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日本は本当に幸福になるの?
   それとも…

終わりの始まりへ
1861年のカレーライス㉚ KhasyaReport 2026/Sep 19 / Khan Tanzai 丹在 環



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鎖国に戻れ、日本よ。
戦争の苦しみと惨禍にまみれる位なら


elements-of-international-law1855

『国際法原理第6版』
Elements of International-Law by HENRY WHEATON, LL. D 、6th edition 1855 by WILLIAM BEACH LAWRENCE
ハリスが条約交渉で頻繁に引用するElements of International-Law『『国際法原理』〈万国公法〉は発行の時期からしてこの第6版だと思われる。初版は1836年発刊で著者はヘンリー・ウィートン。ウィートンが亡くなった後の改訂版(第6版)はローレンスが改訂、編集している。この版から国際間の事件を処理した裁判例が多数掲載・解説されるようになり、さながら国際事件判例集のようになり、「原理」を学ぶ/テキストというより「裁判判例集」として慣例をたどり、現行裁判に用いられるようになった。  
 昭和2年10月1日(1927年)、伊豆の柿崎玉泉寺でタウンゼント・ハリス記念碑の除幕式が行われた。式を主催する渋沢栄一は二百名ほどの来会者に語りかけた。ハリスが「本当に日本は幸福になるのか?」と自嘲気味に日記に記したこと、彼の取り組む通商条約締結が日本を一変させてしまうことの危惧とその是非のこと。渋沢は「日本は幸福になるのか?」と自問するハリスに向かってこう回答した。

「あなたが自分の親切は日本の将来の幸福となるであらうか」と自問して居ることに対し、私はお答へせねばならぬ義務を感ずるのであります。そして「お思召の通り(我々は幸福に)なりました。我々は貴方の厚情を忘れませぬ。霊あらばお享(う)けください」




KhasyaReport

 

   

あなたの思いは杞憂ですよと、…

 ハリスが敷いた開国のプラン「自由貿易で豊かになること」を日本は実現したと渋沢は自讃する。「この経済発展をご覧ください」と身を引き締めながらハリスの記念碑に向かいことばを続けた。

 日本は今や米英と肩を並べて世界三大国の一つ、五大強国の一つと言われるようになりました。封建国から立憲国に変わり普通選挙も実施しました。資源は乏しいのですが列強に負けず、貿易額は年々増加し、学術も文化施設も欧米風になりました。アジアの片隅の一帝国ですが世界から注目されています。これはすべてハリス氏が外交・通商に同情ある指導を惜しまず、日本の前途を心にかけて居てくれたことに端を発しています。

 明治開国以来、日本の経済、産業を育て支えた渋沢ならではのハリスへの語りかけだった。渋沢はハリスを師として深く敬愛している。そして、自らが日本の経済発展の生みの親であると自負している。だから、「自分の親切が日本の将来の幸福となるであろうか」とハリスが自問したことに対して、
「あなたの思いは杞憂ですよ。ほら、こんなに素晴らしい経済大国になったではないですか」
 渋沢はハリスにそう返したのだ。自信に満ち溢れる真摯な顔つきで。

 朝日新聞はハリスが繋いだ日米の友好を翌2日の紙面で伝えた。そのタイトルは―地下のハリス氏に今ぞ答へる渋沢子爵 米大使も感激の涙たゝへて緊張の記念碑除幕注1  朝日新聞・第14864号 昭和2年10月2日

 ニューヨーク・タイムスはこの日の除幕式を1年後の「タウンゼント・ハリスの日」に伝えた。シブサワとアメリカ大使チヤールス・マクヴエー、実業家ヘンリー・M・ウルフとが記念碑設立に尽力したと報じ、日本とアメリカはハリスが先導した友好と繁栄の道を共に歩んでいると記事にまとめた注2。September 4, 1928, Page 20 New York Times

 除幕式が行われた1927年、日本は山東省へ兵を送った。長州閥の軍人が大正期の軟弱な日本外交を嫌い外国への積極的な軍事介入を始めた。1931年の満州事変、1937年の中国進軍、1941年のハワイ・パールハーバー急降下爆撃、そして同年、東南アジア、太平洋地域へ日本はさらに戦火を広げてゆく。
 1945年、二つの都市の天空に巨大な、熱射地獄のきのこ雲が沸き上がり数万か、十数万人かの市民を一瞬にして消し去った。これ以上の悲劇はない熱線と黒い雨のアポカリプス。
「あなたの思いは杞憂ですよ」とハリスに告げた渋沢は満州事変を嫌った。「事変」という言葉も嫌い「時局問題」と呼んだ。国際連盟会長の渋沢がそう呼ぶものだから連盟事務局の報告も「時局問題」と記し、その後に括弧書きで(滿洲事変)としている。国際連盟教会書類・昭和6年10月28日文書「戦争」が国際法で禁止されたので軍部は苦しい方便を続け、渋沢は怒りを込めて「時局問題」と呼んだ。
 渋沢は戦争を嫌った。「時局問題」が起きた2か月後、渋沢は91歳で亡くなった。亡くなるまで戦争には経済的合理性がない、国家財政が窮すると言い続けた。渋沢の生きてきた道は「昨日は佐幕、今日は勤皇」であり、経済情勢を見て戦争に加担し、また忌諱する言を述べている。時代は暗い。闇の中だ。しかし、渋沢は戦争をとことん嫌った。
 「おカネ」の心配が戦争に纏わるのは事実で、戦争を忌諱する渋沢の言に異論をはさんで彼の経済活動を妨げる者はなかった。フィクサーとしての余力を持てるほどの「おカネ」を扱い、財界を睨み、政界に顔の利く経済人だった。彼がハリスを師と崇めても咎める人はなかった。
 渋沢栄一は戦争を嫌った。だが、その経済界の重鎮という立場から起きてしまった戦争には反対の立場をとらない。戦争を実力で阻止すれば渋沢がはぐくんだ日本の経済繁栄はしぼみ、渋沢が目指した豊かさを享受する人々の幸福が消え去る。戦争下でも、義利合一の精神は揺らがない。ハリスが掲げる自由貿易の理念に渋沢が義利合一の精神を強く感じ取ったのは「金儲け」を捉えるときにも「義」を外さないという共通する思いが二人にあったからだ。

「ハリスが日本を貶めた元凶」というレッテル

 ハリスの自由貿易を根底から支える理念は正義Justice、理性Reason、倫理(普遍的道徳)moralsを重んじ、神の恵みを分かち合うことだった。その根底にはエピスコパル・米国聖公会の熱心なキリスト教徒としての信仰が深く息づいている。だから、インドで栽培したアヘンを中国広東で密売するような正義に悖る英国のアジア侵略を激しく嫌悪した。日本との通商条約に「倫理にもとる」アヘンの輸入禁止を書き入れたのはハリスだった。
 「エピスコパルの自由貿易主義者」とハリスは自身を呼んでいる。渋沢が強く惹かれた彼の内面をたどるにはエピスコパルへのハリスの信仰を読み解くことが最もふさわしい。
 ハリスは江戸幕府を相手に通商条約を結んだ。いかさまの通商条約でハリスが日本を貶めたという「論」を張る向きが、いつの頃だったろう、ハリス・バッシングを続け、その残影が現代の愛国青年たちの背後に揺らめくが、それはおかしい。ハリスの条約を名実ともに不平等条約に塗り替えたのは領事裁判権を「拡大悪用」した英国領事パークスだし、長州藩と戦火を交えた下関戦争の賠償として改税約書Japanese commercial tariffをもって輸入関税を引き下げさせたのも英仏蘭米四か国を代表して幕府に詰め寄ったパークスだった。どこでどう噂が転ぶのか、ハリスはこの日本を貶めた「失策」の元凶とされている。日本を貶めた張本人という古風なレッテルが今も再生産され貼り直され、ハリスの姿がいびつに変形している。渋沢栄一は「日本を救った」とハリスを讃えた。一方で、日本を不幸に陥れた「悪漢」という負の評価が王道を行く(嘗ての)歴史家たちの下した判断だった。そのハリス像はいまだに変わらずネット界隈や受験対策現場を騒がしている。

 条約交渉の場でハリスは貿易の調整が「万国公法」によって行われることを幾度となく幕府日本側に教えなければならなかった。ハリスが使っていた「万国公法」The eliment of international Lawは条約協議の時期からして1855年の第6版(ボストン刊行・英語版・ローレンス版)だと思われる。(上の写真参照)10年後にW.A.P.マーティン(丁韙良)が漢訳した『万国公法』の原書である。注3
 原書『万国公法』(英語版)はキリスト教の理念にしっかり裏打ちされている。通商(貿易)とは「神の恵みを分かち合う」ことだった。世界中の国々がそれぞれの特産品ー神の恵みーを貿易によって交換し合う。それは神がつくった秩序にかなう素晴らしい行為だった。ハリスは上海で布教するエピスコパルの宣教師エドワード・サイルEdward W. Syleに宛てた手紙に「日米通商条約は貿易の開始ばかりでなく、キリスト教開教の第一歩である(=神の恵みを日本に届ける道を開くことである)」と書き送った。「神の前で正義にゆるぎなく、理性とモラルを重んじ、恵みを分かち合う」という西欧における19世紀の自由貿易の理想はハリスによって日本にもたらされようとしていた。

 渋沢はその理想を算盤の上に置いた。儒教の風呂敷にまとめた。自由貿易を日本の土壌に合わせるにはこれが最適な方便だった。そして、ハリスの杞憂を打ち払う経済的な成功を日本にもたらした。

 渋沢がハリスを支持する理由は何だったろう。算盤の金勘定だけだったろうか。田辺太一(たなべやすかず)が外国奉行支配組頭として徳川民部公子(昭武)に随伴してパリ万博へ赴く船上で、ハリスがとった信義を貫き通す行動を感激を込めて渋沢に語り伝えていた。
 それはこんな話だ。
 ヒュースケン刺殺事件の直後、江戸に駐在していた英仏和蘭プロシアの公使たちは公使館職員全員を従えて横浜へ移った。テロを避けるためと言うが、同時に江戸幕府に通商条約解消の脅しをかけ「戦争」への移行をちらつかせた。ハリスだけはこの「脅し組」に加わらなかった。幕府と結んだ条約を反故にはしないと言った。
 これを渋沢は、

ハリスの真実日本の為めを思ふ心事を其実蹟によつて説明せられ、日本の財政に対する忠言や、武士道的な行動等を知つて敬服し、爾来ハリスの事蹟によつて米国の友情を感ずるに至つた。
445竜門雑誌第494号昭和4年11月 世界の平和に就て 青淵先生 別巻第8 p.187

と、後に記している。信にあつく道義を曲げないハリスの行動を讃え、昭和になってそれを「武士道的」な精神と言った。孤高の精神を貫くハリスに信頼を寄せる幕府の武士たちはあったが、ハリスに「武士道」という”称号”を授けたのは渋沢栄一だった。「葉隠」が「武士道とは死ぬことと見つけたり」と負の美学を取るのに対し、新渡戸は「武士道とは刀を抜かないことだ」と言ってそれを打ち消し、武士道を「倫理」Ethical Systemに引き上げて読み解き「哲学」した。その新渡戸の新しい「武士道」に渋沢がハリスの名をかぶせて世に広めたのだ。
 ここには大小を振り回す今どきのバトル・ゲーム感覚のサムライとは別のたおやかな理性を持つ武士がいる。ハリスも渋沢も、そして、新渡戸も共に「モラルと哲学」を、それぞれの現れる姿は違うが、共有していた。そうだ、そう言えば渋沢は武士だった。農の民から、奇縁な人物に才覚を見出されて拾われ武士となった。江戸の北辰一刀流・お玉が池の千葉道場で農の民の子でありながら剣術修行をしていた渋沢が、自身の攘夷のテロリズムを捨て「刀を抜かない」武士となる。これも奇縁なことだった。

リットンには「モラルと哲学」がない

 ここからハリスの文学への視線を捉えてみよう。下田にアメリカ領事館を開くためハリスは欧州経由で陸路と海路をつなげて日本へ向かい、セイロンのゴールで乗り継ぎの蒸気船を待って貿易商時代から馴染みの宿に泊った。その時、こんな記述を1856年1月1日付の日記に残している。

January 1, 1856
How much the later works of Bulwer excel his early productions; what a difference in the morals and philosophy of My Novel and The Caxtons and that of Pelham, Eugene Aram, Paul Clifford, etc.,etc.
ブルワーの初期の作品に比べ、後期の作品がいかに優れていることか。『マイ・ノヴェル』や『カクストン家の人々』に見られるモラルや哲学と、『ペラム』、『ユージーン・アラム』、『ポール・クリフォード』等々のそれとの間には、なんと大きな隔たりがあることでしょう。

 小説を読むなんて優雅なこと。19世紀中ごろ、旅そのものが現代よりはるかに優雅だった。
 日記の「モラルと哲学the morals and philosophy」の部分、ハリスを徹底的に追ってくださった坂田精一は「道徳」と訳している。ハリスがそう記した50年後に英国スコットランドの批評家がリットンの小説の変化に触れて、ハリスが評したことを擦るように「モラルと哲学がない」初期のロマン小説が後期は田舎町の風景を語り「モラルと哲学」を持ってリアリティに徹するようになったと称賛している。この「モラルと哲学」はハリスという人を捉えるときキー・ワードとなる。
 ハリスはリットンEdward Bulwer-Lyttonの初期の小説群を批判した。ビクトリア時代にロンドンの社交界を満足させるために生まれたシルバー・フォーク小説。このロマン主義文学は華美で人工的で人間性に対するモラルも哲学も欠如している。それがリットンの作品だ。ハリスはそう指摘する。その上で、リットンの後期作品にリアリズムが描かれることを絶賛し、英国の田舎が舞台になる『私の小説my novel』は前期の作品群より格段に良いと記すのだ。注4
 『私の小説』冒頭に村の牧草地の脇に打ち捨てられた古い足枷(中世の刑具)が登場する。道端に設置した木製の足かせに罪を犯した人の両足首を挟んで固定し衆人のさらし者にする刑だ。足枷はもう使われなくて久しい。古びた足枷の周りにアザミが生い茂る。そこへ村々を廻る修繕屋の荷を背に運ぶロバがのんびりやって来てアザミの花を食った。足枷とアザミ。ハリスは『私の小説』が描くスコットランドの村の状景にあるがままの調和という哲学を見たのだ。この足枷は小説の中ほどにも登場して白と青のペンキで塗り直され村の記念物として再生される。単なる、そう、記念するだけの忌まわしい仕掛け。

 「後期のリットンは違う、すばらしい」と賛辞を送り、初期のリットン作品の過度に飾り立てる文体、そのエキセントリックを「退屈だ」とハリスは切り捨てた。彼の心に宿る「モラルと哲学」。この信念がハリスと接した江戸城外国掛の武士たちを共鳴させ彼らに浸透してゆくのは、江戸駐在の外交官の中でハリスが孤立無援となった”あの事件”の後だった。

ヒュースケン刺殺事件の後に

 ”あの事件”とはヒュースケン刺殺の顛末だ。この暗殺テロの犯人検挙に幕府は手をこまねいている。それで国が成り立つか、次は我々が襲撃されると江戸に駐在する外交官たちは業を煮やした。英国駐在公使オールコックはほかの公使らと横浜に引き上げ、江戸城に艦砲を向ける気配を漂わせた。日本を沈没させるにはまたとない機会だった。戦争の硝煙が中国に続いて日本でも上がるか。外交官としてただ一人、江戸に残ったハリスは、トーンを熱くして表現すれば、オールコックらが暗に企む日本沈没の「戦争戦略」を体を張って潰した。渋沢が晩年、積極的に戦争を厭う姿を表面に強く出したこととハリスがオールコックらの強引な戦争への誘因を拒絶した「モラルと哲学」が和音調和を奏でている。

 自由貿易を支える万国公法に戦争をしてはならないという文言はない。しかし、ハリスは戦争を忌諱するために闘った。
 「話し合いが紡ぐ平和」を説くハリスの姿は横浜で発行されているジャパン・ヘラルド紙に掲載され内外の「異人たち」に読まれた。ニューヨークで「無料高校」を市の教育委員長として設立したときの、「無料高校」反対の立場をとる議会対策として新聞の投書欄を多用したハリスの戦略が再現された感がある。幕府は起こりうる戦争を止めたハリスに絶対の信頼を置くようになった。
 6年前、日本へ向かう途中、ハリスは香港に立ち寄り貿易商時代の友人ドリンカーを訪ねた。その時、初めて顔を合わせたドリンカー氏の長女ケイト―その時ケイトは10歳だった。聡明な少女だった―と話が合った。それ以来ハリスは領事館を置いた下田、江戸とケイトの住むボルチモアとの間で文通を交わし続けた。ハリスは私事には一切触れないので何をどう書き送ったか記していないが、ケイトは後年ニューヨーク市立大学図書館のハリス文書室にハリスからの手紙を十数点寄贈している。この中に戦争を食い止める自分が「孤立」していると江戸から書き送ったハリスの手紙が含まれている。
 あのとき江戸在住の外交官界隈でハリスは孤立した。日本への”ゆすり”をたくらんだ外交官グループに加わらなかったことが原因だった。「下田にいるときと同じで孤独です。私の慰みは横浜の宣教師の人たちと話すときだけです」とケイトへの手紙にある。でも、「日本政府も、中国の人々も私の行動を讃えている」と記して自らの行動に過ちのないことを伝えている。

 ハリスと渋沢の二人を幕末という狂乱の時代のキーパーソンに置いてみる。
 英仏がアヘン戦争に典型が見られる「武力で企てるアジアの植民地化」という、「万国公法」が旗を振るキリスト教デスティニーdestiny(アジアにとってはむしろフェイトfateだったが)で西欧の「文明国」がアジアを戦争で蹂躙していた19世紀、ハリスは「法〈通商条約)と対話」という全く異なる非戦の国際原理を日本へ持ち込んだ。”あの事件”の時、もしハリスが日本を「不当な侵略」から守る防波堤(江戸残留)となっていなければ、日本は英仏を中心に分割統治され、東アジアの運命は暗黒に塗り込められていたかもしれない。「国際法の秩序」をハリスの論理で読み上げ、軍事力に依存せず、彼が獲得した「通商条約」をてこにして日本を世界へソフトランディングさせた。だからこそ、日本は独立を保ち、のちに東洋初の近代国家として世界を動かす力を得た。おそらくそれは新渡戸稲造が懸命になって存立を支え、渋沢栄一が日本から絶大な支援を送った国際連盟の設立に関わりその維持に尽力することにも繋がったのだと思う。日本はあの時、束の間だが、国際連盟で世界を支える力となっていた。ハリスの熱心なエピスコパル信徒としての”布教”が文明国による武力支配を当然とする国際法(万国公法)が蔓延する世界---オールッコクの江戸引き上げのような---に向けて、「国々の戦争に寄らない共存」というパラダイム・シフト、新たな福音をもたらしたのだ。

ラベンダー、我がラベンダー

 人間の歴史は時に不確実な悲惨に向かって歩み出す。ハリスが対話という平和の手段でもたらした日本の「開国開港」はハリス自身が危惧した「Query, -if for real good of Japan?(果たして日本の真の幸福になるであろうか)」の問いかけを「No,not for real good of Japan(いや、日本には本当の幸福にならなかった)」と、そう返さざるを得ないような、苦難の歴史へと歩み出していた。
 ハリスが去った後、こんなことが起こった。フリゲート艦からの艦砲射撃、つまり軍事力で日本を食いつぶそうとする西欧列強の野心があからさまに表れた。日本国内の大藩が京都を中心にして徳川を巻き込む「政権争い」が苛酷をさらけ出した。大小の刃を振り回し人の肉を切り、首を切り落とす制御の利かない状景。江戸の町は夜半、黒澤映画に映しだされる砂ぼこりの宿場町へ落ち込んでゆく。
 その先のことを私たちは知っている。劣化して腐りかけた徳川政権に、溌溂とした勤皇の志士たちが反旗を翻し活躍する絢爛たる暗黒の時代は小説にドラマに今も盛んに、新鮮に、「英雄たちの姿」として取り上げられている。
 彼らは政権を徳川から奪った。そして、華々しく街角で刀を振り回し活躍した維新の英雄たちは、不思議なことに皆消えてしまった。勝者である維新の英雄たちがいなくなると、敗者徳川のサムライたちが明治政府に復活した。徳川に仕えていたサムライたちは髷を落として洋装し、キレのいい知性を持って明治政府で生き生きと活動を始めた。
 それは明治政府という組織の貪欲なプラグマティズムの中にあった。実利さえ身中に組み込めれば今日の敵は明日の友。幕末に強固だったフランスとの連帯は英国とのスクラムに転じた。日本は軍備を強大にしてアジアへ、世界へ向かい、戦争の時代に突入してゆく。ハリスが「通商条約」を持って、国際法とエピスコパルの理念によって自由と平等と平和を、あの威嚇するほどの大声で拳を握って説いた姿など、もはや誰も気に留めず、振り返りもしなかった。
 明治政府が幕末を切り捨てる様に容赦はない。ハリスは不平等条約で日本を卑しめた「女たらし」として国家を上げて喧伝され、その姿も声も忘れ去られた。実像は消え、残されたのは汚臭を放つ、作り上げられた「悪党ハリス」の虚像だった。

 ハリスに「心配は杞憂に終わりました」と答えた渋沢は混沌に向かう世界の中で日米が開戦し、世界戦争へと突き進み、短い時の間に日本全土が焦土と化していく悲劇的な結末を知らない。晩年に自らの埃を振り払い平和主義者を名乗った渋沢が二人のアメリカ人と共に建てた玉泉寺のハリス記念碑は、ハリスがアメリカ鬼畜のスケープゴードとされ台座から倒された。人々は19世紀が発見した本能理論のリビドーを抑えられなくなった。膨張するリビドーが向かった先は有無を言わせず他者を攻撃する戦争だった。
 長い年月を費やした戦争の後に、数知れぬ兵士と一般の日本人の命が奪われて、原爆が一瞬にアポカリプスの暗黒の網を頭上から蔽いかけるその地獄絵を、終末の惨禍を、修羅の場を渋沢は現世で見ていない。

 ハリスの「杞憂」を目いっぱいに膨らませた「きのこ雲のアポカリプス」という洗礼を日本は受ける。その後、キリスト教黙示録の予言になぞらえれば、キュービックの聖都エルサレムを構築して占領下日本occupied japanのどん底から見事に這い上がる。そして、経済発展の幸福をあわただしい復興の中で再び手に入れる。まるで渋沢栄一が復活して「論語と算盤」の風呂敷を広げたかのように。「戦えますか、戦えますか」とテレビCMは”軍歌”をうたい、日本はアポカリプスを越えて復興した。かなり深い精神的な、文化的な痛手を負いながらの華々しくも危うい復興をそこかしこに露呈しながら。

 明治維新を精神文化の流れで読み解こうとする文学者の多くが口にするのは、そこには「日本の情緒のかけらも何もない」という言葉だった。「文明開化」には西洋近代文明のすべてが詰まっているが、その「すべて」がチャンクしない。ばらばらの分子は西洋文明の塔を構築しない。
 「世界の進歩であり神の御心」であると確信してハリスは自由貿易の構築を日本で目指した。時に書記の墨壺をひっくり返すほどの勢いでテーブルを叩き大声を上げて、あの激論を持って相手を威嚇しながら。しかし、ハリスは自分の行為が日本をばらばらに破壊してゆくことを―アプリオリに、前々から―知っていたのではないか。
 ハリスの記念碑を立てた時、渋沢栄一はハリスの「これでいいのか」と思案する危惧に「いえいえ、大丈夫。こんなに日本は経済発展しました」と応えた。それが義利合一を唱える渋沢の明治維新が目指した根源だったろう。渋沢は金儲けを確実に実行し成果を得た。そして、何が日本に起きたか。

 それは終わりの始まりだった。
 日本を自由経済の下に開放するため、ハリスは自分が江戸城へ向かう一歩一歩が、日本という数百年続いた静寂の王国を内側から崩壊させる「終わりのラッパ」であると知っていた。前日に善福寺のアメリカ公使館で声を張り上げ響かせたマタイの福音書24章の朗読は、まさに「いま、古い日本は終わり、私の手によって新しい世界の幕が上がる」という、ハリス自身の「黙示録のプロローグ」だった。
 終わりの後にこの国を再建する主役はハリスだったはずなのだが、リンカーン新大統領に公使辞任の要望を自ら提出したハリスは…上座へ向かうはしごを外されるかのようにして…血を吐くまで悪化していた持病をこじらせて、失意の中でニューヨークへ戻った。終わりの時は近づいている。それがいつか。誰も知らない。そんな恐怖を胸に抱えながら。精神を病むかのようにして。
   そして、神に召される日がそこに訪れる。1878年2月25日、ハリス急逝。1878年2月28日の朝、ハリスの下宿の近く、マンハッタン4番街と21丁目の交差点脇の、いつも通うカルバリー教会で葬儀が執り行われた。注5ハリス、悲劇の終焉…
 いやいや、そんなことはない。自由と平等を神が約束しているのだから。

 またハリスが訊いてくる―

Query, -if for real good of Japan?
まさしく問う。私が行ったことは日本にとって良いことだったのか。私は日本人に恨まれていないか。


 この問いばかりはハリスの心を揺さぶり続けた。ハリスが設立に深く関わったニューヨーク・フリーアカデミー(現在のニューヨーク市立大学シティカレッジCCNY)。ここで歌い継がれる愛唱歌「ラベンダー」がその問いに応えている。

Voicing in a fond acclaim.Faith and pride in Alma Mater.And her never dying fame.
私達はあなたにあたたかい称賛の声を上げましょう 恵みの母への信頼と誇りは揺るぎません ラベンダーの名声は決して色褪せず揺るぎません

 ハリスさん、麗しいラベンダーはあなたです。ラベンダーは下田にアメリカ領事として、あなたが赴任されていた頃に生まれたフリー・アカデミーの愛唱歌です。あなたが文字通り命をかけて立ち上げられたフリー・アカデミーには、いまも紫のラベンダーが美しく咲き誇っています。そのラベンダーが秘める気高い精神は、まさにあなたそのものです。あなたは日本の自由貿易を開花させるための「使徒」となり、この国を新しい時代へと導いてくださいました。あなたに心からの称賛を。あなたに揺るぎない信頼を。私たちの中に息づく、あなたへの誇りはこれからも決して揺るぎません。


【次回予告】ハリスは「復活」します。マルチモーダルAIai搭載のスマホを持って、時空を乗り越えて再び日本の土を踏み***事件の裁判に乗り込みます。え?、もう死んでるだろ、って? とんでもない、復活があるのです。終わりの始まり。イエスは復活してキリストとなった。どこかの大統領も復活じゃないけどキリストになってしまって、いや、あれはとことん具合がワルい。ハリスは違う。ヒュースケン事件の後は徳川の立場に身を置き、今度は明治政府の側に腰を据えます。モラルと哲学がそうさせるのです。領事館に掲げていた日本で作ったアメリカ国旗、持ってきます。狙いはパークスだ。英国公使に散々いじくりまわされて「悪党ハリス」の汚名さえ着せられて、その怨恨を晴らしにやって来る。かな?旅立ちのバッグには「万国公法」とC&Bのカレー粉を大事に忍ばせて。ああ、カレーだ!なんてKhasyaReportらしいんだ。aiに腰叩かれて時空を超えて旅したらそんなことになったみたい。
カレーだぞ、カレーだ。カレー・ファン待望だ!お楽しみに。2026年中に校了するみたい。






**以下は本文の脚注です。注の下に、「竜門雑誌第469号・第114頁・昭和2年10月に掲載のタウンセンド・ハリス記念碑除幕式に於て 青淵先生」(デジタル版『渋沢栄一伝記資料』・渋沢栄一記念財団)を掲載させていただきました。この青淵先生(渋沢栄一)の言葉が世相が暗く、緊迫してゆくあの時代の日本に射しかける、緩やかに強い一筋の光になっています。そして、漆黒へ向かっている今という時代の行く道をも照らしています。

注1
読売新聞記事本文
我国最初の外国使節タウンセンド・ハリス公使の伊豆下田玉泉寺境内における上陸記念碑除幕式は、秋晴れの一日午後三時から盛大に行はれた、横浜から駆逐艦島風に便乗した米国大使マクベー氏、館員ミラード氏、バーネツト中将、コールツ少佐、ネビール領事、仏人ヘンリーウビル氏、日米協会副会長樺山伯等は午後二時下田港に着、直に玉泉寺に向ひ待合した渋沢子・大倉男・徳川公・阪谷男等も参列し、午後三時玉泉寺住職村上文機師の長男庸道君(四才)の手によつて記念碑の除幕後新築の本堂にて同寺修繕落成、並に建碑除幕の式典を行つた、その席上渋沢氏は立つて、『使節ハリス氏に対し自分は今日お答へせねばならぬことがある』と前提し、緊張した顔を見せたので、マクベー大使はじめ聞耳を立てた子爵は○演説前掲ニツキ略ス。と結び、続いて米国大使マクベー氏は約三十分にわたつて祝辞を述べ最後に『ハリス氏は極端に冷胆とさい疑と排他的の国に来て、勇気と信念と犠牲的の精神によつて外国との通商条約の基礎を築いてくれた』と涙をたゝへて説き、更に『当時の日本は諸外国環視の前に立つて危機の分水れいに立つてゐた、ハリス氏の眼をもつてしても七十年後の御代が今日の如くに平安幸福ならんとは透視し得なかつた、併しながら日本も今日普通選挙が布かれ選挙権の大拡張を見たことは、まさにこの分水れいに立つてゐるともいへる、かくの如く一時に、しかも平穏のうちに選挙権の大拡張を見たことは列国に例がない、ハリス氏のいつた危険なるや、幸福なるやは、矢張り今日において再び日本の将来に向つてもいひ得る、幸ひハリス氏の憂慮がき憂であつたと同様に、普通選挙施行による危険幸福の分水れいが今後幸福の方であつて欲しいと祈るものである』と結んだ、一行は午後五時下田港発再び島風で横須賀に向つた。『渋沢栄一伝記資料』

注2
New York Times 記事本文
渋沢子爵は、ハリスの問いに対しためらうことなく「それは日本の永遠の幸福のためであった」と答えることで、日本国民の心情を的確に反映した。そして今日のアメリカは「それは世界の幸福のためでもある」とそこに付け加える。
Viscount SHIBUSAWA accurately reflected the sentiments of the Japanese people by replying to HARRIS'S query without hesitation: "It has been for the everlasting good of Japan." And America today adds, "Also for the good of the world."

注3
 ローレンス改訂版「 Elements of international law(国際法原理)」p.166-169に米国―フランス間の「港湾に入港した船舶における貿易トラブルの扱い」が記されている。ローレンス版にある米仏間の領主裁判権に関わりうる記述は、ハリスが日本政府の交渉全権委員、井上清直と岩瀬忠震と条約文の質疑交渉をしているときに持ち出した「扶助」の説明と重なる。ハリスの言う「扶助」は「貿易トラブルの解消」が目的だったが、後に領主裁判権の拡大解釈が主に英国を中心にして生まれ条約の不平等として大きな問題となっていった。ハリスがローレンス版のこの部分、領事裁判権を念頭に置いて「扶助」の説明をしていたのなら「扶助」という貿易者同士の契約上のトラブルへ関わる領事の仲裁は一般化されて刑事事件にも適用されてゆく。この点における日米通商条約の問題の核心はローレンス改訂版にある英仏の領主裁判権が「文明国」同士のやり取りなのに対して、ハリスが言及する「扶助」は「文明国」と「半文明国(野蛮国)」の間の貿易トラブルの領主裁判権だということに尽きる。
後にこれが英仏米によって拡大解釈され、自由貿易主義者ハリスの想定外の処で暴れ出すようになった。日本の歴史教科書では現在、これがすべてハリスの「悪意」によって紡ぎ出されたことになっている。

  また、ローレンス版に記載された[米仏領事規定」の第八条に以下の文がある。
 各国の総領事、領事、副領事又は領事代理は、自国の商船内の内部秩序について専ら管轄権を有し、特に賃金の精算や契約の履行に関して、海上又は港内において船長、士官及び乗組員(例外なくすべてを含む)の間に生じる紛争を単独で取り扱うものとする。現地当局は、いかなる口実によってもこれらの紛争に介入してはならない。ただし、領事が拘禁を必要と認めた乗組員の逮捕及び拘禁について援助を求めた場合には、現地当局は強制的な援助を与えなければならない。当該乗組員の逮捕は、領事から現地当局への書面による請求に基づき、かつ船舶の登録簿又は乗組員名簿の公式な抜粋を添えて行われるものとし、逮捕された者は、港内滞在期間中、領事の処分に委ねられるものとする。その釈放は、領事からの書面による請求のみによって行われるものとする。当該乗組員の逮捕及び拘禁に要する費用は、領事が負担するものとする。
Article VIII of the Consular Convention between the United States and France

 松岡正剛はアメリカの「文明国」扱いについて大いなる意見を述べている。それはアメリカはハリスが日本との通商条約交渉をしていたころは、まだ「半文明国」だったという見解だ。ハリスのアメリカは「文明国」で、「文明国」が「半文明国」の日本に対して国際法の何たるかを教育して日本を「文明国」に成長させようとしていたのだが、その確固たる前提を突き崩している。
 アメリカはスペイン戦争1898に勝利してスペインの植民地を奪い「他国を領有した」後にはじめてヨーロッパ各国から「文明国」と承認されたと松岡は言う。モンロー主義で「鎖国状態」にあったアメリカはこの1898年まで日本と同様の「半文明国」だったのだ。
ここで明白になることがある。
「万国公法」も、そこで規定される「文明国」「半文明国、「未開国」も万全な「世界の共通認識」ではないということだ。アメリカは自国を「文明国」と位置づけし、英仏はそれを認めない。
「万国公法」は戦争を是としている。ハリスが日本で取ったスタンス、「言論による条約交渉」、軍艦をバックにおいて交渉相手を威嚇しての交渉ではないという「反戦」の国際関係は英仏には愉快でなく、「奇妙な交渉」と映るのだ。より強い軍事力を誇示する国、実際に戦闘を起こし相手をねじ伏せる国が「文明国」であり世界をリードする。「文明国」になりたければ戦争で相手国をねじ伏せなさい。貴国が強国であると立証されれば我々ヨーロッパ諸国は貴国を「文明国」と認め仲間に入れてあげる。それが「万国公法」の掟だった。
ハリスはその掟を破った。キリスト教の原理が生んだ強国が弱小国を支配するための「万国公法」。その歴史の足かせを外し、キリスト教のエピスコパル教会の信徒が「自由と平等」のもとに日本と対峙して、「モンロー主義」を取る日本を世界に導きだした。この入り組んだ歴史のアイロニー、終わりの始まり、「交易による自由と平等の繫栄」という新たな世界への旅立ちの夢はハリスが日本の土を踏んでいた6年数か月の間だけの出来事だった。
 ハリスが日本を去り、平和主義の足かせを外された日本は、ハリス流の「万国公法」を脱却して、英仏を中心とするヨーロッパの「万国公法」に我身の未来を掛けた。恐ろしい全速力で西欧列強の仲間入りを目指して軍備を備えた日本のその後は中露に勝利して大いなる喝采を受け、帝国主義化して強大となったアメリカに敗北して大いなる悲惨を浴び、世界にまれな「きのこ雲の焦土」に立たされることになる。

注4
タウンゼント・ハリスT.Harrisのこのエドワード・ブルワー=リットンEdward Bulwer-Lytton作品への視点はアイルランド出身の作家・批評家フランク・ハリスFrank Harrisによるリットン作品への評価と驚くほどよく似ている。リットンが初期に描いた「お高くとまった貴族的な世界(ダディズム)」や「大げさな歴史劇」を離れて、後半生に到達した「地道に生きる普通の人々」をリアリズム表現するスタイルを英国の批評家たちは1920年代に高く評価した。
 タウンゼント・ハリスはリットンの「モラルと哲学」に欠ける作風が『カクストン家の人々』の刊行の時からリアリズム表現に徹したことに触れている。エドワード・ブルワー=リットンの後期作品(The CaxtonsやMy Novel)が、初期作品のPelham、Eugene Aram、Paul Cliffordなど)に比べて道徳moralsと哲学philosophyの面で遥かに優れていると記した。日本へアメリカ公使として赴任する途中のセイロン・ゴールでタウンゼント・ハリスが日記1850年1月1日に記したことは、これから日本で繰り広げるかれの条約交渉に「モラルと哲学」が大きくかかわることを予告している。
 文学史で言えば、リチャード・ホルト・ハットンRichard Holt Huttonが「リットンの晩年はモラルと哲学の上で評価できる(ロマン主義からリアリズムへ成熟した)」と本格的な文学史の位置づけを行ったのは、19世紀の終わり、1900年前後である。1850年の段階で、ハリスがすでに「リットンの晩年はモラルと哲学の上で評価できる」ということを彼の日記に、その読書体験として書き残していたことは文学史におけるリットン評価の転換を50年も先取りしていたことになる。日本へ向かう汽船乗り換えのハブ港・セイロンのゴールでハリスは貿易商だった時の馴染みのビッグ・マンション・ホテルに宿泊した。そこで、「晩年のリットンはモラルと哲学の上で評価できる」と1850年1月1日付の日記に記していたのだから。

注5
ニューヨーク・ヘラルド、ニューヨーク・タイムスがハリスの死と葬儀を知らせる記事を載せている。
ヘラルドにはこうある。On the 25th inst., TOWNSEND HARRIS, late United States Minister to Japan. Friends are invited to attend his funeral services.
ニューヨーク・タイムスは葬儀の内容を細かに報じているが日本でのハリスに関わる参加者は皆無だった。ハリスが2月25日に急逝し、2月28日の午前10時には葬儀という非常にタイトなスケジュール、日本公使はワシントンから遣って来れなかった。ニューヨークには日本人留学生、つまり日本政府関係者となるはずの卵もいたが葬儀に参加したという新聞情報はない。ニューヨーク市民もハリスのことはとうに忘れている。ハリスは隠者のごとく暮らしていた。
国葬ではない。マンハッタンのエピスコパル・カルヴァリー教会はこの日、10時から始まったハリスの葬儀にCCNY(ニューヨーク市立大学関係者とエピスコパルの聖職者、商工会議所のメンバー、旧友が集まりハリスとの別れを惜しんだ。



【参考】 タウンセンド・ハリス記念碑除幕式に於て 青淵先生
竜門雑誌 第469号・第114頁 昭和2年10月

 安政三年米国人タウンセンド・ハリスが、最初の総領事として我が国に来航し、領事旗を此の玉泉寺境内に樹てたのでありますが、此ハリスを永く記念する碑を建設したいと云ふので、種々心配して居りました所、漸く出来上りましたので、今日除幕式を挙行するに至つたので御座います。ハリスが玉泉寺に居りました時代は、寺も荒れては居なかつたと思ひますが、何分爾来七十年も経過したことでありますから、最近になつては本堂の如きかなりひどくなつて居りました。従つて建碑と同時に之れを修理する必要が起り、日米協会の尠なからぬ御援助を得まして、斯く立派に改修が出来上りましたことをお礼申上げます。
 我が国の外国に対する交通は、米国のペリー提督が渡来してからでありまして、三年後にハリスが来られ、日米通商貿易の条約を締結したのであります。当時或方面では尚ほ攘夷論が盛んであつただけに、甚だしい物議を生じましたが、ハリスは常に日本の前途の幸福を念願して、我が当局者を啓発誘導し、極めて公平に極めて親切に条約を結ぶに意を用ひ、他国の模範となつたのであります。又それ以来頻発致しました処の外交上の葛藤に対して同情ある誠を尽し、我が国に好都合になるやうに努力してくれたのであります。総領事として玉泉寺に駐在した約三年、並びに後公使として麻布の善福寺に駐剳して居た三年近く、前後を通じて五年九ケ月日本に滞在しましたが、其間実に誠意に満ちた行為に出で、此処に私達が記念碑を建てねばならぬ程の厚情を披瀝したのであります。
 特に申上げたいと思ふ事柄は、ハリスの通訳官として影の形に添ふ如く彼の働きを助けて居た和蘭人ヒユースケンが、万延元年攘夷論者に殺害せられたときに採つたハリスの行動であります。当時ハリスは公使として善福寺に居りましたが、各国の公使は此事件に憤慨し、幕府の警備の足らぬことを理由として夫々の公使館を引払ひ、神奈川まで引上げたのであります。然るにハリスは泰然自若として善福寺を去らず、他の公使の撤退勧告に対し「新らしく開かれやうとする国へ来て居る以上、多少の危険のあることは言ふまでもない。今度の事件に付ても、予て幕府からは夜の外出をせぬやうにとの注意を受けて居るのに、ヒユースケンは夜間に外出して此災難に遭つたのである。然らば幕府のみを責めることは出来ないではないか。然るに拘らず公使館を退去して幕府を無視する如きは採らざる所である」と答へ、敢然として主張を通した。従つて一度引上げた各国の公使も追々江戸へ帰つて来たのであります。誠に其の事理を弁へた言動、日本に対する思ひやりの深さ、其好意に満ちた点は、私等の銘記して忘れてならぬ処であります。更に斯様な武士的行為のみでなく、通商貿易に関する条約其他タリフ(税率)に就て、英仏其他の如き或る野心を持つて来る国国に先んじて、日本に有利な決定を為さしめたことは、一層記念すべき事柄であります。
西暦千八百五十六年九月四日。木曜日。昨夜は興奮と蚊群とに妨げられ殆ど眠を為さず。蚊は体躯極めて大なり。朝来予と共に上陸せし人々、予の旗竿を立てんとせしも、竿重くして捗らず、旗竿倒れ、横桁折れしも、幸に負傷せし者なし。終に軍艦よりの増援を得て、旗竿は立てられたり。此日午後二時半、一同其周囲に円をなし、予は此帝国に於ける「最初の領事旗」を掲揚したり感慨殊に深し、蓋し日本の国情変化の兆にして、更新の端なるべし。借間す(真に問う)。予が思惟する如く、日本の為に真に有益なりや如何にと。

 実に此の「自分の親切が日本の将来の幸福となるであらうか」と自問して居ることに対し、私はお答へせねばならぬ義務を感ずるのであります。そして「お思召の通りになりました。我々は貴方の厚情を忘れませぬ。霊あらばお享け下さい」と申すのでありまして、皆様と共に声を大にして在天のハリスの霊に応えたいと思ふので御座います。即ち殊更に申述べるまでもありませんが、ハリス渡来後七十年間の日本の国情の変化を回顧致しますと実に感慨無量であります。就中私の如く親しく身に触れて其の経過を見て居る者には、よく斯くまで進んだものであると思はずには居られないのであります。我が国は今や米英と肩を並べて世界三大国の一つと云はれ、或は又五大強国の一つと称せられて居ります。政治上には封建的専制から立憲国となり、更に普通選挙も施行せられて居ります。経済に於ては資源乏しきに拘らずよく他列強に伍し、貿易額の如きも年々に増加し、学術に付ても亦先進国に劣らず、其他文明文化の施設に於ても、欧米の粋を採つて、東洋に偏在する一帝国でありながらも、世界の視聴を集めるまでになつて居りますが、之れ一つにハリスが最初外交・通商に同情ある指導を吝まず、よく日本の前途を心にかけて居てくれたことに端を発して居ると云つてもよからうと存じます。

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タウンゼント・ハリス記念碑碑文

 TOWNSEND HARRIS
 American Consul-General who by the Treaty of Yedo July 29 1858 opened Japan to the world and on this spot September 4 1856 raised the first consular flag in this empire and here resided until Novemeber 23 1857.
Erected by
Viscount E. Shibusawa
Edgar A. Bancroft
(Late American Ambassador to Japan)
and
Henry M. Wolf,of Chicago.
September 4 1927

Paragraph from he Consul's Diary:
  "Thursday September 4 1856. Slept very little from excitement and mosquitoes; the latter are enormous in size. Men on shore to put up my flag staff. Heavy lot. Slow work. Spar falls, breaks cross-trees, fortunately no one hurt. At last get a reinforcement from the ship, flag staff erected. Men form a ring round it, and half past two P.M. of this day I hoist the first Consular flag ever seen in this empire. Grave reflections. Ominous of change. Undoubted beginning of the end. Query,-if for real good of Japan?"

資料参考/渋沢栄一記念財団 デジタル版『渋沢栄一伝記資料』第38巻(DK380040k) 本文
 https://eiichi.shibusawa.or.jp/denkishiryo/digital/main/index.php?DK380040k_text