最近同僚の某氏が盛んに、「快獣ブースカはとってもかわいいから、本多さんも一度見てみなさい。オフピーク通勤のポスターにも出てるから。」と勧める。
そこで、インターネットで画像を探してみた。いつか別の同僚が「快獣ブースカのうた」というのを歌ってくれたとき、「そんな間抜けな歌しらなぁい!」と率直な感想を漏らしてしまった私だが、その「間抜け」という印象は絵を見た今も変わっていない。
それはそうとして、「快獣」って一体何なんだろう。あれは「快い獣(けもの)」で済むものではないと思う。あれは、怪獣だ。怪獣だけど、人々に「怪」という(不快な)印象を与えるのではなく、「快」という印象を与えるもの、というものだ。
つまり、「快獣」という語は、同音の「怪獣」の存在に依存して理解される語である。
こういうのって、interlexicalityとでも言えばいいのだろうか?
「怪獣」の「怪」を「快」に替えたものだから、といってしまえばそれまでなのかもしれないけれども、でもそれだけ終わらせてしまっては面白くない気がするのだ。
いちおう書いたのだが、思うところあってボツにすることに決めた。
それを、どうせなのでここ↓に公開しちゃいます。
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初めてカツアゲにあったのは高校生のときだった。ゲームセンターの前で二人組に捕まった。押し(押され?)問答のすえ財布を取り上げられ、入っていた二百円を奪われた。返された財布を見ると札は全部無事で、おまけに
「もっと背筋をしゃんと伸ばして、堂々と生きろよ。」
などと説教までされてしまった。何ていうか、お節介な奴らである。でもまあ、カツアゲ少年なんて、実は意外と皆こんなものなのかもしれない。
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その十年くらい後の大学院時代。年輪のない顔とでも言うのか、私は実年齢よりもかなり下に見られる。そのせいなのだろうか。それとも逆に、あれは一種のおやじ狩りのつもりだったのだろうか。とにかく不覚にも、またカツアゲにあってしまった。
バイト帰りの夜八時過ぎ、コンビニ弁当をぶら下げてとろとろと家に向かって歩いていると、どこからともなく自転車に乗った少年が現れて、私の周りをちょろちょろする。こいつ、大丈夫かよ、などと他人事ながらも心配しつつなおも歩きつづけていると、突然彼が
「おい、お前今俺にガン飛ばしただろ。」
お前って誰のこと、などと後ろを振り向いてみたが、当然のことながら他には誰もいない。すると彼が、
「金貸してくれよ。」
ああそうか、カツアゲやさんなんだ、この少年は。私は首を横に振って言う。
『駄目だ。』
家までついてこられるのはちょっとばかり迷惑なので、近くにある郊外型書店の駐車場に行くことにした。私はアスファルトに腰を下ろす。彼は中腰。疲れるだろうに。
『座れば』
と言ってみたが、断られた。二人の姿は店に出入りする人から丸見えである。一人座っている私は、結構みっともない姿である。でも、何かあったときにすぐに見つけてもらえる位置でもある。
「あっちの公園に行こうぜ」
と彼が言う。
「こんなところにいたら、まるで俺がカツアゲしているみたいに思われるじゃないか。」
どうやら嘘のつけない性格らしい。私は私で
『だってカツアゲしてるんじゃないの?』
と率直な質問を返す。すると彼は
「違う、金貸してくれって頼んでるんだ。」
確かにそうだ。いちおう納得。
「千円でいいからさ。」
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私は言う。
『人から金を借りるときには、担保が必要だろ。』
すると彼は、
「タンポって何だ?」
この無知な少年のために、親切に分かりやすく説明する。そして
『君が今乗ってるその自転車でもいいよ。』
千円で自転車が手に入れば御の字だが、さすがにこれは
「駄目だ。」
と言われた。ということで、彼には担保となるものはないらしい。そして話は元に戻る。
「金貸してくれよ。」
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そんな会話を続けていうるうちに、いい加減腹が減ってきた。このままではせっかく温めてもらった弁当も冷めてしまう。しかし彼の前で(しかも駐車場で)一人で食べるのも気がひけたので、
『俺腹へってるんだけどさ、この弁当、いっしょに食べない?』
と言ってみる。
「いらない。」
せっかくの人の厚意を平気で無にするとは。
「それより金貸してくれよ。」
『だから担保がないと駄目だってさっきから言ってるだろ。』
「だからそんなもんないってさっきから言ってるだろ。」
ラチがあかない。弁当も食べられない。
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仕方がないので、話をそらしてごまかすことにした。聞いたところでは、彼は年は17歳。高校には行かず、アパートで一人暮らし。平日は工事現場で働いて、休日は新聞販売店。
『へえ、一人で自立して暮らしてるんだ。えらいね。ぼくなんかこの年でまだ親と一緒に暮らしてるんだ。』
カツアゲ少年を褒める私は究極のお人好しモード。
「年いくつなんだ?」
と彼。
『ぼくは27。』
「仕事、何やってるんだ?」
『まだ学生。』
「留年か?」
『まあそんなところかな。』
大学院の説明なんてめんど臭くてやってられないし、それに大学院で一年ダブったのも事実だ。すると彼は
「大変だな。」
しめた。うまく行くかも。
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しかしながらこの作戦は見事に失敗し、彼はふたたびお得意の
「金貸してくれよ。」
を思い出したようだった。仕方ないので、私が折れることに決めた。
『分かった。じゃあ千円貸す。来週の今日の同じ時間に同じ場所で返すこと。その代わり、この紙に住所と名前と電話番号を書いて。』
と私。紙を渡すと、彼は住所と名前をすらすらと書き、
「電話はないんだ。」と言う。偽の住所氏名だったらここまでよどみなく書くことはできない。やっぱり嘘のつけない男らしい。かくして、その紙と引き換えに、私は彼に千円札を一枚手渡したのであった。
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その紙を手に歩き出す私。どうせ彼は来ないだろうけど、いちおう来週の夜ここに来てみようかな、などと思いながらとことこと家に向かって歩いていると、どこからともなく自転車に乗ったさっきの少年が現れて、紙をひったくってものすごい勢いで走り去っていった。
「あっほ〜」
というカラスの鳴き声のような大声が聞こえた。何て言うか、しようもない裏切り者である。でもまあ、カツアゲ少年なんて、結局皆こんなものなのかもしれない。
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それから少し経った時のこと。まぁ、千円くらい大した金じゃないしぃ、でもやっぱりあれだけがんばって話したのにぃ、ああいうことされると傷つくよなぁ、などと悔しさで一杯になったままとぼとぼと家に向かって歩いていると、どこからともなく自転車に乗ったさっきの少年が現れて、私の手に何かを握らせる。
「俺があのまま千円持って逃げるとでも思った?」
と彼。
『さっきの住所と名前書いた紙渡せば、千円貸すよ。』
と私。お人好しと言われようが馬鹿だと思われようが、約束は約束なのだ。
「いや、いらない。」
そして彼は消えた。
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更に歩くと、彼の仲間らしき二人組とすれ違った。背後で、相談する声。
「あいつ…」
「いや、あいつはいいんだ。」
どうやら私の無事は確定したらしい。
家に帰ると、弁当はすっかり冷めてまずくなっていた。この落とし前、どうつけてくれる?
でもまあ、カツアゲ少年なんて、実は意外と皆こんなものなのかもしれない。
てゆ〜かそれって甘すぎ?
ぼくにとっては、古典的なかぜ。大学には行っているが、昔と違って体力が弱っているせいか、結構きつい。
先日の教養演習、ちょっとわけあって早目に終わらせたところ、質問に来た学生がいた。ちょっと議論(戦争のようなargumentではなくて、ダンスのような?discussion)しているうちに、次のような話になった。
「滑走路が近づいてきた」と「私たちは滑走路に近づいていった」の違いは視点の違いではなくて、「私たちは…」の方は自分の意志で何かやってるという感じになるということなのではないですか。
「自分の意志でやっているかどうか」ということと視座がどこにあるかということは一応別の問題なので、「自分の意志でやってるということだから視座の違いではない」ということにはならない。
でも確かにするどい観察ではあるので、『伊勢物語』に出てくる「修行者会ひたり」という文の解釈の話をしてしまったのであった。そして、現代英語の文についてのLangackerの観察も。
に、すきをつくようにして学生が研究室にやってきた。それも、いつもより人数が多い。どうやら例のあやしいビデオを見てみたい、ということらしい。
ということで、ずっと前から約束してあったTOEICの勉強法のビデオを別室でいっしょに見る。ぼくは何週間か前に一度見ていて、そのとき抱いた「自己啓発セミナーまがい」「新興宗教まがい」「マインドコントロールまがい」という率直な印象を学生や他の教員に伝えてあったため、その日来た人々にもその感想は伝わっていたらしい。ということで全員、多少身構えながら見る。
半分まで見たところで、内容の整理をかねてディスカッション。上記の「××まがい」という全体の雰囲気だけでなく内容にもいろいろと考えるべきところがあって、やはりあれは学生だけで見るものではないということを確認。適当にまとまったところで時間になったので、ぼくは会議へ。後半は、いずれまたリクエストがあったときに。
今回の校正では、紀要の本体というか全体の表紙と目次もチェック。ということで、誰が何を書いたか分かる時期。「書けそうにないから辞退するかも」と弱気なことを言っていた人の論文が載っていて、ちょっと安心。
まじめなタイトルの論文がずらっと並んでいる中で、う〜ん、やっぱりぼくのところだけ、浮いている。
使っていて分かったことだが、この二つの違いはバージョンの違いだけではない。だからバージョン4以降であっても、「Netscape Navigatorでどこどこのページを見る」と言ってもおかしいわけではない。
二漕式の洗濯機の場合に「洗濯機で脱水する」とも言えるが「脱水漕で脱水する」と言ってもいいのと同じようなものだと思う。
ある学会の機関誌の編集委員会から、ジャッケンドフについて書いてみませんかと話をもちかけられたのは、もう一年近く前のことだ。
---ぼくの書いたジャッケンドフねえ。そんなおもしろい書評論文があるんだったら、ぼくも読んでみたいもんだなあ---
と、そのとき思ったように思う。言いかたじたいはオリジナルではないが、それは、その時の私の気持をうまく言い表していると、今でも思う。その私の気持とは、かりに私と同じような考えの人がいて、ただしその人は、私とはちがってジャッケンドフの理論についての、かなり理想的で完ぺきな知識の持ち主であって、しかも私をうんと楽しませてくれるようなぐあいにジャッケンドフ論を書いてくれたとしたら、もちろん私は、その書評論文は夢中になって読むだろうし、また楽しいだろうなあという気持である。こういう気持は決して格別のものではない。すべて研究者というものは、自分が目にする書評論文に対していつもこのような願いを抱くはずだからだ。
しかしそんなことはまずあり得ないことなのだ。なぜなら、私と同じような考えの人は、すでに数年前にジャッケンドフ論を書いている人だったり、あるいはそもそもその学会につながりがない人だったりするし、また専門のジャッケンドフ論者は、私が読んで夢中になれるようなジャッケンドフ論を書いてはくれないだろうから。ということは、私が願うような、そんな書評論文はもう二度と書かれ得ないということになる。
そしてそんな書評論文はついにできてくれなかった。「私が書く」という条件すら満たせなかったわけであって、読者としての私が期待するであろうような条件が満たされる余地はそもそもないわけである。
火曜夜の『走れ公務員』というドラマを実は毎週見ているのだが、14日のスペシャルもしっかり見てしまった。
公務員の定義というのを実はよく知らないのだが、警察官という職業は公務員の定義的特徴をしっかり満たしているはずである。でも、少なくともテレビドラマの世界では、警察官は公務員のプロトタイプではない。
で、なぜプロトタイプでなくなってしまうかというと、それは(ドラマの世界の)警察官というものが公務員のICMにうまく合致しないからである。
んでもって、公務員のICMってのはどうなっているかというと、以下ぼくの推測で書いていくと
あれ、これだけ? ま、いい。要するに「全体の奉仕者」という建て前に合わない人々なわけである。で、テレビの世界の中での警察官(特に「刑事」と呼ばれる人々)は
あれ、これだけ? ま、いい。とにかくそういうものとして描かれるのが普通だろうと思う。ということで、公務員のICMとは合致しないのである。
んでもって、『走れ公務員』に出てくる白百合班という人々は、一見公務員のICMにぴたっと当てはまってしまう人々である。であるけれどもそれはあくまでも「一見」であって、実はあの人たちはあの人たちなりの使命感にしたがって行動している、という話なのだろうと思う。タイトルに「公務員」という語が出てきているのは、製作者がその辺のことを意識しているということだろうと思う。
と、ここまで書いてきてこれでは最初のうちいわれていた「公務員だってOLよ」(「婦警だってOLよ」だったかな。まあこれでもいい。)というキャッチコピーが説明できないことに気がついた。あれは何だったんだろう。
「公務員」と「OL」のICMの類似点と差異をだれか考えて。
最近のマツモトキヨシのコマーシャルも、「動物園に行けばパンダがいるよ」系だ。
ぱらぱらとめくってみたら、またごみだった(この文も「動物園に行けばパンダがいるよ」系だ)。
翻訳について考えるには「翻訳」を表に出した本を漁るよりも、まともな対照言語学の文献に当たった方がいいのかも。
ということだとすると、実は、ぼくの狙い通りだったということなのかもしれないが。
ただし、別宮貞徳・安西徹雄両氏の翻訳論は例外で、ちゃんとしていると思う。
基本的に個人の立場で書いたホームページを作りました。現代文化学部教員に限り、ご要望があればアドレスを公開いたします。メール、口頭などでご連絡ください。下のボタンを押すだけでも可です(メールアドレスと登録名が本多に届きます)。
試験運用中ですが、書き込みも可能です。cgiを使っているので、書き込んでもメールアドレスや登録名はこちらには分かりません。ただし、「お名前」が空欄だと書き込みできません。ちょっと時計が狂ってます。
「試験運用中」の「試験」が取れるのは…事務的な手続きが済んでから。
岩波書店の旧知の編集者から、チョムスキーについて書いてみませんかと話をもちかけられたのは、もう二年以上もむかしのことだ。
---ぼくの書いたチョムスキーねえ。そんなおもしろい本があるんだったら、ぼくも読んでみたいもんだなあ---
と、そのとき答えたように思う。言いかたじたいはちょっとおかしいかもしれないが、それは、その時の私の気持をうまく言い表していると、今でも思う。その私の気持とは、かりに私と同じような考えの人がいて、ただしその人は、私とはちがってチョムスキー学についての、かなり理想的で完ぺきな知識の持ち主であって、しかも私をうんと楽しませてくれるようなぐあいにチョムスキー論を書いてくれたとしたら、もちろん私は、その本は夢中になって読むだろうし、また楽しいだろうなあという気持である。こういう気持は決して格別のものではない。すべて読者というものは、自分が手にする書物に対していつもこのような願いを抱くはずだからだ。
しかしそんなことはまずあり得ないことなのだ。なぜなら、私と同じような考えの人は、すすんでチョムスキーを書かないだろうし、また専門のチョムスキー学者は、私が読んで夢中になれるようなチョムスキー論を書いてはくれないだろうから。ということは、私が願うような、そんな本はもともと書かれ得ないということになる。
ところがここにそんな本ができてしまった。「そんな」といっても、「私が書く」という条件が満たされただけであって、読者としての私が期待するであろうような条件の半分は欠けたままであるけれども。
(田中克彦 1983 『チョムスキー』 岩波書店 「あとがき」より。)
関係者の皆様にご迷惑をおかけしたことをおわびいたします。
別宮貞徳氏の『誤訳辞典』を十数年ぶりにぱらぱらとめくっていたら、「自分」と訳すべきoneを「他人」と訳しているといって驚き怒り呆れ果てておられるところ(誤訳9)があった(この文も「動物園に行けばパンダがいるよ」系だ)。別宮氏の指摘はもっともなのだが、それじゃあその誤訳を作った人はどのような思考過程を経て「他人」という訳に到達したのだろうか。
あ、そうだと思い当たってびっくり。これはきっとone→「ひと」→「他人」と考えたのに違いない。こんなことを思い付いてしまうのも、「人妻」論の副産物。
「人妻」の話は学外でも話題になっているらしい。学内の人々の反応と違うのは、これがframe semanticsの問題だということをくどくど説明しなくてもさっと分かってもらえること。
「妻」が性別を問わず配偶者を指していた時代には、「人妻」も女性を指す使用例と男性を指す使用例と両方あった。
ぼくの「人妻」論を受けて、某さんが「団地妻」について論文を書いてくださるという話だが、本気にしていいのだろうか。
ぼくが「人妻」の次にこれと関連してやりたいのは、次の二つ。
「○○」に入るのは、「人妻」?「亭主もち」?
発話者は誰?
○○だと、なぜ旅行に誘えないの?
10数年ぶりに(例によってぱらぱらっと)見直してみたが、やっぱあぶない。特に文法がらみのところは…って当たり前…ってことはないだろう。昔(といっても学部生の頃)のぼくはあれをいいと思っていたらしい。
掲示板を作った。現在試験運用中ということで、管理者(ぼく)以外には書き込み無し。そのうち気が向いたらリンク張ります。
現代文化学部でも、ご多分に漏れず?学生を対象に授業アンケートというものを実施している。といっても別に今がその時期ということではなくて、この前買った『たのしいテスト・評価ハンドブック』(仮説社、1998)を(例によって例のごとく熟読はしないで)ぱらぱらっとめくっていて、思ったことがあるのだ。
山田正男という人(高校の先生)の「やっぱり授業の評価はテスト後に?」という文章(初出は『たのしい授業』1991年5月号)によると、授業アンケートはテストの前にやるよりも後にやった方がいい結果が出るらしい。これは仮説実験授業の場合の話で、ふつ〜の大学の授業はまた話が違うのだろうが、仮にこれが大学の授業にも成り立つとして考えてみる。
仮に山田氏の報告がそのとおりだとして、それじゃあいったいそうなるのはなぜなのだろう。この本の他の部分をちゃんと読めば書いてある(←この言い方って「動物園に行けばパンダがいるよ」系?)のだろうけど、ここでは読む前に書いてしまう。というのは、前に書いたことと絡んでくるのだ。
授業アンケートというのは、ぼくの見方では「この授業ではこういうことを言いたかったんだよ」ということをどれだけきちんと伝えられたか、あるいはそもそもそれを伝え(ようとす)ることにどれだけ意味があるか、ということを 評価するよう学生に依頼するものである。
ところで試験終了後というのはどういう時期かというと、これはその「言いたかったこと」が一番はっきりと学生に伝わっているときである。学生は試験直前には(それなりに)一生懸命勉強するはずで、それによって「言いたかったこと」がかなり把握できているはずである。加えて試験というものはそもそも「言いたかったこと」をまとめたものなのだ。だからそういうときには「どれくらいきちんと伝えられたか」に関しての評価は当然上がるだろうと思う。
また、その言いたかったことを伝え(ようとす)ることにどれくらい意味があるかということは、言いたかったことを理解できていないと判断しづらいが、逆に理解できていれば判断しやすくなるだろうと思う。
ということかな。なんか抽象的に話をしているので、ほんとにこれでいいのか実はよく分かってなかったりするのだが。
ちなみに、ぼくは個人的には、授業アンケートは学期真ん中あたりでもいいと思っている。厳しい結果が出た場合次の週に教室に行くのが怖くなるかもしれないけど、でもアンケートの結果をもとに考えたことを即次回の授業から反映できるというのは、結構いいことなのではないかと思う。
う〜 内緒。まあ、良かったらここで自慢してたはずである。でもこういう人もいてくれたことだし、まあいいことにしよう…
やっぱりだめ?
最近、研究室の本がびみょうに、少しずつ、減っていっているような気がする
学生が部屋にくると、必ずといっていいほど本棚を見回しはじめる。そして:
先生この本借りていっていいですか。
ぼく:
いいよ。
借りていくのは全然構わないんだけど、どうせならちゃんと読んでほしい。
でもつまらなかったら途中でやめていいのだ。「本は最後まで読むべきだ」というのは「自分にとって価値のある本」に関しては言えることだが、それ以外の本にすべてに言えることではない。そして(様々なきっかけで)読みはじめた本がすべて自分にとって価値のある本であるという保証は、どこにもない。
でも読んでる本が「自分にとって価値のある本」かどうかを判断するのも、難しいかも。下手すると独り善がりになるし。でも、結構分かることが多いものだ。
一年生に向かって書いてるようなモード。あの人たちにはこのページの存在は教えていないから、多分読んではいないだろうと思うのだが。
いろんなところでいろんなオトナが口にする言葉なのでちょっと食傷気味だったが、でも目の前で実際に一年生がこの言葉を口にするのを聞くのは、けっこう感動的な出来事であった。
何の変哲もない表現だろうと思うが、英語では(多分)こういう言い方はしづらくて、If you go to the zoo you will see pandas.のように言う。(参考文献)
といったところでもう一度もとの日本文を見ると、「ぼくたちが動物園に行こうが行くまいが、パンダがそこにいることに変わりはないじゃないか」と言おうと思えば言えるということに気がつく。
「だから日本語は論理的ではない」という化石のような人はもう絶滅しているだろうと思うが、それではなぜ冒頭の文のようなのが日本語では違和感なく通用するのだろうか。
これは、実は世界のいろいろな言語と較べると英語の方が特殊かもしれないという可能性があるのでconclusiveなことは何も言えないのだが、とりあえず日本語と英語の対比だけを根拠に無理矢理説明するとどうなるかということを、先日の授業で解説したのであった。
甲子園で活躍した横浜高校のだれやらさんは、「在京セ・リーグの一球団」への入団を希望しており、その球団とは具体的には横浜ベイスターズなのだそうだ。
横浜ベイスターズが在京の球団と言えるのはなぜなのだろう。
と、思わず疑問形で書いてしまったが、これは、球団の本社がどこにあるかとか親会社がどこにあるかとか選手の宿舎がどこにあるかとかはきっと一切関係なくて、要するに「東京」のbaseないしscope(ここまではLangackerの用語)ないしはICM(Lakoffの用語。困ったときのICM頼みであって、ICMはいろいろ含まれるから分からないときにはここに持ち込めば大抵は間違いにならない)ないしground(figureじゃない奴)の問題。
ところで、所沢に本拠地がある西武ライオンズは、「在京」球団と言えるのだろうか。何も考えずに喋っているときには違和感なく通じるだろう、というのがぼくの予測。
6日のドラマの中のせりふ。
「す」を無声化しなかった話を現場にいた同僚に話したところ、「やっぱり計算してたんだ」と言われてしまった。
ということで(どういうことで?)、座右の銘(のうちの一つ)
Learn to laugh at yourself so you can laugh with others.
(Joan McConnell: Communicating Across Cultures, Seibido.)
ちなみにこの本は以前一年だけ教科書として使った。(一年使えば十分。)
英語学会の大会はパス。事実上、敵前逃亡である。
英語の教科書のカタログが送られてくる季節である。葉書きを出すと見本がもらえる、あれ。見本というのは、要するに現物を一部ただでくれるということ。つまり、来年度用の教科書はこの時期すでに出来上がっていることになる。
時事英語の教科書も例外ではなく、この時期でも請求すれば来年度用の見本がくる。ということで、これから年末年始にかけて起こる(かもしれない)重大事件の話は収録されない。(思い出すのはペルーの公邸占拠事件。)仮に収録されたとしても、再来年用に入ることになる。授業で使う頃には、「あ、そういえばずっと前こんなこともあったね」みたいな感じになる。それが「時事」英語の教科書なのである。
もっとも、時事英語の教科書は「時事英語」というタイトルではなくて「新聞英語」となっているものが多い。それだったら、古い新聞でも新聞は新聞だ。
でも、そういう問題なのだろうか。
教科書の中には、日本で起こった出来事についての記事を中心に集めたものもある。確かに内容が分かりやすいのでぼくもそういうのを使ってしまうこともあるのだが、日本国内の出来事をわざわざ英語にして読むこともないだろうと思ったりもする。何のための時事「英語」なんだか、よく分からない。
時事英語の教科書の中には、日本の新聞の社説だの天声人語だのを英訳したものを載せているものもある。
ぼくは日本語の文章のスタイルと英語の文章のスタイルとの違いをふだんはあまり意識しない人なのだが、そんなぼくでも社説や天声人語の英訳には堪えられないと思うことがある。やっぱり何か違うんだろうなと思う。
教科書を採用すると、出版社からキーホルダーだの定期入れだのといった小物を送ってくる。公務員があれを受け取ると、単純収賄罪にあたるという話である。送ってくるのが採用決定の前であるか後であるかは関係ないという話である。
ぼくの言語文化論Aは教職の必修科目(「英語学」)に指定されているが、今年、一度だけ説教がましいことを言ったことがある。
教員免許の取得を考えている人は、教職関連の科目(英文学、アメリカ文学、英語学、異文化間コミュニケーション論、あるいは英語そのものの授業)でやってることを好きになってほしい。全部を好きにならなくてもいいが、どれか一つは好きになってほしい。自分が好きになれないものを教えることほど、生徒に対して失礼なことはないから。
言語文化論入門の授業で去年、一度だけ説教がましいことを言ったことがある。今日はもう遅い。そのうち気が向いたら書くかも。
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