1998年6月の雑記

目次あやしい認知科学の世界ひ弱な大学教師の遠吠え

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最終更新 1998/6/29 2:49

6/28

教養演習で喋ったこと 増補

現在、受講学生はこのページの存在を知らない。と言っても、知っても得にはならない書き方をあえてしているわけだけれども。


6/27

女子校通信のホ−ムペ−ジ

というのを見つけた。別にいかがわしいページじゃありません。どこかの女子高校で教えている先生が作っている、「教育的ではありませんが、興味本位でもない」というページ。おもしろいです。

中田英寿オフィシャルホームページ -- Hide Chaser --

ある心理学者のページを見ていてたまたま見つけた。

「ここに掲載しているメッセージは、中田英寿本人からのメールを原文のままご紹介しています。」とのこと。プロが書いたものとしてそのまま雑誌に載せたらぴたっとはまってしまうような、それこそ 口述筆記したものをゴーストライターがリライトしてるんじゃないの? と思わせるほどの文体です。かれはやっぱりすごく頭がいいらしいです。


6/23

Langackerと三浦つとむ

Langackerの``Consciousness, Construal, and Subjectivity''という論文を途中まで読んだ。``Observations and Speculations on Subjectivity''を読んだときも思ったことだが、これはほとんど三浦つとむの世界である。

1970年代に三浦つとむに寄り添って研究していたひとびとが今の認知意味論をどう評価しているのか、気になる。


6/19

きれいな部屋

17日の空き時間、重要な書類を発掘した後に残ったまあどうでもいい奴らを整理したので、16日に書いた学生二人組が整理してくれたところはまたそれなりにきれいになった。それから、一昨年くらいから溜まっていた取り扱い要注意の古いプリントをまとめてシュレッダーにかけ、リサイクルに回せる紙をどさっとリサイクル箱にぶち込んだ。ということで、本棚の一隅を占領していたプリント類が姿を消した。

その日の4時半過ぎ、例の二人がまた質問があるといってやってきた。椅子に座るなり:

  • ひとりの学生:「あ、この前掃除したのが維持されてる!」
  • もうひとりの学生:「まだ二日しかたっていないじゃない」
  • 片づけておいてよかった。

    そのあと

    3人で8時前まで勉強した。 途中、用事があるといってきた教員とはドアのところで立ち話。


    6/16

    ワールドカップ初戦の余波

    学生から「中田英寿に似ている」と言われた。Mr. オクレ/ひさうちみきおとはずいぶん違う。どうしたんだろう。

    確かに普段かけている眼鏡の形は似ているかもしれないが。

    研究室の掃除

    最後の英語の授業が終わった後、質問があるという学生二人を研究室に連れていった。教科書を借りて必要部分をコピーしに行って(ぼくが担当している授業ではないのであった)戻ってくると、二人が本棚の整理をしてくれている。「先生って神経質そうに見えるから、部屋きれいだろうなって思ってたのに!」などといいながら、嬉々としてやっている。

    一段落つくまで待って、それからお勉強。

    二人が帰った後見ると、超重要な書類とまあどうでもいい奴とがごちゃ混ぜに積み重ねてある。区別できないのは二人の責任ではない。とりあえず重要なのだけは、と発掘作業を始めたら、結局元の木阿弥。せっかくきれいにしてくれたのに、ごめん。


    6/14

    「学生は柔軟だから…」

    ある時ある人がふと漏らした言葉:「学生は柔軟だから、どんなにだめな教師からでも何かを学び取れる」。

    妙にほっとしてしまう私。


    6/13

    「合衆国」

    同僚に話し、授業でも話したことを、しつこくここにも書く。これまで話さなかったこと(今思い付いたこと)も断りなく付け加えて書く。

    英語でUnited Statesといえば(通常?)アメリカ合衆国(United States of America)を指す。また日本語で「合衆国」と言った場合も同じく(通常は)アメリカ合衆国を指す。しかしながら、正式国名に「合衆国」が含まれる国はアメリカ合衆国だけではない。

    メキシコの正式国名は「メキシコ合衆国」である。この国の公用語での正式国名は調べていないが、英語ではUnited Mexican Statesである。そこで疑問が出てくる。United Statesないし「合衆国」がアメリカ合衆国を指すという現状に対して、メキシコの人々はどのように感じているのだろうか。「自分たちの国だって略し方によってはUnited Statesや「合衆国」になるのにぃ!」と思っているのだろうか。それとも別に問題だとは思わないのだろうか。

    ということで、United Statesないし「合衆国」という表現をアメリカ合衆国のみを指すために使うのは、可能性としては、メキシコ合衆国の存在を無視した言い方ということになるかもしれない。あるいは、もっと戦闘的な言い方をするならば、メキシコ合衆国に対する「抑圧」に基づいた言葉使いということになるかもしれない。

    ただし、United Statesという英語と「合衆国」という日本語は使用域が異なる。日本語で「合衆国」というのはあの国の政体を相当強く意識しているときだけに限られるような気がする。つまり、かなり専門性の高いディスコースに限られているということだ。政体を強く意識しない場合は、たとえばテレビのニュースなどでも、「アメリカ」を使う。それに較べると英語のUnited Statesはもっと制限が弱いような気がする。(ちゃんと調べたわけではないけれども。)ということは、日本語の「合衆国」は専門性の高いディスコースで使われる語であるだけに、英語のUnited Statesの場合よりも問題が大きくなるかもしれない、ということだ。

    もちろん、無視したことになるかどうか、抑圧に該当するかどうか、ということは当のメキシコの人々がどう感じているかにもよる。私はメキシコ人ではない。だからこういう議論はただの余計なお節介に過ぎないのかもしれない。でも、そうではないかもしれない。

    『認知言語学入門』

    が大修館書店から届いた。

    この本の訳者解説は池上先生の授業に出ていた人にとっては聞いたことのある話がほとんどではある。が、それはよい解説かどうかということとはまったく関係がないことである。それではこれが果たしてよい解説になっているかどうかというと…ものすごくいい解説です。

    自分が関わった本の宣伝をするのはASAHIネットの規約上問題があるのだけれども、営利目的でなければいいはず。ということで、図書館で借りて読んでくださいねと強調しておけばいいのかしら。(問題があるようだったらこの本についてのコメントは全ていさぎよくすぱっと削除します。メールでご教示ください。)

    文化って何?(続きになってない続き)

    「文化って何?」でちらっと触れた環境と有機体の相互作用の問題、それから井上氏と光延氏や山梨氏との争(?)点の一つでもある普遍性と相対性の問題、言語と思考の問題(サピア・ウォーフの仮説、それからスロービンの``thinking for speaking'')などについても、『認知言語学入門』の訳者解説で触れられています。

    なお、井上氏の『もし「右」や「左」がなかったら』は、自分で買って読みましょう「文化って何?」で書いたような問題とすべき点はある(と私は思うのだ)けど、でも買って読む価値はあります。(人の本なので堂々と宣伝してしまう。)

    認知言語学における「図」と「地」

    1994年の英語学会のワークショップの前後に、TalmyとLangackerでは「図」「地」の理解のしかたに違いがあるよね、というようなことを早瀬尚子さんと話した記憶がある。その議論が一方ではぼくのdissertation (1994)に反映され、他方では『認知言語学の基礎』(現物は研究室においてきてしまった! だから発行年が分からない)の早瀬さん担当部分に反映されているわけだが、『認知言語学入門』の第4章の議論はその点に関してぼくたちの理解と異なるところがある。これは、書かずにずっと黙っていようと思っていたのだが、池上先生が訳者解説の中で言及しておられるので、もはや黙っている意味がない。ということで、書いてしまった。(池上先生が訳者解説の中で言及しておられるので、ここで書いても意味がない、という話もあるが。)

    『認知言語学入門』における「図」の理解にはもう一つ気になるところがあって、それは訳者間の電子メールでのやり取りでは出た話なのだが、池上先生の解説の中では言及されていないので、書かないことにします。


    6/12

    文化って何?

    買った()本の中に『もし「右」や「左」がなかったら』(井上京子、大修館書店)があった。読み終わって思ったことは、「文化って何なんだろう」ということ。もっと具体的に言うと、「文化的な違いがあるかどうかって、どのような手続きで規定されるんだろう」ということ。

    言語と文化の関係、特に両者の間の影響関係を考えるには、文化的な特徴(の異同)を言語的な証拠に依存せずに規定して、それを言語の構造(の異同)と較べる、という基礎作業が必要になると思う。それをせずに、言語の違いを根拠として文化の違い規定して、それをもとに「言語の違いが文化の違いに影響してるんだよ」と言っても、話が循環するだけだ。これは、井上氏がちらっと言及している光延氏論文の一つの論点でもあると思う。

    この本で扱われている問題に関しては、さらに「環境」という要因が絡んでくる。つまり、言語と「文化」の関係を考えるだけはおそらく不十分で、この両者に対して環境がどのような影響を及ぼしているか、あるいはこの両者から環境がどのような影響を受けているか、を考えなければいけないような気がする。

    さらに、言語と思考の関係を論じる際には系統発生のレベルと個体発生のレベルを区別する必要があると思う。

    これらを考慮に入れると、この本で扱われている問題は

    ある構造を持った(自然の)環境が存在する。生物である(つまり、環境からの影響を受けないで生きていくことができない存在物である)人間が構成する集団がその環境の中で適応的に生きていくためには、ある特定の行動および思考のパターンを採用するのが楽、ということがありえる。そのパターンが複数ある場合には、選択の余地がありうるし、意図的な選択でなくても、偶然その中の一つが採用されるということもあるかもしれない。(だからunpredictable but motivatedということになる。)その採用された行動・思考のパターンが集団レベルで慣習化して、それがもう一つ別のレベルでの環境、つまり社会的な環境を構成することになる。その社会的な環境の中で生き延びていくためには、ある特定の行動および思考のパターンを採用するのが楽、ということがありえて、それがまた慣習化する。その、二段階の慣習化を経た行動および思考のパターンが文化である。そして、その行動および思考パターン(つまり文化)が(系統発生レベルで)言語の構造という形で現れる。

    という(井上氏が目指している方向とはおそらくまったく逆の)形で議論することも可能かもしれない。

    ということで、井上氏にはぜひ、「このような考え方では言語や文化は説明できないのだ」という議論を展開して欲しいと思う。もしかしたら、『もし「右」や「左」がなかったら』は一般向けの本だからそういう議論はあえて避けた、ということかもしれない。それだったらそれはそれでいいと思う。また、Levinsonとかはその辺をちゃんと議論しているからそちらを見てほしい、ということであれば、それもそれでいいと思う。ただ、今年の初めの社会言語科学会のシンポジウムでの、山梨正明氏の問題提起に対しての井上氏のコメントとか、この本の中での光延氏の論文に対する扱いのしかたとかを見ると、そういうこととはまた別の要因が絡んでいるかもしれない、と思ったりもする。

    こんなことを書いてしまうのは、私がマーヴィン・ハリス流の生態人類学の影響を(10年くらい前から)受けてきてしまったせいかもしれない。もっともハリスはまじめな文化人類学者からは嫌われているようだが。

    本を買った。

    注文してあった大修館の本が どさっ! と大学の売店に届いた。主に全集、選集、シリーズものの類いを狙い撃ち。その他共立出版の認知科学関係の本、国研の報告書類も届いていて、合わせると段ボール箱があふれんばかりになってしまった。台車を借りてレジに並ぶ。ぼくの授業に出ている学生がたまたまそこに居合わせて、「先生それ全部買うんですか?」。

    レジの人も一瞬パニックしかけたようだったが、手際よく台車からレジ台の上に本を移し、素晴らしいスピードで打ち込んでいく。ぼくも本をレジ台に移すのを手伝い、それから打ち終わった本を台車に戻す作業をやったが、ほとんど休む暇がなかった。それほど打ち込みのスピードが速かった。

    合計金額が出る。あらかじめおろしておいた金額の倍になっていたので、急いでまた自動支払機に行く。といっても支払機はレジの目の前と言っていいところにあるので、時間はかからない。

    戻ると、レジの人は領収書を書き始めていた。実は領収書よりもレシートの方が嬉しいので、領収書は断る。科研費で払うので明細が欲しいところだが、さすがにこれだけの数になるとちょっと頼めない。あとで自分で作るしかない。 (普通の領収書では全部まとめた金額が書かれるだけなので、きちんとした明細が作れない。レシートなら、一点一点の値段が記入されるので、正確を期することができるのです。)

    さっきの学生がまた来て、「いくらくらいになりました?」。金額を言って、また驚かせてしまった。おそらくは、彼女が一回に本を買うときに支払う金額より、2桁大きい数である。そうなんですよ。教員というのは教室では偉そうにしてるけど、陰では学生の何倍も一生懸命勉強してるんですよ。(とてもそうは見えないという声もありそうだけど…)

    台車ごと研究室に運ぶ。レシートを見ると、合計67冊。念のため現物を数えると、ぴったり67冊。そうでなければいけないことだとは言え、感動する。ぼくがレジ係だったら2〜3冊の誤差が出ても不思議はないところだ。

    ということで、明細を作る。明細には書名、著者名、購入先、購入点数、値段を書く。まず、明細の用紙にレシートから67冊の値段を転記する。それが済んだら、レシートは大事にしまっておく。購入先と購入点数は問題ない。最後に、レシートに書かれた値段と現物に記載された値段を較べながら、書名・著者名・出版社を記入していく。ほとんどパズルである。最初に書いたように全集選集シリーズものが多く、それらに関しては(特に気を使ってくれたわけではないようだが)同じシリーズのものは連続して打ち込んでくれていたようなので、ちょっと書き方を工夫すれば「繰り返しの記号(ちょんちょん)」で済ませられるが、工夫しないとめんどくさいことになる。出版社は大部分が大修館だが、他のも混ざっているので、やっぱりちょっと考えないといけない。 という感じで、今三分の二くらい書き終わったところ。

    なお、この日は会議がいくつか重なっていた。存在することに意義があるオリンピック型の会と雑用係として奉仕しなければならない会(なに型って言うんだろう)が混在していて、その間を縫っての、私利私欲追求の行動であった。

    本をいただいた。

    あまりよく知らない出版社から出ている英会話本には近寄りたくないものだが、著者を普段から知っていて、しかもきちんとした人だということが分かっている場合には話は別である。

    先日、現代文化学部のVardamanさんから『よく使う話しことばの英単語』(中経出版)という本をいただいた。分野別に単語を分類した一種のシソーラスだが、各単語はそれだけぽこっと出ているわけではなくて例文の中に入っている。英文は(当然)普通の英文なのだが、ついている日本語訳も普通の日本語である。ところどころに当該の単語についての簡単な解説がついている。たとえば96ページには「instanceは一般的な例証としての具体的な例」「exampleは典型的な例」とある。そういえばプロトタイプ効果がらみの話でgoodness of exampleやgood exampleという言い方は出てくるけどgoodness of instanceやgood instanceは見た記憶がないなあ、あれはそういうことだったのか、などとあらためて思ってしまった私であった。

    CDが2枚ついていて1800円+消費税。ここで宣伝しても私には金銭的な利益は全くない。

    ホームページの文字強調

    いろいろなページを見ていると、たまに、見出しの部分に下線をひいてあることがある。見出しだから引いてあるというだけのことなのだろうが、私は馬鹿なのでリンクと区別がつかなくて えいっ! と思いっきりクリックしてしまうことがある。ううん。


    6/6

    削除。


    6/2

    日本英語学会のホームページ

    を発見した。

    ホームページの設計思想

    書き始めた。


    6/1

    コードスイッチング

    帰りのスクールバスと電車で、アメリカ人の教員と一緒になった。最初は本がどうのこうのというようなたわいもない話を日本語でしていたのだが、そのうち、彼が突然英語で喋りだした。それは、大学の仕事の話、そして、学生の話…要するに、あまり人に聞かれたくない内容が混じった話。

    実に久しぶりに、英会話の練習をしてしまった。

    7月11日と12日

    駒場で「認知言語学フォーラム」というのが開かれる。一応、事前の申し込みが必要らしい。実は11日は大学で仕事があるのだが、免除してもらえることになった。だって、非常勤講師のための慰労会。要するに宴会である。私の顔を見て喜ぶ非常勤の先生はいないから(嫌われている、というより、まともな知り合いがいないのだ)、私が行っても逆に気を使わせるだけで、全然慰労なんかにはならない。だから何の罪悪感もなく、堂々と休む。

    実は11日は別の集まりもあって、一昨年はそちらで発表させてもらっちゃったりもしたのだが… 両方行くのは無理だから、どちらか一方に絞るしかない。どちらに絞るかといえば… しようがないよねえ。許してもらえるよねえ。ぼくが妙な気を使ってそっちに行ったら、かえって変だよね。←などと、何を書いてるのか全然分からない人ばかりかもしれないと思いつつも、一応書いておく。


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