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西洋の野蛮を説くヒュースケン、
攘夷の刃に逝く

終わりの始まりへ
1861年のカレーライス⑲ KhasyaReport 2026/July 02 / Tomio Tanno 丹野冨雄



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カレーライスも考える・ハリス条約は本当に不平等だったのか?


Zempukuji Temple Entrance

アメリカ公使館が置かれた江戸末期の善福寺。本堂前(アメリカ公使館)に幕府の武士たちがいかめしく警備に当たっている。この写真はマンモス・プレート大判カメラで1867年に撮影された。すべての前準備からレンズのキャップ・シャッター開け閉めはフォトグラファー、C.L.ウィードが仕切る。商業写真家だ。三脚に据えた大きな箱を構える訝しい外国人の出現に二本差しの軍人(サムライ)が正面切って向かい睨みつけ威嚇する。ハリスとヒュースケンがこの公使館で執務をしていた時は「警護」の軍人武士たちがいかにも不愉快なふるまいをすると何度も幕府に抗議しているが、こんな様子か。鮮明に写し撮られているのは「警護」にあたる二本差しの面々が露光の間、微動だにせず戦闘態勢にあったからだ。  ハリスは公使館の「警護」を嫌った。ヒュースケンは「警護」に逆らうように夜間外出し「警護」軍人を挑発するかのようにふるまった。ヒュースケンの住まいはこの本堂にもっと近い右脇の寺中善行寺。闇夜にテロリストがヒュースケンを襲撃した。腹部に重傷を負わされた。戸板に載せられて彼が運び込まれた善行寺は右脇にある。この写真には写し込まれていない。  ヒュースケン最後の写真はここでハイネと同じ遠征隊の画家アルベルト・ベルクが撮影している。宮永孝「開国の使者・ハリスとヒュースケン」丸善雄松堂1986にはこの善行寺で撮られた、椅子に腰かける療養のハリス、ヒュースケンの妻おつるの二枚の写真が掲載されている。こちらは撮影者がハイネだとして、彼らしい、愛おしい貴重な二枚の写真を残してくれたものだ。ハリスとヒュースケンとおつるがそれぞれの事情を含みながら、ここ寺中善行寺で被写体となっている。 江戸末期善福寺門前1867 Phot by Charles L. Weed (photographer) - Collection Centre Canadien d'Architecture / Template:PD-US / wiki
 「寒く雨の降る江戸の夜だった」---オランダ人の歴史学教授ヘッセリンクReinier H. Hesselinkはヒュースケンが襲撃された日、1861年1月15日の夜を『ヒュースケン暗殺』1994の冒頭でこう語り始めます注1。不吉を匂わせる夜の描写はリットンの小説「ポール・クリフォード」注2の冒頭を切り取ったかのよう。リットンが作品に登場させるビクトリア朝のロンドンが不安に満ちる街だったように幕末の江戸も内外からの差し迫る脅威におびえ、不安の中にありました。
 不吉な予感…「寒く雨の降る江戸の夜だった。雲はかかっていないが月は見えない」…新月から四日目の三日月が見えず暗闇の中でした。

 ヘッセリンクは3年ほど東京大学史料編纂所に籍を置き”ヒュースケン事件”に関するDISK(磁気記録メディア)資料の提供を受けて、あの忌まわしい出来事のあった夜に至る経緯とその後のテロリストの行方を探りました。
 綿密なDISK資料。整理された論理推論。そこから判断した結論は「雲はかかっていないが月は見えない」。暗殺者たちは平然と幕府政権の手を逃れ、1868年に維新政府を開き、ヒュースケン惨殺の目的を達成しました。テロリストたちは新政府を立ち上げ「尊王攘夷」のスローガンを「富国強兵」に置き換え、天皇を思い通りに操り政治権力を勝ち取ります。志士は目的を達成しました。DISKに焼き込まれたヒュースケン資料を読み込んで「テロリストは目的を遂げた」、そう結語するヘッセリンクの目線はクールです。

 ヒュースケンはオランダからアメリカへ移民し、さらに日本へやって来ました。歴史学者ヘッセリンクも同じ道程を踏んでいます。くまなく、丁寧に、ガセネタまで含めて”ヒュースケン事件”を徹底して追った背景には若き「さまよえるオランダ人」の壮絶なマルチルドムを追って正確に捉えようとする意欲が蠢いています。
 日本の徳川政権はハリスの唱える自由貿易主義を取り入れて「鎖国」から抜け出しました。すでに西洋がその貿易手法で得ていた莫大な富。西洋を真似て貿易資本主義の装いに身を包み、貿易が生む富を身中に獲得しようとしたのです。
 しかし、西洋は近代資本主義に汚れています。子供たちはその汚濁の為に悲惨を被ります。ディケンズの『オリバー・ツイスト』のように危険な煙突掃除に男の子を使い、『ハード・タイムス』のように炭鉱の狭い穴路に幼い男女を押し込めて働かせました。「つらい時代」です。ハリスとヒュースケンは自由と産業革命が招き寄せるそれらの悲しい事実と直面した同時代人です。
 文明化が都市と子供たちにもたらした罪悪と悲惨。日本にはまだその悪徳が届いていません。下田でも江戸でも子供たちが笑顔で暮らしています。ヒュースケンもハリスも、ハイネも、そして、エルギン卿でさえも日本の子供たちの無垢な笑顔に驚き、その屈託のなさに称賛の声を上げています。

KhasyaReport

 

   

西洋の悪徳を日本に持ち込む

 「二人の男」-ハリスとヒュースケン―が将軍と謁見してハリス素案を米国政府案として協議の卓に置き、通商開港の細部を日米で詰めて条約を策定することを将軍臨席の座で確認した1857年12月7日。その夜、ヒュースケンは日記にこう記しました。

しかし、ああ、私にはかけがえのないものとなったこの国よ、私達があなたに授ける西洋の「進歩」はほんとうに進歩なのか、私達がもたらす西洋の「文明」はほんとうにあなたにとってなくてはならない文明なのか?私は、この国の飾らない素朴さを称賛する。豊饒な大地の実りに恵まれ、そこかしこに子供たちの楽しそうな笑い声が満ちる。この国に悲惨など何処にもない。それなのに、ああ神よ、私は恐れるのです。この幸福な光景に終わりがやって来ることを。西洋人の産んだ破滅的な悪徳がこの国に持ち込まれることを。
Japan Journal /Heusken / 1857年12月7日

 "しかし"の前には日本が世界に加わる状況を作ったのは私たち「二人の男だ」というヒュースケンの自負に溢れる自慢げな記述があります。日本を世界に引きずり出した誉れと同時に日本に西洋の悪徳をもたらす畏怖とがこの時のヒュースケンの心には二本の川となって流れていました。
「解放への熱烈な動きと富の拡大の時代、すなわち自由主義が全能の真理から脆弱な科学的体系へと変貌した時代のイギリスの精神を体現する好例」とチェスタートン G. K. Chestertonが「つらい時代」の背景を前書きに記しました1907。ハリスは自由貿易主義が全能だと信じています。ヒュースケンは育った時代も場所も違うからでしょうか、「自由と平等」を信じても近代産業と共に歩む自由主義は脆弱なもの、西洋の文明には愚かしさがあると感じています。
 ヒュースケンを巻き込む"あの事件"が起こるまでの4年間、まず真っ先に通商条約を結んだアメリカが公式に日本の開港に商船を入れ、その一か月後にオランダが、また立て続けにロシア、英国、フランスが通商条約を結び商船と軍艦と捕鯨船を次々と日本の開港地に入港させました。
 こうして始まった開国はその旨味を味わう前に日本の経済を真っ先に混乱させます。貿易で潤う西洋の商人たちが開港場に豪奢な社屋を建てる中、日本政府(徳川幕府です)は輸出に向けて商品が買い占めされ、国内に品薄が起こりと江戸市井の人々が暮らしに迷ったと言うのです。
 米英仏露の国々と同じように通商条約の締結を日本に求めてプロシアが遅れてやって来ます。でも、日本政府(徳川幕府です)は条約締結を拒みます。日本のプロシアへの拒絶申し入れは粘っこく、慇懃で、無礼でした。

   
「開港して貿易を始めましたがね、日本にとって好いことなど何もないことが分かったんですよ。プロシアさんには条約締結をしばらく待っていただきたい」
「それは困る。ほかの国々はもう貿易しているじゃないですか」
「だから、それが間違いだったんです。貿易始めたから我が国ではインフレが起こったんです。物価が上がって人々は生活に窮している。小判はどんどん盗まれるように持って行かれるし、国中が大慌てなのです。世の中の混乱が政府を転覆させかねない。プロシアさん、しばらく条約締結の手を引いてください。世の中が落ち着いたら条約のこと、考えますから」
 日本側はくどくど口説いたが、あっさり撥ね退けられて、
「それはオタクの事情でしょ。あんたが言ってるのって日本の国内問題ですよ。オタクの政府で解決すればいい。プロシアはほかの国々と同じ条約を結んでくれと言っているだけです。何も不都合なこと、ないでしょ」注3

 こんな具合なので、埒が開かない。そこへ持って来て日本側の、麻布の接遇所に陣取ったプロシアにくどくど言い訳を広げに行った条約担当者が何やらの責任を取ってハラキリをしたという事件まで生まれてしまい(日本政府はこれを病死とごまかしましたが)、「破滅的な悪徳」の前触れがすでに始まっていたかのようでした。
 午後8時過ぎでした。プロイセン使節団の宿舎---日本(徳川政権です)が現在の港区飯倉公園辺りに建設した外国要人専用の施設・赤羽接遇所---を出て3名ほどの護衛に守られ家路をたどり中之橋に差し掛かったあたり、騎乗のヒュースケンが数人の薩摩の刺客に囲まれ刀で切られた。脇差の一振りが腹部から腰のあたりまでを切り裂き傷は腸に達していました。刺客は逃げた。出血が止まらぬまま戸板に乗せられ1キロほど先のアメリカ公使館(善福寺本堂)前のヒュースケン宅(寺中善行寺)まで運ばれました。プロイセン交渉団の医師が傷の外科手当てをしたのですが腸の損傷が甚だしい。意識が途絶えそうになる間際、急を聞いてプロイセン宿舎から駆け寄ったハイネに「ワインをくれ」とヒュースケンは言いました。赤ワインを注いだグラスを持ち、ハイネはヒュースケンの上体を起こそうとしました。体は硬直していました。出血は止まらず、その分、激しい痛みにさいなまれることはなかった。夜半過ぎ、ヒュースケンは神に召されました。

ガリバルディの記事を読みながら

 ヒュースケンがテロリストに暗殺される前の状況へ少しさかのぼります。
 その夜、ヒュースケンはプロシア外交団が宿舎にする幕府の赤羽根接遇所(現飯倉公館あたり)で皆と一緒に食事を取った後、英字新聞を読みふけっていました。イタリア統一運動・リソルジメントの記事でした。ジュゼッペ・ガリバルディの知略的な戦闘がイタリア統一の夢を現実に変えて地上に引き戻したと伝えています。
 ガリバルディはイタリア南部が生んだ義勇兵軍団「赤シャツ隊」の司令官です。戦えば負けを知らない。アメリカ大統領リンカーンは南北戦争の北軍司令官に戦略家ガリバルディ任用を企てましたが彼を抱えることはできませんでした。ガリバルディはイタリア統一と自由を勝ち取ることだけを信念としたのです。
 戦士ジュゼッペ・ガリバルディは新生イタリア王国の議会に加わります。そして、声高らかに叫ぶ。イタリアは一つにまとまらなければならない。我イタリア国王の下に諸国は集まれ。戦って祖国の統一を勝ち取れ。オーストリアから。フランスから。
 ヨーロッパは戦乱に明け暮れています。戦闘の様子は生々しく新聞が伝えてきます。ヒュースケンはガリバルディ率いる赤シャツ隊のイタリア統一を求める戦いをプロシア公館に置かれた新聞で読み興奮していました。プロシア軍が赤シャツ隊と共に戦いオーストリア軍をアルプスで破った。その勢いを借りて赤シャツ隊はヴェネチアをオーストリアから奪還する。赤シャツ隊の若い指揮官が命を厭わず戦い勝利した。ヒュースケンは赤シャツ隊の若い指揮官の義勇を絶賛しました。「抑圧からの解放」、「個人の自由」というロマン主義、自由主義がかれの胸中を熱くしました。でも、プロシア外交官たちは誰もヒュースケンの言葉に興味を示しません。皆はウィスト(英国発祥のカードゲーム)に夢中でしたから。
 その後、ヒュースケンは妙に無口になったとベルクはプロイセンの日本遠征公式記録に記しています。そう述懐されるほど、ヒュースケンには孤独の影が、終わりの予感のように忍び寄っていました。
 ヒュースケンは英字新聞の記事に心を揺らしました。自由と平等の理想を持ち、抑圧からの解放という「物語」に強く共感したのです。
 幕末という時代の過酷さ、激しさ。近代資本主義の傲慢さ、醜さ。その対極にヒュースケンが抱いている自由と平等という理想の純粋さ。お金が欲しいという無邪気さ。そして、黒船と攘夷に揺れ動く(実際、地震も頻発していました)この国に「西洋の悪霊」を自身が持ち込んだという、彼の理想を打ち消してしまうなんとも言い逃れの出来ない皮肉。

 月のない暗い夜、ヒュースケンは騎乗し赤羽根接遇所のプロシア仮公使館を後にし自宅があるアメリカ公使館へ向かいます。中之橋あたりに出たところで刀を抜いたサムライたちに取り囲まれ、小刀で腹を一文字に切り裂かれます。その深夜、ヒュースケンは神に召されました。  

ヒュースケンの生い立ち アムステルダム、ニューヨーク、下田、江戸

 レオン・ボク注4に寄ればヒュースケン(名はヘンリクス、アメリカに帰化してからはヘンリーと名乗った)は10歳のころ、生地のアムステルダムから100キロほど南西に位置するブレダのカトリック系寄宿学校へ入学しました。ブレダにはカトリック系の全寮制教育機関がいくつかあります。どの学校だったのか、特定はできません。アムステルダムで石鹸工場を経営していた父親ヨハネスが1846年に亡くなり、寄宿学校での勉学が経済的に無理になり、その翌年、アムステルダムに戻りました。両親に守られた裕福な少年時代の幸福、思春期を迎えてからの経済的な凋落。夫を亡くしお金に行き詰って子のヘンリクスを母はアムステルダムに呼び戻しました。詳しいことは分からないのですが彼はアムステルダムを転々と移り、部屋を借り、また、住み込みで働きました。病弱な母を守りながら1853年、ヒュースケンは新大陸に職を求めて移民船でアメリカ・ニューヨークへ向かいました。そして、ニューヨークで秘書兼オランダ語通訳としてタウンゼント・ハリス(下田着任後、米国公使となります)に任用されました。

 ハリスがアメリカ特使として日本(徳川政権です)と通商条約1858を結んでから3年が経っていました。大統領特使ハリスの念願だった通商条約締結にはヒュースケンの秘書としての立ち回りと英文、和蘭文での条約文書作成に彼の並々ならぬ天性の語学力が大きく貢献しています。
 日本の開港(すなわち”開国”)はハリスが条約草案を作成し、草案に沿ってその詳細が岩瀬忠震(いわせただなり)、井上清直によって検討され、条文に修正を加え、条約調印を経ることで実現した。ペリーが「砲弾」を脅しに使い日本に迫った開国は1854年の五年後に日本へやって来たハリスとヒュースケンの尽力で実現した。ペリー条約が締結されて日本は開港し貿易交渉ができるのだと”早とちり”した米国商人が下田と函館に訪れ、貿易を――日本は「人道的な観点から」開港前の闇貿易を認めていたが、こうして国際貿易港が日本に五港生まれ、日本との自由貿易を望む西欧各国がハリス条約に倣い次々と日本政府(徳川幕府です)と貿易条約を結ぶことになります。
 ハリス条約は前年締結されたペリー条約を補完する。アメリカが日本開国の先陣を切るとオランダ、英国、フランスが日本との通商条約を直ちに、相次いで結びました。次にはプロシアが日本政府との条約締結を控えています。江戸芝の善福寺にアメリカ公使館を構えるハリスは秘書兼通訳のヒュースケンをプロシア外交団の宿舎に送りました。プロシア外交団のオイレンブルク代表は、祖国の家族に送った手紙の中でハリスへの賛辞を惜しむこと無く記しています。

 条約の骨子はハリスが英文で作成しました。その日本語訳は徳川政権の外国掛が関わるのですが英語からの直訳ではありません。ハリス英文の条約を秘書のヒュースケンがオランダ語に訳し、そのオランダ語を基にM等幕府側の担当者が日本語に訳しました。困ったことにMを筆頭に幕府側翻訳者は貿易に関わるオランダ語を知らない。そこでヒュースケンは初手から日本側へオランダ語条約文の手ほどきをします。こうして出来上がった日本語条約文を基に岩瀬、井上の二人は老中諸氏に諮り、老中の意見を集約してハリスとの条約折衝に臨みます。さて、ハリスは日本語が分からないから、条約案協議でヒュースケンの登場です。岩瀬、井上の日本語→Mのオランダ語訳→ヒュースケンの英語訳→ハリスの納得、となるのです。ああ、面妖なこと。
 何だ、条約検証のすべての場面でヒュースケンが入ってるんじゃないか。これなら「ハリス条約」はその体裁も中身もヒュースケンによって形作られた「ヒュースケン条約」じゃないか。そう思わせますか。ええ、通訳の粋を越えています。

   通商条約の焦点はもちろん貿易にありますが国家間の貿易の実務を取り仕切る約束を固めるというばかりではありません。国家存続の明暗を分ける取り決めという色合いが非常に濃いものでした。19世紀中庸、西欧諸国はアジア海洋部の東の先にある日本の開国を、交易を通じて「手懐ける」方策を探していました。戦艦で日本人を脅して「友好」と「通商」の条約を手にするか。中国のように戦争で痛めつけて香港のような99年間の租借を要求するか。インド、セイロンのような植民地とするか。それらの忌まわしい「戦争」の準備ととれる策略を各国が模索する中に新興国アメリカからハリスとヒュースケンが出てきて通商条約締結という漁夫の利を、大砲を放たずたった釣り針一本で掴んでしまいました。

 ヒュースケンの事件があって英仏露は機に乗じる策略を講じました。江戸は危ない、神奈川へ引き上げる。犯人のテロリストを早急に捉えなさい。さもなくば「我々」の安全の為に我々が江戸城を乗っ取り日本を安全な国にします。手段は、そう、選びません。
 悪辣な脅し、戦争のはらわたをえぐる。そうならなかったのはハリス一人の「抵抗」があったからです。ハリスにすれば米国の優位を諮ることが念頭にあって欧州諸国とは一線を画したかもしれませんが、日本とは交渉談判で通商を、つまり実質的に開国を計るというピアーズ大統領からの特命がありました。日本が国際社会に踏み出す基盤を「自由」の名の下で平和裏に、ハリスはただ一人で、ヒュースケンという秘書兼通訳の実に重篤な助けを受けて、成し遂げてしまいます。
 アメリカ民主党員の自由貿易主義者で敬虔な聖公会教徒。しかも、単なる一貿易商だったハリス。単なる貿易商はアメリカ大統領特使という肩書で歩く以前は誰もが見下げて私を見ていたと、セイロンのゴールで述懐しています。以前は胡散臭い貿易商だと見下げていた連中が、今度は大統領特使という肩書を見るだけで、私をまるで大統領でもあるかのように敬うのだから呆れてしまうね。まるでヒュースケンのような子供っぽい口ぶりで日記に記しています。
 ハリスは長年の外交実績を持つ外交官ではなかった。日本との通商条約締結のために臨時に民間から雇われた素人外交官でした。その時のアメリカ政府が民主党時代にあり、自由と開放を求める気迫に溢れていたことが大統領特任の日本特使としてハリスを選任したことに大いに関係します。大統領府にはハリスに信頼を寄せるキャスLewis Cassという人物がいて、彼が国務長官としてハリスの抜擢に動いたこと。ペリーがハリスを推したこと。そして、ハリス自身が日本との初めての自由貿易条約(通商条約)締結者としての政治的な栄誉に向かってひたすら邁進していたこと。それらの要因が「革命」のように日本の開港、実質的な開国を進めてしまいました。ずぶの素人が日本の開国開港という世界史的な出来事を、これも全くの素人、秘書兼通訳のヒュースケンと共に成し遂げてしまったのです。
 「西洋の悪霊」を背負って万国公法(近代国際法)を手にして海を渡ってやって来た商人軍人外交官はアジアの独立国を野蛮国(バーバリアンの国)と見下げていました。野蛮国はオスマン帝国、中国、そして、日本です。ハリスも―教養ある近代人として―その「認識」を共有していました。しかし、ハリスは「革命」を起こしてしまう。
 日本はイギリス、フランスの植民地に甘んじてしまう状況だったのに、アメリカが西欧を出し抜きたいという野心に燃えていたためにハリスは日本の独立を守りぬくという、しかも戦争の「大砲」ではなく平時の「法」を持って日本を通商資本主義の世界に導くというマジックのようなまことを貫いてしまいます。かつてインド中国を相手に貿易商をしていた一人の市民が西欧の戦争慣れした外交官たちを押しのけたのです。ニューヨークの教育委員会で議会の大御所たちが新高校設立反対と保守を貫き通すのを尻目に、教育委員長として、ただ貧しい子供たちの為に無料高校設立の予算を論説で「ぶんどった」実績がハリスにはあります。ハリスが日本政府(江戸幕府です)に向けて絶えず指摘したこと、「日本には中国で起きたような戦争の混乱が待ち受けている。英国のエルギンは艦隊を率いて日本を叩くためにやって来る」というアジテーションは確実に近い将来の現実だったのです。ハリスが日本を去ってから英国が鹿児島に対して行った1869年の「戦争」はハリスがいなかったならもっと早い時点で、もっと大きく、しかも江戸市街で起きていたと想起するのは途方もない妄想ではないのです。

 日本史はこのことを気に留めません。玉手箱に「領事裁判権」と「関税自主権」のお札を入れて持ち歩き、事あるごとに蓋を開けてはいぶされて臭う煙をもくもくと出し、「だからハリスは極悪非道の輩だ」とメガフォンを口に当てて近代日本史はがなります。日本政府(徳川政権です)とアメリカ政府が平和裏に結んだ国際条約という「歴史事実」は、政権の譲渡を(天皇から)受け、新生維新の時代を華々しく打ち上げる明治政府にとって、はなはだ具合が悪い。「維新」はすべて「明治政権」が切り開いた。そう言わなければ明治政府は格好がつかない。ハリスの「自由と平等」の時代はなかったことにしよう。それでも「あった」という連中には、そうだな、こうしよう。治外法権を設定したその上に関税自主権を奪ったアクドイ奴というレッテルをハリスにも教科書テキストにも貼りつけてやつらの口を封じよう。


お抱え外国人の新聞ジャパン・メールにも

 1884年1月12日のジャパン・ウィークリー・メール紙(ジャパン・メール)注5 にヒュースケンの日記(英訳)の一部が掲載されています。ジャパン・メールはフランシス・ブリンクリーの新聞なので---お抱え外国人という縛りから抜け出しきれずに---紙面掲載の「日記」最終部分に加えられたヒュースケン暗殺の解説はややぼかされた表現になっています。メール紙の読み手が日本で商売をする貿易関係者ならば、横浜開港の「真実」や、開港に至る裏話をヒュースケン日記に求める彼らを納得させる内容に絞って交渉当事者のヒュースケンが語る日記の掲載は大きなスクープでした。
 ジャパン・ウィークリー・メール紙は不況、軍拡、自由民権運動の衰退という維新後の日本の時流にあって、日本政府の方針に合わせながらも日本の取る道をアジアとの融合、世界とのつながりを求める方向に定め記事を書き続けます。しかし、メール紙がブリンクリートともに消さり、ジャパン・タイムスの時代となり、日本はハリス条約を締結したときの「自由と平等」の通商時代から強固な軍国の日本独自路線を歩むようになります。江戸初期にキリシタンを恐れ、恐れるあまり磔刑に晒し弾圧し鎖国に踏み込んだ時代に戻ったかのようです。日本をそうした道に進ませる、タダならぬ政治と経済の流れが世界にあった?たぶん、そうでしょう。
 そんな流れが1868年に誕生した維新政府を強固な軍国にしたように、2026年の今、日本にまた襲いかかる気配です。

 ヒュースケンは日本を西洋の通商資本主義の中へ巻き込むことを---これこそがハリスの下で与えられた彼の任務でしたが---「悪魔を日本に誘い込む」と表現しました。日本へ向かう航海の途中三度、戦艦サンジャシント号の居室で悲嘆し日記に記しました。注6 ヒュースケンは自身を「西洋の悪魔」の運び屋だと彼の日記に記したのです。
 英国のビクトリア期に現れる「負の歴史」のように日本の子供たちから笑顔を奪うことをハリスもヒュースケンも心のうちに咎として引きずっています。引きずりながら日本の土を踏んで「西洋の悪魔」を通商条約の中に忍び込ませてしまった。
 ハリスはリットンを「モラルとフィロソフィに欠ける」とセイロンのゴールで日記に記しましたが、これを彼と同時代に活動していたディケンズが知ったならば、ハリスが日本に持ち込んだ通商(貿易)資本主義は子供たちを不幸に誘う悪魔そのものだったと記すのではないだろうか。富国強兵という「幽霊」が間もなくして明治初期1873に生まれますが、子供たちはそのとき村田銃を肩に抱える年齢に達しています。ハリスが開港(開国)させた日本は外貨をつぎ込み銃と大砲と戦艦を手に入れて成長して青年となった子供たちを船に乗せ日本の港から清国へ向かわせます。

 ハリスが下田に上陸し、アメリカ領事館を設け帆船の柱を国旗掲揚のポールに見立ててアメリカ国旗を掲げた日、日記に「終わりの始まり」と記しました。「明らかに終わりの始まり」と。
 通商条約締結のドタバタ劇を演じて追われるようにしてハリスが日本政府(江戸幕府です)の要人に見送られ「華々しく」日本を去りニューヨークへ帰ったころ、すでに「終わり」は始まっていました。

セイロン・ゴール 馴染みのホテルで

 アメリカへの帰国は日本へ来た時の道程を再び辿る西回りルートをたどりました。商船が寄港する思い出の土地には日本へ赴任するとき領事着任を祝ってくれた旧知の人々がいます。挨拶をして寄るはずでした。マカオ、香港には商人時代からの旧友ドリンカーがいました。しかし6年の歳月の間にドリンカー氏はアヘン戦争の中、中国商人の恨みを買って毒殺されました。夫人と子供たちは身の危険を覚えアメリカ・ボルチモアへ帰国して、もう中国にはいません。
 子供たちのうち、長女のケイトは日本で暮らすハリスと文通を続けていました。6年前は10歳でしたから今はもう大人になっています。ケイトへはニューヨークへ帰ったら政府への報告書を提出するときあなたが母と暮らすボルチモアへ寄りますと手紙を送っています。
 セイロンのゴールでは汽船を乗り換えるために暫し逗留します。貿易商時代にはここでセイロン領事の代理として地方官を務めていたフォーブス氏と親交を深めていました。フォーブス氏からリットンの「カクストン家の人々」を借りて読んだのは日本赴任でゴールに寄った時でした。フォーブス夫人の作るシンハラ料理とマレースタイルのカレーが極上のうまみとかぐわしい香りに包まれていました。夫人のカレー料理をもう一度ご馳走になりたいと思いはするものの、フォーブス夫妻も今はセイロンを離れていて、ニューヨークへの帰り航路ではカレーにありつくことができなかった。足を延ばしてカルカッタに寄れば好物のマレイカレーが食べられますがカルカッタ駐在アメリカ領事のハフナグル氏もすでにおらず、ゴールから遠出をする気も起りません。ハフナグル氏は貿易商が兼任する外交官として成功した人物で、外交官となったハリスの先輩にあたります。二人の付き合いも古く、ハリスが下田へ向かう途中、香港から「カレー粉を六瓶送って」と書信を送っています。
 スエズへ向かう汽船をゴールで待つ間、ハリスはフォートのビッグ・マンション・ホテル注7で偶然、プロシアの外交官ブライトに出会いました。ブライトは日本駐在のプロシア領事に任命されて、二度目の日本訪問へ向かう途中でした。
 日本との通商条約を他国に先駆けて結び、プロシアが条約を結ぶ時にも溌溂と振舞い、ハリスは江戸幕府とプロシア条約交渉団の間をつなぎました。ブライトはそのとき交渉団の一員でしたからハリスの全面的な支援を受ける立場にありました。ブライトはハリスを敏腕な外交官として尊敬していました。ところがゴールで出会ったハリスには自信満々に自由貿易主義を説いていたあの時の面影がありません。
 ブライトがその時のハリスの様子を記録しています。落ち着かず、不安そうに、
「危なすぎる。日本へは今、行くべきではない。私なら行かないよ」
 ハリスはブライトにそう忠告しました。ヒュースケンが暗殺された後、公使館の日々の世話をする日本人が、彼は下田時代からハリスの世話をする従僕でしたが、ハリスの奇妙な興奮を語っています―酒を浴びるほど飲んで銃を持って公使館の廊下を歩き回っている、と。そのままの常軌を逸する張りつめた緊張がセイロンのゴールまで続いているのです。
 ハリスはゴールのビッグ・マンション・ホテルでブライトに弱弱しくつぶやきます。
「日本へは今、行くべきではない。私が考えていた方向とは違う処へ日本は向かっている」
 ブライトはこのつぶやきを聞いて、胸の内でハリスにこう言い放ちます―「あなたの時代は終わった。これからは私たちの時代だ」
 若いブライトにハリスの言葉は届かなかったのでしょう。日本でプロシア外交の力を見せつけ西欧の日本外交を取り仕切り、私が日本をリードする外交官となる。ブライトはゴールのフォートでハリスに出会い、その思いを強くしました。

 荒れ狂う海からの脅威を絶つフォートの中。ポルトガルがセイロンを植民地にしたときシンハラ王国からの反乱に備えて構築された堅牢なフォート。フォートの中央メイン・ストリートに建てられた三階建ての大きなホテル「ビッグ・マンション」。ハリスはここに籠って震えていました。身の安全を保たなくては…
 スエズへ向かう船を待つ間、かつて貿易商のときに定宿にしていた馴染みのホテルに泊まっていてもハリスは何かに追われているかのようにこう言葉を繰り返しました。

 違う処へ日本は向かっている。
 何処へ?
 終わりの始まりへ。





注1 The Assassination of Henry Heusken / Reinier H. Hesselink / Monumenta Nipponica Vol. 49, No. 3 (Autumn, 1994) Published By: Sophia University

東京大学史料編纂所にポストドクターPostdoctoral Fellowとして在籍していた1993年から1995年にヒュースケンに関する論文を仕上げている。中世日本史の汚点と言えるキリシタン迫害を追う歴史研究者。

注2
リットンの「ポール・クリフォード」1830が同じようなスタイルで小説を語り出す。
It was a dark and stormy night----事件の予感を生み出すオーソドックスな手法だ。リットンが英国の裁判制度の「欠陥」を指摘し、ビクトリア朝時代を代表する小説家として「ポール・クリフォード」でロンドン社会の不公平な法の実態を読者に知らせた。「ポール・クリフォード」の書き出しの部分は後に米国の数学者が陳腐な表現の羅列として批判し、そのパロディを募って「陳腐で下らない」表現を競う賞を設けそのコンクールが毎年催されていた。その揶揄は途絶えたが、「ポール・クリフォード」は著者のリットンが言うように社会派の作品だ。「ポール・クリフォード」の1848年版序文にこうある。
---もしも真の痛みに苦しみながら、蔑まれ、顧みられず、孤独のうちに死を迎えることになったら、あなた方はそれに耐えられるだろうか?あらゆる惨めさが死への道を形作るような場所で、最期の息を引き取ることに耐えられるだろうか?
 リットンはイギリスの不条理な刑務所制度を批判してこう記した。ヒュースケンの心中に自らの置かれた場所が「刑務所」に映っていたとしたら。そう思えるような1860年のプロシア公館での出来事だった。ヒュースケンの事件はその直後に起こった。
日本では「幽霊」を扱う物語だけがリットンの作品であるかのように明治時代から広められて、彼は娯楽物作家のように見られていた。それと呼応するかのようにタウンゼント・ハリスはリットンの初期の作品群を「モラルとフィロソフィがない」と決めつけている。(ハリス日記参照・1856/January/01)ただし、ハリスはリットンの「キャクストン家の人々」とともに「My Novel, or Varieties in English Life」1853を別格ですばらしい作品と褒めている。セイロンのゴールで乗り換えの客船を待つ間にハリスが読んだ本の一冊だ。「My novel」はイギリスの田園生活をのどかに描いてビクトリア時代の傲慢な繁栄を批判するモラルとフィロソフィの小説だ。
タウンゼント・ハリス駐在公使がワシントンのウィリアム・H・スワード国務長官に宛てた報告書Legation of the United States in Japan, Yedo, November 23, 1861にも「ヒュースケン氏が殺害された夜は雨が降って暗く…」というくだりがある。「暗殺者たちは街灯のない通りで、痕跡や手がかりをまったく残さずに逃げ出した」と国務長官に報告している。 ハリスがヘッセリンクのこの「リットン小説の雰囲気で始まるヒュースケン論文」を読んだならば、どんな反応を表しただろう。

注3
 このやり取りはプロシア遠征団が残した資料の中に「日本語の手紙二通」として保存されている。オレインブルクが自らのバッグの中に紛れていた資料としてベルリン図書館に寄贈したものだ。日本語の手紙にはモリヤマが訳したオランダ語翻訳文も含まれる。モリヤマの文字は装飾書体で、大きくて、おそらく読みやすい。

モリヤマの書状(日本語訳)
ここに書面をもって正式に申し伝えます。
先般の会談において、互いの見解を十分に披瀝できたことは誠に喜ばしいことでした。その際、我々は、情勢に鑑みてプロイセンとの修好通商条約の締結を猶予せざるを得ない理由を明確に説明し、それに対しては慎重に検討した上で回答することとなりました。その後、その求めに応じて本件についてさらに深く、かつ幾度となく検討を重ねてまいりました。しかしながら、我々は早い段階で抱いた見解に基づき、特使の提案に対してすでに確固たる決定を下しており、ここに具体的な回答をいたします。なお、言語の違いにより通訳を介して意思疎通を行っているため、互いの見解を十分に理解できず、真意が正確に伝わらないことを懸念し、前回の会談で議論された事項について、改めて以下の通り明確に説明いたします。
我が国は、およそ300年にわたり鎖国を続け、諸外国との関係を一切断ってまいりました。しかし、アメリカ合衆国大統領の懇切な勧告に応じ、最近になって法を改正し、来航する外国船へ必需品を供給することを許可いたしました。さらに、アメリカ特使ハリスの要望を受け入れ、通商を開き、ロシア、フランス、イギリス、オランダとも同様に条約を締結いたしました。ところが、開港以来、事態は我々の意図とは異なる展開を見せ、何ら利益をもたらしておりません。それどころか、外国通貨と自国通貨の価値の差により、海外へ輸出される物資の量は極めて多くなる一方で、国内への輸入量はごくわずかとなっております。その結果、物価は日ごとに高騰し、こうした状況によって生計の道を断たれた庶民や、飢えと寒さにさらされる貧困層からは、事態に対する激しい反感や非難の声が上がっております。富裕層や高位の者たちでさえ、同様に不満を抱いている様子であり、国内では不平不満の声が絶えません。何世紀にもわたる慣習やしきたりを一朝一夕に捨てることはできない以上、仮に前述のような苦難や困窮がなかったとしても、国民がこの事態を喜び、満足すると期待することは到底できないのです。
事態を適切に処理するためには、通貨価値が徐々に安定し、輸出入の均衡が取れる時期を待ち、慎重に進めるのが賢明でしょう。そうすれば、人々自身がその利益を実感できるようになり、政府に過度な負担をかけることなく、対外関係を通じた社会の着実な繁栄を享受できるはずです。適切な手順を踏めば、物事は円滑に成就するでしょう。逆に、たとえ正当な措置であっても、拙速に強行すれば、苦痛や弊害を招くことになります。最近、ベルギーやスイスから友好・通商関係樹立の申し入れがありましたが、前述の理由により、丁重にお断りしました。
オイレンブルク伯が日本政府から受け取った書状をgoogle trancerationで機械翻訳。書状はベルリン国立図書館所蔵参考Der Beginn der Japan-Sammlung der SBB-PK / xasia

注3
オイレンブルク派遣団のプロイセン公式記録から---「われわれは英字新聞を読んだが、それには当時のイタリア戦争〔統一戦争〕のことがいっぱい載っていた。そのときヒュースケンは、若い将軍の死が語られている戦闘の記事にぶつかった。将軍は勝利を得、みなぎる力の感情の高まりの中でその輝かしい生涯を終えたのである」p50「オイレンブルク日本遠征記」/オイレンブルク著(ベルク); P149-150 Ost-Asien 1860-1862 in Briefen des Grafen Fritz zu Eulenburg, Königlich Preussischen Gesandten, betraut mit ausserordentlicher Mission nach China, Japan und Siam

 イタリア独立戦争の記事はどんな内容だったろうか。オレインブルク日本遠征団の公式記録(ベルク著)にその記事に関するちょっとした記載がある。

 われわれは英字新聞を読んだが、それには当時のイタリア戦争〔統一戦争〕のことがいっぱい載っていた。そのときヒュースケンは、若い将軍の死が語られている戦闘の記事にぶつかった。将軍は勝利を得、みなぎる力の感情の高まりの中でその輝かしい生涯を終えたのである。p50「オイレンブルク日本遠征記」/オイレンブルク著(ベルク) ; P149-150 Ost-Asien 1860-1862 in Briefen des Grafen Fritz zu Eulenburg, Königlich Preussischen Gesandten, betraut mit ausserordentlicher Mission nach China, Japan und Siam

 公式記録にはイタリア統一戦争に触れた英字新聞の名も、勇敢なガリバルディの若い指揮官の名もない。ただ、ベルクの記載から統一戦争で勇敢に戦い戦死した独立と自由を志す戦士がヒュースケンの目の前に現れていたことが見えて来る。注2ヒュースケンはこの記事に心を奪われ、しきりに興奮し、プロシアの使節団の若い外交官たちに語り掛け「赤シャツ隊」の戦士の英雄的な死を褒めたたえていた。

 ベルクは続ける。

 ヒュースケンはこの話にいたく感動した様子で、かかる死の幸福を賛美してやまなかった。メンバーたちは食後のゲームに夢中でイタリア独立戦争に興味を示さず、ヒュースケンは一人孤立して無口になった。----平静なら元気のよいヒュースケンが完全に感傷的になっているように見えた。あの晩の彼の気分は誰の目にも奇異に思えたのである。/同上

以下はヒュースケンが読んでいた英字新聞は何かという私の問いに対するg-aiの回答。g-aiはちょっとグズグズして5秒ほど記憶回路を巡り、こう応えた。
In December 1860, while stationed in Edo, Prussian diplomat Count Friedrich Albrecht zu Eulenburg likely read English newspaper reports from September or October 1860 detailing the Italian Risorgimento, specifically the heroic death of a young leader in Garibaldi's "Thousand" (Redshirts), such as Lazzaro Paimodi. These accounts of young heroes in the Battle of the Volturno resonated with the dangerous atmosphere of Edo, where foreigners were increasingly targeted by anti-foreign sentiment. This context highlights the parallels drawn between the European conflicts and the perilous situation faced by the Prussian mission and their interpreter, Heusken, just before his assassination.

1860年12月、江戸に駐在していたプロイセンの外交官フリードリヒ・アルブレヒト・ツー・オイレンブルク伯爵は、おそらく同年9月か10月の英字新聞記事を読んだことだろう。そこにはイタリア統一運動(リソルジメント)の詳細、特にガリバルディの「千人隊」(赤シャツ隊)の若き指導者、例えばラッツァーロ・パイモディの英雄的な死が記されていた。ヴォルトゥルノの戦いにおける若き英雄たちのこうした物語は、外国人に対する反外国人感情が高まりつつあった江戸の危険な雰囲気と共鳴した。こうした背景は、ヨーロッパの紛争と、プロイセン使節団とその通訳ホイスケンが暗殺される直前に直面した危険な状況との間に見られる類似点を浮き彫りにしている。

注4
Japan - De moord op Henry Heusken in Tokio / 13 augustus 2016 / Leon Bok (ヘンリー・ヒュースケンの不幸な死)
レ オ ン ・ ボ クはオランダの公務員。墓地再編の行政に従事している。ヒュースケンの東京港区南麻布・光林寺にある墓所にも訪れ慰霊を捧げている。「不幸な死」のブログにはヘッセリンクのヒュースケン論文に多くの言及がある。

注5
横浜で発行されていた英字新聞。主筆兼発行者はフランシス・ブリンクリーFrancis Brinkley。頭本元貞が翻訳・記者として関わっていた。The Japan Weekly Mailに掲載されたヒュースケン「日本日記Heusken Diary」はDr.G.Wagenerが1883年にTransactions of the German Asiatic Society of Japan6月号に掲載したものを転載。 ブリンクリーFrancis Brinkleyはこの資料を基に、やや創作的に…貿易経済に関しては詳細に、一方、明治新政府を窮地に落とすような事件は「さらり」と…受け流している。Japan Mailは日本に寄り添う記事を掲載することから明治政府のお抱え外国人によるお抱え新聞と評されている。ヒュースケン日記の記事は1857年1月16日から6月18日までの部分(開港問題を日本政府[徳川政権です]とハリスが協議した時期)が37-40ページにわたり掲載されている。ヒュースケンの日記(原文フランス語)は彼の死後、オランダ語、ドイツ語、英語、そして日本語にも訳されているが、この英訳は初期の翻訳の転載。日本語版「ヒュースケン日記」はフランス語原文を、二人の訳者がオランダ語訳を検討に加えて「正確に」英訳した版を用い訳出したという。ヒュースケン自筆のフランス語による日記はHenri C.J. Heusken Papers(UCLA Library Special Collections, Charles E. Young Research Library)として保管されている。

注6ヒュースケンが「西洋の悪徳」と呼ぶ西洋
「おお、文明よ、お前はいつになったら私たちを野蛮人にすることをやめるのか。お前のために、私たちはますます疑い深くなるばかりではないか。みんなが世の中で自分たちのことだけを考え、自分一人のためにこの世界があると考えるようになる時がやってくるだろう。そうなれば、地上の住民はたがいに助けあうことができなくなって、世界は滅びてしまうだろう」(51頁、1856年1月13日、来日途中のケープタウンにて)

「文明国の民よ、白い肌の人々よ、御身たちはこの両インド諸島の原住民を野蛮人と呼びながら、その人たちにいかに多くの、まぎれもない蛮行を加えたことであろう。彼らを野蛮人呼ばわりするのは、御身らが犯し、これからも犯さんとする言語道断なる盗賊行為の、一種の口実にすぎないのだ」(74頁、1856年3月6日、セイロンにて)
Oh,you civilized nations,fair-skinned people,how many lessons of true barbarism you give those aborigines of the two Indies, whom you call savages! You use the term as a sort of excuse for the outrageous thefts you have committed and will commit against them. / p.42 06-Mar-1856 Japan Journal 1855-1861

is the progress really progress,this civilization really really civilization for you? I,who have admired the artlessness of your inhabitants as well asa their simple customs, who has seen the abaundance of your fertile fields, who has heard everywhere the happy laugter of your children,--I fear,Oh, my God, that his scene of happiness is coming to an end and that the Occidental people will bring their fertal vices./ p151 07-Dec-1857 Japan Journal 1855-1861

注7
ハリス日記(1855年12月24日)にBogar's Mansion Houseと記されて日本への往路でセイロン・ゴールに上陸したときに宿泊した。アメリカ系オランダ人ヘンリー・ボガーが建てた3階建ての大きな建物で貿易商人用に利用された。ハリスは貿易商時代からこのホテルの常連で日記には「自分専用の部屋がある」と記されている。ゴール・フォートでは最も大きく所有者が変わるたびに名称が変わり、ボガーズ・ビッグ・マンションBogar's Big Mansion、ロレッツ・ホテルLoret’s Hotel、エフラムズ・ホテルEphraums Hotelなどと呼ばれた→Thuppahi's Blog June 4 , 2019。現在はセイロン商業銀行が所有し、歴史的建造物として改修し政府に文化財としての登録を済ませている。 "Old Mansion" as the Commercial bank Galle Fort Branch / face book 2025年12月30日
以下はハリス日記の中の記載箇所;December 24., 1855. At 6:30 anchor off Point-de Galle to wait for daylight. The next morning I take leave of Captain Black of the Bengal, with thanks for his attentions, and go on shore and proceeded to my old quarters at Bogar's Mansion House.