセニー少年に思いを馳せてみる。

2/10 ジョニ・ミッチェル『永遠の愛の歌 ジョニ・ミッチェル・ベスト2』

もうこの邦題イヤ。禁止(笑)。次に出てくるときは原題表記に決定。

2/11 オムニバス『ベリー・スペシャル・クリスマス』(1987)
『Walt Disney Children's Favorite Songs, Vol. 4』

息子と留守番。今日は家人が髪結いである。雪がやや強く降る間は家で遊ばせる。だからって訳ではないだろうが、時期外れのクリスマスCDをリクエストされる。ポインター・シスターズとかジョン・クーガー・メレンキャンプ(当時)とかが好演。



1999.2.1-6

2/1 自分で編集したオムニバスのカセットなど聴く。売り払って今は手許にないCDの曲とかあるなあ。デズリーとか(説教する歌詞って耐えられん)、スティーヴィーの『カンヴァセーション・ピース』とか(タイトル曲以外ほとんど良くなかった)。アルバムという単位で流通するというオブリゲーションも何だかなあ、などと思ったり。

2/2 Misia『マザー、ファザー、ブラザー、シスター』

名前も仮名書きしたいんだけど、それじゃ小熊だもんねえ(笑)。
ジャケットをスガシカオ『ファミリー』と並べて置いてみる。これ、同じデザイナー(信藤三雄)だからという以上に似てるよなー。背面を縦使いにして、色無地の左下隅に小さいゴシックの白抜きで曲名、それもトラック番号は全て2桁表示(例:"02")。同日発売(98.6.24)の2枚でデザイン使い回しはまずいんじゃないのー。両者から相当怒られたんじゃないかな、信藤氏は。まあ広告業界ではこういう話よくあるって聞くけど。でも売れっ子デザイナーの名が泣きまっせ、これでは。情けない。

それはともかく音はどうかというと...どうして無理やりヒップホップの延長上に位置づけようとするのかねえ、音作り。和製リサ・スタンスフィールドで何が悪い?その線も結構いけると思うがなあ。という訳で頭ん中「ネヴァー・ゴナ・クライ!」のストリングスアレンジが回りっぱなしである(鷺巣詩郎カッコいい!)。

もう一つ。マライア風の超ハイトーンの多用と、裏声でしか出ない高音(一つ上のDあたりから)を使わせるのはどうか。本人が曲書いてて「どうしても」って言うならまだしも、ほぼ全曲他人の筆だからなあ。少なくともこの傾向の曲では、彼女の高音はパンチ不足(鍛えればまだ伸びるのかも知れないが)。チームプロジェクトなら、もう少し考えて曲を提供すべきでは。ともかく、これが1stでもあるし、プロダクションにも迷いがあるのでMisiaはまだまだ未知数と見た。次作でどう出るかも一応注目しておきたい。

2/3 XTC『シングルズ・コレクション 1977-1992』

2枚組。久々のお勉強モード。何で今までちゃんと聴いてないの? と言われても返す言葉がない。学生の時分には熱狂的なファンまで身の回りにいたのに。「ひねたポップス」というレッテルが邪魔して、そう聴いてしまってたんだろうなあ「タワーズ・オヴ・ロンドン」とか。若かったあの頃。

ううう、それにしてもこんないいものを何で今まで〜。今聴くとひねてるどころかもう求道的に良心的ですらある。「ポップスはやり尽くされた」とか「ドレミで出来ることは出尽した」とか言ってる人には是非聴いてほしい。まだあるでしょうが、出来ることは。ポップソングをここまで突き詰められずにダラダラと流れていたのが、最近リヴァイヴァルのあった所謂「80年代ポップス」だったのだと思う。あれ聴くんならこっちを聴こう(でも一部の80年代ヒットは捨て難いが)。

矢野顕子『ウィウィ』

ひょんなことで息子が「じんじん」を思い出しリクエスト。こういう繰り返し言葉はやはり子供には楽しいらしい。「じんじん」がホタルのことだなんて知る由もなし。

2/4 XTC『シングルズ・コレクション 1977-1992』

演奏終了直前に「ピー」と音がして電池切れ。何故だあっ。満充電で8時間再生の筈が。うーん電池換えるくらいならプレーヤー丸ごと買い替えだな。

Misia追伸:でも楽曲も物によって今一つなんだよなあ。何故なのかと考えると、どうも鍵盤叩いただけで作ってるメロディラインというか。すっごく唄いにくそうで、聴いてても不自然。プロダクションの迷いってだけでなく、作家とシンガーの乖離も実はあるか。

それと、ヒップホップに接続しようとあがいてる音作りについてだけど、「つつみ込むように...」のビデオクリップも「どう? ヒップホップっぽいでしょ」と言わんばかりの画作りで結構イヤだったな。ちらっと見かけただけだけど。何か、「ヒップホップやる人は皆、肌が浅黒い」とか「ヒップホップのダンスは、だらーんと踊る」というステレオタイプをどどーんと盛り込んでて。商業的に吸い上げた上に、そういう他者イメージを固定化するって、もろコロニアルな感じ。(この辺のことについては、ここも参照した方がいいかも)

2/5 XTC『シングルズ・コレクション 1977-1992』
ケイト・ブッシュ『レッド・シューズ』

ところでXTCシングルズには "Fossil Fuel" (化石燃料)つう立派なタイトルがあるのである。訳して遊べばいいのになあ。「どっこい化石は燃えてるぜ!」とか。あ、でも本人たちが言うならともかく関係者やファンとしては言いたくないよな。

2/6 『Walt Disney Children's Favorite Songs, Vol. 1』

リクエストにより3回連続。目玉は「線路は続くよ」(の当然英語版)である。しかし以前は単品ループだったことを考えると、CD1枚通して掛けさせてくれるようになっただけ格段の進歩である。

夕方に2週間ぶりに図書館へ。これから読書モードに入るのだ、ということでメモしてあった本を片っ端から検索。書架にあるものはそのまま借りていこうと思ったところ、あったのは稲葉振一郎氏の『ナウシカ解読 ユートピアの臨界』1点のみ。音楽関係の本は全てよその館の蔵書なので、数点予約を入れる。『レコードの美学』に至ってはどこにもない。買った方がいいですか>マスダさん



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