ここに書いてないこと、いくつか。
だが、最後の土日に、ようやくいいことがあった。
手帳発見! 月初め以来行方不明になっていた手帳は、いつも持ち歩いている馬鹿でかい鞄のいつもとほんのちょっと違うところに入っていた。
買い直そうにも、今さら1999年の手帳なんて売ってないよなあ、とか、システム手帳は好きになれないしなあ、などと思っていた。
いずれにしてもこれでスケジュール管理(←って、大したことはないのだが)は万全。
それから、リモコン発見。いつもとちょっとだけ違う体勢で部屋に横になって、「あ!」。
というわけで、ようやく宇多田ヒカルを聞いた。夏の昼間に聞くにはちょっと濃すぎやしないかとか、そういうことは言いっこなし。
そういやあれ出たの三月だったっけ。
昔、大黒まき三人説という奴が冗談半分に語られたことがあった。ジャケットに写っている綺麗な人と、歌を歌っている人と、歌を作っている人は別なんじゃないかという話。
「あれが全部同一人物だとは信じられない、いくら才能があるからって、限度ってものがあるだろう!」という、根拠も何もない話だった。
唯一の根拠らしきものは大黒さんがライブをやらなかったということで、「これはライブなんかやっちゃうと一人ではないことがばれてしまうから、できないんだ」というとんでもないアブダクションがまかり通っていた。
それを意識してかどうか分からないが、ぼくがその噂を知ってまもなく(ということは世の中の普通の人々のほとんどすべてがその噂を知っていた時期に)大黒さんがライブをやったことで、三人説は消えた。
(ライブで立証できるのは「ジャケットに写っている人=歌っている人」だけであって歌を書く人については何とも言えないんだけど、それは不問だったのかしら?)
んでもって、宇多田ヒカルのWeb日記(無断でリンクはってはいかんらしい)を読みながらCDを聞いていて、なぜかあの三人説を思い出してしまったぼくであった。
教員がチェックするのに三時間かかる課題をやらされるとは、学生もさぞかし大変だったことでしょう、などと言わないように。21人分です。
水曜日までに次の宿題作らなければ。それから次回から水曜の授業は教科書から離れるので、プリント作らなきゃ。
「遅いぞ!」と言いたいんだろうけど、ぼくの場合自宅にかかった電話に7回で出るのは不可能です。
今公開してるのは初校反映版。
この表現、いただきます。ただし、ぼくの場合債権ではなくて債務なのですが。
ぼくだったら(ぼくも?)SUNYではなくUCSDを選びます。これは29日に書いたことと関係あり。
いきなり高校生用の古語辞典で調べ出すぼく(って金曜の話だが)。某社の解説に腹を立てる。なんか分からんぞ。ベネッセの解説で、あ、そうなのか、という感じ。掛詞との関係をそうやってはっきり書いてくれなくちゃね。
ところで、掛詞になってない縁語ってあるんだろうか。あったとしても、それは修辞法とは認識されないだろうなという気がする。
たとえば<鳥>という概念について考えてみる。<鳥>という概念は、どのような構造を持っているのだろうか。
たとえば、鳥は<空を飛ぶ>動物と言えるだろうか。スズメは空を飛ぶし、カラスをも空を飛ぶし。
でも、ダチョウは鳥と見なされるが、空は飛ばない。一方、コウモリは空を飛ぶが、鳥とは見なされない。
すなわち、<空を飛ぶ>は何かが鳥と認定されるための必要条件でも十分条件でもない。
でもこのことから、「<空を飛ぶ>ということは<鳥と見なされるかどうか>あるいは<人に「鳥らしさ」を感じさせるような性質>とは、まったく関係ない」と言えるのかどうか。
…
そして、<日記>。<人に知られるべきでないと思ったことを書く>は何かが日記と認定されるための必要条件でも十分条件でもない。以下略。
<人に知られるべきでないと思ったことを書く>=<日記の必要条件>というICMを持っている人々にとっては
日記を公開する→人に知られるべきでないと思ったことを書いたものを公開する→露出狂のやること
となる。
<人に知られるべきでないと思ったことを書く>=<日記の典型性条件>というICMを持っている人々にとっては、<日記>は<公開を念頭において、人に知られてもいいことだけを書いたもの>でありうる。だから
日記を公開する→公開を念頭において、人に知られてもいいことだけを書いたものを公開する→どこが露出狂なの?
となる。
この二種類の人々の間のコミュニケーションは、一種の異文化間コミュニケーションである。だからお互いにそれぞれのICMに基づいて考えて「露出狂!」「それは偏見だ!」と言い合ってみても話は進まない。
互いのもっているICMの違いを理解すること。
その前提として、この場合特に
<X>であるための必要条件でも十分条件でもないにもかかわらず、<Xらしさ>の認定に深く関わっているもの
すなわち 典型性条件 というものの存在を認識すること。
そして、ICMの違いを的確に認識しつつ、なおも自分の持っているICMの適用を貫徹しようという努力を故意に続ける人々
つまり、「Web日記書きは露出狂である」という印象を故意に広めようとする人々
に適切に対応すること。
うすくち醤油云々の話は共感覚に入れない方がいいのではないかと、ふと思った。
まず前回の補足。「嘘」の用例追加。
そして多義性の話の続き。でもその前になぜかwaterとriceの話。
多義性の話、今日はメタファー論。実は今やってる「多義の構造」というセクションとは別にあとの方に「語彙の体系」というセクションを用意してある。これはどういうことかというと、「概念構造間のマッピング」という観点は「語彙」のところでやればいいから今日は導入しなくていい、ということ。
なんだけど、それを言わないとメタファーの話をする意味が半減する。それで、結局やってしまった。空間→時間は黒板いっぱい使った。図を書く。
そして次に共感覚メタファー。うすくち醤油は塩味が薄い醤油ではなくて色が薄い醤油である(らしい)という話の後、山梨本(『比喩と理解』)の紹介。最後に生態心理学の観点からの解説。
生態心理学流の解説に正味10分足らずしか取れなかったのは痛かった。来週補足しよう。擬態語の類像性の話もできるかも。
そのあとはメトニミー、シネクドキー、そしてその次にアフォーダンスの話なんかしちゃったりする予定。
今日は図書館には寄らず、某書店にいく。そこにたくさん置いてあった『日本人と多文化主義』という本を買って、読みながら帰ってきた。
そして、授業案内では「日英語対照」を強調してるんだけど、実はeticな見方よりemicな見方の方が好き。
だからレオ様には泣かされることになるんだけど。
連休がなくて、休日はいつも、たとえ短時間であっても、翌日の授業の準備をしている、ってことは、つまり、
週7日労働ということだ。
普通の勤め人の人が読んだらディスプレイに向かって殴りかかりたくなるかもしれないけど。
首位争いなんて、100年ぶりくらいではないかという感じがする。
あくまでも、感じがするというだけのことだけど。
このまえ優勝したのは何年前だったっけ。14年前?
1999/5/27 3:14 我ながら無神経が過ぎるので、削除。
「自分が生産的になれないのは自分のおかれた環境が悪いせいだと思う」「環境を変えるための努力をしない」「逃げ出すための努力もしない」の3つがそろってしまった場合には、いずれつぶれる可能性が高いと思う。これは誰かに対してのお説教というよりは、自分に向けた言葉。
今の研究環境は院生の頃に較べれば落ちているが、でも今の環境を維持している人々に対して不満はないし(だってCould have been worse!だから)、だから逃げ出したいという気持ちもない。
そして、自分が生産的でないのを環境のせいにしない、ということを、いつ以来か忘れたが、ずっと頭の隅においている。
間違えたところを見ると、訳した人がどういうスキーマだかフレームだかを持っているかがわかる。
この人のハンドルネーム、やっぱりとっても気になる。言語学者ではないようだが。
リンクだけはっておきます。
ありだということに気がついた。
リンクはりやすいように、このページのファイル名を変えました。
この最新ページのファイル名は月が変わっても変わりません。
月がかわったら、古くなった分はファイル名変更して今までと同じような名前にします。
去年、ある学会みたいなところで、黒板に向かって(つまりお客様に背を向けて…図か何かを書いていたのだ)喋りながら、
聞こえなかったら前の方の席に移動してください
と言い放ったのは私です。
その直後、どなたかが小声で
大胆
とつぶやく声が聞こえたので、ただちに予定通りのかたちで文を続けることにしました。
っていつも学生には言ってるんですが。
お客様方がどのような顔をされたのかは、分かりませんでした。何しろ私はずっと背を向けたままだったわけで。あの図はどうしても書かなければいけないものだったわけで。
「フレーム」は「スキーマ」と大体同じ、という理解でいいようだ。
この本も買った。
図書館流通センターの新刊書籍検索で「文科系の」「理科系の」を調べてみた。
データ引用すると重くなりすぎるのでやめるが、「理科系の」のほとんどが「論文」か「英語」がらみで、しかも「論文」「英語」がらみがほとんど「理科系の」なのはなぜ?
「英語ができないから理科系にした」という人がいることを考えると「英語」は仕方ないのかもしれないが、「論文」が理系に集中しているのはなぜ?
これ。コメントは、今はしない、ていうか、できない。ただ、あるきっかけ(!?)があって、思い出した。
これ、というかもとはこっち (What's New 5/20)、授業で使わせていただきます。Fishをまだ読んでない人間の勝手な想像なんだけど、解釈共同体って、こういうのを言うのかな? この例の場合はもとの文脈からの引っぺがしの問題と翻訳の問題が入ってくるから、そう簡単ではないのかもしれないけど。
ちなみにぼくは、、
「当初意図されていた解釈」=「唯一の 正しい/「本当の」 意味」
という等式が無条件に成り立つという見方はとりません。これは、語の意味の場合もテクストの解釈の場合も同じだと思う。
やっぱり批評理論は認知科学の匂いがする。
そういえば、昨日の衝撃の発見その2。
なにげなく手に取った『新・知の技法』という本に、「日本人とは誰のことか」という文章が入っていて、ぱらぱらっとめくってみた限りでは中身もぼくが書いた同じ題の文章と似たようなことを書いている。
それでもって、公開されたのはぼくの文章のほうがずっと後。
ぎゃあ。
「「Web日記」というのは、毎日もしくは数日に一回程度更新(正確にはエントリー)されるホームページ以外の何物でも無い」というここの定義によると、このページもWeb日記になるかも。
というのはもちろん言いがかりで、bachelorは「独身の成人男性」と規定するしかないんだけど、でもすべての独身成人男性がbachelorであるわけではないとか、「人妻」は「他人の妻」というしかないんだけどでもすべての他人の妻が人妻であるわけではないとか、そういうのと同じ事情なのかもしれない。
俺自身はどちらかというと、太陽系なんかで生命の痕跡が発見されてなんか欲しくないと思っているし、その可能性は薄いと踏んでいる。たとえば、NASAの火星での生命の痕跡を発見したという報告なんかを聞いて、第一に思ったのは「嘘だろう!?」というものだった。
(「いわゆる日記」1999年5月13日)
英語ではこういう時、lieとは言えないらしい。日本語では「嘘」といえるけど。
これは、非常勤の授業で「嘘」の話をした22日の夜に見つけた。見つけるのがもう一日早かったら、コピーして配ってたかも。
非常勤の授業の後、図書館で勉強していくことにした。
まず、紀要論文のコピー。ここで衝撃の新事実発見。
受け取った紀要のうち、古いものはどんどん郊外?の別キャンパスの図書館に送っていることが判明。
ということはvirutually unavailable.
(↑「電脳空間では見れないよ」という意味ではない。)
「けり」については論文は書かない、と書いた舌の根も乾かないうちに
(↑キーボードは唾液でべちゃべちゃ、というわけではない。)
いきなり資料集めに入る。んでもってコピーしたのが『独英比較文法』と『新独英比較文法』だったりする。
コピーしたものをざあっと読んで、帰路に就く。帰りぎわにコピーカード買っちゃった。絶対もととる。
帰り道、書店で批評理論のお勉強。もはや立ち読みで頭に入れられる記憶力はないので、いくつか購入。国民の税金で落とす、じゃなかった買わせていただく(←イヤミな言い方?)。
一冊、極めて魅力的な概説書があったのだが、買わないことに決めた。実はだいぶ前に買って研究室においてある。本棚のどこにあるかも覚えてる。あれを買った頃はとても読める状態ではなかった(ぼくの頭があの本に書いてあることを受容できる状態ではなかった)のだが、今読んだらそれなりに面白く読めそうな気がする。
今日買ったうちの一冊は、某短大の先生が書いた現代文学理論入門。おそらくは短大で教科書として使っているもの。ちょっとばかしゆるめの文体ではあるのだが、全体の見取り図を知るにはこういうのをが〜っと見ておくのがいいような気がして。
それから某批評用語辞典。翻訳もの。いかにも機能的統語論を知らない文学研究者が訳しました、って感じで、文の情報構造(presupposition→focus)がめちゃくちゃ。読みにくいことこの上なし。内容的にもワケわかんないところがある。原本の責任か翻訳の責任かも分からない。で、amazon.comで原本を買うことに決める。
こういう辞典から適当に用語を抜き出して、かってに組み合わせる。当然、それぞれの用語はもとのコンテクストから引き剥がされて、新たに組み合わされた他の用語とともに、新たな(コン)テクストを勝手に作り上げることになる。こうして、胡散臭いなかにも妖しい魅力のただよう新たなテクストが出来上がる。つまみ食い。きゃは。(別に奨励しているわけではない。)
ぱらぱらっと見ていて、発見。そうそう、これだった。解釈共同体、って奴。以前文学の人から話を聞いておもしろいなと思った。コメントを求められて、あのときは何も言えなかった。これも、原本と訳本と両方買うことに決めた。
それから、「全体の見取り図云々」と書いた舌の根も乾かないうちにクリステヴァの初期の論文集買ってしまうぼく。
てなわけで、異様に重たい帰り道となってしまった。
学生の頃に批評理論の授業にでていればよかった、とは全然思わない。
てゆうかあの頃のぼくは「何回か出て、挫折」というのを繰り返していた。 要するにぼくの頭が受容できる態勢になっていなかったということ。
駿河台でも批評理論の授業やってる人はいるのだが、何と同じ時間にぼくのほうも授業が入っている。自分の授業投げ出してそっちを聞きにいくわけにもいかない。
最近、「一週間」が昔に較べて短い。でも、「一週間前」は、昔より遠くなった。どういうことかというと、「一週間前」のことを昔に較べてよく覚えているかというと、これが全然逆、ということ。
「宇多田ヒカルは藤圭子の娘である」と「藤圭子は宇多田ヒカルの母親である」は真理条件同じっぽいけど、「どっちがぱっと頭に入るか」は世代によって違うんだろうと思う。
ぼくは前の方。
この著者紹介、正しい?
この事典を見てみたが、やっぱりよく分からない。「スキーマ」 は項として立ってるのだが「フレーム」は項にはなってない。
先週の非常勤では
いろんな人がそれぞれの分野で勝手にいろんな用語を使ってるので、混乱してます。
というか、世の中が混乱してるのかぼくの頭が混乱してるだけなのか実はよく分からないのですが、とにかくぼくは混乱しています。
でもぼくはこの二つはだいったい同じものだと思ってます。
相も変わらずあやしい教師である。
ちなみにこの本は英語の原本を1994年に買ったのだが、行方不明。1994年の終わりか1995年のはじめに某氏に貸したような気もするのだが、記憶がはっきりしない。
←先に書いたところから先に消してほしい、というか、写し終わったところから先に消してほしい。
←あなたの字は汚な過ぎて私には読めません。
というか、筆記体の読み書き能力と外国語の能力に相関関係がないのであれば、みんなに見せるためのものを他に読みやすい書き方があるにも関わらずわざわざ読みづらい書き方で書くのは馬鹿げているし、相関関係があるのであれば、学生のレベルに合わせてどういう書き方をするかを決めることが必要になるのです。
←見えません。
←聞くのと書くのと、どっちに集中したらいいの?
「必修なんだからやらなきゃだめだ」と一言言えばそれで学生が動くと思っている人、あるいはその一言で学生を動かすことに疑問を感じない人は、
人から言われたことに何も考えずに「はい、はい」と従うのではなくて、いろいろな条件を考慮に入れて自分で判断して行動する姿勢と能力を養う
という大学教育の目標(だよねこれって)との整合性を、どう考えるのだろうか。
これは、学校における教育というものを支える権力構造の問題。権力構造が要らないとは思わないが、教員がその構造に過剰に依存すること、そして依存していることに教員の側が無自覚であること、どちらも問題だと思う(特に後者)。
やらなかったらどうなるんですか?
という学生からの質問に対して
必修だからやらなきゃいけないんだよ
と返すのは答えたことになっていない。
というか前世が違うんだろうと思う。なんか、ぼくとはあまりに違いすぎてて、くらくらする。おそらくはぼくの前世がおかしいんだろうけど。
この人、ぼくの出身のとこ(というか研究室というか学科というか、ほんとはもっと変な正式名称がある)にいる人らしい。
あの研究室にはもう何年も行っていないのだが、一度も授業をとったことのないぼくに
「ぜひ博論を書きなさい」
と勧めておきながらいざ審査の段になったら
「こんなのぼくらに言わせれば「何で今ごろこんな当たり前のことを」になっちゃうんだけどなあ」
みたいなことを言ってくれた英語学嫌いの某先生とか、お元気なのかしら。ぼく、なにげにファンだったりするんだけど。
大学の学部の頃まで、「けりをつける」の「けり」は「けりをいれる」の「けり」と同じ「蹴り」で、それは古典語の助動詞の「けり」とは違うと思っていた。
だって「けりをつける」の「けり」のアクセントは「けりをいれる」の「けり」と同じで、しかもそれは助動詞の「けり」とは全然逆なのだ。
現代語のアクセントで考えるなって? んなこと言われても。
日本語しか見てないからああいう話になるのではないかな。一応参考文献欄にChafe編のEvidentialityが挙がってるんだけど、あの論文集に入ってる論文のうちのある一編で取り上げられているある言語のデータ(「ある」「ある」と繰り返す私も意地悪だが、これは企業秘密モードということで。)を見たら、この某大家はどう反応するんだろう。
そんな得体の知れない言語ではなくても現代日本語でもちゃんと見ればまた別の見方ができるようになるんだけど、「現代語を見よう」というと同じ現代語でも変なところ見ちゃいそうな気がする。
論文なんかにはしません。どうせ書いても誰も相手になんかしてくれないんだ。
でも考えてることはある。「けり」はやっぱり面白い。
授業では話す予定。「英米」の授業で日本語の古典語の話をする。いいかも。(ていうか去年もちらっとやった。今年はもっと本格的に。)非常勤でもやる。
「学歴が高い人は性格が悪い」というのと「美人は性格が悪い」というのは同じ理屈なのではないだろうか。
今回の印刷所はなかなか大胆だ。
原稿はハードコピー+フロッピーで提出したので基本的に文字に間違いはないはず、などと甘い考えでチェックをはじめたところ…
ありました、すごいのが。
例文を一つ、勝手に削除した挙げ句(註1)、全然関係ないところからコピーアンドペーストしてきて(註2)、おまけにご丁寧にも、つけてはいけないアスタリスク(*)まで勝手につけて体裁だけは整えてくれちゃったり(註3)もして。
「フロッピー提出だから文字の間違いはないはず」という基本的なスタンスが思いっきり通用しなくなるという、実に大胆不敵なミス、というより誤魔化し。ちゃんと見ないと見落とすところだった。よくもまあここまでやってくれたものだ。
おまけにフロッピーは書込み禁止にせずにパソコンにぶち込んだ形跡がある。オリジナルを無傷のまま保存しようという姿勢もないらしい。
ぼくが紀要担当委員だったら、あの印刷所は切る方向で動く。
間違えるのはしようがない。でも今回のは、誤魔化しなのだ。
ちなみにぼくは学部時代の一時期、一番下の下請け印刷屋で校正および原稿受渡しのバイトをしていた人間です。
水曜日、出勤すると研究室のドアに張り紙がしてあった。
火曜日は昼寝日?
メタファー思考はお休みです。むにゃむにゃ…
イラストつきだが、スキャナーがないので載せられない。
ちなみに同じ紙の上のほうには
いっぱい電話が鳴ってたよ
これが本当に伝えようとしてくれてたことらしい。
電話の主は… うぎゃ。
ちょっとした用事で残った学生4人組と教室で雑談してて、気がつくと一時間半経っていた。
その時、request/recommendされて却下したもの。
最初の質問をした彼女、前も同じような質問をしたような気がする。何で知りたがるんだろう。
学生の教員評、結構鋭いものがある。歪んでる面もあるけど。
帰りぎわに、ある人が一言:
これからも、今までみたいな感じでやるんですか?
意味深。
「見ていて飽きない」。非常勤時代も含めると、何回目だろう。
1年生のリーディングの授業。今年使っている教科書では、今やっているところ(日本人の出生率の低下についての話)が終わったら次は映画『タイタニック』の話、その次が「赤ワインの効用」の話と進むことになっている。
で、その順序でやってもぜんぜん構わないのだが、でもせっかく別の授業で宇多田ヒカルの話を使うことにしてるので、それをこちらでも使っちゃおうか、と思った。
んで、それをぼくの一存で決めてしまってもぜんぜん構わないのだが、学生が喜んでくれないと意味が半減するので、一応アンケートを取ることにした。
質問文と選択肢はほぼ次の通り。配った小テストの下のほうに印刷しておいて、でも実際にはその場で手を挙げてもらって決を採った。
アンケート: 『タイタニック』のところが終わった後、どうしたいと思いますか。
- (あ) そのまま「赤ワインの効用」に進む。
- (い) 「赤ワインの効用」に進む前に宇多田ヒカルについての英文毎日の記事を読む。
- (う) 「赤ワインの効用」に進む前に改正雇用機会均等法とセクシャルハラスメントについての週刊Student Timesの記事を読む。
んでもって結果は、というと…
圧倒的多数が(あ)の「そのまま進む」を支持。ということで、そのまま進むことに決めました。
でもなんで宇多田ヒカルは赤ワインに負けたのだろう。理由を聞いてると小テストの時間がなくなるので聞かなかった。
いずれにしても、「宇多田ヒカルなら受けは悪くないだろう」という読みは、このクラスに関しては見事に外れた。
「彼にもう一度会えるから」、というか、「会いたいから」(←細かい!1999/5/19 1:14)というのは 八百屋お七 の世界だから、国文学の研究者とかでそちらの方面に詳しい人はその答えを言うかもしれない、という指摘が某氏からあった。
ぼくの場合、 まず最初に思いついたのは、「その男性とくっつくのに息子が邪魔だとその母親は思ったから」。 でも… ここでぼくはつい余計なことを考えてしまうのだ。たとえば
最初に思いついたことをそのまま自分の意見として採用してしまうことには、慎重でなければならない、という姿勢が、うちらみたいな稼業やってる人間にとっては必要じゃないか。
だから他にも選択肢を探してみようか。
だの
この答え、余りにもありきたりという気がする。これと同じ答えを出す人はたくさんいそうだな。
っつうか、これをネタにして「ステレオタイプにはまった、創造的な思考ができないタイプ」とか言われたら嫌だな。
だの
この問題を作った人には、この答えを出す人が大勢いるだろうという認識があるんだろうな。
だのと考えてしまった。
あとの二つ(特に最後の一つ)は、母親の意図についての推測の他に、発問者の意図についての推測がからんでいる。これと関係したようなことが「長さだの質量だのの保存」の問題とか、「心の理論」の問題とかの話でも出てきたという記憶がある。社会学のエスノメソドロジーとかいうのをやってる人の書いた文章だったと思う。
たとえば、長さの保存の課題の問いだと、実験者が被験者の前で長い棒を持っていて、それを被験者の目の前でぐにゅっと曲げてみせて、それで「曲げる前と曲げた後では長さはどう違いますか」みたいな質問をする。
この時、被験者である子どもが「そんなの同じに決まってるじゃないか。こいつ一体何でこんな馬鹿みたいな質問をするんだろう」と思うことがありうる。その場合、「こいつはぼく/わたしを試してるんだな」と、実験者の意図を正しく推論できた人は、「曲げる前も後も長さは同じ」と、正解を言える。
でも、
「こんな馬鹿みたいな質問をするということは、何か引っかけがあるに違いない。ということは、「前も後も同じ」というありきたりな答えをすると待ってましたとばかり「違います」と言われるに違いない。つまりこの人の求める正解は別にあるはずだ。だから、ちょっと外してみようか」
などと思っちゃった日には、「長さの保存」が正しく理解できているにもかかわらず正解でない答えを言ってしまって、挙げ句の果てに「この子はまだ長さの保存が理解できてない」みたいに思われることになる。
これと同じことで、この息子殺し云々のテストは、目的としては「母親の意図に対する推測」の内容からその人の精神状態を判定する、ということなのかもしれないけど、その答えには「テストを実施する人の意図に対する推測」が影響している可能性も大いにあるわけで、その辺をどう判別するのか、興味があるところです。
でもって結局ぼくの答えは…
ここに書いたような余計なことを考えてしまったらテストにならないのではないか、という疑問が湧き、その時点で他の選択肢を考えるのがめんどくさいくなってしまったので、あまりにありきたりでつまらないものではあるけれども、とりあえず最初に思いついたことを自分の意見として(しぶしぶ)採用することにします。
こんなふうに紆余曲折を経て「母親が邪魔だから」という見解に達した人と、何のためらいもなく「こう思う!」と言いきった人とが同じように判定されるとしたら、それはそれでまた問題だと思ったりもする。
こんな本買ってしまった。途中まで読んだ。いまいち訳わかんないとこもあって、そういうところは既有のスキーマ使って補完して読んでしまうわけだが、それはともかく、面白い。
やはり、匂いぷんぷん。学史的にもつながりがあるらしい。
一部はコピーして自分の授業で使うかも。
それからこの本も一緒に買った。
もう4年か5年も前のこと。「WWWって何なんですか」というぼくの質問に対して、「ホワイトハウスにアクセスすると、クリントン大統領のネコがにゃ〜って鳴くのよ」と教えてくれた人がいた。
真偽は確認していない。
非常勤のほうで、ほんとにやっちゃいました。15日。
最初に黒板を使ってクリントンをやって、そのあとプリントの「THE CAT」を見た。
なかなかインパクトのある授業になりました。
一つだけ残念なことがあって、それはつまり、このクソントンの話は15日の話の本筋からは少しばかりずれていたということ。なんのこっちゃ。
木曜日の22時くらいから金曜日の12時前まで。
休日の前の日(当日中にやらなければいけない仕事がない日)は思い切ってずっとこれくらいの時間に寝ることにしようかとも思う。その気になればやるべき仕事はいくらでもあるんだけど、でもどうせ起きてたってそれやるわけでないんだし。
起きる時間は? 継続は力なり! ずっとやってればだんだんまともな時間になる、かな?
現代文化学部のこのページには、「外国語教育に力を入れていると聞いたのですが、具体的には何をやっているのですか?」という一文がある。これは下書きの段階では「語学教育に…」だったのだが、「言語学の教育でもないのに「語学教育」というのはおかしいという意見が強くなってきていて、自分もそれに賛成である」という趣旨のコメントが第二外国語担当教員からつけられたのを入れて、「外国語教育」とした、という経緯がある。
ただし、その舌の根も乾かない一行下には「海外語学研修」という言葉が出てくる。これは正式な授業科目名なので、カリキュラム変更でもしない限り名前が変わることはない。「名前変えるだけだったらすぱっとやっちゃえば」という意見は、諸般の事情により、却下されはずである。
実は、「語学教育」を「外国語教育」に改めるに当たって、ぼくには小さなこだわりがあった。一般には、「非母語教育」を「外国語教育」と呼ぶのは完全に妥当というわけではない。「外国語教育」が外国の言語の教育だとすると、たとえばぼくらにとってアイヌ語教育は非母語教育ではあるが、外国語教育であるとは言えない。
「駿河台大学ではアイヌ語の授業を開講しているわけではないのだから、別に問題ではない」という意見もあると思う。だが、アイヌ語はやっていないけれども中国語は開講している。そして、学生の中には中国籍の人もいるらしい。
(「らしい」というのは、昔ある学生がたどたどしい英語で自分のことについて書いてきた文章によっているため)
留学生枠で入って来たのではなくて、一般入試で入ってきて、一般の学生のカリキュラムで勉強していた人である。その人はふだんは日本語で生活していた。彼にとって、中国語は外国語なのか。
そんなこだわりはあったけれども、でも「第二、第三、第四言語教育」とか「非母語教育」とかとやってしまったら広報にならない。んなわけで「外国語教育」でよしとすることにしたのであった。
もう一つ気になっているのが、これ。
今の段階では、「日本語表現法」とやると非母語話者のための教育と解釈される可能性が高い。
駿河台大学には「日本語」という科目があるが、これは留学生枠で入ってきた学生のための非母語としての日本語の教育のための科目である。それとの整合性を考えても、「日本語表現法」はつらい。
「言語表現(法)」というのは、いい名称だと思う。
よくマンガを読んでいた。某大学の、某狭い教室の、一番前の席で。
担当教員がぼくをみてどんな顔をしていたか、分からない。というかそもそもぼくのことなんか見てはいなかったと思う。
でもその教員はぼくがマンガを読んでいるということをしっかり認識していた。「怒ってる!」と思うことも、あった。でもぼくは相変わらず、マンガを読みつづけた。この授業に一体どれだけ意味があるのだろう、と疑問に思いながら。
同じ教室で学ぶ他の人々がぼくのことをどう見ているのか、気になってはいた。でも、確かめることまではしなかった。
そして、翌年。やっぱりぼくは、その同じ教員がやっている同じ名前の授業にいた。「なぜこの授業を選んだのか」という質問に、ぼくは答えなかった。ぼくはその質問に答える立場にはなかった、とそのときも思ったし、今でも思っている。
…… …… …… …… ……
質問に対する学生の答えの中に、「先輩に勧められたから」というのがあった。
「え!?」とか思って「どういうこと?」と聞くと、「たのしく英語の勉強ができるって聞いたので」という。
「やっべ〜」とか思いながらいちおうその先輩の名前を聞くと、確かに前年度にぼくの授業にいた人だった。
となるとぼくとしては、このことだけははっきり言っておかなければならない。
「じつは去年とはまったく違うことをやるんですけど、いいですね」
だって内容は講義要項に書いたはずなのだ。まあ、いちおうその学生は納得したような表情だったが。
それと相前後して、ぼくがネタに使っていた雑誌 Mangajin も休刊になってしまった。タイミング良かったんだか悪かったんだか。
となるとなぜ教養演習の内容を変えたのかが問題になるわけだが、これについては諸般の事情により(←どこかで見たような表現だ)書かないことにします。
ある日の授業中にぼくが発した言葉。授業終了まであと50分、ということ。
授業中、ぼくが発した質問に対して、学生が沈黙することがある。それに対する責任がぼくにある場合(何を聞いているか明確でないとか、異常に難しすぎるとか)には、それなりのフォローをする。
だが、沈黙が学生の勉強に対する姿勢の問題であることが明らかな場合、とりわけ、学生が「このまま黙っていればそれで何とか逃げられるだろう」と思っているように見える場合には、「あと50分」のように言う。
さすがに50分沈黙を続けられる度胸はないらしく、ここで学生は何か言うことになる。沈黙するような人々のいうことなので大抵はめちゃくちゃなのだが、それでも何か言えば、そこに突っ込みを入れて正解に近づいていくことができる。
こういうことをやってるから、年度始めはいつもにまして進みがゆっくりになる。
ただし、数字が小さいときにはこのせりふは吐かない。5分前とか3分前とかの沈黙は50分前の沈黙とは違い、「時間稼ぎ」という要素が出てくる。「チャイムが鳴ったら終わりになるからそれまで粘ろう」と思っているわけ。そういう時には、次のように言う。
「チャイムとは関係なく、○○君/さんが終わったら終わりにします。」
うまく行くと、チャイムが鳴るよりも早く終わりにすることができる。
いろいろと事情はあるのだが、とりあえず今のところあの人のスキーマとこの人のスキーマのぶつかり合いになってしまっている模様。いちおう論理と論理のぶつかり合い。だが同時に、善意と善意のぶつかり合いでもあるような。
片側だけの言い分しか聞いていいないのだけれども、でも、ぼくが聞いたその片側というのが、わりとスキーマにしばられがちなタイプで…。ま、そのスキーマ自体ないがしろにできないものではあるのだが。
もう片側は片側で言い分があるに違いない。そちらの人が依拠しているスキーマは、やはりそれはそれで軽視することはできない。というか、おそらくそちらのほうが、大局的なところを踏まえた見方ではあるだろうと思う。
…
不明日記でした。
今日は「日本人」の話から入って「職場の花」の話を経て「人妻」の話へ。
なんて書くと、「民族差別とか性差別とかの話をしたんだな」と思われるかもしれないが、それは違います。あくまでも、語の意味論の話。
「職場の花」に関しては、「これはジェンダーの問題に引っかかるから決してよい例ではないのだけれども、他にいい例が思い付かないので、これ使っちゃいます」と断りを入れたうえで解説した。
(何を解説したか書かないところが我ながらせこい。)
「人妻」に関しては、「「人妻」は他人の妻のこと。でも他人の妻であっても「人妻」と言えないことがあるのはなぜか」と、それから「「人妻」という語のあの独特のいやらしい雰囲気はどこからくるのか」について。要するに紀要雑文の後半に書いたようなこと。
今年度はいまのところほぼ教科書に沿ってやっている。ただし補足多し。補足には超基礎的な事柄と言語学的な説明と両方あるが、今年度は前者を多くしているので、できる学生にとっては不満かも。でもそのうち、やや高級なこともやるつもり。
これを含めたいくつかの理由から、去年とはずいぶん違う授業になっている。
宇多田ヒカルを取り上げた文章を使うことにした。すでにコピーを配布。
学生を受けをねらっている、というよりは自分の趣味。ただし、「受けは悪くないだろうな」という計算はある。これはこの前(↓)書いたぼけの話と同じ。
ちなみに資料は原則として両面コピーで配布するのがぼくの方針だが、今回の裏面はセクハラ(というか、改正雇用機会均等法)についてのエッセイ。
例のCD、買った。でもまだ聞いていない。何で聞いてないかっつうと、部屋のラジカセにセットしたのだが、リモコンが見つからない。うちのラジカセはCD聞くときだけは手動でボタンを押してもだめで、リモコンが絶対に必要なのである。
んでもって、何でそのときだけはリモコンが必要かというと、仕様でもなんでもなくて、ただ単にCDのスタートボタンが壊れているから。ここだけ直すのに修理に出して高い金とられるのも悔しいし、リモコンさえあれば問題なく使えるので、そのまま使っている。
そのリモコンが、この決して広くはないぼくの部屋の中でどこかにいってしまった。
ってな感じで、の〜んっっっっっっびり、暮らしてます。
書いた。出した。受理された。迅速。カエサルモード。(ただし学内レベル。おまけに出したのは学内締切りの前日。)
内定してる課題の書類だから、楽は楽。もう金使いはじめていいそうだ。
本当に止まっているとしたら、ちと寂しい。
月曜日の23時くらいから火曜日の13時過ぎまで。
ちなみに、人間の頭はたくさん寝れば寝るほどすっきりする、という仕組みにはなっていない。
睡眠中は栄養を摂れない。(入院して点滴してる人は別。)だからあまり長く寝てると低血糖になるのであった。これは脳細胞の劣化のもとになる。
こんなの見つけちゃった。
以前は、応用言語学は、言語習得をさすものという解釈が一般的でしたが、
つまり、「応用言語学=言語習得」と思われていたわけね。 「応用言語学=言語習得の研究」じゃなくって。
繰り返しになるけど、これ書いたのは言語学者です。某大学の教授。ことばの研究をやってる人。じゃなかったらいくらぼくでもこんな細かい突っ込みいれない。
とりあえず、Schank and Abelsonを図書館で借りることからはじめようと思う。
作った。図地分化と全体野の話に始まって家族的類似とカテゴリーの凝集性をへて理想認知モデルに至る、思いっきり心理学つまみ食いモード。
(何だかんだ言ってもやっぱりつまみ食いはおいしいのだ。
「つまみ食いすなあ!」と繰り返しているのは実は自分に向けて発している言葉だったりする。)
んでもって、土曜日の授業(非常勤先)で使うつもりだったのだが、入る直前のところで時間が来てしまった。でも印刷したプリントは配布してしまった。
でもって実は、宿題が残っている。用語の整理。
「フレーム」と「スキーマ」と「スクリプト」と「認知領域」と「理想認知モデル」と「文化モデル」と「ステレオタイプ」と…
どやって区別すんじゃい!?
まず、「スクリプト」と「ステレオタイプ」は全然違う気配。それから「理想認知モデル」は「何でもあり」。「認知領域」はお絵書き意味論っぽく、つ〜か、「領域」っぽく?それからフレームはflameじゃなくてframeであることは別に強調しなくていいんだけど
(でもメールのサブジェクトに flame semantics とあるとflamingを思い出してぎくっとなるぼく)
…あとが続かない。
でも、ここで引っかかったら、一年つぶれてしまいそう。
「再履学生いたぶりプリント」、あらため「英語 基礎補習教材 その1」、作った。うまくいくかなあ。
「特別展・越境する民族文化」というのが国立民族学博物館である。多言語社会がらみの講演もあるらしい。
でもみんぱくというのはうちからはちょっと遠い。ぼくのうちだけじゃなくて、学生のうちからも、遠い。でも
「実家が近い人はぜひ行きましょう」
とか
「ゼミ合宿かねて行こう」
とか言う教員は、いそうな気がする。授業開始は9月24日だから、授業に引っかからないように行くこともできるのだ。
宿泊の手配とか、うざいかもしれないけど。
6日木曜夜の行動。
「ステレオタイプだあ!」と叩き潰すだけではしようがない。何か代案を出さねば!
とか
ステレオタイプでもないよりはましかも。もしかしたらたたき台くらいにはなるかもしれないし。
とか
ステレオタイプだから歪んでる可能性がある、というのはあくまでも可能性の話であって、実際に歪んでるかどうかは確認してみないと分からない。
などと考えたぼくは、帰り道、CD屋さんに寄ることにした。 例の奴、まだ買ってなかったのだ。
乗換駅の駅ビルのCD屋さんは20時まで営業しているのだが、電車が着いたのが19時50何分か。一番近い改札目指してつき進み、回数券を入れると「ぴんぽ〜ん!」。
(別にわるいことしたわけじゃないのだが…事情説明はめんどくさいのでパス。)
あいにくそこは無人改札なので、結局有人改札に回る羽目に。そこからCD屋さんに走っていってもがっかりするだけで終わる可能性が高かったので、最初からあきらめる。
その後、自宅近くのちょっと遅くまでやってるところにいったら、「品切れ中」。以前見たときは(前も書いたけど)「売切れ中」だった。「売切れ中」から「品切れ中」に変わったということは途中一度入荷した可能性が高いということだが、どうやら見落としていたらしい。
というわけで、大騒ぎしている割には、いまだに買っていない。
きっと自分の状況を見直して、納得すると思う。
「そうよ、やっぱり月子(永作)は何もかも勝手に自分の都合のいいように解釈して私を逆恨みしてるのよ」
みたいな感じで。
TO。
ぼけ
学生といるときのぼく
天然ぼけ
ふだん授業があるときにはそれの準備やら後始末やらがあってその他に雑用もあったりして忙し過ぎ。だから研究がらみの仕事なんて絶対できない。連休中は時間がたっぷりあるからぐ〜んと仕事が進むだろう。早く連休こないかな。
連休中はどうしても生活パターンが崩れてしまって頭がぼけぼけの状態になってしまう。だから研究がらみの仕事なんて絶対できない。規則正しい生活を送り、授業と雑用と研究のバランスを保ち、心身ともに充実している、そんな時にこそ、研究の仕事もはかどるのだ。
この連休も、結局大した仕事はしなかったような気がする。
継続の書類、書かねばならぬ。気のせいか、提出先が変わったような気がする。というのは、学内レベルじゃなくて、もっと先。あれって、前は文部省だったような気がする。
これって、公務員の定数うんぬんとか、国立大学の設置者がどうたらこうたらとか、そういう話とつながっているのだろうか。
科研費のデメリットは、…来年以降、もらえなくなったときに金欠感にさいなまれそう。うちの大学の研究費は決して少ないほうではないと思うのだが、でも科研費がつくとそれが一気に三倍程度に増えるわけで、一度それに慣れちゃうと、元の状態に再適応するのはしんどそう。
人の話の腰を折る人。
ということで、問題になったかもしれない箇所は削除してしまいました。
言い分もなくはないのだけど、墓穴掘るだけで終わりそうだからやめます。
5日のワイドショーで宇多田ヒカル特集をやっていた。
なぜあの人の歌があんなに人気が出たかという話のところで、「ありのままの自分を表現した、嘘のない歌だから」みたいな解説があった。
納得! 一瞬にして納得! 自分が彼女の歌を聴いたときに感じたものを思い出すまでもなく、納得! だって、「ありのままの自分を表現」「嘘のない」というのは、ぼくの頭の中にある「心に響く芸術作品」みたいなものについての考えにぴたっと当てはまってしまうんだもん。
ワイドショーの解説は続く。
宇多田ヒカルは、自分で作詞もしている。「嘘がない」ということは、あの歌で言われていることは実体験に基づくもの? う〜ん、興味津々。そこで出てきたのが、宇多田ヒカルの父親。お父さんの話をまとめると、次のようになる(うろ覚え)。
中核にあるのは実体験。ただし、歌詞にするときはそれを膨らませている。
そうか実体験なんだ、やっぱり。実体験をもとにして、それを膨らまして作ってるんだ。え、膨らましたらそれは嘘だろうって? そんな揚げ足取りをしていい気になってるからあんたは嫌われるんだよ。このへ理屈野郎! そうかやっぱり「ありのままの自分を表現した、嘘のない歌だから」いいんだよなあ。
…
このての宇多田ヒカル論を評価する一つのやり方は、「事実」と「真実」を区別して臨むこと。「ありのままの自分」とか「嘘がない」とかは「真実」のレベルの話だ、ということである。
それでは「事実」と「真実」とは一体どう違うのかということが問題になるが、これはそんなに難しくない。「事実」レベルで「ありのまま」「嘘がない」というのは「出来事に忠実」という意味、それに対して「真実」レベルというのは「気持ちに忠実」ということ。
「事実」レベルで考えると「膨らます」のところで嘘が発生して矛盾が生じるが、「真実」レベルで考えれば嘘にはならない。実際に起こった感情を増幅するのは、嘘をつくことではない(ちょっと苦しいかも)。
…
このての宇多田ヒカル論を評価するもう一つのやり方は、(「事実」と「真実」の区別までも含めた)すべてを「ステレオタイプ的なスキーマに依存した議論」ときって棄てること。
ステレオタイプ的なスキーマに訴えかける議論は、分かりやすい。新しい事象に対して新しい見方(知識体系)を構築するのではなく、あらかじめ頭の中にある見方(知識体系)に押し込むわけだから、実際の脳みその負荷としてはその知識体系にアクセスして当該の事象をそのなかに位置づけるだけである。負荷が少ないから、簡単に分かった気になれる。ただし、新しい事象を前からある知識体系に強引に押し込むわけだから、そこにゆがみが生じる可能性があるのだが。
また、前からある知識体系にアクセスするということは、とりもなおさずそれを活性化するということであり、ひいてはそれを強化するということでもある。そうすると、次にまた新しい事象に出会ったときに活性化されやすくなるわけだ。
つまり、何かをステレオタイプに基づいて理解するという習慣は、循環をなして?強化されていくことになる。しかも、ステレオタイプに押し込むときにゆがみが生じる可能性があるわけだから、これは悪循環である。
しかも、ステレオタイプというのは一種のスキーマだから、「自分がそれにはまっている(ないしは、はまっていた)」ということはそのステレオタイプから解放されたあとにしか分からない。はまっているそのときには自覚できない。
なんだか、あまりに救いのない話ではあるのだが。
…
当然のことだが、このようなことが起こるのは宇多田ヒカル論だけではない。たとえば先日の超感覚ミュージアムのネットワーク版。
「送水路のあるフランダルの風景画」は本当に時空を超えているのか。「空」を超えているのはいいとして、「時」を超えているとはどういうことか。 それから(しつこいぞ本多!)あの屏風みたいな奴。あそこに描かれているものは本当に「何気ない情景」と言えるのか。
…
きらりと光る分かりやすい言葉を見ると、思わず噛みつきたくなるぼく。分かりやすいというより、分かった気になりやすいだけだろう、なんてね。 「魂に届く教育」とか「生きた英語」とか、あ、それから最近出てきた「個性が光る大学」とかも。
へ理屈野郎! コピーライターの敵! 性格悪いぞ! …分かってはいるのだけどね。
以前、ある人々の会話を聞いていて思ったことがある。
ある人その1:そんなこと、お前に言われたくないよ。
ある人その2:「お前に言われたくない」というのがそもそも間違ってないか。
ある人その1:たしかに間違ってる。それは分かってる。分かってるけど、でもやっぱり「お前には言われたくない」と思ってしまうんだ。
…
ある発言の内容が妥当(という表現はちょっと漠然としているが)であるかどうかには、その発言をした人がどういう人物であるかということとは独立に決まる面がある。
たとえばある事物に関する事実の指摘を意図した発言の場合、それが事実を正しく捉えているかどうかということの判断は、その発言を発言者とつき合わせることによってなされるのではなくて、その発言をその事物につき合わせることでなされる。
また、「あの時あの人はこうすべきだった」というような趣旨の発言の場合、それが「その通り!」と思えるかどうかの判断は、「あの時」の状況を参照するというかたちですることができる。その判断は、もとの発言をした人がどういう人であるかということとはいちおう独立に進めることができる。
上に書いたある人その2の発言は、そのような事情を捉えたものである。
ところで、ある発言に対する全体的な評価に影響を与えるものは、上に書いたような意味での「発言内容が妥当であるかどうか」だけではない。これとは別の次元の要因が関わってくることがある。それは、「発言およびそれをめぐる状況に対する責任」ということ。たとえば自分の行動がぼろぼろなのに人の行動にけちをつけるといい顔をされない、というのはこれの問題。
「発言およびその周辺をめぐる責任」は発言者に帰せられる。ということは、このレベルの評価の場合、まったく同じ文言の発言でも誰が言うかによって受け止められ方が違ってくるということがありうる。それが、「あなたに言われたくない」という感じ方の生まれる原因の一つである。
上に書いた意味での「発言の妥当性」と、ここで言っている意味での「発言とその周辺に対する責任」とは、表現をそろえて言い直せば、それぞれ「発言に対する評価は、誰が言ったかに影響されることなく行うことができる」と「発言に対する評価は、誰が言ったかに影響されるものである」になる。つまり、言葉の上ではまったく逆のことを言っている。しかし、すでに述べたように、この二つは違う次元の問題である。違う次元の問題であるために、この二つは両立可能である。
この、言葉のうえではまったく逆のことを言っている二つのテーゼが(違う次元の問題であるために)両立可能である、ということから「違う次元の問題であるために」を除いて、同じ平面上に投射すると、矛盾が生じることになる。それである人その1は悩んでしまったわけである。
ある人その1はまじめな人なのでここで悩んでしまったわけだが、変な成長のしかたをしてしまったオトナの中には、この二つが違う次元の問題として同時に両方成立するということに確信犯的につけ込むずるい人もいる。
「そうさ、俺はたしかに無責任さ。でも、言ってることは間違ってないだろ。俺に言われるのが嫌だったら、誰か他の人に言ってもらおうか。同じことでも××さんが言ったら聞くんだろ。へっへっへ〜だ。」
みたいに。
こういう人が現れた場合、どう対応するのがいいのだろうか。
無責任な人の言うことだからということで、放っておけばいいのだろうか。これは、上の「責任」を「妥当性」より優先させる立場。この場合、状況によっては、「あの人の言っていることはいちおうまっとうなのに、それを無視している」という印象を与える可能性がある。
逆に、妥当性のレベルを優先させて対応すると、「無責任発言にもそれなりの意味があった」ということを認めることになる。これは、感情的な抵抗が大きい。
どちらを優先させるかは、おそらくはケースバイケース。あるいは「無責任な奴だなあ」ということを認識しながらも対応はするという大人の、ないしは弁証法的な?、対処の仕方もありうる。
逆に、自分は何かに対してコメントしたいのだが、その対象に対して何らかの理由で負い目を感じているという場合、どうしたらいいのだろうか。誰はばかることなく発言できる立場の人が動くまでひたすら待つべきなのか。それともその人に動いてもらえるように働きかけるべきなのか。それとも、「あの人には言われたくない」という反応を覚悟の上で、言うべきなのか。
それともそういう場合、言うか言わないかではなくて、どのように言うか、の問題なのだろうか。やんわりと遠まわしに言えばいいのだろうか。礼をつくして言うべきなのか。負い目を隠すためにあえて強がる人もいるかもしれない。
ということで、日本英語学会のホームページについてのぼくのコメントは関係者からはどう受け止められているのだろうか、という話になるのであった。
ちなみに冒頭の会話は大きな爆発には至らず、いつのまにか終息したようだった。
3日の午後、某氏(男性…デートじゃないのよ)といっしょに銀座の松屋に超感覚ミュージアムというのを見にいった。エッシャー生誕100周年記念の催し。いろいろあって結構面白かった。ここではネットワークで公開されているものを中心に、コメントする。
まず「送水路のあるフランダルの風景画」。これは不可能図形の一類型を代表するもの。それから「物見の塔への階段」が不可能図形のもう一つの類型を代表している。
不可能図形とは「3次元空間には存在しえないもの」を二次元平面上に描いたものなのだが、ただ単に存在しえないだけではなくて、「ちょっと見ると、探せばどこかにありそう」というようなものでないとだめ。ということで、ここでは「なぜトリックに引っ掛かるか」を考えてみる。
「送水路のあるフランダルの風景画」は、知覚の問題としては奥行き知覚の問題。絵の描き方としては遠近法の問題。
まずなぜ不可能なのかということだけれども、この絵をよく見ると、上の送水路を支える脚が下の送水路から生えている。しかし二つの送水路は交差している、つまり方向が違うので、そのようなことは実際には、というか三次元空間では、ありえない。
それじゃあなぜ引っかかるか(あるいはその不可能性になかなか気づかないか)というと、二本の送水路がそれぞれ遠近法の約束事にしたがって描かれているから。つまり、見る人の視座から離れて遠くに行くほど小さくなっている。それも、やがては一点に収束するだろうなという雰囲気の、小さくなり方。これが自然な奥行き知覚感をもたらすわけ。
そしてもう一度上の送水路に注目すると、やはり遠くに(画面上では左に)行くほど脚がだんだん短くなっていっているのだが、その、短くなり方の勾配(変化率)の値がうまく考えられているために、そこから下に向かって生えている脚の先端と下の送水路の表面が画面上一致する、という状況になっている。
つまり、<脚がだんだん短くなっていく>ということが一方では自然な奥行き知覚感を産み出す。つまり、引っかかる原因となる。他方で、その短くなっていく脚の先端が全部もう一本の送水路に接している。つまり、三次元空間的には不可能である。
ここまでの説明、うまくすぱっと書けなくてのたうちまわっているという印象をもたれそうだが、要するに何が言いたいかというと、この絵の場合、「一見とても自然」という印象と「実は不可能」というのが実はどちらも「ある勾配で短くなっていく脚」という同じ一点から来ているのだ、ということなのでした。
「物見の塔への階段」は、画像処理における部分と全体の問題。
この絵を部分部分に分けてそれぞれを見ると、おかしくはない。でもつなぎ合わせると、うまくつながらない。でも、「うまくつながらない」というのは、それなりに注意して見ないと分からない。ぱっと見何となくcoherentに見えてしまう。
ということは、この絵の全体の構図の把握は、部分についての情報を単純に足し算するという形ではなされているのではなく、ゲシュタルト的に(?)全体を把握してしまっている、ということなのか。でも、部分についての情報が無くてもいい、というわけでもないと思う。
(↑この辺、最初に「こんなことを言ってみたい」と漠然と思っていたことをぴたっと反映したものになっていない。うねうねと文を書き連ねながら自分の言いたいことを捜し求めてのたうち回っている感じ。)
以上不可能図形について。まとまってないけど。
次、屏風みたいな奴。これは、現場で直接経験してもらわないとだめ。
ぼくは以前これと同じようなことを自分の部屋で経験したことがある。真夜中、ふと目が覚めてトイレに行って、戻って布団の中に寝そべって何となくその辺を見ていたら布団の表面がもわ〜と盛り上がったり引っ込んだりしていた。
ぼくは多分そういうことを経験しやすいタイプ。それはどういうことかというと…
この展示物には注意書きとして「片目で絵の中心を見ながら移動してください」とある。同じことをバイトのお兄さんが大声で叫んで指示してもいる。
ところで、ぼくは斜視なので、一つの物体に両目の焦点を同時に合わせてみる、ということができない。本当にできていないのかは自分ではよく分からないが、意識してやろうとすると絶対に無理。
(だから証明写真など撮るときには、必ず「はい、カメラのほう見て!」と怒鳴りつけられる。)
つまり物体を見るときには大抵片目で見ているわけで、だからこの展示物が想定している(普通の人にとっては特殊な)物の見方を普段からやっているわけなのだ。だからこの絵のような経験をしやすいわけだ。
(ちなみに物体を片目で見ているから関係ないほうの目はつぶっても大丈夫かというとそうではなくて、片目をつぶるとやはり視野が異様に狭まってとっても生きづらいのであった。)
「間次元の椅子」はぼくは現場ではよく分からなかった。ぼくの斜視と関係あるのか。それとも、「どういう<見え>の変化を経験するように意図されているのか」が読み取れなかったからか。後者だとすると、ちょっと西阪氏的な経験。前者か後者か、もう一回見る機会があれば確認できるのだが。
「ギア」はちらっと見ただけ。これに限らずCGは<内容のすごさから受ける印象>÷<見るのに必要な時間>が低いだろうという予想のもとに、ほとんどパス。「CGだったら何でもありじゃん」と思ってしまうんです、どうしても。
「ふるいけやの呪縛」は「ウサギアヒル」の集合体か「THE CAT」の親戚か、あるいは西阪氏的な経験というか。要するに「そう読むことを期待されているのだ」ということが分からないと苦しいかも。それがいったん分かってしまうと、今度はいやでもそのスキーマを押し付けて読んでしまうからそう見えるのだ、という雰囲気。
「三次元のエッシャー」は視座(どこから見るか)がちょっとでもずれるとだめ。とりあえず一度見れば十分。解説で言及されている「CRANE」は… ま、いいや。
下條信輔氏の「座標の部屋」(ネットワークに画像なし)にはまんまと引っ掛かった。けっこう怖い。あれが基礎的定位システムというやつなのだろうか。『アフォーダンス』読み直さなきゃ。
展示場は当然のように撮影禁止だったのだが、中にひとりデジタルカメラで撮影しまくっている人がいた。「ここは撮影禁止ですよ」などとわざわざ注意しようという気にならなかったのは、ぼくという人間がそれほど正義感の強い人ではないという証拠。それから、カメラの前に顔を出してあかんべ〜をしようという気にもならなかったのは、そいつが冗談を理解できる奴かどうか、とっさには見抜けなかったため。
ただ、この手のやからはカメラを構えるときに他の人より前に出て対象物にぐっと近づく習性があるので、
(まあ、邪魔くさい他の観客が入らないように撮るものだろうから当然といえば当然だが)
後ろでまじめに見ている人間にとってはこの上なくうっとうしい存在であった。見るのに何十秒もかかる展示だったりすると、その何十秒かの間ずう〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜っと一番前でカメラを構えている。ひたすらうざあ〜〜〜〜〜〜〜い奴。
カメラを構えていないときに顔が見えたが、全然悪びれるところの無いあの表情は、ちょっと不気味。注意したらナイフで刺されてたかもしれない、というのはぼくの偏見だろうが、でもあのカメラで殴り付けられるくらいのことは覚悟しておかなければならなかっただろう(というのもありえない話。奴が大事なカメラで殴りつけるはずはないのだ。)
その他にこういうところにくる客の中に必ずいるのが、それなりに知識があっていろいろと解説をしてくれる人。彼女といっしょだったりすると、「いいところ見せたい」という気持ちもあって実に事細かに説明してくれる。当然連れ以外の人(たとえばぼく)の耳にも解説が聞こえてくるわけで…内心「ありがたい」と感謝したかと思うと次の瞬間には「うざい」と思ったりするぼくも、勝手な奴である。
帰りに『図録』とエッシャーの作品のポスターを買う。図録には出展者が短文を寄せている。その大部分は「私の中のエッシャー」という題の思い出話系のエッセイなのだが、下條氏のは知覚心理学の話で、他と雰囲気が違う。ポスターは研究室にはる。いかにもへ理屈好みのぼくらしい雰囲気になるに違いない。
他にもいろいろ売ってて、中にルビンの盃をプリントしたTシャツがあった。「これ着て授業したら」という某氏の提案は却下。ぼくはふだんサンダル履きで授業をしている。それだけでも「大胆かな」と思っているのに、この上Tシャツ姿なんてねえ。
(でもぼくのサンダル履きが目をつけられるのは「上はネクタイ締めて下はサンダル履き」というちぐはぐな格好だからで、「上はTシャツ、下はサンダル」という格好はそれなりに統一が取れてるのである
という意見に賛成してくれる人はそんなにはいないだろうな。)
でもルビンの盃は授業で触れる予定。
この展覧会は、松屋ではもうやっていない。リンクもいつまでつながるか。
30代の人に言ったらひんしゅくだろうな。
あれは(本人、製作者ともに了解の上の)ああいう役どころだったのだろうか。それとも。
みたいな言い方をする人々と「生きた英語」みたいな言い方をする人々に同じ匂いを感じてしまう私は何者?
去年あたりからずっと思っている。
実は匂いだけなのかもしれないけど。
だ。
各自がそれぞれの専門分野で作られてきたそれぞれのスキーマをもっている。それのぶつかり合いが起こる。
そういう状況での対話を実りあるものにするには、自分が前から持っている自分の専門分野のスキーマを相手の話に押し付けて解釈する(『クリティカル進化論』のスキーマの話その3)のではなく、かといって自分の持っているスキーマを完全に放棄して相手のスキーマに乗り換えるのでもなく…
どちらでもなく、というより両方やるのがいいのではないかと思う。つまり、両方のスキーマの間を行ったり来たりするということ。それを、双方の参加者がやらないといかん気がする。
そのためには、こちらとしては、まず、相手の専門分野のスキーマを知る必要があって、そのときには自分がもっているスキーマをいったん棚上げにしなくちゃいけない。また、自分が持っているスキーマを相手に分かってもらうためには、自分のスキーマを対象化することが必要になる場合がある。
自分のスキーマの棚上げと対象化ができないと、
「人の言ってることを勝手に誤解して(同じく『クリティカル進化論』のスキーマの話その3)
(、その勝手な誤解に基づいて勝手なコメントやら批判やらをして)
いる」
という状態になる。こういうのは(たぶん)、非常にうっとうしい(のだろうと思う)。
「異なるスキーマ
(という用語が出なくてもいい、「観点」でも「立場」でも「見方」でも「枠組み」でもなんでもいい)のぶつかり合いが生じているのだ」という認識がないと手のつけようがないし、そういう認識があるからといってそれだけでただちに棚上げや対象化ができるということにはならない。
だからぼくは、文学の人からまともに相手にされないのかな。
「これ以上分かりやすくは出来ない、というくらい丁寧に説明しているつもりなのに全然分かってもらえない」とか「他の分野の研究/アプローチのつまみ食い」といかいうことも、異なるスキーマの取り扱いの問題。 それから自分に対するこだわりの話も、この学生の話も。
が、他人からは見えることがある。
だから『愛の貧乏脱出大作戦』の親方は「本気でやろうという気があるのか」と怒るのだし、新人さんは「いつまでも学生気分でいるんじゃないよ」と言われたりする?のかな。
そしてどちらに対しても「俺は本気だ」「学生気分でいるわけじゃねえ」というような反発の気持ちが湧く、というのも、そういうこと。
そしてそこで「俺は「俺なりに」頑張ってるんだ」となったら…
「自分なりに」が他人からの評価にたえられる成果をあげられないことに対する開き直りの言葉になりうる(したがって努力しないことや向上心が無いことに対する正当化の言葉になりうる)のだ、ということを認識せずに安直にこの表現を使う人、私も(?)嫌いです。
「学生気分でいる」ことと「学生の気持ちが分かる」ということはまったく別。たまに勘違いしている人がいるようだが(昔のぼくみたいに)。
経営者が変わって、開店。前の店の苦い経験を十分に生かしている模様。
ぼくにとってはいろいろな点で前のほうがよかったのだが、まあ、無いよりはいい。これとこれ買った。
ボールペンくれた。ださださのやつ。
場所は悪くなくて、前の店もいつ行っても人がいた。よほどのどじをしなければ、今度の店はもつはず。
うちの近くに、この十数年の間に スーパーマーケット(食料品店)→服飾品店→雑貨屋→神具・仏具・祭具店 とめまぐるしく変わってきた場所がある。最後の 神具・仏具・祭具店 が一番息が長かったような気がする
(5〜6年もったのかな? 流行とか場所の良し悪しとかにあまり影響されない業種だとは思う)
のだが、それが先日ついにつぶれた。
今どうなってるか、確認してない。あそこは何をやってもだめ。
うちからはまあ近くていいんだけど。(でも途中のコンビニで済むようなものはだめ。)
うざい人の類型のリストを作る奴。
へっへっへ。
やな奴の類型のリストを作る奴。
へっへっへ。
現代文化学部の2年生以上の授業で「日本人とは誰のことか」を使った教員がいて、その授業に出ていたと思われる学生がぼくの研究室で寝転んで美術全集を見ながら言った言葉。
どうやらぼくは学生からは 動くおもちゃ くらいにしか見られていないらしい。
その場にいた他学部の学生は、ちょっとひいていた模様。どうせぼくは変な教師ですよ。
授業関係
研究関係
わお〜ん