シンハラ語私記④
「私、忙しい」という言い方のシンハラ的な意味

シンハラ語私記④ 「私、忙しい」という言い方のシンハラ的な意味
シンハラ語質問箱 Sinhala QA62-4

2006-2-11 2008-03-27 2015-May-23



 「私、忙しい」とシンハラ語で言ったとする。それ、本当に「私が」忙しいのか。なんだか、そのあたり、日本人の感覚で受け取る「私は忙しい」とは違う。「忙しい」のだけれど…

 

「私、忙しい」という言い方のシンハラ的な意味

 のっけから厄介そうな文法用語の「与格」で話を始めます。
 シンハラ語の主語は与格で始まってしまうことが多い。「与格で始まる」のではなくて「予格で始まってしまう」ところがミソ。与格で始まるというは、たとえば、「私は忙しい」と言うところを「私に忙しい」と言ってしまうことです。
 「与格で始まる」だなんて急に切り出されてもちんぷんかんぷん。「格」という用語で文の仕組みを捉えるなんて学校教育の国語/こくごではやらないし、強制して学習させられる学校英語でも習わなかった。
 そこで、「私は」が主格で、「私に」が与格です、と分かった風に解説されて、やや馴染みのある「私は」が主語=主格、「私に」は補語=与格なんて英文法用語で説明されたりすることもあるけど、これがやっかい。主格=主語、与格=目的語なんて具合にすっきり結ばれるわけではないし、余計に文法って厄介になってしまう。
 私たちの日本語(国語/こくご)では主格などは教えないし、SVOCなんて文法用語も英語でなければ接することもない暗号に過ぎなかった。
 だから、ここは文法ってやつをリセットして「シンハラ語の文は格文法で解いたほうがすっきりする」というところから始めてみましょう。何しろスリランカではシンハラ語を格文法で教えますから。

 格文法だなんて分からない、ですか? 大丈夫。スリランカの子供たちだって素では何も知らないところから始めるのです。そして、文法を教え込まれても、やはり、何も分からない。えっ? それじゃ何のために!
 分からないけど、シンハラ語、シンハラ人はまともにしゃべっています。国語だって、そう、私たちの日本語だって私たちは文法知識などに頓着しないで話しています。
 という事は?
 そう、むしろ厄介な予備知識なんてないほうがいいということ。シンハラ語学習、それは会話学習の場合ですけど、そこには在り来たりの文法知識なんてないほうがむしろ会話学習に好都合なのです。
 
   文法のつべこべはここで止めておいて、最初に提示した「私、忙しい」を聞き取ってみましょう。解説の中に「与格」なんて文法用語が入ったりしてますが、この用語、すっ飛ばして読んでくださって結構です。文法より文法以前のことばの有様を包みとるほうが会話術の本質にぐっと近づけますから。

 シンハラ語では「私は忙しい」と言うとき、「私はmama」ではなくて「私にmaTa」と言います。

 මට මහන්සියි
  maTa mahansiyi
  マタ   マハンシイ
  私に/与格 忙しい
× මම මහන්සියි
  mama  mahansiyi
  ママ    マハンシイ
  私は/主格  忙しい

 左のマタ・マハンシイは直訳すれば「私に忙しい」。シンハラ語では右のママ・マハンシイ、つまり「私は忙しい」のようには言えません。「私に忙しい」が「私は忙しい」という日本語の言い回しに当たります。
 この奇妙な「に」の使い方がシンハラ語としては正しい。だから、「私は忙しい」と言いたいときは「私に忙しい」と言って表すと覚えましょう。
 「私に忙しい」の「私に」をシンハラ語の与格主語と言います。なんだい、それ?ということをこれから長々とお話してしまうことになります。シンハラ語のなかなか奥深い意味がここに隠れているからです。

大衆紙に連載されたシンハラ語エッセイ

 J・B・ディサーナーヤカの「マーナワ・バーシャー・プラウェーサヤ」に「与格名詞」と題された一章があります。そこにシンハラ語の与格主語文が例示されています。

 (「人間の言葉・入門編」Maanava Bhaashaa Preveessaya /p.249 /2005/ J.B.Dissanayaka)

 この「人間の言葉・入門編」はランカディーパ紙の日曜版に連載された「バサカ・アシリヤ
言葉の不思議」の記事と新たに書き下ろされたシンハラ語エッセイで構成されていて、前書きには本の出版に至った経過がこう記されています。

   ―チョムスキー言語学に触発されて新たにシンハラ語を考えてみた―

 『人間の言葉』と前後してJ・B・ディサーナーヤカは『動詞』『名詞』などの品詞別にシンハラ語文法を扱った冊子を著しています。
 こちらはシンハラ語文法への論及に主眼が置かれていて、それは旧来のシンハラ文法解釈の上塗りではなく、新たな文法論、たとえば動詞の変化に関しては、明らかに屈折語論から遠ざかる気配を漂わせていたりします。言い換えれば、生成文法のシンハラ語への波及を汲み取れる品詞別文法解析シリーズです。
 『人間の言葉・入門編』は日常のシンハラ語に現れるちょっと変な言い回しに焦点を当ててそのわけを探ると言うエッセイ仕立てになっています。スリランカでも言語探究はちょっとしたブームです。
 「私は忙しい」と言うところを、シンハラ語は「私に忙しい」と言う。それは[与格主語の言い回し]だという。さて、シンハラ語の与格主語とは一体、何でしょう。
 

シンハラ語の与格主語って、一体、なに?

   私は耳で聞き覚えたシンハラ語を口走る。シンハラ語を話すようになったとき、「私は」と言うところでも「私に」と言ってしまうことが度々でした。「ママmama(私は)」を「マタmata(私に)」で話し始めるのは、その「マタmata(私に)」の言い回しがよく耳に残ったからです。
 与格主語の「マタmata」一本で話し始めるから、その過度の使用が仇で、話し相手のシンハラ人から「それ違うよ。マタじゃなくてママ」と再三注意されてしまう。

 そんなの、私、出来るよ   エーカ・マタ・プルワン

 これはいい。でも、

 私、ポル・サンボール食べる マタ・ポルサンボーラ・カナワ

 これはだめ。

   大体シンハラ語では主語を使っての物言いなんて少ないのに、どんな場合にも、かまわず与格主語のマタを私が使うものだから「それ、違う、だめ」と指摘されるのです。

 では、どんなときに「私に」という言い回しを主語として使うのでしょう。
 下に並べたシンハラ文は「人間の言葉・入門」に掲載された「私に」(与格主語)の例です。
例① 
  මට මහන්සියි
  maTa mahansiyi
  マタ   マハンシイ
  私に/与格  忙しい
  →(私は忙しい)
  මට ඇසෙනවා
  maTa aesenavaa
  マタ   アェセナワ
  私に/与格  聞こえる
  →(私は聞こえる)
  මට ඇඳෙනවා
  maTa hitenavaa
  マタ   アェンデナワ
  私に/与格  泣けてくる
  →(私は泣けてくる)
  මට හිටෙනවා
  maTa mahansiyi
  マタ   ヒテナワ
  私に/与格  思う
  →(私は思う)
පිට 249-250 මානව භාශා ප්‍රවේශය /ජේ.බී.දිසානායක
日本語訳はKhasyaReportが添付

 この下の文例は「私は/が」の主格主語が使われる言い回しです。
例②

 මම මහන්සි කරනවා
 මම මහන්සි වෙලා වැඩ කරනවා

  maTa mahansi karanavaa
  ママ   マハンシ・カラナワ
  ママ マハンシ ウェラー ワダ カラナワ
  私は/主格  忙しくする
  私は忙しく仕事する  
   →(私は自ら忙しくする)
  මම අහනවා
  mama aesenavaa
  ママ   アハナワ
  私は/主格  聴く
 →(私は聴こうと思って聴く)
 කවියා හිතනවා
  kaviyaa hitenavaa
  カウィヤー ヒテナワ
  →詩人は/主格  考える
  (詩人は考えようとして考える)
  අපි අඳනවා
  api andhanavaa
  アピ  アンダナワ
  →私たちは/主格  泣く
  (泣こうとして泣く)
පිට 249-250 මානව භාශා ප්‍රවේශය /ජේ.බී.දිසානායක
日本語訳とmama mahansi karanavaaの例文はKhasyaReportが添付
 

 さて、例文①②はどこがどう違うでしょう。両者の微妙な違いに気づくとき、シンハラ語の真髄が見えてきます。

「なる」と「する」

 例文①の主語は「マタ」(私‐に)で始まり、例文②は「ママ」(私‐は)と「カウィヤー(詩人‐は)」、「アピ(私たち‐は)」で始まります。言い換えると「私は」と「私に」の違いがあります。これは主格と与格の違いです。
 これらはともに主語。シンハラ文法には、
 
 与格主語は述部動詞として無意志動詞を従える。無意志動詞が述語に置かれる文では主語が与格を取る。

という暗黙のルールがあります。
また、J・B・ディサーナヤカは、
 
与格主語のいい回しは無意志動詞文/FONT>ニルットサーハカ・クリヤーパダ ワーキャにおいて起こる

と指摘しています。
 シンハラ語の無意志動詞は自動詞の中に含まれます。自動詞と他動詞の区別は通常なら母音の違いで判断できます。  語根が2音節の他動詞の場合、2音節目の母音をe音に固定するだけで、例えば、

アリナワarinava 開ける → アレナワarenava 開く
カパナワkapanava 切る → カペナワkapenava 切れる

のように自動詞が作れます。  日本語の動詞は自動詞他動詞の区別が付けにくいのですがシンハラ語でははっきりと自他が分かれます。
 この自動詞が使われる文で主語が-Taを伴うとき、そのシンハラ語文は無意志動詞文だということがわかります。主語となる名詞にニパータのタ-Taが伴うということはその名詞が与格を表しているということです。
 と、文法の理屈はそう解釈されるのですが、これ、日常は何の意識もなく、つまり、無意思文だなんて積もりはサラサラなく、「私」に「タ-Ta」の付く言葉を話しています。「私、与格と無意思動詞でこんなこと話していますの」なんてぜんぜん思わないで無意識に話しているのです。

 だから、皆さんがシンハラ語を話すときも、無意志動詞だとか、これは無意思文だ、なんて意識は胸の内から捨てて、あっけらかんと無意思でいてください。そういうことを意識して話しているうちは、まだ、シンハラ語が身についたことになりません。

なぜ与格でなければならないの?

 こうして無意思文の仕組みがわかったにしても、シンハラ語で生来育ったわけではないので、どうしても「なぜ無意志動詞文の主語は与格でなければならないの?」と気になってしまいます。

 実は、シンハラ語の与格主語に関する研究はすでに出尽くしていて、与格主語を取る状況も、その理由も―上に見てきたように―すでに提出され尽くしているのです。
 与格主語はその主語が作用の対象となっていることを表します。
 私が意識的に作った状態ではないけれど「忙しい」。
 太鼓がなったので体が動き出して「踊っていた」。
 風が吹いたのでドアが「開いた」。

 主語が作用の対象になるなんて。主語は対象に対して働きかけをする位置にいる。働きかけという「作為」を持つのが主語のはず。
 「忙しい」も「踊っていた」も「開いた」も無作為の現象です。動作主(主語)が自身の意思で行ったのではありません。その無作為を表現するために主語は与格で表される。
 と言うことは、出来事は主語(の作為)がなくても起こる。「風でドアが開くように」、「私は聞こえる」ように、「私は思う」ように。
 主語を受け手にしてシンハラ語は文を作る。だから、私は以前、よく間違えたのだけど、「私は食べる」とか、「私は考える」と言うときにも、「私にあっては食べる」、「私にあっては考える」のように日本語化して- Me eat,Me think-、この「私に=me」をシンハラ語化して、「私に/マタma-Ta」と言ってしまい、「食べるのときはそう言わない、それ、違うよ」とシンハラの友人から叱責を食らったわけです。
 与格主語とか、主格主語とか、ああ、面倒。いっそ、「私」なんて要らないのにと、つい、そのとき思ってしまった。

シンハラ口語では「私」が要らない…

 「タミル語には与格主語がないことはない。英語には与格名詞が主語となる例はない」とJBディサーナーヤカは言います。「ないことはない」だなんて言い回し、もったいぶってる。「英語に与格主語がない」とはよく言われることなのですが、これは英語は主語に対して断固、統制力を求めるけどシンハラ語にはそれがない、もしくは希薄だと指摘しているのではないだろうか。
 主語に統制力が備わっていないなら主語はいらない? シンハラ語が「私に思う」という言い回しをして「私」を卑小化するなら、「私」の存在感はない。
 シンハラ語は主語を度々省略する。そして、省略された文もまた、完全な文として通用します。
 これはシンハラ文語が判とするパーリ語で動詞語尾変化が主語の人称を暗喩し、そこから主語が省かれるのとはまったく異なる現象です。シンハラ文語では動詞語尾変化が主語の人称を表しますがシンハラ口語にそうしたことは起こらないのです。
 では、なぜシンハラ口語では主語が省けるのでしょうか。

 JBディサーナーヤカはシンハラ語の主語をウクタヤ
(論及)という用語で呼んでいます。プラタマー(第一の)という主格を表す用語があるのですが万物創造の根源である「主」を意味するプラタマーは主語の意味では使われません。シンハラ語の主語は主題・サブジェクトではないのです。
 主語(ウクタヤ)が与格を取る例としてJ・B・ディサーナーヤカが挙げているのは、文の述部が生理的に生じる欲求、病状、要求と拒絶、可と不可を表している文です。
 与格主語は主語となる名詞に意志や作意がないことを表すのですから、生理的に生じる欲求・病状に与格主語が置かれるの理解できるにしても、主語の意思を表す要求と可能の文には与格主語が馴染まないはずです。しかし、これらの文でもシンハラ語の主語にも無意志の与格が置かれます。

生理的に生じる欲求   අපට බඩගිනියි
  apaTa badaginiyi
 私たちは空腹だ
  病状   අපට කැස්ස
  apaTa kaessa
 私たちは風邪(ひいた)
  要求   මට කමිසයක් ඕනෑ
  maTa kamisayak oonaee
 私はシャツがほしい
  可能   මට දෙමළ ටිකක් පුළුවන්
  maTa demala tikak puLuvan
 私はタミル語が少しできる
  不可能   ලේබනයන්ට වෙළෙඳාමි බෑ
  leebanayanTa velendhaama baee
 文筆家は商売ができない
 文筆家に商売はできない

 上の表で「私はシャツが欲しい」は明らかに「私の意思」を表す文なのにシンハラ語では主語の意志をぼやかす与格を据えます。なぜでしょう。
 シンハラ社会は主格主語で会話をする人を手前勝手な人として避ける傾向があります。「ママ・カナワ(私は食べる)」「ママ・ヤナワ(私は行く)」といちいち「私、私」を言う人は(主格主語でものを言う人は)傍若無人なのです。
 「タミル語が少しできる」の例文で言えば、これは後者の可能を表すと見るより、もっと古い時代の現象の捉え方を踏まえるべきかもしれません。アリストテレスのデュナミスdynamis/可能態の捉え方で読み込めば主語は与格を採らざるを得なくなります。  

 サンスクリットやパーリ語が完璧な言語や聖なる言語の理想を追い求める立場からオール・イン・ワンの動詞を完成させて主語を抹殺したのとは別の立場からシンハラ語は主語を使わなくても要件の表せる文を作り、そうした主語抜きの言語で社会を熟成させてきたのです。
 主語抜きで成り立つ言語には主語付きの言語から生まれた統語論が持ち込む新規のオーダーはとことん希薄なのです。
シンハラ語の意味を探って藪の中を行くと、突然に視界が開ける。すると、小道を歩いてきたはずの私の体はふっと抜けるように消えて、精神も「私」に固執しなくなる。小道の先の世界は光の中で、目がくらんで何も見えない。私は私を見失う。「私」は主格でなくて「与格」だよ、とつぶやく近代主体概念文法のダサい講釈がそのあたりから聴こえてくるのは、何か興ざめだ。

 周りの環境がやわらかな自然の中にあるなら、私は私を包む自然とともにある。熱帯の自然に「私」、溶け出している? アジア熱帯モンスーンに「私」も包まっていく。これって、太古の昔に帰るのかな、熱帯の幸福とか..。
  



シンハラ語私記 目次

シンハラ語私記① インド・アーリア語族という神話。そして、シンハラ語。
シンハラ語私記② インド・アーリア語族という神話。そして、ニパータのこと。
シンハラ語私記③ 蓮の花を手に取って -シーギリの落書き-

シンハラ語私記④ 「私、忙しい」という言い方のシンハラ的な意味
シンハラ語私記⑤
シンハラ語私記⑥