徒然草

吉田兼好

 
  私が初めて読んだ古典は本作「徒然草」であった。中学高校の教科書でもお馴染みの作品であるが、この作品説教オヤジのお小言という風に捉えられている人が多いのではなかろうか。私はそうであった。しかし、それは教科書に掲載されている段が説教染みているだけで全段を読むと違った兼好像が現れてくる。そうすると教科書に載っている説教調の話しも違ったものに見えてくる。読書とはこういうものなのだと実感できる瞬間であろう。学校の国語ではこういったことは教えてくれなかった。

 久しぶりに通読してみて印象に残ったのは大きく分けて次の三点である。専門家への畏敬、リアリスト兼好そして異常な好奇心である。専門家への畏敬は全体を通して語られている。教科書でお馴染みの木登りの話しから馬乗り、弓使い等芸術家、政治家、宗教家とその道を極めた人に対しては貴きも賤しきをも問わず敬意を表する。そしてかくあるためにはどのように日々を過ごすべきかを様々に考察する(この辺りが説教くさくなってしまうのはしょうがない)。そして、したり顔するものや驕れる者の失敗談は容赦なく実名で書き上げる。考えようによってはかなり下世話なことであるが、結構下世話な話が多いのも本作品の魅力である。
 リアリストとしての兼好は有名な百十七段に現れている。
 「友とするに悪き者、七つあり。一つには、高く、やんごとなき人。二つには、若き人。三つには、病なく、身強き人、四つには、酒を好む人。五つには、たけく、勇める兵。六つには、虚言する人。七つには、欲深き人。 よき友、三つあり。一つには、物くるゝ友。二つには医師。三つには、智恵ある友。」
 こんなこと書くか?と思うような内容であるが現実的である。また二百六、二百七段での迷信の否定。不吉なこと(牛が殿中に入り込んできたり、山を切り開くと多くの蛇が現れたり)はそう思うから不吉な例となるのだという。
 「怪しみを見て怪しまざる時は、怪しみかへりて破る」(二百六段)
 そして兼好の好奇心は人間俗世から自然界、武芸、音楽と幅広い。音楽の調律に関する話し(二百十九、二百二十段など)や有名な平家物語の成立譚(二百二十六段)、白拍子の起源(二百二十五段)など挙げれば切りがない。

 以上の三点から浮かび上がってくる兼好像は教科書に載っている説教オヤジではなくもっと面白い人物であったようだ。勿論いつの世にもあるように言葉遣いの乱れを嘆いたりもしているが(百六十段)その一方で「七つの自慢話」(二百三十八段)を披露したりもする。隠遁者であり求道者である兼好は実はすごく俗な人物ではなかったのかと思われてくる。
 「徒然草」の主要テーマの一つである「無常」即ち「死」についてもリアリストであった故に冷静に論理的に描き出せたのではないだろうか。「徒然草」の中に描かれる「死」は現実的なものであり、「死」を意識することによって今何をすべきなのか(これは抽象的な話としては描かれていない)を問うている。

 この作品の魅力は不思議な言葉のリズムにもある。例えば滑稽譚として有名な仁和寺の酔った男が(三本足の釜)を頭からかぶって抜けなくなる話(五十三段)。どうにも頭から抜けないので医者のもとへ連れて行く。
 「医師のもとにさし入りて、向ひゐたりけんありさま、さこそ異様なりけめ。」
 医者にもどうにもならず寺へ連れ帰る。家族、友人が集まり悲しみ泣いているが当の本人は
 「聞くらんとも覚えず。」
 結局鼻耳が欠けても無理やり引っこ抜くこととなるのだが
 「藁のしべを廻りにさし入れて、かねを隔てて、頚もちぎるばかり引きたるに、耳鼻欠けうげながら抜けにけり。からき命まうけて、久しく病みゐたりけり。」
 この独特の言葉のリズム感による面白さは現代語訳では引き出すことが出来ないものである。

 岩波文庫の解説を読むと有名な「序段」は「ある時の」感想であって随想全般を指すものではないと書かれているがどうなのであろうか。徒然草成立の詳しいことは私は知らないが序段と最終段(二百四十三段)はやはり意図的にこの配置にされたような気がしてならない(それが兼好自身によるものでないとしてもである)。序段に「心に移りゆくよしなし事を」なんとなく書いていくと「わけわかんないうちにアブナクなってくんのなッ!」(橋本治訳)と「全体が書かれた」後に書いたらしき文章を置き、最終話で自らの少年時代のエピソード(父親に仏のルーツをしつこく聞いて閉口される話)即ち好奇心の人、吉田兼好を描くことによってこの作品の性格が見事に描き出されているように思われるからである。

 本作品は有名な現代語訳も多いが、妙なリズム感の面白さは原文にあると思う。それもこの作品の大きな魅力である。先頃完結した岩波書店の「新日本古典文学大系」が読みやすい。
 余談であるが私が小学生の頃赤塚不二夫氏による漫画化(学研刊「赤塚不二夫のまんが古典入門」)を読んだのであるがこれが今から思うとなかなか雰囲気を伝えたものであったように思う。今手元にないのでなんとも言えないのだが。ちなみに吉田兼好は「ダヨーンのおじさん」であった


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