1999年1月の雑記

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最終更新 1999/2/7 23:39

1/31

「先生」という言葉

昔、学生以外の人、特に事務職員から「先生」と呼ばれることに非常に抵抗感を感じていた時期があった。(懇親会とかではないかなり私的な)飲み会の席で、

「こういう時くらいは「先生」と言うのをやめて「さん」付けにしてほしい」

みたいなことを言ったこともある。

それがある日突然、変わった。気がついたのだ。

もしかしたら、事務職員の立場からしたら、「本多さん」と呼ぶよりも「本多先生」と呼ぶ方が気楽なのかもしれない。

敬称のつけ方には相手との関係についての認識のしかたが現れる。逆に、相手に対してある特定の敬称を使うことが、その人との間にある特定の関係を構築することにもなる。事務職員が教員に対して使う「先生」の背後には、次のような関係認識があるということに気がついたのだ。

事務職員である私は、あなたを教員と認識している。

なおかつ私はあなたを教員として扱っている。

そして、それ以上の扱いも、それ以下の扱いもしていない。

要するに、職員が教員に対して「先生」というのは、両者の関係を「職員と教員」の関係として取り扱っている、ということだ。そして「職員と教員」は上下関係を含む関係ではなく、同じ組織の中で組織の制度に従ってそれぞれ性格の違う役割を果たしている人同士という関係である、ということ。

この、「職員と教員」という関係は、同じ職場でそれぞれの職にある以上は、否応なしに成立してしまう関係である。制度の問題だから、相手のことをどれくらいよく知っているかとか、相手のことをどれくらい尊敬しているかとか、相手のことを個人的に好きかどうかとかはまったく関係ない。ということは、相手との関係を表向きこのレベルに保っておけば、気持ち的に相手に深入りする必要がないということである。

「先生」と呼んでおけば教員に対して気持ち的に深入りする必要がなくなるが、深入りすることも不可能ではない。だから、相手との関係を公式には「職員と教員」のレベルに保っておきながら、個人として相手に尊敬なり嫌悪なりの評価なり感情なりを持つことも可能である。そして一度は尊敬の気持ちを抱きかけたものの、後になってその評価が変わったというような場合でも後戻りがきくし、逆も可能である。

それに対して、職員が教員を「先生」ではなく「さん」で呼んだとしたら、それは、教員との関係を「職員と教員」とは別のレベルのものとして認識し、行動する、ということになる。それがどういう関係かは状況によるが、少なくとも、相手に対していったん「職員」でも「教員」でもない「素の個人」?のレベルで向き合う、ということを公然化しなければならなくなる。純粋にプライベートなところでの関係ができている場合はまだしも、そうでない場合にはこれは気持ちの上での負担がかなり大きいことのような気がする。

「さん」づけよりも「先生」づけのほうが気楽なのではないかというのは、そういうこと。これが分かって以来、ずいぶんと気持ちが楽になった。

「教授」という言葉

学生の中には

先生はどうして教授になったんですか?

という質問をする人がいる。つまり「大学教員」という意味で「教授」を使う人がいる。この人だけのことなのか、それとも一般に広まっているのか、よく分からない。

先生はどうして先生になったんですか?

という人もいる。一瞬頭が混乱する(なぜ混乱するのか、いまいちうまく説明できないのだけれども)。

一週間くらい前、学生とトランプなぞやったときのこと

ある人

本多先生って頭いいからいろいろ考えてそうで怖い。

別の人

でも、詰めが甘そう。いざというときに抜けてそう。

鋭い。実際、自分のかけた策の落とし穴にはまってしまって大敗したぼくであった。

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1/30

社会言語科学会

行くつもり(と言いつつなんでこんな時間1999/1/30 2:44に起きているんだろう)。

学生とオセロをした

彼、異様に強い。だが、自滅(彼が)。彼の自滅の瞬間、ぼくが「ぼくだったらそこ打たなかったなあ」と言うと、その瞬間、彼はすべてを悟った。かしこい。でもその時すでにぼくは自分の石を置いてしまっていた。

「やっぱりそっちにする?」と言わなかったぼくは超本気モード。

あの時彼があそこに打っていたら、ぼくは勝てなかったかもしれない。

今1999/1/30 2:54

とっとと寝なければ。

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1/29

日記の定義〜ナニハニッキデナイカ/ナニハニッキデナクナイカ〜

たとえば、だれもが「これは日記ではない」と認めると思われるページとして、ここ(このページ自体は日記ではない)とかここ(同じく)とかここ(同じく)とかこことかここ(更新頻度はすごい)とかがある。

実は、ここからコピーアンドペーストしてきてちょこちょこっと変えただけなのであった。我ながら、何と安直な作り方。

その一方で、だれもが「これは日記だ」と認める(だけでなく、「これは日記ではない」と言ったら思いっきり反発される)と思われるページがある。例は省略。

何か極端な話と思われるかもしれないが、とりあえず「あるページが日記であるかどうか」は必ずしも恣意的に決められるわけではない、ということ。それでもってその中間のグレーゾーンがどうなっているか、というのが認知言語学からWeb日記読みの世界に迷い込んだ人間の関心事なのであった。

Wordでのお仕事

事故がなければ、今日でおしまい。

ファイルサイズ

おそらく1月分は過去最大になると思われる。

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1/28

『英語学用語辞典』を買った。

ぱらぱらめくりながら、思った。

conceptual system

けっこう大胆かも。それに、conceptual なんとか の解説とconceptの解説が全くかみ合ってないのも興味深いところ。
(と、いきなりフレーゲの原理でものを考えているぼく。でもこの場合にフレーゲの原理を適用するのはいけないことなのだろうか。)

principle of ...

多分これでも数を絞ってるんだと思う。それからたとえばprinciple of relevanceの解説とprincipleの解説はどう関係づけたらいいのだろう。
(以下同文。)

metaphor, metonymy

ぼくには難しい。用語辞典というものの限界を知ってる人が割り切って書いたものなのだろうけど。

synecdoche

もっと難しい。一つだけ言えることは、metonymyとは無関係らしいということ、って、ほんと?

以上、揚げ足取りでした。

テクニカルタームのフレームセマンティクス

たとえば、conceptual structureの解説に「Jackendoff (1983)の用語」と書くようなこと。これはbachelorの解説に「男性はある年齢層に達すると結婚するのが普通だと見なされるという社会構造を前提とした概念」と書くようなものだと思う。

ターザンとかローマ教皇とかのようにそのような社会組織から離れたところに暮らしている未婚の成人男性にbachelorを使うとおかしくなるという話があるが、あるテクニカルタームを、それが提案された背景にある理論的な枠組から切り離して自分の理論的な枠組みに都合のいいように使う(いわゆる「つまみ食い」)のは、それに似ている。

その意味で、『英語学用語辞典』におけるLangackerの用語の取り扱いには大いに不満がある私なのであった。

小学校の頃

「イカドウブン」が「以下同文」のことだと分かるまで、ずいぶん時間がかかったように思う。分かったのは、いつだったろう。

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1/26

『駿河台大学ニュース』ダイジェスト

ふと見ると、オンラインで公開されている。

最近、この『ニュース』に、知ってる学生の名前が出ることが多いような気がする。(特に法学部生。)公開されている48号から50号に出ている学生のうち、一人とは研究室前の掃除を手伝ったもらった仲だし(って、どういう仲だ?)

以前ぼくの必修の授業に出ていた人。その授業の次の年だったか、その学生が他の教員の研究室に用事があってぼくの部屋の前を通過したとき、ぼくはたまたま自分の出したごみの後始末をしていた。ちょっと経つとその学生が戻ってきて、「今会えないみたいなので」ということで掃除を手伝ってくれたのであった。

もう一人も、むかしぼくの授業にいた。(いつも一番前に座ってまじめにやっていた人。)

教員がどんなにひ弱でお馬鹿でもちゃんとした学生は自分の力でちゃんと育っていくようです。

てゆうか、他の教職員がちゃんとしているから、という有力な説もあるけど。

ちゃんとしてない学生は…もちろん完璧な学生ばかりではないのだけれども、それについてはここでは書かないことにしているのであった。

駿河台大学図書館検索システム

公開されてます。(ぼくが作ったわけではありません。提案したのも、ぼくではない。念のため。)

大学入試センター

見つけた。

けんきうする日記書きの会

早くも複数のリンク集に登録されている。 (こことかこことか…2つだって複数だ。)

不思議なコミュニティー、というか、アドホックでなくなりつつあるアドホックカテゴリー?

なお、日本web日記学会は東北大学後藤斉氏の国内人文系研究機関WWWページリストにも登録されています(このあたり)。

あなたの借金、私の借金

どうやら刻一刻と増え続けているようですね。

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1/25

「ネット恋愛」

以下がぼくの答えです。

その1: その2:
A)彼女と彼はネット恋愛カップルである。 A´)彼女と彼はネット恋愛カップルである。
B)ネット恋愛カップルはカップルである。 D)ネット恋愛カップルはネットに依存して成立し、なおかつ下記あ)い)う)のいずれかに該当するような関係にあるカップルである。
C)→彼女と彼はカップルである。  E)→彼女と彼は下記あ)い)う)のいずれかに該当するカップルである。

注:
ここでは

B)ネット恋愛カップルはカップルである。

にこれ以上言葉を付け加えたくない。

B’)ネット恋愛カップルも立派なカップルである。

B’’)ネット恋愛カップルだってカップルである。

としても間違いではないし、こうした方が面白いかもしれないし、しかもそれなりに考える価値もありそうだけど、でも当初ぼくが意図していた話とは別の話になる。
(説明は略。)

「その2」のD(の、特に後半)はここでは社会的なステレオタイプ。「ネット恋愛カップルとは実際にはどういうカップルか」とはいちおう独立です。

このDがステレオタイプとして世の中にはびこっている状況で(あるいは、はびこらせようと画策している人の作った状況の中で)「ネット恋愛」という言い方をすると、たとえ「知り合うきっかけがネットだった」ということ以外にはネットとの関係が全然ない(つまり あ)や い)や う)には全く該当しない)カップルであっても、 あ) や い) や う) に該当すると思われてしまうということです。

ぼくが当初言いたかったのはこれだけ。

以下はおまけ、というか当初考えていたこととはずいぶん違う話になるのだけれど、書いちゃいます。

「ネット恋愛」というものは普通の恋愛とは何かものすごく違うものであるに違いない。

と思われてしまいがちなのは、「ナンパ恋愛」「合コン恋愛」「同級生恋愛」「幼なじみ恋愛」エトセトラという表現がない(「社内恋愛」「部内恋愛」みたいに「〜内恋愛」はあるけど)状況で「ネット恋愛」という表現だけがあるせいなのかもしれません(有標性ってやつ)。

何だか

ちょっと書きすぎたかも。

「バブル」について

バブル経済の時代に「バブル経済」という表現があったかどうか、あるいは「今はバブルだ」という認識が一般の人にあったかどうか、よく覚えていないのですが…(1920年代のアメリカ経済になぞらえた議論もあったかどうか、それも覚えていません。)

でもたとえば神話は崩壊するまで神話だとは気づかれない(「神話」と呼ばれない)ものだったりします。(ちなみに、世の中には何回も崩壊を繰り返している神話もあるような気がするのですが、ああいうのは本当に神話なのかしら。)

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1/23

いつのまに?

ふと気がつくとけんきうするニッキヨミの会の会員に迎えられていた。けんきうらしい研究なんてもうずっとやってないような気がするんだけど、ま、いいや。キワモノは「人妻」で打ち止めの予定だし。

実はぢょしゅとほほ日記(1/7)毎日の記録(1/10)からのリンクについては以前からちゃっかり把握してました(毎日の記録(1/7)も)。

日記猿人なんて俺の趣味ぢゃねえ!とおほざきになられたのはどなたでしたっけ? どうやら猿人系をはるかに行き過ぎて立派な廃人系におなりのようです。)

以下に、くりすさんがらみのお話を書きます。(「くりすさんがらみ」というのは意図してそうなったわけではなく、前から書こうと思ってたことがたまたま重なったのであった。)

三段論法とプロトタイプ・ステレオタイプ

まず、次の二つの三段論法を考えてみよう。

その1: その2:
あ)カオルは母親である。 え)運子は次郎の母親である。
い)母親は女性である。 お)母親とは子どもを産み、かつ育てる女性である。
う)→カオルは女性である。  か)→運子は次郎を育てた女性である。
「その1」の「カオル」は時制の違い(「育てる」 vs. 「育てた」)はirrelevantなので無視。
男女両方にある名前。「その2」の名前が下品なのは、実在の人物との一致を避けるため。

「その1」は「カオルは母親である」から、「カオルは女性である」という結論を引き出そうという推論。その際、「母親は女性である」を参照している。

「その2」は「運子は次郎の母親である」から、「運子は次郎を育てた女性である」という結論を引き出そうという推論。その際、「母親とは子どもを産み、かつ育てる女性である」を参照している。

「その1」はおそらく正しい推論であると言えるが、「その2」は推論としては正しくない。次郎が産まれた直後に運子が植物状態になってしまった とかいうこともありうる。この違いはどこから来るのだろう。

一方で、「その1」は推論としては面白味に欠ける。このような推論をしたからといって、「カオルについて何か新しいことが分かった」という気持ちにはなりにくい。「あたり前じゃん」「くそ面白くもない」「だから何だっつ〜の」という感じ。それに対して、「運子は次郎の母親だ。ということは、運子は次郎を育てた女性でだ」という「その2」は、何となく魅力がある。「もし本当にそうだとしたら面白いね」という感じで、少なくとも「その1」に較べればはるかに当該の人物について「何か」を捉えたような気になる。この違いはどこから来るのか。

「その1」のつまらなさについてはさらに解説が必要かもしれない。「女性だから…だ」という形で先に進めばいいじゃないか、と思われるかもしれない。が、この場合、新たに参照すべき命題として「女性とは〜である」というものが必要になる。
結局、「女性だから…」という形で先に進むということは、「カオルは女性である」を新たにあ)とするか、それともえ)にするか、の選択をすることでしかない、ということになる。

問題は「その1」のい)「母親は女性である」と「その2」のお)「母親とは子どもを産み、かつ育てる女性である」がどう違うかにある。

い)「母親は女性である」は上位概念に言及している。上位概念に言及するということは、その記述がすべての事例に関して成立するということである(「すべての母親は女性である」と言える)。その代わり、「母親らしさ」を捉えることを放棄した記述でもある(母親でなくても女性でありうる)。

ということは、現実問題としては(Sweetserのいうcontent levelの話としては)、

う)「カオルは女性である」あ)「カオルは母親である」に依存せずに成立してしまう

ということである。だから推論「その1」はつまらなくなる。本人が目の前にいず、文字情報が書かれた書類だけを目にしている場合ならいざ知らず、本人が目の前にいる場合などは、「女性であるかどうか」は「母親であるかどうか」よりも先に分かるものだろうと思う。

他方、「その2」に出てくるお)「母親とは子どもを産み、かつ育てる女性である」「母親らしさ」を捉えようとしたものである。だからこれを参照することによってえ)「運子は次郎の母親である」からか)「運子は次郎を育てた女性である」という結論を引き出すことにはそれなりに意味のあることのように感じられることになる。

しかしながら皮肉なことに、「××らしさ」を捉えようとした記述がすべての「××」について成り立つということは、あまりない。「××」概念が日常的なものであり、なおかつ提案された「××らしさ」の記述が普通の人々の普通の感覚にぴたっと当てはまるものであるような場合は、特にそうである。このような場合、提案された「××らしさ」の記述は、「より××らしいと感じられる××」(××のプロトタイプ)以外にはぴたっと当てはまらないことが多い。

また、「××らしさ」を捉えようとしたもの何らかの根拠に基づいて反省的に構築されたものではなく、無自覚で漠然としたものにとどまっている場合もある。その場合、それは「××」についてのステレオタイプに過ぎないものになる可能性もある。その場合も、すべての××について成り立つとはとても言えない。

すべての××について成り立つといえないものをもとに推論を行えば、結論の正しさは保証されなくなってしまうのだ。

お)「母親とは子どもを産み、かつ育てる女性である」の「子どもを産む」と「子どもを育てる」はいずれも母親の典型性条件である。プロトタイプ的な母親とステレオタイプに合致する母親はいずれもこの両者を満たす。が、すべての母親がこの両者を満たすわけではない。だからこれに基づいた推論は、正しいという保証がないことになる。

ということで、「その2」のタイプの推論は

それじゃあ「その2」のタイプの推論はやってもしようがないかというと、そうではない。か)「運子は次郎を育てた女性である」が正しいかどうかを実際の運子を調べることによってチェックすればいいわけである。「正しい」という結果になればめでたしめでたし。正しくない場合には、 え)「運子は次郎の母親である」お)「母親とは子どもを産み、かつ育てる女性である」を見直す。え)が違う場合は論外だが、そうでない場合には、

お)「母親とは子どもを産み、かつ育てる女性である」が成り立たない場合もある。運子はそのような事例なのだ。

ということを、事実として受け入れる他はない。

以前、

名前をつけた途端に、それだけで何もかも分かってしまったような気分になることって、結構ある気がする。こわいことだ。

と書いたときに念頭においていたことをきちんと書くと、ここまで書いてきたようなことになるのであった。

そんでもって

どこがくりすさんがらみかというと、1998-12-24なのであった。

例のソフトハウスからまた

ダイレクトメールが来た。日本語入力ソフトのバージョンアップの案内。

ぼくの自宅の郵便番号は相変わらず間違ったまま。

ぼくの自宅近辺にあのソフトのユーザーがいて、なおかつ間違いに気づいて、なおかつその会社に連絡する、ということでもなければ永久に直らないのだろう。わざわざぼくの方から連絡するのも、ねえ。

新しく日英翻訳機能がついたらしい。が、例として挙げられている英文が変。大学受験レベルの間違い。

(百歩譲って「間違い」と言うのはやめるとしても、「サンプルとして挙げるべきものではない」と断言できる程度には、変。)

だからといって即この翻訳プログラムに問題があるということにはならない

(間違いの責任はパンフレットを作成した営業担当者 and/or 外注の印刷業者にある、という可能性大)

のだけれども、でもあまり印象よくないのであった。

情報処理学会謎のページ

論文誌のアブストラクトを載せるページなのだが、なぜ去年の7月号までの分しかないの? こういうのは本当はハードコピー版が出る前に公開するくらいでも早すぎないと思うのだけれど。

ホームページなんて結局大したことはできない、ということをホームページに関わる学会がみずからの行動で示しているようなものである。

自分たちが書いた奴(1998年9月号)が載らないので文句を言っているだけ、という噂、あり。

それはいいとして

ぼくらの多義構造についての研究の自己評価、気が向いたらそのうち書きます(気が向かなかったら書かないかも)。

(というかじつはとっくの昔に書いてるんだけど、公開していいものかどうか、ずっと迷っているのであった。)

日本英語学会

もう長いこと、つながった記憶がない。

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1/19

『駿河台大学ニュース』50号

が配布されたので、ぼくが書いたもの(あとから依頼があって先に提出したエッセイ)を公開する。大学関係のものなので、研究室に置くことにする。

思うところあって、タイトルを変更した。今見直すと、かなり変。

同じ号の1面に別の英語教員が文章を寄せている。ぼくの屈折ぶりが際立っている感じ。ま、いっけど。

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1/17

疑問その1

「日記(の類い)は毎日つけるべきだ」

という考え方が世の中にはあるような気がする。だが、「毎日!」の根拠は一体何なのだろうか。そもそも根拠などあるのだろうか。

仮に根拠があるとして、それはWeb日記(という、「日記」のプロトタイプとは言えそうにないもの)にも当てはまることなのだろうか。

「更新が滞ってしまって…」

みたいな自責の言葉を目にするたびに、感じる疑問である。なぜ、更新の間隔が開いてはいけないのだろうか。

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1/16

センター試験

今年度は1月16日はそもそも出講日ではないなどと呑気なことを言ってられる場合ではなかった。ぼくが監督に出るのは17日だけど。

イトコのうち二人が、どこかの会場で受験しているはず。また、駿河台大学会場には、ぼくの出身高校の生徒たちが大挙して受けに来る。ぼくも昔は受験生だったのだが、彼らから見れば今のぼくは監督者なわけで、この立場の違い、当たり前とはいえ、気持ち的には何か妙である。

「「人妻」について」の抜刷寄贈第一号は現代文化の一年生

テーブルの上に無造作に置いておいたら、いつも来る学生が発見して持っていった。

その他にも何人かの学生が持っていった。「サインして」というリクエストはさすがに却下。

バブルではないただの猿人系、ふたたび

どうやら1月7日のぼくの読みは思いっきり外れたらしく、あれ以後、13日あたりまでほぼ同じペースのアクセスが続いた。ここまで続いてしまったら、きっとバブルではないのだろう。というか、これをバブルと言ってしまうのは来てくださった方々に対して失礼、という気がする。

というわけで、バブルという表現は以後使わないことにする。

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1/14

セリーヌ・ディオンのイーオンのコマーシャル

「フランス系カナダ人」の発言としては、あのコマーシャル、なにげに大胆という気がする。

それとも、今のカナダ(あるいはケベック)って、ああいうことが平気で言えるような雰囲気になっているのでしょうか。

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1/10

よくある質問その1

学生: 本多先生は、年はいくつなんですか?

1996年度の答え方

切りのいい数字ということで、30ということにしておきます。

1997年度の答え方

去年自称30歳だったので、今年は順調に年を取って35歳ということにしておきます。

1998年度の答え方

ぼく: いくつに見える?

学生: う〜ん、××歳。

ぼく: ぴんぽ〜ん。

学生: え、うそ、ほんとに?

ぼく: うそ。

有力な説?

「いくつに見える?」と聞いた時の学生の答えを分析すると、「現役で大学に入ってそのあと順調に修士課程に進んで2年で出てすぐにこの大学に就職して…」と計算しているらしいことが分かる。

読んで面白い辞書はよい辞書か?(途中まで)

誰が言い出したことかについては全く知らないのだが、世の中には

「辞書を読む」ということは、高尚な趣味である

という見方がある。ここで「読む」は「引いて調べる」と対比されている。つまり、辞書を、別の何かについて調べるための付随的な道具として捉えるのではなく、それ自体を知的な興味の対象と捉える、ということである。

ま、これはこれで構わない。だが、勢い余って

「引くだけ」の辞書はつまらない

という見方に発展することもある。これはまたこれで一向に構わないのだが(ちょっとしつこい系?)、さらに暴走して

読んで面白い辞書は、良い辞書である

という見方にまで展開してしまいかねない勢いが、世の中にはある。言語学の、それも意味論(に関係あること)をやっている人の中にも、そのように解釈されかねないことを言う人がいる。でも、これは本当なのだろうか。読んで面白い辞書は、本当に良い辞書なのだろうか。それについて考えてみたい。

まずこれはいつものパターンだが、この問い自体がこのままでは漠然とし過ぎている。

第一に、「辞書を読む」というときに、具体的には何を読むのか、という問題がある。意味記述(いわゆる「語釈」)? 用例? 語源解説? ちょっと長めの、文章形式の、解説文? 全体の構成(あの単語については詳しく書いてるけど、これについてはいい加減にしか書いてないなんて、この編者、何か変な人だね、みたいなレベルの話)?

とりあえず、ここでは主に意味記述を考える。

次に、「良い」という表現をどのように解釈するかという問題がある。たとえばこの表現の解釈として、、

ある目的に適っている(ある機能を十分に果たす/あるアフォーダンスが容易に抽出できる)ものは、「良い」といえるものである。

というのがありうる。この解釈のもとでは、次のように言うことができる。

辞書に「読んで楽しむ」というアフォーダンスを求める人にとっては、読んで面白い辞書は、「読んで楽しむ」という行為を可能にしてくれる限りにおいて、良い辞書である。

ところが、「良い」を

学問的にみて、完成度が高い。

と解釈することもできる。その場合には、さっきと全く異なる評価が出る可能性がある。

ここでは、この後者の解釈に基づいた場合に、「読んで面白い辞書」にどのような評価が下されるか、を考えてみたいと思う。つまり、

読んで面白い辞書は、良い辞書である
と言えるかどうか

という問題を、

意味記述を読んで楽しめる辞書は、学問的に見て完成度が高い辞書である
と言えるかどうか

というふうに解釈し直して、この後者の問いについて考えてみようと思う。

この問いは、次の問いとつながっている。

辞書の意味記述欄に書く意味とは、そもそもいかなる性質のものか?

それは果たして、(一般の人にとって)読んで楽しめるような性格のものか?

これの前半は、もろ辞書論/意味論の話である。(結構こわいかも。ま、いいか。)

まず、前者の問題、すなわち「意味とはいかなるものか?」について考える。(前にも書いたが、これはぼくの立場では「意味の意味を考える」ということとは別である。)

以下後日。

このページに関してまたメールをいただいているのだけれども

まだお返事を書いていない。

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1/9

学歴と人間性

学歴と人間性は関係ない

といわれることがある。そういうのを見るとぼくは思わず

ということは、学歴がない人の中にも人間的にしようもない人がいるということですね

と突っ込みを入れたくなるのだが、でもそんなことを言ってしまったら自分が一番人間的にしようもない奴だということがばれてしまって袋叩きに遭うのは確実なので、はっきりと言葉にすることはない(でも今回ははっきりとメタ言語にしてしまったが)。

「学歴と人間性は関係ない」は、形式論理的には、次のように解釈されるはずである。

学歴がある人の中にも学歴がない人の中にも同じように、人間的に素晴らしい人と人間的にどうしようもない人と両方いる。

しかしながら、「学歴と人間性は関係ない」という発言の通常意図される解釈は、そのようなものではない。むしろ次のようなものだと思う(ちゃんと調べたわけではないけれども)。

世の中には、学歴はないけれども、人間的には素晴らしい人が(たとえばここに)いる。

世の中には、学歴はあるけれども、人間的にはどうしようもない人がいる。

つまり、「学歴と人間性は関係ない」は、日常的には、

学歴と人間性の間には(負の相関)関係がある

と解釈されていると考えることができるわけである。

それでは一体、形式論理と日常的な解釈のこのような ずれ は、どこから来るのだろうか。

この問題に対して、日常言語としての解釈の由来をいくつかの理想認知モデル群(ICM: Idealized Cognitive Models)からなる推論過程に基づいて考える、という形でアプローチしてみたい。

モデルその1:

現代の日本は、学歴社会である。すなわち、人を評価するうえでの(唯一)最大の基準として、学歴が採用されている。
これはあくまでもICM、つまりIdealized Cognitive Model、つまり日本社会についてのステレオタイプみたいなものであって、実際に日本がそのような社会であるかどうかということとは必ずしも一致しない。また、ぼく自身の日本社会観とも一致しない。以下、すべてのモデルに関して同じ。
(というのは認知言語学者を対象としたページでは言わずもがなの注記のはずなのだが…)

モデルその2:

しかし、人を評価する際の基準になりうるものは、実は学歴だけではない。学歴以外に、たとえば人間性なんてものもある。

モデルその3:

学歴と人間性の間に相関関係があるかというと、そうではない。

したがって、学歴に基づく人物評価と人間性に基づく人物評価とが同じ結果になるわけではない。

モデルその4:

学歴と人間性とどちらが重要かといったら、もちろん人間性に決まってる。

モデルその5(というか結論):

だから、学歴(だけ)に基づいて人を評価するのは、けしからん。もっと人間性を重視すべきである。

この推論過程のうちのモデルその3の前半部分を日常的な言葉で言ったものが 「学歴と人間性は関係ない」である。

「学歴と人間性は関係ない」という発言から日常的に導き出される推論が、論理上可能な

1)世の中には、学歴があって、人間的にも素晴らしい人がいる。

2)世の中には、学歴がなくて、人間的にもどうしようもない人がいる。


3)世の中には、学歴はないけれども、人間的には素晴らしい人がいる。

4)世の中には、学歴はあるけれども、人間的にはどうしようもない人がいる。

のうち、あとの2つに限られるのは、あとの二つが「学歴と人間性の間に相関関係があるかというと、そうではない」(=モデルその3の前半部分)の積極的な根拠になるのに対して、最初の二つはそうではない

モデルその3の前半部分と矛盾はしないけれども積極的な根拠とはならない。そして逆に「相関関係がある」ということの根拠と取られる可能性がある。)

ということによるのだと思う。

そしてそこの部分から「上澄みだけをすくう」みたいなやり方で皮相的に一般化命題を取り出すと、

「学歴と人間性は関係ない」は、日常的には、

「学歴と人間性の間には(負の相関)関係がある」

と解釈されていると考えることができる

となるわけだ。

利息の現物支給

家族の勧めというか、依頼にしたがって年末に某信用金庫で新規の定期預金口座を開いたら、皿をくれた。一年後に利息としてもらえるはずの金額より、高そう。何だか妙である。

実はこれはこれで二回目。実はうちの家族はこれが目当てで、毎年のようにぼくに小額の定期預金口座を作るように言う。したたか、というべきか、いじましい、というべきか。

電話一本でわざわざ家まで来てくれる信用金庫の営業担当者氏も、すごい。

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1/7

猿人系バブル

1/2から1/4まで急用で留守にしていた。4日の夜に戻って、いつもの調子でアクセスカウンタを見て、びっくり。正月で帰省中の人はアクセスできないだろうからカウンターはそんなに増えないはずなのに、このページへのアクセスだけが普段と較べてもずっと多い。一体なぜ、と思いながらいつも読んでるページを順に見ていって、またびっくり。何と見覚えがあるだけでなく、書いた覚えまである表現が目に飛び込んできたのでした。

感想としては、何で知ってるんだろう、という感じ。これには二つ意味があって、一つは「何でこのサイトのことを知っているんだろう?」ということ。もう一つは「何で今回のリンクのことをこんなに早く知ったのだろう?」ということ。

いずれにしても、今回のバブルは6日の昼には治まり、今では原状復帰している(たぶん)。

「雑記」の存廃に関して頂いたメールについて

いずれこのページで詳しい事情を説明するかもしれません。しないかもしれません。とにかくありがとうございました。

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1/6

外国語を知らない人

「外国語を知らない人は自分の(国の?)言葉のことも何も知らない」

とかいうようなこと(例によって正確な引用ではない)を言ったのは確かゲーテだったと思う(例によってうろ覚え)。

この発言について

本当にゲーテ?の言う通りかどうか、考えてみよう

などとはこれっぽっちも思わない。理由は二つ。一つは、ぼく自身がそのような試みに興味がないということ。もう一つは、今のところそのような試みにはほとんど意味がない(根拠は後で述べる)ということである。

でも、というか、実は、このゲーテ?の箴言に関して

「外国語を知らない人は母語について何も知らない」

から

「外国語を知っている人は母語についてそれなりに/よく知っている」

という結論を導き出すことはできない。

とか

実際、現代日本語の母語話者の場合、外国語に詳しい人がそうでない人よりも日本語についての知識がしっかりしているかどうかは疑問であり、そもそも日本語についての関心が深いかどうかも疑問である。

とか

そればかりではなく、このゲーテ?の発言を好んで引用したがる日本語の母語話者がしっかりした日本語についての知識をもっているかどうか、そして日本語についての関心が深いかどうか、それすら疑問である。

とか

「外国語学習の目的は母語についての理解を深めることである」

と思っているわけでもない人々がこのゲーテ?の発言を持ち出すのはおかしいのではないか。

とか

このゲーテ?の発言を好んで引用したがる人は結局

「(だから)外国語を勉強しましょう」

と言いたいだけであって、母語はそのためのだしにされているだけ。これでは母語がかわいそうだ。

とかというようなことをとうとうと論じようと思っていた。でも書いているうちに何がなんだか分からなくなってきたのでそれはやめることにして、このようにポイントの羅列だけで済ますことにした。

それはともかく、このゲーテ?の発言にかなりのインパクトがあるのは間違いない。そのインパクトは、どこから来るのだろうか。

ぼくの見方では、要因は二つある。一つは、次のような認知モデルである。

私たちは、母語は自由に使いこなすことができるが、外国語はなかなかうまく使いこなすことができない。これは、私たちが母語についてはよく知っているが、外国語についてはよく知らないということである。

ゲーテ?の発言は、このモデルに真っ向からchallengeするものなのだ。

もう一つは、「知っている」ということの多義性、ないしは知識というものの多層性。普通の日本語話者が「日本語を知っている」というときの「知っている」とは、大雑把に言って

頭の中に日本語についての何かがあって、それを「読む」「書く」「聞く」「話す」(など)という形で運用することができる、つまり、日本語についての技能(スキル)をもっている

ということだろうと思うのだが、ゲーテ?が「自分の言葉について何も知らない」というときの「自分の言葉について知っている」とは

自分の言葉(についての知識)の構造を反省的に意識(conscious)することができ、あわよくばそれを言語を用いて記述することができる

ということである。これが認知科学で言う「手続き的知識」と「宣言的知識」の区別に対応するかどうかは分からないが、

むしろ、認知とメタ認知の区別か。1999/1/26 15:35

とにかく、「知っている」ということは一枚岩ではない。さらに重要なことは、われわれは普通この知識の多層性を反省的に意識してはいない。ゲーテ?はここに付け込んでいるかたちになる。

この二つの要因が絡まったところから、あの発言のインパクトが生まれるのだと思う。

ちなみに、冒頭で述べた

本当にゲーテ?の言う通りかどうか考えることには、今のところほとんど意味がない

というのにはこの後者の要因が関わっている。つまり、

本当にゲーテ?の言う通りかどうか

という問題は

このゲーテ?の発言に現れる「知っている」はどのような意味で使われているのか

という問題と切り離せないものなのである。

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1/1(特別号〜分量的にも、内容的にも〜)

いちおう、新年

年のうちに春は来にけりひととせを去年(こぞ)とやいはむ今年とやいはむ

(在原元方、古今和歌集巻第一、春の歌、上)

(森雄一氏@茨城大学のご教示による)

あの時コピーしたのはこの歌だったのだ。

今年の大学の仕事はまだ終わっていない。

時限爆弾方式

かつて(1997年の4月)、「認知科学・認知言語学のページ」というものをはじめたとき、

遅くとも1997年8月までに成果の検討をする。その時点で意味がないと判断された場合には、8月31日をもってこのページを閉鎖する。

という方針を立てた。今から思えば5か月というのはちょっと短かすぎだったかもしれないが、とにかくその方針は実行に移され、その結果「認知科学・認知言語学のページ」はファイルもろとも8月31日に消滅した。

このように、「やめる(かもしれない)日をあらかじめ設定しながら何かを運営する」ことを、ここでは「時限爆弾方式」と呼ぶことにする。何にせよ、無闇矢鱈続けていればいいというものではない。存続させるだけの価値がなければ存続させても仕方ない。特に、存続させることだけが目的になってしまった企画は、さっさとやめてしまうに限る。時限爆弾方式だと、自分のやってることをそのような観点から見直すことができる。というわけで、これは結構いいやり方だと、自分では思っている。

(このアイデアのもとも確か板倉聖宣氏。『たのしい授業』の(初期の?)方針として、刊行を続けるかどうか毎年年度始めに考えるというのがあるのだ。)

そしてこの「雑記」にも、時限爆弾方式を導入する。期日は1999年2月10日。この雑記をはじめてちょうど一年目の日である。それ以後この「雑記」を続けるかどうか、この日までに考える。ただし仮にやめるという結論になった場合でも、この一年の間に書き溜めたファイルは残す予定である。この点が「認知科学・認知言語学のページ」のときと違う。

「雑記」をめぐる一問一答その1:(実際にあった質問編)

だれが読んでるか分かるんですか?

だれが(というより、どのIP address/hostnameの機械から)アクセスしたかは分かりません。

口頭やメールで確認できたのは…

これ読んでるだけだと、大学教員って、楽しそうですね。

(某大学教員)

そう思ってくれるとうれしいです。書いてあることは事実です。

基本的に針小棒大モードだけど。まあ、あることあること書き散らしているわけです。

頻繁に更新しているようだけど、大変じゃない?

他の仕事をやるよりは楽しいので、つい。

(「他の仕事」って…、これ仕事かよ?、と、自分に突っ込みを入れるぼく。)

リンクをはっている人は、お友達ですか?

ぼくには相互リンクとかお友達リンクとかいう発想は基本的にはないので、友人かどうかとリンクを張るかどうかはぼくの場合まったく別です。一度も会ったことのない人のところにリンクはってたりもするし。

ホームページ作成ソフトは使ってるの?

使ってません。よけいなタグが入るのが嫌なんです。

(TeX使いはタグ付きのファイルには慣れているから、手作業でタグを入れるのも苦にならないのさ、というのはひとり言。)

画面を思いっきり狭くしても横スクロールしないで済むのがこのページの自慢です。

(って、もともとHTMLってそういうものじゃなかったっけ、というのもこれまたひとり言。)

心理学の本の翻訳、終わって良かったですね。

(1998年7月11日の認知言語学フォーラムのときに一年ぶりくらいにあった某言語学者)

ありがとうございます。

(いきなり言われてびっくり。一瞬何の話か分からなかった。例の本はほんとは1997年の秋に出るはずだったのだが、実はまだ出てないというのは、年末にちらっと書いた通り。)

本多さんの個人ページを読んでる学生が、「本多先生って、大胆ですねえ」って言ってたよ。

(このページを読んだことはないが存在することは人から聞いて知っていた教員からのコメント)

え?

(どういう意味で大胆なんだろう、というのはひとり言。)

本多先生って、現代文化のホームページを作っただけではなくて個人のページを持ってるんですか?

(このページを読んだことがない人からの質問)

(返答はその場の状況によって変わる。)

本多さんの個人ページは、サーチエンジンで見つかりますか?

(このページを読んだことがない人からの質問)

見つかります。

(でもyahooではだめだったりする、もっと暴力的なサーチエンジンじゃないと、というのはひとり言。

しかもロボット系サーチエンジンで見つかるのはトップページだけであって、それ以外のページ(たとえばこの雑記)にはサーチエンジン除けのおまじないをかけてある、というのもひとり言。)

本多さんの日記は駿大の公然の秘密。

(某同僚の発言)

げろげろ。

「女性の権利と学生の権利」、面白かった。

(このページを読んだ同僚の感想)

…!

ところで、自分の科目の期末試験で「解答せよ」でもなく「解答しなさい」でもなく「解答してください」と書いてしまうぼくって、やっぱり変ですか?

ドラえもんの話術/発想」が面白かった。

(ある言語学者の感想。人づてに聞いた。)

どれを面白いと思うか、人によって違うようですね。当たり前といえば当たり前だけど。

PUFFYとT.M.R.」が面白かった。

(ある言語学者の感想)

同上。

「雑記」をめぐる一問一答その2:(仮想対話による回顧編)

はじめたきっかけは何ですか?

ぼくのサイトにはリンク集がないし、リンク集を作る予定もなかったからです。

それはどういうことですか?

リンク許可依頼に対して

「リンクなんて張ろうが張るまいが勝手だと思ってるので、ご勝手にどうぞ」

という内容の不躾な返事をした(でも自分の考えをきちんと書こうとするとああなるのであった)わけです。

でもってまあ、相互リンクを依頼されたわけではなくて単にリンク許可依頼をされただけなわけで、だからそのまま何もせずほっておいてもよかったんですが、でもまあ、そういうことだったらこちらからも張っても悪くはないかなと。張り方はいわゆる「リンク集」とは違うけど。
それがやがて身辺雑記になったのですが、すぐに性格が変わりはじめてそれがはっきりしたのが「わかりにくい地図の話」あたり。そして目次を作った段階でそれが確定して、そして今に至っているという感じです。

ここまで続けてきたのはなぜですか

理由はいくつかあると思いますが、一つは、固定読者がついてくれた、ということです。これは奇跡的なことでした。「雑記」については全く宣伝をしなかった(口頭でも誰にも言わない、サーチエンジンにも自分からは登録しない、メールのシグニチャにはindex.htmlのアドレスは載せてるけど、このページのことは触れない)のですから。

どのくらいの固定読者がいるのですか?

「あなたは誰ですか?」を書いた時点での推定固定読者は、実は「2人」です。ほぼ毎日アクセスされていた方と、週一回程度の方、というのも両方とも推測ですが。

「あなた方はどなたなのですか。」と書いておいたらお一人からメールを頂きました。一度もお会いしたことのない方でした。

また、関係あるのかどうか分かりませんが、同じ頃、抜き刷りの請求がありました。こちらもお会いしたことのない方でした。

今では、人数は分かりません。アクセス数は1998/12/31 19:23現在で1998年11月の雑記が184、12月分が121です。(ただし、lynxなどテキストモードのブラウザでの参照はカウントされていません。)

なぜ、この時期になって突然やめようと思ったのですか。

その話はまた後日ということで。それではまた。

文化現象としての暦と年齢

年の初めに暦と年齢の話を書く。この日にあわせるつもりだったわけではなくて、単なる偶然。

まず、『たのしい授業』1999年1月号 pp. 104-111(「はみだしたの」という欄外投稿欄)から、禁断の?全文引用。(「などより)」まで含めて全部が引用である。)

『たの授』98年11月号(No.203)「『日本歴史時図』の紹介」にでていた、「旧約聖書の年代記の寿命が異常に長い」という問題については、古代史研究者の古田武彦氏によって次のような分析がなされているようです。アダムなど、900歳以上の人々=24倍年暦。月の「満ち」「欠け」で2才。だから実際には「900÷24」で、38歳ということになります。セムなど400〜500才の人々=12倍年暦。月の「満ち欠け」で1才。だから500才は実際には42才。---つまり、何種類もの暦=異種の文化文明の産物を混合させた編集物が、『旧約聖書』とのこと。また『古事記』『日本書紀』の古い時代は2倍年暦(1年で2才)が使われていたらしいです。(明石書店『神の運命』、原書房『古代通史』などより)

さて、ぼくがここで何を問題にしようとしているか、つまりぼくが何に違和感を感じているのか、分かります?





いきなり答えが見えちゃわないように、スペース取ってます。

(と言ってもlynxでは一行空くだけなのであった。)
































さてそろそろいいでしょう。それではどうぞ。

気になった表現とは、「実際には」。この表現があの文章であのように使われているということから、あの文章を書いた人の概念構造を推し測ることができるような気がするのだ。

(以下、一見揚げ足取り風のコメントになること間違いなし。でもこれについては後で言い訳します。)

だがその前に、まず「暦」について考えておく必要がある。

暦というのはculture-specificなものである。それを意識してのことだろう、Niftyには書き込みの日付の表示を

「平成 10(1998)(2541)(2658)年12月27日日曜日」

のようにする人がいる。これは、その人によれば、

平成 10(1998)(2541)(2658)年12月27日日曜日
  ↑ ↑  ↑  ↑
 和暦 西暦 仏暦 皇紀

ということである。

そして、年齢は暦にしたがって数えるものである。したがって「ある人が何歳であるか」もculture-specificに決まることになる。上の引用の例で考えると、

セムの暦で500才の人は、我々の暦(太陽暦の一種)では42才

となり、同時に

我々の暦で42才の人は、セムの暦では500才前後

となる。

さて、問題の「実際には」だが、上の引用文中でのこの表現の使われ方から推測すると、次のようなことが言えそうなのである。

自覚していないとはどういうことかというと、我々の暦で42才になる人に関して、セムの人々だったら

「あの人は記録上では42才だが、(それは暦が我々と違うからであって、)実際には500才だ」

と言う可能性があるということをこの人はおそらくは認識していない、ということである。

この人には

我々現在が使っている暦は、いろいあろある暦の中の一つに過ぎないのかもしれない

という反省が欠けているわけだが、そのような人が「何種類もの暦=異種の文化文明の産物」という言い方をしているのは、ちょっと皮肉なことのようにも思える。

一見揚げ足取り風の営みとしての言語・思考(・文化)論

(上で約束してあった言い訳)

言語の背後にある普通の人々の普通の思考のあり方(ひいては文化の構造)を明らかにするという営みは、普通の人々が違和感を覚えることもなく、したがって特に意識することもなく、ごくごく普通に使っている表現を対象とせざるを得ないものである。

(上の「実際には」だって、言われてみるまでは気がつかなかった、という人が(このページの読者はどうか分からないけど一般社会には)たくさんいると思う。)

そのようなものを改めて取り上げてごちゃごちゃと論じるのが仕事であるならば、「揚げ足取り」「些末」という印象をもたれるのはやむをえないことだと思う。

意外に短い冬休み

「年末は31日まで営業、新年は元旦から営業」

(近所の書店)

切れないところに無理矢理切れ目を入れてるのね。

「今週は(または、今週も)通常通り営業」

って書いたら普通の人々はどのように反応するんだろう。

「こんなこといいな」

またもや「ドラえもんのうた」の話。この歌の冒頭は

「こんなこといいな、できたらいいな、あんな夢こんな夢いっぱいあるけど」

なのだが、これを

「あんなこといいな、…」

と覚えている人が結構いるようである。(ぼくもちょっと前までその一人だった。)

で、どうしてこういうことになるのだろう。

Web日記のintertextualityふたたび

内容や語彙だけでなく、文体の影響関係が見えることもある。たとえば この人(非常にいい文章を書く人である)の1998-12-30の「ネット人の主張」という文章に出てくる

とりあえず今日は昼まで寝た後、まずした事は、年末大掃除でも買い出しでもなくゲーセンでのDDRだったというのは、この先ますます刹那的になりそうな来年を象徴していてなかなかいいかもしれません。

という部分は、まるでこの人の文体である。

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