論文。実はこぴいあんどぺえすと連発の超安直すうぱあ使いまわしバージョンなのだが、それでも枚数も期限も問題なくできたのは、前も書いたけど奇跡。
今回の論文で、枚数がきれいに指定通りに仕上がったことと、指定された枚数が紀要論文の指定枚数と(たまたま)同じであったことと、関係はあるのだろうか。
とにかく、31日に発送できそう。(郵便局に間に合うように起きられれば、の話だけど。)
中間構文のことは忘れる。夏休みは視点の話で論文書くのだ。つながりは、ある。
何と、見ている。(じつはもとの放送は見ていなかった。)
桜井幸子は、デビュー当時、「東大生が選んだアイドル」を看板にしていた。そしてそれを看板にしていた頃は、あまり売れてなかった(ぼくの記憶)。そのうちだれも「東大生が選んだアイドル」と言わなくなった。気がついたら芸能界でそれなりの地位を確立していた(これもぼくの記憶)。
あくまでも記憶、なんだけど。
論文を打ち出してぼや〜と読みながらテレビなんかもぼや〜と見ちゃったりしていると、ニュースをやってて、何か言ってました。
何となく聞いていると、新しいニュースのヘッドラインに当たるようなところに来て、急にキャスターの喋りが力強くなりました。何て言ったかというと
「子どもを育てるのが面倒になって、棄てて死なせた母親が逮捕されました」
とかなんとか、そんな感じ。ふむふむ、そうか。何てひどい親だ。
やがて、詳しい説明に入りました。
という感じ。ふむふむ、そうか。何てひどい親だ。でもさ、そりゃちょっと違うんじゃないの。
確かに、被疑者は取り調べで「子どもを育てるのが面倒になった」という言い方をしたのかもしれない。
(しなかったのかもしれない。ほんとのところはぼくには分からない。でも、してても不思議ではない。)
でもそれをあんなふうに強調するのはおかしくないか。
少なくともぼくの場合、「子どもを育てるのが面倒になる」という表現が喚起するスクリプトは、「リストラ→借金・生活苦(→子ども育てる力ない)」ではなかったりします。
あとは偉そうなむすびの言葉をつけて、細かい調整をするだけ。
どうやら苦しまずに規定の枚数に収められそう。奇跡だ。書きはじめる前は「言いたいことをきちんと書くには、この2倍くらいいるかも」なんて思っていたのだが。
結局ぼくの考えることなんてまとめようと思えばいくらでも短くなるようなものだ、ということなんでしょう。
これが終わったらすでに締め切りを二箇月超過した仕事に移る。でもその前に新学期の授業の準備なんかもしなければならない。これは授業進行と並行してやらなきゃいけない。ということは、4か月はかかる。
え? 何とかしなくちゃ。
ついでに朝と夕方も逆転してるんだろうか。
なんのこっちゃ。
ものすごい勢いで進行中。もしかすると締切り前に完成するかも。
でも締め切りまでに担当者に届くようにするのは無理っぽい。恐縮。でもどうせ遅れるのはぼく一人ではないだろうし(たちの悪い開き直り)。
商業出版物に掲載される予定につき、出来上がってもホームページでは公開しません。抜き刷りがもらえなければ抜き刷りページにも出しません。
(世話にな(ってい)る出版社の営業妨害はしない主義。出版社の経営を圧迫することは論文の印刷公開の機会を減らすことにつながる。それは自分で自分の首を絞めることなのだ。
…という意見でない人もいるみたいだけど。ぼくはぼく、ひとはひと。)
「自分の論文だったら商業出版物に掲載されたものでもコピーを認める」と言った記憶あり。あのときは「自分の論文を読んでもらえることの方が出版社の経営よりも大事」と言っていた。
あれは撤回。といっても、彼女(理論言語学者)は覚えていないかもしれないが。
ただし「コピーを許す」を撤回するというのはこの場合「コピーを許さない」ということではなくて、「自分ではコピーを提供しない」ということ。ひとはひと、ぼくはぼく。
できたもの、どこに送ればいいのだろう。
書類は出版社から来てるんだが、論文は編集委員の先生のところに送ればいいのかな。はっきり書いてない(ような)のだが、どうやらそんな感じ。
「ガイドライン法案」を「ガイド! ラィン法案」と言うのはやめた方がいいかもしれません。
あの言い方をあのまま続けていると
「この人は「ガイド」という言葉は知ってるけど、「ガイドライン」という言葉はあまりよく知らないのだ」
とか、
「この人は自分が何言ってるか自分で分かってないんだ」
とか、
「この政党は全選挙区で候補者を出すことをモットーとしているから、中には人が足りなくてしようもないのを出さざるを得ないところも出てくるんだ」
とかいう感じで痛くもない腹をさぐられることにもなりかねません。
そんなに力まなくてもいいのに。
紀要論文、無事提出。
出ました。枯れ木も山の賑わい。
某病気の方のスピーチが痛々しかった。最後の卒業式だから何が何でも出たい、ということだったのだろう。
結局出ませんでした。
今年の卒業生にはぼくの授業に出ていた人々(おもに法学部)も結構いたし、その中にはできれば会っておきたかった人々も実はいたから、がんばって出てもよかったんだけど。購買でも声かけてきてくれた人もいたし。
…。
中間構文についての紀要論文のうち、図書館にあったものをコピーした。2本。
昨日BibTeXのトラブルの話で書いた西尾氏の論文は含まれていません。
1本は、支離滅裂系。「したがって」という接続詞の意味が理解できていないと思われる。ということで論理がなってないので非常に読みづらい。論文全体として言おうとしていることは…まあ妥当ではあったかな。ぼくの立場とは今のところ接点なし。ぼくの考えと対立もしないが、支持するものでもない。
もう1本は、お絵書き意味論系。Langackerの多用する図の意味をきちんと理解していないらしい。おまけに「図」と「地」まで持ち出しちゃったりして。ぼくは図地分化にはこだわってしまいます。ああいう使い方はだめ。もっとも、ぼくの解釈は言語学では少数派なんだろうけど。
後者の論文の鬱陶しいところは、お絵書き意味論系に支離滅裂系がスーパーインポーズされていること。論文全体としては…ぼくの立場とはおそらく相容れないもの。「おそらく」がついているということは、よく分かっていないということ。
後者の論文の著者の別の論文もコピーした。それは英語の進行形についての論文。これがまたやっぱりお絵書き意味論系+支離滅裂系の大変わかりにくい代物。でも、論文全体として言おうとしていることは、なかなかいい。でも、それに近いことを、もう10年以上も前に、私の先輩の某氏がその論文よりもはるかに精密な論理を駆使して論じている。なんだかなあ。
は、このページのソースをみても分かりません。あしからず。
それがなかなかできないから、論文のコピーの数がどんどん増えていくのである。
でも、去年の夏に読んだ某談話分析の論文は、今リサイクルボックスの中。
Funknetという言語学関係の国際的なメーリングリストに、最近有名になったウイルスファイル(Happy99.exe)が添付されたメールが流れました。すでに同リストにはフォローのメッセージ(情報提供のメール)が流れていますが、このファイルが添付されたメールは添付ファイルの復元などせずにただちにごみ箱行きにしてそのごみ箱をただちに空にしましょう。
Happy99.exeについての日本語の情報はここにまとめられています。リンクをたどれば万が一感染してしまった場合の対処法も分かります。
幸いなことにぼくのコンピュータは感染しなかったようです。
こういうごみは、まぢでしゃれにならないのだ。
ごみシリーズになってしまった。卒業式の日だったのに。
今使っているバージョン。.bibファイルの中に見知らぬ文字列があった場合、すぐにあきらめてエラーメッセージを出すのではなく、何とか処理しようとしてがんばってしまうらしい。ということで、
@article{西尾93高知大学,yomi = "にしおみほ",author = "西尾,美穂", year = 1993,title = "中間構文について", journal = "高知大学学術研究報告",volume = "42",number = "", pages = "109−118"}
などというデータがどこかに紛れ込んだ.bibファイルを処理しようとすると、「処理中です」の表示のまま黙り込んでしまう。
原因が分かるまで、ずいぶんかかった。
未明のBibTeXとの対話で時間を食ったため、寝るのが遅くなってしまい、某泥縄計画は断念。ということで、「再び英語の中間構文について」は強引に提出版の作成に入る。締切は25日。
私の行動は次のうちのどれになるでしょうか。
ついでに…
例年卒業式の日が紀要論文の提出締め切り日なので、「「今年」とはいつのことか」を出しに大学には行きました。
そして卒業式にも出ました。始まりの時間が分からなくて当日の昼過ぎに事務局に聞きに行ったお馬鹿とは私のことです。
謝恩会みたいなのは、出なかったような気がする。体調悪かったと思う。
(去年の雑記には卒業式のことは一言も書いてない。久しぶりに出勤したら状況論的アプローチがどうのこうのとか、論文のコピーがどうのこうのとか書いてある。)
例年卒業式の日が紀要論文の提出締め切り日なので、「再び英語の中間構文について」を出しに大学に行きます。その後は…
体調次第。
何となく。
学内で言いふらしたら嫌がられそう。
21日は、普段眠りに入る時刻に家を出る。自宅近くまでお迎えあり。車中、ちょっと油断すると入試の話になってしまう。場違い。
ということで、午前中からゲレンデに立つ。生まれて2回目、というか2日目というか。しかも前回は一年以上前。しかも今年は3時間睡眠。この状態だと、普通に出勤して建物の中を歩いていて階段でこけることもあるくらい、ふらふら。そんなぼくのやる気を祝福するかのように、午前中は快晴。調子に乗って昼はビールなぞ飲んじゃったりもする。確信犯。さすがにそこまで行くと許される範囲をこえると見えて、午後は降り出す。寒。
一本目。リフト、怖い。初級だか中級だか分からない(案内図もらってくるの忘れた)コース。降りはじめる前、やっぱり怖い。降りながら、とりあえずこけてみる。これ、やらないと気が済まない。受け狙いではなく、対処できない状態になった時の逃げ方の確保。これで恐怖心は消える。途中で斜度がなくなって、今度は進むのに苦労する。げろげろ。
その次(だったかな?以下同じ)、初級者コースの一番ゆるいところ。楽。
その次、最初のコースで、ターンの仕方を教わる。自分の身体の筋肉の力が左右対称でないことを実感する。それから、腰の筋肉が張ってる。これがひどくなると腰痛といわれるものになる。追い討ちをかけるように、普段の生活パターンとのずれから来る一日性constipation。そんなこんなで、力を入れるのが怖い。とにかく下に行く。
その次、中級者コースを通って、レストランへ。結構こけた。もう一度同じコースを通ったら、今度はうまく行くぞと思う。でも結局もう一度はなかった。レストラン、混み。ビール飲んだのはこの時。
食後。出ると降っている。中級コースの一番長いところに行く。新雪は初めて。それから、視界の問題。前方の視界が悪いのはまあいいのだが、横がどこまでいけるのが分からないのがちょっと怖い。ターンを繰り返しながら、こけまくる。ただ、こけたのは恐怖心の問題というよりは、なけなしの筋力を維持するための気合いの問題。「逃げ出したい」「楽になりたい」と思うと、次の瞬間こけていて、さらに次の瞬間「またやっちゃった」「悔しい」。つらくなると逃げる癖、スキー以外の場でも繰り返しているような気がしなくもない。んな感じで、へろへろになりながら下まで行く。この辺りまで、体育の先生に保育してもらった。
その後、若い女性たちに保育してもらうことに決めた。体育の先生その他は難しいコースへ。一番楽なコース(二回目に滑ったところ)とまあまあ楽なコース(最初に滑ったところ)を交互に。簡単すぎるコースは自分のためにならないと分かる。いい加減な体勢で滑っても楽にコントロールできるから、筋力疲労も加わって身につきかけた型がどんどん崩れていく。まあまあ楽なコースはやり方次第。ここをなかなかのスピードで降りたら「うまい」と女性からは褒められたが、要するにターンがうまく出来ていないだけ。コントロールが甘くて、「このまま行くとぶつかる」「このまま行くとコースはずれる」というcriticalなところでしか進路変更をしないから、速いのであった。それでも一番楽なコースよりは、練習になる。途中で休む。女性たちがケーキセットを食べるのに便乗。普段は注文してまで食べることはないが、こういう時は炭水化物が必要。
そんなこんなで一日終わる。
夕食の後、疲れて眠る。特記事項なしの睡眠。その後、風呂いってその後、小宴会。
小宴会の最中、ヨガとストレッチを組み合わせたものをやって皆を不審がらせる。高校のとき以来、これをやると身体の前後左右のバランスがよくなって体調がよくなる。ただし、2〜3週間は続けないと効果が出ない。ちゃんとやると30分かかるので最近はめったにやらない。これを、今回何年ぶりかでやった。これがぼくのやる気。もっと前からやっとくんだった。
その後、本格的に寝る。途中何回か目が覚めた。特記事項。寝入ってから最初に目が覚めるまでの間、足の裏に滑っているときの体重のかかり方の変化のような感覚を感じた。その間、「滑っている」という夢を見ていたわけではない。ただ滑っているときと同じような感覚を足に経験し、そういう経験をした、ということを起きた後も覚えている、ということ。REM睡眠のときに見る夢は海馬がらみの長期記憶形成(言語、数字などのシンボルの記憶の長期保持)に関わっているという説があるが、海馬が関わらない非シンボル的な身体運動の記憶のメカニズムって、どうなってるんだろう。
7時間睡眠。
22日。constipationは心配なし。筋肉痛。雪と風で、ゲレンデは大荒れ。寒い。難しいコースは閉鎖になっていたらしい。リフトに乗っていると、顔面を風雪が直撃。降りるときは降りるときで、ウエアのフードが脱げて頭丸出し(天気のいいときはフードをかぶらない私)。某同僚の言葉:「苦行ぢゃあ」。ぼく:「楽しみに来てるはずなんですけどねえ」。あまりに寒いので休憩しにレストラン?に行ったらそこもいっぱい。特に子ども多し。確かにこういう日に子どもがうろうろするのは危険。例によってかかってるのはだんご三兄弟と宇多田ヒカル。例によって思うのは、たんごはもういい、宇多田は買ってもいい、ということ。辛うじて座る場所を見つけて、ちょっとだけ休む。
そして再びコースに出ようか、と思ったらスキーがはけない。ブーツのうらが凍り付いていた。この日はこの件で同僚に迷惑をかけっぱなしだった。
この日はまあまあ楽なコースを中心に滑る。この日はまじめにターンの練習などしながらやる。相変わらず左右非対称。ひたすら寒い。ひたすら顔痛い。昼過ぎに切り上げて、帰る。帰りの車中、眠る。自宅の真ん前まで送ってもらった。お世話になりっぱなしの大名旅行、おしまい。ぼくみたいなお荷物をよく連れていってくれると思う。
それはそれとして、論文書かなくちゃ。
泊まりがけだが、この雑記の日付は飛ばないことに気がついた。
実は、仕事が進まなければドタキャンすると言ってあった。実際、仕事は進んでいない。でもドタキャンもしない。
登録した。
3月24日(水) 10:00 〜 17:00 の期間、メールの受け取りができません。
研究者ディレクトリで見つけたマイナーな論文は、図書館に複写依頼をする前に、うらを取り、なおかつ必要な情報を補足する。分かることはできるだけ調べて依頼した方が図書館の職員の受けもいいし、それにあとで文献リストを作るときも楽。
たとえばその論文が入ってるのが紀要なのか論文集なのかも分からないことがある。書名だけしか書いてない場合、本当に分からないことがあるのだ。論文集の場合、編集者や出版社が分かっていないと、実際に参考文献目録に書くときにつらい。その辺りを、Webcatで確認する。
紀要論文の場合、そもそもそれが日本語で書かれた論文か英語で書かれた論文がはっきりしないことがある。それから紀要の正式名称。それから、どこの大学で出しているものか、の確認もしておく。その辺を、学術雑誌目次速報データベースで調べる。ここで、ページも分かる。ただし、今のところ網羅的ではない。ぼくがお世話になっている『駿河台大学論叢』はカバーされていない。
どこでも何も分からないときには最後の手段でgooやInfoseek Japanも使う。著者のホームページにたどり着ければそこに業績リストがある場合がある。
図書館の複写サービスをやたら使いまくっているぼく。多分ヨクツカウヒトリスト(そんなのあるの? 職員の頭の中にはあるでしょ)に載ってる。
やっぱりあまり実り多い仕事ではない。実際、ごみが多いのは確かなのだ。
ちょっと(かなり?)オタクっぽい雰囲気があるのも確か。
研究室にいろんな大学の英文科の紀要が続々と届いて、新しいのが入るたびにチェックしていた記憶がある。あの当時はコピーする前にごみかどうかの判別ができた。現物を手に取って面白そうなタイトルの論文をぱらぱらっと見て、コピーする価値のありそうなものだけコピーする、ということができた。幸せだった。
感じわる〜い(←しまだむらさき(仮名)モード)。本人が十分に認識している事実をわざわざ口にするなんて、まるで某じょきょ〜じゅと喋ってるときのぼくみたい。
ひとり漫才モード。
日本国内の研究者に関しては、学術情報センターの研究者ディレクトリを使えばいいということに気がついた。
書いた本人しか存在を記憶していないかもしれないような紀要論文から、誰でも知ってる国際誌に載ったメジャーな論文までいろいろと分かります。
某事務職員によると、学術情報センターではこの検索システム(NACSIS-IR)
研究者ディレクトリ以外にもいろいろある。実はこれもそう。
を使ってもらいたがっているという話。フルに利用するには登録が必要で、しかも有料。無料のゲスト利用もあるが、こちらはごちゃごちゃと制限がついていて、めんどくさい。
ぼくも年度が明けたら登録するつもり。
ちゃんとデータを提供してない人の業績は、載っていません。それから、入力ミスが結構あるのも気になる。ConstructionsがCenstnictionsになってるとか。でもまあ、これは半分はその研究者の責任。「チェックしてちょうだ」という書類が毎年来てるはずなのだ。
後半は確かにその通り。
前半も確かにその通りかもしれないが、ぼくがそれを言ってしまうと自分で自分の首を絞めることになる。
意外と知らなかったりするのだが、それも分かるのであった。
みんな使ってね。(と言えば義務を果たしたことになる。)
やることは去年と同じ。去年は生態心理学の勉強というおまけがついた。今年は正しい長期休講のしかたを勉強しなければいけなくなったりして。きゃあ。
好き。高校の初めまで十数年間住んでた家の庭にあった。その頃は何も感じなかったが、引っ越した直後、自分はあの匂いが好きなんだということに気がついた。
せっかちな人はだまされたかも知れません。特に、Cookie拒否モードにしているとあぶない。
逆に、「何でここでCookie要求が来るの?」と思えた人は、きっと大丈夫だったことでしょう。
virtualと「バーチャル」は、かなり意味が違うらしい。
英語のvirtualは、「XとYは違うというのが前提/建て前としてあるが、でも、この二つを同じものとして取り扱っても全く問題ない」という意味。<相違>が前提として背景にあり、<でも同じ>が焦点として前景化される語。
日本語のでこの数年使われるようになった「バーチャル」は「XとYは類似していて一見区別がつかないが、実は違う」という意味。<類似>が前提として背景にあり、<でも違う>が強調される語。
力点の置き方が、逆。
宇多田ヒカルのアルバムは「入荷待機中」だったり「売り切れ中」だったりして、買えず。
「売り切れ中」というのは、初めて見た表現。「売り切れ」がboundedな状態であるという捉え方は、あまり一般的でないような気がする。
だんご3兄弟はいっぱいあったが、店頭でかかっているのを聞いていたら、「もういいや」という感じになってしまった。
ということで、宇多田ヒカルとだんご3兄弟をもってレジにいくという究極の恥ずかしい行動だけは避けられる見通しとなった。
面白い。すごく頭いい人だと思う。本を一冊通して読むなんて、4ヶ月ぶり。
ぼくなりに思うところはある。いくつかの、断片的な意見。いつかまとめて文章化してみたいとも思う。ただし、この雑記に書くのはその中の一部にとどまる見込み。 。
論文エトセトラの方は順調に停滞(←これ、ぼくのお気に入りのoxymoron。しょっちゅう使う。別名無責任語法ともいう)。
15時過ぎについて直で企画課の部屋いってそれから自分の部屋いって荷物おいて講義準備室いって部屋戻って教務いって担当者いなかったから他の人に頼んでそれから購買いって本買ってそれから図書館でコピーしてまた企画課の部屋いって部屋に戻ってサンドイッチ食って書類印刷してまた講義準備室いってまた部屋戻ってそれから総務いってそれから経理いってそれからまた総務の様子をうかがって忙しそうだったから後にすることにして部屋に戻って営業部いってでも忙しそうだったから後にすることにしてもう一度総務いって奥の様子見たらさっきよりもっと忙しそうだったから今日はやめることにして部屋に戻って途中で電話もかかってきて結局最終バスで帰った。
うろうろうろうろ。
一箇所に長居をしていない、ということは要するに大したことはやってないということ。
宇多田ヒカルとだんご三兄弟のCDを探そうと思っていたら、通学路?にあるCD屋さんは休みだった。しくしくげろげろ。
このまえぼくの部屋にきた某きょーじゅの第一声。ホワイトボードが落書きだらけなのを言ったのか、部屋がやたら散らかっているのを言ったのか。
多分両方。
その同じ某きょーじゅがちょっと経って発した質問。
学生がホワイトボードに描いたものは(一部の不適切なものを除いて)消さずに残しておく主義。学生が残していった伝言メモも捨てずに一見無造作風にテーブルの隅においておく主義。学生が部屋のドアにはっていった絵などもそのまま置いておく主義。
クリスマスツリーの形の切り紙と、「A Happy New Year」と書かれた紙。さすがにこれを残しておいたら(本当の)間抜けである。
学生が残していったものをドアの内側に貼っている。これ見よがしに外側に貼っておくぼくとは違う。
ぼく。もちろん本文をちゃんと読むときは前から読むのだが、はじめて出会ったばかりの論文に「これはどんなものかいな」みたいな感じでみるときは、後ろの参考文献と謝辞をみる。
ただし今回の論文↓は基本的には応用編であってあまり原理的な話はしていないので、参考文献欄をみても理論的な枠組みについての示唆はほとんどえられないに違いない。とりあえず中間構文について論じた先行研究が並べてあるだけ。
院生の頃にはそういう野心を持っていた時期もあったが、最近はもうどうでもいいやという感じ。身近にいる優秀な人々に認めてもらえた方が幸せ、という感じ。
英語についての論文は英語で書き、日本語についての論文は日本語で書く、という原則を捨てて久しい。
こういう文章が好きだ。
正直に言ってしまうと、科研費の実績報告だって一時はどうなるかと思ったくらいなのだ。
やりはじめた。机の周りがちょっとすっきりした。だがその代わり、寝る場所がなくなった。
やはり一年に一回はこれやらないとだめらしい。どうせまた失敗すると分かっていても。
一度守りの態勢にはいってしまうと、攻めに転じるのはしんどい。というわけで、攻めるのは断念。
「再び英語の中間構文について」 『駿河台大学論叢』 18.
次のお仕事。といっても、これがなかなか。
思わず高野・北山論争とからめて読んでしまった。
民間企業の営業担当者っぽい喋り方をする人もいることが分かった。
この検索ページはとりあえず今のところ非常に使いづらいです。いきなりこちらにとんでファイルに落としてエディターで検索かけるなりgrepかますなりした方が楽です。
でもそれよりももっと楽なのは、紙の目録を見ること。
って実も蓋もない言い方だけど、でもこの規模の出版社の場合、目録は紙で見た方が早いから、ホームページは目録以外のところで勝負してくれるものでないと、作る意味がないのだ。
目録に関しては、言語学出版社フォーラムの 「言語学図書総目録」のWWW版ができて、そこに発展的解消、というかたちが一番いいのではないかと、勝手に考えている。
年末にくろしおから届いた新刊案内に、橋内武『ディスコース:談話のおりなす世界』というのが載っていた。もう出たのか、まだなのか。
何を隠そう、この本のもとになった雑誌連載「談話分析の基礎と応用」はぼくの「言語文化論入門」の準備用資料の一つだったのだ。
ということで新年度の教科書に指定しようかとも一瞬思ったのだが、実際には指定しなかった。授業で言及するのはほんの一部だけだろうから。
とりあえず、見つけ次第買うつもり。
やっと書いた。ここ(からたどっていったここ)にお世話になった。
LaTeXは研究活動の最強の助っ人。論文書きだけでなく、事務的な面でも。
相変わらず重宝して使わせてもらっている。だが、
このデータをこの文献から引くのはまずいんじゃないの?
とか
このデータに関しては原論文では2ページ前にこんな不気味な注があるよ。
とか
原論文ではそういうまとめ方はしてないよ。
とかいうのもちらほらある。あの本のデータを自分の論文に引用するときにはもとの文献を見てからでないと、あぶない。
まあ、当たり前といえば当たり前の手順なのだが。
それでもやっぱり、便利。
【特集 − 複雑系科学の観点からみた知能の創発】
も読もうと思ってるのだが、それより先に
【紙上討論】
を読みはじめてしまった。それも、最後の高野論文から始めるという掟破りの順序。高野陽太郎氏といえば以前『傾いた図形の謎』を読んで感動したことがあったが、あの鋭さは健在。
認知科学ではrepresentation changeというらしい。
ここ数年非常に危ない雰囲気だったが、とうとうつぶれたらしい。帰り道に寄れる書店がなくなったのは、痛い。
毎日ぼ〜っと他の人の日記を読んでいると、
やっぱり自分も書きたい!
と思う。
でも、いざこうしてファイルを作って書き始めると、う〜ん、以前のようなエネルギーが出ないのであった。よだき〜(って使い方正しい?)。論文書いてたりもするし。
何だか文体も定まらない。書いていて落ち着かない。でもやっぱり書きたい。
2月の雑記のカウンターは、現時点(1999/3/9 3:33)で545。わずか10日間でこんなに行った、わけではない。
落ち着いたのは3月にはいってから。
という感じで、しきり直し。こっそり復活。去年の今頃と同じモードで、口頭では誰にも言わない。
猿人の更新報告もなし、というのは「爆発」後も投票してくださったり見に来てくださったりしていた方々に対して失礼に当たるのだろうか。
「書く人は、どうあっても書かずにはいられないのです。きっと。」 (mds990217-ののこさんどうしているのかなより)
どうやら反例になれなかったらしい。
メールのお返事、偽カウンター関係を除いて、結局まだ書いていない。
西田さんから本をいただいた。
松居さんからいただいた南方熊楠についての報告書が3/8日付けの毎日新聞「余録」で言及されていた。
年度明けに公開に向けて動きがある模様。
同上。
ぎく、締め切り間近。でもその前に↓。
こっちを先に書いてます。これ書かないと、これ↑書けない。まだタイトルだけしかついてない節もあるというのに、、全体としてはもう守りの態勢にはいってしまって、細かい言い回しのチェック始めたり、例文の取捨選択始めちゃったり… これじゃ先に進めない。
う〜、とっくに締め切りすぎてる。げろげろの上塗り。
某学生に見てもらったが、すこぶる評判が悪い。
民営化したという噂は本当なのだろうか。
妙に官僚的というか事務的な口調。別に滞納しているわけではないのだが。