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獅子と処女(1-11)に戻る

12

翌朝いつもの様に午前七時に起きて、朝食を済ませ、巨大アパートの長い階段を降りオフィスへ向かった。
エレヴェーターを使ってオフィスに着くと、そこには何とヘティがいた。
「ハマオ、お早う。わたし、来ちゃった」
「どうして来たんだ?」
俺は少し驚いていた。それでもオフィスのドアの電子ロックにパスワードを打ってヘティを中に入れた。
「わたし決めたんだ。もう待ってるのは嫌。ハマオと一緒にシンガを探したい」
「何を馬鹿を言ってるんだ」
俺はコーヒーを作るために湯を沸かしながら言った。
「馬鹿でも何でも良いわ。依頼人はわたし。雇われたあなたと一緒に行動してはいけないというルールは無いはずだわ」
「それは違う。これは探偵ごっこじゃないんだ。俺がこれから行こうとしてるのはマフィアのところだ。君の生命の保証は出来ない」
「生命の保証なんていらないわ。そうこうしてるうちに二件目の殺しがあったじゃない。三件目が起こってもちっとも不思議じゃないわ。これはわたしの戦いなのよ!」
俺はヘティをじっと見据えた。ヘティの眼は、寝不足のせいか充血していた。俺はこの年代の少女の、これほどまでに決意に満ちた強烈な眼差しを見るのは始めてだった。
俺は観念した。俺の説得でヘティの気持ちを変える自信は無かった。
湯が沸いた。俺はトラジャ産のひいた豆をフィルターに入れ、湯を注いだ。
「今日は中国系流氓(リューマン)の“三合会”を当たるつもりだ。今日もあの新型拳銃を持ってきてるのか?」
「持ってきているわ。射撃場で何百回と練習したわ。成績もとっても良いのよ」
「射的を撃つのと、実際の人間を撃つのは違うぞ」
俺は出来上がったコーヒーを二つのコップに注ぎ、ソーサーの上にのっけて自分とヘティの前に差し出した。
「昨日説明した通り、これはマフィア同志の麻薬戦争だ。いいか、マフィア相手に撃ちたいと思ったらためらう事無く撃て。一瞬の判断ミスが命取りになる」
「一緒に連れて行ってくれるのね!」
ヘティは喜びの表情をあらわにした。
「何度も言うがこれは遊びじゃ無い。自分の生命は自分で守るんだ。分かったな」
「分かった」
二人はコーヒーを飲み干した。

13

俺とヘティは地下鉄の駅を目指した。行く先はチュウカガイ。地下鉄で十分程の場所にある。おかしなものだ。今やHamatownの人口の四分の一は、中国人だ。そうしてみると、Hamatownにチュウカガイは何十箇所あってもおかしくない様に思える。しかし二十世紀から何十年と受け継がれてきたチュウカガイは、その名を守った。以前はナンキンマチと呼ばれていたとも聞く。
チュウカガイで地下鉄を降りると、チュウカガイの活気に溢れた街並みが拡がっていた。
中国人と一口に言っても色々いる。北京系、上海系、台湾人、福建人、四川人・・・。
俺たちがターゲットにしている三合会は香港を中心とした広東人のマフィア組織だった。チュウカガイでもいろんな中国の民族がしのぎを削っている。二十一世紀初頭の内戦で、同じ中国の民族同志の敵対意識は強い。それぞれが縄張りを持っていて、生き馬の目を抜き合っている。
広東人の支配するエリアは、チュウカガイ東門一帯だった。駅の傍だ。今日は晴れていて、冬なのに道端に肉まんや餃子などの食べ物を売りに出していた。時計を見ると午前十時だった。
ヘティと話し合って決めた作戦は、二人を兄妹という事にして三合会から麻薬を買うというお粗末なものだった。しかしタミールの虎の時の様にこわもてに出ないで、あくまで麻薬を買うだけにとどまるというものだった。はっきり言って、今の俺にはヘティは邪魔以外の何者でも無かった。一人で行動したかった。しかしこうも考えた。十三歳の少女を連れて行く事によって相手の余計な警戒心を解く事が出来るのではないかという事だった。
二人は骨董品屋の前で立ち止まった。この骨董品屋は、以前から俺が目をつけていた店だった。広東人はここで怪しげな物の売買をしているという情報があったのだ。しかし他の民族が深入りして帰ってきた者もいないと聞く。
二人は薄暗い店に入った。店内は広くは無いが、古い壺や刀などありとあらゆる物が置かれていた。客は俺たち二人だけだった。
「いらっしゃい」
店主と思われる七十歳ぐらいの老人が店の奥の方から声を掛けてきた。
「何をお求めですか?」
「うん。古い陶磁器を探している。この店に明・清代の物はあるかな?」
「ほう。あるにはありますが、値は高いですよ」
店主はにこやかな笑顔を浮かべ、奥から出て来た。壺の一つを指さして言った。
「これなんか清代の物で一万ドルはします」
「ほう。他には?」
「明代の物もありますが、倉庫にしまってあります」
「何故?」
「盗まれたら大変ですからね。何しろ二万ドルから二十万ドルする物もあります」
俺は切り出すのは今だと思った。
「古い陶磁器にも興味がありますがね、短時間で気持ちの良くなる物を探していましてね。俺の友人でこの店から買っていった者がいるんです」
店主の眼の光が一瞬変わった。
「その友人の名は?」
「友人の名前は出せません。ただ広東人です」
「そのお連れのお嬢さんは?」
「妹です」
「お二人の肌の色が違う様ですが」
店主は二人を値踏みする様に見た。
「母が腹違いなんです」
「では、ちょっと裏に来てください」
俺はしめたと思った。ヘティの様な幼い少女を連れて来たのが、相手の警戒心を解くのに役立ったのだ。
店主は店の奥から若い男を呼び出し、店番をする様に言いつけると俺とヘティをいざなって店の裏へ案内した。
店の裏の小部屋に通された。
「お客さんの希望しているものは具体的には何ですか?」
「コークです」
「成るほど。どれくらいの量ですか?」
「五百グラムほど」
「少々お待ちください」
店主は立ち去った。小部屋には俺とヘティの二人だけになった。ヘティは意外な程、落ち着いていた。自分の復讐のために意志が強固になり、ものすごくエネルギーに満ちている様に見えた。
一時間ほど待った。店主や他の者も誰も現れなかった。
「遅いね。どうしたんだろう」ヘティが言った。
「そうだな」
俺の頭に黄色信号が灯っていた。こういう麻薬の取引では、早い取引が通常である。お互いに深くかかわらないのが売手と買い手共に得なのだ。警察にも怪しまれない。
「もう少し待ってみよう」
俺がそう言った後に店主がやって来た。
「お待たせしてあいすいません。申し訳ないのですが、ここでは取引できなくなりました。現物が無いのです。場所を移動してもらってかまいませんか」
俺はほっとした。
「かまいません」
店主は店番を頼んだ若者に、俺とヘティを連れて外へ案内するように命じた。
数十メートル行って人けの少ない細かい路地に入った。俺たちを連れていく若者は長髪で二十二・三歳ぐらいの中肉中背の男だ。
「ここだ」
若者はそう言って一つの家の前で止まった。
三人はドアを開けて家の中に入った。家の応接間は汚くちらかっていた。俺とヘティは若者に促されてソファに座った。
「コーク五百グラムだったな。ちょっと待ってくれ」
そう言うと若者は家の奥に消えた。
「また待たされるのかな」ヘティが聞いてきた。
「さあ、分からん」
そう言った直後だった。銃を持った五人の男たちが部屋に一斉に入ってきた。
「動くな!手を挙げろ!」

14

相手は銃を持った五人だった。電子トンファーを使えば、この狭い部屋なら倒す自信があった。しかしヘティがいる。格闘の際に間違いなく撃たれてしまう。それに家の奥に他に何人いるか分からない。
俺は銃を抜き出そうとしているヘティを手で制した。
「分かった。手を挙げよう」
俺はそう言って、両手を挙げて、ヘティにも両手を挙げる様に促した。
「奥の部屋に来てもらおう。おかしな真似はするなよ」
五人の中の首の太い男が言った。俺とヘティはおとなしく従って奥の部屋に通された。
奥の部屋も雑然としていてちらかっていた。ここにも三人の男がいた。一人は例の若者だった。
俺とヘティは素早くボディ・チェックを受け、電子トンファーとヘティの新型拳銃が取り上げられた。
また捕らわれてしまった。どこに間違いがあったのか?
流氓(リューマン)たちは、俺とヘティの持ち物を詳しく探っていた。
「ボス、こいつら警察手帳を持っていません」
ボスと呼ばれた男は、先程の男に負けないくらい首が太く、背はあまり高くなかったがガッチリとした体格をしていて長髪で四十歳ぐらいだった。
「おまえら、何者だ?!何をしに来た?!」
ボスが口を開いた。
「それより何で俺たちを捕まえるんだ?コークを買いに来ただけだろうが」
ボスは輸入品の煙草をふかして言った。
「昨晩、ノゲでイラン人が殺された現場にお前が入って行くのを、ウチの若い者が見ている。警察でも無ければ、あんな所には入れねえだろう」
そうか、そういう事だったのか。しまった。俺とした事が軽率だった。しかし、こいつら三合会が、昨日の現場を見張っていたという事は、三合会がシンガを使ってイラン人を殺させた事と言えるんじゃないか。心の中でそう思った。
「俺は警察の者じゃない。探偵だ。依頼人はこの少女だ。“シンガ”に個人的な復讐の念を持っていて、“シンガ”を探す様に頼まれている」
「“シンガ”だと」
ボスはそう言って大声で笑い出した。
「そんな事でウチに来たのか。お門違いもいいところだ。お前ら、名前は何と言う?」
「村田茂だ。この少女はクリス」
また偽名を使った。このボスの態度、どうとらえて良いか分からなかった。全くシンガと無関係の様にも思えるし、その逆の様にも思える。
「あんたの名は?」
「張玄白。もっともおまえらが俺様の名を知ったところで、ここから出られるわけじゃないがな」
張玄白は不気味にニヤリと笑った。
こいつらは俺たちを殺すつもりだ、と俺は直感的に思った。
その時だった。激しい銃声が家全体に響いた。

15

どうやら通りに面した家の応接間の外の方角から銃声は響いている様だった。張玄白と二人の部下はすかさず銃をベルトから抜き、応接間に応戦に行った。
ものすごい撃ち合いだった。俺は電子トンファーを、ヘティは新型拳銃を取り戻した。
流れ弾が俺たちのいる部屋にも入ってきた。すごく大きな穴が壁に開いた。俺は反射的にヘティを抱きしめ部屋の隅の床に伏せた。
「ヘティ、今動いちゃ駄目だ。撃ち合いが終わるまで待つんだ!」
「でも、このままじゃ」
「敵が入ってきたら、反撃すれば良い」
俺は銃弾からヘティをかばう様にヘティを上からしっかりと抱きしめた。
撃ち合いは十分程で終わった。撃ち合いが終わると、静寂が訪れた。
それでも五分ぐらいは、俺とヘティは床でじっとしていた。
俺はヘティから体を離し、一人で注意深く応接間の方に歩いて行った。張玄白も含め八人の流氓が撃たれて倒れていた。部屋の中はメチャメチャに銃弾で壊され、表の窓ガラスも格子も壊され、表から応接間は丸見えになっていた。
襲撃を加えた者たちの姿はとっくに消えていた。

16

ボスの張玄白は胸を撃たれ大量の血を流していたが、まだ息があった。
俺は張を抱え起こした。
「おい、大丈夫か!」
「駄・・・目だろう。胸を・・・やられた」
「何処の連中と撃ち合ったんだ?」
「イラン人・・・だ。あいつらは・・・仕返しに来やがった」
張は一言一言振り絞る様に喋った。
「やっぱり“シンガ”を使ってイラン人を殺したのはあんたたちだったのか?」
「そうだ」
「シンガは何処にいる?」
「煙草を一本吸わせてくれ」
俺はガラムを一本抜き火をつけ、張にくわえさせた。
「コトブキ・・・」
張は最後の一言を言い終える前に煙を大きく吐き出し息絶えた。
外ではエア・パトカーの音がうるさく響いていた。野次馬も集まってきた。
俺はヘティを連れて野次馬の群れを抜け、外へ走り出した。

17

俺とヘティは走った。東の方向に全力で走った。チュウカガイを抜けモトマチの方へ走った。
二十分ぐらい走っただろうか。追いかけて来る者はいない。俺とヘティは走るのを止めた。二人とも肩で息をしていた。
「ハマオ。最後に張が言ったコトブキって、もしかして・・・」
「そうだろう。コトブキチョウの事だろう。あそこなら、いろんな人間に紛れ込んで潜伏するのに最適だ」
俺はガラムに火をつけて、肺一杯に煙を吸い込んで、思い切り吐き出した。
コトブキチョウ。二十世紀にはニッポンでも有数のホームレスを抱えたドヤ街として有名だった。今では世界中からやって来た民族のホームレスの溜まり場として、巨大なスラムと化している。
俺とヘティはモトマチの或る喫茶店に入った。俺の馴染みの店だった。ベトナム人の経営する店だった。店長のホーは俺の顔なじみだった。ホーが俺とヘティの座った席に近づいてきた。
「いらっしゃいませ。ハマオさん、今日は可愛いお嬢さんをお連れですね」
「ああ、元気でやってるか?」
「お蔭様で。ご注文は?」
時刻はちょうど午前十二時を過ぎていた。店の中も混んでいる。
「ミートソースのスパゲッティとコーヒーを二つずつ。コーヒーは食後に頼む」
「分かりました」
店の奥に消えようとしているホーを追いかけ、店の奥の調理場で話しかけた。
「情報が欲しい」
「何の?」
「コトブキチョウに潜伏している“シンガ”という殺し屋を探している。今、コトブキチョウを仕切っているのは例の朝鮮人か?」
「そうです。名前は李泳三。李なら何か知ってるかもしれません」
「住まいは?」
「変わっていません」
「そうか、ありがとう」
俺はホーに情報料の三十ドルを目立たぬ様に渡した。ホーはニヤッと笑って頭を下げた。
俺は元の席に戻り、運ばれてきたミートソースのスパゲッティをあっという間にたいらげた。ヘティも食欲は旺盛だった。食後のコーヒーを飲みながらヘティに言った。
「さっきも危ない目にあったが、今度はもっとヤバイ場所だぞ。何しろ何処に犯罪者がいるか分からない」
「それはHamatownの旧市街なら何処でも一緒よ。わたしは覚悟して来てるのよ」
気丈な少女だ。先程、殺される寸前までいったのに、全く動揺している様子は無い。
俺とヘティは勘定を済ませて店を出た。そして線路一つでモトマチと区切られたコトブキチョウへ向かった。

18

俺とヘティはコトブキチョウに入って行った。冬なのであちらこちらでドラム缶に火をつけて、世界中のホームレスたちが体を暖めている。ニッポン人、中国人、朝鮮人、カンボジア人、タイ人、ジャワ人、インド人、アラブ人。フィリピン人と集まっている民族には枚挙にいとまが無い。
少数だが白人や黒人も混じっている。
身なりのきちっとした我々にホームレスの連中は皆、敵意に満ちた視線をあびせかけてくる。ヘティに卑猥な言葉を投げ掛ける者もいた。
俺とヘティはそんな視線にはお構いなしにコトブキチョウの中心にある一番高いビルを目指した。
お目当てのビルディングに着いた。十階建てだ。一階の入口付近には、朝鮮人の一団がたむろして、やはりドラム缶の火で体を暖めている。ビルに入ろうとすると、一人の朝鮮人の男が通せんぼをして言った。
「おまえら、ここに何の様だ?」
何百日と風呂に入っていない異臭が鼻につく。
「李泳三に会いたい。ハマオが来たと伝えてくれ」
男は俺の言葉を聞くとビルの中に消えた。
十分程すると男が戻って来た。
「李さんは会っても良いと言ってる」
俺とヘティはビルの中に入ろうとした。
「ちょっと待った」
男は俺とヘティを呼び止めた。
「通行料だ。二十ドルよこしな」
俺は男に二十ドルを渡し、中に入って行った。李の部屋は十階にあるはずだ。俺とヘティは汚いビルの汚い階段を昇って行った。このビルも簡易宿泊所だった。階段を上がるたびに各部屋からの異臭が漂っていた。
十階に着いた。俺はここに何度か来た事があった。李の部屋のドアをノックした。
「入れ」部屋の奥から低い声が聞こえた。
俺とヘティはドアを開けて中に入った。やはり汚く古い部屋だったが、中は片づいている。ここは李の寝室兼オフィスなのだった。李は身長一七0センチ弱、体重五十キロぐらいの小さく痩せぎすの男だった。年齢は四十五歳くらい。力は強くないが、切れる頭脳を持っていて、このコトブキチョウの簡易宿泊所全てを取り仕切っている。
部屋の中には、もう二人程李の部下がいた。
「李、久しぶりだな」
「用件を早く言え」
李は俺たちに目線を合わせる事無く、タバコをふかして何かの書類に目を通している。
「“シンガ”って知ってるよな」
「聞いた事はある。それがどうした?」
「コトブキチョウにいると聞いた。場所を教えてくれ。情報料は払う」
「お断りだ。ここの住民たちのプライバシーを売る事はしない。とっとと帰りな」
全くとりつくしまが無い。そこにヘティが口を開いた。
「わたしの名はヘティ・スカエシ。ジャワ人よ。七年前にコーホクエリアで家族を惨殺された生き残りよ」
李の目線がヘティに動いた。
「わたしは“シンガ”に復讐したいの。どうしても居場所を知りたい。あなたたち、知ってるなら教えなさい。さもないと・・・」
ヘティは新型拳銃を取り出した。そして李と他の二人の部下に向けた。ヘティの眼は血走っていた。
短く長い緊張感に部屋が包まれた。
「お嬢ちゃん、わかったから銃をしまいな」李が言った。
「俺はこのコトブキチョウに何百人という犯罪者をかくまっている。犯罪者と言ってもせいぜい盗みや単純な殺しぐらいなもんだ。だがお嬢ちゃんの様な年齢の子供を殺す奴は虫が好かん。調べてみよう」
李は部下に目で促して、コンピューターで調べさせた。
十五分くらいして部下の男が言った。
「ボス、わかりました」
李は立ち上がるとコンピューターに目を通した。
「一週間前に身元不明のシン・チュンマイと言う男がZ棟三0二号室に泊まりに来ている。不気味な男で同部屋の男たちが、気味悪がってるという噂を聞いた。“シンガ”かどうかわからないがあたってみる価値はあるんじゃないか」
俺は李の意外に筋の通った考えに感心していた。
「ありがとう。情報料は幾ら出せば良い?」
「ロハだ。俺も“シンガ”の様な奴は気に入らない。もし捕まえたら、コトブキチョウから追い出してくれ」
俺とヘティは礼を言って李の部屋を辞した。

19

俺とヘティはZ棟を目指して歩いた。おかしなものでニッポン有数の大スラム街の簡易宿泊所が、現在はまるで団地の様に管理されている。
Z棟は李のビルディングから十分程歩いたところにある、五階建ての古く汚い建物だった。建造されたのは二十世紀の中盤といったところか。
建物の入口には、ドラム缶で燃やした火で体を暖めている中央アジア系の男たちがたむろしている。
そこで一人の四十代の男にまた二十ドルの通行料を払った。ここの連中は、きちんとした身なりのよそ者からは入場料をとる様だった。
目的の三0二号室は三階の突き当たりにあると、通行料をとった男が言った。この男は、Z棟の簡易宿泊所の経営者らしかった。なまりから察するにキルギスあたりの出身と思われた。
三階へ昇った。俺とヘティも緊張して、それぞれの武器をいつでも取り出せる様にした。
三階には三部屋しかなかった。三00号室と三0一号室と三0二号室だ。
三0二号室は先程の経営者の言った通り、階段から向かって一番遠くの突き当たりの部屋だった。どこからか、やかましいインドのフィルム・ミュージックが響いている。
俺とヘティは三0二号室に着いた。この中に目指すシンガがいるかもしれないと思うと思わず手に汗をかいていた。
俺は部屋のドアをノックしてみた。何の応答も無かった。いないのか?或いはうるさく響くフィルム・ミュージックの音量でノックの音がかき消されたのか?
もう一度強くノックしてみた。また応答は無い。今のは、中に人がいれば聞こえた筈だ。
俺は意を決してドアノブをひねった。開いた。俺は部屋の中に入った。ヘティも続いた。
汚く散らかった部屋には、二段ベッドが四つあった。
「誰かいないのか?!」俺は大きな声を発した。
部屋には何処からかインドのフィルム・ミュージックが依然うるさく響いている。
「うるせえな」
ドアから見て左側の奥の二段ベッドの上の方から返事が返って来た。返事を返して来た男は体を起こし、こちらを向いた。
顔は浅黒く彫りが深い。アラブ系だ、と俺は思った。汚いなりをしていて、今まで眠っていた様で寝ぼけた表情をしている。身長は一六0┰くらいで、痩せていた。年齢は四十代といったところか。
「俺の名は村田だ。シン・チュンマイはいるか?」
「いねえよ。さっき荷物をまとめて出ていったぜ」
「さっきっていつ頃だ?」
「さあおぼえてねえな。今日の・・・朝じゃねえかな。俺はずっと眠っていたからな」
今は午後二時近くになっていた。朝出ていったら、話にならない。
ヘティに小さい声で聞いた。どうだ、この男がシンガか?いいえ、違うわ。シンガはもっと大きな男だった。
「シン・チュンマイについて聞きたい事がある。これで教えてくれないか?」
俺はアラブ系の男に二十ドルを渡して言った。
アラブ系の男は金を素早く受け取り、関心を示して二段ベッドから降りて来た。
「もう二十ドル出しな。そうしたら喋ってやる」
俺はためらう事無く、もう二十ドル出した。
「よし、分かった。タバコも一本くれないか?」
俺はアラブ系の男に、ガラムを一本渡し、ライターで火をつけてやった。
男は、煙を大きく吸い込むと満足げな表情を見せた。おそらく何百日と風呂に入っていないのだろう。すごい異臭がする。
「シン・チュンマイって奴は、一週間ぐらい前にやってきてな。顔は南アジア系の様だった。不気味な野郎で、俺たちには余計な事は一言も喋りはしねえ。身なりは汚かったが、俺には分かったよ。あいつは浮浪者じゃない。普段はまともな生活をしてる奴だとな」
男はタバコの灰を灰皿に落とし、言葉をいったん切った。
「たまにいるんだよ。身分を隠すために、このコトブキチョウに潜り込んで来る奴がな」
「どんな特徴があった?」
「特徴?そうだな。背は一八0┰ぐらい、体格は普通だ。痩せても太ってもいない。だがな、あいつが着替えてる時、俺はあいつの体を見たんだよ」
「体?」
「そう。あいつの体には何箇所も傷があったよ。あれは何だな。ムチやろうそくでつけられた傷だ。あいつはマゾに違いねえ」
「マゾ、だ?」
「そう。あいつをソープゾーンで見かけた奴がいる。SM店でしこたま遊んで来たに違いねえ」
俺とヘティは思わず顔を見つめ合った。
「そのソープゾーンでシンを見かけた男は?」
「そいつも出て行ったよ。昨日の晩だ。俺と同じアラブ系だが、ナゴヤに行っちまった」
俺とヘティは、他に細かい点を男に聞いていった。しかし今まで話した以上の事は出て来なかった。
「そのシン・チュンマイという男は左手首に大きな切り傷が無かった?」ヘティが訊ねた。
「左手首に切り傷?おお、おお。あったよ。あれはムチで作った傷じゃないな。刃物かなんかでつけた傷だよ」
このシンと名乗った男がシンガという事を、二人は確信した。
礼を言って二人は部屋を辞した。

20

二人は汚いホームレスたちの街、コトブキチョウを後にした。
もう次に行くのはソープゾーンに決まっていた。
二人は地下鉄に乗った。俺はヘティにHamatownの危なく汚い旧市街の裏の顔を見せ回っているようでとても気が引けていた。しかしヘティは全くひるむ事無く、復讐するために燃えた目つきをしている。
地下鉄で十分程してさっき来た俺のオフィスのあるカンナイ駅に戻った。ソープゾーンはオフィスと反対の方向にある。
ソープゾーンとは俗称で、本当はフクトミチョウと言うこのHamatownで一番の性風俗街だった。かつてソープランドと呼ばれていた売春所が沢山あったところから、ソープゾーンという名が付いたのだった。
この街には何十、何百の風俗店があった。風俗店と言っても、売春宿からSMクラブまでサービスの異なるいろんな店があった。
時刻は午後四時になろうとしていた。風俗店で店を開けている所は半分くらいだった。
大方のSMクラブは夜になって営業を始めるから、今は準備中だろう。
「ヘティ、SMクラブなんて初めてだろ」
「そうよ」事も無げにヘティは答えた。
「これから一軒一軒当たっていくしか無い。夜遅くまでなるぞ。大丈夫か?」
「平気よ。そのつもりで来たんだから」
ヘティは携帯電話から、俺のオフィスの外に待っているエア・カーの運転手に、移動する毎に電子メールで自分の位置を教えていた。
俺たちは、SMクラブを一軒一軒訪ねて回った。何処も無愛想にあしらわれた。このソープゾーンにSMクラブは十軒から二・三十軒ある様だった。中には会員制の秘密クラブもあるから探すのは一苦労だった。しかしシンガはアジア中を動き回っているから、会員制のクラブに入っているとは考えにくかった。
十五軒目に俺たちはようやく手掛かりにぶちあたった。

21

「南アジア系で、左手首に大きな切り傷のあるマゾ男?来てるわよ、毎晩」
店のマダムはあっけなく答えた。店の名前は「ソドムとゴモラ」。何ともおどろおどろしい名前だった。ユダヤ教徒やキリスト教徒にすれば、これほど許せない店の名前は無いだろう。ソドミーとは英語で同性愛者の事を言うが、店の名前とホモはあまり関係無いとマダムは言った。
「あんたたち、警察じゃないわよね。このお嬢ちゃんがウチに入りたいという訳?」
「いや、そうじゃない。シン・チュンマイという男を探してるんだ」
店のマダムはニッポン語を流暢に話した。間違いなくニッポン人だろう。年齢は四十代中盤といったところか。少し太っていて、分厚い化粧を顔にほどこし、ゆったりとしたブラウスとパンツを身に付けていた。両手には幾つもの腕輪、指にはこれまた宝石の付いた幾つもの指輪。濃い香水の匂い。
「先立つものをくれれば、調べてみても良いわ」
俺はマダムに百ドル渡した。マダムはにっこりとして、店の予約名簿を取り出した。
俺たちは店のロビーにいた。開店は一時間後だった。
部屋を整えるボーイたち。化粧に余念の無いSMプレイの相手をするであろう若い女娼たち。女性客の相手をするのであろう男娼たちも少しいた。十三歳のヘティを含めた俺たち二人は、まるで店の中で浮いた存在だった。
「来てるわよ、シン・チュンマイ。この三日間続けてね。今晩の予約も入っているわ。午後八時半だわ」
「本当か?そのシン・チュンマイは確かにさっき言った南アジア系で左手首に大きな切り傷のある男なのか?」
「そう。実はあたしも困ってるのよ。何か不気味な客だし、プレイが尋常じゃないの」
「どう尋常じゃないんだ?」
「マゾなんだけど、極端なマゾなのよ。ムチを入れるにしても、女の子たちが思い切りやってもそれ以上求めるの。あのままじゃ死んでしまう手前まで叩かれるのを待つのよ。そして涙を流して、南アジアの言葉を叫んで、失神するまで叩かれるの」
「マダム。そのシン・チュンマイに会いたいんだ。この店で奴が来るまで待たしてくれないか?」
マダムはしばし、こちらの目を見て考えている様子だった。
「会ってどうするの」
「とにかく会いたいんだ。ずっと探していた奴なんだ。その代わり、俺たちがいる事を知らせないでほしい」
「そう。だったら、もうこの店には来ないようにあなたから言ってくれる?あの調子で、ムチや何かで殺しでもしたら、店は大損害だわ」
「言ってみる」
「じゃ、あなたたちもここの使用料を払ってもらわなければ。八百ドルよ」
八百ドル。俺には手持ちが無かった。ヘティに目で合図をした。
「小切手でも良いですか」ヘティはバッグから自分の小切手を取り出した。
「あら、お金持ちのお嬢さんね。いいわよ」
ヘティは小切手に八百ドルと自分のサインを書き込んだ。

(つづく)

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