シンハラ語私記③
蓮の花を手に取って シーギリの落書き

シンハラ語私記③ 蓮の花を手に取って シーギリの落書き
シンハラ語質問箱 Sinhala QA62-3

2006-3-27 2015-May-21 2019-Feb-21



 ハウルの歩く城山を思わせる巨大な岩。古代のシンハラ王カッサパがこの岩山の頂上に玉座を置き、ここをシンハラ王朝の都とした。岩山の名はシーギリසීගිරි
。シーギリ城の王女は蓮の花を手に取って……
 

シーギリの岩山に書かれた古代の落書き


平原に立つ巨大な岩山シーギリ


シーギリの岩城

 シーギリの巨大な岩山は熱帯スリランカ中部の平原にある。ハウルの歩く城山を思わせる異様な姿だ。岩山は古代シンハラ王の栄華と衰退の物語を秘めている。
 シンハラ王カッサパがこの岩山の頂上に王宮を建て、477年、ここをシンハラ王朝の都とした。父王ダートゥセナを壁に塗りこめて王子のカッサパが王位に付く怨憎の様は心理描写を活写する舞台劇のテーマにもなった。
 カッサパ王は父を殺したがために弟王モッガラーナの恨みを買った。異母兄弟である兄弟のいさかいだった。
 不穏な争いは弟王がインドのタミル国に亡命してひとたびは収まったが、カッサパは弟王の反撃を恐れ、岩山を要塞とし、ライオンの姿を模して造営された。
 ライオンをシンハラ語でシンハという。起源はパーリ語のシーハ。架空の猛獣を表す獅子の語源でもある。さらに加えれば、この島のシンハラという民族の名はシンハ(獅子)の語尾に複数形を表す接辞のラを加えたものだ。
 岩のライオンは北のインドに向かい警戒の目を光らせた。海を越えてランカー島を離れたモッガラーナが、インド・タミル王国の兵を引き連れて父王の恨みを晴らすためタミルの兵士とともにランカー島へ攻めてくる。カッサパはその恐怖におびえていたとシンハラ王朝の史書は語っている。
 父殺しの悪行に苛まれカッサパはおびえた。その乱心を払うかのように彼は享楽をシーギリの岩山に運び上げた。魔法で湧き上がる噴水を麓の池にあふれさせ、北インドの音曲を演奏させて、岩城はいつもシタールの音で包まれていた。山頂には豪奢な沐浴場を設え、岩の玉座に赤いルビーを埋め込んだ。
 頂の白へ向かう道に、高名なフレスコ画が描かれている。豊満な美女が群れている。カッサパの王国の皇女たちだ。肌の空ける薄絹をまとい仏寺へ詣でる皇女たちの姿が何人も描かれている。

蓮の花を手に持って寺に詣でるシーギリの皇女
 山上の城へ上る道は絶壁の岩を彫り砕いて作られた。道の岩壁には卵白を練りこんだ漆喰が塗られている。その漆喰の壁にはかつて、寺に詣でる皇女らの姿がフレスコ技法で幾百と描かれていたという。その姿が古代ローマの女性貴族を髣髴とさせるのは中国産の透き通るほどに薄い絹を裸身にまとうからだ。英国植民地時代に英国人によって再発見されたシーギリの皇女たちはSIGIRIYA LADYとして世界に広められた。
 千五百年の年月を重ねて多くのフレスコ画は崩れ消え去ったが、今もその面影を伝えるフレスコ画はいくつか残る。

 カッサパ王の栄華は短かった。大軍を引き連れてインドからランカー島に戻り再戦を挑んだ弟王にカッサパはあっけなく破れてしまった。
 カッサパの亡き後は廃墟となったシーギリだったが、長らく国連の発掘と修復作業が行われ、1982年、世界遺産に登録された。さらに2009年、日本の援助で新資料館sigiriya museumが建てられた。

蓮の花を手にした皇女たち

 シーギリのフレスコ画の近く、頂に上る道におびただしい「いたずら書き」が残された壁がある。蜂蜜が混ぜられた卵黄を塗り固めた壁だ。
 シーギリの「落書き」は古代のシンハラ語で書かれた。4.5世紀から10世紀にかけて書かれたものだ。
 仏陀に蓮の花をささげることを「花のプージャ」という。プージャはそもそも「いけにえ」のことで、古いヒンドゥの教えに従い、願いをかなえるために四足の獣を、時に二足歩行の人を火あぶりにしたのだ。
 「いけにえ」をささげる残忍なプージャを、その「いけにえ」を「花」に変えることで浄化したのは仏教だった。シーギリのフレスコ画には浄化された「花のプージャ」が描かれている。カッサパを失って捨てられた王宮を巡礼した古代のシンハラ人はシーギリの皇女を見上げ、皇女に恋の歌をささげた。それが世にもまれな「シーギリの落書き」だ。

 王女らのフレスコ画に贈られた歌は定型の四行詩だ。ここに「蓮の花を手に取って」というフレーズの入る詩がある。「シーギリ・グラフティ」という「落書き」の研究書からその語句を探ることができる。


[注]「シーギリ・グラフティSigiri graffiti」(セネラト・パラナウィタナSenarath Paranavithana著 Oxford Univrsity Press / 1956) ※この研究書にはスリランカ政府発行の新しいバージョンがあって2部構成になっている。

 
   「シーギリ・グラフティ」は鏡の壁に書き込まれた685の古代詩を収録し読み解いている。その中に、「マーネル・マル アトニ ゲタ[ma]hanelmal athni getha」という一節を持つ歌がある。5世紀ごろの落書きだ。



no.268 / Sigiri Graffiti / S.Paranavitana / Oxford University Press / 1956
上) 落書き原文   下) S・パラナウィタナの読み下し文  2段目の中央から [ma]hanelmal athni getha2---と続いている。

 「手に取る」をシンハラ語で「アティン・ガンナワ」と言う。
 アティンはアタ(手)に接尾辞(ニパータ/日本語の助詞に当たる)の-イン(~に)が付いてアティン(手に)という句を構成した語形。動詞ガンナワ(取る)に繋がって「手に取る」という意味になる。
 このシンハラ語の「アティン」は現代の言い回し、語形だ。これがシーギリの落書きから古代、「アトニath-ni」と言っていたことが読み取れる。アトath(手/複数)+ニni(~に)という組み合わせだった。

 落書きの歌はたわいない恋心を表している。蓮の花(マーネル・マル)を手に(アト・ニ)取り(ゲタ)、シーギリの皇女が寺に詣でる。ああ、その麗しの乙女に私は恋をした。その恋心が1500年過ぎると古代シンハラ文の落書きになって古典の価値が生まれる。

   フレーズの成り立ちをもう一度繰り返してみよう。マーネルは蓮。マルは花のこと。アトはathでアタatha「手」の複数形。
アトニのニはニパータ(助詞)で「場所・所在」を表すから、アト‐ニは「手-に」のこと。
 現代シンハラ語では「アトニ」が「アトゥン複数」、「アティン(アタ-ィン)単数」と詰めて(ni→n')発音される。
 その後に「ゲタ」とあるのは動詞「ガンナワ(取る)」の古形。詩文はここで節を句切って、後にヤモーyamoo(行く)という動詞につないでいる。

   mahanel-mal   ath-ni   getha      yamoo
    蓮の花を    手に   取って  / 我らは行こう  no.268 /Sigiri Graffiti /

 ヤモーはヤナワ(行く)という動詞の文語形。パーリ文法に習うシンハラ文語だ。
 一人称単数形ヤナワが複数形でヤモーとなり、「私たちは行く」という文意を持つ。文語では動詞語尾の変化が主語の人称(私、あなた、彼、など)と数(私たち、あなたたち、彼ら、など)を表す。
 蓮の花を持つ皇女らを見つめるのが1人の男だったなら、ヤモーは動詞語尾を-ム/-muに入れ替えてヤムyamuになる。

 「シィギリ・グラフティ」はこの「アトニ・ゲタath-ni getha」(手に取って)の落書き詩文の次に9世紀の落書きとして次の資料を掲載している。


no.274 / Sigiri Graffiti / S.Paranavitana / Oxford University Press / 1956
上)落書き原文 下)S・パラナウィタナの読み下し文 2段目の中央から mahane(l)-malak athi-n gathii ---と続いている。

ここでは「アティン・ガティath-in gathi」(手に取る)という言い回しが使われている。

   mahanel-malak  ath-in  gatthii
     蓮の花を   手に  取って   no.274 / Sigiri Graffiti /

 ニパータの「ニ/-ni」が「ン/-in」に変化しています。「ニni」のi母音が脱落して「ンn'」になっている。

 これは、ちょうど「私の家watashi-no-uchi」が「私ん家watashi-n'-chi」となるような訓化で、口語独特の発音の単純化・軽量化が生じてたことになります。6世紀の「アト・ニath-ni」は9世紀に「アティン」(手に)へ変化した。シーギリの壁に書かれた古代の詩歌はそう語るのです。



シンハラ語私記 目次

シンハラ語私記① インド・アーリア語族という神話。そして、シンハラ語。
シンハラ語私記② インド・アーリア語族という神話。そして、ニパータのこと。
シンハラ語私記③ 蓮の花を手に取って -シーギリの落書き-
シンハラ語私記④
シンハラ語私記⑤
シンハラ語私記⑥