徒然草 吉田兼好 |
私が初めて読んだ古典は本作「徒然草」であった。中学高校の教科書でもお馴染みの作品であるが、この作品説教オヤジのお小言という風に捉えられている人が多いのではなかろうか。私はそうであった。しかし、それは教科書に掲載されている段が説教染みているだけで全段を読むと違った兼好像が現れてくる。そうすると教科書に載っている説教調の話しも違ったものに見えてくる。読書とはこういうものなのだと実感できる瞬間であろう。学校の国語ではこういったことは教えてくれなかった。
久しぶりに通読してみて印象に残ったのは大きく分けて次の三点である。専門家への畏敬、リアリスト兼好そして異常な好奇心である。専門家への畏敬は全体を通して語られている。教科書でお馴染みの木登りの話しから馬乗り、弓使い等芸術家、政治家、宗教家とその道を極めた人に対しては貴きも賤しきをも問わず敬意を表する。そしてかくあるためにはどのように日々を過ごすべきかを様々に考察する(この辺りが説教くさくなってしまうのはしょうがない)。そして、したり顔するものや驕れる者の失敗談は容赦なく実名で書き上げる。考えようによってはかなり下世話なことであるが、結構下世話な話が多いのも本作品の魅力である。 以上の三点から浮かび上がってくる兼好像は教科書に載っている説教オヤジではなくもっと面白い人物であったようだ。勿論いつの世にもあるように言葉遣いの乱れを嘆いたりもしているが(百六十段)その一方で「七つの自慢話」(二百三十八段)を披露したりもする。隠遁者であり求道者である兼好は実はすごく俗な人物ではなかったのかと思われてくる。 この作品の魅力は不思議な言葉のリズムにもある。例えば滑稽譚として有名な仁和寺の酔った男が鼎(三本足の釜)を頭からかぶって抜けなくなる話(五十三段)。どうにも頭から抜けないので医者のもとへ連れて行く。 岩波文庫の解説を読むと有名な「序段」は「ある時の」感想であって随想全般を指すものではないと書かれているがどうなのであろうか。徒然草成立の詳しいことは私は知らないが序段と最終段(二百四十三段)はやはり意図的にこの配置にされたような気がしてならない(それが兼好自身によるものでないとしてもである)。序段に「心に移りゆくよしなし事を」なんとなく書いていくと「わけわかんないうちにアブナクなってくんのなッ!」(橋本治訳)と「全体が書かれた」後に書いたらしき文章を置き、最終話で自らの少年時代のエピソード(父親に仏のルーツをしつこく聞いて閉口される話)即ち好奇心の人、吉田兼好を描くことによってこの作品の性格が見事に描き出されているように思われるからである。 本作品は有名な現代語訳も多いが、妙なリズム感の面白さは原文にあると思う。それもこの作品の大きな魅力である。先頃完結した岩波書店の「新日本古典文学大系」が読みやすい。 |