先週の英語の授業のときのこと。指名して訳してもらった学生の答を、ちょっと気になりながらもその場で直した。授業が終わった後考え直すと、どうやらその学生の答えの方が正しくて、直した後のぼくの答えの方が間違っているように思えてきた。てゆうかぁ、正直に言うとぉ、「ように思えてきた」ではなくて「と分かっちゃった」。要するに、嘘を教えてしまったわけだ。ううん、どうしよう。このまま知らん振りを決め込んでも別に問題にはならないだろう。でも、それだと嘘を教えたままになる。訂正しようか。でも、それだとこれからずっと、「本多の言うことは間違ってるかもしれない」と思われるかもしれない。そのほうがずっと大きな問題だ。うううううううううっん。どうしよう。
今週の同じ授業。やっぱり気になってしようがないので、言うことにした。
教科書の ここ のところなんですが、先週 ×××× と言ったのですが、それは間違いだったので訂正します。正しくはここは ○○○○ ということです。ここを先週やってくれた人
までいったところで声が聞こえる:「あ、俺だ」。
そう、俺なんですが、ええっと
と言いながら、名簿を確認する。
えっと ◎◎君 が言ってくれた答えが正しかったということです。
そして付け加える。
とってもくやしいんですが、そういうことなので、訂正します。
訂正終了。その後は普段通りの授業を続ける。
授業が終わった後、いつもは黙って帰っていく▽△さんが、ぼくの前を通りすぎるときに一言:「さようなら」。
「何で今日は機嫌がいいの?」と言おうかとも思ったが、やめて、やはり一言で返す:「あ、さようなら」。
昨日、研究室に届いた心理学の論文集をぱらぱらと眺めていたら、何とそこにGeorge Lakoffの論文が載っていた。(知らずに注文したのだった。)その論文には誰かによるコメントがついていて、そのコメントのタイトルが``Why Lakoff needs to receive psyhoanalysis''だった。一体どういうことなのだろう。読まなければ。
前書きだけ読んでいきなり挫折。やっぱりあの人の議論のしかたとは相性が悪いようだ。
最初の1〜2章だけ読んで挫折したことがあった。
今週の言語文化論入門の授業、最初はわいわいがやがややっていたのだが、「今年はなぜか去年に較べて大幅に遅れているので、今日からどんどん飛ばします」と言って早口で喋りはじめたらし〜んと静かになった。なんて協力的なんだろう。
が届いた。例によって今年も行かない(授業を一つ休講にするだけでよかったということに今気がついた)。翻訳に参加した本の広告が載っている。いろいろあったが、まずはめでたし。ちなみに、校正刷りをみれば編集者の仕事ぶりの一端が分かるが、今回担当だった人はとっても有能な人であった。
「↑この文章、タイトルと内容が一致してないよ」
「そんなのいつものこと。それに、理論言語学の論文でこれをやっちゃう人に較べたら、ずっとましでしょ」
の担当部分のやってなかったところ、ようやく初稿ができた。次はプリントアウトして修正、と行きたいところだがプリンターがまだ使えない。別の仕事しよ。
新しいプリンターが宅急便で届いた。設定に異様に苦しんだが、何とか打ち出しに成功。これで授業の準備も楽になる。前のBJ-10Vは丸々6年使ったことになる。3代(3台)のコンピューターに仕えたんだから、もう引退してもらってもいい頃だろう。今度のはレーザーだけあって、さすがに速い。レーザー光が漏れると目に悪いなんて書いてある。IPAでも大学でも誰もそんなこと教えてくれなかったぞ。
増えるかもしれない。と言っても、実質的な作業は増やさずに済ますことができそうではある。それより半年前に引き受けた仕事の方が心配。
今日の新聞を見たら、Fridayの広告が載っていた。そこに
『T.M.R.』西川貴教が超有名歌手とカルティエで「婚約指輪」買った瞬間
とあった。テレビ欄をみると某ワイドショーのところに
パフィー由美が超人気歌手と熱愛
とあった。同じ局の別のワイドショーのところには
パフィー由美、TMR西川と熱愛発覚
とあった。疑問。
こういうことを研究している人、きっとどこかにいると思うのだが、私は知らない。実に不勉強な私。
意味とは何か を考えることは 意味の意味 を考えること、あるいは 「意味」の意味 を考えることと同じである、と単純に考えている人がいるが、これには大いに問題があると思う。
かりに
意味の意味=意味とは何か
と考えるとしよう。この等式の右辺と左辺から共通項である「意味」を引き去ると、次の等式を得る。
Xの意味=Xとは何か
これは、
何かの意味とは、その物が何であるかということである
と主張していることになると思う。これは、意味についての客観主義的なアプローチを採用していることになる。
ということは、「意味とは何か(を考える)」を「意味の意味(を考える)」と「言い換え」ることは、単なる言い換えにとどまるものではないということになる。「意味とは何か」という質問を考える際に、その質問の対象となっている意味という事柄に関してすでにある特定の見方を前提としているということである。問題を別の言葉で言い換える際にその問題に対する解答案を先回りして出してしまっているということだ。
もちろん、「意味の意味」にあらわれる二つの「意味」という語は別の意味で使われており、しかも「意味の意味」という言い方をする人はそのことを明確に意識しながら使っている、ということであれば話は別だ。でも、それだったら「意味の意味」という言い方をすることには何ら意味がないことになる。(「意味」という語の多義をもてあそぶ私。)
次に
「意味」の意味=意味とは何か
と考えるとしよう。この等式はこのままでは厳密さに欠けると思われる。これは実は
「意味」という語の意味=意味とは何か
ということだと思われる。これは正しいか。
この等式について考える前に、次の等式について考えてみよう。
「猫」という語の意味=猫とは何か
これは、「語の意味(の記述)とは語の指示対象(の記述)である」と考える人にとっては正しいが、「語の意味(の記述)とはその語に慣習的に結び付けられた概念(の記述)である」と考える人(概念主義の人)にとっては、正しくない。
同様に、
「意味」という語の意味=意味とは何か
は、「語の意味(の記述)とは語の指示対象(の記述)である」と考える人にとっては正しいが、概念主義をとる人にとっては正しくない。
結局
「意味」という語の意味=意味とは何か
は
語の意味とは、その語の指示対象が何であるかということである
という意味観に基づいているのだ。
要するに
「意味」(という語)の意味=意味とは何か
が正しいかどうか(あるいは、この等式を正しいとみるかどうか)は、右辺についての答えとして何を採用するかに依存している。ということは、この場合も上記の場合と同じということになる。つまり、「意味とは何か」を「「意味」の意味」と書き直した時点ですでに、「意味とは何か」についてのある特定の解答案を先回りして出してそれを前提としていることになるのである。
どうもややこしい話である。なぜややこしくなるかというと、「意味」という語がメタ言語として使われていたりメタでない言語として使われていたりするからである。猫の例を議論に出したのは、メタのレベルの違いが生じないようにするためなのであった。
こういう話をしている人、きっとどこかにいると思うのだが、私は知らない。恥ずかしいくらいに不勉強な私。
の坂原先生担当の部分、素晴らしすぎる。記述が圧縮されているので認知意味論に初めて接する人があれを読んで理解できるかどうかは疑問だ(というかむしろ、あれだけで分かった気になられても困る、という気もする)が、ある程度の知識のある人が頭の整理をするのには最適。それに、認知意味論のイントロないし概論の授業のシラバスを作る際に参考にすることもできそう。(圧縮された部分を補足するだけでも相当立派な授業になる。)読みながら、自分が今やっている授業のことを思い、赤面。(「比較するのがそもそもおこがましい」という説もあるが。)
現代文化学部では各クラスに担任をつけているのだが、今年は私も一年生のクラスの担任になってしまった。クラスの学生たちとの面談の折、ある学生が「前から思ってたんですけど、先生って漫画家のひさうちみきおに似てますね」と言う。ひさうちみきおという人がどういう人か、あまりはっきりした印象がないので、ちょっと話をそらして「昔、Mr. オクレに似ていると言われたことがあるよ」と言ってみた。そしたらその学生は「あ、それ納得!」。思わす思いっきり大きな声で「それ、全然嬉しくないんだけど」と言ってしまった私であった。(でも、顔は怒っていなかったに違いない。)
その場には同じクラスの担任をやっている別の教員がいたのだが、その人がMr. オクレのことを知っているかどうかは分からない。とりあえずそのときはその人は何とも反応しなかった。
大学というのはうさんくさいところで、一つのトピックに関して複数の教員がそれぞれの授業でそれぞれ勝手に(一見)まったく矛盾したことを言う。それに対する学生の対応は、多分次のようなものだと思う。
今年、私の英語のリーディングの授業(一年生対象)では、Lakoff and Johnsonのメタファー論を易しく解説した本を読んでいる。その一方で、別の教員が文学の入門の授業でメタファーについて私の授業のテキストに書いてあることとは違うことを言った。そこで、両方の授業に出ているある学生がその教員に、次のように言ったらしい。
「英語のリーディングの授業でメタファー論のテキストを読んでいるのですが、今の先生の説明はそのテキストに書いてあることと違います。そして、私は、そのテキストに書いてあることの方が正しいと思います。」
その教員の話を聞くと、確かにテキストで言っていることと根本から違う。ただその違いは、両者が取り上げたメタファーの性格の違いに由来しているものである。したがって、実はどちらも正しい説明なのである。
その学生はとっても優秀な人である。そのことは、くだんの教員も認めている(ちなみにこの教員自身も相当優秀な人である)。一年生のこの時期に、別々の授業を担当している二人の教員(しかも一方は相当優秀な人)が一致して「優秀」というくらいだから、相当なのである。優秀だから、二つの授業での説明の違いに気がついたわけである。「素晴らしいねえ」と、ぼくら二人の教員は感心しまくっていた。
おまけに、その学生はとっても真面目で、意欲がある。だからリーディングの授業がメタファー論の授業を兼ねていることを歓迎してくれたのである。質問にもよく来る。(しかもその質問の内容が素晴らしい。それだからこそ「優秀」と判断したのだが。)そしてその教員のところに議論しにいったのも、意欲があるからこそである。
ただ、その学生は、今のところ「矛盾している(かもしれない)ということに気づいて、混乱し、悩む」という段階にある。これが「矛盾している(かもしれない)ということに気づいて、面白がる」までいってくれたら、とっても面白いことになると思う。(それとも、大学のうさん臭さを面白がるところまで行ってしまったら、もう教員なんか相手にしてくれなくなって、質問とか議論とかをしに来てくれなくなってしまうのだろうか? そんなことはないよね。)
ということで、リーディングの授業のメタファーの話は英語の勉強としてのリーディングというレベルを越えてしまった。今度の授業のとき、メタファーに関してまともな参考文献をいくつか紹介しようと思う。その中には、くだんの文学の教員が勧めたのと同じ本(佐藤信夫:『レトリック感覚』)が含まれるはずである。その学生は多分「え?」と思うだろう。でも、それでいいのだ。
先日、授業にいく途中で同僚(英文学)と一緒になった。
ああ、恥ずかしぃ。英文学の知識がないのがばればれ。
中旬である。仕事は、進んでいない。
ネットスケープを使っていると、電子メールアドレスを発信するときに、次のようなメッセージが出る。「このフォームは電子メールを利用して…この提出を続けるかまたはキャンセルすることができます」。
ぼくだったら「この提出を続けることもキャンセルすることもできます」とやると思う。
ネットスケープの英語版はもっていないので、英語版では実際どうなっているかについては、確認していない。
あるとき、大学の事務局の人と話をしていたら、「東大のホームページでは博士号取得者の検索ができるようになってるんですね」と言われた。現代文化学部の某教授も掲載されていて、検索すると論文題目と、それから課程博士か論文博士かの区別が分かるという。理系の人も人文系の人も同じところで検索できる、というような雰囲気だった。
そこで翌日早速東大にアクセスしてみた。どこにあるんだそんなもの!!
可能性は…
一つだけ確かなことがあって、それはこの話のきっかけとなった職員は、人をだましたりからかったりする目的で故意に事実に反することを言うというようなことは決してしない人だということである。
ということで、謎なのである。
は、謎に悩まされることができるだけないように作ったつもり。そういえばバグを修正すると以前書いたが、まだ直していない。
あるホームページのあるページに出てくる表現:「半年前にイタリアに行ったとき…」「今年の夏にイタリアに行った…」…
「今年」って、一体いつのことなんだろう。もしかすると、このページの作成者は、「半年前」「今年の夏」が本当はいつのことだか特定できないことを認識していながら、わざとこのような書き方をしているのかもしれない。つまり、一見情報発信をしようと努力する振りをしながら、実は巧妙に情報隠しをする、という高級戦術なのかも。
もちろん、このページには更新日は書かれていないし、ネットスケープで最終更新日時を取ってみても、「不明」と出るだけである。やっぱりあやしい。
書かねば。
やらねば。
やらねば。
やらねば。(3回も繰り返してしまった。)
早急になんとかせねば。
学部内の委員会の雰囲気はとっても和やかで、そんな中ではぼくが何かみょ〜なことを言うと誰かが笑ってくれるのだが、全学レベルのでの会議では… 場をわきまえずに受けをねらってすべってしまうくせを早急に直さねば。
今使っている時事英語の教科書の第一課に、インターネット上の「仮想墓地」を扱った英字新聞の記事が取り上げられている。英文の意味がよく分からないところがあったので、今日アクセスしてみた。実際に見てみると、教授用資料に書いてあることとちょっと違うところがあった。
あの資料を書いた先生は、書く前に本物のバーチャル霊園を確認するという作業をしなかったのに違いない。インターネットがあちこちで話題になっているから何となく取り上げてみたくなってとリあげてはみたけれど、実際にアクセスしてみようとは思わなかったのに違いない。(と、推測でものを言う私。)
ちなみに、教科書にも教授用資料にもその霊園のURLは書いていない。まあ、URLを書くぐらいの人だったら資料を書く前にアクセスしただろうと思う。寺の名前と宗派と、それからその寺ではバーチャルペットの墓も運営しているということが分かっているのだから、URLを調べるのは簡単である。gooからたどればすぐだ。
ちなみに教授用資料には何が書いてあるかというと、記事の内容についての問題に対する解答である。
この教科書を、とりあえず今年一年間は使う。少なくとも、今のところはそのつもりでいる。
日本語でも外国語でもない言語
おそらく社会言語学の人のあいだでは当たり前になっているのだろうが、世の中には(私のような人間から見て)日本語でも外国語でもない自然言語が存在する。それはたとえばアイヌ語である。アイヌ語は日本語ではないが、外国の言語でもない。(琉球語は、日本語の一変種と見ればこれに該当しないが、日本語と同系の別言語と見れば該当する。)しかし、世の中には日本語と外国語以外の自然言語は存在しないというICMを持っている人は多いように思う。
母語であり、かつ外国語でもある言語
オーストリアの人々(の少なくとも一部)にとって、ドイツ語は母語であると同時に隣国ドイツの言語でもある。
何か「国」語
計算機の世界ではもはや「多国語処理」という言い方をする人はいなくなって「多言語処理」で落ち着いたように思う。が、一般社会では今でも「彼は5か国語が喋れる」というような言い方はよくされているように思う。
「母語」というべき時に「母国語」と言ってしまう人は、言語学関係者のなかにもいまだに存在するようである。「母国語」とは文字通りには「母国の言葉」ということで、これにはアイヌ語も含まれる。だから私にとってはアイヌ語は母国語に該当する。が、母語ではない。native speakerを「母国語話者」と訳す言語学者もいるが、それは適切な訳ではない。
二つの理想認知モデル
このような状況の背後には、「日本は単一言語国家/社会である」というICMと、それから「言語の境界と国家の境界は一致する」というICMがあるのではないかという気がする。後者のICMが事実に反していることは上のドイツ語の話からも明らかだろうが、前者についてコメントしておくと、確かに日本においては日本語がメジャーではあるが、そのことと、日本語以外の言語を話す少数者が存在するということと矛盾するものではない。アイヌ語と琉球語の話者の他には、たとえば、中国語を喋る元中国残留孤児の人々、英語教員のうち、英語を母語とする人々、アジア諸国から働きに来た人々、いろいろな国からの留学生、などなどがいる。
native speakerと「ネイティブ」
余談になるが、英語教育関係者の間では、native speakerと「ネイティブ」は、同義ではないらしい、ということに、ある日突然気がついたことがある。native speakerは「母語話者」の意味で用いられるが、「ネイティブ」はこれとは微妙に異なる意味で用いられることがある。
その違いに気づくに至った経緯は省略していきなり結論だけ書くと、英語教育を専門とする人々は「ネイティブ」という語を「英語の母語話者」という意味で使うようになっている。すなわちシネクドキーである。これは、英語の母語話者を他の言語の母語話者(たとえば日本語の母語話者である私たち)とは次元の違うものとして扱っているということである。
英悟の話をしてるんだからいいじゃないかと言われるかもしれないが、実はこれは微妙ではあるが問題を含んでいる。あるとき、日本人が書いた英語の表現に関して関係者(といっても大学教員ではない)に質問したところ、「ネイティブに聞いたらこれでいいと言われた」と言われたことがある。ところがそれがどうも気になって、その同じ表現について私がある母語話者に聞いたところ、とっても面白い反応が返ってきた。最初に見せたときは「何が問題なの?」という口調で「いいんじゃないですか」と言ったその人が、その直後、私の一言のコメントを聞いて悩みだし、挙げ句の果てには「誰ですかこの英語を書いたのは?」とまで言い出したのだ。ううん。
何が言いたいかというと、英悟に関して英語の母語話者に質問するときには、日本語の母語話者である自分が日本語について質問された場合にどのような反応をするか、を思い出しておいたほうがいいということである。そうすれば、どういう聞き方をしたらどういう答が出るか、信頼できる答えを引き出すには質問するときにどのような配慮をしなければならないか、が何となく分かるはずである。が、英語の母語話者を「ネイティブ」として別扱いにして日本語の母語話者としての自分たちと切り離してしまうと、そのような配慮ができなくなってしまうのだ。
他にも奇妙なことに出くわしたことがあるが、それはここには書かないことにする。
native speakerと「ネイティブ」を別の意味で使っていながら、そのことに気がついていない、という人もいそうな気がするし、いても不思議はないと思う。
このあたりの話は「そんなの当たり前じゃないの」と思う人と「そういえばそうだね」と思う人とに、きれいに分かれるのではないかと思う。
で翻訳の仕事をしているはずの私。なぜこんな物を書いてるんだろう。