1998年8月の雑記

目次あやしい認知科学の世界ひ弱な大学教師の遠吠えだから私はTeXが好き

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最終更新 1998/9/3 3:20

8/28

論文における謝辞の位置づけ

研究活動というのは、人から何かを受け継いで、それに何かを付け加えて、その結果できたものをまた人に発信する、という性格のものだ(と思う)。人から受け継いだものについての、論文中での取り扱いの仕方に関しては、ぼくは次のような方針によっている。

「誰から何を受け継いだのか」「それに対して自分は何を付け加えたのか」をできるだけはっきりと書きたい。そのために、

つまりぼくの場合、「謝辞」は「参考文献」に近いものという扱いである。

私信と謝辞についてのこのような考え方は、基本的には10年くらい前に読んだ板倉聖宣氏のこの本によっている。同じような考えは、何年か前に読んだ佐伯胖氏のこの本にも出ている。最近では、『たのしい授業』1998年8月号 pp. 37-41 の長岡清「たのしい研究のための作法」が板倉氏の考えを紹介している。

さらに私信と謝辞の扱いについて

ということで、人から聞いた話で「これは使えそう」と思ったものをメモするときには、「いつ、どこで、誰から聞いた話か」「いつどこで、誰と話し合った結果出てきた考えか」を書き添えておくことにしている。(大学院のときの同僚の某氏も、そのようにしていた。彼がそうするのを目撃する以前にこの件について彼と話し合ったことはなかったから、ぼくとは独立にやっていたことになる。)

私信と謝辞の取り扱いについてのぼくのこのような関係については、賛成してくれない人も結構いる。そのような人々に対して、ぼくの考えを押し付けることは不可能だし、かりに可能であったとしてもやりたいとは思わない。

社会的認識としての科学的認識

板倉氏の発想の背後には、「科学的認識は社会的認識である」という考え方がある。これは認知科学でいう「認識の社会的構成」と同じ方向性の発想だが、板倉氏と認知科学との影響関係は、あったとしてもかなり希薄だろうと思う。

論文で使えそうな話が人とのディスカッションの中から湧いてくることが多いとか、自分の知らなかった/気づかなかったことを人から聞いてそれが大いに役立った、とかいう人はぼくの周りにも結構いる。つまり、「科学的認識は社会的認識である」という考え方に賛同する人は結構いる。しかし、ここから先の考え方は、二つに分かれる。

一つは、

「自分ひとりで考えててもろくな結論は出てこない。いいアイデアは人と話し合う中で湧いてくるものだ」というのは当たり前のことである。当たり前なのだから、いちいち言及する必要はない。

という考え方。

もう一つは、

「自分ひとりで考えててもろくな結論は出てこない。いいアイデアは人と話し合う中で湧いてくるものだ」というのは当たり前のことである。当たり前なのだから、誰から聞いた話かを堂々と明記しても、自分の創造性にけちをつけることにはならない。

という考え方。

ぼくは後者である。

成田空港で3か月暮らした挙げ句、追い出された人

ある番組では「カナダ国籍のナイジェリア人」って言っていたが、要するにカナダ人じゃないの。

「カナダ人」と言った番組があったかどうかについては、確認していない。

なぜ、(その番組では)「カナダ人」でなく「ナイジェリア人」と言ったのか?

「成田を追い出された人」

って言うと思うのだが、この「を」は何者なんだろう。

「2時間」が120分でないことがある。

「2時間ドラマ」とか。

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8/27

女子校通信のホ−ムペ−ジ

を再発見。しばらくつながらなくなっていたのだが、たった今1998/8/27 0:41やっと見つけた。あとでゆっくり見よう。

「日本人」ふたたび

甲:金城武って、日本人じゃないんでしょ。

乙:日本人だよ。

甲:だって、お母さんが台湾人か何かなんだよ。

乙:…


誰かこんな感じの会話、聞いたことある人いません?

「外人」ふたたび

上の甲の見方では、金城武は「外人」になるのだろうか。

民族モデルには、実は注釈が必要なのだが、今は書けない。(だってもう朝1998/8/27 5:12だ。いい加減眠い。)

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8/25

「人妻」ふたたび

削除。(1998/9/3 3:15)

「所有」と所有

削除。(1998/9/3 3:16)

実は

削除。(1998/9/3 3:16)

言語学における「所有」に関しての参考文献といったら

削除。(1998/9/3 3:17)

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8/24

やさい・くだもの百科ホームページなるものが存在する。

CIAI ( Cyber Institute of Agricultural Informatic ) というところがやっている。よく分からないのだが、go.jpドメイン内なので、たぶん農水省関連の機関なのだろうと思う。

このページの情報によると、メロンとすいかは野菜である。一方、うめ、くり、ぎんなん、いちごは果物に入れられている。これだから専門家のやることは分からない(?)。ちなみに「野菜とは何か?」「果物とは何か?」「野菜と果物は何が共通で、何が違うのか?」という問いに対する解答は、提示されていない。(やったら大変なことになるかも。)

ぼくは、「野菜」についてはあまり考えたことがない。だから実を言うと野菜と果物の境界をどこに引くかにも、ほとんど興味はない。ただ、「果物とは何か?」にはけっこう興味がある。

ぼくの見方では、日常概念としての「果物」はいくつかの典型性条件によって規定されるもので、したがって「果物」というカテゴリーは家族的類似の構造を持つ。その複数の典型性条件の中には重みの大きいものと小さいもの(果物らしさの判定に対する影響の大きいものと小さいもの)とがある。

果物がおもしろいのは、どの条件に大きな重みが与えられるかが、世代によって異なるらしいということ。いいかえれば、「果物」という語に意味変化が起こっているということ。しかもその意味変化には、「人間と果物との出会い方の変化」というエコロジカルな動機付けがあり、さらに「人間が果物になにを求めるか」という、アフォーダンス知覚の変化という動機付けもある。

やさい・くだもの百科ホームページで採用されている分類は、その辺のややこしさをややこしいまま再現しているようにも思える。

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8/23

25日が締め切りの仕事

23日未明に終わった(ことにすると、決めた)。

クリントン問題

当初は「不倫」「セクハラ」「偽証および偽証教唆」という3つの次元の違う問題がぐちゃぐちゃに取り上げられていて、みょ〜にわかりにくい話になっていたように思う。最近の報道では話がだいぶ整理されてきたようだが。

ドラえもんの話術/発想

「ドラえもんの大好物は何?」という、小学生の間ではよく知られた なぞなぞ がある。この問題に対してばか正直な大人はしたり顔で「どら焼き」と答えてしまいかねないが、そんなことでは海千山千の今どきの小学生には勝てないらしい。というか、そもそも相手にもしてもらえないかもしれない。

それでは正解は何かというと、「どら焼きのあん」。根拠は「ドラえもんのうた」の最後の「あんあんあん、とっても大好き、ドラえもん」という部分。「あんがとっても大好き」なのだそうだ。

しかし、これで「もう小学生には負けない」と自信をもってしまったら、「そこが大人の浅はかさ」と言われる可能性がある。自信をもって「どら焼きのあん」と答えて、「ぶ〜!」と言われた人もいるかもしれない。

それでは今度の正解は何かというと、「どら焼きのかわ」。根拠は「ドラえもんのうた」の最後の「あんあんあん、とっても大好き、ドラえもん」という部分。「あんを取っても大好き」、それほど かわ が好きなのだそうだ。

つまり、今どきの小学生は、「ドラえもんの大好物は何?」と発問して相手が「どら焼きのあん」と答えた場合には「違います。正解はどら焼きの かわ です」と返し、相手がトリックを知っていて「どら焼きの かわ」と答えた場合には、「違います。正解はどら焼きのあんです」と答えるのであった。

つらつら考えてみると、このような話術/発想を使うのは百戦錬磨の小学生だけではない。バブルの時代、証券会社の人は「これからも株価はどんどん上がりますから、今買って絶対損はしません」みたいなことを言っていたらしい。ところが、その後バブルが崩壊して株価が下がった後には、その同じ人びとが今度は、「株価が下がっている今こそ、買い時なのです」みたいなことを言っていた。私の同業者?の某氏は、素晴らしい論文を読んだときには「いい論文に出会えてよかった」と言い、ごみを読んでしまったときには「自分の考えをきちんとまとめて相手に分かってもらうとはどういうことか、考えることができてよかった」と言うことにしている(ような雰囲気である)。

占い師という職業の人々も、このような話術を使うのだろうと思う。そしてそれ以外の一般の人々も。たとえば、人を励ますためなどに、使っているようである。(中には故意に人を落ち込ませるために使う人もいるけどね。)

おまけその1

「ドラえもんの大好物」のなぞなぞについての情報を教えてくださったのは、以前「計算機用日本語辞書の調査研究」プロジェクトの担当だったIPAの常勤研究員の人です(プロジェクトが終わって、その人の出向も終わったので、現在の所属はIPAではないけど)。

おまけその2

「ドラえもんの大好物は何?」には、実はもう一つ正解がある。それは何かというと、「(ドアの)取っ手」。根拠は「ドラえもんのうた」の最後の「あんあんあん、とっても大好き、ドラえもん」という部分。「取っ手も大好き」なのだそうだ。ただしこれはあまりにも寒い正解ではある。(この情報の出所も、IPA。)

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8/22

「お前なんて、こっちから絶交してやるよ」

この「から」は何物?

「文構築の相互行為性と文法化」

無事、予定通り発送。ちなみに、見切り発車部分というのは、藤崎奈々子のコマーシャルとは関係ない。

さあて、次の仕事しなくちゃ。大学の仕事もあるのだが、その前に、締め切りが迫った別の仕事を…

見知らぬ人から「おじさん」といわれた!

相手が幼稚園児では、仕方がない。これは実は、夏休みに入る前の話。

ドラえもんの文献批判

ドラえもんは、ネズミに耳をかじりとられたわけではないらしい。少なくとも、では。

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8/21

「文構築の相互行為性と文法化」

とりあえず、見切り発車モードで完成させた(とは言っても、いちおう体裁は整えてあるから、はじめてみた人が見切り発車の部分を見つけるのは難しいかも)。

21日午後、関係者宛てに発送予定。

「奥さん」再び

削除。(1998/9/3 3:18)

実は

削除。(1998/9/3 3:18)

「自分」は人間ではない?

削除。(1998/9/3 3:18)

念のために書いておくと…

上の話は、フェミニズムに対する攻撃を意図したものではない。

ここに書いたような問題に関してどういう立場をとるかということと、フェミニズムに対してどういう立場をとるかということとは、全く別の問題である。

「わたしはフェミニズムに近い立場を取っている。でも、「目的のためには手段を選ばず」みたいな立場は取りたくない。したがって、論理的に見てあやしげな議論は、なるべくしたくない。だから上の件に関しては、これまでフェミニズムの人が言ってきたことが正しいという前提を捨てて、もう一度最初から考え直してみたいと思う」という立場もありうるはずだと思う。

フェミニズムを自称する人の言語観の、一般的な傾向

なんか、寝不足の勢いでとっても大胆なことを書いてるような気がする

ま、いいや。

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8/18

図書館のホームページ

大学とか研究所などには、図書館を持ってるところが多い(あたり前か。)。一方、大学とか研究所などには、ホームページを持ってるところも多い(これは最近、別の意味で当たり前になりつつある)。この二つが重なると、いろいろとおもしろいことが起こる。というか、いくつかパターンがある。

「何がやりたくて、大学/研究所/…のためのホームページを世界に向けて公開しているのか」「何がやりたくて、図書館のためのホームページを全世界に向けて公開しているのか」を考えてるところと、そうでないところがあるようだ。

「何がやりたいかなんて、それを実際にやってみるまでは分からない」ってのがあんたの持論じゃなかったのかね!?

と思う人がいそうなので、あわてて書き直し。

大学/研究所/…のためのホームページを作ることで何がやりたいか、事後的にすら分からない人もいるということだね」「図書館のためのホームページを作ることで何がやりたいか、事後的にすら分からない人もいるということだね」

でも、図書館ホームページがどうたらこうたらなんて書くのは…

ぼくの場合、ものすごぉく、危険。ぴんと来る人もいるかもしれないけど、気がつかない振りをしていてくださいね。だってぼくには検索機能のあるホームページなんて、作りたくても作れないんだから。

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8/17

「ワープロでレポートをかく」は変?

「ワープロでレポートをかく」という言い方は、もしかしたら変なのではないか。
そもそも「書く」とは「掻く」ということである。「掻く」とは(大雑把に言って)何かに何かを接触させてがりがりと摩擦することである。
そして、「書く」と「掻く」とはもともと同じ語である(らしい)。実際、木の板に字を「書く」とは木の板を「掻く」ことに他ならないし、紙に鉛筆で字を「書く」のだって、実は鉛筆で紙を「掻く」ことによって鉛筆の先端を摩耗させることに他ならない。海岸の砂に字を「書く」のだって、同じだ。ただしこの場合は、摩耗するのは指ではなくて砂浜の方だが。
しかし、「ワープロでレポートをかく」の場合は違う。ワープロの場合には、摩擦によって文字を産み出すというプロセスは存在しない。したがって、「掻い」ているわけではない。
だから、「ワープロでレポートをかく」という言い方は、おかしいのではないかと思うのだ。

この↑議論に賛成する人がどれくらいいるかは分からない。「かく(掻く、書く)」→「掻く/書く」→「掻く」/「書く」という変化は単義(漠然性)→多義(曖昧性)→同音異義という変化の一事例とみるのがいいと、ぼくは思っている。

それはそれとして、上の「ワープロの場合、「掻く」というプロセスはないのだから、「ワープロで書く」という言い方はおかしい」という議論の論理構造と、「現在では女性の社会進出が進み、仕事を持つ既婚女性も増えている。彼女たちは決して「奥」にいるわけではない。だから彼女たちを「奥さん」と呼ぶのはおかしい」という議論の論理構造は、どこが違うのだろう。(まあ、いちおう違いはあることはあるのだが。)

歴史とhistoryとstory

これはこの本のネタばらしになるのでちょっと気が引けるのだが… でも書いちゃお。

かかし1号:
クジラは漢字で「鯨」と書く。「魚」は魚のこと、「京」は大きいということである。つまり「鯨」は「大きい魚」という意味である。このことから分かるように、鯨は魚なのである。

この議論の「クジラは…意味である。」がほんとに正しいかどうかは、調べてないので分からない。それはそれとして、この議論の論理構造は

かかし2号:
事実を表す英語のfactはラテン語のfactumに由来する。factumとは、「作られたもの」という意味である。このことから分かるように、事実とは、人間を離れて客観的に存在するものではなく、人間の主観によって構築されるものなのである。

とか

かかし3号:
歴史を指す英語のhistoryには、storyが含まれている。storyとは、要するに人が作った虚構のことである。このことから分かるように、歴史とは、人間を離れて客観的に存在するものではなく、人間が作り上げた虚構なのである。

とかいうような議論の論理構造は、どこが違うのだろう。

なお、念のために補足しておくと、かかし2号の議論全体の妥当性を認めるかどうかということと、「事実とは、人間を離れて客観的に存在するものではなく、人間の主観によって構築されるものなのである」という見解の妥当性を認めるかどうかということとは、全く別の問題である。かかし3号の議論全体の妥当性を認めるかどうかと、「歴史とは、人間を離れて客観的に存在するものではなく、人間が作り上げた虚構なのである」という見解の妥当性を認めるかどうかも、同じく別問題。さらにいうと、かかし1号の議論全体の妥当性と、クジラが魚かどうかということも、別。

それでは歴史とは…

共同想起の一種、ということに、認知科学風にいえば、なるのではないかしら。

「論証+結論」からなる議論

ついでなので書くと、「論証+結論」から構成されている議論の中には、上に挙げたもののように、

論証の部分は、それだけとってみればそれなりに納得できる話になっている。結論の部分も、それだけとってみればそれなりに納得できる見解である。でも、この論証からどうしてこの結論が引き出せるのか、それが全然分からない(言い換えれば、どうしてこの論証が、この結論に対する論証になると言えるのか、それが全く分からない)。

という類いのものが、たまにある。

「事実観察(根拠)→一般化(結論)(→思弁(飛躍!))」型の議論と、「仮説→検証」型の議論

前者の型で自分の論文の議論を構築する人が、後者の型で構築された発表を聞いて、無理矢理前者の型に押し込めて理解しようとして、とんちんかんなコメントをする、というのもたまにある。

こういうコメントは発表者と話がかみ合わなくなるばかりではなく、優秀な発表者の才能をつぶす効果もある。(発表者がこの二つの議論の型の違いを認識していれば問題ないのだが、認識していない場合、コメントに引きずられるととんでもないことになるのであった。)

「結論から先に言ってしまえば…」で議論を始める人は、後者の「仮説→検証」タイプが多い。ぼく自身も、このタイプ。ただし世の中というのはややこしくて、理論を組み立てる段階では「仮説→検証」でやってるとしか思えないのに、発表/論文の段階では「事実観察→結論」型で書く、という人もいる。

身体のことば、あるいは、プロ意識

駿河台大学のスクールバスが飯能駅南口のバス停を出てから大学につくまでの10数分の間に運転手さんが何回右手を挙げるか、いつか数えてみたいと思いながら、ついつい忘れてしまう。

bibファイル作成支援ソフト

某所でBibTeX用のbibファイルの作成を支援するフリーソフトを発見して、さっそくダウンロードした。最初に紹介文を見たときから実はちょっと不安だったのだが、一応起動してみた。

作成者のプログラミングのセンスの無さが遺憾無く発揮されたどうにも使い道のないソフトウエアだということが判明したので、さっさと削除した。あれを使いこなせるのは、作成者だけではないか。

「しょせんフリーソフトだから」などと言ってはいけない。TeXだってフリーソフトなのだ。

「私は以外と教養人」

昔ある駅に張ってあった、専門学校だかカルチャーセンターだかの宣伝ポスターのキャッチコピー。一番大きな字でとっても目立つように印刷してあった。高級なレトリックかジョークかと思ったらそうではなかったらしく、何か月かあとに「私は意外と教養人」に変わった。「意外と」のところだけ修正した紙がはってあった。

「週間誌」「週間少年ジャンプ」…

わりとよく見かける文字列。

「人口知能」

プロの研究者が書いて活字になったものを見ていると、わりとよく出会う。

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8/14

ソムリエのことば

いつか研究したいと思っている。ずっと以前に佐々木正人先生から資料をいただいているのだが、全然手がついていない。これは意外にも(?)、「英語の主体移動表現、中間構文、知覚動詞について---生態心理学の観点から---」でちらっと触れたことにつながる話だったりする。

「面食いでない」と「美男美女じゃない人が好み」の間

世の中には、「本多は面食いである」と信じている人がいるらしい。この信念は事実に反するので、いわれるたびに否定する。そうすると今度は、「じゃあ美人は嫌いなのか」とか、「美人じゃない人が好みなのか」とかいう人がいる。それも事実に反するので、「そうじゃない」と答える。すると今度は、「本多は矛盾している」と言い出す人がいる。それも事実に反するので、「矛盾していない」と主張する。これだけで分かってくれる人は、あまりいない。

少なくとも真理条件的には、「面食いでない」と「美男美女じゃない人が好み」の間にはかなりの隔たりがある、と思う。たとえば「顔はどうでもいい、よく喋る人が好み」という人がいたとしよう(ぼくのことではない、と言わずもがなの注をつける)。この人は「面食いではない」という記述に合致すると思われる。この人の場合、たとえば「金城武に似た、よく喋る人」と「本多啓に似た、よく喋る人」に関してはどちらも好きになる可能性があり、その一方で「金城武に似た、あまり喋らない人」と「本多啓に似た、あまり喋らない人」はたぶん好きにならない。ということで、「面食いでない」人が「美男(で、よく喋る人)」を好きになる可能性は十分にあるわけである。(念のために言っておくと、このパラグラフで「この人」として想定しているのは女性である。だからさっきの注は「言わずもがな」だったのだ。)

「いまいち話についていけない」という人は、この本を読みましょう。

だがしかし、である。「面食いでない」→「美男美女は嫌い/美男美女じゃない人が好み」という推論は、結構一般的かもしれない。大学教師の中にも、こういう正しくない推論を平気でやらかす(失礼!)人はいる。そういう推論をサポートする認知モデルが、きっと何かあるのだ。

で、いったいそれはどんなモデルなのでしょう。

NiftyにTeXフォーラムができた。

うれしい。

出勤したくない。

某所(関西方面?)から、「まだ原稿を頂いていないのですが…」みたいな葉書が届いていそうな気がする。うううううううう。

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8/13

歴史の「流れ」

高校の頃、

「歴史は(細かい事実を暗記するのではなくて)「流れ」をつかむことが大切だ」

とか何とか言われて、何となく分かった気分になって何となく「うんうん」とか言っていた。幸か不幸か、その当時

「ところでその「流れ」っていったい何?」

という意地悪な(しかしそれなりにまっとうな)質問をする人はいなかったような気がする。

予備校に入ると、世界史の(かなり頭がいいけど相当変わっている)講師が、

「よく歴史の「流れ」とか言うけど、「流れ」とは一体何のことなのか、自分には全く分からない」

とか何とか言っていて、

「この人はこんなに頭がいい人なのに、何で「流れ」が分からないんだろう」

と疑問に思った記憶がある。幸か不幸か、その当時

「それじゃあその「流れ」っていったい何なのか、あんた説明してみてよ」

という意地悪な(しかしそれなりにまっとうな)要求をする人はいなかったような気がする。

同じ頃中央公論社の文庫版の『世界の歴史』を読んでいた。全何巻だったか忘れたが、相当膨大な本で、結局最後まで読みとおすことはできなかったと記憶している。当時ぼくは予備校に通っていただけではなくて通信添削もやっていて、世界史の教材の通信欄に

「今中公文庫の『世界の歴史』を読んでいます」

とか何とか書いたら、

「あれは流れを知るのにいいですね」

とか何とか返事が書いてあって、

「あれ? 「流れ」ってそういうものだったっけ?」

と思った。でも幸か不幸かその当時のぼくは今よりずっとお馬鹿で、

「じゃあその「流れ」っていったい何なんだろう?」

という疑問に頭を悩ますことはなかったような気がする。

それから何年かが過ぎ、大学院に入って「メタファー」というものをちらっと勉強した。そしてさらに何年かが過ぎ、ある日突然思い当たった。

「そうか「歴史の流れ」というのもメタファーなのだ!」

そして思った。

「でも一体、どういうメタファーなんだろう。つまり、「流れ」って何なんだろう。」

で、いったい「流れ」とは何なのでしょう。

「流れ」に限らず

名前をつけた途端に、それだけで何もかも分かってしまったような気分になることって、結構ある気がする。こわいことだ。

おまけに、そのこわさを分かっていない人も結構いるような気がする。これもまた(レベルが違う話になるが)こわいことだ。

何なんだこの英語は!?

翻訳語や翻訳文化の有名な研究者である某氏が、自著(岩波新書)の英訳をWWWで公開している。御自身で訳されたということだが、本当なのだろうか。どう見ても機械翻訳の出力をそのままアップロードしたとしか思えないのだが。

直訳と意訳と誤訳

直訳と誤訳

以前どこかのテレビ番組で機械翻訳の現状を紹介していて、その中で「機械翻訳の出力は直訳で云々」と言っていた。う〜ん、それは違うと思う。

後続の名詞節を受けるいわゆる形式主語のitを「それ」と訳す(つまり既出の名詞句を受けるitと取り違える)のは、直訳ではなくて誤訳だと思うのだが。

直訳と意訳

たまに、年度の初めに学生から

「直訳と意訳とどちらがいいんですか」

と聞かれることがある。そして、聞かれるたびに、困ってしまう。正直に告白すると、「直訳と意訳」という二分法はもう10年くらい前にぼくの頭からすっ飛んで無くなってしまっているのだ。仕方ないから

「正しく意味が通じれば、どっちだって構わない。英語の文章と違う形の日本語訳になっていても、それで減点するということはしないから、別に気にしなくていい。」

などと、答えになっていない答えをつぶやいてしまう。

意訳と誤訳

「意訳」に関して一つ覚えているのは、駿台の高橋善昭(字が違うかもしれない…)氏のことば:

「学生の言う「意訳」はぼくに言わせれば大抵は「誤訳」だ」。

翻訳の下手な人からこういうことを言われると「何だあんたは」ということになりかねないが、高橋氏はどうかというと、駿台の授業では、ときに生成意味論的に(?)、そしてときに談話文法的に(?)、構造を変形したきれいな日本語訳を提示していた。

それはともかく、以前別の大学で非常勤をやってたとき、学生がみょ〜な誤訳をしたことがあったので質問してみたら「意訳したんです」。おいおい。

教室にスズメ蜂が遊びにきたら

部屋の電気を消して窓を開ける。

大場嘉門氏は実在した!

1995年に小説を出版している。どこかの役所で問題になった時期より前か後かは覚えていない。いずれにしてもペンネームだろうという気がするが。

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8/12

音声対話 コーパス

ぼくが目をつけたデータは量的には大したことがなかったので、さあっと見た。小さなデータの中に「こういうのが欲しかったのだ」というのが2つもあって、大喜び。関西弁のデータだということがちょっと引っかかるが、でも、気にしないことにしよう。

藤崎奈々子のコマーシャル

藤崎奈々子さんのお茶のコマーシャルのせりふを覚えておいでの方がいらしたら、教えていただけませんか。

gooで検索をかけて調べたところ、去年(1997年)の夏頃やってた「サッポロ 玉露入りお茶」のコマーシャルのせりふで、対話形式、最後が「じっくり選んでるからね」で終わっていました。そのせりふの、その前の部分が知りたいのです。(「じっくり選んでるからね」の直前の部分は「いい人いないね」だったらしいが、違うかもしれない。「いい男いないね」だったかも。んでもって、そのさらに前の部分も含めて知りたい。)

どうしてあれを知りたいのかというと… 「文構築の相互行為性と文法化」という論文は、あのコマーシャルのためにあるのだといっても過言ではないということが分かったのでした。

情報を教えてくださった方には論文の草稿をお送りいたします(って、全然お礼になってないという話もあるけど)。

LaTeX

論文を改訂しながら思う。自分はWYSIWYG (What You See Is What You Get; 見たまま方式) では論文は書けない。

大体、直した跡が残せないのが良くない。清書のときに直した跡を消すのは当然としても、作業の途中では「どこからどこまでをいつどのような理由で削除したのか」「それに合わせて、どこからどこまでを挿入したのか」ということが分からなければならない。WYSIWYGは結局 What You See Is All You Get でしかないといったのは誰だったっけ。それだったら手書きで作業した方がまし。

他の人の書きかけの論文を見せてもらうと、例文番号が空欄になっていることがある。例文を追加したり削除したりすると、そのたびに番号がずれてしまっておそろしく修正の手間がかかるから、最後の最後まで番号を振れない、ということなのだろう。LaTeXを使えば番号を自動で振ってくれるし、追加したり削除したりしたら自動的に修正してくれる。修正のときは、本文中で参照している部分も一緒に直してくれる。とっても楽です。

他の人の完成した(公刊された)論文を見ていると、本文中で言及されている論文が後ろの文献リストに載っていないことがある。LaTeXユーザーの書く論文では、確信犯でもない限り、そのようなことは起こらない。

間違ってWORDなんか使いはじめてしまうと、下手すると一文字単位でフォントを気にしなければならない。大文字小文字を勝手に変えてしまうとか、そういうよけいなお節介にもお付き合いしなければならない。そういった、論文の内容とは全く関係のないところで時間をとられるわけだ。

マクロウィルスの危険もないし。

以前、LaTeX書いた論文のテキストファイルを初めて見せてもらったときはぼくも「げえ」と思ったけど、要するに慣れの問題。

でも、Langackerは

WORDを使っているらしい。げろげろ。

とつぜん、ごみの分別の話

ごみの分別を徹底するということは、「燃えないごみ」に分類されるものが増えるということだ。だが、ダイオキシンがらみで分別の徹底がいわれる割には、燃えないごみの集収日は増えない。なぜ。

「生ごみと違っていつまでおいておいても腐らないから、集収日までおいとけばいいじゃん」「収集した後の燃えないごみが最終的にどうなるか、分かっていってるのか?」「自治体任せではいけない、自分でごみを増やさないように努力しろ」とかいうのも分かるけど。でもスーパーで肉を買えば燃えないごみがついてくるし、残り物にかけたラップをはずせばそれはその時点でダイオキシンの原料と化すし… 個人の努力ではどうにもならない面がある。

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8/10

「文構築の相互行為性と文法化」

大幅に書き直した。思うところあって、この論文はここでは公開しないことにした。現時点では著作権者はぼくだろうから、問題ないのかもしれないけど。何人かの人々には旧版をみていただいた。さらに何人かの人々にはこれから新版をメールか何かで送りつけるかもしれない。

改訂に当たっては、ひつじ書房の『女性のことば・職場編』についているコーパス(思うところあって、リンクははらないことにする。trcにはればいいのかもしれないけど、なぜかサーバーがダウンしているらしい)にお世話になった。ただ、恐ろしく膨大なデータなので、一部しかみることができていないが。

あと重点領域研究 音声対話 コーパス(文部省科研費 重点領域研究 「音声対話」(音声・言語・概念の統合的処理による対話の理解と生成に関する研究)の成果物)をだいぶ前に購入して持っているのだが、「これだ」と目をつけた会話の音声データがぼくの環境では再生できないということが分かって、まだチェックしていない。テキストデータもあるからそれを地道にみていけばいいのだが…音声で聞いた方がはるかに能率的なのにそれができないというのが非常に悔しいし、それにテキストを地道にみていく作業はひつじデータで散々やって、もうへとへと。でも、一応みよう。

そういえばこの論文のアイデアを思い付く直接のきっかけとなったのは実は丸山直子氏の研究なのだが、これも同じ「音声対話」プロジェクトの研究成果だった。その論文は、1996年(言語処理学会の直前か直後の時期だったから、就職する直前)にIPAでコピーさせてもらったのだった。プロジェクトの研究成果は現在では単行本(『音声による人間と機械の対話』、オーム社)として刊行されており、丸山氏の論文もその中に入っている。この本も買ってしまった。

また人の研究の宣伝をしてしまった。

ぼくの論文はこれからまだ改訂する。下旬からは大学関係の仕事を再開する(春学期末にやっておくべきだった仕事がまだ残っているのだ!!)つもりなので、それまでには何とか。ところで、締め切りはいつなのだろう。(もう過ぎたという話もあるが。ひょっとしてぼく待ちなのだろうか。だとしたら、恐縮。)

それにしても、ふと気がつくと

もう8月も中旬である。

小中学生の頃は今頃から焦りはじめていた気がする。終戦記念日が過ぎて、高校野球が終わると、31日まで地獄の日々だった。

請求された抜刷りの送付

遅れがちになってしまい、申し訳ございません。(これでもいちおう、お詫びモードのつもり。)

なお、未公刊論文を含めて請求された方には、刊行後にまとめてお送りする予定です(多分9月になります)。

(それにしても海外から請求が来るとは思っていなかった。)

「その壁紙、何とかしてくれぇ!

文字が読めないじゃないか」と叫びたくなるページが跡を絶たないのはなぜ? 文字情報の発信を目的とした学術的なページにもこういうのがあるというところが、すごいのである。

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