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  TOKUGAWA (EDO) SHOGUNATE 

  GOVERNMENT

 

 

   (Kjhh)21726

  カナヤマ 江戸幕府

  大奥ガイドブック 

  大奥 年表

  No.11。  』

 

 

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 □ 江戸幕府 大奥ガイド

    ブックの内容

 

  □ 江戸幕府・大奥

       簡略年表

 

 □ 江戸幕府・大奥

    詳細年表

 

  □ 大奥 年表 

     1573年〜171 3年

 

  □ 大奥 年表 

        1714年〜1852年

 

  □ 大奥 年表 

        1853年〜1868年

 

 

 

   

   ○ 幕末の江戸幕府・大奥の実力者の

     天璋院・篤姫 (てんしょういん・あつ

     ひめ、篤姫役: 宮崎あおい)。  

   ○ ドラマ「篤姫」での天璋院・篤姫フォト

          ( 宮崎あおいが演じる篤姫)。

   ○ テレビ局のドラマ「篤姫」の出版本の

      書籍販促用PRフォト。

 

 

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          ブック 大奥年表

 

 

■ カナヤマ 主要 公式ホー

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◆ 江戸幕府 大奥 ガイド

   ブックの内容 :

 

 ■ 江戸幕府 大奥 ガイドブック。

 

 ■ 江戸幕府 大奥の、初学者・初心者向

   インターネット用 電子書籍

 

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 ■ 初学者・初心者用 オンライン 江戸幕府  

   大奥ガイドブック。

 

 ■ 江戸幕府 大奥 の 入門 ガイドブック。

 

 ■ 江戸幕府 大奥 (えどばくふ おおおく) 

   関連 初学者・初心者向 インターネット用 

   オンライン書籍(ブック)。

 

 ■ この電子書籍1冊で (この本1冊で)、 

   江戸幕府の、大奥のこと(概略)が、

   一通り、わかる。 

 

 ■ 江戸時代に、 江戸幕府の将軍が、 

   最高権力者として、日本を支配していた。  

     そして、江戸幕府(徳川宗家)の後宮

   の大奥にいる将軍の母や夫人とその側

   近、大奥監督者も、将軍と共に、日本の

   政治を動かしていた。

 

 ■ TKKI カナヤマ著 江戸幕府・大奥  

   ガイドブック。

 

 

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◆ (Kjhh) 

   江戸幕府 大奥 

   ガイドブック 

   大奥 年表

 

 

#innerpalacebriefchronology

 

◆ 江戸幕府 大奥  

   簡略年表。 

          (えどばくふ おおおく

     かんりゃくねんぴょう)。

 

   ○ 『 では、 江戸幕府・大奥に関係

      する出来事を、年代順に、見て

           みよう。

 

 

◆ 江戸幕府・大奥 簡略年表

 

■ 1590年   ● 徳川氏の関東領地換え。

 (天正18年)  豊臣秀吉の命(めい、命令)により、

           中部地方から関東地方への徳川氏

           の領地換えにより、 江戸城が、徳

           川氏の本城(ほんじょう、本拠地の

           城)となり、 徳川家康の妻子が、

           江戸城に移り、 江戸城の後宮の

           大奥が誕生する。  

           ● 初めは、大奥は、 徳川氏当主・

           将軍の、夫人(正室夫人、側室夫

           人)や 元服(成人)前の子が単に

           居住する場所であった。

           ● 徳川家康の2人の正室夫人は

           既に死去し、家康の側室夫人たち

           子供たち、家康世子 ・徳川秀忠

           の乳母(うば)の大姥局(おおばの

           つぼね)が、江戸城の大奥に入 り、

           家康の側室夫人たちや大姥局が、

           交代で、  大奥の監督者(大奥の

           実務の実権をもつ人)となる。

           ● 家康の側室夫人たちは、15

           98年(慶長3年)まで、江戸 城

           の大奥に居住し、それ以後は、

           家康が死去する1616年まで、

           家康と共に、家康の政務居城

           の伏見城、豊臣大阪城・西の丸、

           江戸城、駿府城に居住する。

           ● 一方、家康三男の徳川秀忠

           は、1590年(天正18年)に上

           洛し、豊臣秀吉に謁見する。 

           その後、秀忠は、畿内在留の多

           い家康に代わり、江戸城で関東

           領国の支配に当たり、また、畿内

           と関東の往復を繰り返す。

              1595年(文禄4年)9月に、

           秀忠は、お江(おごう)と婚儀を

           結ぶ。 

              秀忠の正室夫人のお江与

           (お江)と子(娘)は、1599年(慶

           長4年)頃まで、豊臣氏の人質とし

           て、畿内(きない)の大阪や伏見

           の徳川屋敷に居住する。

            ● TKKI カナヤマ著 江戸幕府

              大奥ガイドブック。

 

■ 1598年   ● 1598年(慶長3年)の豊臣秀吉

 (慶長 3年)    死去後、京(都)の伏見城(豊臣

             秀吉築・前期木幡山伏見城)を、

             徳川家康が、豊臣氏大老として、

             政務居城(1598年ー1599年

             9月)とし、入城する。

           ●  家康の側室夫人達は、伏見城

             に移る。

 

■ 1599年頃  ● 1599年(慶長4年)頃に、徳

 (慶長 4年)    川秀忠の正室夫人のお江与(お

             えよ、お江(おごう))と子(娘)が、

             豊臣氏の人質から解放され

             畿内(きない)の大阪や伏見の徳

             川屋敷から、江戸城の大奥に移

             る。 

             

■ 1603年   ● 徳川 家康 (とくがわ いえやす)

 (慶長 8年)   が、 征夷大将軍となり、江戸に

            幕府を開き、江戸幕府(1603年

            〜1867年)が樹立される。

            ● 家康が、江戸幕府の初代将軍

            (将軍在任:1603年〜1605年)

            となる。 

            ● 家康の初代将軍時の、江戸城

             の大奥の監督者(大奥の実務の

             実権を握る人)は、 家康世子の

                        徳川秀忠の乳母(うば)の大姥局

             (おおばのつぼね、生没年:152

             5年〜1613年))である。

            ● 家康の初代将軍時、家康の側

             室夫人たちは、家康と共に、政務

             居城の伏見城( 家康築・後期・木

             幡山伏見城)に居住する。 

 

■ 1605年   ● 徳川 秀忠 (ひでただ、将軍在

 (慶長10年)   任:1605年〜1623年、家康の

            三男)が、 江戸幕府の第2代将

            軍となる。 

              大御所(お おごしょ、引退後の

            将軍)の徳川家康が、生きている

            間、江戸幕府の政治の実権をもつ。

            ● 秀忠の2代将軍時、秀忠正室・

                       お江与(お 江)が、 大奥の最高

            権力者となる。

               また、秀忠・乳母の大姥局(お

                        おばのつぼね、生没年:1525年

             〜1613年)が、 江戸城の大奥

             の監督者(大奥の実務の実権を

             握る人)となる。 

            ● 秀忠の2代将軍時、大御所とな

             った徳川家康の側室夫人たちは、

             1605年から1607年まで、家 康

             の政務居城の伏見城(ふしみじょ

             う、家康築・後期・木幡山伏見城)

             に居住し、1607年から1616年

             まで、家康の政務居城の駿府城

             (すんぷじょう)に居住する。 

 

■ 1618年     ● 徳川家光・生母のお江与(おえ

 (元和 4年)    よ、お江(おごう)) と、 家光・乳

             母 (うば)のお福(おふく、春日局

             (かすがのつぼね))が、  大奥法

             度(おおおくはっと)を定める。

            ● TKKI カナヤマ著 江戸幕府

               大奥ガイドブック。

 

■ 1623年    ● 徳川 家光 (いえみつ、将軍在任:

 (元和 9年)   1623年〜1651年、秀忠のニ男) 

            が、 江戸幕府の第3代将軍となる。  

              大御所(お おごしょ、引退後の将

            軍)の徳川秀忠が、生きている間、

            江戸幕府の政治の実権をもつ。

            ● 徳川秀忠の長男で、家光の腹

             違いの兄は早世する。

            ● 家光の3代将軍時の、江戸城の

             大奥の監督者(大奥の実務の実

             権を握る人)は、 家光乳母(うば)

             のお福(おふく、春日局)であり、

             お福(春日局)死後は、お万(おま

             ん)である。

            ● お福(春日局)は、町でスカウト

             した、お楽(おらく、後の徳川家綱

             (いえつな)生母)、 お夏(おなつ、

             後の徳川家宣(いえのぶ)祖母)、 

             お玉(おたま、後の徳川綱吉(つな

             よし)生母)、の3人の体の(じょう

             ぶ)丈夫な町娘を大奥に入れる。 

                それら3人の町娘は徳川家光

             のお手付きとなり、それぞれ家光

             の男子を産む。 

 

■ 1651年   ● 徳川 家綱 (いえつな、将軍在任:

 (慶安 4年)   1651年〜1580年、家光の長男)

            が、 江戸幕府の第4代将軍となる。 

            ● 家綱の4代将軍時の、江戸城の

             大奥の監督者(大奥の実務の実

             権を握る人)は、家綱・乳母の矢島

             局(やじまのつぼね)である。

 

■ 1680年   ● 徳川 綱吉 (つなよし、将軍在任:

 (延宝 8年)    1680年〜1709年、家光の四男) 

             が、江戸幕府の第5代将軍となる。 

            ● 綱吉の5代将軍時の、大奥の最

             高権力者は、 綱吉・生母の桂昌

             院(けいしょういん、お玉(おたま)) 

             である。

            ● TKKI カナヤマ著 江戸幕府  

               大奥ガイドブック。

 

■ 1709年   ● 徳川 家宣 (いえのぶ、将軍在任:  

 (宝永 6年)    1709年〜1712年、家光の孫)が、

             江戸幕府の第6代将軍となる。 

            ● 家宣の6代将軍時の、大奥の最

             高権力者は、 家宣の正室夫人の

             熙子(ひろこ、天英院(てんえいい

             ん))である。

 

■ 1713年   ● 徳川 家継 (いえつぐ、将軍在任:

 (正徳 3年)   1713年〜1716年、家宣の四男)

            が、 4歳位で、江戸幕府の第7代

            将軍となる。

           ● 家継の5代将軍時の、最初の17

             13〜1714年の間、大奥の最高

             権力者は、 家継生母の月光院

             (お喜世)(げっこういん(おきよ))

             であり、月光院(お喜世)付御年寄

             (おとしより、大奥上級幹部)の絵

             島(えじま)が、大奥の監督者(実

             務の実権を握る人)であった。

           ● 1714年(正徳4年)の江島生島

             事件後は、 月光院(お喜世)は

             面目を失い、絵島は失脚、配流

             (はいる)となり、家継の7代将軍

             時の、1714年(正徳4年)〜17

             16年(正徳6年)の間、大奥の最

             高権力者は、 6代将軍・家宣・正

             室夫人の熙子(天英院)となる。

             

■ 1714年   ● 絵島生島(えじまいくしま)事件が

 (正徳 4年)   起こり、 大奥の風紀が粛清される。 

              1714年(正徳4年)の絵島生島

            事件後、月光院(げっこういん、お喜

            世(おきよ))は、面目を失い、1714

            年から1716年までの間、再び、徳

            川家宣・正室夫人の天英院(てんえ

            いいん、熙子(ひろこ))が、大奥の

            最高権力者となる。 

 

■ 1716年   ● 江戸幕府の6代将軍・徳川家宣

  (正徳 6年)      (いえのぶ)の正室夫人の天英院

            (てんえいいん、熙子(ひろこ))が、

            1716年(正徳6年)に、7代将軍・

            徳川家継(いえつぐ)死去時、次期

            8代将軍に徳川吉宗を指名する。

            ● TKKI カナヤマ著 江戸幕府  

               大奥ガイドブック。

 

■ 1716年   ● 徳川 吉宗 (よしむね、将軍在任:

  (正徳 6年)      1716年〜1745年、家康の曾孫、

            紀州藩主) が、1716年(正徳6年)

            に、江戸幕府の第8代将軍となる。

            ● その後、8代将軍・徳川吉宗の治

            世に、 財政再建の名目で、 大奥

            の人員が、大幅に縮小される。

            ● TKKI カナヤマ著 江戸幕府  

               大奥ガイドブック。

 

■ 1745年   ● 徳川 家重 (いえしげ、将軍在任:

 (延享 2年)   1745年〜1760年、徳川吉宗の長

            男)が、 江戸幕府の第9代将軍とな

            る。 

           ● 家重将軍時代、 家重は、大奥に

            入浸(いりびた)りとなる。

 

■ 1760年   ● 徳川 家治 (いえはる、将軍在任:

 (宝暦10年)   1760年〜1786年、家重の長男)

            が、江戸幕府の第10代将軍となる。 

 

■ 1787年   ● 徳川 家斉 (いえなり、将軍在任:

 (天明 7年)    1787年〜1837年、 吉宗の曾

             孫、一橋徳川家当主・徳川治済の

             長男)が、 江戸幕府の第11代

             将軍となる。 

           ● 家斉将軍時代、 家斉正室夫人の

            篤姫(あつひめ、広大院(こうだいい

            ん)、薩摩藩出身)が、大奥の権力者

            となる。

               そして、広大院・篤姫の側近の

            花町(はなまち、後に大奥火事で焼

            死)が、大奥の監督者(大奥の実務

            の実権を握る人)となる。 

               家斉将軍時代の後半期は、

            側室夫人の1人のお美代(おみよ)  

            が、大奥の監督者(大奥の実務の

            実権を握る人)となる。 

           ● 多妻多子の徳川家斉。

              徳川家斉は、側室夫人・約40人、

            子供・約55人をもつ。  

           ● TKKI カナヤマ著 江戸幕府  

              大奥ガイドブック。

 

■ 1837年   ● 徳川 家慶 (いえよし、将軍在任:

 (天保 8年)    1837 年〜1853年、家斉のニ男)

             が、江戸幕府の第12代将軍となる。 

           ● 家慶将軍時代に、 御年寄(おとし

             より、大奥上級幹部)の姉小路(あ

             ねこうじ)が、 大奥の監督者(大奥

             の実務の実権を握る人)となる。 

 

■ 1853年   ● 徳川 家定 (いえさだ、将軍在任:

 (嘉永 6年)    1853 年〜1858年、家慶の四男)

             が、 江戸幕府の第13代将軍となる。 

           ● 徳川家定将軍時代に、 家定の生

             母・本寿院(ほんじゅいん)と家定乳

             母(うば)の歌橋(うたはし)が大奥

             の最高権力者となる。 

                また、御年寄(おとしより、大

              奥上級幹部)の滝山(たきやま、

              御年寄在任:1853年〜1867

              年)が、 大奥の監督者 (大奥の

              実務の実権を握る人)となる。 

           ● 第13代将軍となった、徳川家定

             は体が弱かったため、 次期14

             代将軍継嗣(けいし)問題が起こり、 

             雄藩連合政治を望み次期14代将

             軍に一橋慶喜(ひとつばし よしの

             ぶ、水戸藩出身・一橋家当主)を

             擁(よう)する、一橋派 と、 徳川

             氏独裁政治を望み次期14代将軍

             に徳川 慶福(よしとみ、紀伊藩藩

             主)を擁する、紀州派(南紀派) 

             とが、対立する (1853年頃〜

             1859年頃)。

            ● TKKI カナヤマ著 江戸幕府

               大奥ガイドブック。

 

 

■ 1858年   ● 1858年(安政5年)12月、徳川

 (安政 5年)    家茂 (いえもち、 将軍在任:18

             58年〜1866年、 家斉の孫、紀

             州藩主・徳川慶福) が、 江戸幕

             府の第14代将軍となる。

            ● 家茂将軍時代、天璋院・篤姫(て

             んしょういん・あつひめ、家茂の義

             母) と、 家茂・生母の実成院(じ

             っせいいん)が、大奥の最高権力

             者となる。 

                御年寄の滝山が、大奥の監督 

             者(大奥の実務の実権をもつ人)と

             なる。

            ● TKKI カナヤマ著 江戸幕府  

               大奥ガイドブック。

 

■ 1866年   ● 1866年(慶応2年)12月に、

 (慶応 2年)    徳川 慶喜 (よしのぶ、将軍在任:

             1866年〜1867年、家康の子孫、

             9代水戸藩主・徳川斉昭の七男、

             一橋徳川家当主) が、 江戸幕府

             の第15代将軍となる。

           ● 徳川慶喜の大奥改革に、和宮と

             共に、天璋院・篤姫、反対する。

           ● 慶喜の妻子は、大奥に入らず。

                慶喜将軍時代は、天璋院・篤

            姫(てんしょういん・あつひめ)と和宮

            (かずのみや)が、大奥の最高権力

            者となる。

 

■ 1867年   ● 大政奉還。

 (慶応 3年)      1867年(慶応3年)10月に、

             江戸幕府は、大政奉還(政権を朝廷

             へ返上)を行う。 

            ● 江戸幕府の大政奉還により、江戸

             幕府が、名目的に、終焉(しゅうえん)

             する。

 

■ 1868年   ● 江戸城・無血開城。

 (慶応 4年)      1868年(慶応4年)4月に、江戸

             幕府(徳川宗家)の本城(ほんじょう、

             本拠地の城)の江戸城が、無血開城

             される。 討幕軍が、江戸城に入場

             する。

           ● 大奥法度は廃止となり、 江戸城の

             後宮の大奥は、江戸城・無血開城に

             より、消滅する。

            ● TKKI カナヤマ著 江戸幕府  

               大奥ガイドブック。

 

 

    

   ○ 幕末の大奥の実力者の天璋院・篤姫

     (てんしょういん・あつひめ、篤姫役:

      宮崎あおい)。  

   ○ ドラマ「篤姫」での天璋院・篤姫フォト。

   ○ テレビ局のドラマ「篤姫」の出版本の

      書籍販促用PRフォト。

 

 

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#innerpalacedetailedchronology

 

◆ 江戸幕府 大奥 

     詳細年表 

          (えどばくふ おおおく

      しょうさいねんぴょう)。

 

   ○ 『 では、 江戸幕府・大奥に関係

      する出来事を、年代順に、見て

           みよう。

 

 

◆ 江戸幕府・大奥 詳細年表

 

 □ 大奥 年表 

    1573年〜171 3年

 

 □ 大奥 年表 

       1714年〜1852年

 

 □ 大奥 年表 

       1853年〜1868年

 

 

  ■ 当年表は、 大奥(1590年〜1868年)

    が存在した時代の詳細年表である。

 

  ■ 歴史学の立場から、年代を追って、江戸

    幕府・大奥の実像 (歴史的 有名な出来

    事には、虚像と実像があるが) を見てみ

    よう。

 

  ■ 江戸時代については、『 近世日本歴史

    年表 』を、 明治時代については、

    『 近代日本歴史年表 』 を参照してくだ

    さい。

 

  ■ より理解を深めるために、当年表と近い

    時期の日本史辞典の年表 や年代順出来

    事の、『 安土桃山時代年表、 江戸時代

    初期年表、 お江(おごう) 年表、 豊臣

    秀吉 年表徳川家康 年表、 上杉景勝

    (かげかつ) 年表 直江兼続 年表、 

    幕末 年表明治維新 年表篤姫 (あ

    つひめ) 年表、 西郷隆盛 年表、 坂本

    龍馬 年表 』 も参照して ください。

 

   ■ 璋院・篤姫(てんしょういん・あつひめ)

     の詳細 な内容に関しては、

     『 璋院・篤姫 ガイドブック 』を参照

     してください。

 

   ■ 当年表は、 西暦を先に、 その後ろの

     ( )内に和暦を記載している。

 

 

 ■  日本の暦。

   ■ 和暦の、旧暦(太陰太陽暦)

      と 新暦(太陽暦)。

 

   ■ 日本では、 大化(たいか)元年(西

     暦645年)から明治5年(西暦1872

     年)まで旧暦(太陰太陽暦)を使用し 、

     1873年(明治6年)から現在まで

     暦太陽暦現使用のグレゴリオ暦

     を使用している。

 

   ■ 日本の太陽暦の採用。

      明治新政府の旧暦から新暦への切

      り替え。

        明治新政府(近代日本政府)は、

     近代化のため、旧暦(太陰太陽暦

     の1872年(明治5年)12月2日の

     翌日(12月3日)を、 新暦(太陽暦

     現使用のグレゴリオ暦)の1873年

     (明治6年)1月1日とした。 

 

   ■ 当書の日付(年月日)は、 一般の

     日本歴史書と同様に、1872年(明

     治5年)以前は日本の旧暦(太陰太

     陽暦)の年月日記載し、 1873年

     (明治6年)以後は日本の新暦(太 陽

     、現使用のグレゴリオ暦))の年月

     日を記載している。

   ● TKKI カナヤマ著 和暦ガイドブック

 

 

 

    

   ○ 幕末の大奥の実力者の天璋院・篤姫

     (てんしょういん・あつひめ、篤姫役:

      宮崎あおい)。  

   ○ ドラマ「篤姫」での天璋院・篤姫フォト。

   ○ テレビ局のドラマ「篤姫」の出版本の

      書籍販促用PRフォト。

 

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#innerpalacedetailedchronology-1573

 

 江戸幕府・大奥

   詳細年表。

 

 

 ■ 1573年   ● 天正改元。    

  (天正 元年)    1573年7月28日に、 和暦

             の「元亀」(げんき) が、 「 天正」 

             (てんしょう、天正元年・1573年・

             7月28日〜 天正20年・ 1592

             年・12月8日) に改元される。 

 

 ■ 1590年   ● 徳川氏の関東領地換え。

  (天正18年)   豊臣秀吉の命(めい、命令)により、

             中部地方から関東地方への徳川氏

             の領地換えにより、 江戸城が、徳

             川氏の本城(ほんじょう、本拠地の

             城)となり、 徳川家康の妻子が、

             江戸城に移り、 江戸城の後宮の

             大奥が誕生する。  

            ● 初めは、大奥は、 徳川氏当主・

             将軍の、夫人(正室夫人、側室夫

             人)や 元服(成人)前の子が単に

             居住する場所であった。

            ● 徳川家康の2人の正室夫人は

             既に死去し、家康の側室夫人たち

             や子供たち、家康世子 ・徳川秀忠

             の乳母(うば)の大姥局(おおばの

             つぼね)が、江戸城の大奥に入り、

             家康の側室夫人たちや大姥局が、

              交代で、  大奥監督者(大奥の

             実務の実権をもつ人)となる。

            ● 家康の側室夫人たちは、15

             98年(慶長3年)まで、江戸 城

             の大奥に居住し、それ以後は、

             家康が死去する1616年まで、

             家康と共に、家康の政務居城

             の伏見城、豊臣大阪城・西の丸、

             江戸城、駿府城に居住する。

            ● 一方、家康三男の徳川秀忠

             は、1590年(天正18年)に上

             洛し、豊臣秀吉に謁見する。 

             その後、秀忠は、畿内在留の多

             い家康に代わり、江戸城で関東

             領国の支配に当たり、また、畿内

             と関東の往復を繰り返す。

               1595年(文禄4年)9月に、

             秀忠は、お江(おごう)と婚儀を

             結ぶ。 

               秀忠の正室夫人のお江与

             (お江)と子(娘)は、1599年(慶

             長4年)頃まで、豊臣氏の人質とし

             て、畿内(きない)の大阪や伏見

             の徳川屋敷に居住する。

             ● TKKI カナヤマ著 江戸幕府

              大奥ガイドブック。

 

 ■ 1598年   ● 1598年(慶長3年)の豊臣秀吉

  (慶長 3年)    死去後、京(都)の伏見城(豊臣

              秀吉築・前期木幡山伏見城)を、

              徳川家康が、豊臣氏大老として、

              政務居城(1598年ー1599年9

              月)とし、入城する。

            ●  家康の側室夫人達は、伏見城

              に移る。

 

 ■ 1599年頃  ● 1599年(慶長4年)頃に、徳

  (慶長 4年)    川秀忠の正室夫人のお江与(お

              えよ、お江(おごう))と子(娘)が、

              豊臣氏の人質から解放され

              畿内(きない)の大阪や伏見の徳

              川屋敷から、江戸城の大奥に移

              る。 

 

 ■ 1599年    ● 徳川家康が、豊臣氏大老として、

  (慶長 4年)    豊臣大阪城・西の丸を、政務居城

              (1599年9月ー1600年6月)と

              し、入城する。

                 家康の側室夫人達も、 伏見城

              から豊臣大阪城・西の丸 へ移る。

 

 ■ 1600年    ● 徳川家康が、1600年(慶長5

  (慶長 5年)    年)6月に、豊臣氏大老として、

              豊臣大阪城・西の丸を出て、上杉

              征伐のため、東国に向かう。

                 家康の側室夫人達も、豊臣

              大阪城・西の丸から出て、東国

              に向かう。

 

 ■ 1600年    ● 徳川家康が、1600年(慶長5年)

  (慶長 5年)    7月に、江戸城に入る 1600年

              7月〜9月)

                 家康の側室夫人達も、 江戸城

               の大奥に入る。

 

 ■ 1600年    ● 徳川家康が、1600年(慶長5年)

  (慶長 5年)    9月の関ヶ原の戦いに勝利後、

              豊臣大阪城・西の丸 を、政務居城

              (1600年9月ー1601年3月)とし、

              豊臣大阪城に入城する。

                家康の側室夫人達も、 江戸城

               から豊臣大阪城・西の丸に移る。

 

 ■ 1601年    ● 徳川家康は、 落城した伏見城を

  (慶長 6年)    再建するため、豊臣大阪城・西の

              丸から出て、1601年(慶長6年)

              3月に伏見城に入城し再建に着手

              し、1602年(慶長7年)に、伏見城

              (家康築・後期・木幡山伏見城)を

              再建する。 そして、1607年(慶

              長12年)まで、伏見城を政務居城 

              (1601年3月1607年とする。 

                家康の側室夫人たちも、豊臣

              大阪城・西の丸から伏見城に移る。

 

 ■ 1603年   ● 徳川 家康 (とくがわ いえやす)

  (慶長 8年)   が、 征夷大将軍となり、江戸に

             幕府を開き、江戸幕府(1603年

             〜1867年)が樹立される。

            ● 家康が、江戸幕府の初代将軍

             (将軍在任:1603年〜1605年)

             となる。 

            ● 家康の初代将軍時の、江戸城

             の大奥の監督者(大奥の実務の

             実権を握る人)は、 家康世子の

                        徳川秀忠の乳母(うば)の大姥局

             (おおばのつぼね、生没年:152

             5年〜1613年))である。

             ● 家康の初代将軍時、家康の側

             室夫人たちは、家康と共に、政務

             居城の伏見城( 家康築・後期・木

             幡山伏見城)に居住する。 

 

 ■ 1604年   ● お江(おごう)が、竹千代(徳川家

  (慶長 9年)   光)を出産する。 徳川家康の命

             (めい、命令)で、竹千代の乳母(う

             ば)として、お福(おふく)が大奥に

             入る。

            ● TKKI カナヤマ著 江戸幕府  

               大奥ガイドブック。

 

 ■ 1605年   ● 徳川 秀忠 (ひでただ、将軍在

  (慶長10年)    任:1605年〜1623年、家康の

              三男)が、 江戸幕府の第2代将

              軍となる。 

               大御所(お おごしょ、引退後の

              将軍)の徳川家康が、生きている

               間、江戸幕府の政治の実権をも

              つ。

            ● 秀忠の2代将軍時、秀忠正室・

                          お江与(お江))が、 大奥の最高

              権力者となる。

               また、秀忠・乳母の大姥局(お

                         おばのつぼね、生没年:1525年

              〜1613年)が、 江戸城の大奥

              の監督者(大奥の実務の実権を

              握る人)となる。 

             ● 秀忠の2代将軍時、大御所と

              なった徳川家康の側室夫人た

              ちは、1605年から1607年ま

              で、家 康の政務居城の伏見城

              (ふしみじょう、家康築・後期・

              木幡山伏見城)に居住し、16

              07年から1616年まで、家康

              政務居城の駿府城(すんぷ

              じょう)に居住する。 

 

 ■ 1607年    ● 大御所の徳川家康は、江戸幕

  (慶長12年)     府の実権をもったまま、政務居

               城(1607年ー1616年)を伏

              見城(家康築・後期木幡山伏見

              城)から駿府城(すんぷじょう)に

              移す。   

                家康の側室夫人たちも、 伏

              見城から家康の駿府城に移る。

 

 ■ 1611年   ● 大姥局の侍女のお静(おしづ、

  (慶長16年)    生没年:1584年ー1635年)

              が、2代将軍の徳川秀忠に見

              初(みそ)められ、 男子の

              松 (こうまつ、保科正之(ほし

              なまさゆき、会津松平家・初代

              当主、会津藩祖、生没年:16

              11年ー1672年)を産む。

                徳川秀忠は、正室夫人の嫉

              妬深いお江与(お江)には、わ

              からないように、養育させる。

             ● 保科正之(幼名:幸松)は、

              3代将軍・徳川家光や4代将

              軍・徳川家綱を補佐し、江戸

              幕府の基盤を強化する。

 

 ■ 1613年頃  ● 秀忠乳母の大姥局が大奥を去

  (慶長18年)     り、お江与(お江)側近の民部卿

              局(みんぶきょうのつぼね)と 家

               光・乳母のお福(おふく)が、大

               奥監督者(大奥の実務の実権を

              握る人)となる。

 

 ■ 1618年    ● 徳川家光・生母のお江与(おえ

  (元和 4年)    よ、お江(おごう)) と、 家光・乳

              母 (うば)のお福(おふく、春日局

              (かすがのつぼね))が、  大奥

              法度(おおおくはっと)を定める。

             ● TKKI カナヤマ著 江戸幕府

               大奥ガイドブック。

 

 ■ 1623年    ● 徳川 家光 (いえみつ、将軍在任:

  (元和 9年)    1623年〜1651年、秀忠のニ男) 

              が、 江戸幕府の第3代将軍となる。  

              大御所(お おごしょ、引退後の将

              軍)の徳川秀忠が、生きている間、

              江戸幕府の政治の実権をもつ。

             ● 徳川秀忠の長男で、家光の腹

              違いの兄は早世する。

             ● 家光の3代将軍時の、江戸城の

              大奥の監督者(大奥の実務の実

              権を握る人)は、 家光乳母(うば)

              のお福(おふく、春日局)であり、

              お福(春日局)死後は、お万(おま

              ん)である。

             ● お福(春日局)は、町でスカウト

              した、お楽(おらく、後の徳川家綱

              (いえつな)生母)、 お夏(おなつ、

              後の徳川家宣(いえのぶ)祖母)、 

              お玉(おたま、後の徳川綱吉(つな

              よし)生母)、の3人の体の(じょう

              ぶ)丈夫な町娘を大奥に入れる。 

                それら3人の町娘は徳川家光

              のお手付きとなり、それぞれ家光

              の男子を産む。 

 

 ■ 1626年    ● お江 (おごう、お江与、崇源院

  (寛永 3年)    (すうげんいん)、徳川秀忠正室

              夫人、徳川家光生母、生没年:

              1573年〜1626年)が、 死去

              する。

 

 ■ 1643年    ● お福 (おふく、春日局(かすが

  (寛永20年)    のつぼね)、徳川家光・乳母(う

              ば)、生没年:1579年〜1643

              年)が、 死去する。

             ● 1643年(寛永20年)のお福

               (春日局)の死後は、 以前家

              光に見初(みそ)められ尼僧院

              主で還俗した、お万(おまん、永

              光院)が、 大奥の監督者(実務

              の実権をもつ人、監督期間:16

              43年〜1651年)となる。  

             

 ■ 1651年   ● 徳川 家綱 (いえつな、将軍在

  (慶安 4年)    任:1651年〜1580年、家光

              の長男)が、 江戸幕府の第4

              代将軍となる。 

             ● 家綱の4代将軍時の、江戸城

              の大奥の監督者(大奥の実務

              の実権を握る人)は、家綱・乳

              母(うば)の矢島局(やじまのつ

              ぼね)である。

 

 ■ 1680年   ● 徳川 綱吉 (つなよし、将軍在

  (延宝 8年)    任:1680年〜1709年、家光

              の四男) が、江戸幕府の第5

              代将軍となる。 

             ● 綱吉の5代将軍時の、大奥の

              最高権力者は、 綱吉・生母の

              桂昌院(けいしょういん、お玉

              (おたま)) である。

             ● TKKI カナヤマ著 江戸幕府  

               大奥ガイドブック。

 

 ■ 1709年   ● 徳川 家宣 (いえのぶ、将軍在任:  

  (宝永 6年)    1709年〜1712年、家光の孫)が、

             江戸幕府の第6代将軍となる。 

            ● 家宣の6代将軍時の、大奥の最

             高権力者は、 家宣の正室夫人の

             熙子(ひろこ、天英院(てんえいい

             ん))である。

 

 ■ 1713年   ● 徳川 家継 (いえつぐ、将軍在任:

  (正徳 3年)   1713年〜1716年、家宣の四男)

             が、 4歳位で、江戸幕府の第7代

             将軍となる。

            ● 家継の5代将軍時の、最初の17

             13〜1714年の間、大奥の最高

             権力者は、 家継生母の月光院

             (お喜世)(げっこういん(おきよ))

             であり、月光院(お喜世)付御年寄

             (おとしより、大奥上級幹部)の絵

             島(えじま)が、大奥の監督者(実

             務の実権を握る人)であった。

            ● 1714年(正徳4年)の江島生

             島事件後は、月光院(お喜世)は

             面目を失い、絵島は失脚、配流

             (はいる)となり、家継の7代将軍

             時の、1714年(正徳4年)〜17

             16年(正徳6年)の間、大奥の最

             高権力者は、 6代将軍・家宣・正

             室夫人の熙子(天英院)となる。

             

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#innerpalacedetailedchronology-1714

 

 ■ 1714年   ● 絵島生島(えじまいくしま)事件が

  (正徳 4年)   起こり、 大奥の風紀が粛清される。 

              1714年(正徳4年)の絵島生島

             事件後、月光院(げっこういん、お喜

             世(おきよ))は、面目を失い、1714

             年から1716年までの間、再び、徳

             川家宣・正室夫人の天英院(てんえ

             いいん、熙子(ひろこ))が、大奥の

             最高権力者となる。 

 

 ■ 1716年   ● 江戸幕府の6代将軍・徳川家宣

   (正徳 6年)      (いえのぶ)の正室夫人の天英院

             (てんえいいん、熙子(ひろこ))が、

             1716年(正徳6年)に、7代将軍・

             徳川家継(いえつぐ)死去時、次期

             8代将軍に徳川吉宗を指名する。

             ● TKKI カナヤマ著 江戸幕府  

               大奥ガイドブック。

 

 ■ 1716年   ● 徳川 吉宗 (よしむね、将軍在任:

   (正徳 6年)      1716年〜1745年、家康の曾孫、

             紀州藩主) が、1716年(正徳6年)

             に、江戸幕府の第8代将軍となる。

             ● その後、8代将軍・徳川吉宗の治

             世に、 財政再建の名目で、 大奥

             の人員が、大幅に縮小される。

             ● TKKI カナヤマ著 江戸幕府  

               大奥ガイドブック。

 

 ■ 1745年   ● 徳川 家重 (いえしげ、将軍在任:

  (延享 2年)   1745年〜1760年、徳川吉宗の長

             男)が、 江戸幕府の第9代将軍とな

             る。 

            ● 家重将軍時代、 家重は、大奥に

             入浸(いりびた)りとなる。

 

 ■ 1760年   ● 徳川 家治 (いえはる、将軍在任:

  (宝暦10年)   1760年〜1786年、家重の長男)

             が、江戸幕府の第10代将軍となる。 

 

 ■ 1787年   ● 徳川 家斉 (いえなり、将軍在任:

  (天明 7年)    1787年〜1837年、 吉宗の曾

              孫、一橋徳川家当主・徳川治済の

              長男)が、 江戸幕府の第11代

              将軍となる。 

            ● 家斉将軍時代、 家斉正室夫人の

             篤姫(あつひめ、広大院(こうだいい

             ん)、薩摩藩出身)が、大奥の権力者

             となる。

               そして、広大院・篤姫の側近の

             花町(はなまち、後に大奥火事で焼

             死)が、大奥の監督者(大奥の実務

             の実権を握る人)となる。 

               家斉将軍時代の後半期は、

             側室夫人の1人のお美代(おみよ)  

             が、大奥の監督者(大奥の実務の

             実権を握る人)となる。 

            ● 多妻多子の徳川家斉。

              徳川家斉は、側室夫人・約40人、

             子供・約55人をもつ。  

            ● TKKI カナヤマ著 江戸幕府  

              大奥ガイドブック。

 

 ■ 1830年   ● 天保改元。    

  (文政13年 )      1830年12月10日に、和暦の

  (天保 元年)    「文政」(ぶんせい) が、 「 天保」 

              (てんぽう、天保元年・1830年・

              12月10日〜天保15年・ 1844年・

              12月2日) に改元される。 

 

 ■ 1837年   ● 徳川 家慶 (いえよし、将軍在任:

  (天保 8年)    1837 年〜1853年、家斉のニ男)

              が、江戸幕府の第12代将軍となる。 

            ● 家慶将軍時代に、 御年寄(おとし

              より、大奥上級幹部)の姉小路(あ

              ねこうじ)が、 大奥の監督者(大奥

              の実務の実権を握る人)となる。 

 

 ■ 1844年   ● 弘化改元。    

  (天保15年)       1844年12月2日に、和暦の

  (弘化 元年)    「天保」(てんぽう) が、 「 弘化」 

               (こうか、弘化元年・1844年・12

              月2日〜弘化5年・1848年・2月

              28日) に改元される。 

 

 ■ 1848年   ● 嘉永改元。   

  (嘉永 元年)     1848年2月28日に、和暦の

              「弘化」(こうか)が、 「嘉永」(かえ

              い、嘉永元年・1848年・2月28日

              〜嘉永7年・1854年・11月27日) 

              に改元される。 

 

 ■ 1851年   ● 1851年(嘉永4年)2月に、島津

  (嘉永 4年)    斉彬(なりあきら)が、11代薩摩藩

              主となる。

 

 

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#innerpalacedetailedchronology-1853

 

 ■ 1853年   ● 徳川 家定 (いえさだ、将軍在任:

  (嘉永 6年)    1853 年〜1858年、家慶の四男)

              が、 江戸幕府の第13代将軍となる。 

            ● 徳川家定将軍時代に、 家定の生

              母・本寿院(ほんじゅいん)と家定乳

              母(うば)の歌橋(うたはし)が大奥

              の最高権力者となる。 

                また、御年寄(おとしより、大

               奥上級幹部)の滝山(たきやま、

               御年寄在任:1853年〜1867

               年)が、 大奥の監督者 (大奥の

               実務の実権を握る人)となる。 

            ● 第13代将軍となった、徳川家定

              は体が弱かったため、 次期14

              代将軍継嗣(けいし)問題が起こり、 

              雄藩連合政治を望み次期14代将

              軍に一橋慶喜(ひとつばし よしの

              ぶ、水戸藩出身・一橋家当主)を

              擁(よう)する、一橋派 と、 徳川

              氏独裁政治を望み次期14代将軍

              に徳川 慶福(よしとみ、紀伊藩藩

              主)を擁する、紀州派(南紀派) 

              とが、対立する (1853年頃〜

              1859年頃)。

            ● TKKI カナヤマ著 江戸幕府

               大奥ガイドブック。

 

 ■ 1853年   ● 1853年6月、アメリカのペリー

  (嘉永 6年)      艦隊が日本来航。 開国を要求。

 

 ■ 1853年   ● 江戸幕府の老中首座・阿部正弘

  (嘉永 6年)    (あべまさひろ)が、 挙国的な対策

             を立てようと、 開国について、諸

             大名や色々な人物に、意見を求め

             たため、 これ以後、日本各地で、 

             外国勢力を武力で追い払うことを

             主張する、尊皇(王)攘夷派( そん

             のうじょういは) と、 開国し外国

             勢力と協力して、先進の西洋文化

             採り入れて国を発展させること

             を主張する、開国派(かいこくは) 

             とが対立する (1853年頃〜18

             67年頃)。

 

 ■ 1853年   ● 篤姫 (あつひめ、於一(おかつ、

  (嘉永 6年)    島津一)、  島津氏本家の養女

              となる。 篤姫は、島津篤子 (しま

              づあつこ)と称し、篤姫(あつひめ)

              と呼ばれる。

 

 ■ 1853年   ● 1853年 8月、江戸幕府の老中

  (嘉永 6年)    首座・阿部正弘(まさひろ)と島津

              斉彬(なりあきら)の話し合いで、 

              篤姫(あつひめ)の輿入(こしい)れ

              が決まる(内定する)。

 

 ■ 1854年   ● 1854年3月、日米和親条約締結。 

  (嘉永 7年)     日本部分開国。 

             ● 1854年〜1855年に、幕府・老

              中首座の阿部正弘は、 欧米列強

              の米英露蘭と和親条約を締結する。

 

 ■ 1854年   ● 安政改元。    

  (安政 元年)    1854年11月27日に、和暦の「嘉

             永」(かえい)が、 「安政」  (あせん

             い、安政元年・1854年・11月27日

             〜安政7年・1860年・3月18日) 

             に改元される。 

 

 ■ 1856年   ● 1856年(安政3年)11月、篤姫 

  (安政 3年)    (あつひめ、近衛 敬子 (このえすみ

               こ、一橋派) が、江戸城・大奥に入

              る。 

 

 ■ 1856年   ● 1856年(安政3年)12月、薩摩

  (安政 3年)    藩出身の篤姫(近衛敬子) が、 

              家定(いえさだ)と婚礼 の式を挙

              げ、13代将軍・徳川家定(いえさ

              だ)の正室夫人となる。 

 

 ■ 1858年   ● 1858年(安政5年)6月、日米

  (安政 5年)    修好通商条約締結。 

             ●  安政の5カ国条約締結。

              1858年(安政5年)6月から9

                           月まで、江戸幕府・大老の井伊

              直弼(なおすけ)は、 勅許(ち

              ょっきょ)を得ず、 欧米列強の

              米蘭露英仏と不平等な「安政の

              5カ国条約」(修好通商条約)を

              締結する。 日本完全開国。

 

 ■ 1858年   ● 1858年(安政5年)12月、徳川

  (安政 5年)    家茂 (いえもち、 将軍在任:18

              58年〜1866年、 家斉の孫、紀

              州藩主・徳川慶福) が、 江戸幕

              府の第14代将軍となる。

             ● 家茂将軍時代、天璋院・篤姫(て

              んしょういん・あつひめ、家茂の義

              母) と、 家茂・生母の実成院(じ

              っせいいん)が、大奥の最高権力

              者となる。 

                御年寄の滝山が、大奥の監督 

              者(大奥の実務の実権をもつ人)

              となる。

             ● TKKI カナヤマ著 江戸幕府  

                大奥ガイドブック。

 

 ■ 1860年   ● 万延改元。  

  (万延 元年)    1860年3月18日に、和暦の「安

               政」(あんせい)が、 「万延」(まん

               えん、万延元年・1860年・3月18

               日〜万延2年・1861年・2月19日) 

              に改元される。 

 

 ■ 1860年   ● 桜田門外の変。 

  (万延 元年)   1860年3月、江戸幕府の大老・

              井伊直弼(いいなおすけ)が、

              江戸城外で、殺害される。 

             ● これ以後、 江戸幕府は公武合体政

              策をすすめ、 尊皇攘夷派・急進派 

              と、 公武合体派・佐幕派 とが対立

              する (1960年頃〜1864年頃)。

 

 ■ 1861年   ● 文久改元。  

  (文久 元年)    1861年2月19日に、和暦の「万

              延」(まんえん)が、 「文久」  (ぶん

               きゅう、文久元年・1861年・2月19

               日〜文久4年・1864年・2月20日) 

              に改元される。 

 

 ■ 1862年   ● 1862年(文久2年)2月、江戸幕 

  (文久 2年)    府14代将軍・徳川家茂 と、 孝明

               天皇の妹・皇女・和宮の婚儀が為

               (な)される (公武合体の政策のた

              め)。

 

 ■ 1864年   ● 元治改元。  

  (元治 元年)    1864年2月20日に、和暦の「文

             久」(ぶんきゅう)が、 「元治」  (げ

             んじ、元治元年・1864年・2月20日

             〜元治2年・1865年・4月7日) に

             改元される。 

 

 ■ 1864年   ● 禁門の変(蛤御門の変)。

  (元治 元年)      1864年(元治元年)7月に、

              禁門の変 (きんもんのへん、蛤御

              門(はまぐりごもん)の変)が起こる。 

 

 ■ 1864年   ● 1864年(元治元年)8月、江戸

  (元治 元年)    幕府は、第1次長州征討 (1864

              年(元治元年)8月〜12月)を開始

              する。

 

 ■ 1864年   ● 1864年 (元治元年)11月、 長州

  (元治 元年)    藩は、江戸幕府に屈服し、幕府に

              対し恭順(きょうじゅん)の 態度を

              とる。 1864年(元治元年)12月

              に、幕府軍は、 引き揚げる。

 

 ■ 1864年   ● 功山寺(こうざんじ)挙兵。

  (元治 元年)       1864年(元治元年)12月

              15日に、長州藩で、高杉晋作(た

              かすぎしんさく)が、奇兵隊を率い

              て挙兵する。 

                その後、高杉晋作は、江戸

              幕府に恭順した長 州藩の保守派

              (俗論派)を退(しりぞ)け、長州藩

              の藩論を、討幕へ転換させる。

            ● これ以後、日本各地で、 尊皇

              (王)討幕派 と 公武合体派・

              佐幕派 とが対立する (1864

              年頃〜1866年頃)。

 

 ■ 1865年   ● 慶応改元。  

  (慶応 元年)      1865年4月7日に、和暦の

              「元治」(げんじ)が、「慶応」 (け

               いおう、慶応元年・1865年・4月

               7日〜慶応4年・1868年・9月8

              日) に改元される。 

 

 ■ 1866年   ● 薩長同盟成立。

  (慶応 2年)     1866年(慶応2年)1月に、薩

              長の反幕府政治・軍事同盟の密

              約が結ばれる。   

             ● これ以後、日本各地で、尊皇

              (王)討幕派 と 公議政体派・

              佐幕派 とが対立する (1866

              年頃〜1867年頃)。

 

 ■ 1866年   ● 1866年(慶応2年)6月、江戸幕

  (慶応 2年)    府は、長州藩に対し、第2次長州

              征討(1866年(慶応2年)6月〜

              7月)を開始する。

            ● 第2次長州征討で、坂本龍馬は、

              長州藩海軍を支援する。

 

 ■ 1866年   ● 1866年(慶応2年)7月に、江戸

  (慶応 2年)    幕府・14代将軍の徳川家茂(いえ

              もち)死去する(病死する)。 

                第2次長州征討は中止となり、 

              事実上、失敗し、江戸幕府は、権

              威を低下させる。

            ● TKKI カナヤマ著 江戸幕府  

               大奥ガイドブック。

 

 ■ 1866年   ● 1866年(慶応2年)12月に、

  (慶応 2年)    徳川 慶喜 (よしのぶ、将軍在任:

              1866年〜1867年、家康の子孫、

              9代水戸藩主・徳川斉昭の七男、

              一橋徳川家当主) が、 江戸幕府

              の第15代将軍となる。

            ● 徳川慶喜の大奥改革に、和宮と

              共に、天璋院・篤姫、反対する。

            ● 慶喜の妻子は、大奥に入らず。

                慶喜将軍時代は、天璋院・篤

             姫(てんしょういん・あつひめ)と和

             宮(かずのみや)が、大奥の最高権

             力者となる。

 

 ■ 1867年   ● 1867年(慶応3年)に、大奥

  (慶応 3年)    御年寄(おとしより、大奥上級幹

              部)の滝山が、大奥を去る。

                滝山は、 4代の将軍時代

              (家慶、家定、家茂、慶喜)の大

              奥で勤務して、3代将軍時代(家

              定、家茂、慶喜)の大奥の監督

              者(大奥の実務の実権をもつ人)

              であった。

            ● 滝山は、未婚のため、滝山側近

              の奥女中を幼女とし、その幼女

              の川口(現・埼玉県・川口市)の

              実家に退く。

                

 ■ 1867年   ● 大政奉還。

  (慶応 3年)      1867年(慶応3年)10月に、

              江戸幕府は、大政奉還(政権を朝

              廷へ返上)を行う。 

             ● 江戸幕府の大政奉還により、江

              戸幕府が、名目的に、終焉(しゅう

              えん)する。

 

 ■ 1868年   ● 江戸城・無血開城。

  (慶応 4年)      1868年(慶応4年)4月に、

              江戸幕府(徳川宗家)の本城(ほ

              んじょう、本拠地の城)の江戸城

              が、無血開城される。 討幕軍が、

              江戸城に入場する。

            ● 大奥法度は廃止となり、 江戸

              城の後宮の大奥は、江戸城・無

              血開城により、消滅する。

            ● TKKI カナヤマ著 江戸幕府  

               大奥ガイドブック。

 

 ■ 1868年   ● 明治改元。  

  (明治 元年)     1868年9月8日に、和暦の

             「慶応」(けいおう) が、「明治」 (め

              いじ、明治元年・1868年・9月8日

              〜明治45年・1912年・7月30日) 

             に改元される。 

 

 

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 『 あなたのハートには 

   何が残りましたか? 』。

 

 

以  上。