1998年7月の雑記

目次あやしい認知科学の世界ひ弱な大学教師の遠吠え

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最終更新 1998/9/20 3:53

7/20

認知言語学をやるって、大変なことだ!/言語学者になってはいけない!

認知言語学フォーラムの打ち合わせのときに複雑系の池上高志氏と話した際に、池上さんの口から出た言葉。以下に、ぼくの理解を書く。


2)「認知言語学」

「認知言語学」とは何か? という一大問題に対して、 私たちは…次のように提案しました。

認知言語学は人間の言語能力を研究するにあたって、人間の認知能力一般についての知見を自覚的・積極的に援用し、言語を認知一般の中に位置づけて捉えようとする枠組である。

これはどういうことかと言うと、認知言語学者というのは、言語だけではなく認知一般を研究しなければならない、とまではこの規定からは言えないにしても、少なくとも、認知科学とか(認知)心理学とかの文献を自分で読んでいかなければならない、ということです。人間の言語能力が他の認知能力とは切離された独立のモジュールをなす、という生成文法的な前提を排すると私たちの先達が宣言しており、かつまた私たちがそれを支持している以上、これは避けられない帰結であるといえましょう。生成文法流のモデュラリティーを口では否定しておきながら実際に読むのは言語学者の論文だけというのでは、とんでもない自己矛盾をおかすことになってしまうと思われます

なお、世の中には、ひょっとしてひょっとすると、次のような3段論法を(それとは意識せずに)採用してしまってる人もいるかも知れません。

ここで、誰やらさんのところには、Langacker とか、Lakoffとか、Talmyあたりが入ると考えて下さい。

つまり、先に提示された「認知言語学」の規定のうち、「人間の認知能力一般についての知見を自覚的・積極的に援用し」の部分は他人まかせにしておいて、自分はその誰やらさんがしいてくれた道にそって進む、というやり方です。これでも言語学者としてやっていくことはできますが、しかしそうするとそのような姿勢で研究している人は私たちの…想定していた認知言語学者の規定には合わないことになるでしょう。 …


実はこれは1994年7月9日(土)に書いたメールの一部。たとえば「図と地」は、言語についての学問をはみ出した人がいたからこそ、言語研究上のて有効な概念であることが分かったのであった。そして、これまでに言語学に導入されたものだけで認知の原理が出尽くしているかというと…、そんなもの、どうして分かるの、ということだ。

ちなみにこのメールの続きは…


3)「認知」

…私たちは目標を2段階に分けて設定しています。第一が、認知言語学の方法論上の多様性の一端を紹介することであり、第二が、多様であるにも関わらずそれらが「認知言語学」という一つのカテゴリーにまとまることを証明すること(ないしは、まとまり得るかどうかを検討すること)であります。 …

そしてこの多様なアプローチをまとめる名称が「認知言語学」であり、かつ私たちがその名称を妥当なものと認めるということであるならば、それらにまとまりを与えるときのカギになるのも、やはり「認知」ということになりましょう。つまり私たちは、個々の研究者の研究を検討する際に、その背後に潜むその人の認知観を問題にしなければならない、ということです。「認知言語学者」と言われる、ないし自称する人々の様々な認知観はどのような関係にあるのか、それらは果して互いに整合性を保った形で発展しているのか、整合性がないとしたら、私たちはどのような態度で「認知言語学」をやっていったらいいのか、を考えなければなりません。 …

私たちの…目標の一つとして

多様なアプローチの背後にあって、それらを「認知」言語学たらしめているキー概念としての「言語」観、「認知」観を探っていく。

とある以上、

というような問題についての、 …見解…も、あるいは必要なのかも知れません。

4)まとめ

…これ…は、…過大な要求…かも知れません。しかし、 これはいつか、誰かがやらなければならないことだと私は考えております。誰かがやらないことには、互いに全く整合性のない認知観・言語観をもった人々が「認知言語学者」を自称・他称する時代が必ず来ます。 (すでにそれは現実のものとなっている、という人もいます。) これは「認知言語学」という呼称が意味を失うことであります。そうして呼称、というかレッテルというのは恐ろしいもので、

「認知言語学」という呼称には意味がない

という(その時点ではもっともな)主張が

「認知言語学」と呼ばれる枠組には(すべて)意味がない

という主張にすり替えられることも十分に考えられます。

そうなったときに、たとえば生成文法の人から

お前ら「認知」なんて言ってるけど、結局だめだったじゃないか

といわれたら、私たちはそれに対して相手を納得させられるような議論ができるでしょうか。私たちのやろうとしていることの背後には、このような危機感があるのだと、少なくとも私個人は信じています。

認知言語学をやる人の数が増えてきたということで、喜んでいられる時代はもうすぐに終ると、私は考えています。 …

Date: Sat, 9 Jul 94 02:26:48 JST
From: Honda


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7/18

形容詞の項構造の変化?

西武線の電車に乗ると、西武園ゆうえんち(「ゆうえんち」はかな書き)の広告があって、そのコピーは「みんなにたのしいトコロだゎ」である。

化粧水か何かのテレビのコマーシャルで、「素肌にうれしい何とか何とか」と言っている。

「楽しい」「うれしい」の経験者がニで表示されるというのは、ぼくにとってはとっても興味深いことである。

「やさしい」は前からこの構文だった。

「ホームページを作る」とは?

前々から気になっていたのだが、学内には現代文化学部ホームページを本多がひとりで作ったと思っている人がかなりいるらしい。

ぼくの認識では、あれはあくまでも4人で作ったものなのだが、ぼく以外の3人の人々までもが、「本多が作った」と思っているらしい。なぜこのような食い違いが生じるのだろう。

これはおそらくは「ホームページを作る、とはどういうことか」についての理解の仕方の違いからくるのだろうと思う。

3人を含めた人々は、ひょっとすると次のように考えているのかもしれない。

ホームページを作るとは、コンピュータを駆使して何かやることである。

それに対してぼくは、大体次のように理解している。

ホームページを作るとは、全体の構成を考え、そこに載せる資料を集め、集まった資料を入力し、適宜構成を変え、いくつかのhtmlファイルを中心としたファイル群にまとめる、という作業をすることである。

このうち、資料集めに当たる部分はとてもぼく一人で出来ることではなかったのです。インタビューとかもあったし。だから、誰が何といおうとあのホームページはぼくを含めた4人で作ったものだと、ぼくは理解しているのです。

ホームページを作る上で一番考えなくてはいけないのは「どういう情報を誰に向けて発信するか」ということであって、つまり中身の問題である。これがはっきりしないページは誰にとってもおもしろくないものになってしまう。そして「誰に何を」をはっきりさせたら今度は「何」の部分、すなわち発信するに価する情報を集めなければならない。この情報集めのプロセスは、コンピュータとはあまり関係がない

情報が中身の問題だとすると、アクセスした途端に音楽とともにネコが迎えてくれるとか、ページが自動でくるくる変わるとか、画像が多いとか少ないとかということようなことは、すべて入れ物の装飾の問題である。中身をしっかりさせようとせずに入れ物の装飾にこるのは、虚しいことだ。

ところがところが、ホームページに関わる一般の認識ではこの「中身が主、入れ物は従」という原則が逆転されて捉えられている気配がある。その結果、画像の読み込みやJAVAの起動に異様に長い時間をとられた挙げ句、「あんなに待ったのに出てきたのはこれだけかよ」と腹が立ってしまうページや、こういうことをしてくれるページがあちこちに出現することにもなってしまうわけです。

ということで、あのページはぼくが遊び心で作った装飾部分が話題になることが多いようなんだけど、もっともっと中身(ほかの3人が関わった部分)が正当に評価されてもいいのではないかと思っている。

ちなみに

ちなみに、この「雑記」も含めて、ぼくのページの読者としては同業者、つまり言語学者を想定している。(しかもその大部分は大学教員(志望者)であると想定している。)これは「ぼくの個人ページの存在を知っていそうな人(1997年4月の開設時に宣伝メールを送った人プラスアルファ)」のうちの、とくに「ぼくの個人ページに関心を持ってアクセスしてくれそうな人」が誰であるかを推定した結果である。

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7/15

自分の言葉に、他者として接する

以前書いたように、ぼくは大量にプリントを配る授業でもかなり板書をする。それも、用意しておいたことを書くのではない。板書は、喋りながらその場で思い付いたことを即興で書くのである。

あらかじめ用意しておいたことは全部プリントの中にぶち込んである。つまり、プリントを作る際には「これ以上何も補足することはない」というつもりで作るわけである。だが、やっぱり補足しなければならなくなる。

要するに、頭の中だけで考えるのと、実際声に出して言うのとの間には、かなり大きな差があるらしい。違いの第一は、頭の中だけで話が済んでいるときには、話がぴょんぴょんスキップしても気がつかないでいられるが、声にする場合はいちいち全部言わなければなければならないから、話を細かくたどることになるということ。だが、多分これより大きいのは、声に出して言う場合には、自分の言葉を耳から聞きながら話を進めていく、ということだろうと思う。これは、自分の言葉に対して他者として接する、ということである。

そういえば、これに関連する話はにも書いたことがある。

模範解答

言語文化論入門の試験は一週間前に問題を公開している(これをぼくはひそかに「拡大JB方式」と呼んでいる)。その「前ばらし」版の問題文は、「次のうち、自由に1998問選択して解答してください。」としておく。1998というのは、今年の年号。要するに、「問題は公開するが、そのうちいくつ選んでもらうかは公開しない」というだけのこと。それ以外に特に深い意味はない。そして、それに続けて20問前後の問題を用意しておく。

実際の試験では、「1998」を適当な数に変えたものを出す。これは、解答用紙のスペースと解答時間を考慮して決める。並んでいる問題は「前ばらし」版と全く同一である。ちなみに、本番の試験は何でも持ち込み可で、だから家で答えを考えてきたものを写してもいいし、友達と一緒に勉強した成果を披露してくれても構わない。優しいでしょ。

そんな試験を15日にやった。その1時間ほどあと、用事があって図書館にいくと、その試験を受けた学生が勉強していた。毎回出席していたまじめな学生であり、なおかつ自分がFAをやっているクラスの人だということもあって、静粛にしなければならない場でありながら、思わず声をかけてしまうぼく。すると…

「昨日皆で一生懸命勉強したんですよ。こんなにたくさん準備しちゃいました。ところで、選択しなかった問題で、自分で考えても答えが分からなかったのがあるんですけど、興味を持ったんで、模範解答か何かありませんか?」

こういう人がいてくれると、とっても嬉しい。

ブリンクする文字列

かりに、次のようなものに出会ったら、どう感じられます?

Welcome to the home page of the Facuty of Contemporary Cultures!! We do hope you will all love Shunpei the Cat!!
どうです、この文って、なかなかどうしてあなどれないでしょう。

Facultyのつづりが違っていることさえ、思わず見落としてしまいそうないきおいである。が、世の中には、こんな感じのこってりしたページを作るのが好きな人もいるらしいです。ぼくの趣味ではないけど。

念のために言っておくと現代文化学部のページでは、実際には、こんなことはやっていません。あそこはぼくの趣味で作った、あっさり系のページです。

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7/14

外人、外国人、日本人

「外人」という表現は排他的なニュアンスがあるから、「外国人」と言い換えようという動きがある。PCがらみの議論である。でも、排他的って、具体的にはどういうことなんだろう。言語の面から考えると、実はこれは「日本人」という語/概念に関わっているのではないかという気がする。

ずっと昔、といっても…何年のことだったか思い出せないからやっぱりずっと昔、フジモリという人がペルーの大統領になった。その当時、ある中学生だったか高校生だったかが、次のように言っていたのを記憶している。

「フジモリ大統領って、本当は日本人なんでしょ」

それを聞いたある大人が何のためらいもなく「そうだよ」。

おいおい、彼はペルー人だ。ペルー人でなかったら、ペルーの大統領になれるわけがないだろ、とぼくは大真面目に反論したのだが、「またいつものへ理屈が始まった」みたいな感じであしらわれてしまった。

「フジモリ大統領って、本当は日本人なんでしょ」と言う人々は、高見山や小錦やツルネン・マルティやロペスに関しては、「日本人ではない」みたいなことを言いそうな気がする。でも、見方によれば、彼らは日本人である。日本の国籍を持っているのだ。でもそんな話は多分通じない。「日本の国籍を持ってはいるけど、でも本当は日本人じゃないんだ」という返事が返ってきそうな気がする。

つまり、日本人という概念は二重性をもっていることになる。すなわち

あ:日本に住んでいる人の大部分と同じ民族に属する人 (民族モデル)

い:日本国籍を持つ人 (国籍モデル)

という構造になっている。そして、「日本人」の典型と見なしうる人々はこの民族モデルと国籍モデルの両方を満たしている。そして、片方しか満たしていない場合であっても「日本人」とカテゴライズされることがある。motherという概念が多重的であり、なおかつその多重性の基盤となる複数のモデルのすべてを満たしていなくてもnantoka motherとなりうるという話をLakoffがWFDTの中でしているが、それと似たことが「日本人」にも起こっているわけだ。

そして、「日本人」の背後にあるこの二つのモデルは対等ではない。法律の世界ではもちろん国籍モデルの方が民族モデルよりも優勢なはずだが、日常の世界では民族モデルの方が国籍モデルよりも優勢であろう。これはフジモリ氏が大統領になった時点でもそうだったはず(だから「フジモリ大統領は日本人ではない」というぼくの議論はへ理屈扱いされたのだ)だが、その当時だけの話ではなく、今も基本的には変わっていないだろうと思われる。ついでに言うと、えらい先生方のお書きなる「日本人論」だって、大抵は民族モデルからみた日本人の話じゃないのという気もするし。

ここで話を「外人」と「外国人」に戻すと、この二つの語は(少なくとも現時点では)全く意味が違うということが分かる。どちらも「日本人でない人」と規定することが出来るが、今見たように「日本人」は多重的な概念であり、「外人」と「外国人」にはその多重性に対応する形で意味の違いが生じているのだ。

「外人」の規定に出てくる「日本人」は民族モデルによって規定される概念である。その証拠に、フジモリ大統領は、おそらくは、「外人」ではないし、小錦はおそらくはいまでも「外人」だろうと思う。そして、個人の出自としての「民族」は意思や努力によって変えられるものではない。そこから、「外人」という語の何とも言いようのない排他性が生じてくるわけだ。

他方、「外国人」は語形成から見る限りでは、国籍モデルに基づく「日本人」を念頭においた上で、それ以外の人々を指すのに使う語である。

そして、「外人」を「外国人」で言い換えることを主張する人々は、「外人」という語の排他性は認識しているが、しかしその排他性が「日本人」概念の二重性と結び付いているという認識はないようである。「日本人」という語の用法には全く手をつけようとせずに、「外人」だけにこだわっているのだ。

「外人」を「外国人」と言い換えること、その一方で現時点においてなお「日本人」概念の基盤として国籍モデルよりも民族モデルが優勢であるということは手付かずのまま残されるということ、この二つが組み合わさって起こることは…

「外国人」の意味変化である。「日本人でない人」の「日本人」が国籍モデルではなく、民族モデルに基づくものに転換するのではないかと思う。その結果、現在の「外人」がもつのと同じような排他性を「外国人」がもつようになるのではないか。そして、現在の「母国語」に見られるのと同じような、形と意味の不一致が生じるのではないか。

以上、実際の状況に関してはほとんど推測で書いているが、論理的には、そんなに突拍子もないことではないでしょ。誰かインフォーマントチェックしてくれないかしら。

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7/7

抜き打ち大テスト実施!

書くのやめた。(1998/7/14 16:4)

心理学の本の翻訳原稿

ついに発送!

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7/6

キティちゃんの下敷き

教室にはクーラーが入っているはずなのだが、設定温度の関係か、今日は異様に暑かった。指名した学生を「はいがんばって!」などといぢめながら(?)、ぼくは近くの学生に下敷きを借りてあおいでいた。

「キティちゃんって、昔と今とで顔が違うんだってね」などと言いながらふと手を止めてよく見ると、「下敷き以外の用途には使わないでください」とある。そんなものをうちわの代わりに使うのはいくらなんでもまずいので(?)、すぐに返してしまった。

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7/5

授業のノートはペン書きで

ぼくは講義科目では大量にプリントを配るが、それだけでは足りずにけっこう板書もする。どういうことを書くかというと、喋りながらその場でいきなり思い当たったことを書く。即興で書くから、しばしば適切でない例文を書いてしまったりもする。しかしいちおう考えながら書くから、適切でないということがすぐに分かる(ことも多い)。そこで、「ごめん、これは無し。変えます!」とか何とか言いながら黒板拭きで消して書き直すと、背後から「ええ〜 書いちゃったぁ」という何人かの学生の声。そんな中で、かちかちっという音がする。見ると、私がFAをやってるクラスのある学生が修正ペンを使っている。

「今、修正ペンの音がしましたが、授業中にノートを取るときには、鉛筆やシャーペンではなく、ペンで書きましょう。これはほんとは4月に言うべきことだったかもしれないけど」と、私。すかさず、「何でですか?」と、同じくぼくのクラスの別の学生。いい反応である。

「鉛筆で書いたノートは、何年か経つと擦れて読めなくなります。ペンで書けばいつまででもちゃんと見えます。こんなつまらない授業のノートなんて、そんなに何年も取っておかない、という人もいるかもしれません。でも、皆さんは4年生になったら卒業論文を書かなければなりません。そのとき、もしかしたら一年生のときの授業のノートを調べることがあるかもしれない。そのとき、ペンで書いてあればちゃんと読めるので、腹を立てずに済みます」

ぼく自身は、こういうことを予備校時代、世界史の講師から聞いた記憶がある。が、実を言うとそれより前の高校時代からすでにペン書きしていた記憶もある。何を考えてペン書きにしたのかは、まったく覚えていない。何となく気まぐれでしたのか。それとも何か考えるところがあったのか。

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