とりあえず静観することにします 。
1999/5/5 21:59 以下削除。
バイナリーデータなのに拡張子の指定がない場合があるのはどういうこと?
とりあえずlzhで試してみたりするのだが、それでだめな場合もあったりする。
今年の学生に「本多」姓の人がいる。ぼくとは家族でも親戚でもない。
あの人もぼくと同じように、「本田さん」と書かれたり、「本間さん」と呼ばれたり、「細田さん」といわれたり(カタカナで書いてみて)という、悲惨な人生を送ってきたに違いない。
お互い、がんばって世の無理解に立ち向かっていこうね。(おおげさ。)
某論文すっぽかしておきながらよく言うよって?
はい、済みません。それじゃあ、ほかの人のページか、どこぞの匿名ページに転載してもらいましょうか。
反省の色なし。でもその前に、「よく言うよ」というコメントも、だれからもなし。
(まあ、「よく言うよ」なんて思っててもいわないのが普通だったりするんだけど。)
おばかな認知言語学者よりは賢い生成文法家を応援する
といって一部の人々の反感を買ったのは私です。
認知言語学やってる人間として、生成文法批判は意味のあることなのだろうけど、自分ではやろうという気にならない。政治的な匂いがしてたりすると、ますますひいてしまう。
そいでもって、「生成文法やってるか、認知言語学やってるか、それともほかのことやってるか」ということは、ぼくの場合、その人の人柄に対する評価とも能力に対する評価ともリンクしないのでした。
「書きにくい」 という感想は予想通りだったのですが、まあ、そんなところです。
「世の中、どうあるべき(と自分は思う)か」ばかりを考えていて、「世の中、実際にどうであるか」をまったく考慮しない人。
「どうあるべきか」と「実際どうであるか」の二つがあり、なおかつこの二つは通常ずれているものだ、という認識がある人が前者を強調するのはいいんだけれども、「実際どうであるか」ということが「どうあるべきか」とは独立に成立していて、そちらも考えなきゃいけない、ということが頭の中になくって、ひたすら「どうあるべきか」だけを考えている人はちょっと。
ちなみに、そういう人は、「世の中、どうあるべき(と自分は思う)か」の括弧でくくった部分があるかないかの違いについての認識もなかったりする。
これが学生だったらまだ「若いなあ」とか「かわいい」とかで済むから全然うざったくないのだけれど。
事件報道を見ていると、共犯関係の説明の際に「知人と共謀して」という言い方がよく出てくる。で、これが前から引っかかっている。
犯罪とかいうややこしいことを相談するくらいだから、主犯と共犯は相当仲がいいはず。ということは、その二人は、もし犯罪行為を犯していなかったとしたら、「友人」という語で記述されていたのではないか? と思う。
まっとうな社会生活を送っている間は「友人」だった人が、犯罪者とその共犯者になった途端に、「知人」になってしまうわけ。
「友人」と「知人」の区別、実際にはちゃんと調べてみないとわからない。コーパス作って、発話者の人間関係調べて…きゃ、興信所みたい。やな仕事。
「友達」はまた振舞いが違いそう。「友人」と「友達」は単なるregisterの違いではなくて、指示対象もずれそう。
『クリティカル進化論』を読んで思い出したのが、『論理トレーニング』という本。
思考の技法を明示する、という目標に関しては通じ合う面があるが、前者が心理学からのアプローチなのに対して後者は論理学からのアプローチ、という点は違う。ぼくは『クリティカル進化論』のほうが面白かった。
これは多分ぼくの趣味の問題にとどまるものではなくて、認知言語学という営みが人々の日常的な思考のしかたを明らかにすることに繋がっている、ということと関係しているのだと思う。
怒りをぶちまけることと強い主張をすることを区別できない人。
って、いつか書いたかな?
前から欲しかったTomasello編の本、ようやく買った。
最初に読んだのがHopperのEmergent Grammarというところがいかにも今のぼくらしい。5年前のぼくだったら「けっ、何書いてやがる」と思ったに違いないもの。今のぼくにとっては、大変面白い。あっちの方向(discipline)に接点を求めることも出来そうだけど、一方でこっちの方向にも接点があるはず。あっちで研究してるあの人とこっちで研究してるあの人とはふだん学問的な話をしてるようには思えないんだけど、実は問題意識が共通の部分があるはずで、その接点を何とかしてお互いに発見しあってもらえるきっかけにならないかなあ、などと思う。いつの間にやら不明日記モードになってしまった。いちおう、準企業秘密ということで。
その次に今、Tomaselloによるイントロ読んでいる。
ゴールデンウィークの話ではなく、普段のこと。土曜日に非常勤を入れてしまった結果、二日続けて休み、というのがなくなってしまった。
つまり、一日中何にも考えずにぼ〜っとできる純粋かつ完全な休みがなくなって、家にいるときでもいつも「明日の授業の準備しなくちゃ」というプレッシャーの中で暮らしている。
このプレッシャー、うまく生かせればいいのだが。
どうやって乗り切ろうかと思っていたのだが、実はこの日は非常勤先は休講日に指定されていて、授業なんてやりたくてもできないのであった。
通勤は非常に楽。所要時間は院生の頃とほぼ同じくらいか。地理的には、そうちょっと回り道をすればTomaselloだって買えるのだ。
内容は…連休明けたらアンケート取ろう。学年、所属学科、これまで言語学関係ではどういう科目を取ってきたか、あるいは今取っているか。
ちなみに、隣の学科ではIPAでお世話になった人が非常勤で教えていることが判明。ぼくの授業はその人の授業と一部重複する可能性あり。対応は、アンケートの結果次第。
見つかったようです。あっちで言及してもらっちゃってこっちでリンクはってもらっちゃって。恐縮です。
どうやらつながるようだ。
いつも思うのだが、トップページの写真の意味が読み取れない。桜の季節じゃなくてもあの写真だったし。あれは某大学の文学部のある建物の写真?
でもあの大学とこの学会の結びつきに必然性はないはず。学会それ自体とその事務局(研究者側)を同一視し、さらに事務局とそこの人の所属する大学をつなげるというわけの分からない二重メトニミーを採用している? そんなはずはない。
ということで、大学の写真とは考えられない。事務局のある出版社(のある建物)の写真なのかな。
あるいは、「あの建物と学会を結び付ける解釈がそもそもまずい」という高級にしてお手軽な結論に逃げる、という手もあるが。
同じくトップページにある英語の学会名が印刷物に載っているものと違う。CLSとBLSの違いと同じ。
(と言ってもCとBの違いではない。)
掲載されているニューズレターの日付は一年以上前。去年の秋の年次大会の案内が載っている。「新着情報」も同様。もしかして紙版のニューズレターはいまだに活字拾って作ってるから、ホームページに掲載するには改めて入力し直さなければならない? まさか。
入会手続きは郵送。 「すべての登録事項はコンピューターへの入力資料となる」とある。それだったら最初から自分で入力してもらえばいいのに。フォームとか使って。日本学会事務センターって、そういうことは受け付けてもらえないのかしら。
事務連絡関係。メールでの問い合わせができるかどうかは不明。
ちなみに、上に「どうやらつながるようだ」と書いたのは昼間の話。今 1999/4/23 23:35 試したら繋がらない。OSはWindowsらしいから機械はきっとパソコン。助手が帰るときに電源を落としていくのかな。だとすると… 学校/職場でWWWを見られる人はそれでもいいのだろうが、自宅で電話回線通して見る人は夜11時以降が多いのではないか、そういう人は絶対に見られない。まあ、見られなくてもまったく問題はないわけだが。
要するに、なくても誰も困らないページ。あっても別に誰も嬉しくないと思う。もちろん、あって困る、というページでもない。少なくともぼくにとっては。ただし、こんなふうに悪口を言われる事務局の人々にとっては、あって困るページかも。
(きゃ〜、これって暴言? 反論受け付けます。)
またもや昨日の3年生のゼミの話。ぼくの質問に対して、小さい声で答えを言った学生に対しての、ぼくひとこと:
今のもう一回言って。なぐってあげるから。
この学生は、ぼくの授業とるの4つめ。ほかの教員の授業での評価も含めた学習状況、極めて良好。お互いどういう人間か分かりあったうえでの発言です、はい。
って、ぼくが走っているわけではないのだが。ぼくの演習を取りに来る学生の問題。
(まるで仮想変化表現だ。)
3年生のゼミは、これまで書いてきた通り、前からかなりよく知っている学生がほとんど。
2年生のゼミの学生は、全員今日が初対面。
2年生のゼミでのぼくは、まだおとなしいです。
落としたまま帰ってきてしまったらしい。というわけで、月曜日まではつながりません。
読み終わった。授業で使う部分をコピーした。これから(というのは金曜以降)切り貼り。
授業でコピーを配るときに紙の無駄にならないように、余白を切り取るだけなんだけど。
2つとも、先週より人数が多い。用意したプリントが足りなくなった。何でだろう。
ちなみに、登録の締め切りは今週の月曜日だった。
2年生以上のための講義科目では、教務課から登録者リストが来る前に、正式の科目登録とはまったく別に、紙に名前を書いてもらっている。先週いなかった人のために、今日もう一度紙を回す。その、名前(と人によっては学籍番号)しか書いてない紙を見たぼく:
先週いなくて今日新しく来た人は編入の人と、中国語クラスの人と、スペイン語クラスの人と、それから去年落ちた人ね。
ふっふっふ、分かっているのだよ、3年生の君たち。
その授業のあと、隅に座っていた3年生に声をかけに行く。
ぼく:
英検受けるんでしょ。
その学生:
はい。
ぼく:
ふふふ、よく覚えてるでしょう。
その学生:
そういえば去年の授業でも言われましたね。
その後、別の学生が声をかけてきた。
学生その1:
先生私のこと覚えてますか。一昨年の授業に出てたんですけど。
ぼく:
◎◎さん?
学生その2:
覚えてるんだよ。それで、出席しないと落とされるんだ。去年俺それで落ちたもん。
ぼく:
正確には出席で落としたわけではなくて…(以下去年の基準の説明)。
3年生のゼミ。ぼくは全員の顔と名前を把握している。が、学生のほうは、実はそうでもないらしいということが分かった。
誰と誰がどういう関係にあるかということも、結構知っている。が、学生のほうは、実はそうでもないらしいということが分かった(そもそも顔と名前が一致してないわけだから)。
こういうのって、普通学生同士のほうが良く分かり合ってるものじゃないか? 特に全員、同じ学部の同じ学科なんだし。
ぼくは基本的には、学生同士の人間関係に関しては、傍観者でいたい。
大学の場合、教員が学生のことをあまり把握しすぎるのは、学生にしてみれば結構息苦しいことなのではないかな、と思うこともある。その教員の性格にもよるだろうが。
ぼくみたいに「知ってる」ということを口に出していってしまう奴が、ほんとは一番うざい奴なのかも。
で、ぼくの場合これは現代文化の3年生だけの話。今の3年生とは過去2年間いいにつけ悪いにつけいろいろあったわけで…
2年生、1年生はいまいち。キャンパス内で「こんにちは」という挨拶が聞こえることがあるのだが、すれ違う瞬間になってようやく「あ、ぼくに言ってたの?」と気がつくような状況。このまま行けば嫌われる。「無視された」と。これはこれでまた問題。
極端から極端に走るぼく。
教員は教員同士で情報交換をし、学生は学生同士で情報交換をする。たまに学生と教員の間でも情報交換が生じる。
教員の立場から見て、教員同士のネットワークではなかなか知ることができないものがある。それは、授業中の教員の姿。学生から、学生の目で見た教員の姿を聞くことがあって、「う〜ん」と思うことあり。
学生が後輩のために作る授業ガイドみたいなものがあったら、見てみたいと思う。いろいろ問題もあるだろうけど。
前書いたかしら。ぼくは喋りながら教室内を歩き回る癖がある。一昨年の語学の授業で90分の間に黒板の前を100往復以上したらしい。ある学生が数えていた。
ゼミ室の収容定員は20人である。
駿河台では、ゼミは20人を越えることはないシステムになっている。
気がつくと、やっぱりぼくはこの中をうろうろと歩き回っている。□型に配列された机の周りを回って、学生の後ろから耳打ちするように問題を出す。
さすがに、□の中でパフォーマンスするところまでは行かない模様。
ようやく今、ちゃんと読んでいる。非常に面白い。マンガを見てあの文章を見て、「う〜んそこまでは考えてなかったぞ」というところあり。
スキーマの話は談話理解の話でもある。そのまま認知言語学の教材として使える。
作るかも。
一生懸命辞書ひいて日本語訳を書き出して、一生懸命頭ひねってその訳語を組み合わせて、それなりに意味の通じる日本語文を作り出す、という無駄な努力を続けている人。見ていて痛々しい。
(痛々しいというよりは、2年続けてその人を担当する教員としての責任の問題でもあるんだが。)
英文の読解って、ちょっとパズルみたいなところがある。そのパズル的な面にひたすら集中する教材。
あの時いっしょに見た学生がこの前、別の教員の授業で同じものをみたらしい。
その教員は絶賛していたとのこと。
ふふっふ。大学ってのはそういうところなのさ(で済ますことにする)。
1999/4/22 2:4 やっぱ消します。
日記にたどり着くまで4回もクリックしなければならないサイトを発見。しかも途中(最初じゃないところがすごい)にメニューがあって、一瞬どこ押せばいいの状態。
勝手にやって。
うちの前の路上で、私の知らない誰かが私の知らない誰かに向かって、一言。
「○○○子って、あれだよね、公明党」
共産党である。公明党と共産党って、仲良かったっけ?
元気よく手を振って歩く人。
ま、健康的なのかもしれないけど。でも、周りに人がいると、普通自然と振りが小さくならないか? エコロジカルな自己知覚のあり方として。
ま、別に普通でなくてもいいんだけど。でも、火のついたたばこを振り回すのはやめてほしい。その人の後ろを歩いていると、前から来る人の姿が見える(当たり前)。何も知らずに無防備に近づいてきて、何も気づかずにぎりぎりのところをすれ違って、気づかないまま?通り過ぎていく人々。けっこう怖い。
あの人は、知らないうちに色々な人の服に穴を開けているに違いない。それとも、確信犯?
それとも、そんな事故は一度も起こっていなくて、単なるぼくの考え過ぎ?
が気軽にホームページを作って公開できる時代。作ったあとのフォローがけっこう大変そう。
でも大丈夫です。このページはNetscapeの今のバージョンではまったく見えないとか、画像ファイルはバイナリーモードでアップロードするものだとか、ファイル名に全角文字とかピリオドとか使ったりするとメンテのときにうざいとか、そういう細かいことをいちいちぐだぐだ口出ししたりしませんから。
勝手にやって。
「言語文化論A」は、日英語対照文法の授業である。この授業で、わりと早い時期に「語順(構文)」「側置詞(前置詞、後置詞)」「語尾変化」の機能の話をする(ただし、昔懐かしい「独立語」「膠着語」「屈折語」という用語は出さない)。そのついでに、
日本語と英語だけを較べて、「日本語は英語とここが違う。これは日本語の特徴だぁ!」とか言っていては見えないものがある。
ということで、大幅に脱線して能格性の話をする。こういう言語に較べたら、この点に関しては、日本語と英語はよく似ているのだ、と。
で、配布するプリントには角田氏の本からとったワルング語の例文を書いておく。でも、そんなもの見ても学生にぴんと来るはずはないから
(ぼくも十数年前、別の人の本で(別の言語?のデータを)見たときは何が何だかまったく分からなかった。)
次のような文字列を黒板に書く。
対格型:「私が彼を殺す」「彼が死ぬ」「私が走る」「私がころぶ」
「太郎が次郎をなぐって、逃げた」→逃げたのは太郎。
能格型:「私が彼を殺す」「彼を死ぬ」「私を走る」「私をころぶ」
「太郎が次郎をなぐって、逃げた」→逃げたのは次郎。
ついでに
動作型:「私が彼を殺す」「彼を死ぬ」「私が走る」「私をころぶ」
で、昨日これを書いたのだが(何と初回にやったのだ)、今日になってふと思った。
能格型:「私によって彼が殺す」「彼が死ぬ」「私が走る」「私がころぶ」
とすべきだったかも
でもこれだと「私によって彼が殺す」を「私の教唆にしたがって彼が誰かを殺す」と解釈する人が出そうなのである。うむむむ。
ま、「日英語対照」という授業のもともとの趣旨を考えると思いっきり脱線なので、どっちだっていいんだけど。
自己欺瞞的な知ったかぶりをする人。「自分は、実は××についてほとんど何も分かっていないのだ」ということを分かってほしい。そして、「その××に該当するようなことが、世の中には意外とたくさんあるのだ」ということも。
まずは、哲学史の授業に出ることかな?
終わった後、何となく残っていた女子学生二人組に声をかける。
「あ、○○高校出身者コンビだ」
二人とも前からよく知っていた学生で、とりとめもなく話しているうちについ口が滑って、それまでずっと抑えてきていたことを話してしまう。
「大学生の頃ね、○○高校出身の女の人と…」
きゃ〜。初々しくも切ない思い出。あんなこと学生にばらしちゃってよかったんだろうか。
1999/4/20 19:43 思うところあって、いったん消します。
わかっちゃいるけどやめられない。
これ、10年くらい前によく聞いたような気がする。いまだにこのフレーズが出てくるということは、きっと、この10年間、ぜんぜん成長してないのに違いない。
話を正確に記憶しているわけではないので、いい加減に書く。
殻がぐしゃっと潰れるくらいに強く机に押し付けて卵を立てたのを見て、「すごい」とか「ずるい」とか思った人々は、それまで何とかして卵を(きれいな状態で)立てようと努力していた人々である。
そうやってがんばってきていない人々に向かって何の脈絡もなく「卵って、こうすれば立つんだよ」と言ってがしゃっとやっても「すごい」とか「ずるい」とかいうような反応は出にくいだろうなという気がする。「それくらい俺だってできるんだけど、それがいったい何だっつうの?」という感想になりそうな気がする。
人の研究成果をみて、「これくらい自分だってできる」とか「自分だったらもっといいものができる」とか思った場合、その評価が間違いである可能性はかなり高い、とか、
人の研究成果をみて、「これくらいだれだってできる」→「当然、これくらい自分だってできる」→「自分がやったも同然」→「自分の研究成果として公開する」という思考回路の持ち主が、某業界にはいるという噂。
(ただしぼくは被害者を自称する人から話を聞いただけで、加害者とされた人からの言い分は聞いていません。ちょっと聞けない。)
(ちなみに、某業界というのは英語学でも国語学でもありません。念のため。)
人の論文をみて、それがどのくらいすごい/くだらない研究であるか評価することは、その分野の状況をよく知っている人でないとできないとか、
支離滅裂系の論文は論外。一応筋の通ったものに関しての話。
それとどう関係づけていいのかまだ考えていないのだけれど、創造的な研究のすごさというのは、自分で創造的な研究をやったことがある人しか分からないという話とか…
まあここまで行っちゃうと排他主義的/結局見る人の見方次第ってことじゃないか的な発想に流れそうで、嫌なんだけど。
この紹介に惹かれて、購入。先日届いて、昨日ぱらぱらっとみた。面白い。こういう本で教養演習をやりたい、と思う。
(でも、諸般の事情により、今年と来年は不可能。やるとしたら21世紀に入ってから。)
そしてこれは、「一部大学教員にぜひ読ませたい本」の一つだったりもする。
(これって暴言?)
言ってないって。まあそれはいいとして。
この十年くらい?の間、「浮動票」という言葉がほとんど使われていない気がする。「浮動票」が「無党派」になったのはなぜ?
分解できないものを強引かつtentativeに分解してみると
有権者それ自体?が変化してなくても、周りの状況が変化すればあたかも有権者が変化したかのように見えることがある(Sweetserの世界)というような事情もあったりして、ほんとに分けきれないのだが。
(でも分けきれるものを分けても意味がない、って結論が「カテゴリーの凝集性」みたいな話からは出てくるのではないか。 ちょっと違うか?)
そしてここでの分析は、あくまでも建て前の世界。地縁血縁その他のあやしいつながり(じばんかばんかんばん)は考慮に入れていません。
地方選がらみの記事では、今でもごくまれに「浮動票」という語を目にする。
新聞記者の頭が古いのか、それとも地方議員は相変わらず地元の有力者の名誉職の域を出ないもので、地縁血縁その他が幅を利かせる世界ということなのか。
地縁血縁にからめとられていない人々の票が、「浮動票」、なのかな。ということは、この場合、候補者側にとっては「読めない」票だから厄介、ということになるかもしれないが、「無定見」というような悪い意味合いはないはず。
ほんとかね。
この辺でやめる。次の選挙の頃には、もっとちゃんとしたことが書けるかも。でも何年後?
とにかく明日の授業の準備。
担当教授が握りつぶしたということはないだろうから、多分なかったのだろう。奇跡だ。
申し立てがあったら当該学生と面談するつもりだったのだが、
(そんな義務があるわけではない。ぼくの個人的な考え方の問題。念のため。)
結局それはなし。昨日の再履の人々とのお茶会は、それとはいちおう別。お茶飲ませてごまかそうなどと考えていたわけではない。
某所で毎週聞いていたことに(何週間か前に)気づいた。特に感想なし。
ここ(4/11)の、最後の方に、二連発。う〜ん、せつない。
8時40分くらいに学校に入って、19時15分のバスで帰る。授業は中みには入らず方針の説明だったのであまり時間をかけなかったのだが、部屋の整理?やら伝票の整理やら前年度の後始末やら…そして日記読みやら…
授業の合間に再履の学生とお茶会やって…なんのこっちゃ。
9日に書いた某派遣社員の日記の画像、さっき見たら直っていた。
「賛成!」という人文系大学教員は多いに違いない。とくに、自分の研究の内容(18世紀の文学とか批評理論とか認知科学とかそういうやつ)と普段の授業(英語1とか2とかそういうやつ)の間にほとんどつながりのない人々。ただし、純粋な休暇ではなくて、研修期間。いわゆる「サバティカル」ってやつ。
ぼくの場合は昼夜(+朝夕)逆転期間になる可能性大なんだけど。
ある人から聞いた。引き起こした人は、前書いたのとは別の人(「いかにも」という感じの人ではある)。ただし、今のところ被害者はいない模様。あくまでも、今のところは、だが。
それでも秘密は秘密なのだ。
不明日記ではなくて、カテゴリー論とトートロジーの意味論のお勉強。
某氏:
「本当に、お忙しいようでしたら構わないんですけど」
ぼく:
「じゃあ、構わないんですね」
やってしまうんだな、こういうぼけ。相手にもよるんだけど。
某他学部の某じょきょ〜じゅ:
「今度できた教員紹介のページ、あれ本多さんが作ったんでしょ」
違うんだな、それが。ちなみに、その人の写真はきれいに表示されるみたいです。
その後、担当者に連絡して、現代文化だけ、ちょっと変わった。といっても、具体的にどう変わったかは、この「新雑記」からアクセスした人には(普通はなかなか)分からない仕組みになってます。
近いうちにもう一度変わる可能性あり。早ければ、月曜日にも。そうなった場合には、このページから行っても違いが分かるはずです。
世の中には、たまに、「言い出しっぺの法則」が通用しない人がいる。
自分で落とし前をつける意志も能力もないことを主張して、実際のうっとうしい作業やトラブルの後始末は他人に押し付ける、というのは、無責任だと思う。
去年の今頃(正確にはそれよりちょっと前だけど)からつい最近にかけて、二件目撃。引き起こした人はどちらも同じ人。
一件に関しては、ぼくは被害者の愚痴の聞き役。「そんなのなし崩しに消滅させてしまえば」と言ったら、その通りになった。消滅したからといって、特に支障は出ていない模様。
もともとあんなものはなくて、それでも何の支障もなかったのだ。
もう一件に関しては、とばっちりがぼくのところにも来ている。このまえ、某えらい人から「あなたがフォローしてあげなさい」と言われた。そんなあ。
何で今さらAfricaなんだ。
他学部では教員、職員、共に出たり入ったりがあったようですが、現代文化は全く移動なし。
学生(特に三年生)の中には、「入学以来、これで本多の授業を取るのは4つめ」という人もちらほら。「不可で再履修になったのを2つに数えれば5つ」という人も。
そういえば二年生の英語は持ち上がりだ。
人間関係、思いっきり濃いです。
ぼくのことをひそかに嫌っている人にとっては、苦痛だろうなあ。特に二年生。ぼくの方は別に構わないんだけど。
(三年生は、卒業とか教職とかにはあまり関係なく、自分の気持ちだけで選んだ人がほとんどだから、まあいいや。)
さあ…
しつこいなあ。『聖者の行進』じゃないんだから。
某派遣社員の日記で画像がうまく表示されないのはbmpファイルを使っているからじゃないのかなあ。WWWで使う画像はgifかjpgって教わった記憶があるんだけど。
学部別の教員紹介ページができた。
現代文化学部の前からある教員紹介のページは、以前から「すかすか」と言われていて大変評判が悪かったのだが、
(「すかすか」になってしまった経緯は…ぼくがいけないんです、はい。)
新しいページができて、やっとなんとかなりました、という感じ。何か尻拭いを人に押し付けた感じ。
古いのと新しいのと全くつながりがないのはご愛敬、ということで。
(というか、こんなところに書いてないでぼくが連絡して何とかしてもらわなくちゃいけないんだろうけど。)
古いのに載っている教員のうち新しいのに掲載されていない人が約2名います。ミスではありません。退職したわけでもない。授業からはずれることになったわけでもない。さて、だれとだれが、どこに消えてしまったのでしょう。どっちがいいのかなあ。受験生向けの広報のためのページだよね。
紹介の内容は学部ごとに微妙に違います。これは、それぞれの学部の方針の違いによるもの。現代文化学部のページに顔写真を入れなかったのは正解だと思った。某他学部の某英語教員(女性)が鈴木その子状態で写っているのは、もちろんぼくの責任ではありません。本人は相当気合い入れてポーズとってるのだが。お気の毒。
このあたらしい教員ページには、ぼくは全くタッチしていません。
(「でも教授会にはでてたでしょ」と言われたら、それはそうだけど。でもまあ、その程度のかかわり。)
つまり、ジョークだということがうまく伝わっていなかったわけですね。とくに、授業で話してる内容にからなだことだと、本気で言ってるのかジョークなのかわからないとか、あるいは形はジョークだけど内容的には授業でいったことの延長だから答案にも書いた方がいいとか、そんな風に思われるのかも。
に、これからなる予定。でも古畑も見なくちゃいけないのだ。
ちなみに今1999/4/6 19:42。
どうしてあなたはそんなにも私のことを苦しめるのですか?
ええ、もちろんわかってるんです。あなたが私を私を苦しめているわけではなくて、私が一人で苦しんでるだけだって。でも、あなたからそんな冷たい言葉を聞きたくなかった。え? そんなこと言ってないって? ええ、もちろんわかってるんです。私の勝手な思い込みだって。でも、だめなんです。もう、どうしようもないんです。
いつか、お会いしたことがありましたね。渋谷で。お寿司を食べながら、あなたはおっしゃった:「ぼくは、君に話をするために来たようなものだね。」すごい感激でした。
でも、今の私はとっても苦しいんです。なぜって、あなたの心が私には読めないから。
ベッドでひとり横になって、あなたからのメッセージを読む日々が続きます。あなたのメッセージは、私の前にこ〜んなにたくさんあります。でも、あなたが言葉をつくせばつくすほど、あなたは私から遠い存在になっていく、そんな気がしてならないのです。
最近、あなたは私に自分のおっしゃりたいことを正面からぶつけてきます。でも、あなたの投げるストレートが、私には受け止められない。私がのけぞるような思いでぶつかっていくと、それが、それが… ああ、この苦しい胸の内、わかっていただけますか。
あなたの話が深まれば深まるほど…
ちょっとフィクション入ってます。ベッドに横になって読むわけではなくて、居間でテレビのワイドショー見ながら寝そべって読んでる。たまにうたた寝しちゃったりして。こんな状態であの人の論文読んで、頭に入るわけないっつうの。(でもこの論文、今回で読むの三回目か四回目だぞ。初めて読んだのが10年前の授業で、池上先生の解説つき。その次に読んだのが… 忘れた。とにかくこれだけ何度も読んでわあらんつうなあ、あああ。)
それから、読みはじめたのは今日の午後。ただし、明日以降も読みつづければ、「日々」は嘘にならない。
それ以外は基本的に事実。事実かどうか解釈によっては微妙なところがあるとしても、「それは ことばのあや ってもんでしょう」で済む程度だと思う。
確かに「レオ様」ってのは無理あるかも。Leonardに間違いないのだが、あの人を略すとLenになるのであった。
これは学部時代からのことなのだが、テレビなどで「もうすぐ春休み」と言われると、ぼくの頭の中では「もうすぐ春休みも終わり」と補完してしまう。「春休み最初の日曜日」は「春休みも終わりに近づいた日曜日」と読み替えてしまう。
普通の勤め人の人々は、「もうすぐ春休み」をまた違った思いで聞くのだろう。
テレビのニュースのカレンダーは、少なくとも「休み」に関しては、小中学生をもつ家族を中心に回っているような気がする。(高校生の位置づけは、よくわからない。あのくらいの年齢になると「家族サービス」の対象から外れるような気もする。)
というわけで、今週真ん中からから出勤。
明日も来ませんように。明後日以降も、来ませんように。メールボックスにも何も入りませんように。I wish ...
前にも書いたけど、いざとなったら面談するのだ。
メーリングリストのごみ片づけて、インターネットエクスプローラはじめ使ってないソフトウエアをどんどんアンインストールして、ついでにレジストリまでばしばし削りまくったのであった。
ハードディスクのことを「メモリー」と言う人がいる。 はじめのうち、言ってることがさっぱり分からなくて、私の頭の中は大混乱であった。
確かにハードディスクは記憶装置に違いない。柔軟性に欠ける私の脳味噌。堅くて歯ごたえあるかも。
編集の先生から電話あり。無事届いたとのこと。
学内の電気工事のため下記の日程で大学のインターネット接続が停止します。 この間は電子メールの受信等はできません。
停止期間:4月3日(土) 17:00 〜 4月5日(月) 10:00