「カレシ」のアクセントがどうたらこうたらという程度の話だったら素人でも気がつくことだと思うが、最近やってる
だれだれちゃんに全く知られていない
という確信犯的にみょ〜な受け身文は、言語学の授業でtransitivityだのpassivizabilityだのの話を聞いたことのある人でないと思い付かないのではないかという気がする。
欧文の字体を細かく指定できるのは悪いことではないのだが(でもぼくにとっては別にいいことでもないのだが)、それを一行単位で気にしていないとどこで勝手に字体が変わってしまうか分からない、というのにはすごく迷惑している。
ページの下に打つページ数の書式も、どうしてあっちの文書とこっちの文書で違うのだろう。同じように作ったはずなのに。
10月29日(木)午後5時30分から11月1日(日)くらいまで、大学のネットワークが止まります。この間、メールは受け取れません。
というのを今週、現代文化の一部教員(来年度の演習担当者)がやっている。形式はオフィスアワーみたいなもので、教員が各自指定した時間の間それぞれの研究室にいて、訪れてくる学生と個別に面談する、というもの。どの教員の研究室に行くかも、そもそも行くか行かないかも学生の気持ち次第なので、待っていても一人も来ない可能性もある。その場合は、単に、手持ちぶさたな時間が増えるだけ、ということになる。
ってなわけで、ぼくは26日月曜日の自分の授業の終了後に設定した。でも、どうせ誰も来ないだろうと高をくくってパソコンの設定などしていた。すこししてドアの外で物音がしたが、すぐに静かになった。よその研究室に行ったのだろう。ぼくはパソコンの設定を続ける。
と、しばらく経ってノックの音がした。開けてみると、去年ぼくの必修の英語の授業にいて、今年はぼくの教職必修科目に出ている、現代文化の2年生2名がいた。現代文化学部の学生の中でも一番まじめな人々として教員の間でも評価されている人たちだ。
先生、「在室」でなくて「講義」になっていますよ。
つまり、まだ授業から帰っていないと思ってしばらくソファーで待っていたがあまりに遅いのでノックしてみたらぼくはちゃんといた、というわけだ。申し訳ない。とにかく、個別説明会はお流れにはならなかったことになる。
質疑応答の形で説明というか打ち合わせというかそういうものをはじめるが、ふと気がつくと完璧なお茶会モード。教職や英語の勉強の話だけではなく、高校時代の話とか(2人のうちの一人の出身校がぼくの出身校と地理的に近いのだ)、「丸丸先生はいつもかわいらしいですね」とか「本多先生はどうして結婚しないんですか」とかいうような話も出ていた。
あの二人がぼくの授業を選択するかどうかは分からない。何だかぼくが一人でお喋りを楽しんでいたような気もしなくもない。
電車では事務局に通知した時間に間に合いそうになかったので、飯能駅までタクシー。そこからスクールバス。
土曜なのでスクールバスが少なくて、ばか正直に行ったら集合時刻に間に合わないことが確実だったので、仏子で途中下車してそこから大学までタクシー。
飯能の駅から家の近くまでタクシー。
東上線が事故で遅れた。ばか正直に行ったら授業に間に合わないことが確実だったので、電車には乗らずにタクシー。最初「飯能の駅まで」とお願いしたのだが、運転手さんが仏子回りのルートで行ったので、「それなら」と思い、大学に連れていってもらった。
かなりタクシーを使った記憶がある。疲れが出る時期なのかも。
金がいくらあっても足りない。
書かねば。
せねば。
今週は何だかんだで結局5日大学に行った。
22日にようやく梱包を解き、24日に学内LANに接続。ついでにhttpサーバーまでインストールしてhtmlファイルをぶち込んで共用マシンからアクセス。発信成功。
教養演習のページで予告?したホームページは作らないことになった。学生が全員反対じゃあ、仕方ない。ま、ホームページ作りと言葉の勉強/研究は別に関係ないわけだから、むしろ学生の方が健全な判断力を持っているということなのかもしれない。
といったら、普通は主語は運転手ではなくて乗客。タクシーを飛ばす人は、ハノイを爆撃したニクソンとか大阪城を建てた豊臣秀吉とかと似たような立場なのだろうか。
「タクシーを飛ばす」ことはできるのだろうか。「車を飛ばす」ことはたぶん可能。そして一番やりやすいのは、ただ単に「飛ばす」こと。
先日、Vardamanさんからまた本(『こうすれば身につく英会話必修イディオム』)をいただいた。ところが、実は同じ本を自分でも書店に注文してあって、それがそのあとになって届いた。ということで、あわせて2冊、研究室(のなかの別々の場所)においておいた。
月曜日、数名の学生が研究室に遊びに来た。そのうちの一人が、買った方のコピーを鋭く見つけて:
「あ、バーダマン先生の本だ!」
ぼく:
「それ、自分でお金出して買ったんだよ」
だれか:
「くれなかったんだ」
ぼく:
「いや、そしたら注文した後に頂いちゃった」
だれか:
「じゃあ一冊ください」
どうやらこの人はVardamanさんのファンらしい。ということで、あげることになった。最初その人はVardamanさんがぼくにくれたサイン入りの方を欲しがったのだが、「Honda-sensei」と書いてあるのをあげるのはいくらなんでも失礼なので、自分で買った方をあげた。
あの人、自分でVardaman先生のところにサインをもらいに行くといっていたが、行ったのかしら。
ちょっと油断?していたら、研究室のホワイトボードがお絵書きボードと化していた。
だれか:
「明日になったら があ! とか消されたりして」
ぼく:
「いや、消さないよ」
だれか:
「じゃあ日付入れとく」
というわけで、ぼくの部屋のホワイトボードは今、げげげのきたろうとかピンクイルカとか犬の何とかちゃんとかの絵でいっぱいになっていて、隅の方にその日来た人々の名前と日付が書いてあります。
同じなんだか違うのか。メンバーが重なっていることは確か。
途中に授業内容紹介があった。ぼくの番のとき、よたよたと壇上に上がり、マイクに向かって一言、「本多です」。
何でこれだけで笑いが出るんだろう。よたよたと上がったから? それとも、最後の「す」を無声化しなかったから?
流れてしまった。
その学生(ぼくがFAやってるクラスの人)が英語の授業の後で言うには、「先生と英語でお話がしたい」。なんて偉いんだろう。
それにしても、あの人は非常に発音がきれいである。どこで教わったんだろう。あの調子ならきっとdifficultとかsinceとかをきれいに読めるに違いない。
コマーシャルに出てくる表現だが、Langackerのscopeの話と関係しそう。
秋山洋子氏のコメント:「亭主もち」はある。
ぼくの補足:「夫もち」はない。なぜ?
「つま」が男性も含めて配偶者一般を指していた時代から「ひとづま」はあったらしい。ただしまだ資料に当たって確認してはいない。指摘してくれた人の記憶している例の「ひとづま」はある女性を指していた。
(どういうわけで?)
空しくも切なくも情けなくも、某論文の締め切りは過ぎたのであった。うぎゃああああああああああああああ。
1限 (9:20〜10:50):授業
(言語文化論A:簡単なシンタクスの話の補足の後、テンスとアスペクト、特に英語と日本語(とドイツ語)の「完了」「受動」「進行」の話。)
11時頃〜:やり残していた自分の仕事など
15時:小さな会議
16:30:小さな会議のまとめ
17時前:学生と勉強会(半分お茶会モード。エンドレス、かな)
勉強会だけだったらよかったのに。
削除。1998/10/19 21:29
ふと見たところ、どうやら改訂されたようである。
TeXにこのマクロセットを載せて作業すると、うっとうしいお金の計算(足し算)も切り貼りも必要なくなって、とっても楽になります。ぼくは去年お世話になりました。
本気で怒っていると思われると嫌なので、削除。1998/10/22 21:38
今回の雑文は、紀要論文の平均読者数といわれる「2人弱」を大きく上回る読者を獲得することは確実。 もっとも、ぼくのあれは論文ではなくて雑文なんだけど。
それにしても、いんだか悪いんだか。
本多さんて、冗談なんだか本気なんだか分からないことっていうか、ふざけてるんだか真面目なんだか分からない受け狙いやって、周りの人の反応見て楽しんでるでしょ? 今回の「人妻」の件といい、研究室の前の張り紙といい、本多さんはそういう行動パターンの人だ。
するどい。でもここまで来ちゃうともうそんな余裕はない。次の紀要は方針変えよう。学内行政用語のメタファー分析とかって、結構おもしろいかもしれないし。(懲りない奴!)
ふと気がつくと10月も真ん中である。ということはもうすぐ11月。学生時代のぼくにとって11月は鬱と不登校の季節だったのだが、さすがに就職してからはそうもいかない。
井上史雄 1998 『日本語ウォッチング』 (岩波書店)の5ページに「能力可能」と「状況可能」を言い分ける方言があると報告されている。ただしそこには具体的な方言名(というか、地方)も例文も挙がっていなくて、「能力可能」と「状況可能」の概念が共通語の文とともに説明されている。
「この子は幼いけど一人で着れる」
個人の能力が原因になるときの表現(能力可能)
「この服は小さくなったけどまだ着られる」
周囲の条件に起因する状況可能
要するに、共通語ではこの二つの場合を表現し分けないけれども、その方言ではこの二つに対して別の表現を使うということである。
どこの方言にその区別があって、どういう言語形式で言い分けられているのか、ずっと漠然と興味があったのだが、最近、それらしき報告が見つかった。
Nifty Serveの日本語フォーラム(FNIHONGO)に、次のような発言があった(17番会議室、1511)のだ。該当箇所を引用する。
---------------------- ここから -------------------- 01511/01512 JAH03201 pongo RE^2:豆ゴハン的なるもの (17) 98/10/11 03:42 01500へのコメント … 大阪語の不可能表現には「よう〜ん」と「〜られへん」の二通りがあり,意 味によつて使ひ分けます。使ひ分けの原則は: ・能力が不足してゐる場合 → よう〜ん ・状況等が許さない場合 → 〜られへん … ---------------------- ここまで --------------------
で、これをアフォーダンス論の立場から解釈するとどうなるかという興味深い問題があって、それについて書こうと思ったのだが、やめた。どうも、支離滅裂モードに入ってしまう。「状況可能はアフォーダンス、能力可能はエフェクティビティ」と単純に言えるかどうか確認できないというのが問題。
「エフェクティビティって何だ」という問題も、そのうち。
ずっと前にどこかで耳にした表現。不思議である。こういうところに使役の助動詞が使える感性が、ぼくとは違う。とにかく違うということまでは理解できるが、じゃああの人々はどうしてこの使役の助動詞に違和感を感じないのか、それがぼくには分からない。
ぼくだったら、「読んでほしい本」というところ。
これ↑に関係する話、実は前にもちらっと書いたことがある。それから「学生に読ませたい本」という表現に違和感を感じない人々は、こういうところでも、「メールで出してもらってる」とは書かずに、「メールで出させている」と書くのかな、と思う。
以前、授業中のアンケートで学生に、
入試問題の文体が「〜せよ」でも「〜しなさい」でもなく「〜してください」だったとしたら違和感を感じますか?
という内容の質問をしたことがある。「感じる」という人はゼロで、手を挙げた人は全員「感じない」だった。
それ以後、ぼくは自分が作る試験の問題の文体を(試験の種類を問わず)徐々に「〜してください」に変えてきていて、今年度は自分の裁量で決められる試験に関してはすべてその文体で通している。
実は去年はひ弱に徹しきれなかった面があったのだが、今年はかなりひ弱が徹底できている。
削除。1998/11/14 18:4
ちゃんと授業をする方が大事なのだけれども。
こんなところで時間を潰していていいのか。今日(実は13日)は一日これを書いていたような気がする。
某月某日(ごく最近)、某所(しらじらしい)で食事をしていた某氏。 食べていたハンバーグの類い希な味にいたく心惹かれたらしく、隣に座ったぼくへの第一声が、その味についての形容であった。
このハンバーグの味、私には「ミイラのような味」としか形容できない。
ぼくはちょっと意地悪めかして
ぼく、ミイラって食べたことないんですけど。
と言ってみたりしたのだが、もちろんその人はそれくらいのことは承知の上だ。
その人によると、本郷三丁目の駅にほど近い某所で出されるピザは、かつては
草履のような味
だったのだそうだ。(ぼくも食べたことがあるはずなのだが、よく覚えていない。)
食べ物の味を形容するのに、誰も絶対に口にしないようなものを引き合いに出す。それでも、聞いた人は何となく分かった気になる。それどころか、場合によっては非常に的確な比喩となることもある。これはどういうことなのだろう。
ということでぼくがその時提案したのが、共感覚説。味という、味覚に関わる事柄を表現するのに、味覚以外の事柄に言及している。「草履」「ミイラ」に関して、味覚以外の具体的な何に言及しているのかを特定するのは困難ではある(場合によっては無意味ないし不可能かもしれない)が、とにかくこのように考えられるとすれば、これは一種の共感覚表現である。
共感覚の背後には、複数の知覚システムからえられる情報の冗長性・等価性がある。これについては前に論文で触れた。
「ミイラのような味」「草履のような味」のように形容するワザを磨き上げたところに出てくるのが、ソムリエの言葉なのではないか、と思う。
ちなみに、たまたま同じハンバーグを食べていたぼくの評価は
植物性?
全然比喩になっていない。
それはともかく、「ミイラのような味」と「植物性?」の接点って、分かります? 現物を口にする機会のない不幸な人々のためにあえて言葉で説明すると…
豆腐をぐちゃっと潰してこねくり回して水気を切ってまた固めたみたいな、淡白で脂っけがなくて微妙にひからびかけていて、でも歯ざわりがやけにねちゃっとしていて…
という感じかしら。
この某所は、一部の人を対象に、7月に味に関するアンケートをとっていたらしい。ミイラ味のハンバーグは、このような地道な努力が実を結んだもの、かな(アンケート以前にも見た記憶があるから、違うかも)。
他の人がきれいに刈り取ってくれました。
というわけで、このようなものができています。
「酒は飲んでもいいが飲まれてはいけない」という。
某同僚に「パソコン無しでは研究活動ができない人間になってしまった」と白状したら、「パソコンに使われてるんじゃないですか」と言われた。
「酒に飲まれる」「パソコンに使われる」って、どういうことだろう。直接受け身ではもちろんないし、被害の受け身でもない。
「(誰かが)酒を飲む」「(人が)パソコンを使う」の項構造を強引にひっくり返して作っただけ、というのは確かにそのとおりだろう。でも、「酒に飲まれる」「パソコンに使われる」と言われると、何となく意味が分かった気になる。ということは、これらの表現には何かしら意味がある、ということだ。それはいったいどういう意味だろう。
能動態の「酒を飲む」「パソコンを使う」の主語にあたる人間は動作主である。この動作主は、通常の捉え方では、「飲む」「使う」という動詞が指す事態のあり方と、その行為の対象である「酒」「パソコン」のあり方とをコントロールしている。それに対して、「酒に飲まれる」「パソコンに使われる」と言った場合には、その人間は事態のあり方も対象のあり方もコントロールしていない。というか、コントロールしていないということを表すために、受け身が使われている。もっと言うと、「酒」「パソコン」が事態のあり方と人のあり方とをコントロールしていると捉えられている。
つまり、「制御」「被制御」の関係が逆転していることを表すために受け身が使われているのだ。
ところで、「酒に飲まれている人」は酒を飲んでいないのかというと、そうではない。飲みつづけているからこそ、「飲まれている」といえるのだ。その人が酒を飲まなくなったら、もう「酒に飲まれている」とは言えない。パソコンも同じ。ぼくがパソコンを全然使わなくなったら、だれも「パソコンに使われている」とは言わなくなるだろう。ということで、「酒に飲まれる」「パソコンに使われる」の場合、「制御」「被制御」の関係が逆転しているということ以外の面では、能動態の場合とまったく同じ出来事が起こっている、ということを付け加えておかなければならない。
でもって、「「制御」「被制御」の関係だけの逆転」を典型的な受動と結び付けることはできるのだろうか。典型的な受動の場合は「なる」的な捉え方を行為の対象に対してしているけど、この場合は「なる」的な捉え方を行為の主体に対してしている、と言えばいいのかな。日本語以外の言語ではどのくらいこういうことが起こるのだろうか。
自分でも、いまだになんか混乱しているような気がするのだが、どこでどうこけているのか、いまいち分かっていない。
「パソコンに使われる」に関して言えば、ぼくのようにそれなりにアプリケーションを使いこなして自分のやりたいことがそれなりにできるが、反面パソコン無しでは何もできなくなってしまった人にも使えるが、こういう人々だけでなく、コンピュータを使いはじめたばかりで何をどうやると何が起こるのかがほとんど予測できない状態の人にも使える。どちらにしても、自分の行為とパソコンのあり方を自分で制御できていない、という記述で間に合うが。
の境界線はどこなのだろうか。
という問題は、疑似問題なのではないだろうか。
「パソコンを使いこなしている人」と「パソコンに使われている人」の違いはおそらくはフレームの違い。だから、ずれてる部分もあるだろうが、重なってる部分も大きいはず。
という語を疎遠なものと感じている自分に気がついた。
IPAは遠くなりにけり、かな。
といいつつ、「パソコン」という語も今の自分にとってはしっくり来ない。ううん。
エコロジカル・アプローチ炸裂モード。
「英語と日本語の対照研究」という授業でスキーのレッスンの話や電車の窓から見える雨の話をする大馬鹿者は、ぼくくらいだろうと思う。もちろん、確信犯なんだけど。
そのうち、チンパンジーの鏡映像認知の話をする予定。
一番の問題は、学生がおもしろいと思ってくれてるかどうかだが…
あっちの授業で足掛け2回、こっちの授業でまるまる1回、「人妻」の話をした。
どちらの授業も、前期に所有傾斜の話をしたので、まったく関係がないわけではないのだ。
紀要に「人妻」の話を投稿したことを三人の教員に話したのだが、その三人とは別の教員から、ある時突然:
「ここは人妻論の大家の本多さんに…」
え何で知ってるんですか?
紀要の編集委員の教員から聞いたとのことだった。
紀要に出した文章が専門の違う同僚の間で噂になるって、いいかもしんない。(でも、どういう噂だ?)
印刷版ができるのは、1月の見込み。現在掲示中の原稿は、提出版。
英語のwaterは日本語に訳すと「水」になったり「湯」になったりする。riceは日本語に訳すと「稲」になったり「米」になったり「ご飯」になったりする。
「恣意性」がらみの話で、この二つは同じレベルで語られることがある。去年のぼくの授業でも、同じ話として提示してしまった。でも、ほんとに同じなのだろうか。
というわけで、今年の授業ではriceの話はカットしたのであった。
言語と文化についての入門レベルの本を読んでいると、必ずといっていいほどでてくる。出てくる文脈は様々だけれども。う〜ん。
「させていだたく」の機能変化はしばしば問題にされるが、これと関係があるはずの「してもらう」の機能変化についてはなぜ誰も?発言しないのだろう。
店員が通行人に道案内している。
その角を右に曲がって、そこから三つ目のかどを左いってもらって、それからずうっと真っ直ぐ行って…
店員は案内しているだけであって、これから連れていってもらおうとしているわけではない。その通行人が「ありがとうございました」とか何とか言って去っていったら、再び自分の仕事に戻るはずである。
が、人によってかなり違うということに最近気がついた。
以上の二つに関してはぼくも「文字化け」というのだが、最近はあまりないような気がする。以下のものに関してはぼくは「文字化け」とは言わない。
「文字化け」修正屋さんみたいなことをすることがある。
実際の作業は添付ファイルを復元してアプリケーションに送り込むだけで、つまりは送られてきたメールをメールソフトが正しく解釈できるように加工するだけ。
原理的にそう難しいことをやってるわけではないのだが、人にやり方を説明するのは、前にも書いた通りちょっと難しそう。
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