22
時刻は午後七時を過ぎていた。俺とヘティはプレイをする一室をあてがわれた。
部屋の中央に馬の実寸大の真っ黒な模型があり、ベッドが一つあった。壁には沢山のムチや様々なSMプレイをする器具が吊るされていた。浣腸用の器具まであった。
これから一時間あまり、シンガが現れるまでこの部屋でヘティと待たなければならない。ヘティにこの様な大人のおもちゃの類を見せるのは、忍び難かった。
ヘティはそれでも平気な顔をしていた。新型拳銃の手入れを行い、これから遭遇するシンガとの対決に備えている。
マダムの話では、シンガはプレイをする時もマスクを脱がないそうだった。毛糸のマスクで、目と鼻と口だけ穴の開いた北国で主に使われるマスクの様だった。
初め、マダムが会った時は強盗かと思ったそうだった。
ヘティの新型拳銃は、従来の弾丸を発射する拳銃では無く、レーザー光線を相手に掃射する拳銃だった。従って弾丸の補給の必要が無く、三十回撃ったらカートリッジを交換すれば良い代物だった。
「ヘティ。あいつに会ったらどうする?」
「急所を避けて、躊躇わずに撃つわ。そして警察につき出してやる。でも・・・場合によってはその場で殺すわ」
ヘティはこの時を待っていたとばかり、はりきっていた。
「いずれにしても、あいつが裸になってSMプレイをしている現場を襲うのが一番賢いやり方だな。奴が無防備な時を狙うんだ」
23
じれったい一時間余りが過ぎた。午後八時半、部屋をノックする音が聞こえた。
「はい」俺が答えた。
ガチャリとドアを開けたマダムが部屋の中に入ってきた。
「シン・チュンマイが来たわよ。いつもの様に顔にマスクを被って」
俺とヘティは立ち上がった。
「ここから三つ行った部屋に入ったわ。今、裸になろうとしてるところだと思うわ」
「そうか。ありがとう」
「あなたたち、シンに恨みを持った人間でしょ」
マダムは何もかも知っている様な顔つきで言った。
「・・・・・」
「いいのよ。あのシンというのは間違い無く犯罪者よ。あなたたちの恨みを買う様な事をしでかしたのね」
「・・・・・」俺とヘティは沈黙した。
「お嬢ちゃん。あんな奴どうなってもいいけど、油断しないでね。それからプレイを務めてるウチの女の子は傷つけないでね。それから部屋の鍵は開けてあるわ」
「ありがとう」ヘティが言った。
マダムは一瞬笑顔をつくって部屋から消えた。
24
シン・チュンマイのいる部屋の前に行った。廊下には誰もいない。
俺とヘティはドアの両側に立ち、体を壁にくっつけて、目で合図をした。俺がドアノブをひねって中に踏み込んだ。ヘティも素早く続いた。
部屋の中ではマスクを被った男がベッドにうつ伏せになって、全裸でSM嬢のムチを受けているところだった。男の全身にSMプレイで出来たと思う凄い傷が沢山出来ていた。
「シンガだな。動くな。動くと撃つぞ!」俺は叫んだ。
マスクを被った男は驚いた様な眼でこちらを見た。半裸で黒い衣装をまとったSM嬢は驚いて、男から遠ざかって壁まで後ずさった。
俺は電子トンファーを、ヘティは新型拳銃を取り出して構えていた。
「おまえらは誰だ?」男がくぐもった声で訊ねて来た。
「俺は私立探偵。この女の子の頼みでおまえを捕まえに来た」
男はマスクをしているので表情は窺えない。
「わたしが雇って、おまえを捕まえに来たのよ。そのマスクといい、左手首の大きな切り傷といい、おまえは間違いなくシンガだわ」
「俺がシンガだとしたら、どうなんだ?」
シンガは静かに低い落ち着いた声で言った。顔はマスクをしてるので分からないが、全裸の体を見たところ三十歳前後といったところか。
「おまえはわたしを知らない。しかしわたしはおまえを知っている。七年前のコーホク・エリアの一家惨殺事件。わたしはあれの生き残りよ。わたしは、クローゼットの中で八歳の姉を殺されるのをムザムザ見ているしかなかった。わたしはあの時六歳の子供だったのよ」
シンガは黙って考えをまとめようとしている様子が見てとれた。
「おまえが七年前のコーホク・エリアの生き残り?」
「そうよ」
「そうか、確かにあの時は一人殺しそこなった。それがおまえか」
部屋の壁で黒装束のSM嬢が恐怖で震えている。場違いの所に来てしまったと思っているのが分かる。
「それで俺をどうするつもりだ?」
「今すぐ殺してやりたいところだけれど、やっぱり警察に突き出すわ」
ヘティの眼は憎悪で血走っていた。小さな少女の体からは想像も出来ない迫力がある。
「分かった。その前に服を着させてくれ。裸じゃ外も歩けない」
醜い陰部を見せてシンガが立ち上がっても、ヘティは全く動揺しなかった。
シンガは服をまとっていた。ヘティは新型拳銃をシンガに向けていた。俺も電子トンファーで身構えていた。その間に俺はSM嬢に警察に通報するように頼んだ。SM嬢は小走りに部屋を出ていった。
シンガは服を着終わった。黄色いジャケットとズボンの下にタートル・ネックの白いスウェーターを着ていた。
「さあ、俺を捕まえてみるんだな」
俺はシンガを気絶させるために、電子トンファーを打ちつけようとした。
その時、シンガはジャケットの何処かを触った。すぐに部屋は煙で一杯になった。
催涙ガスだ、と思った時シンガは駆けだして部屋を出て行った。
ヘティは咳き込みながらも、新型拳銃を乱射した。
「ヘティ、やめろ。追いかけるんだ!」
俺とヘティは咳き込みながらシンガの後を追って部屋を出た。シンガはもう店の外へ出て行ってしまっていた。ロビーでマダムが何か金切り声を上げた。
夜のソープゾーンに人はとても多かった。俺とヘティは必死にシンガを探したがもう捕まえるのは無理だった。
25
「畜生!」ヘティが叫んだ。
「やっぱり、裸になってるところをすぐ撃ち殺すんだった。畜生!」
ヘティは電柱を蹴飛ばした。
悔しいのは俺も一緒だった。あんな状況でシンガをムザムザ逃げ失せさせようとは。
ソープゾーンはそんな二人の気持ちも知らず、活気を帯びた人の群れに溢れていた。
「ヘティ、しょうがない。悪いのは俺だ。俺が電子トンファーですぐ失神させてしまうんだったんだ」
畜生、畜生・・・とののしり続けながら、ヘティは電柱を蹴り続けた。
やがて通報を受けた警官が四人やってきた。俺とヘティは店に戻って、事情を説明した。また、シンガの相手を務めたSM嬢も事情聴取させられた。
マダムはあのシン・チュンマイと名乗った男が、噂のシンガだったという事でえらく興奮していた。あいつがシンガ?だったらセキュリティーのスタッフをもっと増やさなくちゃ。この店に恨みを持たれて、襲われたらしょうがないもの・・・。
その後、俺とヘティはソープゾーンに一番近いイセザキ警察署で夜遅くまで正式な事情聴取を受けた。SM嬢とマダムも一緒だった。
事情聴取が終わったのは深夜零時三十分だった。俺はSM嬢とマダムに深く詫びを入れて、後で店に損害金を出す事を約束した。
ヘティの呼んだ自家用エア・カーが警察署の駐車場に着いていた。俺とヘティはエア・カーに乗り込んだ。
「わたしは今日は、家に戻らないわ。シンガを捕まえるまでは、ハマオと一緒にいるわ」
六十歳を過ぎた老運転手はびっくりして振り返った。
「お嬢さん、それでは家の方に何と言えば・・・」
「何とか言って取り繕ってよ。わたしはハマオのアパートに泊まる」
「ヘティ」俺はもうこの少女に何も言う資格も持っていなかった。
「ハマオのアパートまで送って頂戴」
老運転手は俺からアパートの場所を聞き、エア・カーを上昇させた。そしてライトをガンガンにともして走らせていった。
巨大アパートに着くと、俺とヘティは降りて二十四階まで階段を昇って行った。
アパートに着いたのは、午前一時だった。
26
俺はヘティにベッドを譲り、自分はソファーで寝る事にした。
「本当に後一歩だったのよ。真っ裸のあいつに銃を突きつけておいて」
ヘティは興奮と悔しさでちっとも眠れない様子だった。
「しかし本物のシンガに会えたんだ。警察にも情報が入っているから、シンガも下手には動けない。緊急手配されたから、捕まるのは時間の問題さ」
俺の語ったところが、いかにも弱く、ヘティをなだめるためのまやかしの言葉である事は明らかだった。俺とヘティはシンガの顔を見ていない。マスクを被って、南アジア系の左手首に大きな切り傷のある男であるというだけでは警察も探しようが無い。
またこの多民族都市Hamatownでは、犯人は幾らでも隠れる事が出来るし、いつでもこのHamatownを抜け出す事が出来る。
もはやシンガを探す手段は尽きたと言っても良いだろう。
「明日、タミールの虎に当たってみよう。あいつらが宿を手配しているかもしれない。警察もコトブキチョウのアラブ人にシンガの顔を当たっているだろう。とにかく今は休む事が大切だ。今日はいろんな事がありすぎた」
ヘティは喋るのを止めた。これは俺の失態だ。人生には一生懸命やっても、全く報われない時があるが、今日の顛末がまさにその例だった。
俺はじきに眠りに落ちた。
俺は巨大アパートの喧騒で目を覚ました。時計を見ると午前十時になっていた。目をこすりつつ、洗面所に向かおうとすると、ヘティがキッチンに立っていた。
「ハマオ、食事にしましょう」
ヘティは朝食の準備を整えているらしかった。わかった、と言って洗面所で顔を洗い、トイレで放尿して食卓についた。
ヘティの作った朝食はフレンチトーストとソーセージとブロッコリーを茹でたものだった。コーヒーも作っておいてくれたらしい。
「有り難う。いただくよ」
昨日、警察署でお粗末な弁当を食べただけだったから、腹が減っていた。
俺はフレンチトーストを食べた。
「どう?」
「うん、うまい」
「良かった」
喜んだヘティの笑顔を見て、ああこの子はまだ十三歳の少女なんだな、と改めて実感する事が出来た。しかしヘティの両眼は充血していて、昨晩ロクに眠っていない様だった。
無理に明るくふるまって、昨日の出来事を忘れようとしている。しかしこれはそんな簡単に忘れられる事じゃないのだ。
朝食を済ませて、二人はとりあえず俺のオフィスに向かう事にした。
27
二人は巨大アパートの二十四階から降りて、歩いてオフィスに向かっていた。冬だが、陽光がさして気持ちが良い。
自室を出て三十分ほどして、オフィスに着いた。
オフィスに入って、パソコンを開きメールを一つ一つ確認していった。俺の様なしがない探偵にも、情報屋は十数人いる。彼らからシンガの新情報を期待したが何も無かった。
新聞に目を通した。ヘティはテレビのスウィッチをつけた。案の定、昨晩のソープゾーンでのシンガとの事件は放映されていた。テレビには事件のあったSMクラブ「ソドムとゴモラ」が大きく映し出されていた。警察の配慮で、いやおそらくカリーナの配慮で俺とヘティの名と顔は伏せられているのが救いだった。
新聞にも事件は載せられていた。“シンガSMクラブで発見されるが逃亡”という見出しがついていた。こちらにも俺とヘティの名と顔は出ていなかった。
俺たちは、何もする事が無いので、ぼんやりと時間を過ごしていた。時刻は午前十二時になろうとしていた。とりあえず午後になったらタミールの虎を当たろうという事で、俺はパソコンと二日前にタミールの虎に行った時に携帯していたナビゲーション・システムを駆使してタミールの虎の事務所を突き止めようとしていた。
やがてタミールの虎の事務所の位置は把握出来た。それでは出掛けようと二人で立ち上がった瞬間だった。俺のオフィスに激しい銃撃が加えられた。
28
俺とヘティは反射的に床に身を伏せた。ヘティは新型拳銃を取り出した。
銃撃は外から行われていた様だった。窓ガラスが粉々に壊され、家具類が壊された。
危険を承知して銃撃の加えられた方角の窓に体を低くして走りだした。窓の下から見ると、俺のオフィスのあるビルの反対側のビルの屋上に、顔にマスクを付けた男の顔が垣間見えた。シンガだ!
「ヘティ、奴だ!シンガだ。奴が俺たちを狙ったんだ!」
シンガはすぐに屋上から姿を消した。幸い俺もヘティもケガをしていなかった。シンガのいるビルの屋上から、俺のオフィスのあるビルへの距離はおよそ五十メートル。おそらく狙撃用ライフルを使ったのだろう。
俺はすぐヘティに警察に通報する様頼んだ。そしてシンガのいるビルを注視した。あのビルの入口はここから正面にある。正面から逃げ出そうとすれば俺の目に止まる筈だ。
やがて警官が十数人駆けつけて来た。俺のオフィスに五人、残りの十人位はシンガのいるビルに向かった。
29
警官たちは昨日のイセザキ署の人間で、話が通りやすかった。エア・カーで来たらしく行動は素早かった。俺とヘティは再びエア・カーでイセザキ署に運ばれ、二度目の事情聴取を受けた。
時刻は午後三時になっていた。その時、シンガが銃撃したビルからシンガらしき人物は見当たらなかった、という残念な報告を受けた。どうやらビルの裏から逃げだしたらしいという事だった。
事件を聞きつけたカリーナがイセザキ署に急行して来た。俺とヘティは取調室で事情聴取を終えて、お茶をすすっているところだった。
「ハマオ、大丈夫だった?」
「ああ。幸い無傷だったよ。俺もこの少女も・・・ヘティって言うんだ」
ヘティが座っている椅子からカリーナを見上げた。
「こちらはカリーナ。強力な味方だよ」
「ヘティです。宜しくお願いします」ヘティは頭を下げた。
「カリーナです。宜しく」カリーナも頭を下げた。
カリーナは続いて俺に言った。
「これで狙う側から狙われる側に立ったわけね。私が署長に頼んで今からあなたたちにボディーガード役の私服警官を三人つけるわ。いいわね」
「すまない。しかし俺とヘティは話し合ったんだ。シンガをこちらから探す手掛かりはもうあまり無い。おとりになってこちらから街を歩いてみようと思うんだ」
「そんな危険な事・・・」
「危険なのは百も承知している。しかし私服警官が三人もついてくれるというじゃないか。作戦として悪くない」
「でも・・・」
「いいか、カリーナ。俺とヘティは腹をくくったんだ。危険は覚悟の上だ」
カリーナは俺とヘティの眼をじっと見た。俺よりもヘティの十三歳とは思えないシンガに対する憎悪の念を秘めた瞳を見たら何も言えなくなってしまった。
「わかったわ。ボディガードには精鋭な人間をつけるわ。一日三交代制で計九人ね」
話は決まった。
30
時刻は午後三時を過ぎていた。俺とヘティはイセザキ署を出た。東の方角へ歩いていく。その数十メートル後に私服警官が三人。いずれも二十代から三十代の屈強そうな男たちだ。カジュアルな恰好をして街に上手く紛れている。
ベースボールのスタジアムの横を抜け、モトマチの方角へ黙々と歩く。途中、いろんな人種・民族の人間とすれ違う。中には昼間から酔っぱらっている者もいる。
俺とヘティは感じていた。奴は俺たちを何処からか見ている。シンガは俺たちを何処からか見ている。
黙々とした歩きの中でも緊張はとても強かった。俺もヘティも警察支給の防弾チョッキを着ていた。心なしか、その防弾チョッキを重く感じていた。
モトマチに着いた。人々が賑わっている。人込みは危険だ。何処からかシンガが紛れて狙って来るかわからない。私服警官たちは歩みを速めて、俺たちから離れまいとした。
そしてヤマテの方角へ坂を昇る。ヤマテは十九世紀のHamatown開港の際の外国人居留地であり、その後二十世紀には高級住宅地に姿を変えた。今でもHamatown旧市街の比較的裕福な層の人間が住んでいる。
坂を昇りきり、モダニズム溢れる十九世紀の邸宅を見ながら黙々と歩いた。
31
ヤマテの街を過ぎ、我々はネギシの方角へ進んだ。時刻は午後四時半になろうとしていた。冬の日は短い。既に日は落ちかけ、夕闇から夜に移ろうとしていた。
俺もヘティも殆ど口をきかなかった。緊張の中、殆ど冬の寒さを感じない。歩き続けなのでうっすらと汗さえかいていた。
やがて完全な夜になった。ネギシの旧競馬場跡にたどり着いた。
この競馬場は第二次世界大戦まで使われていたが、その後の米軍による接収により米軍の住宅地に含まれていた時期もあったと聞く。しかし米軍がここから去った今、競馬場のスタンドは廃墟となってそびえ立っていた。あたりには人影も全く無い。
俺とヘティは競馬場のスタンドに着いて一休みする事にした。既に時刻は午後六時を過ぎていた。ぶっつづけに三時間歩いた事になる。
スタンドの席に腰を下ろし、イセザキ署でもらった弁当の包みを開けて夕食をとる事にした。私服警官たちも離れた場所三箇所に分かれ席をとっていた。広いスタンドの四方に気を配りながら。
あたりは真っ暗で月と星の明かりだけが頼りである。俺たち五人の他に誰もいない競馬場跡のスタンド。
弁当の中身はカツ丼と缶入りの日本茶だった。俺とヘティは黙々とそれを食べる。歩みを止めたとたん、寒さが身にこたえるようになった。
温かいコーヒーが無性に欲しくなった。しかし此処には、もう自動販売機すら無い。
「ヘティ、奴は俺たちを今狙っているのだろうか?」
俺はヘティに訊ねた。ヘティは緊張の抜けない眼をしていた。可哀相な十三歳の少女・・・。彼女の復讐のためとはいえこの二日間、いろんな場面をくぐり抜けさせてしまった。そして今はこうして自らおとりをかって出ている。
「あいつは狙っているわ。今、こうしている瞬間にも・・・何処からかきっと。」
その言葉の終わった直後だった。広い閑散とした競馬場跡に銃声が響きわたった。
32
俺とヘティは思わず身をすくめた。銃撃は俺たちに向けられたものでは無かった。ヘティはすぐに新型拳銃を取り出した。
暗い競馬場のスタンド。あたりを見渡した。見ると、ボディーガード役の私服警官が三人倒れていた。何とも呆気ないものだった。
シンガだ。奴は何処から撃ったのか。スタンドは暗くひっそりと静まりかえっている。奴が何処から撃ったのかわからない。
恐怖の時間が俺とヘティの心を支配した。
俺とヘティはスタンドの中段に座っていた。撃たれた私服警官たちは下段と上段・中段の少し離れた場所だ。前方には、以前馬の走っていただろう広大なグラウンドが広がっている。背後には、スタンドの上段に面した建物がそびえ立っている。
何処から奴は狙ったのか。ヘティは新型拳銃を持って四方に目を凝らしていた。
この拳銃はライフル並みの射程がある。場所がわかれば、遠い距離でも狙えるものだ。さらに夜間暗視装置もついている。暗い中でも鮮明に敵を捉える事が出来る。
そしてまた銃声がスタンドにこだました。ヘティの持っていた新型拳銃が銃撃ではじき飛ばされた。拳銃ははるかスタンドの下段の方に転がっていった。
するとスタンドの上段に面した建物の方からシンガがゆっくりと歩み寄って来た。
顔にはいつものマスクをつけ、緑色のトレンチコートを身に付け、手にはヘティと同じ新型拳銃が握られていた。
「畜生!」ヘティの声が競馬場内に大きくこだました。
シンガは俺とヘティから十メートルくらいの距離まで歩いてきて止まった。
「動くな。もうおまえらの命は俺の手に握られている。」
シンガが低くくぐもった声で言った。
「私立探偵のハマオ。そしてコーホクエリア事件の生き残りのヘティだな。」
「そうよ。さっさと殺せばいいじゃない。わたしのお姉ちゃんをやったみたいに!」
シンガは暫く黙った。そしてヘティの眼をじっくり見て言った。
「ヘティ。事件が起きてから七年・・・どういう気分だった?」
「そんな事を聞いてどうするの?!おまえが憎くて憎くてしょうがなかったわ。ずっとおまえに復讐する事だけを考えてきたわよ!」
シンガは拳銃を握った右手を構えたまま、左手で器用に煙草を取り出して火を付け、一服吸った。そして何歩かこちらに歩み寄った。
その隙を俺は見逃さなかった。バッグから抜いた電子トンファーを数メートル先のシンガに向けて投げつけた。シンガはもんどりうって倒れた。新型拳銃はコロコロと床に転がった。
俺は走り寄り、拳銃を取り上げた。そしてあおむけに倒れているシンガに向けて突きつけた。
電子トンファーは急所には当たらなかったため、シンガは失神はしていないが、身体中がしびれて動けなくなっている。
「ヘティ。こいつはもう身体がしびれて動けなくなっている。殺るなら今だ。」
ヘティもすぐ駆け寄ってきた。俺はヘティに新型拳銃を渡し、自分の電子トンファーを拾った。
33
「形勢逆転といったところか。」
シンガは弱々しい声でそう喋った。
俺は携帯電話を取り出し、警察に連絡し事情を話した。
「殺す前におまえの顔が見たい。ハマオ、シンガのマスクをとって。」
ヘティは拳銃をシンガの顔に突きつけたまま言った。
俺はシンガの毛糸のマスクをゆっくり剥がした。身体のしびれたシンガは無抵抗であった。
マスクをとると、南アジア系の褐色の肌を持った彫りの深い顔が現れてきた。意外に端正な顔だちで、二枚目と言ってもさしつかえない様な顔だった。
「少し・・・喋ってもいいか。」
シンガが弱々しい声で言った。
「何か企んでも、おまえはもう逃げきれないよ。」
ヘティは顔に突きつけた拳銃を握り直した。
「分かってる。どうせもう長くない命なんだろう。俺がこの商売・・・殺し屋・・・に就いたのは、十二歳の時の事件がきっかけだった。」
「・・・・・。」
「俺はタミール系シンガポール人だった。しかしヒンズー教徒では無く、敬虔なキリスト教徒だった。」
「・・・・・。」
「事件とはこうだ。俺と家族・・・父と母それに兄と姉と弟とシンガポール沖合にある当時インドネシアと呼ばれていた国のバタム島に観光旅行に行った時だ。当時はインドネシア国内の内戦が始まりつつあった時だった。そんな時、スマトラ島北部出身のバタック人とインドネシア東部のフローレス島出身者との間で抗争が起き、多数の死傷者が出た。その抗争に俺の家族が巻き込まれたのだ。俺の家族は皆、殺された。姉は強姦された。幼い弟は八つ裂きにされた。この俺の目の前でだ。俺は卑怯にも倉庫の陰で事件を震えながら見ているだけだった。数日後、事件は軍によって収束され、俺も救出された。しかし俺はひどい恐怖のあまり口がきけなくなった。そして俺はシンガポールの孤児院で六年を過ごした。俺はずっと孤児院でひどいいじめにあった。シンガポールでは少数派のタミール人だという理由で。また同じタミール人からも、キリスト教徒だからという理由でいじめられた。一体、民族や宗教が違うというだけで、何故俺の家族が殺されたり、自分がいじめられたりするのかずっと考えていた。俺は神を憎んだ。キリストを憎んだ。何の罪も無い家族を殺した奴らや俺をいじめた奴らを生んだ神を。そして俺は十八の時、孤児院を出た。回復した俺は、自ら志願して軍に入り兵器の使い方を学んだ。そして二年の徴兵期間を経て、殺し屋になった。幸い、射撃の腕は軍でも抜群だった。誰の依頼でも受けた。そして殺した者の額には俺の憎むべきキリストの十字をナイフで刻んだ。しかし・・・俺の心に俺の行為を許さない何かがあった。だから、俺は知っての通り、殺人を犯す度にSM店に行ってムチやろうそくの裁きを受けていた・・・・・。」
俺もヘティも夢中になってシンガの話を聞いていた。ヘティの銃口はいつのまにか下がっていた。俺とヘティは知らず知らず油断していた。
気がつくと、シンガはコートの裏からもう一つの拳銃を取り出し、ヘティに向けていた。
34
「そうだ。俺は殺し屋だ。だからおまえらも殺す。そして生き延びるんだ。」
ヘティも銃口をシンガに向けて、シンガと対峙していた。俺は手出しが出来なかった。
息を呑む瞬間が訪れた。ヘティとシンガはわずか一メートルの距離で、互いに銃を向け合っている。どちらが死んでも全くおかしくなかった。
「ヘティ。おまえも俺が殺したおまえの家族と同じ様に死ぬ事になるんだ。」
その次の瞬間、激しく銃声が起こった。銃声は競馬場のスタンド中に響き渡った。
銃を先に発射したのはヘティだった。シンガは左胸を撃たれて、おびただしい血を流していた。シンガは右手の拳銃を床に落とした。俺は素早くその拳銃を拾った。
「シンガ、どうして撃たなかった?!」
ヘティが訊ねた。
シンガは小刻みに身体を震わせて、苦しんでいた。
「俺は・・・死ぬべきだったんだ。自分のキリストに対する復讐のためとはいえ、数多くの罪の無い人間を殺して・・・きた。ヘティ。おまえも・・・俺と同じ様な孤児にしてしまった。俺は・・・裁きを・・・受けるべき・・・・・。」
シンガはそこまで言って絶命した。
競馬場の上空にけたたましいエア・パトカーの飛行音とサイレンが響いてきた。エア・パトカーのサーチライトはスタンドをまぶしく照らし付けていた。
35
シンガが死んで三週間がたった。ヘティはHamatownの新市街のコーホクエリアの実家に戻った。改めて俺とヘティの事情聴取がイセザキ署にて念入りに行われた。問題はヘティがシンガを射殺した事が殺人罪にあたるかどうかだったが、状況検分の結果、ヘティの正当防衛が認められ、ヘティは罪を問われなかった。
ヘティは俺に調査費を払い、ソープゾーンSM店「ソドムとゴモラ」に賠償金を支払った。
そして俺とカリーナは、ヘティの実家の前に来ていた。そこはHamatown旧市街とは大違いで清潔で満たされた住宅街だった。
「ヘティ、アメリカへ行っても元気でな。」
俺はヘティの目を見て言った。
「うん。あなたもね。」
ヘティは白いスーツを着込んでいた。ヘティの小さな体に合わせた小さなスーツだが、良く似合っていた。そして可愛らしかった。
「この街ではいろんな事がありすぎたわ。わたしの家族が殺されて・・・そしてわたしはシンガを殺して復讐を果たした。そしてあれからいろんな事を考えたの。」
「どんな事を?」
「わたしは今でもシンガのしてきた事を許せない。けれども、それだけではわたしは成長できないと思うの。それよりも人種・民族・宗教が違うというだけで憎しみ合い殺し合うこの世の中をほんの少しでも良くしたいなと思う様になったの。わたし、アメリカでは一生懸命勉強するわ。そして世の中を変えられる人間になりたい。」
ヘティは実に穏やかな顔をしていた。そこには十三歳の若い木の芽の様な柔らかい生命力が満ち溢れていた。
「でっかい人間になるんだな。そしてまた会おう。」
俺とヘティは握手をした。俺はその手を強く握った。そしてヘティはカリーナとも握手をした。
やがて、ヘティは叔母と老運転手と共にエア・カーに乗り込んだ。老運転手はエンジンをかけた。
その後、ヘティはエア・カーの窓ガラスを開けて俺を見て言った。
「ハマオ、ありがとう。必ずまた会いましょう。」
俺は笑って手を振った。
そしてエア・カーは上昇して行き、やがて遠くへ飛び立って行った。
俺はそのエア・カーが見えなくなっても、その方角の空をじっと見つめていた。
「あの子、あなたの言う様にでっかい人間になるわよ。」
カリーナが俺の腕に手を掛けて言った。
「うん。きっとそうなるさ。でも・・・ヘティの言った様に俺たちは本当に人種・民族・宗教という違いを克服できるのだろうか?」
「さあ・・・それは本当にとっても難しい問題だと思うわ。二十一世紀になるまで人類は人種・民族・宗教といった違いだけで多くの憎しみを生み、戦い、殺し合ってきた。でもいつかはそれを克服できると信じなければ、新しい未来は切り開けないと思うわ。二十世紀の偉大なマーチン・ルーサー・キング牧師は言ったわ。“IHaveADream.”ってね。結局、キング牧師は殺されたけど、あれからアメリカの人種問題は随分良い方向へ向かっていったわ。」
「“IHaveADream.”か。そうだな、希望を持たなければ我々は成長しないからな。」
俺はカリーナの肩を抱いて歩き始めた。その時、木枯らしが舞った。俺とカリーナはきつく肩を抱き合って、その寒さをこらえた。俺の頭の中には、ヘティとカリーナの言葉がこだましていた。
(了)