更新記録と日記

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2007/7/10

 局所的に人気の高いボルトキエヴィチのピアノ協奏曲1番から3番までの楽譜と夭逝したスクリャービンの息子ジュリアン・スクリャービンのピアノ曲の楽譜を入手。ボルトキエヴィチは昔結構集めたのですが入手出来なかったものもいくつかありました。その中の一つがこの一連のピアノ協奏曲。内容はまぁいつものアレなんですが、ボルトキエヴィチフリークにはたまらない内容であるかと思います。2番は手書き譜で読みづらい。
 一方11歳の若さで夭折したジュリアン・スクリャービンの作品はかねてから見てみたいと思っていたものでした。10歳から11歳にかけて書かれた僅かな数の前奏曲は既に父アレクサンドル・スクリャービンの後期作品のスタイルです。出発点が後期スクリャービンとは末恐ろしいですが船の転覆事故により死去。ジュリアン・スクリャービンといいスタンチンスキーといい世の中にはおそるべき「夭折の天才」がいるものです。

2007/7/9

 JEUGIA梅田ハービスENT店でのライヴの曲目を若干変更。
 バッハ エゴン・ペトリ編 羊は柔らかに草を食み
 ワイルド プーランク頌
 バッハ イタリア風協奏曲
 バッハ グレンジャー編曲 トッカータとフーガ BWV565
 マルチェロ−バッハもいいのですがバッハの編曲とオリジナルに統一して見ました。マルチェロの「オーボエ協奏曲」2楽章はワイルドも編曲しています。こちらの方が原曲に近いです。

 この1ヶ月ほどで自分でも驚くほどの量を暗譜しています。今回の演奏会関連以外にも新しい曲や仕事先の楽器店でのデモ演奏など暗譜で挑んでいます。中にはジブリなども含まれているのですが我ながらよく覚えたものだと思います。とにかく暗譜嫌いなものですので…。しかし暗譜も数をこなすと少し感ずるところがあります。暗譜は習慣なのだと。覚えるのに「なれ」はありませんが習慣にはなります。「暗譜演奏」は全面的に賛成は出来ない部分はありますが、暗譜はやはり演奏上絶対必要なのではないかと確信を深めています。

 金澤攝さんからお手紙を頂きました。金澤さんはパソコンも携帯も持たれず世俗とは無縁の孤高の芸術家といった風情でかろうじて電話かお手紙で連絡を取り合っています。しかし電話でもなにか実際に会って喋るような感じは薄れむしろ手紙の方がお互いを理解しあえるような気がします。現代において手紙やハガキなどはアナログの極み、ボタン一つでメールが送れる時代です。だからといって「手紙やハガキのような手書きの方が心が通じる」というような心理的側面はあるかもしれませんが私はそういった発想は好きではありません。しかし、アナログでしか表現できない事があるように手紙やハガキならではのコミュニケーションはあると思います。そのもどかしさ故に文章に人柄を含めたもの、過剰なものがあるように思います。これは瞬時に送信されるメールにはないものです。「伝わってなければ送りなおせばいい」という安易な考えではない過剰なメッセージが手紙やハガキにはあります。これは内容の長い、短いに関係なく感じられることです。
 最近手紙やハガキを出した事がありますか?

 金澤攝さんにお手紙で「そろそろ作曲、編曲をなされては」としきりに勧められているのですが私のようなかろうじてピアノを弾いているような者にはなかなかキツイ言葉です。作曲は最終的には「自分のメロディーが書けるか」というところに帰結するのではないでしょうか。「メロディー」のない無調の作品や12音音楽などありますがこれらの技法は想像以上に創造力を問われるものです。ジャズやポピュラーのすごいところはこれらのメロディーの創作をいとも簡単に行える人物がいることです。宮川泰、すぎやまこういち、渡辺宙明、筒美京平、中村八大といった日本のポピュラーを支えた人物の才能はおそるべきものであると思います。創作とは自らの才能を如実に表すもので、私にはなかなか踏み切れません。

 最近は家でばかり飲んでいますがビアガーデンの季節なので表で飲んで見たいものです。7月中はおあずけでしょうが8月に入ったら飲みに行きませんか?(誰を誘ってるのだか…)

2007/7/4

 久しぶりの更新です。まずいつもお世話になっているJEUGIA梅田ハービスENT店でライヴを行います。曲目は
 マルチェロ バッハ編曲 オーボエ協奏曲から2楽章
 ワイルド プーランク頌
 バッハ イタリア風協奏曲
 バッハ グレンジャー編曲 トッカータとフーガ BWV565
 の予定です。時間的な問題で変更の可能性もあります。

 大学の頃の友人からメールでこのようなニュースが届きました。「銅純度99.9999999%、日鉱金属が作製」。オーディオ用ケーブルとして8N銅は存在するそうで、オーストラリア製の低価格8N銅ケーブルもあるということです(アメリカのSPACE&TIME社のPrism3-8N/Prism5-8Nのことでしょうか)。この9N銅によるオーディオケーブルが出現するのかどうかわかりませんがなかなか気になる話です。ところでエドガー・ヴァレーズに「密度21.5」という作品(白金製フルートのための作品で題名は白金の密度に由来)がありますがケーブル商品名「純度99.9999999」なんていうのはインパクト大だと思うのですが…。

2007/6/21

 最近何故かよくモーツァルトを聴く。大体よく聴くのは有名なもので「交響曲40、41番」や「アイネ・クライネ・ナハトムジーク」「ディベルティメント」などですが特にグールドが毛嫌いしていた「40番」はお気に入りです。数種類聴き比べるのですがクーベリック(ソニー盤)ケルテス(ロンドン盤)ベーム(2回目の録音DG盤)が特に好きで繰り返し聴いています。ベーム盤は数年前レコード特価市で手に入れたLPですが1楽章のそのゆっくりのテンポに少々ついていけなかったのですが、こうして様々な盤を聴き比べると音の整合性、緊張感など味わい深い演奏であると思います。一方ケルテスは同じくモーツァルトの「エクイエム」「交響曲25番」等もよく聴きますが40番のキビキビした感じは好きです。中学生の頃に読んだ小林秀雄の「モオツアルト」は確かに名著であると思いますが私は実はああいったモーツァルトの聴き方はあまり好きではありません。「疾走する悲しみ」といは実に詩的な表現ですが私はモーツァルトはイージーリスニングのような雰囲気とロココ的な軽さ、短調の曲でもチャーミングである演奏が好きです。おそらく音楽史上モーツァルトほど音楽に哲学を持ち込まなかった音楽家も稀であるかもしれません。このことはモーツァルトの天才性を示しこそすれ、彼の音楽を貶める因にはならないと思います。モーツァルトの音楽は深刻さはないものの誰も手の届かないような所があります。よくモーツァルトの演奏は「天才か子供の演奏がいい」などと言われますが彼の音楽の前では小賢しい「解釈」などは奏者の愚昧さを露わにするだけなのかもしれません。確かにモーツァルトを弾くのは難しい。

 ティエンポによって初演されたマタロンの「Dos Formas Del Tiempo」を譜読み。随分以前に買った楽譜ですがほったらかしにしていたので最近譜読みを始めましたが結構難しい。一応一定の規則はあるのですが暗譜するのは大変だろうなぁ…(^^;

2007/6/17

 ここしばらく行っていなかった大阪の中古レコード屋をのぞきに行く。一応予算は2000円。入るとすぐ150円特価コーナーが(^^;掘り出し物もあるかもしれませんがあまりに数が多いのでとりあえず分類してある商品のコーナーへ。現代音楽コーナーを見ていると朝比奈隆が服部良一に委嘱した「おおさかカンタータ」のLPを発見。これは買いと思いましたが価格が8000円。この中古レコード店は廉価で知られる店なのですが、破格の値がついていました。非常に欲しかったのですが諦めてピアノコーナーへ。グールドコーナーが妙に充実していて「ヒンデミットピアノソナタ全集」と「20世紀カナダのピアノ音楽」の二枚を確保。意外と見かけないLPです。何故かアシュケナージのコーナーにニレジハージのリストアルバムが入っておりこれも確保。ジュリア・タマムジェバのリサイタル盤、ショパン「舟歌」スクリャービン「練習曲8−10、42−5」タネエフ「前奏曲とフーガ」バルトーク「戸外にて」ババジャニアン「ポエム」という曲目で思わず確保。後ケルテスのモーツァルトの「交響曲35、40番」を加えて合計4000ほど。予算オーバーでしたが買ってしまいました。中古LPは例えグールドのようなメジャーで再発も多いレコードでもいざ欲しいとなると手に入らなかったり、予想以上の価格だったりします。予算が許せばその場でおさえておくべきですが、そういっていると予算が幾らあっても足りませんが…(^^;

 日本映画専門チャンネルで1985年製作のアニメーション「銀河鉄道の夜」が放送されました。私は小学生の頃この作品をロードショーで見ているのですが当時は「暗い映画だなぁ」ぐらいの感想でした。今回実に22年ぶりに再見しましたが、感動しました。ありがちですがジョバンニとカムパネルラの別れのシーンでは思わず涙がこぼれそうになりました。脚本は別役実。細野晴臣の音楽も秀逸です。
 この作品傑作にはまちがいないのですが、注意が必要であると思います。まずこの映画は宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」を基にしていますが賢治の作品とは別のものとして鑑賞するべきです。そしてこれはアニメーションについて廻る問題ですが、この作品は断じて子供向きの作品ではありません。子供に見せるなとはいいませんがこの映画を見せて宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」であると言うのは早計の極みです。原作とは切り離された次元で鑑賞するべき作品でこの映画を見て夏休みの読書感想文を書いたりするととんでもない恥をかくことになります

2007/6/16

 リスト編曲によるベートーヴェン「第9」の2台ピアノ編の楽譜を入手。以前から気になっていたものです。「第9」の編曲はリストのソロ版以外にはジンガー編の2台版があります。リストの2台版については「ソロ版を二人で弾いている」など諸説ありましたが勿論2台版は全く違う楽譜です。これがなかなか上手く書けています。さすがはリスト、編曲のセンスは抜群です。ソロ版よりは体力的に弾くのは楽でしょうが実演はなかなか聴く事は出来ないでしょう。ソロ版も先日FMでシチェルバコフのライブが放送されましたが弾く人はなかなかいないのではないでしょうか。日本人では若林顕氏が最近よく演奏されているそうです。
 リストの作品はあまり膨大で特にその編曲作品は有名な物以外はほとんど知られていない、楽譜も入手困難という状態です。確かに今日演奏会に取り上げるに値する重要な作品は多くないかもしれませんがやはり資料的価値を含めブダペスト版全集には頑張ってもらいたいものです。しかしこの全集いつ完結するのでしょうか…(^^;

2007/6/13

 ファジル・サイによるモーツァルト「トルコ行進曲ジャズ」とバッハ「パッサカリア」の楽譜が到着。注目は「パッサカリア」だったのですがこれがいままでに見た事のないような編曲。「パサカリア」の編曲はダルベールをはじめ数種もっていますがそのどれもがオルガンの音を如何に拾うか、音の壮大な伽藍を作るかという方向なのですがサイの編曲は確かにこの方向性ではありますがもっとシンプルで音の大胆なカット、まさに省エネ志向の編曲です。それで出てくる音がスカスカかというと聴感上はそんなことはなくむしろ音の詰まりきった楽譜を鈍重に弾くよりは効果的であるように思います。確かに物足りない箇所も散見されますが通して聴くとあまり気にならないと思います。バッハのオルガン曲の編曲はブゾーニの常人離れした天才的な編曲の存在が大きく、ブゾーニ以降の人間はどうしても意識せざるを得ません。グールドのようにアンチ・ブゾーニを標榜するかブゾーニの亜流にかという二つの選択肢に限定されていた感があります。サイの編曲はそのどちらの方向性とも微妙に違い興味深いものです。なお出版社はSchottです。

2007/6/11

 My favourite pianistsフリードリヒ・グルダと追加。

 先日衛星劇場で中村登の「河口」が放送されました。この作品は以前中村登の回顧上映の際見ているのですが、岡田茉莉子さんと山村聡のかけあいが最高に面白かったのが印象に残っています。脇も東野英治郎といった芸達者な人が固め特別、名作という訳ではありませんがそれなりに見ごたえのある作品です。近年の映画がどうにも薄っぺらい感じがするのは脇の名優が減ったせいの気がします。東野英治郎、加藤武、小沢栄太郎、小沢昭一、大泉晃、山茶花究、岸田森といった方に匹敵する俳優はどれほどいるでしょうか。映画は主演俳優だけでは成り立ちません。作品に奥行きを与えるは豊かな脇役陣であると思います。

2007/6/3

 ここ数ヶ月で随分色々な楽譜が到着しているのですがほとんど管理しきれてません(^^;気になったものではフンメル編曲のモーツァルトの交響曲があります。カツァリスが演奏して有名(?)になった40番のほか41番も編曲しています。40番は全音から出ている奥村一の編曲譜と少し見比べて見ましたが音の使い方がそれぞれ違っていてなかなか面白いです。全く一緒という箇所もあります。これはおそらく奥村氏がフンメル編を参考にしたというより、元の曲がこうせざるを得ないという楽譜のような気がします。右手のパッセージが微妙に違ったりするのはいかにも両者のセンスの違いが出ていて興味深いです。41番は少し弾いて見たかんじではなかなか良く出来た曲だと思います。特に4楽章は弾いていて楽しいです。
 レイモンド・アーンのピアノ協奏曲。タリアフェロによるLPをもっていますが正直あまり印象に残っていません。楽譜をみるとタリアフェロに献呈。楽譜を見る限り結構ピアニスティックな書法で面白そうなのですが…。もう一度楽譜を見ながら聴いて見る事にします。

 楽譜もデータベースにすればいいのでしょうがどうにも面倒くさくて…。録画した映画は一応データベースを作ってますが最近さぼり気味なので間違えて2度録画なんてこともあります。最終的にはマメじゃないとダメですね(^^;

2007/5/25

 「放送倫理検証委員会」の会合が行われその会見中立花隆氏が国会で審議中の放送法改正案について「表現の自由を守るのに大切な時期。放送局が自らを律していかない限り、大変な方向に行く可能性がある」と発言されました。政府のTV番組の介入についてまさか大賛成という人はいないだろうと私は思っていましたがわざわざ立花氏が本件に触れたのはこの法案に賛成もしくは無関心ということの表れのような気がします。「表現の自由」はともかくとして、我々は少しTVに依存しすぎであるといえます。確かにTVは面白いのですがそこに映し出される映像は「事実であり事実でない」という事を認識すべきです。ニュースや科学ドキュメンタリーは事実であろう、と思う方も多いと思いますがそれは事実の断片をある角度から見たものです。明らかなニセニュースや捏造でなくても一方的な報道のあり方は度々議論されていることです。これは人間が作るものであるから仕方がないものだと思います。
 いつの頃から「事実は一つでなければならない」という考え方が浸透したのかはわかりませんが私のようないい加減な人間は正直息が詰まりそうです。確かに某TV局の捏造問題は問題にすべきことであると思いますが、逆に言えば「捏造」のないTV番組があるとでもいうのでしょうか?たまねぎ頭のおば様やかつてイグアナだったサングラスのおじさんのトーク番組に出ているタレントが全て「素」であるとか、アイドルグループが毎回注文に応じて即興で料理を作るとか疑い出せばキリがありません。別に私はそれらが「捏造」いや「演出」であったとしても全然かまいません。むしろ面白ければどちらでもいいのです。私はTVとはそういうものだと思います。毎日毎日「素」で面白い事ばかりおこることの方が尋常ではないでしょう。
 実は私はオカルト番組が大好きで「心霊写真特集」などがあれば思わず見てしまいます。見ている時は「凄いなー」とか「気持ち悪いなー」と刺激を受け、番組が終われば大概忘れてしまいます。せいぜい寝る前に思い出して「気持ち悪いなー」といつもは消して寝る豆電球をつけて寝るくらいのものです。かといって私が霊とかオカルトを信じているかというとそういう訳ではありません。映画では味わえない怖さ、気持ち悪さを求めているだけと言えます。非常に不謹慎ですがやはり取り上げられる「心霊写真」は強烈なものを求めてしまいます。それが「捏造」であるかどうかはここでは問題になりません。ただ私は刺激を求めているからです。「捏造」が問題になるのはそれを「信じている」かどうかという部分が加わって初めて大きな問題になります。某占い師を妄信するのも科学、哲学を妄信するのも「信じている」という次元においてはまったく同根であるという事は認識してもいい事ではないでしょうか。
 ニュースや科学番組とバラエティは違うと思われる方もいるかもしれませんが、問題は同根であると思います。私は歴史の番組なんかは結構好きなのですがそれも資料としたものによって同じ題材でも全く違う番組になることはよくあります。科学番組でも反対意見の研究者がいる事などザラです。それを敢えて取り上げないというのであれば明らかに製作者側に恣意的な意図があります。これが「捏造」にあたるとすればほとんどの科学番組は何らかのカタチで「捏造」されていると言えます。言葉をかえれば「捏造」ではなく「演出」されているのです。何故そんな事が起こるのかといえば、それは製作者側が我々視聴者に応えるためです。私には「捏造問題」に於ける視聴者の過度なTVへの依存がほとんど問題にされていないのは非常に不思議におもえてなりません。
 (余談ですが「プラネットアース」という番組は本当に優れた作品であると思います。一切の科学的考察抜きにただ自然のおそるべき生態を美しい映像によってのみ堪能する事が出来ます。しかしそれも自然の一断片にすぎません。映像はヤラセでも捏造でもありませんが、演出された番組には変わりありません)
 かくゆう私もTVを見て健康にいいと言われれば興味がありますし、朝のワイドショーの占いで「運勢良し」と出れば一日気分もいいです。人間とはそんなもんなのだと思います。
 みなみしんぼう氏は「笑う写真」の中で「写真とは真を写すと同時に真を写さない」といったことを書いています。私も同感です。さらにしんぼう氏は「面白ければいいじゃないの」と笑い飛ばします。これくらいの余裕を持ってTVを見るべきではないでしょうか?

 私は政府のTV番組の介入によってオカルト番組がなくなることをもっとも危惧しているのですが…(^^;;

2007/5/22

 さる方のご厚意でバッハ作曲カツァリス編曲「バディネリ」の楽譜を頂く。カツァリス節全開の快作。特に繰り返し部分で右手高音部が異様な動きをみせ、カツァリスの弾いているような快速で弾ききれば素晴らしい効果をあげると思われます。いわゆる「ピアノマニア」好きする編曲です。カツァリスについては実のところその奇矯さや強引さが気になるところが大きいのでわりと微妙な位置にいるピアニストなのですが「面白い」という点では当代随一の存在と言っていいでしょう。随分前にやはり、さるカツァリスファンの方からカツァリスが演奏するワイゼンベルグの「ソナタ」の映像を頂いたのですが、ああいった曲でも軽々と暗譜演奏してしまうのをみるとやはりただものではないピアニストであると思います。自主レーベルから出している録音の多様さ(ベートーヴェンの未出版の「プロメテウスの創造物」ピアノ版など)を見てもそのレパートリーの広さには驚きいる限りです。定番レパートリーに熱心に打込む事は決して悪いことではないと思います。しかし無反省に他人事のような演奏になってしまうのは如何なものでしょうか。演奏家にとって究極の問いは「何故演奏するのか」という事だと思います。

2007/5/18

 schedule、演奏会情報を追加。7月28日(土)阪急御影世良美術館で演奏会を行います。プログラムは

 クラヴィア練習曲集第2巻(フランス風序曲BWV 831、イタリア風協奏曲 BWV 971)
 イタリア風アリアと変奏 BWV 989
 ヴァイオリンとクラヴィアのためのソナタ BWV 1017

 すべてヨハン・セバスチャン・バッハの作品です。ヴァイオリンは松浦梨沙さん。かねてより演奏してみたかったプログラムです。ちなみに「セバスチャン」はドイツ語では「ゼバスチャン」のほうが近いそうですが慣例に従いセバスチャンにしています。グールドの「So you want to write a fugue」のなかでは「John Sebastian」になってます。そういえば故ヨハネ・パウロ2世は英語圏では「ジョン・ポール・ジュニア」だったとか。これはかなり違和感があります(^^;

 パワーアンプ1552Qですがなかなかいい感じです。何よりコンパクトなのが使い勝手いいですね。プリアンプのLM4562の性能も相俟ってCD、LPをかけるのが楽しいです。こうして聴いて見るとミケランジェリの録音もなかなか彼のタッチを髣髴とさせる部分もあり興味深いです。ラヴェルの協奏曲では高音部ではじきあげる様な煌びやかな音色などいかにもミケランジェリらしいです。2楽章のソロ部分はタッチの差はわかりますが現実になっていた音は如何ほどであったのか、実演を聴く事が出来ないのが残念です。

2007/5/14

 ピアノを弾かない人と話していると結構な頻度で「鍵盤を叩く」という表現を聴きます。別に悪気はなく、むしろ大きな音を出て迫力がある事を語る時に「叩く」という表現が出てしまうようです。中村紘子女史がその著書で苦々しく「鍵盤は叩くものではなく弾くもの」と書いていますが、確かに「叩く」いう表現には私も抵抗があります。大きな音を出す際には「弾く」というより「叩く」という方がイメージにしっくり来るのでしょうが、やはり「弾く」といって欲しいものです。ピアノを弾いている人ならホロヴィッツの強烈な爆音を聴いて鍵盤を叩いているとは思わないでしょう。しかしピアノを弾かない人が聴くと叩いていると思うかもしれません。叩くと弾くの一番の違いはおそらく楽器、ピアノそのものが鳴っているかというところではないかと思います。ホロヴィッツの強音が響くのは楽器が鳴り切っているからであり、力任せに汚い音を出しているからではありません。
 最近自作オーディオ機器で試聴していて感じるのは録音の限界です。結局のところ我々は録音からは本当にその演奏者の出している音を聴いているのではなく機械的に処理された、何らかの形で変わってしまった音を聴いているのです。オーディオ的な音などという言葉がありますが、全ての録音はオーディオ的なものであると言えると思います。勿論「オーディオ的な音」が悪い訳はありません。むしろ録音というものは繰り返し再生される事を前提に造られている訳ですから、音としての「出来不出来」を均一化する方向に向かっても不思議ではありません。ただ生の楽器に触れる人間は「本来ならばこう聴こえたはず」の音を想像するしかないのです。ホロヴィッツの音は比較的想像しやすいのですが、ミケランジェリになるとほとんどその微妙な音色の差は録音では捉えられ切れていないように思います(勿論ホロヴィッツの音が捉えられているとは言いませんが)。
 録音を聴く限り「叩く」という表現もひょっとするとそれほど間違ったものではないかもしれません。しかしそこには「想像力」がかけているような気がします。録音はあくまで録音です。そこから生の音を聴く事は不可能です。録音の真似をするのは危険ですよ(^^;

2007/5/13

 かねてから気になっていたフィリップスのTDA1552Qを使ったパワーアンプを作成しました。酒井智巳氏の「はじめてつくるパワーアンプ」で紹介されていますが、この本ではICの足に直接部品をハンダ付けしていく方法をとっています。これは私も自信がありません。ICは熱に弱いのでハンダ付けにもたもたしてるとICを破壊してしまいます。どうしようかと思っていると共立電子さんでこのICのピッチ変換基盤というのがあるのを見つけそれを使って組み立てて見ました。製作は部品数も少なく今まで作ってきた物の中で一番楽に出来ました。そのため油断していたのかうっかりLED(電源を入れると点灯するパイロットランプ)に逆電圧をかけてしまい破壊してしまいました。油断は禁物ですね。これがICだったら音も出ないところでした。今回も一番難航したのがケースの加工。小さめのケースにしてしまったため入力端子、スピーカー端子がキツキツになってしまいましたが、なんとか完成。早速以前作ったボリュームを挟んで安物のスピーカーで音出しをして見ます。左右とも問題ないようなのでプリアンプにつないで聴いてみました。確かに評判どおり安価、簡単に作れるにも関わらず非常にいい感じです。しばらくこのアンプを使ってみることにします。LEDは交換しなくていけませんが…(^^;
 今回の制作費は五千円ほど。その中の半分以上がケース代です(ちなみに心臓部であるTDA1552Qは840円)。ケースをケチればもっと安く出来ます。

2007/5/12

 9日のFMでコンスタンチン・シチェルバコフによるベートーヴェン、リスト編曲「交響曲第9番」が放送されました。ルツェルン・ピアノ・フェスティバル2006でのライブ演奏です。「第9」をライブでやるのはさすがシチェルバコフです。なかなか彼の執拗な楽譜に対するこだわりを感じさせる興味深い演奏でした。曲芸的な雰囲気は微塵もなくベートーヴェンの「グランド・ソナタ」といった面持ちです。ベートーヴェン、リスト編曲の交響曲はどれも大変ですが1番、5番あたりはアプローチの仕方によってはなんとなく様になるような気がします。しかし3番、6番、7番、9番は元曲が有名なこともありきつそうです。グールドの6番などは独特の雰囲気が出ておりこれもアプローチ次第かという気もしますが、それでも演奏は相当大変でしょう。リストの膨大な編曲作品の中でも比較的話題になる(つまりややゲテモノ扱いされている)ものはベートーヴェンの交響曲とベルリオーズの「幻想交響曲」ぐらいでしょうか。「アレをピアノでやるか?」というインパクトは十分です。私はベートーヴェンの「グラン・セプテット」が好きなのですが(勿論弾く気にはなりませんが)。

 PIONEERのCDプレーヤーPD-7070を入手。最近猛烈に「80年代の音を聴きたい」と思っていて、某オークションを物色していました。ジャンク扱いでPD-7070が出品されていたのでダメ元で入札すると希望価格で落札する事が出来ました。おそらく商品名が「CDプレーヤー」とだけしか書いていなかったおかげではないでしょうか。
 さて到着しましたので早速状態をチェック。CDをかけると問題なくかかります。これはいい調子だなと思っているとトラック2で猛烈な音飛び。物凄い音飛びでトラック1にもどったり2にもどったりしています。という訳で開腹、レンズの掃除、部品のチェックをしました。CDの読み取り部の異常や経年によるレンズの「ズレ」などはお手上げですが出来る事は一通り行い試聴。音飛びもなく、CD-Rもちゃんとかかりました。さて音のほうですが良くも悪くも80年代の音です。全く意味不明ですが(^^;
 しかしこのプレーヤー重いです。資料によるとPD-01Aに比べても2キロほど重いようです。ケースの天板に鉄板が貼ってあったりと手抜きのない作りとなっています。この機種が送料込みで紫式部1枚でおつりが来る値段で手に入ったのは大変嬉しいです(^^

2007/5/7

 遊音堂での杉谷昭子さんとのデュオ演奏会、終了しました。ブラームスの2台のピアノのソナタを短い準備期間で演奏するのは大変でしたが勉強になりました。杉谷さんの重厚な演奏に支えられて安心して演奏出来ました。
 お越し頂いた皆様に感謝にします。

 杉谷さんは気さくな方です。レッスンは非常に明快なロジックで曖昧なところはありません。高圧的なところは全くなく自然に無理のない指導です。誰だったか音楽教師は「導く」ものだといいましたがその通りです。ピアノの指導法の観点からも大変勉強になりました。そして最終的には人間性ですね。明るく、気さくで飾らない人柄は多くの人をひきつけます。そして演奏にも反映されています。変人、偏屈の天才演奏家もいますが、やはり魅力ある人間になりたいものです。私はまだまだ勉強が足りません(^^;

 終演後お決まりの飲み会で音楽談義。久しぶりにヒートアップしました。5人で飲んでいて私が最年長、ちょっとショックです。気は若いつもりなのですが今日は結構しんどかったです(^^;

 オペアンプの聴き比べ。クラシック、中でも室内楽ではLM4562は最強です。カール・リヒター盤「音楽の捧げもの」のトリオソナタ2楽章を試聴しましたがヴァイオリンとフルートの生きいきとした自由闊達な美しさは比類ありません。自作アンプを作って本当によかったと思った瞬間です。勿論他のオペアンプが聴くにたえないかといえばそういう訳ではなく十分良い音なのですがLM4562の音は抜きん出ていると思います。ただポピュラー系は特にヴォーカルが奥に引っ込んだような感じです。これは録音方式によるものかもしれません。こちらはAD823がなかなかいい感じです。ポピュラーといってもほとんど音源をもっておらず随分偏った評価にならざるを得ないのですがスィングルシンガーズ「ジャズ・セバスチャン・バッハ」小林圭「misty」ポルノグラフィティ「Mugen」を聴いた限りではヴォーカルの息遣いも感じられるようです。傾向としてはOPA2131、OPA2604と似ているのですがこちらはどちらかというと「味付け」された感じがありますがAD823の方が自然に感じられます。
 しかしオペアンプの差し替えは結構面倒です。何台か構成の違うヘッドフォンアンプを作ろうかと思いますがアンプばかり増えてもしょうがないのですけど…(^^;

2007/5/2

 チェリスト、指揮者として活躍したムラティスラフ・ロストロポーヴィチ氏が逝去されました。享年80歳。音楽家であると同時に自由の闘士でもありました。謹んでご冥福をお祈りします。
 木之下晃氏の有名なロストロポーヴィチ氏と小澤征爾が二人でうどんを食べる写真、お二人の人柄感じさせる、私の好きな写真です。

 怪しげな電子部品が届く。色々入っていたのですが一番の目的はオペアンプLM4562です。ネット上でもその音の良さはよく書かれていますが実際このオペアンプを扱っているお店はなかなか見当たりませんでした。私も相当探してやっと見つけました。とりあえず4つ確保しました。
 さて、プリアンプとヘッドフォンアンプに早速つけて試聴。感想ですが確かに凄いです。クリアで飾り気がないのですがディティールにとんでいます。音の感じも「味付け」された感じがありません。ピアノの演奏などはまさに「指使いが見える」ようです。もう少しエージングすればもっとよくなるのではないかと期待しています。
 AD827、AD823も一緒に届いています。こちらのオペアンプも聴き比べるのが楽しみです。

2007/4/28

 現在メインで使用しているアンプはトライパスのTA2041によるものですがこのアンプにはボリュームがついていません。はじめは付けていたのですがプリアンプを作ったので余計な配線の引き回しを排してとってしまいました。別に普段使う際困る事はないのですが、プリアンプなしで使用する事はできません。これは不便なのでボリュームを作りました。ただ音量を調節するだけのものです。これも一応プリアンプです。ボリュームだけとはなんだか無駄のようですがこれからパワーアンプを作る際ボリュームを付ける必要がなくなります。またパワーアンプそのものの音を聴く際に便利なものです。本当のところはサイズを間違って買ってしまったケースを利用したかっただけなのですが…(^^;
 久しぶりにトライパスのTA2041の音を聴く。確かにプリアンプを通すよりもストレートな感じがします。しかしこのアンプもう1年も使っているのですね。はじめは軽く遊び半分で作ったものですがこれほど愛用するとは思いませんでした。
 性懲りもなく色々部品を注文しています。デジダルアンプは高音質は勿論その作成の簡単さ、コストパフォーマンスのよさが魅力です。ケースの加工も最小限の機材でなんとかなります。一からの設計は難しいですが、オーディオ用オペアンプやキットを使えば比較的簡単に製作出来ます。あまりに簡単に出来すぎる感もありますが自作オーディオ入門にはいいと思います。

 ところで先日HPの更新でHPのチェックをするとキリバンをとってしまいました(下画像)。自分のHPでキリバンをとってもあまり嬉しくないですね(^^;

2007/4/26

 杉谷昭子さんと練習を行いました。まぁレッスンですね。ドイツものを得意にされているだけにロマチックな暗い音色で実にブラームスらしい重厚な演奏をされます。私はドライで明るく軽いタイプなので杉谷さんに「もっと暗くなくちゃ」と指摘されました。確かにブラームスはほの暗い感じ、ぼやけた感じが必要です。興味深かったのがいわゆる「重力奏法」の解説です。文章で書くといくらかいても要領を得ないのでやめますが、世に言われている「重力奏法」が随分勘違いされているような気がしました。杉谷昭子さんは年内にはベートーヴェンの28番、29番「ハンマークラヴィア」を演奏されるそうで是非聴いてみたいです。

 先日の更新で「オーディオ・オカルト」について書きましたが紹介しようと思ってすっかり忘れていたHPがあります。「情熱の真空管」の中の「妄想の館」です。サブタイトルは「自分をゆっくり見つめてみよう」。人間は先入観や思い込みというものは避けられません。決して悪いことばかりではありませんが少し冷静になった方がいい場合もあります。オカルトもそうですが科学(トンデモ系ではありません)も問題です。科学は全体性を捉える事は苦手です。科学の知は限界があります。えらそうに書いてますがこれは私の独断だけではなく中村雄二郎氏の名著「臨床の知とは何か」において論じられた問題です。玄侑宗久氏の本でも科学や物理の話が哲学、仏教の話以上に出てきます。極めつけは橋本治。ヨーロッパに於ける科学、哲学を20世紀になって物理者が仏教的発想に置き換えようとしている云々。この話は面白いのでいずれゆっくり書いてみたいと思います。

 近所にあったBOOK OFFが閉店。これはイタイです。最近は本屋といえばここでした。いずれ買うつもりにしていた本もあったのですが忙しさに感けて3ヶ月ほど行かなかったうちに潰れてました。自転車で行ける距離にBOOK OFFはなくなってしまいました。CDやDVDも扱っていて重宝していたのですが…。

2007/4/23

 先日「部品によって音は変わる」と書きましたがこの「オーディオ・オカルト」はなかなか面白い話題ではあります。私はこの点に関しては「電流、信号が流れる部分の部品」に関しては確かに音の変化があるように思うのですが例えば「ケーブルの色を黒から赤に変えると音質が変わる」とか「真空管は元箱に入れるべきである。中国製造の300B(真空管の銘柄)でもWestern Electric(アメリカの名門メーカー)の箱に入れておけば音は変わる」といった情報はどうなのか?と思います。
 結局のところ「オーディオ・オカルト」というのはその人が何に価値を見出すかという事なのだと思います。見た目の重厚感や重さに「高級」な価値を見出す人もいるでしょうし見た目よりも使われている部品に価値を見出す人もいるでしょう。私が愛読している酒井智巳氏の本では部品による音の違いについてかなり詳しく書かれています。本当に音が変わるのかどうかはともかく氏の価値観は使われる部品によって同じ回路でも違う音質を得るというところにあります。反面、氏の推奨するケースはもっとも安価な小型のものです。配線を出来る限り短くしたいという理由からの選択であります。
 私のように「そこそこの部品で見た目もそこそこのものにしたい」などと言うのは中途半端の極みで結局どっちつかずのいい加減なものしか作れないのでしょうが、それでもなんとなく基準はあります。同じ苦労して作ったり、お金をかけてメーカー品を買うのであれば納得のいくものが欲しいというのが人情でしょう。
 オーディオに限らず我々は音楽や演奏、読書や料理、宗教や哲学、数学や科学といったものなども煎じつめれば全て「〜オカルト」へつながる可能性をもっています。私はこれは別に自身の責任においては悪い事ではない思います。ただそれに便乗して(特に弱っている人から)金儲けをするのは如何なものかと思いますが。

 芥川賞作家の玄侑宗久氏の本を数冊読書中。玄侑宗久氏は禅宗のお坊さんです。しかし宗教書とは少し違う内容です。なかなか興味深い内容で面白いです。これもオカルトといえばオカルトなのでしょうが…。

2007/4/20

 作ったヘッドフォンアンプで毎日色々な音源を聴いています。如何せん安価なイヤーホンなのでえらそうなことは言えませんが確かに音はクリアで迫力があります。パーカッションのリアルさなどは驚くほどです。あまり大音響のものはイヤーホンの限界を超えているのでよくわかりませんが普通の音のレベルでは非常にリアルです。現代音楽ファンの間ではお馴染みのシルヴィオ・グァルダのエラートでのソロ録音3枚をよくかけています。シュトックハウゼン「チクルス」やクセナキス「プサッファ」も勿論いいのですがコンスタン「ストレス」、グエン・チェン・ダオの「メイ」が大変面白いです。ダオの「メイ」はベトナムの情景を表した作品だそうで、「ベトナムの夜」のにぎやかさはなんともいえません。ところでこのレコード、ジャケットも秀逸です。レコードのジャケットはいい物が本当に多いです。グァルダの録音場所であろうノートルダム寺院でショットですが決まってます(ジャケットをスキャンするのが面倒だったので写真で失礼、一番手前のレコード)。
 ところで、このアンプ、電池が切れた時のため例によってスイッチング電源(ACアダプタ)でも駆動するようにしています。「電池駆動に比べ音質は落ちる」ということですが、確かに電池駆動時よりもノイズが入っています。音も若干ざらついた感じにもなります。だからと言って聴くに耐えられないような音かと言えばそんなことはなく十分使用に耐えうるレベルのものです。ノイズも音量を相当上げれば聞こえるほどですし音がなっている時は気になりません。普通オーディオ機器は家庭に流れてきている交流を直流にして更に整流して「きれいな」状態にして使います。しかしこの整流という作業がなかなか難しい。しかもオーディオ機器において電源は音質に大きく作用する部分であるので厄介です。このアンプもスイッチング電源から入力後平滑回路を組み入れれば良いのでしょうがそんな余裕はもうありません。
 ヘッドフォンを買うべく色々な機種を試聴しています。価格帯はとりあえず安いものを探してみていますが1万円以内だとそれなりに使えるものは限定されてくるようです。私は主にクラシック、ジャズといった生楽器の録音を聴く事が多いのでこの価格帯ではやはりきついようです。最低でも1万5千以上のモデルでないと難しいようです。だからと言って1万円以内のモデルがダメかというと決してそう言う訳でもないのですが…。ようは「どんな音を求めるか」という事がはっきりしていないとダメなのです。とりあえず基準となるヘッドフォンを購入して聴きこんだ上で自分の好みをその基準から聴き比べていかなくていけないようです。当たり前のことですが「いい」とか「悪い」とかいうことは相対的なものなのです。しかしどれか一つ選ぶとなると悩みなすなぁ…。
 

2007/4/14

 ヘッドフォンアンプが完成。今回の製作では見た目も考えケースもよい物を用意しました。またボリュームはいつもはギャングエラー(左右の音量のバランスが崩れる事)をさけて安物のボリュームを2つ、左右にわけて使っているのですが今回は評判の良いアルプスミニデテントを使用しました。制作費は8,000円ほど。ケースとボリュームこの二つで今回の製作費の半分以上を占めるというからオドロキです。そこを削ればもっと安くでつくる事が出来ます。
 ちなみに基本は電池駆動ですがACアダブターでも動くように背面に切り替えスイッチをつけました。
 試聴はまだ聴きこんでいないのでなんとも言えませんがちょっと聴いた感じではスピーカーからはわからなかった情報がダイレクトに伝わるような気がします。ヘッドフォンアンプはおそらく大抵の人がもっとも気を使わないところではないでしょうか。市販の機器についているヘッドフォンジャックもほとんど「そえもの」といったものですし、本格的なヘッドフォンアンプを買おうとすればやはり10万ほどします。大体市場にヘッドフォンアンプは少ないのです。しかし一部のヘッドフォンアンプの熱心なファンがいます。それはヘッドフォンアンプの長所が結果的に音響的にも経済的にも優れているからだと思われるからです。ヘッドフォンは高価なものは10万以上しますが3万も出せば相当の高級品が買えます。これはスピーカーが非常に高価である事を考えれば結果的に安いでしょう。そしてヘッドフォンは「部屋」というオーディオにとって最大の難関ともいえる問題がありません。店舗で試聴して気に入っても実際家で同じスピーカーを鳴らして同じ音がするとは限りません。部屋の大きさや床、壁の材質など音質を替えてしまう要因が非常に多くあります。そしてヘッドフォンアンプは買えば高価ですが自作すれば安価でつくる事が出来ます。今回の製作でもケース、ボリュームをもっと安価なものにすれば4,000円ほどでしょう。実際ネット上の自作オーディオ関連のHPの多くが実は「真空管アンプ」と「ヘッドフォンアンプ」であるのです。
 さて、そういう私も実は良いヘッドフォンを持っていません。試聴もなにもイヤーホンではえらそうな事は書けません。これだけは自作出来ませんから何か考えなくてはなりません。スピーカーに比べれば安いとはいえ3万のヘッドフォンを買うのはやはり大きな買い物です(^^;

2007/4/10

 サキ短編集を英語で読む。といってもOxford社のOxford Bookworms Stage収録の簡約版でです。とはいえ好きな作家の作品を英語でよめるのはなんとなく嬉しいものです。
 サキといえばオー・ヘンリ、ビアスなどと並び「奇妙な味」の小説家ですがオー・ヘンリが庶民的、暖かさを備え、ビアスは意地悪で残酷なのに対してサキは貴族的、冷笑的な作風で三者のなかではもっとも好きな作家です。私が子供のころ(今でもそうかもしれませんが)の「恐怖小説アンソロジー」には決まってジェイコブズの「猿の手」などと一緒にサキの「開いた窓」が載っていました。サキの小説は怪奇と幻想を描きながらあくまで合理的な面があり結末の冷笑的ユーモアににやりとさせられます。怪奇、非合理的なものと合理的なものを融合させた作品はあたかも「ルビンの壷」のような幻惑さがあり私は嫌いではありません。この趣向の作品ではカーの「火刑法廷」や横溝正史の「八つ墓村」などの優れたミステリーがありますがサキの短編のセンスと鋭さには叶わないような気がします。どことなく気取った貴族的な雰囲気も好きです。
 サキの作品集は岩波書店新潮社から出ていますが圧巻はかつてサンリオ文庫からの出ていたちくま文庫版の「ザ・ベスト・オブ・サキT」「ザ・ベスト・オブ・サキU」でしょう。
 ところで平凡社から出た「ゲイ短編小説集」の中にワイルドなどに混じってサキの名前を見つけた時は吃驚しました。確かにいわれてみるとどことなくそういう雰囲気はない事もないですが、私は全く知りませんでした。

2007/4/6

 さて、今日は非常に興奮しております。まず酒を飲んでいるのが大きいのですがそれはいつものこと、今日到着したレコードに狂喜しています。武満徹編曲、荘村清志ギターによる「12のうた」のLPです(左写真)。私がこのレコードの存在を知ったのは今から10年前、武満が亡くなって追悼演奏会をしようということになった時です。その時の演奏会のスタンスは「クラシック作品だけでなく武満のポピュラー、映画音楽を取り上げる」という事でした。しかし楽譜になっているものはほとんどなく2台のギターのための「不良少年」の編曲くらいしかありませんでした(私は「遮られない休息」を弾きましたが本当は「白い朝」を弾きたかったのです)。その時にこの「ギターのための12のうた」の楽譜を見つけ先の「不良少年」と共に「オーバー・ザ・レインボー」「失われた恋」の2曲をギタリストに頼んで弾いてもらいました。その際「荘村清志により録音、発売された」というデータはあり以来探し続けているレコードでした。高橋アキ演奏の「コロナ」収録の「ピアノ・コスモス」もたまに高値で見かけることはあるのですが中古レコード屋のカタログでも見た事は一度もありませんでした。「本当に発売されたのか?」とすら思っていたのですが「芸術新潮」の武満徹特集号においてその和田誠デザインのレコードジャケットが掲載されました。10年近く探していたレコードですがこのたび目出度く入手出来ました。
 レコードに針を落として音が出た時本当に感慨深いものがありました。和田誠によるジャケットデザインも秀逸。演奏も素晴らしいです。

 CDプレーヤーを修理。というと大袈裟ですがレンズを磨いただけです。以前オークションで5000円ほどで買ったパイオニアのPD-01Aを使っていましたが音飛びが頻繁になってCD-Rは認識もしなくなってしまいCDはDVDプレーヤーでかけていました。そろそろ処分しようかと思っていたのですが元値を調べると3万円程していたので上級器とは言えませんがナントカ修理出来ないのかと…(^^;
 音飛びの原因は主にレンズの汚れ、コンデンサの寿命、ICの破壊、読み取りに於けるメカニズムの故障など色々考えられますがレンズの汚れ、コンデンサの寿命ならなんとか対応出来そうです。久しぶりにCDをかけてみると正常にかかるものと音飛びをするものとあります。CD−Rは全く反応しません。IC、読み取りが原因であれば正常にかかるものはおそらく全くないでしょう。という事でとりあえずケースをあけてみました。コンデンサの液漏れ、抵抗の焦げ付きなど調べましたがありません。見た目だけではなんともいえませんがとりあえずレンズの汚れを疑ってみます。市販の「レンズクリーナー」は表面の埃をとるにはいいようですがかえってレンズを傷つけてしまうこともあります。そこで直接レンズを拭いてみることにします。あまり強く擦りレンズに傷がつくとどうにもこうにもなりませんので極めて軽くレンズを脱脂綿で気休めに蒸留水で軽く拭き水分をとります。電源を入れて音飛びしていたCDを入れると正常に読み取ってくれました(^^。あっけないほど簡単になおってしまいました。更にCD-Rを入れるとこちらも正常に再生出来ます。あまりのあっけなさに拍子抜けですがなおったので良しとしましょう。
 DVDプレーヤー(DV-464)よりも音の奥行き、ニュアンスはあるように思います。弦楽器(弦楽器、打楽器はオーディオ機器の試聴にはもってこいです)のニュアンスはやはりPD-01Aの方がまさっているように感じられます。
 今回私の場合は比較的簡単に症状を改善出来ましたがこの方法はあまりお勧め出来ません。私のように安価で入手しダメ元で行うのならいいのですが、自分で修理しようとして上手くいかずメーカーや業者に修理を依頼するのはちょっと自分勝手すぎるのではないでしょうか。これはオーディオ機器に限らずカメラやパソコン、楽器といったある程度以上の専門知識を必要とするものを自分で修理しようとするなら覚悟しておかなくてはいけないことであると思います。私はパソコンやピアノの構造に関してはさっぱりなのでむやみに中をいじくったりはしません。パソコンは全くの素人(DVD-RWの交換をしたことはありますがそれもおっかなびっくり)、調律師の友人と飲んでいる時にやはり自己診断は禁物という話も聴いているのでなおさらです。よく自己責任という言葉が使われますが専門家を尊重してください。
 もっともオーディオ機器もさっぱりわからないのですが…(^^;;;

2007/4/4

 ブラームスの「2台のピアノためのソナタ」の譜読み。この作品ピアノ五重奏として有名ですが2台のピアノ版があります。ずっと弦楽五重奏版がオリジナルだと思っていたのですが、この2台のピアノの方が先だということです。クララ・シューマンが2台のピアノでは無理があるといったの受けて書きなおしたそうです。クララには弱いブラームスです(もっともその前に弦楽六重奏版が書かれていたのをヨアヒムによくないと言われて2台のピアノ版にしたそうですが)。
 曲は全く一緒です。ただピアノ五重奏版で聴きなれているためちょっと異様に聞こえる箇所があります。2台のピアノ版はNaxsのCDを聴いています。弦楽五重奏版はルドルフ・ゼルキン、ブダペスト弦楽四重奏団による名演もありますが、2楽章が3楽章よりも速いというグールド、モントリオール四重奏団の演奏もあやしい魅力があります。

2007/3/30

 さて懲りずにRCAケーブルを製作。今度は名高いBelden8412です。以前のものに比べてやや厚みを増したように感じます。よく言われるように臨場感などは増したと思えます。
 このケーブル、販売されている製品もあるのですが1本4000円以上します。アナログですと2本必要ですから8000円することになります。私が今回作るのにかかった経費は2000円ほどです。ケーブルはメーター400円程なのでまだ数本作る事が出来ます。勿論製品はRCAプラグも高価なものを使用したりハンダの品質やハンダ付けの技術など商品としての価値が高くなることは理解出来ます。しかし私のように遊びで使うものであれば自作で十分と言えば十分です。
 自作オーディオ関連の本を読んでいると部品の選別、ハンダの品質、配線コードの向きなど徹底的にこだわったものから、そこまでこだわらず適切なハンダ付けに重きおくものなど色々あります。正直私はあまり神経質に作ったりはしていません。どちらかというとかなりいい加減に作っています。しかし部品を替えたりケーブルを替えると音が変わるのは確かにそう感じます。ですからこだわればそれなりの音がするのだと思います。論理的には同じ規格の部品であればどの部品を使っても同じはずです。少なくともテスターなどで数値を調べる限りは同じです。しかしは出てくる音は明らかに違います。別に高価な部品だからそれだけ良い音がするとは言いませんが、音質は明らかに変化します。何故か言われれば判らないのですが「そんなもん」なのでしょう。ただ回路図や数値はあくまで観念的なものではないかと思います。回路図と実装(実際に作ったもの)は違うのです。例えばアンプとスピーカーをつなぐケーブルは回路図では短く描かれますがこんなに短いものは物理的に無理でしょう。別に100メートルでも理論的には一緒ですが、これは素人考えでも音質に影響を与えるような気がします。これは極端な例ですが回路図や数値からは実際に出てくる音はわからないと思います。もし数値で音質が規定出来るなら蓄音機や真空管アンプなどは全てダメという事になります。アナログ出力もダメでしょう。LPも勿論アウト。でもそういうもんでしょうか?
 これは楽譜と演奏の関係に似ています。楽譜はあくまで設計図です。美しい楽譜が美しい演奏に直結はしません。書かれた音符の長さや強さも楽譜上は記号としてのものであって実際の演奏の長さや強さは変化します。芥川也寸志氏もその著書の中で「楽譜どおりに演奏されることはない」と書いていますが、勿論「楽譜どおり」演奏されるのですが観念としての「楽譜」通り演奏されることはないという事です。私は「楽譜どおりの演奏」という言葉はかなり曖昧な表現であると思っています。何をもって「楽譜どおり」とするのかはかなり微妙な問題でこの問題を考えずに現在は「楽譜どおり」という言葉が横行しているような気がします。

2007/3/29

 2007年5月5日午後3時より大阪野田阪神の遊音堂でピアノデュオの演奏会に出演することになりました。曲目はバッハ「クラヴィア協奏曲1番」(山本泰大さん、杉谷昭子さん)、シューベルト「幻想曲へ短調 D940」(杉谷昭子さん、津久田智子さん)、ブラームス「2台のピアノのためのソナタ 作品34b」(杉谷昭子さん、八木)です。ピアニスト杉谷昭子さんと3人の若手ピアニストの共演となっています。杉谷さんはブラームスのピアノ曲全集のLPやベートーヴェンのソナタ全曲録音など主にドイツ音楽を得意にされているピアニストです。
 しかし、私がかつてLPやCDで聴いていた金澤攝さんや杉谷昭子さんと共演する日がこようとは夢にも思いませんでした。

 俳優の植木等さんがお亡くなりになりました。享年80歳。高校生の頃学校をサボってクレージーキャッツの映画上映会に通ったことを思い出します。大島渚も絶賛したという「ニッポン無責任時代」や「日本一のゴマすり男」など東宝のシリーズが有名ですが、大映製作「スーダラ節 わかっちゃいるけどやめられねぇ」(主演は川口浩、川崎敬三)「サラリーマンどんと節 気楽な稼業と来たもんだ」(主演川崎敬三)、松竹製作「クレージーの花嫁と七人の仲間」の3本は東宝に先駆けて製作されています。特に大映版は東宝版とは随分違う印象の映画となっています。東宝のシリーズは明るくドライなナンセンス度の高いもので、どちらというとメロドラマと表裏一体の多い日本の「喜劇」の中でこれほど徹底的にナンセンスな笑いを映像化したものは珍しいでしょう。この点を大島渚は高く評価したのだと思います。私は特に「ニッポン無責任時代」「大冒険」はそのナンセンス度の高さ、バカバカしさは飛び抜けており好きな映画です。写真は「大冒険」でのひとコマ。ナチスの残党の基地で谷啓と共に危機的状況に陥りながらミサイルを見つけ発明家の谷啓に向かって「いやぁー来てよかったなぁ!」。谷啓も喜んでいますがそんな場合ではないと思います。
 謹んでご冥福をお祈りします。

2007/3/23

 「季刊コミックアゲイン」を入手。といってもご存知ない方も多いかもしれません。「季刊コミックアゲイン」は1984年に創刊され僅か四号で廃刊したマンガ雑誌です。1979年に7号刊行した「月刊コミックアゲイン」の後続誌なのですがあまり関連性は無いようです。70年代から80年代にかけてのマンガはなかなか興味深いものがあり作家別の作品集ではなく雑誌で読んでみたいものです。今回創刊号から第三号までを280円という驚きの価格で入手する事が出来ました。
 「ニューウェーブ」という言葉がここかしこに出てくるのがいかにも80年代といった感じですが「ガロ」に比べると商業誌といった感じが強いです。ひさうちみちお、吾妻ひでお、吉田光彦、宮西計三、高橋葉介、千之ナイフ、蛭子能収、桜沢エリカ、やまだ紫、夏目房之介、安西水丸、いしいひさいちといった錚々たる面々が書いています。ちょっと以外だったのが渡辺えり子さんが寄稿してます。紙面はいかにも80年代の雰囲気で全体的に明るいです。「ガロ」が90年代でさえアングラ色が濃かったのに比べると実に対象的です。これは前誌「月刊コミックアゲイン」が手塚治虫の「COM」誌を継承するかたちで創刊されたことに根があるようです。この雑誌どれほど売れたのかわかりませんが四号で廃刊という事実が全てを物語っているのかもしれません。しかしニノチカ・ひろゆき(現・衛藤ヒロユキ)、土橋としこがデビューを飾っていたりと今からみるとなかなか壮観であります。「ガロ」も青林堂の消失(?)以来、後続誌はあるものの長らく読んでいませんが、最近はこういった文化色の強いマンガ雑誌はあるのでしょうか。
 しかし読んでいてギョッとしたのが雑誌の広告欄。「噂の真相」「ガロ」「June」はともかく「レモンピープル」「ペパーミント」更には「ロリコンhouse」。いやはやアブナイです。

 ところで70年代80年代のマンガを語る上で避けて通る事が出来ないのが大量に刊行されたエロマンガ誌です。エロマンガというと眉をしかめる向きもいらっしゃるかもしれませんが当時は「ガロ」系の作家が多く寄稿しており前述のやまだ紫、いしいひさいち、ひさうちみちお、蛭子能収や花輪和一、丸尾末広、平口広美といった作家が書いています。本屋に並んでいたもの以外にもいわゆる「自販機本」のような少々怪しい出版社のものなども含めれば相当な量になるかと思われます。これらの雑誌は最初から「恥部」として保管されることもなく、また購読者も読み捨てていくような部類の本で国会図書館に収蔵されていないものも多数あります。先頃開館した京都国際マンガミュージアムではこれらの「エロマンガ誌」も可能な限り収蔵していくという事を新聞で読みました。保存するのはその時に一冊収蔵すればいいのです。しかし失われてからは取り返しのつかないのです。これは楽譜や映画のフィルムなどあらゆることにいえることであるといえます。

 ところで国民的マンガさくらももこ著「ちびまる子ちゃん」を知らない人はいないでしょう。私は中学の頃に読みはじめましたが、さくらももこさんも意外に「ガロ」系が好きなようです。これはファンの間では周知のことですが改めて書きますと

  花輪くん→花輪和一
 丸尾くん→丸尾末広
 みぎわさん→みぎわパン(私が読んでいる頃は「みぎわぱんこ」)
 土橋とし子→土橋とし子

と、ガロ系の作家が並びます。さくらももこさんは1996年の編集長長井勝一氏の追悼号では「ガロに出会っていなければ笑いの方向性を見つけられなかった」といったコメント寄せています。ところで当の丸尾末広氏はガロ誌上の対談で「使われるのがわかってたら断ってます」と発言されています。さくらももこさんの「長沢君」はガロ系色の強い傑作です。

 現在朝日新聞日曜版に中ザワヒデキ氏の連載があります。なかなか面白い美術の記事なのですが私が中学生のころ「ガロ」で連載されているの読んでいたので、こうメジャーになるとなんだか奇妙な感じがします。根本敬氏が「ガロという烙印」といったように、どうにも「ガロ系」というのは良くも悪くも特殊な感じがします。

2007/3/20

 俳優の船越英二さんがお亡くなりになりました。大映の看板スターとして「和製マストロヤンニ」などといわれていましたが、二枚目の役だけでなく、コメディー、スリラーなど幅広い役柄をこなす演技派でありました。近年では市川崑の映画の再評価に伴い「黒い十人の女」や「野火」などで注目を集めましたが、端役ながら「ぼんち」の父親役や「卍」の岸田今日さんの夫役、「しとやかな獣」の陰気な税務署員などが印象に残っています。中でも増村保造監督の「盲獣」、森一生監督の「怪談蚊喰鳥」の共に盲目の按摩師、整体師役は忘れがたい強烈な印象を残しています。右写真の「怪談蚊喰鳥」の不気味でいて不思議に色っぽい演技は地味な作品ながら素晴らしい演技で、人間の憎悪を描いた本作品を格調高いものにしています。
 心からご冥福をお祈りします。

2007/3/18

 profileの「過去の演奏会」に2003年から2004年の演奏会を追加。資料が残っていないなどと言いながら過去の更新履歴に残っておりました(^^;こんなところでいい加減な性格が露呈するのです。

 先日思いがけない電話がありました。一本は金澤攝さん。去年は毎月一度はお会いしていましたが今年からは大阪での演奏会がなくお会いする機会が無くなってしまいました。先日の兵庫県立芸術センターでの私の演奏会のことや、楽譜の話、金澤さんの今後の演奏会の予定など話し込んでしまいました。現代のピアニストがプログラムを組むということは演奏以上に重要な点であるという話は多くの問題を含む難題であると思います。有名曲ばかり弾けば良い訳でもなく、かといってマイナー作品ばかり弾くのも焦点がずれています。金澤さんの「演奏家は何故この曲目で演奏会を行ったのかを説明できなければいけない」という言葉は示唆深いものであると思います。私は私なりにプログラム、アンコールを構成しています。金澤さんは百科全書的、博物学的に作曲家の作品を全て演奏することによって音楽史の像を結ぼうとされています。私の方法などは折衷案のようなものでまだまだですが、それでもやたらと長い「解説」は伊達や酔狂で書いたものではありません。金澤さんの方法はどことなくミシェル・フーコーを想わせるところがあります。
 その翌日関東のレコードコレクターの方から電話が。1年以上お会いしていなかったのですが現代音楽関連のレコードの話題で盛り上がりました。現代音楽の話で盛り上がったのは久しぶりです。
 普段ほとんど長電話などしないのですが奇しくも二日続けての長電話でした。

 ヘッドフォンアンプを創るべく部品を注文していましたがその第1弾が到着。まだ部品が揃っていないのでヘッドフォンアンプは創れませんが一緒に注文していた部品でオーディオケーブルを製作。線材を換えて二本作りました。一本はLANケーブルをばらして作ったもの。LANケーブル(カテゴリ6)の中には2本をよった銅線が4本、計8本入っています。これをオーディオケーブルに使う訳です。もう一つはBelden社のシールド線を使ったものです。とりあえずプリアンプとパワーアンプの間につかってみましたが、今まで使っていた普通のオーディオケーブルとは明らかに音が違います。LANケーブルの方はストレートというか非常にクリアで澱みのない音です。一方シールド線の方はしっかりとした芯のある音に聴こえます。
 オーディオケーブルは数メーター何万円をいう正気の沙汰とは思えないような商品がありますが、今回作成してみてそれもありか、と思いました。勿論私はそのような高額商品は欲しいとは思いませんが(と言うか手が出ないだけですが)、自作によってささやかな交換をして見ました。経費はメーター300円ほどのシールド線とペア400円ほどのRCAプラグだけです。RCAプラグはもっと安いものでもいいか思います。何万円のケーブルと張り合う気はありませんが、予想以上の効果に正直驚いています。ただこのシールド線結構硬いのでもう少し余裕を持って作れば良かったと思っています(^^;

 さて写真の通りなんとも無骨なケースです。当初は見た目などはどうでもいいと思っていましたが、やはり欲が出てくるものです。いずれはケースも交換してみたいと思います。実は自作オーディオで最も費用がかさむ部分はケースなのです。お金をかければ市販品なみの良いケースに収める事が出来ます。逆にケースをケチれば100円ショップのアルミ缶や木の板に部品剥き出しでも電気的なノイズがどうのこうの言わなければ一応可能といえば可能です。商品には更に記号としての面があります。私の作ったアンプは二束三文ですがこれが有名メーカーのものであれば高級品であるかもしれません。他ならぬ「有名メーカー」品であるという記号により価値は動いていると言えます。100円ショップのかばんとエルメスのかばんとは「物を入れる」という点、素材の品質という点を越えた「価値」が付加されているのと同じです。
 と、ボードリヤールを偲びつつケーブルを作ったのでした(^^;

2007/3/13

 すっかりメジャーになったファジル・サイですが、彼の作品がショットから刊行されています。現在のところ「ブラックアース」と「ヴァイオリンソナタ」の2曲ですがこの春には「パガニーニ変奏曲」「トルコ行進曲のジャズ即興」が出版されるそうです。私は「パガニーニ変奏曲」をアンコールで結構弾いています。使用している楽譜はトルコで出版されたもののようです。一月程前全ての変奏を弾きましたがこれは少々長すぎます。今回のショットの楽譜の編集はどうなっているのか気になるところです。

2007/3/12

 profileを少し変更。過去の演奏会の記録を増やしてみました。こうして見ると昔はとんでもない演奏会を行っていたものです。

2007/3/11

 ジャン・ボードリヤールが死去されました。享年77歳。日本では70、80年代の「ポストモダン」の大流行で非常に大きく扱われた思想家、社会学者でしたが近年はあまり取り上げられることはなかったようです。思想にも流行り廃りががある訳です。しかし朝日新聞紙上では結構大きく取り扱われていました。その著書がわかりやすいという訳ではありませんが、記号学によるその社会分析はある面、先進国の特殊性を明るみにし、わかりやすい面があったと思います。
 謹んでご冥福をお祈りします。

 昨日に続き試聴。オペアンプはOPA2131に固定して色々かけて見ました。松平頼則「主題と変奏」、グールドのバッハ「ゴールドベルグ」や協奏曲、ホロヴィッツのレコードと目に付くものを適当に聴いてみましたが、LPを聴いている事を忘れてしまいます。塩ビ管スピーカーも程よくエージングが進みそれなりに鳴っています(スピーカーに関しては色々触りたいところがあるのですが…)。CDの音質やノイズの無さ、便利さは本当に素晴らしいです。しかし反面アナログから捨て去ったものもあります。物理的に周波数がどうのという事には私は全く興味がありませんがCDを大量に聴いた後の疲労感、これはLPを聴いた後にはありません。しかもLPを聴いた後には不思議な充実感があります。これは心理的な懐古趣味やLPの扱いの悪さなどから来るものかもしれません。しかしその扱いの悪さが「真剣に聴く」という姿勢をつくっている事も事実です。私はMDもiPodも持っていませんが別に不便に感じたことはありません。正直一生持たなくてもかまわないとさえ思っています。よく圧縮による周波数の違いなどその音質の差を検証している記事を見ますがこれも私は全くどうでもいいのです。オーディオは聴く人が満足できればそれでいいのです。それに幾ら費用をかけるとか、自作の手間を惜しまないとか、どれだけコンパクトにするかとかは各人の価値観の問題であり、大袈裟に言えば音楽に関する思想なのです。その思想に優劣はありません。

 プロフィールを色々変更中。過去の演奏会のデータなども追加する予定です。

2007/3/10

 久しぶりにゆっくりとレコードを聴きました。オペアンプを色々取り替えながら聴き比べですが、私は一つの曲を様々なオペアンプで聴き比べ特性を聴きわけるような聴き方が根本的に出来ないようです。ただその「傾向」を感じて相性がいいかどうかというだけのものです。6日の更新に「OPA2604はいい音」と書きました。確かにそうなのですがOPA2131と今日聴き比べてみてOPA2131の音の方が好きな傾向であると思いました。OPA2131はOPA2604に比べて音の感じが自然な気がします。OPA2604は「味付けされすぎ」といいましょうか、ややきつい感じがします。OPA2131の方がやや線は細いものの「聴いていて疲れない」感じがします。これはアンプやスピーカー、部屋の相性もありますから一概には言えません。しかしOPA2131で試聴しているとついつい聴き惚れてしまいます。次が聴きたいと思うような音なのです。しばらくOPA2131を使ってみたいと思います。
 という訳でヘッドフォンアンプの製作のため部品集めを。トランジスタはとりあえず去年の夏に買っておいたのですが面倒くさくて放ったらかしにしてました。やっと重い腰が上がったというところなのですが、演奏会後の今を逃すと又しばらく手がつかなくなってしまうので…。

 ところで今WOWOWで「オーメンUダミアン」を放送しています。ウィリアム・ホールデンはやっぱり「ウマイ」俳優です。またジェリー・ゴールドスミスのサントラは高校生の頃CD化されて驚喜したものです。さて、この後続きに「オーメンV 最後の闘争」(悪魔の子ダミアンはサム・ニール)「オーメン4」と放送されますが「オーメン4」はシリーズと違うんじゃないか、と思わずツッコミを入れてしまいます。まぁ「エクソシストV」よりはつながってますか…。

2007/3/7

 兵庫県立芸術センターでの演奏会終了しました。プロコフィエフ、スタンチンスキーでは事故もありましたがラフマニノフ、ムソルグスキーはそれなりに演奏できたように思います。プロコフィエフはもう2、3回人前で弾けばなんとかなるかもしれませんが、スタンチンスキーは手が小さいのでかなりきついです。スクリャービンやラフマニノフと全く違う種類のしんどさがあります。小品ですがかなり苦労しました。
 アンコールはボルトキェヴィチ「哀歌」、クラーメル「練習曲 オスカー・ピーターソンに捧ぐ」、チャイコクフキー「舟歌」、ラーコフ「セレナーデ」、ローゼンブラット「鉄腕アトムによる幻想曲」でした。聴きに来ていただいた方に厚くお礼申し上げます。

 さて次の演奏会の構成を考えなくてはいけません。弾く事を考えなければいくらでもプログラムは出来るのですが…。

2007/3/6

 本日は演奏会です。午後7時より兵庫県立芸術センター小ホールにて。本プロは勿論アンコールも新ネタ投入、気合を入れて演奏します。お時間のある方は是非聴きに来てください。

 オペアンプが色々到着。現在の環境ではプリアンプで交換可能です。時間がないので試聴はミケランジェリのドビュッシー「前奏曲第1集」から「亜麻色の髪の乙女」の冒頭部分のみ。とはいえそれぞれに個性があり実に興味深い。一つ一つの個性は勿論これだけの試聴からはわかりませんがやはりOPA2604(最初の製作時に使用)はいわゆる「いい音」です。繊細でいて色があり華やかです。OPA2131もなかなかいい音です。この二つのオペアンプは自作派の間では有名なものですがLM833Nの音などもハッとするような響きがします。また他のものの荒削りな感じも曲によってはあっているかもしれません。クラシックに限ってもピアノとヴァイオリン、室内楽と大管弦楽の作品ではその音の質感は全く違うといっていいでしょう。ロックのガリガリいう感じや民俗音楽のリアルな質感などそれぞれに似合うオペアンプがあるような気がします。
 もっとも私が今回試聴したのはプリアンプなので「味付け」程度なのかもしれません。もっとダイレクトにしかも「部屋」という大きな問題を抱え込まないヘッドフォンアンプを作ってみたくなってきました。

 オーディオ関連で「情熱の真空管アンプ」を読む。本書は実に明快、論理的に音の良し悪しという主観的なオーディオを論じた革新的な本であると思います。自作オーディオでは部品の選別が非常に大きな問題となります。例えば真空管では300Bだとか2A3といった高価なオーディオ用のものがあります。又コンデンサ、抵抗やケーブルといった部品も「オーディオ用」と銘打った高価なものがあります。こういったものは確かに良い音はするのですがこれだけではないと疑義を問うたのが本書の最大の特徴、魅力です。このような「高価な部品」を敢えて使用せず、回路と実際の配線により高音質を創ることが自作オーディオの最大の魅力であると再認識しました。勿論私は一からアンプの設計をするほどの知識もありませんし、そこまでのめり込んでもいないのですが本書はなかなか衝撃的でした。キットのアンプを組み立てて、部品の交換で音質が変わるのを楽しんでいたのですがそれ以外の面でも十分に音質改善をはかれること、それは回路図と実装(実際に配線したもの)の非常に大きな問題です。それはあたかも音楽に於ける楽譜と演奏のように思われます。
 正直なところ入力抵抗一つでも音の生々しさは変わります。コンデンサの交換などはビックリするような効果があります。著者も部品による音の違いは認めています。しかし高価であるからそれだけいい音がするのかということは別問題であるというのです。私が酒井智巳氏の本を愛読するのはこの部品による音の違いを実際に聴いた感想によって書かれているからです。コストパフォーマンスを考えるのであれば1本10円の抵抗で十分です。反面Dale製の抵抗は1本80円します。同じ部品でも8倍の値段ですから相当高価な部品です。勿論音は違いますが、8倍音が違うのといえばなんともいえません。オーディオの世界は自己満足の世界です。1万円のオーディオシステムで満足している人もいれば1千万円のオーディオシステムでも満足していない人もいます。だからといって両者の耳が1000倍違うのかという訳ではないでしょう。私が最近最も感銘を受けたのはHeadpropsで書かれていた「チープだけどプアではないオーディオの醍醐味」という言葉です。これこそ自作オーディオの最大の魅力ではないでしょうか。

2007/3/2

 演奏会まで一週間をきってますが本日は親指の深爪のため練習はせずにメガネを買いに行ってきました。練習で深爪するのは普段練習してないからでしょうか(^^;

 久しぶりにYOU TUBEをゆっくり見ました。私が入っているメーリングリストで永田さんが「Rachmaninov had big Hands」を紹介していたのを見て色々検索して見ました。
 という訳でYOU TUBEで見つけたオドロキのいつものアレです。

 「Tchaikovsky-Swingle Singers: 1812 Overture
 新スゥイングル・シンガーズがチャイコフスキーの「1812序曲」歌っています。レコーディングでは編集も可能ですがライヴとは凄いです。爆音も入ってます。

 「imitazion heifetz
 ハイフェッツによる控えめなヴァイオリニスト。何の映像なんでしょうか?

 「Lang Lang plays Chopin with orange
 ラン・ランの超絶技巧演奏の秘密がわかります。

 「Victor Borge
 大御所ヴィクトル・ボルゲによる「ハンガリー狂詩曲2番」。この演奏には別バージョン「Victor Borge and The Muppets play Hungarian Rhapsody No.2」があります。なんとジム・ヘンソンのマペットと共演しています。

2007/2/28

 3月6日の兵庫県立芸術文化センター小ホールでの演奏会が近づいてきました。今回演奏する曲目はロシアのものばかりですが、ムソルグスキーの「展覧会の絵」について。
 いままで「展覧会の絵」は何度か演奏して来たのですが、今回の演奏際しては改めて3つの楽譜を参照しました。一つは自筆譜版。二つ目は作曲者が削除した部分を含む自筆譜(この楽譜はウィーン原典版で見る事が出来ます)。そしてホロヴィッツ版(Jansenによる採譜)です。この三つの楽譜を参照するとホロヴィッツ版の特徴が明らかになってきます。通常ホロヴィッツ版は「ムソルグスキーのピアノ版」を「ラヴェルが編曲した管弦楽版」から「ホロヴィッツがピアノに再編曲」したという解説がなされる事が多いのですが私見ではこの解説は少し早計であると思います。確かにホロヴィッツ版はオーケストラをも凌駕する音の大伽藍を構築し又構成上も曲の折り返し地点の「プロムナード」を省略するなどラヴェル版の影響を受けている面は多分にあります。しかし採譜者の耳を信ずるのであれば大胆な音の簡略化、省略によるピアノ曲としての合理性、そして作曲者によって削除された部分を採用することによって得られる「ロシア的」な表現、この二点がホロヴィッツ版の特徴であると思います。ロシア的、作曲者が躊躇ったほどの泥臭さ、これを最大限に表現する事がホロヴィッツの意図したことではなかったかと思われます。このことは他のホロヴィッツ編曲が複数の採譜者によって楽譜が存在するにも拘らず、「展覧会の絵」においては私の知る限り二つしか存在しないこととも無縁ではないのではないでしょうか。
 以前にホロヴィッツは「あくまでピアノの音響に拘った」と書いたのですがこの印象は今も変わりありません。難しい事を演奏する事と効果的な演奏をする事とは別なのです。「展覧会の絵」においてはこの事が如実に表れた作品となっていて、これはこの編曲が自らのデモンストレーションとして造られたのではない証明になっているような気がします。おそらくムソルグスキーのオリジナルよりも「弾きやすい」楽譜になっていると思います。しかしこの事は「弾きやすさ」という点だけからの視点で作品の表現については別の角度から見る必要があるでしょう。ホロヴィッツの目指したであろう「ロシア的」という部分は楽譜からでは捉えきれないところがあります。晩年ホロヴィッツがラフマニノフを演奏する際に「練習はロシアのオペラを聴く事」と発言している事は示唆が深いと思います。
 今回の演奏にあたっては全面的にホロヴィッツ編を取り入れた部分と敢えてムソルグスキーのオリジナルのままにした部分とがあります。果たしてこれが良かったかどうかは聴いた方の判断に任せるしかありませんが私なりに考えて楽譜を決定したバージョンでの演奏となります。
 ところで「展覧会の絵」はアラン・ギリス、ルシアン・ガルバンによるピアノソロ編曲が存在します。両者とも楽譜、演奏ともに未見未聴なのですがどのようなものなのでしょうか。

 ホロヴィッツの編曲について少し。
 上記のようにホロヴィッツはピアノの音響上の特性を最大限に生かした編曲を多数行っています。その代表例は「カルメン変奏曲」でしょう。しかし通常「ビゼー作曲ホロヴィッツ編曲」と表記されるこの作品は実は間にモシュコフスキーによる編曲が入っている事をご存知でしょうか。曲の構成などは若干違うもののアウトラインは殆ど一緒、何よりクライマックスでの音型の原型は明らかにモシュコフスキーを範としています。リスト作曲ホロヴィッツ編「ラコッチィー行進曲」も通常「ハンガリー狂詩曲15番」の編曲と言われますがリストの「ラコッチィー行進曲」という別の作品の改編である事は楽譜を見れば明らかです。又ホロヴィッツ特有の左手旋律、右手のジグザグ音型はイグナツ・フリードマン編の「春の声」などで見られる手法ですし、「星条旗を永遠なれ」のクライマックスはタウジヒのシューベルト「軍隊行進曲」のアイデアから派生しています。この事はホロヴィッツが先人の編曲、アイデアを最大限に利用して自らのトランスクリプションを創っていた事であると言えます。しかしこれらの編曲はホロヴィッツ本人が演奏する事を前提として創られており彼の「手癖」を大きく反映したものといえます(シフラの編曲はもっとシフラの「手癖」の痕跡を残している)。やはりホロヴィッツ編はホロヴィッツが演奏するのが最も良いという言わば当たり前の結論に落ち着いてしまうような気がします。

 最近独立したページの更新をあまりしていないのですがネタ自体は実は結構たまっています。それをある程度まとまった文章にしようとすると時間がかかってしまいます。ブログだとこんな場合非常に便利ではあるのですが、どうもブログは性にあってないようです。

2007/2/27

 以前に「徒然草」について書いた際、「赤塚不二夫氏によるマンガがなかなか良かった」と書いたのですが最近「赤塚不二夫の古典シリーズ」を古本で入手して読みました。想像以上になんとも辛口の作品でビックリしました。例えば「古事記」の冒頭では戦中にこの作品が使われたことにより良い印象を抱いていないとか、「徒然草」では兼好の差別意識を鋭く指摘するなど大人が読んでも読み応え十分の内容となっています。また、ギャグも「源氏物語」の光源氏がイヤミ(「シェー!」を連発)だったり本編と関係なく作者本人とタモリのローソクショーなどかなりはじけており、その点からも読みご応え十分といえましょう。私が小学生の頃は「学習マンガ」全盛だったのですが最近はどうなのだろうか、と少し調べてみましたが「クレヨンしんちゃんのまんが日本の歴史おもしろブック」「こちら葛飾区亀有公園前派出所 両さんのまんぷくかけ算わり算」等出版されておりまだまだ健在のようです。

2007/2/25

 JEUGIA梅田ハービスENT店でのライブ終了。出来は自分としてはいまひとつ。特にラフマニノフは普段どうでもないところで引っ掛ったり、想像もしないところで暗譜がとんだりとかなり傷の多い演奏になってしまい、反省点大です。難しい作品という訳なのですが、そういってしまっては元も子もないので明日から改めて精密な練習をします。昨日「演奏」と「録音」との差異について書きましたが、やはり「演奏」においてミスや事故は少ないほうが良いことは言うまでもありません。兵庫県立芸術文化センターでの演奏会まで10日あまり、どれだけ弾きこめるでしょうか。今回はアンコールはなし。別に演奏に疲れた訳ではなく時間の加減が原因です。一応用意していたのですが…
 今回の演奏ではファジル・サイの「パガニーニ変奏曲」は楽譜に書かれた全ての変奏を演奏しました。落ち着いてそれなりに弾けたと思いますが反面この作品、全ての変奏を弾くのはきついという事もわかりました。それぞれの変奏は魅力的なのですが全て弾くと長すぎて中だるみするのです。特に第4,5変奏は長い。なかなかいい曲だと思うのですがサイ自身もカットしているところをみるとやはりそれなりの理由があるのでしょう。
 聴きに来て頂いた方に厚く感謝します。

2007/2/24

 本日2月24日午後4時よりJEUGIA梅田ハービスENT店にてライブを行います。フリースペースでの演奏は結構雑音が多くちょっと集中力が切れると訳がわからなくなってしまうのですが気合を入れて望みたいと思います。

 ジョイス・ハットというピアニストをご存知でしょうか?イギリスの女流ピアニストでおそるべき広いレパートリーを晩年に録音し、しかもその録音がどれもこれも辛口の評論家、ピアノ愛好家から絶賛されるという人です。ベートーヴェンピアノソナタ全曲に始まりショパンピアノ曲全曲、リスト「超絶技巧練習曲」、ラヴェルピアノ曲全曲、ゴドウスキー「ショパン練習曲」全曲、メシアン「みどりごイエスにそそぐ20のまなざし」等等俄かには信じられないほどのレパートリーですがこれでもその録音の一端にすぎません。しかもその演奏はいずれも名演というのですからオドロキです。しかし、この録音の多数が他人の録音の再編集や加工によるものだという事が明らかになりました。以前にもリパッティの録音が実はツェルニー・スティファンスカだったという事がありますが、今回の規模は前代未聞のことです。
 私がショックを受けたのはそのリスナーを裏切るような行為は勿論なのですがそれ以上にこの事件が我々が「録音」と「演奏」というものをどのように考えているかという事を抉り出したことです。グールドに代表されるように「録音芸術」即ち編集、加工を前提として最高の芸術「録音」作品を創る事が当たり前になった現在、ミスタッチは編集により消え音質さえもコントロールが(一応)可能となっています。現実問題として録音上だけのピアニストはグールドとナナサコフという異色のピアニストだけだったのですがこの二人は自らの「演奏」を徹底的に「創り上げる」ことによって「録音」作品を作り出したのでした。今回のハットの場合は他人の演奏を使ったのでこれは相当罪深いことです。しかし反面「録音」に於ける編集、加工を駆使すれば本人にすら出来得ない演奏を作り出す可能性があることに気付かされたのです。上記の例は極端にしても「録音」のクオリティがあがればリスナーは自ずとそちらに慣れてしまいます。そうなると演奏家が目指す「演奏」は「録音」との差を縮めることになってきます。少なくともリスナーは「録音」は「真実」であると思っています。「演奏」と「録音」の差異、この一見一致しているようなものは実は全く違うものであったのです。かつてSP録音が始まった当時コルトーやカザルスがその典範となるような演奏を残してくれた訳ですが、上記に敷衍して考えれば彼等は明らかに我々と同じ側の人間であり録音技術のなかった19世紀前の演奏家と根本的に「演奏」に関する思考は違っていると言えます。勿論当時は現在のような編集技術はありませんでしたが彼等の演奏は「何回も繰り返し演奏される」事を前提として録音されたのです。
 実際にはグールドは実は一発録りで編集は殆どしなかったという事実やコルトーやカザルスにはやはり19世紀の香りが残っている訳ですが、私は今回のハット事件によって「演奏」と「録音」の関係性を改めて考えさせられたのでした。
 正直なところ私はこのハット事件の顛末を詳細に知りたいとは思いません。現在その捏造の「元ネタ」探しが行われていますが、問題はそれほど単純なものではないと思います。我々がこのハットの演奏に感動したことは事実でありそれが例え捏造であったとしても編集、加工によって明らかに「ハットの音」を感じていたのも事実です。言い換えれば本人の演奏であったとしてもその演奏家本人の「演奏」を素直に「録音」から汲み取ることに疑義を呈する可能性を持っている訳です。
 最後にこのレコード会社はハットの夫の会社で、どれほどの悪意を持って捏造が行われていたかは不明ですが、音楽を愛する世界の愛好家に対してこれ以上ない罪を犯したことは忘れてはいけないことであると思います。

2007/2/14

 昨日(12日)神戸へFazioliを試弾へ行く。Fazioliはアルド・チッコリーニ、アンジェラ・ヒューイット、ニコライ・デミジェンコ等が愛用しているピアノメーカーです。3種類弾きましたがどれもそれぞれにいい楽器でした。確かにピアニストを引き付けるものがあります。明快な音色で不思議な「均一性」のあるピアノです。イタリアのメーカーだけあって、イタリア音楽にぴったりといった感じです。スカルラッティ、レスピーギやタリアピエトラの作品などはよくあっているでしょう。試弾のあとモデルF308、全長308pのピアノを使っての演奏会がありました。ピアニストは鈴木謙一郎氏。ワイルド編ラフマニノフ「ヴォーカリーズ」やホロヴィッツ編サン=サーンス「死の舞踏」などが演奏されました。このF308には「第4ペダル」がついているのですがこれは「アップライトの弱音ペダルに相当」等と書かれてあることもありますが全く違うもののようです。一度弾いてみたいものです。

2007/2/8

 チャンネルNECOで勅使河原宏生誕80周年を記念して特集が組まれています。私は「おとし穴」「砂の女」「他人の顔」「燃えつきた地図」「サマーソルジャー」「利休」「豪姫」の長編劇映画は一通り見ていますが「白い朝」「アントニオ・ガウディ」や「ホゼー・トレス」等の短編は未見ですので非常に楽しみです。長編作品ではやはり勅使河原宏、安部公房、武満徹のトリオによる「おとし穴」「砂の女」「他人の顔」が好きです。「燃えつきた地図」も悪くはないのですが主演が勝新太郎というのが異色すぎる組み合わせのように感じます。モノクロの異様な緊張感に満ちた「砂の女」は映像、音楽ともに素晴らしく日本映画史に残る傑作でしょう。個人的にはクライマックスにあたる和太鼓の鳴る中、岡田英二と岸田今日子の追いかけっこのシーンはあまり好きではないのですが(このシーンはビートたけし監督作品「みんな〜やってるか」の最後のシーンと繋がりがあるでしょうか?)。グレン・グールドは「砂の女」が大変好きな作品だったそうで何十回も見たそうです。勅使河原氏が「作った本人よりも多く見た人がいるのは不思議な気がする」と新聞に書いてあった事があります。
 復刻もされたビクター盤「武満徹映画音楽集」も全6巻中CDまるまる一枚が勅使河原監督作品でした。草月会館と言えば日本の現代音楽に興味のある人なら知らない人はいない名前でしょう。1962年にはジョン・ケージもその舞台に立っています。「昔はよかった」と一概には言えませんが現代アートの「黄金期」であった事は間違いないようです。

2007/2/5

 アントン・ルビンステインのピアノ協奏曲5曲やアレンスキーの作品色々入手。ルビンステインの協奏曲ははじめて見るものありました。しかしピアノソロ用に編曲されたものもあり完全な意味で協奏曲が全て揃ったと言う訳ではないです。「コンチェルトストゥック」も初めて見る作品です。2台ピアノ編の楽譜ですが何故かオケパートがピアノパートの上にあるという楽譜です。アレンスキーの作品はあまり興味がなく持っているものもあったのですがやはり「ピアノ協奏曲」「ピアノとオーケストラのための幻想曲」ははじめて見る作品でした。考えてみると私は協奏曲系に随分弱いです。正直なところロマン派以降の「ピアノ協奏曲」というジャンルはあまり自分で手がけて見たいとは思いません。近現代になるとラヴェル、シェーンベルグの作品や純粋なピアノ協奏曲ではありませんがドビュッシー、リヒャルト・シュトラウス等興味のある作品がぽつぽつあります。中でもスヴェトラーノフの「ピアノ協奏曲」、ユン・チュンナム「祖国はひとつ」、ケージ「ピアノとオーケストラのためのコンサート」は是非とも演奏したい曲なのですが…。

 塩ビ管スピーカにホーンをつける。と言っても100円ショップで買ってきた漏斗を切断して付けただけです。もはや写真をアップするのを躊躇うほどの安物っぽさです。それで出てくる音が一級品なら文句ないのですがまだまだ一級品には遠いです。まずどうにもこうにも「筒くさい」音がします。これは中に吸音材を入れる事によって軽減されるようです。製作してから僅か1週間ほどなのでまだなんとも言えないのですが改良の余地はまだまだありそうです。しかしそれまで使っていたヤマハNS-200Mよりも臨場感があり、改良によってはかなり良い物になる気もします。録音状態の良し悪しは塩ビ管スピーカーの方がはっきりわかるのは驚きです。

2007/2/2

 作曲家のジャン・カルロ・メノッティ氏が亡くなられました。享年95歳。「電話」「領事」等のオペラで有名な作曲家ですがユーモラスなピアノ協奏曲も書いています。この協奏曲は晩年のホロヴィッツの録音候補にもバーバーの協奏曲と共に挙がっていた曲です。是非録音してほしかった。久しぶりにワイルドの弾くピアノ協奏曲をかけていますがなかなかいい曲です。楽譜も持っていますがこれが結構弾きにくい曲です。追悼に演奏とは簡単にはいかないようです。
 謹んでご冥福をお祈りします。

 最近どうもLPをかけるとブーンというノイズがはいるなぁと思っていたので思いきってアンプについているボリュームをはずしました。するとノイズは更に大きくなったという…。数日あれこれいじっている内どうも原因は純粋に電気的な問題ではないような気がしてきてプリアンプを開いて配線を確認するとアナログプレーヤーの接続端子のハンダ付けがいい加減だったのでグラグラになっていました。素人仕事なので仕様がないことですが改めてハンダ付けをチェックすると随分いい加減なところがありやり直しました。結果、ノイズは取れました。私の環境は電源部分がいい加減でまだまだ音質改善の余地は沢山あります。追々考えていきたいのですが切りがないのと、今回のような素人の失敗を電源部分で起すと火事になる危険もあるので慎重にならざる得ません。

 先日夜テレビでメンタルナントカと銘打ってナントカ・ロドリゲスというマジシャン(?)が出ていました。私は途中から見たのですが母は最初から見ていて前半のトリックがわかったと言ってました(^^;いわゆる超能力風マジック、メンタルマジックというジャンルなのですがテレビでは終始彼に特殊な能力、超能力があるという風に演出しているのがなんとも複雑な気分でした。何故マジシャンではいけないんでしょうか?テレビ的にはマジシャンよりも超能力者の方が視聴率をとれるのでしょうが演じているマジック(?)が少しマジックを齧った人ならすぐにわかってしまうようなものだったのがなんとも…。最後には数理的な原理を利用したマジック、いわゆるセルフワーキングマジックを演じてましたがあれはマジックの選択ミスです。超能力を演出するのであればもっと不可能性の高い予言マジックがいくらでもあるのですから。
 私は超能力が本当にあるのかないのかはわかりません。原理的に「ない」事を証明する事は不可能です。今回のマジシャンにしてもひょっとするとマジックと同じ手順でトリックを使わずに現象を起しているのかもしれません。しかし純粋にマジックやトリックが好きな人間からすると「騙している」という感は拭えません。テレビという「装置」は我々が考えている以上に大きな力を持っています。六星ナントカ術とかいう占い師やスピリチュアルナントカとかいう人はテレビの力で絶大なる信頼と影響力を持っているのです。彼等の力が本当かどうかという事とは別にテレビという「装置」とは距離を置いて付き合うべきではないでしょうか。なんせテレビという「装置」は納豆を食べると痩せたり若返ったりといった「事実」を簡単に作り出す事が出来るのですから。

2007/1/28

 最近ヨドバシカメラ梅田店でスピーカーユニット(スピーカの鳴る部分)を売っている事に気がつき、物色、FF85Kを購入。FF85Kは8センチのフルレンジユニット(低音、中音域、高音を全て担当する)で使い勝手がいいそうです。本日ホームセンターに行って塩ビ管や土台のコンクリートなどを購入。工具などを含めて一万ちょっとの出費でしょうか(通販を使わなかったこともあり送料がかかっていないのは結構大きいです)。製作は約2時間ほど、音を出してみました。最初は「筒が鳴っているな」という感じでしたが鳴らしているうちにパイプとは思われないような音になってきました。これが8センチのスピーカユニット1つで出てくる音とは思われません。初めての自作スピーカーですが予想以上の音に驚いています。尤も自作スピーカーのカリスマ故長岡鉄男氏によると自作スピーカーの出来の良し悪しは半年ほど鳴らしてから判断するべきで、今日出来たところなのでなんとも言えません。今後どう変わるのか楽しみです。
 これでプリアンプ、アンプ、スピーカーも自作になってしまいました。しかし部屋の中にパイプが走っているのはなかなか異様な光景です(^^;

2007/1/24

 2月24日午後4時よりJEUGIA梅田ハービスENT店にてライヴを行います。曲目は
 チャイコフスキー四季から「舟歌」
 ラフマニノフ コレルリの主題による変奏曲
 ファジル・サイ パガニーニ変奏曲
 の予定です。入場無料ですのでお気軽にお越し下さい。

 久しぶりにオーディオの話。
 カマデンのHPによるとトライパスの一連のデジタルアンプのキットが販売停止になるとの事。市場に在庫がなくなる前にもう一台確保しておこうかと考えています。このアンプ、愛用していますが本当に手軽で便利です。プリアンプは酒井智巳氏設計のものを作りましたがこれはBurr-Brown社のOPA2604APを使用したものです。メインアンプはもう一台DAY020 Digital Power Amplifierを作りました。こちらはヤマハのチップを使用しているものです。このアンプは作った当初音を出してみて、なんとも人工的と言うか器械音のような音がなったので使いもんにならないか、と思いましたがエージング、鳴らしているうちに結構いい感じになりました。特にピアノの音はやや硬いですがきれいです。グールドの後期録音などは相性がいいように思います。ただ私の作り方が杜撰なせいかLPプレーヤーではノイズを拾ってしまうので専らCDを聴くために使っています。アンプ、プリアンプは自作でそれなりに作れたのですが、ここまでくるとやはりスピーカーも作ってみたくなります。塩ビ管スピーカーを作ろうかと思ったもののやはり木製のバックロードホーン構造のものを作りたいのですが、アンプ製作に比べスピーカー製作は大工仕事に近く、まとまって時間がとれず手付かずのままです。最近バックロードホーンスピーカーのキットが出ているのを知り、どんなものかと探りを入れています。
 後道楽で作りかけの真空管アンプも完成させたいものです。
 自作オーディオは製品のような便利さはありませんが(うちのアンプにはリモコンは勿論の事、電源スイッチさえない!)自分で音を作り出す楽しみがあります。そこまで深く考えなくても部品を交換して音が変わる楽しみや高級機種に使用されている部品を自由に使えるのは自作ならではの楽しみでしょう。

2007/1/15

 以前から聴きたいと思っていたアニー・フィッシャーによるフンガルトンに残されたベートーヴェンピアノソナタ全集を入手。アニー・フィッシャーは女流ピアニストの中では特別好きなピアニストです。厳しく禁欲的で非常に素晴らしい演奏です。「ハンマークラヴィア」のような技巧的に大変な作品でも全く揺らぎのない演奏で感嘆に値いします。ベート−ヴェンの演奏の難しさは弾く事よりもその構成感だったり知的な部分にあったりする訳ですがアニー・フィッシャーの演奏は感情的な大袈裟な身振りのないもので実に凛々しい演奏です。かといって鉄面皮という訳ではなく、抑制のきいた情感を持ち聴いていて非常に感心させられます。情と知のバランスが非常に良いと思います。
 思えばこのようなベートーヴェンを弾くピアニストは現在いるでしょうか。アニー・フィッシャーやクララ・ハスキルのような禁欲的なスタイルのピアニストは少なくなったような気がします。

2007/1/14

 scheduleを更新。3月6日(火)午後7時より兵庫県立芸術文化センター小ホールにて演奏会を行います。曲目は

 プロコフィエフ トッカータ
 スタンチンスキー カノン前奏曲
 ラフマニノフ コレルリの主題による変奏曲
 ムソルグスキー 展覧会の絵

です。ロシアの近代の作品をまとめて取り上げるのは初めてです。チラシは例のごとく見てみたい人は御一報下さい。

 先日送られてきた楽譜の話の続き。最近日本での演奏会も盛り上がったヴォロドスによる「カルメン変奏曲」「ハンガリー狂詩曲13番」「イタリアンポルカ」。悪趣味の限りですがここまで極まれば大したものです。勿論採譜ですがコレだけの音をよく採譜したものだと感心します。弾くほうも弾くほうなら採譜するほうもするほうと言ったところしょうか。ヴォロドスの編曲は面白いとは思うのですが結局の処モーツァルト「トルコ行進曲」が一番できがいいような気がします。

2007/1/5

 明けましておめでとうございます。私は2日3日と仕事でしたが後はいつもの寝正月。家で飲んで寝ていました。なんとも不健全極まりないものです。

朝亦獨醉歌 あさ ひとり ようては うたい
暮亦獨醉睡 よる ひとり ようては ねむる
未盡一壺酒 ひとつぼの さけ のまぬ うち
已成三獨醉 さんべんも ひとりで ようた

 とは酔吟先生こと白居易の歌うところでありますが実に大らかな酒飲みです。私はさすがに朝からは飲みませんが年末年始は一人で家で飲んでいました。明日は新年会の予定。一人で飲むのは気楽ですが友人と飲むのも楽しいものです。川島雄三も愛した干武陵歌うところ、

勧君金屈巵 この杯を受けてくれ
満酌不須辞 どうぞなみなみつがしておくれ
花発多風雨 花に嵐の喩えもあるぞ
人生足別離 さよならだけが人生だ

 実に素晴らしい井伏鱒二の訳です。

 レコード屋の初売りへ。シチェドリンの協奏曲2番の自演盤を購入。勿論原盤メロディア盤です。かつてBMGから出ていたスヴェトラーノフ指揮のものではなくロジェストヴェンスキー指揮ボリショイ・シンフォニー・オーケストラ、ピアノはシチェドリンという組み合わせの録音です。

 かねてから気になっていたワイルドによるリスト「ハンガリー狂詩曲2番」のカデンツァの楽譜が届きました。この曲のカデンツァはダルベールをはじめいくつかありますが大規模なものはワイルド、アムランあたりでしょう。マツーエフのジャズカデンツァもありますが。一緒にあやしげな楽譜が入っていましたが…これらは後ほど。

 CSシネフィル・イマジカでバスター・キートンの特集を放送。キートンファンの私としては実に嬉しいかぎりです。とりわけスキャンダルによって消えてしまった「でぶ君」ことロスコー・アーバックルとの共演作が放送されるのも貴重でしょう。私は今回初めてアーバックルを見ました。
 今回の放送はフランスの放送局ARTEがキートンのフィルムを収集、復元したもので現存していないと言われていた「医者」「コック」、欠落シーンが追加された「アウトウエスト」「ハード・ラック」等を含むものです。ヒッチコックの「めまい」DVDのドキュメンタリーで復元を担当した技師が「痛んだフィルムを復元するには何千万というお金と膨大な労力が必要だ。しかし『フィルムを保管してくれ』と頼むのは少しの手間でいい」というような事を言ってましたが私たちが思っている以上に映画やテレビの映像は「保管」されていないようです。グレン・グールドの映像を編纂したブルーノ・モンサンジョンはその動機を「フィルムが朽ち果てていくのを食い止めるため」と言ったそうです。そう言えば私が子供の頃に見ていた人形劇「プリンプリン物語」も初期の映像はテープを使い回していたため残っていないそうです。当時テープは高価なためしょうがないことだったのでしょうが残念なことです。

2006/12/31

 さて2006年も残すところ1日、今年はどのような年だったでしょうか。私はなんとなく散漫な気もする1年でしたが金澤攝氏との共演や生まれて初めて(!)ロマン派だけの作品でリサイタルを行ったりとなかなか印象深いこともありました。ホロヴィッツのピアノに触れたのも大きいことでしょうか。来年はどんな年になるのでしょうか。

 今年は図らずも長年探していたスロボジャニクによるレーガー「バッハ変奏曲」が入手できたのが大きな収穫でした。あまり熱心にCD屋、中古レコード屋に廻っていなかったのですがそれでもペトロフのパガニーニアルバム2枚組みやヴェデルニコフのシェーンベルグ「ピアノ協奏曲」などを入手できました。来年はもう少し力を入れていきたいものです。

 下半期の読書、数はまぁまぁ読んだのですが何故か奇譚物が多くなりました。柴田宵曲の「妖異博物館」「続妖異博物館」、「唐宋伝奇集 上 下」、これらは澁澤龍彦「東西不思議物語」について書く際に続けて読んだものです。なかなか癖になり今はポツリポツリと「聊斎志異」を読んでますが分量が相当に多いので読み終わるのは大分先になりそうです。古典の怪異譚の特徴のひとつに因果関係のわからぬ物がある事があげられます。恨みを持って化けて出たとか妖怪に誑かされたとかという因果応報ではなく全くその因果もわからず怪異のみ記された類のものです。これはその訳の判らなさ故に妙にリアリティがあります。内田百閧ヘまさにその現代版と言えます。
 マンガでは須賀原洋行「新釈 うああ哲学事典 上」「新釈 うああ哲学事典 下」をなかなか面白く読みました。哲学をネタにしたギャグマンガですが単なるダジャレ以上の内容になっています。ただ絵が私の好みでないので少々読みづらかったのですが…。
 他に中条省平によるバタイユの新訳「目玉の話」や再読ですが石川淳「山桜」等が印象に残っています。石川淳は是非とも全集がほしい作家です。
 番外編としてアーノルド・ノーベル「フロッグ・アンド・トード・シリーズ」ルイス・サッカー「マーヴィン・レッドポスト・シリーズ」を紹介しておきましょう。これはSSS英語学習法、多読勉強による英語習得法の推薦図書のひとつです。絵本及び児童書(小学校低学年ぐらい)の本ですが侮れません。ノーベルの作品はしみじみとした味わいがあり、三木卓氏による翻訳もあり読まれた方もいらっしゃるのではないでしょうか。サッカーは小学低学年の心理を多彩に描き出し、時にはいじめの問題にも真っ向から取り組んだ作品になっています。中でも「Alone in His Teacher's House」はシリーズ中の白眉ともいえる作品で感動しました。どちらも英語圏の子供向けに書かれた作品ですが限られた語数でこれだけの事を表現し得る作者の力量には正直驚かされました。
 このSSS英語学習法はなかなか興味深い英語習得法ですのでいずれ紹介してみたいと思います。

 映画は劇場で見た作品は0本でしたが主に衛星放送で見た作品は相当量になります。中には本当にど〜〜でもいい作品も多々あるのですが木下亮「男嫌い」、市川崑の若い頃の作品「プーサン」「満員電車」等、川島雄三の「グラマ島の誘惑」「青べか物語」「貸間あり」等が特に印象に残りました。「グラマ島の誘惑」は皇室、菊のタブーに触れた作品で結構アブナイギャグが出てくるのですが、森繁久弥、フランキー堺、岸田今日子そして加藤武といった芸達者な俳優の応酬が楽しい一作。川島映画常連山茶花究も出てほしかった。
 後映画のできはお世辞にもいいとはいえないのですがトニー谷主演の「ああ家庭の事情」シリーズ4本を見れたのも望外の喜び。バカバカしいかぎりのトニーイングリッシュや「馬ッ鹿じゃなかろか」「さいざんす」などナンセンス極まりないギャグは一見の価値あり。これに対抗できるナンセンスは植木等主演「日本無責任時代」「大冒険」ぐらいか?余談ながらトニー谷の「歌」では「さいざんすマンボ」が有名ですが「チャンバラ・マンボ」は当時としては異例の編集を駆使したミュージカル仕立ての名曲。必聴。

 来年はどのようなレコード、楽譜、本、映画に出合えるでしょうか。

2006/12/24

 本日はホロヴィッツ愛用だったピアノを試弾に神戸松尾楽器へ行く。友人の調律師M君と連れ立って松尾楽器に行くと偶然グチンスキー氏と遭遇。東京で試弾したとの由であるがこちらでも触りに来たという事でした。ただ待ち時間の関係上グチンスキー氏は私たちと少しお茶を飲んで途中退上。後日来られるという事です。
 さて私たちの順番が廻って来た訳ですが、正直なところ私は「ホロヴィッツ用の最上級のものであるだろうが同じピアノに変わりがあるじゃなし」とさえ思うところがあったのですが触ってみると…。うーん違う。何かが違う。おそらく世界中を廻り調整も決して最上というものではないのだろうが明らかに違う。一緒に並べてあるスタインウェイのフルコンサートグランドと弾き比べてみると同じ会社のものかと思うほど違います。実に気持ちよく弾けます。中音域は確かにあまりいい状態ではないのですが低音域はまさにホロヴィッツトーンを髣髴とさせる強靭な響きが感じられます。弾いているうちに感じたのが勿論根本的なピアノの能力もいいのですがそれ以上にその反応の良さに驚かされました。「音が違う」と言うのは正確には「反応がいい」という事なのでしょう。ホロヴィッツの独特な奏法に最上級の調整がなされた状態のこのピアノが反応する事によってあの奇跡的な「ホロヴィッツトーン」が生まれたのでしょう。
 さて20分間の制限時間内に私が弾いた曲はラフマニノフ「ソナタ2番」最初の2小節と最後の6小節、モシュコフスキ「練習曲ヘ長調」、ホロヴィッツ「カルメン変奏曲」の最後の変奏、スーザ「星条旗」、リスト=ホロヴィッツ「ラコッチィ行進曲」の最後の3ページ、ホロヴィッツ編の「展覧会の絵」のキエフ、プロコフィエフの「ソナタ7番」終楽章など。いずれもホロヴィッツの愛奏曲のおいしいとこ取りでした。天国のホロヴィッツに怒られそうです(^^;
 しかしいわゆる「爆音」系だけでなく、ラフマニノフの「コレルリ変奏曲」の最後の変奏とコーダを弾いた時、その強靭な響きとコーダでの静か響きの差には吃驚しました。実にしみじみとした音になります。惜しむらくは中音域の状態ですが、それでもこのピアノの潜在的な能力を感じる事が出来ました。

 松尾楽器を出てからつい興奮して調律師M君相手に一弁舌ふるってしまいました。クリスマスイヴに最高のプレゼントになりました。

2006/12/22

 久しぶりにMy favourite pianistsを更新。アレクサンドル・スロボジャニクを追加。知名度は低いかもしれませんが素晴らしいピアニストです。

2006/12/20

 12月17日女優の岸田今日子さんが20日に青島幸男氏がお亡くなりになりました。
 岸田今日子さんは私が子供の頃から好きな女優で「ムーミン」はもとより映画、ドラマ、バラエティと幅広く活躍されていました。高校生の頃深夜に見た「卍」「砂の女」で決定的にファンになり、以後出演の映画やドラマはチェックしていました。市川崑監督作品にも多数出演していますが「黒い十人の女」はあまり好きではなく「破戒」などが印象に残っています。小津安二郎の「秋刀魚の味」でも飲み屋のママの役で、軍艦マーチをかけるとお客の加藤大介が行進をはじめるシーンが印象に残っています。
 青島幸男氏はやはり私が高校の頃学校をサボって「クレージーキャッツ」の映画特集をみにいったのを思い出します。晩年は都知事やなんかでやや評判を落としたような感じもありましたが、飄々とした人柄はなかなかかっこいいものでした。
 つい最近CSで放送された「男嫌い」で岸田今日子さん青島幸男氏と共に出演し軽妙洒脱な演技を堪能したところだったので大変ショックです。

 謹んでご冥福をお祈りします。

2006/12/19

 本日は金澤攝さんによるラヴィーナ連続演奏会の最終回。問題作「100の前奏曲」、ラヴィーナ最後の作品「12の練習曲」を含む演奏会でした。生涯にわたり明朗で健康的な作品を作り続けてきたラヴィーナが最後に到達したシンプルな音楽は第1回から聴いてきただけに感慨深いものがありました。中でも「100の前奏曲」はカデンツによる作品集と言っていいもので1曲は数秒、長くて30秒ほどという驚異的な作品でした。60番イ短調が特に美しく印象に残りました。最後の「12の練習曲」は作品1の「練習曲集」と同じ発想に基づきながら洗練された曲となっています。金沢市の方でも演奏録音の予定があるという事ですので楽しみです。

 書きそびれていたのですが11月23日にフランスの俳優フィリップ・ノワレが亡くなり、今日の朝日新聞に記事が出ていました。ノワレといえば「ニュー・シネマ・パラダイス」の印象が強いようですが私は「地下鉄のザジ」や「最後の晩餐」が印象に残っています。ヒッチコックの「トパーズ」にも出演しており実に幅広い俳優でした。謹んでご冥福をお祈りします。

2006/12/15

 本日(深夜の更新なので14日)のNHK−FM「ベストオブクラシック」でザルツブルグ音楽祭に於けるポリーニの演奏会が放送されました。内容は前半がモーツァルトの作品、後半がウェーベルン「変奏曲」とブーレーズ「第2ソナタ」。録音しようとDATテープを探すと60分テープしかないので、後半のみ録音しました。前半のモーツァルトも「幻想曲ハ短調K.475」「ピアノ・ソナタハ短調K457」「アダージョロ短調K.540」「ピアノ・ソナタニ長調K.576」というもので幻想曲やアダージョの緊張感に満ちた演奏を録音できなかったのは残念です。ポリーニの音は非常に現代的な怜悧さがありモーツァルトでもガラスの構造物のような感じがします。果たしてこれが方向性としていいのか悪いのかは別として現代のモーツァルト演奏のひとつの規範と言えるでしょう。
 ウェーベルンとブーレーズはポリーニの独壇場といえる演奏でその怜悧な音質が十全に生かされており聴き応えのある演奏でした。おそらく暗譜で演奏されたものと思いますがブーレーズをライヴであのレヴェルで演奏することは凄い事です。ブーレーズの「第2ソナタ」の録音は何種類か持っていますがライヴ盤はクライバーンコンクールのクリストファー・テイラーによる演奏しかなかったような。最近はCD−RによるCDも販売(違法?)しているので探せば他にライヴ盤があるのかもしれません。

 3月に予定しているリサイタルの曲目を探索中。本当はピアノデュオの演奏会のつもりで練習もしていたのですが共演者の方との調整がつかず急遽ソロに変更。かなり焦ってます…(^^;

2006/12/6

 読む本が山積みなのですが近所のBOOK OFFに行って何冊か購入。中でも中条省平によるバタイユの新訳「目玉の話」が読み応え十分でした。勿論これはかつての生田耕作訳「眼球譚」の新訳なのですが「マダム・エドワルダ」も一緒に入っておりお買い得です。バタイユの「眼球譚」をはじめて読んだのは中学三年の頃でしたがその頃のうぶな私はすっかりバタイユに参ってしまい何冊か夢中で読んだのを思い出します。実際バタイユは非常にヨーロッパ的な思想家で三島由紀夫のようにバタイユをそのまま日本にもって来る事がそんなに簡単なものではないのですが、その独特な暗い異常な緊張感と興奮、そして不思議な明晰さ、透明な文章は思想的な問題を抜きにして魅力あるものです。
 この更新を書くのにAmazonでバタイユを調べて見ると随分翻訳も多くなり、文庫化も進んでいるのでびっくりしました。私が中学の頃に読んだのは講談社文庫、ハンス・ベルメールの印象的な表紙のものでしたが後は二見書房版作品集にあたるか殆ど私家版の生田耕作の翻訳を探すしかありませんでした。「内的体験―無神学大全」がこんなにお手軽になっているとは!
 新訳を読んで久しぶりに生田訳の「眼球譚」も読み返してみようと本箱を探して見たのですがどうにも見当たらない…。整理整頓はしておかないといけませんなぁ。

 ところで先日猛烈な下痢と嘔吐、最近流行の風邪だそうで皆様もお気をつけ下さい。

2006/11/27

 世良美術館の演奏会終了しました。アンコールはショパン、ゴドウスキ編曲「別れの曲」、ファロッシ「ホワイト・クリスマス」でした。ご来場いただいた皆様に感謝します。

 今回美術館での演奏会という事もあり音響上の問題点の指摘がありましたがこれはしょうがない事ではないでしょうか。コンサートホールであってもその日の天候にも左右される事がある訳ですから、ましてやホールとして設計されていない場所ではどうしようもない事です。普段私はそう言う事を考えるとどこでも演奏する事が出来なくなってしまうので考えないようにしています。逆に演奏上の問題点をピアノの性能のせいにするような事はしていないつもりです。

2006/11/21

 演奏会前ですが次回の演奏会の打ち合わせを兼ねての飲み会。なかなか盛り上がりました。盛り上がってばかりではいけないのですが…。

 家に帰るとスロボジャニクのレーガー「バッハ変奏曲」のレコードが届いておりました。今聴きとおしたところですが噂に聴いていた通りの名演です。アムランに遜色ない演奏です。アムラン盤がなければ正に決定盤といってもいい演奏です。レコードをこれほど期待を持って聴いて、興奮したのは久しぶりです。

2006/11/14

 金澤攝氏のラヴィーナ連続演奏会5回目(11/9)。作品の難度は最初期に比べ平易になるも、そのシンプルな造型、雲ひとつない晴天を想わせる明朗でドライな音楽はいかにも私好みの作品で特に短調作品ではそのセンチメンタルな部分が少ないが故に魅力的な作品になっています。来月の最終会をもって私はラヴィーナの作品の約七割をきいたことになる訳ですが、この即物的ともいえる作曲家の作品に私は非常に強い共感と興味を持ちました。惜しむらくはその作品の殆どが現在入手が困難であるということです。来年から金澤氏によるラヴィーナの録音の予定もあり是非出版の話などあがってもらいたいものです。中期以降の作品は技巧的にも常識的で魅力的な作品があります。

 柴田宵曲の「妖異博物館」「続妖異博物館」が非常に面白く一気に読む。全く偶然その前に買っていた岩波文庫「唐宋伝奇集 上 下」も繋がりで面白く読む。この手の怪異譚は嫌いではないものの特に中国のものは敬遠していたきらいがあるのですが一度勢いに乗ると一気に読んでしまいました。特に岩波文庫版「唐宋伝奇集」は下巻から読むのがお勧めです。殆どショートショートです。短いものでは2ページ。芥川龍之介の元ネタ「杜子春」や中島敦「山月記」の元ネタ「李徴」等が入っています。この勢いで買ったまま放ったらかしにしている「聊斎志異」も読んでみようかと思っています。これらの短編、中編集の対極に「水滸伝」「西遊記」「金瓶梅」といった長編があります。これらはその分量がドストエフスキーの比でないほどなので手にするのを躊躇してしまいますが、いずれ読んでみたいと思います。
 しかし最近は本もうかうかしているとすぐ絶版品切れになってしまいます。そのうち買おうと思っていた本がいざ買うとなると出版社から入手出来ない場合が結構あります。中古レコードと同じく「見かけたら買っとく」というのがいいのでしょうか。

 中古レコードといえば最近カタログでスロボジャニクの弾くレーガー「バッハ変奏曲」を見かけ早速オーダーしました。一応受注のメールが届いたのですが手元に届くまで安心できません(^^;

 リサイタルも近づいていますがついつい酒と映画に溺れていますが、先日チャンネルNECOで放送された「男嫌い」は10年来見てみたいと思っていた作品で実に興味深く鑑賞しました。越路吹雪、淡路恵子、岸田今日子、横山道代、坂本九という恐るべき4姉妹と弟のコメディです。若き日の青島幸男なんかも出演しています。監督木下亮のスタイリッシュな演出は色彩、構図がキマっており、舞台劇を想わせる台詞回しもいかにも私好みの映画です。映画はこれくらい映像を「造る」とか「遊ぶ」とかしないと面白くないのです。映画はストーリーではないのです。

 映画といえば黒澤明の「椿三十郎」が織田裕二主演でリメイクされるそうです。このニュースは「めざましテレビ」で見たのですが何故かバックにかかっていたのは「用心棒」のサントラ…。確かに「椿三十郎」は「用心棒」の続篇みたいなものですし、「用心棒」のサントラは傑作なのですが。
 ところで映画好きみたいな顔をしている私ですが意外にも黒澤明の名前が出て来る事が少ないのお気づきの方もいるのではないでしょうか。実は神をも恐れぬ発言ですが私は黒澤作品がそんなに好きではないのです。黒澤映画は殆ど全て見ているのですが(「明日を創る人々」や戦前の「地熱」等は未見)「隠し砦の三悪人」がベストで以下「蜘蛛巣城」「用心棒」「羅生門」といった作品は面白い作品だと思うものの、代表作「七人の侍」や「生きる」はどうも好きになれないのです。確かにすごい作品だと思うのですがどうも主義主張がはっきり表出すると映画の面白さが半減してしまうような気がするのです。「天国と地獄」「悪い奴ほどよく眠る」も登場人物による主義主張の弁舌がなければと思ってしまいます。映画の内容が既に社会批判を含んだ内容ですのでそれを敢えて登場人物に語らす必要はないかと思います。親切といえば親切な訳ですがどうも白けてしまうのです。その点で「隠砦の三悪人」といった徹底的に娯楽を追及した作品が映画としての完成度の高さ、面白さを兼ね備えていると思います(なんせ「スターウォーズ」の元ネタですから)。作品自体も「どですかでん」以降のものはあまり好きではありません。はっきりいうと退屈です。黒澤明の「完璧主義」が悪く出たのではないかとすら思います。
 リアリティを追求するのが映画の本当の役目であると私は思っていません。映画は基本的に夢物語でいいのです。私が川島雄三やヒッチコックを偏愛するのも彼等の作品は「見る面白さ」がまず前面にあるからで、ストーリーの整合性などは二の次になっている場合も多々あります。昔はやったモンド映画、ヤコペッティの「世界残酷物語」等もドキュメンタリーと銘打っておきながら実際は俳優による演技、やらせであったのですが、それは監督のイメージする残酷美を表現する事が主眼でありドキュメンタリー、事実を提示する事とは違ったのです。
 最終的には個人の趣味なのですが私の好みは如何にスタイリッシュな映像であるか、という処に行きつきます。

2006/11/2

 アムラン待望のDVD「It's All About The Music」を見る。ドキュメンタリーと演奏会プラス特典映像(ブゾーニピアノ協奏曲4楽章を含む)となかなか充実の内容。アムランの演奏はもとより彼の音楽に関する取り組み、熱意が伝わってきます。ロバート・リム(「The Composer-Pianists: Hamelin and the Eight」の著者)のインタビューも興味深い内容です。ただ、このDVDのアムランはマジメですね。勿論普段のアムランがふざけている訳ではないのですが、彼の楽しい面ももっとクロースアップされればもっとよかったです。
 このDVDの見所は色々あるのですが、アムランの楽譜棚はすごいです。さすがという感じです。それとロナルド・スティーヴンソンの自作の演奏も貴重でしょう。私は大学の時図書館でスティーブンソンの「Passacaglia on DSCH」と「Prelude, Fugue and Fantasy on Busoni's Faust」の楽譜を見て以来興味のある作曲家だったのですが、彼の演奏が見れるとは思いませんでした。
 演奏会は言わでもがなの優れた演奏。ライヴ録音というのもよいです。録音では完璧、フォルムのしっかりした演奏ですが(この辺りの事情も録音技師のインタビューで語られている)、反面人工的、色彩感が乏しい、冷静すぎるという声も聴かれます。しかしアムランはライヴに於いて録音(CD)のクオリティを目指すタイプのピアニストではないです。このDVDによってそのことが伝わってきます。
 しかし、彼の完全な脱力状態、自由な手首、無駄のない動き、どれをとっても究極的なピアニストの技巧です。それに加え知性と情感、ユーモア、該博な知識と卓抜な選定眼、正にピアニストの中のピアニストと言えるのではないでしょうか。まぁ私はかなり贔屓目のきつい人間なのですが、アムランは本当に素晴らしいピアニストだと思います。

2006/10/31

 ザ・シンフォニーホールへ大阪コレギウム・ムジクム、当間修一指揮によるバッハ「マタイ受難曲」を聴きに行く。なかなか満足のいく演奏会でした。「マタイ受難曲」を実演で聴くのは3回目ですが最も良かったかもしれません。家に帰ってからカール・リヒターのDVDを見る。全曲はさすがにきついので飛ばし飛ばし見ていましたが、イエスの受難というよりはイエスを巡る人々を音で描いた作品のように感じます。ペテロの否認の後の有名なアリアなどの美しさと悲しみはオペラに比べても劣らない心理描写であると思います。

 読む本が随分たまってきているのですが柴田宵曲の「妖異博物館」「続妖異博物館」を買う。意外に品切れ絶版になると厄介なちくま文庫なのでとりあえずおさえておきました。最初の方を読んだのですが澁澤龍彦は随分この本を参考にして書いている事がわかります。もっとも柴田宵曲は類書「広文庫」によっていたということですので文献の重なりは別にいいのですが、そのスタイルは澁澤龍彦に影響を与えたような気がします。「品のある怪談」とでも言いましょうか、着眼の卓抜さはとてもよく似ています。

 本と言えば「のだめカンタービレ」がドラマ化されたそうですが、私はこの作品つい1週間ほど前に知ったという…。最近マンガを全然読んでいないので全く世事に疎くなっていたですが、原作もドラマも面白いらしいです(ちなみに2007年にはアニメ化の話も出ているらしい)。普段全くドラマは見ないのですが、とりあえず本日の放送は録画しました。録画した映画も山積みになっているのでいつ見れるか…。

 いま一番ほしいものは時間ですかね…。

2006/10/26

 11月17日午後6時からJEUGIA梅田ハービスENT店でライヴを行います。曲目は
 ベートーヴェン 月光第1楽章
 ゴドウスキー Devotion Avowel
 グリュンフェルト ウィーンの夜会
 となっております。入場無料ですのでお気軽にお越し下さい。


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