お気楽CDレビュー
図書館天国:書き捨て御免


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1998年上期のメモ

ここ暫くは忙しくてCDを借りにも行っていません。ついだらだらと同じ曲ばかりループする怠惰な快楽にデフレスパイラルしていく毎日。このコーナーは本当に続くのか? 乞う御期待。


スマップ「SMAP 011:『ス』」

「ダイナマイト」が聴きたくて借りたが、何とこの他に作家陣にはナイル・ロジャース、スガシカオ(この曲がめちゃくちゃ良い!)、フィッシュマンズが顔を連ねる。何というハンディなアルバム。もちろん、「セロリ」の山崎まさよしもいる。


ライル・メイズ「フィクショナリー」
Lyle Mays: Fictionary

今まで聴いたどんなピアノトリオアルバムよりも上質な気がするが、何で世間ではこんなに話題にならないんだ? メセニーのサイドマン扱いでは可哀想である。コンポーザー・アレンジャーとしてはもちろん、インプロヴァイザーとしても超一流なのは一聴瞭然。


佐野元春「スウィート16」
Sweet 16

うーん、これは、「ナポレオン・フィッシュと泳ぐ日」の時と同じ目に遭ってしまったみたいですね。あの時も、詩の力強さとロックンロールへの回帰、とか言って最高傑作扱いする奴がいて、それで聴いたら期待外れだったのだ(「約束の橋」はよかったが)。今回もそうだ。それに詩の力で言えば、「ナポレオン・フィッシュ...」の時より格段に落ちている。何が問題なのかと言えば、実は「主語」だったりする。「きみは...」というのが、このアルバムにはすごく多いのだ。それも、「ぼく」と同等の、交換可能な「きみ」ではなく、話者よりずっと若い「きみ」。身も蓋もなく言ってしまえばそれは、おじさんが共感たっぷりに若者のことを書いている、という、いわば「ひとごと」路線。今(このアルバムの時点で)36歳を生きているあんた自身の問題はどうなんだ、そっちのほうがずっと切実だろう、と言いたくなる。若者になりすまして知ったかぶりで書くよりも、ずっと深く今という「同時代」を掘り下げられるはずだと思うが。


ルイジ・ノーノ Luigi Nono「カノン風変奏曲」「無限の可能性を有した建築家、カルロ・スカルパに」「進むべき道はない、だが進まねばならない〜アンドレイ・タルコフスキー」

美しい。電車の中でDISCMANなんかで聴くんじゃなかったなあ。ピンと張り詰めた静寂の中で、じっくりと向き合いたいピアニシモを持った曲たち。あの「力と光の波のように」のほとばしるようなエネルギーとは対照的だ。


湯浅譲二「ヴァイオリン協奏曲」 芥川也寸志「響」 武満徹「弦楽のためのレクイエム」

湯浅の協奏曲は素晴らしい。武満の晩年の表層的な瞑想っぽさに比べると、何と息の長い、深い沈潜であることか。ほとんど完璧といっていい書きっぷりだが、敢えて一つ言うとすれば、途中あからさまな盛り上がりを見せる箇所が2つほどあって、劇伴書きの癖が出たかという感じで苦笑した。だがまあ、この曲が映画好きで劇伴を書きまくった武満の追悼と思えば、それも微笑ましいか。

しかし芥川の「響」はひどい。頼まれ劇伴のようながさつな書きっぷりだ。彼はやはり鋭利なオスティナート書法をベースに書いた曲の方に真価を感じる。

併録の武満「レクイエム」は可もなく不可もない出来。若杉の指揮なので期待したが、ちょっとがっかりした。


西村朗「ケチャ」「ターラ」「瞑想のパドマ」「レゴン」「ティンパニ協奏曲」

ケチャ、ターラ、レゴンは本当にいい曲。ただ、これが評価された背景などを考えると、素直に誉め切れない感じだ。ケチャは1980年に「ユネスコ国際現代作曲家会議」で最優秀賞に輝く。だが、もともとずっと昔からケチャの演奏を受け継いできたバリの「音楽家(?)」たちはどう思うのだろう。ケチャを徹底的に要素還元して組み立て直した、サイボーグのケチャとでも言うべき曲を。


シュニトケ「ヴァイオリン協奏曲第2番」「同第3番」「聖しこの夜」「祝賀ロンド」
ギドン・クレーメル(Vn)

お友達だからしょうがないのだろうが、クレーメル。シュニトケを弾いてりゃいいってもんでもあるまい。協奏曲2曲はどちらも凡庸な作品と言っていいのでは。3番は多様式への過渡期的な作品で、実に暗く自信のない出来に聴こえる。むしろ、前衛そのまんまの2番の緊張感の方が聴き応えがあるくらいだ。

それからシュニトケでわからないのは、時々「祝賀ロンド」のような、ほとんど何の変哲もない擬古典の作品をものすることだ。まあ、旧ソ連でうまくやっていくために、こういうのは仕方がないのか、あるいは単なるプライヴェートな趣味か。

唯一、よかったのはネジが外れたかのような「聖しこの夜」。このどす黒いユーモア。


川本真琴

これは、もっと岡村靖幸趣味(「愛の才能」が彼の作曲なので)が全編に行き渡っているのかと思って聴いたが、そうではなかった。70-80年代ブリティッシュロックの現在20歳前後的な再解釈。本人の意識としてはギターバンド系なんだろうけど、でもメロディの意外さが結構ケイト・ブッシュだったりするのは発見だった。一つ、歌詞の乗せ方が無理&舌足らずっぽいのがどうしても気にはなるが...歌詞の内容は結構くるなあ、私には。(で、買った。)

追記:このあと、シングルの「桜」がでたけど、完全にこの1stの「ひまわり」の焼き直しだった。心配してたとおり、何だかもう使い切られちゃったような。


大貫亜美吉村由美「ソロソロ」
SoloSolo

まず大貫亜美だが、奥田民生が自分とお友達の外国人ミュージシャンとで曲を提供し、実に奥田テイストのロックアルバムということで基調が統一された仕上がり。でも、何だか飽きるなあ。何だろう。コンセプトの弱さか。

かたや吉村由美。コーザノストラの桜井鉄太郎がプロデュースということで、ポスト渋谷系のおしゃれっぽいクラブミュージックといった風情。でも、私はコーザ桜井の曲って、人工的すぎてだめだな。小手先っていう感じが、2回目くらいになるとありあり伝わってきてしまう。唯一面白かったのが、結局ピチカート小西の書いた「バケーション」だった。


リゲティ「ピアノ協奏曲」「ヴァイオリン協奏曲」他
リゲティ「ピアノのためのエチュード」他

別途「ポストモダンは既に無効か?〜リゲティの近作をめぐって」を書きました。


ピチカート・ファイヴ「ハッピー・エンド・オブ・ザ・ワールド」
Happy End of the World
1998.5.12

内容の薄さ、空回りする自己宣伝...小西はどうしてしまったのか。"Pizzicato Five."と言う台詞の数が聴覚的には前作の10倍くらいに膨れ上がっている。そうまでして自分を鼓舞しなければ、アルバム1つ作れないのか?...内容からすると、そうかも知れないな、と思う。ピチカートはソングライティングこそがその生命線だったのに、シングルカットされたもの以外は楽曲そのものが良くない。その上、過去の素材や他の曲の一部を引き延ばしただけで作った穴埋め的な曲が13曲中4曲。特に"Baby Portable Player Sound"は醜悪の極み。何とかしなさい。

擁護する向きもあるんだろう。ヒップホップ/ラップの手法に照らして、「自分の名前を鼓舞するのはアジテーションの一つのやり方」「曲の一部を引き延ばしたり、過去の素材をエディットするのは当然」。それで済まされるような出来か?

あるいは、これはクラブプレイされることを前提に素材を...などという見方もあるのかも知れない。だったら構成なんかなくていいじゃん。こっちはその気で聴いちゃうよ。

もう一つ考えたいのは、意図的な悪趣味あるいは露悪趣味だ。かつては意外なモノを引用してきても、その背景には戦略的な確信が感じられた。そもそもバカラックへのオマージュ、ハウス/ヒップホップ的手法への傾倒などは全てそうした戦略性の上に位置づけられるものだ。フランス趣味、というのがちょっと意外に思われるかもしれないが、彼のゴダールへの傾倒ぶりと、ゴダールから彼が受けたであろう手法・戦略面での影響を考えれば納得が行く。前作「ロマンティーク96」あたりから雲行きが怪しくなって来た。ラテン調の「3月生まれ」やチープなトラッド・テクノ風の「サウンド・オブ・ミュージック」はどうにも浮いていたような気がする。その後2枚ほど出たミニアルバムも、方向性をつかみあぐねているのがありありだった。そして、今作では、ついに「高度成長期歌謡曲」の登場、自身のグループ名の連呼、メディテーションのパロディとも本気ともつかないパスティーシュ、ヴィジュアル面ではハングル文字とパチンコ・パーラー。どう受け止めればいいというのか?


矢野顕子「ウィウィ」
Oui Oui

買うぞー。(買った。)
前作「エレファント・ホテル」では、曲数が増えた分、何だかパワーダウンしたように感じられたが、9曲45分に絞ってきた本作は健在ぶりのアピールというレベルを遥かに超えて、今なおこのような傑作をものにする鬼才ぶりには、もはや脱帽するしかない。お手のもののスタンダード・カヴァーは何とベンチャーズの書いた「京都慕情」からスタートし、どう聴いてもチャンプルーズに勝ってしまっている「じんじん」、シングルカットされた槙原敬之編曲のキャッチーな「クリームシチュー」へと続く流れの隙のなさ。

「シチュー」には実は期待していなかった。サビだけよくTVで掛かっていたのを聴いて、しょせんCM曲だなあと思っていたのだ。不覚だった。涙腺が緩んだ。糸井重里とは一体どういう奴なんだ。あの破綻したお子ちゃまのような行状の数々からは想像できないデリケートな歌詞。もう少しこっちの仕事の比重を増やしたら、奇行・愚行の数々も「アーチストだからねえ...」で済ましてもらえるんじゃないか? それからマッキーのアレンジのはまり方も並ではない。もともとマッキーの作品には、詩のタイトルや言葉選び、そしてコード進行やアレンジに至るまで、矢野へのオマージュが散見されててはいた。それが「どんなときも。」や「No.1」といった作品では見事に結実していたように思っていたのだが、この2曲をないまぜにしたような「シチュー」のイントロを聴くと、ああ、あれら全ては結局このためにあったのねえ、と思わずにはいられない。食われてるぞ、マッキーしっかり。


パット・メセニー「天国への道」オリジナル・サウンドトラック
Pat Metheny: Passaggio per il Paradiso

今一つですなあ。さすがのメセニーも、やっぱり3週間でサントラ1本てのはちょと荷が重かったか。サントラの定石である、いわゆる「ライトモチーフ方式」を採りながら、テーマの種類の少なさ、その展開の幅の狭さ故に、とてもアルバム1枚持たない。



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