1998年9月の雑記

目次あやしい認知科学の世界ひ弱な大学教師の遠吠えだから私はTeXが好きWeb日記について

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最終更新 1998/9/27 16:46

9/27

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「平均睡眠時間」

昨日4時間睡眠で仕事をして、昨夜から今日にかけて10時間寝た人の2日間の平均睡眠時間は7時間。仮にこの2日周期の生活を15サイクル繰り返せば、一月の平均睡眠時間も7時間。

平均睡眠時間7時間。なんて健康的な生活なんだろう。

これじゃ平均を出す意味がないじゃないの

そういうこと。

WORDの謎

このところ、大した意味もなくまたWORDで仕事をしている。フロッピーで出稿しなければならない原稿があるのだが、大した量の文書でもないのに、ハードディスクからコピーしようとすると「ディスクが一杯です」というメッセージが出る。ファイルサイズを少しでも小さくしようと思って余計な改行コードをいくつか削除して(いじましい努力である)セーブすると、何と前よりファイルサイズが増えている。こやつ、どこまでマイペースなのだ。

しばらくうなっていたが、やがてひらめいた。これは文書のバージョン情報の管理ができるようになっていて、以前の内容に戻したいときにはいつでも戻せるように変更情報を同じファイルの中に書き込むようになっているのではないか。

案の定、「ファイル」メニューを見ると「版の管理」があった。そこをかちゃかちゃいぢくっていたら、ぐっとサイズが小さくなった。中には、十分の一くらいになったものもあった。おそるべしマイクロソフトの設計思想。

このソフトの設計者たち、ひょっとすると「ディスクスペースは無限大」「CPUの速度も無限大」という前提のものとで設計をやってるんじゃないかしら。

WZとLaTeXの組み合わせなら

はるかに少ないリソースではるかに高いパフォーマンスがえられる。もちろん、に書いたようにバージョン管理もできる。

それではなぜWORDなど使ったの?

7月の決断。今になって思えば、TeXでやってもよかったのだ。

「ぼくとはとことんまでWORDとの相性が悪い人間である」というあらたな自己発見ができただけでも収穫なのかもしれない。(と、私の同業者?の某氏の真似をして自分をなぐさめるぼく)

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9/26

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9/23

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「ああ、あたし さりげに これ好きかもしれなぁい!」

1996年の秋、集団で居酒屋に飲みに来ていた20代半ばくらいの女性が、メニューを見ながら発した言葉。

「なにげに/さりげに」はそれぞれ「なにげなく/さりげなく」に由来しているのだろうと思う。しかしこれらの語の現在の意味・用法を考えると、たとえば冒頭に挙げたような例もあったりする。この場合、「なにげなく/さりげなく」を使うのは不可能(ではないにしても相当不自然)である。つまり、「なにげに/さりげに」はもはやそれ自身の固有の意味・用法を獲得しているわけである。

ぼくのかすかな記憶では、遅くとも1985年か1986年には「なにげに/さりげに」を耳にしていたと思う(ある人が多用していたのを覚えている)。

「なにげなく」と「さりげなく」はかなり意味が違う(心の理論が関わっているような気がする)が、「なにげに」と「さりげに」の使い分けはよく分からない。ほとんど同じという気がする。

以前、もともとの「さりげなく」から上の例のような「さりげに」までのリンクを考えてみたことがあったが、メモしておかなかったのでもう忘れてしまった。「なにげなく」から「なにげに」へのリンクは難しそうである。途中のどこかの段階で「なにげなく」由来の意味は消失してしまって、同じ時期に同じような過程で「さりげなく」からできた「さりげに」の意味が「なにげに」に上書きされてしまったのではないか、という雰囲気がある。

どこかの大学で卒論で取り上げた学生がいるという話もあるが、問い合わせはしていない。

「かもしれない」が強い断定になるのは、Traugottのpragmatic strengtheningの例という気がする。

つまり「かもしれない」は背後に ほんね を秘めた婉曲な言い方として使われることがあるわけだが、この ほんね の部分が「かもしれない」それ自体の意味と解釈されるようになると、冒頭の例のような用法が生まれるわけである。

entrenchmentの問題

ぼくは、自分の配偶者を「主人」とreferする既婚女性に向けての発話では、その配偶者を「ご主人」とreferすることにしている。自分の配偶者を「だんな」とreferする既婚女性に向けての発話では、その配偶者を「だんなさん」とreferする。

それでは、最近増えている、自分の配偶者を意識的に「」とreferする既婚女性に向けての発話では、どうしたらいいのだろう。今のところ、「夫さん」というのはかなり違和感がある。(田島陽子氏は「夫さん」を使う。あの人はだれかれかまわず、それこそ「うちの主人は…」という人に向けても「夫さん」を使うようである。)

ある日同僚の某さんに相談したところ、「私のの場合は、知ってる人からは「****」とあだ名で呼ばれてる」ということだった。でもぼくはその人(男性の方)とは一面識もない。そういう人を「****」とあだ名でreferするのは、思いっきり抵抗がある。結局、どうしたらいいかという答えは出ずじまいだった。

同じような悩みが、今年の初めの新聞記事でも触れられていた。言語文化論入門の授業で配ったので、研究室にいけば出典は分かるが、今は分からない。

話は変わる。昔、犯罪の嫌疑をかけられて逮捕された人は、テレビでも新聞でも「丸罰」みたいに呼び捨てにされた。しかしこれは推定無罪の原則から考えると人権侵害にあたるということで、マスコミはある時一斉に方針を変えて、「丸罰容疑者」という言い方をするようになった。当初はこれがものすごく奇妙に聞こえたが、いつのまにか当たり前になってしまった。

夫さん」も、同じなのかもしれない。みんなが頻繁に使ってこの言い方をentrenchしてしまえば、これも当たり前の呼び方になるだろう。しかし、みんながあまり使わず、したがってentrenchしなければ、いつまでたっても違和感のある表現のままだろう。

と、ここまで言語学者としてお気楽にして無責任な(そしてそれなりに冷静な)半傍観者モードで書いてきたぼくは、たった今、あることを思い出してしまった。上述の同僚の某さんは、今でも同僚なのだ。(当たり前だ。)だから、その人と話をしているときにその人の配偶者さん(ん?)の話が出る可能性は、あるのだ。その時、どのようなterm of referenceを使おうか。entrenchするつもりで思い切って「夫さん」を使おうか。それとも思い切ってあだ名の「****」を使ってしまおうか。

それとも、配偶者さんの話などせずに、ひたすらオカメインコの話に持ち込もうか。(←これは内輪受けねらい。)

念のため言っておくが

上↑の話は、「夫」を犯罪者扱いしているわけではない。

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9/21

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新学期を控えて、20日夕刻、久しぶりに床屋に行った。

いつもとは違う場所に行った。地図をもらってなかったので見つけるのにちょっと手間取ったが、そんなに時間はかからなかった。

全体に狭いが、自転車を置くスペースだけはゆったりしている。気がつくと、入り口のドアが全開になっている。つまり、クーラーがない。秋の夕方でよかった。これがまだ暑い時期だったり、日中だったりしたら、熱地獄だ。汗っかきのぼくは大変。座っているだけで汗まみれになって溶けてしまう。扇風機が回っている。

よく見ると、床はぼろぼろ。あちこちにガムテープが貼ってある。髪を切りながら店主が動くと、みしみし音をたてる。音がするばかりではなく、ぼくの座っている椅子がかすかにゆれるのが分かる。

散発の途中、店主はしょっちゅう入り口から外に出ているようだ。タオルをしぼるような音がする。店内ではできないのだろうか。

最初は客はぼく一人だったが、そのうちにもう一人来て、空いていたもう一方の椅子が埋まった。扇風機の風はぼくのところに届いているのかどうか、よく分からない。繰り返す。昼間だったら熱地獄だ。

よくこんなところで床屋がやってられると思う。でも、出るときに見ると、新たに二人客が待っていた。やはり涼しい時間帯をねらってきた人びとなのか。それとも単に、日曜の夕方の駆け込みなのか。とにかくぼく以外にも、それなりに客はいる。でも、ぼくはこんな店には二度と来たくないと思った。

店の改築は7月くらいに始まったはずだ。この仮店舗での営業がいつまで続くのかは分からない。行く前に改築中の店のほうものぞいてきたが、当分完成しそうにない雰囲気だった。早くいつもの場所に戻って、まともな設備のある店で営業を再開してほしい。

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9/20

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言語学における規範主義と記述主義

言語学とは何か? を書いたとき、とっても重要なことを忘れていた。実はずうっと昔に考えたことなのだが、この半年くらいの間、ずうっと忘れていた。言語学における規範主義と記述主義の問題は、「規範を取るか記述を取るか」という問題設定ではすまないのだ。実は、「規範を記述する」という形で両方取ることができる。つまり、次元の違うもの二つを同じ平面に並べても仕方ないのだ。

いわゆる記述主義とは、「現在通用している規範を記述する」という姿勢のことである。そしていわゆる規範主義とは、 「現在通用している規範を正統と認めず、それとは別の規範を正統として通用させようとする」 という姿勢、ないしは 「現在通用している規範を無視して、ある規範(現在通用しているものと同じか別かは問わない)を正統として通用させようとする」 という姿勢 である。

こう考えると、「正しい言葉遣いをするように心がけたい」という発想は、必ずしも記述主義と相容れない発想ではないということになりそうである。

「論証+結論」からなる議論つづき

世の中には、誰かの議論で結論として提示されていることが自分の考えにあってさえいれば、そこに至る論証の構造をまったく問題にせずに、「この人は私の仲間」と思ってしまう人がいるような気がする。こういう、議論より結論が先にある人びとは、何としてでも頭の構造を作り直す必要がある。

もしかするとこれは、要点まとめてそこだけ暗記型のお勉強の副作用かもしれない

努力と成果

ちなみに今↑ぼくが考えていたことは、「結果よりそこに至るプロセスが大切」というウルワシクもうさん臭い努力主義的な発想とは、まったく別。

名詞句の意味論の問題でもある。

この前書いた、これ

「実の妹は人妻」

これは、Nifty Serve の日本語フォーラム (FNIHONGO) の16番会議室 (mes 16) (「壁」というフリートークの場)の1157番発言(#1157)からの引用。

これがぼくの書いた人妻の話の反例になるかと言うと、そうでないところがすごい。Niftyに入っておられる方は当該発言をお読みになってご確認ください。

最近しょっちゅう

家族のノートパソコンがフリーズする。こういう場合、電源を切って再起動するしか手はないのだが、恐ろしいことにハードウエア的に電源を切れない(電源スイッチをいじくってもうんともすんとも言わない)設計になっている。で、仕方がないからACアダプタを引っこ抜いて、内臓バッテリーが消耗して勝手に切れるまで何時間か待つ。他に手はない。フリーズした場合を想定しないなんて、いったいどういう設計思想なのだ。

ぼくが今度国民の税金で買った新しいノートパソコンは実はまだ一度も電源を入れていないのだが、カタログを見る限り、もっとすごい仕様になっているらしい。いったいどうなることやら。

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9/19

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「固定観念にしばられてはいけない」というメタな固定観念

にしばられないようにするには、どうしたらいいのか。

  1. 自分が今、どういう固定観念にしばられているかを分析して、自分をしばっている観念を対象化する。その上で、今後もそれにしばられつづけるかどうかを、自分で決める。
  2. こういう観念にしばられたい、というのをよそから探してきて、それが固定観念となって自分をしばってくれるようになるまで、ひたすらそれを適用しつづける。

これ↑自体固定観念となって自分を縛りはじめるのではないか、というさらにメタな議論も可能だが、メタのレベルは上げだしたらきりがないし、上げるだけ不毛になることが多い気がする。

それはいいとして、「言語とはどのようなものか」「研究するとはどのような行為か」「共同研究とはどういう行為か」などに関してこれをやっていくと、研究者としては結構いいことがありそうな気がする。

「それは典型的なセクハラですね」

レイコフによると、プロトタイプにはいくつかの種類がある。それとどれだけ対応するかは分からないが、「典型的な○○」「○○の典型」にもいくつかの規定の仕方がある。これはたぶん、次のようになる。

  1. よく見かける事例
  2. (社会的な)ステレオタイプないし規範に当てはまる事例
  3. 極端で、目立つ事例
  4. その他

これらの間に全体としてどういう相関関係があるか、今のところ精確には分からない。(つまり、「典型的」という概念の凝集性がどのような形で成立しているかは分からない。)

「よく見かける」「(社会的な)ステレオタイプないし規範に当てはまる」は実は独立である。ステレオタイプに合致していても、よく見かけるとは限らない

「ポチ」は日本の犬の名前の典型である。

はおそらく正しいが、実際には「ポチ」という名の犬は決して多くはない。(実際に一番多い名前はたしか「コロ」である。)ネコの「たま」だって、女性の「はなこ」だって、男性の「たろう」だって、皆無ではないが、多くはない。

次に、「極端で、目立つ」とその他の二つの関係について考えてみる。

「極端である」ということは「まれである」ということだ。だからこれは「よく見かける事例」には該当しない。「ステレオタイプ/規範に当てはまるかどうか」については、当てはまるといってもいまいちぴんと来ないが、当てはまらないと言うのも変、というところなのではないかと思う。たぶん「当てはまりすぎるのだ。ステレオタイプ/規範で「まあこの程度」と想定しているレベルを超過しているからこそ、「極端」であり、そして「目立つ」のだ。

テレビなどを見ていると(実は見ていなくても)、ある行為がセクハラに該当するかどうかを判定するのが好きな人がいる。誰かが誰かのある行為について話をしているときに、確信に満ちた口調でこう断言してくれる。

「それは典型的なセクハラですね」

その人が確信に満ちていればいるほど?、ぼくは不安になる。

この人は今「典型的」という言葉を、どのような意味で使ったのだろう。

たとえば、「極端で目立つ」「よく見かける」とではまったく言ってることが違う。そして考えて結論が出たころには、みんな次の話題に飛んでいる。

言語学とは何か?

言語文化論入門の試験と評価の話ではいろいろと書いたが、実は学生のレポートを見ていてちょっと「あれ」と思ったことがある。「これからは自分の言葉遣いに気を付けようと思う」という感想がわりと多かったのだ。 これは、「とりあえず自分の言葉遣いをモニターしてみたい」ということなのだろうか。それとも、「正しい言葉遣いをするように心がけたい」ということなのだろうか。 前者だとすると、それはまっとうな言語学の立場ということになる。後者だとすると…、言語学という学問は、そういうものではないのだ。言語学というのは、もっとお気楽な学問なのだ。優等生面して教師にこびる必要など、ないのだ。

これは授業でも説明したことだが、言語学の基本姿勢の一つに、規範主義を捨てて記述主義を取る、というのがある。これは言い換えると、言語学とは何が正しい言葉遣いで何が正しくない言葉遣いかを決める学問ではなく、言葉のありのままの姿を捉える学問だということ。特定の用字用語法 を弾劾して正しい用字用語法 を推奨する学問ではないのだ。これは、言語学を勉強したからといって、必ずしも正しい言葉遣いが身につくわけではないということでもある。(ここまで聞いて「何だつまらない」という感想を持つ学生もいるようだ。) だから、新聞などの記事を読んで「とりあえず自分の言葉遣いをモニターしてみたい」と思ったとしたら、それは言語学が目指す記述主義の精神を体現した発想である。つまり、言語学の授業としての教育効果が上がったということだ。しかし「正しい言葉遣いをするように心がけたい」と思ったとしたら、それは言語学という学問が目指すものとはちょっとばかりずれていることになる。つまり、言語学の授業としての教育効果はいまいちだったことになるのだ。うむむ。

ここから先は授業では言わなかったかもしれない。(いつも肝心なことを言い忘れるぼく。)言語学という学問は、

ぼくらが普段何気なく、当たり前のように使っている言葉というものは、実は相当にみょ〜なものなのだ

ということを知る学問である。そして言葉というもの持つその奇妙なところを「奇妙だ奇妙だ」と言って面白がり、そして「どうしてそういう奇妙なことが起きるのだろう」と考えていくお気楽で無責任で当事者意識に欠けた半傍観者的な学問なのだ。

しかし、とここで思う。大体新聞というものは正しい言葉遣いをすることを建前として標榜している。(特に語彙(選択制限)と表記のレベル。もっと大きなシンタクスになると、結構大胆だったりする。)だから、言葉についての新聞記事をまじめに読めば読むほど、「変だ変だと言って面白がる」というお気楽で無責任な半傍観者的な態度から離れて、「正しい言葉遣い!」という発想に行ってしまうものなのかもしれない。さらに、である。「正しい言葉遣いをするように心がけたい」という発想は、これから大人として円満に世の中をわたって行く上では、とっても有効なストラテジーなのである。ぼく自身、普段の生活の中でこれを積極的に廃棄しているかと言ったら、そうではなかったりする。

言語文化論入門が無責任な半傍観者に甘んじるお気楽な言語学者を育てることを目的とした授業ではなく、まっとうな社会人を育てるための学部での授業であることを考えると、「正しい言葉遣いをするように心がけたい」という発想が定着することの方が、つまり教育効果が上がらない方が、むしろ喜ばしいことなのかもしれない。

でも、そうだとするとまたまた問題が出てくる。ぼくの授業の目標が、間違っていたということになるのだ。まあ、このレベルまできちゃうと、どういう目標の設定の仕方をしても毎週の授業の内容には影響ないかもね、ということになってしまうのかもしれないが。

「くそ」→「くそんとん」=「くりんとん」→「くり」

手書きで書きなぐった(ように見える)「THE CAT」という文字列の「H」「A」が実は全く同じ形だった、というのがどこかの心理学の教科書に載っていて、それを言語文化論入門の授業で使っているのだが、それの代わりに(あるいはそれと一緒に)使えるかもしれない。もちろん黒板に手書きで、カタカナ書きで書く。

ますます変な奴と思われるだろうが。

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9/18

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「まだ最終回があるわね」

この前のGTOの理事長/白川由美のせりふである。この人はどの世界(スペース)の住人なんだろう。

この調子だとあの理事長、最終回では

実はこの学園は3ヶ月前に突然できたものなのです
などと言い出すのではないか。
我々が生きているこの世界は、実は5分前(2秒前でもいいが)にできたばかりなのだ、という可能性をあなたは完全に否定することができるのか
と詰問してくる哲学者みたいに。

これ↑は

この本のネタばらしのつもり。うまく行っただろうか。

秘密とメタ秘密

日本も独自の偵察衛星を持つべきだ」という主張がある。

院生の頃、みんなで食事をしている最中に、ある人一号が突然こんなことを言い出した

「自分は○○さんの就職内定先を知っているけど、それがどこかは秘密だから言えない」

一同、絶句。

その場にいたある人二号が後日、ぼくに聞いてきた。

「本多さんは○○さんの就職内定先を知っているの?」

このことはそれまでは隠していたのだが、こんなふうに正面から聞かれたら正直に答えるしかない。

「知ってる」

すると、ある人二号は続けて聞いてくる。

「どこか、教えて」

ぼくの答え。

「今はまだ内緒だから教えられない」

まだ言えないのだ、ということを納得してもらえるまで、しばらくかかった。

何かを秘密にするときには、「秘密にしなければならないことが何かある」ということ自体を秘密にしなければならないことがある。

「日本も独自の偵察衛星を持つべきだ」という主張をするのは自由である。しかしそう主張する人が、その主張に対する明確な回答を求めたら、それは自家撞着である。

○○さんの就職先の話を偵察衛星の話とつなげたのは、木村太郎のぱくり、かな?

「生まれてはじめて」

「今日、生まれてはじめて池袋のジュンク堂に行った」というのは、変である。「生まれてはじめて」って、どういうことだろう。

人文書のレジの担当の人は、賢そうな雰囲気だった。

選書のセンス

書店の選書のセンスについてコメントすると、その同じ論理が別の領域でぼく自身にはね返ってくる。だから、やめる。

国民の税金

昔、学振の特別研究員として科研費をもらっていた頃、文献複写費の枠である論文をコピーした。それをある人28号に渡すと、その人が:

「これ、いただいちゃって、いいんですか?」

ぼく:

「ええ、科研費で大量にコピーしちゃったんで、どうぞ」

その人:

「そうか、国民の税金で作ったものだから、国民であるぼくにはもらう権利があるんですよね」

ぼく:

「…」

そうなのだ。日本国民である彼にはそのコピーの1億2千万分の一を受け取る権利があるのだ。ほんとかな。

税とは富の再分配である、といったのは誰だったか。高校のときの世界史の教師だったか。(そういう問題じゃない?)

とにかくこのやり取りがあって以来、ぼくは、国民の税金で運営されている東京大学の図書館を一般の国民が利用することが困難であることや、国民の税金で運営されている国立国語研究所の図書館が一般の国民に開放されていないことなどに対して、異を唱える気力を失った。

そして今日また、国民の税金で買った新しいノートパソコンを、無断では他の国民に使わせないことに決めた。

国債

国民の税金で思い出すのが国民の借金。

国債とは、国民の、国民に対する借金である。高校の頃、このメカニズムがどうしても分からなかった。国民の、自分に対する借金なんだから、要するに チャラ じゃないか。

高校の政経の教師が言っていた。

君たちは、一人当たりこれこれの額の借金をしているのだ。

「何わけの分からないことを言ってるんだ。こんなに経済に強いかしこい人でも、たまにはこういうこともあるのか」と思った。

同じ頃、右翼らしき人がどこかで言っていた。

「国民が国民に借金している」ということは、裏を返せば「国民が国民に金を貸している」ということだ。つまり、われわれ国民は金を貸しているのだ。これは喜ぶべきことではないか。

これが本当ならマスコミは国債の発行をあんなに問題視しないはずだ。だからこれは、かなりうさん臭い話だ。でもちょっと信じてみたい話だ」と思った。

ちゃんと分かったのは、学部の終わりか修士のはじめだったと思う。世は工学部を出た人が証券会社に就職していたりしたバブル経済の時代で、「中期国債ファンド」がどうたらこうたらというのを、テレビのコマーシャルでもやっていた。そうなのだ。「国民の、国民に対する借金」に出てくる二つの「国民」の指示する対象は同じではないのだ。つまり、 「(すべての)国民の、(一部の)国民に対する借金」なのだ。だからこれは 自分に対する借金ではない。だから、チャラ ではない。

「でも、金を借りるなんて言った覚えはない」と思ったかどうかは定かではない。「借りる」と言った覚えがないことは確かだが。でも「借りる」がわれわれの国民の意思なのだ、制度上は。

日本国民は正当に選挙された国会における代表者を通じて行動するのである。その、国民の総意を反映する代表者が、国民によって選ばれた、全体の奉仕者たる官僚が作成した案をもとに、法律を作る。そしてその法律を、国民の総意を反映する代表者が選んだ内閣総理大臣が執行する。執行にあたっては国民によって選ばれた、全体の奉仕者たる官僚が協力する。このようにして、われわれ国民の総意がかたちとなる。

う〜ん、すばらしい。で、ふと気がつくとわれわれはいつのまにか、われわれの総意にしたがって、債務者?になっていたりするのだ。

(別の話になるが、最近では借金を返せなくなった人々のかわりに金を返してあげたりもしているようである。)

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9/17

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「リストラされる」

新聞などを読んでいると、「リストラ」には「事業の再構築」という説明がついている。しかしそれとは別に、普通「リストラされる」と言うときに主語として想定されているのは、(事業あるいは企業・組織のこともあるかもしれないが)通常は個人である。これはどういうことなのだろう。

「彼をリストラする」という言い方は可能だろうか。(ぼくは直観が働かない。)

  1. 可能であれば、「リストラされる」は普通の受け身である。<事業>→<組織>→<個人>というメトニミー。
  2. 不可能であれば、「リストラされる」は間接受動、ないしは被害の受け身ということになる。

ちなみに、「リストラ要員」という言い方もある。これは、肩たたきをする人のことではなく、される人のことらしい。

「合理化」

昔(20年くらい前)は「合理化」と言った。これが「人減らし」の意味であると分かるまでには、かなり時間がかかった。

コミュニケーションの身体性

自己同期と相互作用的な同期

という現象がある。

人が言葉を発すると、その人の身体全体が、その人自身の発話に合わせて振動する。これを自己同期という。それと同時に、その発話を聞いている人の身体も、発話者の発話ないしは発話者の身体の振動に同期して、振動する。これを相互作用的な同期という。自閉症などのコミュニケーション障害がある人には、この相互作用的な同期現象が見られないという。

ここまでのネタ本は佐々木正人:『からだ:認識の原点』である。

で、これがどうしたのかというと…言語活動の相互行為性の一つの基盤が、ここにあるのではないかという気がする。

駅のアナウンス

駅のホームのアナウンスは、現在ほとんど自動音声化されている。が、何年か前(十何年か前かも…つまり、うろ覚え)にテレビでやっていた話によると、どこかの駅では普段は機械で合成した音声を使うのだが、ラッシュ時には駅員がマイクを持って肉声でアナウンスするのだそうだ。詳しい理由は言っていなかったと思う(しょせんはうろ覚えの世界だ)のだが、利用者に個別に注意をする必要があるというだけではないという気がする。

機械で合成した音声のリズムは、普通の喋りのリズムとは、違う。ということは、身体の相互作用的な同期が起こりにくいということだ。ということは、通常の場合に較べてコミュニケーションが成立しづらい、ということだ。音がまるで他人事のように流れ去ってしまうという感じ? このことを、当時の駅関係者は直観的に把握していたのではないかと思うのだ。

ゼミ発表、など

学生時代、当然のことながらゼミ(というか、「演習」)の授業に出ていた。英語学の演習は、自分で調べたことをまとめた発表するというよりは、英語で書かれたテキストの内容を紹介する、という形だった。その内容紹介とは、実質的には、テキストの英文を日本語に訳す、ということに近かった。

このような演習の形態にはそれ自体考えるべきこともあるのだろうが、ここではそれには触れない。このかたちの授業に出ていて思ったことは、分かりやすい発表と分かりづらい発表があるということだ。

一番分かりづらい発表は、テキストの訳をあらかじめノートに書いてきて、それをものすごい勢いで読む、というパターン。なぜか、まじめで努力型の性格の人に多かったような気がする。

反対に、聞いてて分かりやすい発表をしていたのは、訳を用意せずにその場でテキストを見ながら説明していく人、あるいは用意した訳を読むときに、意識的に普段喋るときと同じ口調で読んでいく人。ぼく自身はこの後者を心がけていた。

これも、同じ問題なのではないか。

まじめな学生のパラドクス

英語のリーディングの授業でも、同じ現象が起こる。普段喋るときのようにやってくれると、こちらは相づちなんぞ打ったりすることもできるし、間違ったところに突っ込みを入れるのも、楽だ。

(非常勤の頃は、ちゃんとできているところは「はい」とあいづちを入れながら聞いていて、間違ったところでは相づちを打たずに黙る、というやり方をしていた時期もあった。学生たちは敏感で、ぼくが黙っていると不安になり、次の瞬間「違っていたのだ」と悟って訂正したり辞書を引きはじめたりする、そんな場面が結構あった。最近はやらない。相づちを打たずに聞くという行為は、結構残酷な仕打ちなのだ。)

ところが、中にはノートに書いた訳を恐ろしい勢いで読む人がいる。間違ってもこちらから突っ込みを入れる余裕がないし、そもそも理解するのも大変だったりする。だからそのあとのぼくの説明は、必ずしも発表者の訳に密着していない、ごくごく一般的なものになってしまう。

ノートに書いてくるくらいだからきちんと予習をした人、つまりはまじめないい学生なのだ。まじめな人がいまいち損をしてしまう構図。ううん。何とかしなければ。

学会発表

こういうまじめな学生がそのまま研究者になって、学会発表をすると…

それでも内容をちゃんと理解している人がいて、質疑応答が成立するのが、ぼくには奇跡だ。

スピードの問題?

ももちろんあるのだろうが、でも、それだけではないと思う。

…と書きながら、いまいち納得しきれていない自分に気づく。もしかしたらスピードの問題だけなのかもしれない。そうでないと言いきる自信は、今のところ、ない。だからこの話は、ここでやめる。

ところでゼミ発表って…

ゼミの発表で、用意したノートを恐ろしいスピードで読んでしまう人が考えていることって…

  1. 自分の発表という行為が、その日のその授業の中でどういう意味を持つのか、考えたことがない。そして(下の * に続く)
  2. 考えたことはあるが…
    1. 発表が他の参加者に向けての紹介であるという結論には達していない。 つまり発表とは、教員ひとりに向けた行為であると認識している。 つまり、
      発表とは質問に対する答のようなもので、教員に対して (教員にとっては)すでに分かりきっていることを述べるだけの 行為である
      と認識している。そして、場合によっては

      • 教員(および他の学生)に対して、自分がいかに まじめであるか(いかにきちんと準備をしてきたか)を アピールしたいと思っている。
      • とにかく早く終わらせたい、と思っている。


    2. 他の参加者に向けての紹介であるという結論に達するが、同時に それより優先する事項も発見してしまった。つまり、とにかく早く 終わらせたい、と思っている。

*(上からの続き)

  1. 何も考えず、とにかく読む。
  2. いちおう何か考えてはいる。

んなところかしら。

テポドン

名前だけはかわいい。三流映画に出てくるのそっとした怪獣みたいだ。

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9/16

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おわびとひとり言

抜刷りを請求された方のうち、情報処理学会論文誌掲載の論文を含めておられる方につきましては、今しばらくお待ちください。(そういえばもう9月も後半だ。いつ 出る/出た? んだろう。)

それにしても、送付先住所にカタカナが含まれていてもいいのだろうか。(と言っても、現地文字は書けない私であった。当て字を使うわけにもいかないし。)

Web日記

日記猿人というものがある。「猿人」は「エンジン」は「サーチエンジン」の「エンジン」… って、何? といわれると、漠然としか分かっていなかったりする。それはいいとして、日記猿人とはWebで公開されている日記を集めた、アクセスランキング付きのリンク集みたいなものだ。自分が生きている間に自分以外の不特定の人間が読むということを前提として書かれたテクストは、もはや通常の意味での「日記」ではないはずだ。それじゃあ日記でない「日記」を集めた日記猿人って、一体何者?

というわけで、実際に行ってみた。

私小説と詩とエッセイを集めた同人雑誌のWeb版という雰囲気である。要するに、あまり、ぼくの趣味ではない。

少数だが、毎日読んでも飽きない「日記」もある。特に優れているのがちはるの多次元尺度構成法(日記)。 日記猿人で見つけたわけではないのだが、でも日記猿人にも登録されている。 このちはるさんという人は、この人。まじめな認知心理学者が実名で書いた上質の心理学エッセイである。

この人は日本日記web学会というのも主宰しているようである。

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9/10

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言語文化論入門試験と成績評価をめぐる、一問一答

成績はもう出しましたか

何日か前に事務局に出しました。

なぜ問題を事前に公開するのですか?

なぜ秘密にしておかなくちゃいけないのですか? 授業中に全員に公開すれば公平性も保てるし。問題を見せるということは「この授業ではこういうことを言いたかったんだよ」というメッセージにもなるし、「この授業で言ったことをきちんと理解していれば、こんな問題も解けるんだよ」というメッセージにもなるし、いいことづくめなのだ。

「拡大JB方式」の「JB」って、何ですか?

昔ぼくが英文学を教わった、日本文学の英訳などで有名な先生のイニシャルです。この先生の試験の仕方にヒントを得たのです。ただしこの方は問題の前ばらしをやっていたわけではないので、全く同じではありません。だから「拡大」とつけたわけです。

学生は問題に出たところしか勉強しないんじゃないんですか?

それでもいいように、「この授業ではこういうことを言いたかったんだよ」というところは全部問題に含めるわけです。

でも自由選択なんですよね

「語」から「テクスト」まで色んなことを扱えば、学生にしてみれば興味がもてた部分ともてなかった部分の むら が出るはずです。しかもどれに興味がもてて、どれに持てなかったか、ということは、人によって違うはずです。たまたま興味がもてた部分が試験に出た人はラッキーで、つまらなかったと思ったところが出た人はアンラッキーというのは、望ましくないと思うのですが。学生が、それぞれ自分が興味をもった事柄について考える、これって、いいことじゃないですか?

それに実際に何問解いてもらうかは事前に公表しないので、学生たちはそれなりの数の問題について考えてきてるはずです。

予想した問題数が多い人は、短い答案しか書かなくて、予想問題数が少なかった人は、長い論述答案を書いたのではないですか。

どの問題を選ぶかによってどれくらい書く量があるかは違ってくるのですが、基本的にはポイントを押さえてあれば長さは関係なく評価しました。

問題は全部同じレベルなんですか?

プリントから一行写すだけのちょ〜簡単なのから応用力が試されるかなり難しいものまで様々です。

それじゃ、みんな簡単な問題ばっかり選ぶのではないですか?

それが、そうじゃないところが面白い。簡単な問題をパスして難しい問題にチャレンジした学生は去年も今年もいました。

それじゃ、やっぱり不公平じゃないですか?

難しい問題の採点にあたっては、それなりに配慮はしてます。

逆に、完璧な答案ばかりだと差がつかなくて困りません?

差がつかないと、なぜ困るのでしょう。

講義科目の定期試験は選抜のための試験ではないし、学生の知能レベルをはかる試験でもありませんし、記憶力を 試す試験でもありません。はたまた教師と学生の駆け引きの場でもありません。授業の内容をどれだけ理解できたか、ということだけ分かればいいのです。

それに、こういうかたちの試験でも、現実にはそれなりに差はつきます。ほんとは全員に「A」をあげられれば「完璧な授業ができた」ということで理想なのでしょうが。

それにしても、普通の形式の試験で出る「差」って、何の差を反映してるんでしょう。

ちなみに、授業の内容を理解する場は、授業だけではなくてもいいと思います。試験前に友達と一緒に勉強していて、それで分かった、というのでもいいと思っています。これは、問題を公開しようがしまいが同じことですね。

他の人と一緒に勉強するときに、自分では考えないで他の人の書いた答案を丸写しする人もいるのではないですか。

それはいると思います。問題によっては全く同じ文面の解答が続出、というのもあります。でも、それっていけないことなのですか。

まず、一緒に勉強している限り、教える側と教わる側の完全な分業というのは、そんなにないと思います。発話量の多い少ないの違いはあるにしても、それぞれがそれなりの貢献をするものです(それが認知科学で言う認識の社会的構成ということです)。これも、問題を公開しようがしまいが同じことですね。

もし、極端な分業体制になっていたとしたら…
(具体的な分業の仕方についてはさすがにはばかれるのでここには書きませんが。)

とりあえず「やってみよう」という気になっている人を尊重すること、これがまず大事なことです。やる気になった理由は問いません。内容に興味が湧いたからでもいいし、それ以外の理由でも構いません。個人的には、これさえ確保できれば他の人のことはどうでもいい、という気持ちになることすらあります。

そして、試験を受ける人が「やってみよう」という気になっている人ばかりであれば、これほどうれしいことはないと思います。でも、ぜんぜん興味はないけど、単位が必要だから受ける、という人もいます。そういう人を排除することはできません。そういう人にお願いしたいのは、やろうという気持ちになっている人の足を引っ張ること(たとえば授業中に、授業の内容とは関係のないおしゃべりをすることなど)はしないでほしい、ということだけです。それ以上の要求はしません。腹の中ではつまらないと思ってるのに表向き楽しんでいる振りをするとか、興味がもてないのに無理矢理やらされてますます嫌いになるとか、そういうことは良くないと思っています。

選択必修だからつまらなければやめてしまえばいい(実際、言語文化論入門を取らなくても他の授業で単位を満たせば卒業には全く支障がない)のですが、現実にはそう言ってばかりもいられないというのが難しいところなのです。 で、そういう人々には「ほしければ持っていっていいよ。そのかわり、最小限の努力はしてね。」みたいな気持ちでいるわけです。(「それではまじめにやっている私たちが馬鹿を見るのではないですか」みたいな意見がまじめな学生から出たら、その時は考えます。)

ということでまとめると、やりたいという気持ちになっている人に関してはその気持ちを尊重する、やりたくないけど単位は欲しいという人は、どうぞご勝手に、ということで。

やる気にさせるのが教師の仕事なのではないですか?

人による好みや価値観の違いを尊重しないで、自分の好みや価値観に人を合わせる方向でマインドコントロールするのが、教師の仕事なのですか?
それに、授業でやっていることが、全受講者にとって本当に勉強するに値するものであると断言できる教師はいるのですか? もし本当にいたら、ぼくはその人を信用しません。

自分のやってることに自信がないだけではないのですか?

というよりは、物の感じ方や考え方の多様性を認めたいだけです。そしてぼくは、自分の物の感じ方や考え方はメジャーではない、と思っています。そのぼくの感じ方、見方を提示はするけれども、押し付けるようなことはしたくない。

授業中、一部の学生と仲が良かったようですが…

言葉を濁してますね。ひいきはしてません。

前の方に座っている人(つまり授業を聞こうという気持ちになっていると思っていい人)のうち、顔と名前が一致している人(つまりぼくからみて「○○さん」と呼びかけやすい人)」には授業中に質問をしたり話を振ったりしてました。でも、そういう人と試験の出来が一番良かった人とは一致しなかったりします。

実際、解答用紙の名前を見て「この人って、どんな人だったかなぁ」と思ってしまうような人の中に、完璧な答案を出してくれた人もいました。

レポートはどのように評価したのですか

成績評価は試験が中心でした。

(これは授業ではちゃんと言わなかったかもしれませんが)レポートを出したのは、「普段から言葉に関することに興味を持って欲しい」という理由からでした。ただし量的には、「つまらん」と思っている人にとっても大した負担にはならない程度だったと思っています。

そんなわけなので、レポートの方はそもそも課題の出し方からして思いっきり漠然としたものになっています。だから出来栄えに差があっても、それで評価に差をつけるのは問題があると思います(「どれくらいのことを書けばいいかはっきり言ってくれてたらもっとちゃんとやったのに」という学生がきっと出てくるはずです)。というわけで、けったいなコメントを書いてきた人に対して、それを理由に減点することはしませんでした。

ただし、次に該当するものに関しては、プラス評価をしました。


ただし、試験の方で「A」がついていた人はそれ以上評価を上げることはできません(実はこのパターンが結構あった)。また試験が「Bマイナス」だった人は評価を上げても「B+」なので、「どっちにしてもB」でした。

結局、何パーセントくらい落ちた(単位が取れた)のですか

内緒。

来年も同じようにするのですか

さあ、どうでしょう。

今年のことを覚えているかどうかも分からないし、覚えていたとしても意見が変わるかもしれないし。その時々で「これが一番いい」と思えるやり方でやるのが一番いいわけですよね。そして、「一番いいやり方」と思えるものが(少しずつでも)変わっていくのが進歩するということですよね。

ということで、変わる可能性はあります。でも、変わらない可能性も、やっぱりあります。

他の科目も同じようにするのですか

科目の性格が違えば評価の仕方が違ってもおかしくはないですね。

他の先生も同じようにするべきだと思いますか

思いません。各教員が、それぞれ自分が正しいと思うやり方でやるのがいいと思います。

いろんな考え方のいろんな教員がいていろんな授業をやっていろんな評価の仕方をする。それがいいのだと思います。

私は本多先生のやり方をいいと思わないのですが

どこにどういう問題があるか、具体的に教えていただければ、考えます。

こんなことやって、学生になめられませんか?

なめられてはいけないのですか。ぼくはいつまでもひ弱な教師でいたいのですが。

なめられたら、学生が勉強しないんじゃないですか?

そうでもないという気がします。どういう点でなめられるかにもよりますが。

逆に、教師が高圧的に振舞わないと学生が勉強しないとしたら、それの方が問題ありません? それはその学生にとって授業の内容に魅力がないということじゃないですか。

言語文化論入門の試験の話から離れてしまったようですね。そろそろ終わりにしましょうか。

こんなふうに一人二役をやって、頭がおかしくなりませんか?

他人事ではあるけれど…

あのソフト、いつかこういうことが起こるに違いないと、ひそかに危惧していた。 対策はこちら

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推論

A:B=C:Dであり、かつA:B:=E:Fである。したがってC:D=E:Fである。

日本語:英語=SOV:SVOであり、かつ 日本語:英語=縦書きあり:縦書きなし である。したがって、SOV:SVO=縦書きあり:縦書きなし である。

ほんとかな。

AならばBである。Bである。したがってAである。

石灰水に二酸化炭素を入れると、白い沈殿物ができる。いま、ある正体不明の気体を石灰水に入れたら、白い沈殿物ができた。このことから、この気体は二酸化炭素であると分かった。

ほんとかな。

(板倉聖宣(1998 「仮説実験授業の考え方と成果」『たのしい授業』1998年8月号)で指摘されていること。)

A:B=C:Dであり、かつA:B:=E:Fである。しかもCとEの間には明らかに密接な関係がある。したがって、BとFの間には密接な関係がある。

ほんとかな。具体的な例は、ちょっと。

AとBは対立関係にあり、かつCとDも対立関係にある。そして、AとCの間には明らかに密接な関係がある。ゆえに、BとDの間にも密接な関係がある。

ほんとかな。いかにもありがちっぽい議論だけど、具体的な例がちょっと思い付かない。上と同じなのか、違うのかも、よく分からない。

上↑の4(3?)つ、少しずつ性格が違う。

一番上は、数学の話としては成り立つけど、日本語英語じゃあねえ。

二番目はアブダクションというのか誘導推論というのか仮説検証型というのか。日常的には(刑事ドラマの世界のたたき上げの「勘」に限らず、はたまたいわゆる「被害妄想」だけでもなく、いろんなところで)よくやることだけど、論理的には正しいことが保証されない。研究の世界では、センスのいい人がここから出発すると、大胆にして興味深い議論ができる。もっとも、「論理的には正しいことが保証されない」ということを念頭において、用意周到に議論を構築しなければならないが。これを忘れると「天候が不順なのも世界経済が危機的な状況なのも最近奥さんが機嫌が悪いのもみ〜んな宇宙人の陰謀」みたいな話になりかねない。

最後の二つは、どう位置づけていいのかよく分からないが、研究の世界で意識せずにこれをやる人がいるのは確か。

家族が自宅で電子メールを使いはじめた

のはいいが、画像ファイルを添付したメールを何度も転送した挙げ句、添付ファイルが見られなくて困るという事故が続発しているらしい。「こういう場合の展開のやり方を教えてくれ」と言われてもねえ。

メールソフトで展開してみる。うまくいかな場合はまずテキストファイルとして保存する。その後デコードソフトがある場合はそれを使う。それでうまく行かない場合、およびデコードソフトがない場合はエディタで開いて注意深くヘッダを見て余計な行を削除する。そのあと、デコードソフトがある場合はもう一度やってみる。それでうまく行かない場合、およびデコードソフトがない場合はもう一度メールソフトに読み込んでメールファイルとしてから展開してみる。それでうまく行かなかったら、ヘッダの編集でへまをやったかもともとメールがおかしいかのどちらかであるから、とりあえずもう一度エディターで開いてみて…

これを教え込む自信は、ぼくにはない。

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9/5

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またまた「人妻」について

懲りずに改訂して、その挙げ句にまた投げ出すことになった。紀要には出せるレベルではある。

その第3版を公開しておきます。

親ばかさんの、幼児語辞典

普通の人の観察なので、言語習得の研究に必要な事柄はほとんど捉えられていない気がするが、とにかくかわいい。

コミュニケーション

ある人1号さんは、ぼくの「〜」「…」をどう解釈したのだろう。

GTOつづき

ぼくは、いざというときもまじめじゃないということが、しっかりばれているのだろうか?

(援助交際しているわけでもしたいわけでもない。念のため。)

GTOつづき

「なんか文句あっか!」

を秋学期のはじめにやっても、馬鹿ではないかもしれないということに、今気がついた。「本多啓」の読み方が分からない人や「本田啓」と(実在の別人の名前を)書く人が学生の中にも結構いるのだ。

書いていて、思った

やっぱり馬鹿である。

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9/4

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「人妻」について

改訂しているうちに、重大な欠陥があることが判明した。直す気力も能力もない。まじかよ。うそだろ。あああ。紀要に出すのもやめるかもしれない。

何がどう問題なのか考えてみたいという人もいるかもしれないので、その改訂(放棄)版を公開しておきます。「欠陥があることは分かってるけど、どういう欠陥か、そう簡単には教えてあげないよ」という書き方になっています。どこがどうおかしいか分かった人は、自分を誉めてあげましょう。

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9/3

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「人妻」について

これまで考えてきたことプラスアルファをまとめた。紀要に出してしまおう。

初稿も公開。「人妻」に関してこれまでこの「雑記」に書いてきたことはそちらに組み込んだので、すべて削除。

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9/1

ことたま

深夜、何も考えずにテレビをつけっぱなしにして皿洗いをしていると、誰かが詩を読んでいるらしい声が聞こえてきた。洗い終わったあと、消す理由もないのでテレビはつけっぱなしのままお茶を入れている間に、画面は誰かと誰か(もう忘れた)の対談に変わった。さらにお茶をのみながら ぽけえ〜っ と新聞をながめていると、突然また声が変わって、詩の修辞技法の説明が始まった。あわてて画面に目をやると、比喩の種類がいろいろ出ている。どうやら前回は直喩と隠喩の説明をしたらしい。

そのままみていると、隠喩と換喩の説明が始まった。

隠喩は類似性に基づき、換喩は現実世界での隣接性に基づいている。「白雪姫」は隠喩の例で、「赤頭巾」は換喩の例である。「赤頭巾」は顔が赤いわけではなくて…
(ビデオに撮ったわけではないので、正確な引用ではない。うろ覚えで書いている。以下同じ。)

佐藤信夫の本に出てくる例ではないか。その後、おまけのように?提喩の説明が続く。

提喩とは部分と全体の間の内部関係に基づく名前の貸し借りである。

??????????

我々は「セロテープ」という言葉で粘着テープ一般を指すことが多いが、「セロテープ」は実は商品名で…

なるほど。

完璧な説明とは言えない。でも、決して悪い説明ではない。

番組の名前は「ことたま」。「言霊」のことか。フジテレビ。火曜午前(というか月曜深夜)2:10から2:40(の正確にはちょっと前)まで。

ただしこの番組では、直喩も隠喩も換喩も提喩も、あくまでも詩の修辞技法として扱われている(ようである)。

ご案内

駿河台大学はこの地図の真ん中。でもこれじゃあ最寄り駅が分からん! 何でスクールバスが通ってる立派な?道まで消すんだ! という人はこちらで探してください。相変わらず道は消されてるけど、元加治駅は見えます。

授業のためにメーリングリストを使う、 という富山大学向後千春氏のアイデア

おもしろいかも。ぼく向きかも。

学年末試験の解答も メールで出してもらってる科目もあるらしい。(つまり、実質的にはレポートということだが。)

good for nothing

ぼくのこと。せめて後ろにelseをつけてもらえるようにしなければ。

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