お願いだから、走っちゃダメ |
〜 Teotihuacan |
「テオティワカンはメキシコシティよりもさらに標高が高いところにあります。くれぐれも無理はしないでくださいね」 月の広場に集まった僕たちに、ガイドは何度もそう繰り返した。 アステカに先立つこと実に千年以上、メキシコの、というより新大陸の文明としても相当な初期に当たるこの巨大都市遺跡は、四方を山に囲まれた盆地に、今も往時と変わらぬ姿で鎮座していた。 そう、「鎮座」としか言いようがないほどテオティワカンは大きい。代表的な建造物である太陽や月のピラミッドはエジプトのギザにおけるそれらに匹敵し、メインストリートである死者の大通りは南北5kmにも及ぶ。駐車場からケツァルパパロトルの宮殿を経て、ここに至るまで既に相当な距離を歩いた気がするが、敷地的にはまだ入口なのだ。 正面には月のピラミッドが偉容を誇っている。その麓まで来てようやく気づいたのだが、積み上げられているひとつひとつの石のサイズが尋常ではない。縦60cm×横1mくらいはある。遠目からは階段のように見えたが、いやいや、これはもはや跳び箱だ。どうやって登れというのか。 それでも石の上面に両手をつき、片足を掛けてよっこらせと這い上がる。この作業を一段ずつ繰り返していくのだが、腕や背中など足だけではなく全身の筋肉を使わざるを得ない。岩山をよじ登っているようで、自然と息が上がる。上に行くにつれてようやく石のサイズが大人しくなってきたが、女性や高齢者にはなかなか厳しいのではないか。 しかし、辿り着いた頂上からの眺めはやはり素晴らしかった。幅広い道が足元から一直線に伸びていて、芝と灌木に覆われた原野に石造りの遺構が点在している。360度すべてが見下ろせるため、思わず自分が世界の頂点に立ったのではないかと錯覚してしまう。広場にひれ伏す幾万の人民が目に浮かぶようで、支配者感が半端ない。きっと、世界を征服した暁には、人はこんな気分に浸れるのだろう。 「あっちはどうする?」 妻が左前方にそびえるもうひとつの頂を指差した。太陽のピラミッドだ。壮大さでは月のピラミッドを上回るというが、そこからはどんな景色が見られるのだろう。もう一度岩登りをするのは難儀だが、さらにとてつもない征服感が得られるかもしれない。苦労するだけの価値はありそうだ。 他のツアーメンバーたちも同じように考えたらしく、再び地表に降り立つと、みんな太陽のピラミッドを目指して歩き始めた。誰もがワクワク感を抑え切れず、気がつくと少しずつ早足になっている。無言のまま次第に小走りになった僕たちは、やがて誰かが駆け出したのをきっかけに全員が徒競走状態になった。 「走らないでー」 ガイドの叫び声が背中から聞こえた。しかし、僕たちの足は止まらない。それどころか、さらに勢いを増し、全力疾走に近づいていく。高地では空気が薄く、ちょっとした運動でも酸欠になりやすいと頭ではわかっているものの、はやる気持ちを制御できない。 「走らないでー。お願いだから、走っちゃダメー」 ガイドはほとんど泣き声になっていた。しかし、大声を出すこともまた、高山病のリスク要因ではないのか。他人事ながら、それはそれでちょっと心配になった。 |
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驚異のメキシコ |
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