雑記

目次あやしい認知科学の世界ひ弱な大学教師の遠吠えだから私はTeXが好き

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最終更新 1998/4/28 19:5

4/28

昨日の話

現代文化学部の今年私が英語を担当している一年生

は、授業中とか授業の後とかにわりとよく質問をしてくる。それも、こちらの言ったことをきちんと理解していないとできないような、中身のある質問である。まじめな人たちだ。

現代文化学部の今年私が英語を担当している二年生

のあるクラスでは、小テストの解説をすると、「こういうのはいいですか」みたいな質問が来る。こちらもまじめである。

現代文化学部の今年私が英語を担当している二年生

のもう一つのクラスでは、授業中、指名されたけど予習してきていなくて沈黙してしまう人がいると、できる人がその人の席に行って教えている。まあ、こちらが奨励していることもあるが。M君はほとんどTAと化している。

非常勤時代

「英語は必修だから、どんなに評価を厳しくしても受講生が減らなくていいね」と言われたことがある。「それってやっぱりおかしい」と思う。言われた当時も思ったし、今も思う。「苦労してもいい」と思っている学生に苦労してもらうのはいいけど、そうでない学生も含めて一律に苦労させてしまうのはやはり問題があると思う。などと言いつつ、ついつい自分でもその非常勤先の教員のようなことを言ってしまうことがある私である。


4/26

*This book buys easily.つづき

他の動詞で裏を取らなければ。

部屋の論文の整理

一応完了。これって…

おかげで今週末にやるつもりだった仕事は全部パー。

他学部受講 (つづき)

に食堂で会ったので、何でまたぼくの授業を取ったのか、聞いてみた。「先生の授業をもう一度取りたかったから」。何ということだ。

教養演習

という、「何をやってもよい」という演習が駿河台大学にはある。今年来たのは法学部と経済学部の学生だけなのだが、この前のイントロでいきなり自己知覚とゼロ代名詞/人称代名詞の話をしてしまった。

この授業には「先輩に勧められて」という人がいたが、実は去年とはまったく違うことをやることになっているのであった。波乱含みのスタートである。

gender

という語から最初に思い浮かぶのが「社会的なカテゴリーとしての性」になっているということに気がついた。私は、「文法的なカテゴリーとしての性」がどこかに飛んでしまった、あやしい言語学者である。


4/24

*This book buys easily.

部屋の整理をしていたら、谷口一美さんの「中間構文: 他動性と事態解釈からみた成立条件」という発表(1995年11月、第20回関西言語学会ワークショップ「中間構文とその周辺への新たなアプローチ」)の資料が見つかった。(「行ってもいない学会の資料をなぜ持っているのか」という正当にして意地の悪い質問は無しということでお願いします。)ちらちらっとデータを眺めていて、あることに気がついた。buysellと較べて、何でsellはいいのにbuyは駄目なんだろう、と思いをめぐらすのも悪くはないが、それとはかなり違う見方もできるのだ。ただしこれは今のところただの「見方」であって、きちんとした説明ではなかったりする。


4/19

あなたは誰ですか?
Who am I talking to?

(言語活動の相互行為性)

今年の一月に社会言語科学会の第一回大会があって、そこで西阪仰氏がGoodwinの論文を引用しながら、こんなことを言っていた。

ここで示されているのは、一つの文の構築が、それ自体徹頭徹尾相互行為的だということである。「I gave up smoking cigarettes one week ago today acutually」という一文を話し手(J)が言い切るために、話し手は、第一に、その文を聞いてくれる聞き手が必要だったし、それと同時に、第二に、(聞き手がその文を聞いてくれるように)そのつど誰が聞き手(候補)であるかに合わせて、そのつど自分の発話をデザインしなければならなかったのだ。このような意味で、この一文の構築は、その場に居合わせた複数の人々の協同の産物である。
(西阪仰:「相互行為のための文法」『社会言語科学会 第1回大会 予稿集・総会資料』 70-75)

教員がなぜ、学生の私語を忌み嫌うのか。嵐のような私語の中では「自分が裸にされるような気持ちになる」とまで感じる教員がいるのはなぜか。話を聞きながら「うんうん」とうなずいてくれる学生が必ずしもきちんと理解しているとは限らないと頭では分かっていても、喋るときにはどうしてもそちらを向いてしまう、そういう教員がいるのはなぜか。前年度に自分の授業に出ていた学生が今年度は自分の別の授業にいるという場合、思わず成績を確認したくなるのはなぜか。同じ年に自分の授業に二つ以上重複して出ている学生をチェックしておくのはなぜか。それらは全部、ここにつながってくる。

語学や演習科目の授業はインタラクティブだが講義科目はそうでないという印象を持つ人がいるかもしれないが、必ずしもそうではない。講義科目の授業だって、それなりに相互行為的なのだ。

ところで、私がこの「雑記」をかなりの頻度で更新していけるのはなぜなのだろうか。それは…あなた方がいてくださるからです。でも、あなた方はどなたなのですか。

他学部受講

現代文化学部の基幹科目の授業には他学部履修の学生が結構いるらしい。現代文化の教員は他学部の学生を(も)対象とした授業にいろいろな形で関わっているから、そちらに出ていた学生の一部が入ってくるということなのかもしれない(違うかもしれない)。私の担当の「言語文化論 A (英米)」も例外ではなくて、昨年私の必修の英作文の授業に出ていた他学部の学生が一名、出ている。

彼の場合、私の授業の単位は取れるが、でも取っても卒業には関係ないはずである。3年生で語学の単位ももう必要ないはずだから、英語の授業を乗り切るための参考にしたいということでもないだろう。(もちろん英語の単位を落としてなければ、の話だが、でも彼はまじめな人だ。)教職にも関係ない。おまけに、朝の一限の授業である。

というわけで、駿河台大学にはまじめな学生がいる。彼に愛想を尽かされないようにしなければ。

初回の授業の日に教室に入ろうとしてドアを開けた途端、最初に見えたのが彼の顔で、思わず教室を間違えたかと思った私であった。


4/18

授業中のケイタイと私語

授業中に携帯電話の呼び出し音がなることがある。そういう場合、「りん」と音がしただけでも誰が「犯人」かを突き止めて反省文を書かせる、という人もいれば、「はいとめて」の一言で済ませて特にお咎めなし、という人もいる。私は後者である。(個人的には、ケイタイの呼び出し音よりも上空を飛ぶ飛行機(軍用機?)の音の方がはるかに不快である。)ただし、「電話に出て喋った学生は欠席扱いにする」と言ってある。

授業というものは教室内にいる人間同士(教師−学生間ないしは学士相互間)のコミュニケーション(の一種)として成立するものだ。だがケイタイで話すということは、教室外の人間と話すということである。これは明らかに、「授業に参加しない」ということに該当する。だから欠席扱いにする。もっとも、今の大学で私の授業中にケイタイで喋った学生はいないが(以前非常勤で行っていたところには、いた)。

ところで、ケイタイで話すということは、いわゆる私語とはかなり性格の異なるものだと思う。私語は「教室内にいる人間同士のコミュニケーション」に該当する。実際、学生同士の「教え合い」と「私語」の区別は、時に微妙なことがある。

ということで、ケイタイでの会話も私語もともにはた迷惑なものだが、ケイタイで話すことには単なるはた迷惑ではすまない面があるということになる。

なお、教員がケイタイで喋ったら、それは職務放棄に該当すると思う。


4/13

今売りのAERA

の、所沢高校問題についての記事が、妙、というか、面白い。 電車の中吊広告、新聞広告、そして当の記事のリードまでが、「どちらかといえば校長寄り」と読める書き方で書いてあるのだが、本文は「生徒寄り」と読める書き方になっている(てゆうか、そういう書き方にしてある)。ようするに、ちらっと見ただけの人と中までちゃんと読んだ人では読み取りが逆になるようにしてある。何か政治的な配慮のようなものを感じる。

今年度初授業

英語3コマ、すべて初回だが、すべて50分か60分くらい喋った。うち一つは他にやることもあったので、実質90分学生を拘束した。非常勤で教壇に立ちはじめたばかりの頃はどうやって時間を埋めたらいいものかわからず、すぐに逃げ出してしまったものだが。

授業中

ジョークを言うときはやっぱり照れて小声になる。まだまだ甘い。自分を捨て切れてない。スキーで言えば、自分の頭で自分のからだがコントロールできるという信念を捨てきれていない段階に似ている。

授業のあと

他の教員にコンピューターの使い方を教えたり図書館に行ったり研究室の整理をしたり質問にきた学生にお茶を出したり(もちろん質問にも答えたけど)そのあとまた書類の整理をしたりしていたら、ずいぶんと時間が経ってしまった。今日はキャンパスで9時間半過ごした。なかなかのものだ。ついでに帰りの電車で寝過ごして、帰宅は22時半。


4/12

所沢高校

について触れたテレビを見ていると、コメンテーターの人々がいかに無責任にものを言っている(言わせられている? 言わざるを得ない状況にいる)かが、いやというほどわかる。本当にもう嫌。ちなみに私の出身高校は所沢高校ではないが、所沢高校と同じ埼玉県内の、所沢高校と同じく県立高校。生徒同士を較べてみたら、気質というか価値観は似ているかもしれない。そして、生徒だけではなく…

コメンテーターの無責任さ

はきっと、所沢高校問題だけではないんだろう。そして、私がまったく事情を知らない事柄に関して彼らのコメントを聞いて「なかなか面白い見方だな」とつい思ってしまうのと同じような感じで、今回の事柄に関して世間の人は「なるほどなるほど」と思ってしまう、のかな?

翻訳の仕事の、もう一つの方

やっぱり自分でやらなければならないことになってしまった。他力本願モードって、やっぱりだめなのね。やっぱりやっぱり。

今年度は

翻訳以外に関しても、どんどん自分で切り回していかないと大変なことになる。

今日の仕事

授業の準備


4/11

出勤。

諸雑用。新しく入った英語の先生にはこれから大変お世話になる予定だが、なんか楽しく仕事ができそうな雰囲気だった。

まとめ書き

4/6分からここまで、まとめて書いた。


4/9,4/10

またもやお泊まり

で同僚その他とお出かけ。帰りに年甲斐もなくみんなで富士急ハイランドに寄り、ギネスブックに載っているというジェットコースターに乗る。証拠写真あり。一緒に写った人々は、なぜかそれを見たがらない。せっかく高い金出して買ったのに。でも乗らなかった人々に見せたらけっこう面白がってくれた(とぼくとしては思っている)。ジェットコースターは、しっかり目を開けて前を向いていた方が、結局は楽。そういえばスキーのときもずっと前を見るように言われた。つながりがあるのか。

バーチャルリアリティのアトラクションで視覚性運動感覚と、それから複数の知覚システムから入る情報が冗長にして等価であるということを(あらためて)実感。David Leeの実験でこけた赤ちゃんの気持ちがわかった、かな。

「てゆ〜か」の例文

ひとつ思いついた。

「本多さんて、ああ見えてなにげに度胸あるよね」「ていうか、彼は状況判断ができないんだよ」

4/8

翻訳のお仕事(最後のお勤め)完了。発送は家族に頼む。


4/7

今年度初出勤。1年生の担当クラスの学生に学生証を渡す。どの学生も学生証の写真そっくり。当たり前といえば当たり前。でも、二年生の終わりの時期に語学の授業の定期試験の際に見ると、ずいぶん違っているように思えるのです。 その後、諸雑用。


4/6

翻訳のお仕事(最後のお勤め)。途中まで。


4/5

「いつ寝るんですか」

共著で論文を書くときには、原稿をメールでやり取りする。私は結構大胆な時間にメールを書く。それで、「本多さんはいつ寝るんですか」という質問が来ることがある。いつ寝るんでしょうね。ちなみに現在時は1998/4/5 4:51である。私は長生きはできないだろうと思っている。

「学生を尊重する」というパフォーマンス


4/4

社名としての「ネットスケープ」

ネットスケープ・コミュニケーションズという会社の名前を略して「ネットスケープ」とするのはけしからん、と言う人々がいる。そういう人々はきっと、トヨタ自動車を「トヨタ」と略したりはしないに違いない。

「ネットスケープ」だけはこだわるけど他のことはどうでもいい、という人々がもしいたとしたら、それは専門家を気取る人々の排他主義的な思いあがり、ということになると思う。

計算ミスをする数学教師に憧れ、物覚えの悪い同級生を尊敬していた日々

(ハンディキャップ理論)

正高信男氏の本はどれも面白いが、あるとき『なぜ、人間は蛇が嫌いか:入門・人間行動学』(光文社カッパサイエンス)を読んでいて、「あ、やっぱりそうだったのか」と思ったことがある。

高校の頃、尊敬していた数学の先生がいた。数学のセンスも抜群で、おまけに数学教育のセンスも相当なもので、「この先生の言う通りにしていれば、どんなに数学に苦手意識を持っている人でも一定のレベルまでは確実に上がれる」と言われていた。実際、私は高校一年のときは数学はクラスでも最低に近い成績でとんでもない苦手意識を抱いていたが、この先生に出会った高二以降それなりに見られる成績となった。そして、「もっと出来るようになりたい」と思うようになった。

その人が、なぜかよく計算ミスをしていた。そして私は、その人の「計算ミスをする」ということに憧れ、「計算ミスをしない僕はなんてセンスのない奴なんだろう」と思っていた。「自分も計算ミスをよくする人間になりたい」とまで思っていた。その理屈はこうである。

この人は、こんなによく計算ミスをする。これは、数学教師としては弱点に属することである。しかもそれを堂々とさらけ出している。しかしそれにもかかわらず、この人は非常に優秀な人である。ということは、この人には「計算ミスをする」という弱点を補って余りあるほどの、すばらしい数学的なセンスがあるということに他ならないのではないか。

つまり、弱点があり、しかもそれを堂々とさらけ出しているということが、 能力があるということの裏返しだと解釈していたわけである。

大学時代、同級生によく度忘れをする人がいた。その人を見ながら、「自分も「最近度忘れがひどくてねえ」とぼやくような人になりたい」と思った。理屈は同じ。

この人はこんなに記憶力が悪い。それにもかかわらず東大に入り、、ちゃんと立派にやっている。これはまさに、「この人には記憶力の弱さを補って余りある思考力がある」という証拠に違いない。

正高氏によれば、このような発想が生物学では「ハンディキャップ理論」として提示されているということである。ということは、このような発想(?)をするのは私だけではなくて、同じ理屈で行動する動物が結構いる、ということだ。戦国の武将がわざわざ重たい鎧兜で身を包んで闘ったのも同じ発想だという話である。わざわざ動きにくい格好をしているからこそ、「あの武将はあんな格好をしているのに、あんなに立派に闘っている。ということは、あの人はものすごく強い人に違いない」と思ってもらえるのである。またウルトラマンは3分間しか闘えないという行動上の制約を背負っているが、これもハンディキャップ理論によれば彼のヒーローとしての偉大さを強調する効果を持っていることになる。つまり、ウルトラマンに憧れる人々もどこかのレベルで同じような発想をしている、ということである。

さて、私がくだんの数学教師に出会ったのは高2の四月であるが、この先生には高三の終わりまでお世話になった。その間に私の望みの一つは完璧に叶えられた。つまり、高校を卒業するころには、いつも計算ミスにおびえる人になっていた。それでもう一つの望みの方はどうなったかというと、数学の成績は「それなりに見られる」というレベルから先へは行けなかった。計算ミスが多いのだから当たり前といえば当たり前だが、それだけでなく解法のセンスもそれほど進歩しなかった。また、現在の私の記憶力は恐ろしく悪いが、だからといって論理性があるかというと、とてもそうは言えないだろう。

そもそもハンディキャップ理論とは「この人にはこんな弱点がある。それにもかかわらず、ほかと対等か、あるいは対等以上に渡り合っている。ということは、すごい能力がある、ということだ」という理屈で人や動物が動いている、という話である。ところが私個人の能力の場合は、よくよく考えるとこれとはぜんぜん違うことに、今この文章を書きながら気がついた。「もともと能力がない。だから他と対等に渡り合っていくのにも四苦八苦している。その上さらに弱点を抱え込んでしまった。」これではうまく行くはずがない。

そういえば

ハンディキャップとはちょっと違うけど、「細かいことにこだわらないおおらかな人になりたい」と思っていたらいつのまにか大雑把でいい加減な人間になってしまった、というのもあった。


4/3


4/2

ものを考える姿勢

何年か前、「OA化が進んでペーパーレス社会が来るかと思ったらそうではなくて、むしろ紙の消費量は増えている」という話があった。ワープロなどでは文書の修正が自在に出来るから、途中の段階では印刷せずに画面を見ながら作業を進めればよい。印刷は最後の最後でおもむろに一度だけやれば済む。場合によっては、最終的な文書だって、紙ではなく電子的に配布すればいい。だから紙の消費量は少なくなるはずだ。なのに、そうなっていない。そんな話だったように記憶している。

これはうろ覚えだが、日本認知科学会の機関紙『認知科学』の第1巻(1994だったかな?)に掲載された論文の中に、「ワープロの画面上での文書推敲の精度は、ハードコピーを使った文書推敲の精度より劣ることはあっても、優ることはない」という趣旨の研究成果が紹介されていた。これは、紙の書類を相手にものを考えるときの我々の姿勢と、ディスプレイを見つめてものを考えるときの姿勢がかなり違うということから来ているのではないかと思う。ここで言う姿勢とは何かというと、私たちの目がついている頭やら、私たちの手がついている腕やらから成り立っている私たちの身体の空間的なかたちの取り方のことだ。あるいは、そういう身体と私たちがみる文書との空間的な位置関係と言った方がいいのかもしれない。とにかく、比喩的な意味での「物の考え方の基本原則」みたいな姿勢ではなく、もともとの身体的な意味での姿勢のこと。

ハードコピーをみながら作業するとき、我々は自分の姿勢を比較的自由のコントロールすることが出来る。それは、文書の位置を比較的自由に変更することが出来るからである。たとえば、椅子の背もたれに寄りかかって左手に文書を持ってそれを見る。文書をひざの上において他の書類を見ながら同時に参照する。机の上に文書を置いてほおづえをつきながら見る。机の上に文書を置いて、真剣に読む。などなど。ところが、画面を見ながら作業をするときには、そうは行かない。ディスプレイは通常固定されており、片手でひょいと持ち上げるわけには行かない。そして、我々の姿勢はそのディスプレイの位置に従属する形で決定される。この違いがものを考える時の能率にどれくらい影響するかというと、かなり大きな影響があるのではないかと思う。

早期失明者が成人になってから開眼手術で視覚を得るという事例があって、鳥居修晃氏らが研究している。それによると、そのような人々はものの「形」を視覚で判別するのにかなり苦労するらしい。紙に書いた丸や三角四角の判別に苦労するということである。だが、同じように紙に書いた図形でも、ここで言う姿勢の取り方の違いによって、判別の成績に違いが出る。人が紙を持っている状態で見る場合よりも、自分で紙を持っていて、紙や頭を自由に動かせる状態で見る場合の方が、成績がよくなる。ものを理解し、考えるという次元では、同様のことが晴眼者でも起こるように思う。ちゃんとした実験があるかどうかは知らないが、書類を見るとき、他の人が手に持ってかざしてくれているのを見るときよりも、自分で手に持ってみるときの方が記憶や理解が簡単になるような気がする。

ということは、問題はハードコピーかディスプレイか、ということではない。分かりづらくなるのは他の人が持ったハードコピーだけではない。たとえば高校の頃、図書館で意味もなく『大言海』や『大日本国語辞典』や『日本国語大辞典』や『新英和大辞典』やらを眺めるのが好きだった時期がある。そのとき感じたのは、何とも言いようのない異和感だった。『新明解』などと違って立派な辞書のはずなのに、なぜか書いてあることがすっと頭に入ってこない。これは『新明解』の意味記述に特徴があるというレベルの話とは今考えてもやはり別である。大学院時代、研究室のOEDを見る必要があるときには、見るべき頁をコピーして見ていた。大きな辞書というのは重過ぎて手に持ってみることが出来ない、だから机の上にでんと置いて見るしかない、つまり、自分で姿勢を決められない、というようなことが関係しているのだと、私は信じている。

そういえば、私にはじめてコンピュータの使い方を教えてくれた友人はパソコンにUNIXを入れて使っている計算機の達人であが、こんなふうに言っていた:「研究を進めるときは紙に手書きでどんどん書いていくというやり方でないと自分は絶対に無理。論文化する段階まではコンピューターは使わない」。

「OA化の進行がペーパーレス化の脚を引っ張る」という逆説の背景には、こんなことがあるのではないかと思っている。結局、ものを考えるというのは、身体全体が関わる営みなのだと思う。


4/1


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