ニュースによく出てくる表現。「不審火の可能性もある」って、文字通りに解釈したら、よく分からない言い方だと思う。
昔、生成文法の人とよくいっしょに行動していた頃、「世界をGB理論モデルで解釈する」というのが仲間内での確立した冗談の技法になっていた。具体的に言うと、「○○が××をgovernしている」だの「○○が××をc-commandしている」だのというような言い方をよくしていた。
大学の同僚と話すときには言語学のテクニカルタームを織り交ぜても分かってもらえない。そこで、別の手を使う。その手とは、語用論をもてあそぶ、というもの。 たとえば…
本多:
○○さんから頂けないんだったら、事務局の△△さんから頂きます。△△さんには、「○○さんには話をしてある」って言っておきますから。
○○さん:
なにそれ?
本多:
「○○さんの承諾を得ている」って言うわけではなくて、「○○さんには話をしてある」って言うだけです。承諾は得てないけど、話をしたのは事実だから、嘘をついたことにはならないでしょ。
このタイプの冗談、一応相手を限定して言っている(つもり)。言葉が伝える内容ではなくて、言葉そのものと戯れることを面白がる(振りをしてくれる)人でないと、「本多は言葉じりにこだわる奴だ」という話になってしまう。
あれ以後、ネームプレートはそのまま。どう見ても他の部屋とは雰囲気が違い、おまけに鉛筆書きなので、薄くて見づらい。その、後日談。
その1
警備員さんに不審がられてしまった。悪質ないたずらと勘違いされたらしい。 これは、その場で誤解を解いて終わり。
(その他にも、学生が書いたイラストだの何だのをドアにべたべた張ってあって、こちらは学生からも不審がられているようで、「どうして先生の部屋はこういうかわいいのが張ってあるんですか?」と聞かれてしまった。)
その2
学生に書類を取りに個別に研究室に来るようにといってあった日のこと。ドアのところで何人かの学生と話しながらふと見ると、別の学生が廊下を走りまわっている。その人もぼくのところに来るはずの人なので声をかけると、やっぱり来た。ネームプレートが目立たないので、ぼくの部屋がどこか分からなかったらしい。
場所が分からないのはやはり困るので、年明け早々にも元に戻す予定。
模範解答:
あのあともリクエストがきているのだが、まだ渡していない、というか、作っていない。う〜ん。どうしようかなぁ。
時事英語:
今年度は春学期は例の教科書を使ったが、秋学期は別の教材を使用した。来年度は当初はちょう薄の教科書を使う。真面目にやって早く終わったら別教材を使う。
これは時事英語に限った話ではないが、頼んでもいない本の見本を次々と送ってくれる会社もある。大学に送られてくる限りでは別に迷惑ではないが、ありがたくもない。(家に送られるのは場所ふさぎ。)いずれにせよ、しわ寄せが値段の上昇という形で学生に行くことになる。
ついでに英作文:
来年度はメインの教科書も補助教材も今年とは違うものにする。
う〜ん。
授業アンケート
う〜ん。書くのは試験が終わってからにします。
う〜ん。
「文構築の相互行為性と文法化」:
う〜ん。
u-tokyo.ac.jpドメインではなくて、学術情報センターであった。
Netscapeの英語版では
You may cancel or continue this submission.
であった。
正式に設置許可が下りた。
学内のある団体のホームページの仮住まいにするということで関係者との話も済んでいる。ぼくの方は設定も済んでいて、あとはファイルをもってきもらうだけ。
それとは別に、自分の授業に関連する資料を掲示するスペースにもするかもしれない。
なお、冬休み中は電源を落としてあるので、アクセスできません。
(翻訳の話)
文学的でない文章の翻訳について一言だけ言っておくと、「日本語訳よりも原文を読んだ方が分かりやすい」という事態が発生する原因について、今つらつらと考えてみたところ、次のようなのが浮かんできた。
他にもあるだろうとは思うけど、とりあえずはこんなとこ。
25日のニュースで出てきた表現。直後に「宅配便で郵送」に訂正された。
それ以上の訂正はなし。つまり、郵便物でなくても「郵送」と言えるということ。
22日のテレビ番組。隠した金を探し当てるゲームでの会話。
元警官
二階には丸々ちゃんが隠したの?
丸々ちゃん
…
元警官
二階には誰が隠したの?
丸々ちゃん
お母さん。
元警官
じゃあ二階にあるんだね。
ナレーションではこれを「誘導尋問」と言っていた。
各単語についてネイティヴスピーカーが発音した音声データがつけられている。買った当初は「こんなの何の役に立つの?」みたいに思っていたが、実は全く役に立たないわけでもないらしいということが分かった。
研究室に学生が来たときに使う。適当な単語を選んで、その発音を聞いてもらう。ホワイトボードに綴りを書いてもらって、意味なども言ってもらう。結構楽しそうにやっている。
なので12/21(月)は通常通り授業をやる。「21日は他の先生は休講で授業は本多先生だけなんですよ」という声もあるけど、規定通り授業をやらない人のために規定に従う人が責められる筋合いはないのだ。(責めてるわけではないのかもしれないけど。)
規定通りにやると、この日は授業時間内に試験をやることになる。成人式の翌日が試験というのは、結構酷なのである。
一昨年はぎりぎりで気がついて手を打った。去年はすっかり忘れていて16日に試験をやってしまった。今年度は1月16日はそもそも出講日ではない。
12月22日から12月26日まで、大学のサーバーが停止するので、大学のアドレスでのメールの受け取りができません。緊急の用事はこちらへ。
水曜1限のこの授業、恐ろしいことに今週が最後だった。あとは試験を残すのみ。
通年の講義科目(しかも今年初めて担当する科目)が一限というのは結構しんどかったが、1限でしんどいのは学生の方も同じで、出席率は 悪かった。その代わり、出てきた人々はほとんどが非常に真面目だった。
この授業で特に真面目にやってくれていた人々のうちの何人かが、来年度ぼくの授業を取ってくれることになっている。嬉しいような、でも「ほんとにぼくの授業でいいの?」と聞いてみたくもなるような…
最後ということで、お決まりの授業アンケート実施。 結果はまだないしょ。
朝一の授業の後はぼ〜っとしてろくな仕事ができない。この日は小会議もなかった。
同じ水曜日の昼休み、食事から帰ってくると、研究室のネームプレート(というのかな?表札みたいな奴)が外されていた。学生のいたずら。
プレートは取り外されて別の場所に置かれ、本来プレートがあるべき場所にはダックスフントみたいなかわいい犬の絵が書いてある紙が差し込んであった。犬の胴体に「本多 啓」と書いてある。
このままでは紛失事件に発展しかねないので、早速処置を講じる。まず、ダックスフントが書いてある紙を外す。そして、プレートを元の位置に戻す。そして、そのプレートを覆うように、ダックスフントの紙を差し込む。ちょっときついが、何とか完了。
ということで、この事件を起こした学生には断固抗議したい。ぼくの足はあんなに短くない。
一年間に配布したハンドアウトの整理など。
学生が数名来る。いつものメンバー。ネームプレート事件の人もいる。かるく英語の勉強をしたり、WWWで芸能人のサイトを検索したり。学生たちがそれなりに楽しそうにしているのをみると、帰らずに待っていてよかったと思う。
学生が二人、同時に質問してくる。一人は英語の単語の話。もう一人は、芸能人の話。聖徳太子じゃないんだから、それだけはちょっと勘弁して。
途中で、仕事から戻ってきたらしい某教務委員長を巻き込む。お疲れのところ大恐縮なのだけれども、でも学生たちが会いたがってるんだしぃ。
わけあってJR(八高線)で帰る。身体的にはいつも使ってるルートよりも楽。でも、この路線のペースで生きる人にはなりたくない、と、かつて12年間埼玉都民生活をした私は思うのであった。
前からぼんやりと考えていたことを、ぼくが考えていた言い方とはちょっと別の形でこの人(12/13)が言っている。
さっき自分で金出して書店で買った。こんなことはじめて。さすがは「国広哲也」である。
って違うか? いや、つながっているような気がする。
別にいつもは金を払わずに書店からとってきてしまうというわけではない。「金を払わずに」というのは確かにそうなんだけど。
ぼくの自宅の近くでは、可燃ごみの収集は月曜と木曜の朝。朝というのがいつのことか考え出すとよく分からなくなるのだが、ぼくは部屋のごみを午前1時前後に捨てにいく。
ちなみに、ほとんど紙ばかりで、腐ったり匂ったりするものはない。まとめて捨てる雑誌類は雨に濡れると重くなるので、雨の日はビニール袋をかぶせる。
目覚まし時計の目覚まし音を自分の好きな曲に設定できるという奴があるらしいが、この「好き」というのは結構問題だと思う。自分の意思で決められるという程度の意味ならいいのだけれども、ほんとに好きな曲を目覚ましにしてしまったら、きっとその曲を好きでいられなくなってしまうに違いない。
ぎりぎりで書いて、何とメールで送った。返事が来てないけど、大丈夫なんだろうか。
タイトルは、「言語の死」。
どうせバルトのぱくりだろう。
と言われたら返す言葉はいくらでもあるが、
どうせこのページのぱくりだろう。
と言われたら正直に平謝りモードになるしかない。
それに加えて、今読み返してみるとどうにもまとまりが悪い。あんなんで、大丈夫なんだろうか。
この、あとから依頼が来た奴の方が配布されるのは早くて、1月中旬の予定。リンクはその時に張ります。
現代文化学部二年生の某さんは真面目でしかも非常にセンスのある学生なのだが、ずっと宿題を出していなかったので、先週の授業中にさりげなく催促しておいた。すると今週、授業の後、まとめて出しに来た。
ぼくが受け取って、何も考えずにその場で見始めると、その人はぼくが持っている用紙を無理矢理机の上に置こうとする。それを気にせず見続けていると
目の前で見られると恥ずかしいから、やめてください。
と言う。そこでぼくの逆襲。
いいじゃん。○○さんはできる人なんだから。
次の瞬間、その人は黙って帰ってしまった。
その人とは一年生のときの必修の授業からの付き合いで、その時からぼくはその人のセンスを高く評価していたのだが、でもその気持ちがいまいち本人には通じていなかったようだった。宿題を提出していなかったのもそのへんに関係があるように思う。それで、「評価しているのだ」ということをいつか何らかの形で伝えたいと思っていた。んでもって先週宿題を催促したときに言おうかとも思ったのだが、ちょっと思うところあって一瞬の判断でそれはやめることにした。
そして今週、ついにこういう形で爆発したのであった。
今週は大馬鹿なミスをやらかしてしまった。幸か不幸かその場で気がついて、冷や汗たらたらモードで訂正。う〜情けない。
具体的にどういう馬鹿なことをやらかしたかということは、書かない。ほんとにしゃれにならないくらい馬鹿なことだから。でも、馬鹿なことをやってしまった、ということだけは書かないと気が咎めるので、いちおう書いておく次第。
(倫理とか法とかの問題ではなくて、喋った内容の正確さの問題。)
この人(98-12-08)はぼくの気持ちを分かってくれそう。てゆうか、ぼくよりすごい。
最初に依頼が来た方、とりあえず完成。ハードコピー版が配布されたらリンクを張ります。年明けの2月の予定。
というドラマを見た。LakoffのWFDTの世界に泣かせの要素を混ぜ込んだようなもの。
Lakoffが言ってたかどうかは覚えてないが、どうやら「母親」のICMは「家族」のICMと切り離せないものらしい。
学生といっしょに見て、ああだこうだと話し合ってみると面白そうな気がする。(実はビデオにとった。)motherについては春学期の授業でも取り上げたし。
ドラマの中で赤という色が血のつながりの象徴として使われていた、と書いたところで、「血のつながりって、何?」ということをちゃんと認知言語学的に考えないと面白い話にならないことに気づいた。だから、この話は今日はここまででやめる。
「「修行者あひたり」型表現の来由」(柳田征司)という論文をこのところずっと探しているのだが、見つからない。一体どこに消えてしまったんだろう。
それとは別にこのまえ図書館で吉野さんが会ったので、じゃなかったひょっこり吉野さんに会ったので、『伊勢物語』の注釈付き本文を置いてある場所を教えてもらい、しっかりコピーしたのであった。(ついでに古今集の冒頭の歌も。)
うまく断りきれずに引きうけてしまったのだが、何でこっちと締め切りが同じなのだ?
今売りの『日本語学』に載っているぼくらの共著論文。当然のことながら最後に引用文献リストがついており、当然のように国広哲弥氏の『理想の国語辞典』などが引いてある。そこの著者名が「国広哲也」となっている。
共著者にメールで連絡したところ、校正のときに下の名前が書いてなくて「国広」となっていたところに手書きで「哲弥」と書き込んだとのこと。
ちなみにこの号の『日本語学』は辞書特集で、国広氏御自身も寄稿されている。
次号はまじめに、視点の話など。1994年からの継続課題。
でもその前に別の原稿もあったりするんだけど。
ネットワーク上の小さな画像ではなく、オフピーク通勤のポスターの大きな絵を見た。確かにかわいい。
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