注1
The Assassination of Henry Heusken / Reinier H. Hesselink / Monumenta Nipponica
Vol. 49, No. 3 (Autumn, 1994) Published By: Sophia University
東京大学史料編纂所にポストドクターPostdoctoral Fellowとして在籍していた1993年から1995年にヒュースケンに関する論文を仕上げている。中世日本史の汚点と言えるキリシタン迫害を追う歴史研究者。
注2
リットンの「ポール・クリフォード」1830が同じようなスタイルで小説を語り出す。
It was a dark and stormy
night----事件の予感を生み出すオーソドックスな手法だ。リットンが英国の裁判制度の「欠陥」を指摘し、ビクトリア朝時代を代表する小説家として「ポール・クリフォード」でロンドン社会の不公平な法の実態を読者に知らせた。「ポール・クリフォード」の書き出しの部分は後に米国の数学者が陳腐な表現の羅列として批判し、そのパロディを募って「陳腐で下らない」表現を競う賞を設けそのコンクールが毎年催されていた。その揶揄は途絶えたが、「ポール・クリフォード」は著者のリットンが言うように社会派の作品だ。「ポール・クリフォード」の1848年版序文にこうある。
---もしも真の痛みに苦しみながら、蔑まれ、顧みられず、孤独のうちに死を迎えることになったら、あなた方はそれに耐えられるだろうか?あらゆる惨めさが死への道を形作るような場所で、最期の息を引き取ることに耐えられるだろうか?
リットンはイギリスの不条理な刑務所制度を批判してこう記した。ヒュースケンの心中に自らの置かれた場所が「刑務所」に映っていたとしたら。そう思えるような1860年のプロシア公館での出来事だった。ヒュースケンの事件はその直後に起こった。
日本では「幽霊」を扱う物語だけがリットンの作品であるかのように明治時代から広められて、彼は娯楽物作家のように見られていた。それと呼応するかのようにタウンゼント・ハリスはリットンの初期の作品群を「モラルとフィロソフィがない」と決めつけている。(ハリス日記参照・1856/January/01)ただし、ハリスはリットンの「キャクストン家の人々」とともに「My
Novel, or Varieties in English Life」1853を別格ですばらしい作品と褒めている。セイロンのゴールで乗り換えの客船を待つ間にハリスが読んだ本の一冊だ。「My novel」はイギリスの田園生活をのどかに描いてビクトリア時代の傲慢な繁栄を批判するモラルとフィロソフィの小説だ。
タウンゼント・ハリス駐在公使がワシントンのウィリアム・H・スワード国務長官に宛てた報告書Legation of the United
States in Japan, Yedo, November 23, 1861にも「ヒュースケン氏が殺害された夜は雨が降って暗く…」というくだりがある。「暗殺者たちは街灯のない通りで、痕跡や手がかりをまったく残さずに逃げ出した」と国務長官に報告している。
ハリスがヘッセリンクのこの「リットン小説の雰囲気で始まるヒュースケン論文」を読んだならば、どんな反応を表しただろう。
注3
このやり取りはプロシア遠征団が残した資料の中に「日本語の手紙二通」として保存されている。オレインブルクが自らのバッグの中に紛れていた資料としてベルリン図書館に寄贈したものだ。日本語の手紙にはモリヤマが訳したオランダ語翻訳文も含まれる。モリヤマの文字は装飾書体で、大きくて、おそらく読みやすい。
モリヤマの書状(日本語訳)
ここに書面をもって正式に申し伝えます。
先般の会談において、互いの見解を十分に披瀝できたことは誠に喜ばしいことでした。その際、我々は、情勢に鑑みてプロイセンとの修好通商条約の締結を猶予せざるを得ない理由を明確に説明し、それに対しては慎重に検討した上で回答することとなりました。その後、その求めに応じて本件についてさらに深く、かつ幾度となく検討を重ねてまいりました。しかしながら、我々は早い段階で抱いた見解に基づき、特使の提案に対してすでに確固たる決定を下しており、ここに具体的な回答をいたします。なお、言語の違いにより通訳を介して意思疎通を行っているため、互いの見解を十分に理解できず、真意が正確に伝わらないことを懸念し、前回の会談で議論された事項について、改めて以下の通り明確に説明いたします。
我が国は、およそ300年にわたり鎖国を続け、諸外国との関係を一切断ってまいりました。しかし、アメリカ合衆国大統領の懇切な勧告に応じ、最近になって法を改正し、来航する外国船へ必需品を供給することを許可いたしました。さらに、アメリカ特使ハリスの要望を受け入れ、通商を開き、ロシア、フランス、イギリス、オランダとも同様に条約を締結いたしました。ところが、開港以来、事態は我々の意図とは異なる展開を見せ、何ら利益をもたらしておりません。それどころか、外国通貨と自国通貨の価値の差により、海外へ輸出される物資の量は極めて多くなる一方で、国内への輸入量はごくわずかとなっております。その結果、物価は日ごとに高騰し、こうした状況によって生計の道を断たれた庶民や、飢えと寒さにさらされる貧困層からは、事態に対する激しい反感や非難の声が上がっております。富裕層や高位の者たちでさえ、同様に不満を抱いている様子であり、国内では不平不満の声が絶えません。何世紀にもわたる慣習やしきたりを一朝一夕に捨てることはできない以上、仮に前述のような苦難や困窮がなかったとしても、国民がこの事態を喜び、満足すると期待することは到底できないのです。
事態を適切に処理するためには、通貨価値が徐々に安定し、輸出入の均衡が取れる時期を待ち、慎重に進めるのが賢明でしょう。そうすれば、人々自身がその利益を実感できるようになり、政府に過度な負担をかけることなく、対外関係を通じた社会の着実な繁栄を享受できるはずです。適切な手順を踏めば、物事は円滑に成就するでしょう。逆に、たとえ正当な措置であっても、拙速に強行すれば、苦痛や弊害を招くことになります。最近、ベルギーやスイスから友好・通商関係樹立の申し入れがありましたが、前述の理由により、丁重にお断りしました。
オイレンブルク伯が日本政府から受け取った書状をgoogle trancerationで機械翻訳。書状はベルリン国立図書館所蔵参考Der Beginn der Japan-Sammlung der SBB-PK / xasia
注3
オイレンブルク派遣団のプロイセン公式記録から---「われわれは英字新聞を読んだが、それには当時のイタリア戦争〔統一戦争〕のことがいっぱい載っていた。そのときヒュースケンは、若い将軍の死が語られている戦闘の記事にぶつかった。将軍は勝利を得、みなぎる力の感情の高まりの中でその輝かしい生涯を終えたのである」p50「オイレンブルク日本遠征記」/オイレンブルク著(ベルク); P149-150 Ost-Asien 1860-1862 in Briefen des Grafen Fritz zu Eulenburg, Königlich Preussischen Gesandten, betraut mit ausserordentlicher Mission nach China, Japan und Siam
イタリア独立戦争の記事はどんな内容だったろうか。オレインブルク日本遠征団の公式記録(ベルク著)にその記事に関するちょっとした記載がある。
われわれは英字新聞を読んだが、それには当時のイタリア戦争〔統一戦争〕のことがいっぱい載っていた。そのときヒュースケンは、若い将軍の死が語られている戦闘の記事にぶつかった。将軍は勝利を得、みなぎる力の感情の高まりの中でその輝かしい生涯を終えたのである。p50「オイレンブルク日本遠征記」/オイレンブルク著(ベルク)
; P149-150 Ost-Asien 1860-1862 in Briefen des Grafen Fritz zu Eulenburg, Königlich Preussischen Gesandten, betraut mit ausserordentlicher Mission nach China, Japan und Siam
公式記録にはイタリア統一戦争に触れた英字新聞の名も、勇敢なガリバルディの若い指揮官の名もない。ただ、ベルクの記載から統一戦争で勇敢に戦い戦死した独立と自由を志す戦士がヒュースケンの目の前に現れていたことが見えて来る。注2ヒュースケンはこの記事に心を奪われ、しきりに興奮し、プロシアの使節団の若い外交官たちに語り掛け「赤シャツ隊」の戦士の英雄的な死を褒めたたえていた。
ベルクは続ける。
ヒュースケンはこの話にいたく感動した様子で、かかる死の幸福を賛美してやまなかった。メンバーたちは食後のゲームに夢中でイタリア独立戦争に興味を示さず、ヒュースケンは一人孤立して無口になった。----平静なら元気のよいヒュースケンが完全に感傷的になっているように見えた。あの晩の彼の気分は誰の目にも奇異に思えたのである。/同上
以下はヒュースケンが読んでいた英字新聞は何かという私の問いに対するg-aiの回答。g-aiはちょっとグズグズして5秒ほど記憶回路を巡り、こう応えた。
In December 1860, while stationed in Edo, Prussian diplomat Count Friedrich Albrecht zu Eulenburg likely read English newspaper reports from September or October 1860 detailing the Italian Risorgimento,
specifically the heroic death of a young leader in Garibaldi's "Thousand" (Redshirts), such as Lazzaro Paimodi. These accounts of young heroes in the Battle of the Volturno resonated with the dangerous
atmosphere of Edo, where foreigners were increasingly targeted by anti-foreign sentiment. This context highlights the parallels drawn between the European conflicts and the perilous situation faced by the
Prussian mission and their interpreter, Heusken, just before his assassination.
1860年12月、江戸に駐在していたプロイセンの外交官フリードリヒ・アルブレヒト・ツー・オイレンブルク伯爵は、おそらく同年9月か10月の英字新聞記事を読んだことだろう。そこにはイタリア統一運動(リソルジメント)の詳細、特にガリバルディの「千人隊」(赤シャツ隊)の若き指導者、例えばラッツァーロ・パイモディの英雄的な死が記されていた。ヴォルトゥルノの戦いにおける若き英雄たちのこうした物語は、外国人に対する反外国人感情が高まりつつあった江戸の危険な雰囲気と共鳴した。こうした背景は、ヨーロッパの紛争と、プロイセン使節団とその通訳ホイスケンが暗殺される直前に直面した危険な状況との間に見られる類似点を浮き彫りにしている。
注4
Japan - De moord op Henry Heusken in Tokio / 13 augustus 2016 / Leon Bok (ヘンリー・ヒュースケンの不幸な死)
レ オ ン ・ ボ クはオランダの公務員。墓地再編の行政に従事している。ヒュースケンの東京港区南麻布・光林寺にある墓所にも訪れ慰霊を捧げている。「不幸な死」のブログにはヘッセリンクのヒュースケン論文に多くの言及がある。
注5
横浜で発行されていた英字新聞。主筆兼発行者はフランシス・ブリンクリーFrancis Brinkley。頭本元貞が翻訳・記者として関わっていた。The Japan Weekly Mailに掲載されたヒュースケン「日本日記Heusken Diary」はDr.G.Wagenerが1883年にTransactions of the German Asiatic Society of Japan6月号に掲載したものを転載。 ブリンクリーFrancis Brinkleyはこの資料を基に、やや創作的に…貿易経済に関しては詳細に、一方、明治新政府を窮地に落とすような事件は「さらり」と…受け流している。Japan Mailは日本に寄り添う記事を掲載することから明治政府のお抱え外国人によるお抱え新聞と評されている。ヒュースケン日記の記事は1857年1月16日から6月18日までの部分(開港問題を日本政府[徳川政権です]とハリスが協議した時期)が37-40ページにわたり掲載されている。ヒュースケンの日記(原文フランス語)は彼の死後、オランダ語、ドイツ語、英語、そして日本語にも訳されているが、この英訳は初期の翻訳の転載。日本語版「ヒュースケン日記」はフランス語原文を、二人の訳者がオランダ語訳を検討に加えて「正確に」英訳した版を用い訳出したという。ヒュースケン自筆のフランス語による日記はHenri C.J. Heusken Papers(UCLA Library Special Collections, Charles E. Young Research Library)として保管されている。
注6ヒュースケンが「西洋の悪徳」と呼ぶ西洋
「おお、文明よ、お前はいつになったら私たちを野蛮人にすることをやめるのか。お前のために、私たちはますます疑い深くなるばかりではないか。みんなが世の中で自分たちのことだけを考え、自分一人のためにこの世界があると考えるようになる時がやってくるだろう。そうなれば、地上の住民はたがいに助けあうことができなくなって、世界は滅びてしまうだろう」(51頁、1856年1月13日、来日途中のケープタウンにて)
「文明国の民よ、白い肌の人々よ、御身たちはこの両インド諸島の原住民を野蛮人と呼びながら、その人たちにいかに多くの、まぎれもない蛮行を加えたことであろう。彼らを野蛮人呼ばわりするのは、御身らが犯し、これからも犯さんとする言語道断なる盗賊行為の、一種の口実にすぎないのだ」(74頁、1856年3月6日、セイロンにて)
Oh,you civilized nations,fair-skinned people,how many lessons of true barbarism you give those aborigines of the two Indies, whom you call savages! You use the term as a sort of excuse for the outrageous thefts
you have committed and will commit against them. / p.42 06-Mar-1856 Japan Journal 1855-1861
is the progress really progress,this civilization really really civilization for you? I,who have admired the artlessness of your inhabitants as well asa their simple customs, who has seen the abaundance of your fertile fields, who has heard everywhere the happy laugter of your children,--I fear,Oh, my God, that his scene of
happiness is coming to an end and that the Occidental people will bring their fertal vices./ p151 07-Dec-1857 Japan Journal 1855-1861
注7
ハリス日記(1855年12月24日)にBogar's Mansion Houseと記されて日本への往路でセイロン・ゴールに上陸したときに宿泊した。アメリカ系オランダ人ヘンリー・ボガーが建てた3階建ての大きな建物で貿易商人用に利用された。ハリスは貿易商時代からこのホテルの常連で日記には「自分専用の部屋がある」と記されている。ゴール・フォートでは最も大きく所有者が変わるたびに名称が変わり、ボガーズ・ビッグ・マンションBogar's Big Mansion、ロレッツ・ホテルLoret’s Hotel、エフラムズ・ホテルEphraums Hotelなどと呼ばれた→Thuppahi's Blog June 4 , 2019。現在はセイロン商業銀行が所有し、歴史的建造物として改修し政府に文化財としての登録を済ませている。 "Old Mansion" as the Commercial bank Galle Fort Branch / face book 2025年12月30日
以下はハリス日記の中の記載箇所;December 24., 1855. At 6:30 anchor off Point-de Galle to wait for daylight. The next morning I take leave of Captain Black of the Bengal, with thanks for his attentions, and go on shore and proceeded to my old quarters at Bogar's Mansion House.