自由と平等と仲間たち
第1幕 自由 freedom of conscience
第1場 ヒュースケンが思い出す将軍謁見の日のこと
久助 タイクンに謁見してブキャナン大統領の親書を手渡したのが12月7日。その5日後にハリス公使と私は堀田備中守の上屋敷へ行きました。何としても自由貿易のことを老中のサムライたちに伝えたい。老中諸氏に集まっていただいたのはその一心でした。通商条約の締結によって日本とアメリカの経済交流が生まれれば両国とも大きな利益を生むことができます。そのことをハリス公使は日本のサムライたちに伝えたかった。
治平 金儲け話?
久助 治平さん、直截ですね。まあ、そのお金儲けの話と亜米利加人が日本に定住して行動の自由と信仰の自由を得なければならないことも伝えたかったのです。島原の乱以来、キリスト教への弾圧を続ける日本に変化を求めなければならなかった。
治平 信仰の自由を与えるなんて日本にとって大変革だぞ。できっこない。
久助 だけど集まった老中たちからは信仰の自由への異論が出なかった。1587年のキリシタン追放と1612年のキリシタン禁制が1857年12月12日、堀田備中守上屋敷で難なく解かれたのです。良心の自由を訴える人が備中守の屋敷に居たからです。
治平 へん、良心の自由を訴える人って誰だい。
カン 話の流れでわかるでしょう。文脈を追ってください、治平さん。
治平 わかってるよ。亜米利加合衆国のハリス公使様だ。腹立たしいので誰だい、とちゃち淹れたんだ。
久助 この事は大切なので私の日記に書いておきました。私の日本日記はオランダ女王に捧げるものだから格式が高い。(と声高に言うのでMが、)
M 実際にキリシタン禁制が解かれたのは1873年です。ハリス公使が信教の自由を老中諸兄に訴えようがキリシタンはご法度。隠れキリシタンなんてのは打ち首です。
久助 将軍に会う前の日にハリス公使と私は公使館でエピスコーパル(聖公会)の日曜礼拝を済ませました。公使は礼拝の式の手順に従って聖書の中のイザヤ書***を開き、私も公使に声を合わせてイザヤ書を読みました。部屋の仕切りは障子ですから声が外に漏れて見張りの役人に知らるかもと私は内心びくびくでした。礼拝を知られれば私たちはキリシタンとして斬首に処せられる。
ヌイ 世間が揺れる幕末とはいえキリシタン禁制という日本の法は変わらないから。
久助 そこなんですけど、私はキリスト教徒なのに打ち首になるどころか丁重に十字架を刻んだ墓が建てられ仏教寺院にキリシタンとして葬られた。幕府の上級役人たちも私の葬儀に加わった。切支丹の信教の自由を徳川日本政府は認めていたのです。
M あなたは何かと特別扱いなんです。文句ばかり言ってきてうるさいんだから。
久助 横浜には教会が建ったし、亜米利加の商人が定住して教会の日曜礼拝に通う。安政五年の横浜開港前から英語を学びたいと日本人がやって来て教会で学んでいる。横浜開港を見据えて家族で子供を連れて亜米利加からやって来た貿易商もあった。日本で一旗揚げようとして。
ヌイ そんな具合かね。厄介だねぇ。
久助 これは麻布善福寺亜米利加公使館で撮った公使館職員の写真の一部分です。ハリス公使と私の間に写っている少年は佐渡金山で下級武士として働いていた益田鷹之助の長男タカシです注3。
鷹之助は佐渡金山での働きぶりが認められ新設された箱館奉行所に移った。
M 箱館には亜米利加公使館の支署があります。
久助 亜米利加や露西亜の捕鯨船が箱館に寄港して船の補修や食料燃料を購入します。だから、日本側との調整が必要で世話をする領事が常駐するのです。箱館は安政五年の開港を待たずに開港していてライスという領事が亜米利加国旗を掲げて仕事をしています。
カン 条約も待たずに亜米利加も露西亜も勝手気ままにやりたい放題ぢゃないですか。
久助 タカシの父親鷹之助殿は箱館の奉行所で支配調べ役をするうちに我が子を開港後の日本に合わせて育てようとタカシに英語を習わせました。間もなく江戸の外国奉行支配定役に鷹之助が取り立てられ、タカシも通弁見習いとなった。私たちは鷹之助殿の願いでタカシを亜米利加公使館に預かって公使の下に置きました。家から毎日善福寺の公使館に通いました。あの時はまだ14歳だったか。ハリス公使になついていました。元服して徳之進と名を変え幕府に正式採用されてから公使館に住むようになりました。
M 14歳と言えば立派に元服している。体は小さくとも大人です。彼は父親と一緒に幕府からフランスへ派遣されたんですよ。
ヌイ あれ、親子一緒の海外派遣は幕府が禁じているけれど。
M あの子の名を徳之進から進に変えて他人になりすまして政府派遣団に入れました。丁度パリ万国博覧会の時だった。
ヌイ 名前を変えるなんてよくやることだ。ご一新の政府になって、だから今より先のことだけどね、あれ?いいんだよね、この先のことを話しても。
久助 私自身、もう死んでいるんですから、ここに集まっているというのも仮想世界の現実です。
ヌイ タカシ君は政府役人を辞して貿易会社を興して経済界で名を挙げる。私は御一新で城代を外され、肴町で質屋の商売を始めたがあっという間につぶした。御一新で食えなくなった武士が着物だ、鍔だ、質入れするから儲かるはずだった。アメリカが持ち込んだ資本主義なんてものは良いもんじゃないね。
カン ヌイ殿に商売は無理だ。根っからの文系だしソロバンを知らない。お金儲けは無理だ。
ヌイ そりゃ金勘定は苦手さ。質屋をつぶしてからシチローの口利きで新政府に潜り込んだが中風で右手指が動かなくなって役所で祐筆の仕事もできなくなった。タカシ君は武士の身分を捨て商人になった。三井物産を立ち上げて社長にまでなって国の鉱山を買取る離れ業をやった。三池鉱山だよ。タカシ君にはいろいろ、きな臭い笑い話が渦巻くのですが。
治平 お役所のうわさ話はヌイ殿の得意分野ですな。お話伺えれば一冊草紙を出して、売り上げ印税は縫殿にすべて上納いたしますが。
ヌイ 私は昔からきな臭い話を語り継ぐのが性分なんです、治平さん。先祖代々勝手掛だったから公金裏金のことは特に得意。御一新の直前に大金持って京へ行って長州に捕らわれた文明公をお助けしようとしましたが、反対に京では薩長から「ヌイの首を取れ」とあちこちに立札を建てられる羽目にもなりました。偽名を使って宿を泊まり歩き同行した西村君とやっとの思いで京を逃げ出しました。
久助 私が死んでから日本はそんなことになってるのですか。
ヌイ そう、「終わりの始まり」は君が分岐点だ。きみが薩摩のテロリストに腹を切り刻まれてから日本は動いた。
M いや、動かされた。
ヌイ そうかもしれない。天狗党や薩摩脱藩貧乏武士が腹芸でテロを起こす時代は終わるんです。久助さん、あなたの葬儀は欧米五か国の政府とその軍が取り仕切ったそうですよ。
久助 私が死を直前にして「ワインをください」と言ったら、グラスにワインを注いでハイネが、すべて取り仕切る、心配するな、と私に言っていたような。
ヌイ 我城主が言われるにはラッパと太鼓が鳴り響いて五か国が一つになってきみの葬儀行進を薩摩のテロ分子に見せつけた、と。
久助 ハイネ君、うまくやってくれたんだ。
ヌイ これはね、あなたが開国後の日本の進む先を決定づけたということです。久助さんを殺したテロリストを野放しにするのかと各国は激しく徳川日本政府に迫った。きみの上司は加わらなかった。英吉利も仏蘭西も軍艦を動かして戦を起こすとも言ったけどアメリカにはそんな余裕がないからね。ハリス公使は軍の大砲の後ろ盾もなくて我が国と通商条約を結んでしまった。あっぱれだよ。
治平 でも、結局は軍事が出しゃばって、それにおびえた幕府が折れた。幕府は各国が要求する通商をすぐさま受け入れざるを得なくなった。
ヌイ むむむ(と唸って声にならず)。それからです、日本の混乱が深まるのは。御一新の勢いに乗る薩摩は英吉利の大使に切りかかり、鹿児島湾内に攻め込んできた英吉利軍艦には陸から大砲を打ち込む。市街は戦艦から報復爆撃を受けた。薩長の武力では彼らに敵うわけがない。両藩は近代戦争のやり方を英仏に教えられた。実戦で武器を使って見せてその敵に武器を売りまくるのが英吉利商人のやり口ですから。英吉利も仏蘭西も実に商売がうまい。私は商売が下手で肴町の質屋をつぶしたのに。
カン ヌイ殿、話は肝心なところに入っています。腰を折らないで。ヌイ殿の質屋の話はまた今度…
ヌイ そうですか(とため息のように呟き、アブサンをぐびり。顔をゆがめる)
第2場 自由と殉教 フリーダム、マルチル
治平 ハリス公使は上屋敷で何をぶったのかい?
ヌイ あの時亜米利加公使の演説を通訳したのは久助さんだから、久助さんに聞いてみましょう。公使は日本、がんばれ、と言っていたような。輸出をしなさい、そうすれば日本はもっと豊かになるというような。そうですよね。
久助 そうです。ハリス公使は日本には利益が生まれるのだから即刻開港して貿易を進めましょうと言いました。備中守の屋敷に集まった人たちは「日本も亜米利加に来て商売すれば利益が上がる、日本人にできない訳がない。ニッポン頑張れ」と公使が檄を飛ばすものだから盛り上がりました。英吉利のエリギン卿が戦艦を連ねて日本を襲うものならアメリカは日本を守るとも言いました。でもね、ハリス公使が備中守上屋敷で老中の人たちや外国掛の面々に真に伝えたかったのはそこではない。
ヌイ 違う?というと?
久助 フリーダムとマルチルです。
治平 ふりーだむ? マルチ--こう?
カン (のちに福沢諭吉が「学問ノススメ」でマルチルドムを礼賛するのを予知してか、カンが反応する)マルチルってマルチルドム…?マルチルドム、それだ。それなんだよ、治平さん。
治平 ふうふう、カン君、待ってくれ。聞いたことのない言葉ばかりだ。
久助 オランダ女王に捧げる私の日記ジャパン・ダイアリーには自由フリーダムという言葉が5回出てきます。
M ちょっと待ってください(と老練の通訳士らしい素振りでもったいぶって)、日本にはまだ自由という言葉はない。10年先です、自由という言葉が出てくるのは。だから久助さんがフリーダムと言っても訳語がないから通じない。
久助 そう、日本語には「自由」がない。ペジミックだけど、10年先どころじゃない、これから先の先まで未来永劫、日本に「自由」はない。
ヌイ 自由とは何でしょう?仏教にそんな言葉があったか? 儒教にはないか。
久助 (自問して)何でしょう? ハリス公使の日記には「自由」が六回出て来るけど、それはフリーダムじゃなくてリバティです。堀田上屋敷での演説ではリバティという言葉を使わなかった。意識して使わなかった。私はフリーダムを主張する。ブルボン小劇場に私たちがいることと関係しているから。フランスのパリ。ここには死を賭けて勝ち取った市民とペイゾン自作農の自由がある。
カン 久助さん、フリーダムがなんだか説明してください。
久助 それはモノではない。テツガクの概念だと思う。日本にない概念だから説明のしようもない。
M 待って久助さん。さっきからテツガクって言ってるけど? それは何だ? そんな言葉も江戸幕末の日本語には、まだ、現れてこない。
治平 まだない、まだないって。いったい、いつになったら出てくるんだ。こちとら出版業にすれば新語は我先に刷り出したいんだけど。日本中新しい言葉に飢えてるからみんな飛びつく。売れるぞう。 【次回へ続く】
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人物紹介
久助(ヒュースケン) 今回の物語を進行する中心人物。ヒュースケンの和名読み。仮名垣魯文が「ゑびすのうわさ」でタウンゼント・ハリスと共に下田に上陸したヒュースケンのことを「下田の人々は彼を久助と呼んでいる」と紹介している。また、フランシス・ホールはこう記している---江戸っ子は馬上のヒュースケンを街で見かけて「久助、久助」と声をかける。異人は「久助」というとなり、異人を見れば「久助!」と呼びかけた。
ニューヨークのエピスコーパル教会でヒュースケンは牧師からハリスを紹介され、日本へ行ってくれないかと誘われる。5か国語を使いこなす。職を探してニューヨークを歩き回っていたオランダ移民のヒュースケン。擦り切れた靴にボタンの取れたシャツという身なりで現れた彼をハリスは即座に採用した。ヒュースケンはオランダ語通訳者として日本へ向かうことになった。
徳川期、オランダ語は公式な国際語だった。下田、江戸での様子を記した彼の「日本日記」は米国と日本との通商条約締結に至る内実を克明に記録している。率直極まりない表現は今読んでも新鮮に映る。ニューヨークから下田への蒸気船での旅の途中、ヒュースケンはセイロン・ゴールでの出来事もかつてセイロンを統治したオランダ人の末裔として記している。ヒュースケンは日本の開港を「終わりの始まり」と評した。ハリスも領事館として借りた下田玉泉寺にアメリカ国旗を掲げた日に「終わりの始まりUndoubted beginning of end」と日記に記した。日本の封建主義体制は終わりアメリカが自由をもたらすのだ。だがヒュースケンはこうも言う。「我々が日本の子供たちから笑顔を奪うのだ」。それは西欧の自由経済主義がもたらす結末。もしやこれがbeginning of end。
治平 幕末期から明治初年のころに至るまで浅草橋の墨田川近くに店を構えた版元。とは言っても同業版元の店を間借りしての出版商売だ。歌舞伎錦絵、草双紙、読切、売れると見込めばなんにでも手を出すという商魂の逞しさを見せつける出版通。自由、平等とは縁のない人物と見えるがなんと明治期に入ると教科書の出版にも手を出す。奔放な出版活動はその原動力が何であれ自由の現れには違いあるまい。
カン 上総サクラ藩の士。若き漢文学者だが兄の報徳は高名な儒学者でサクラ藩校の総裁を務めている。文学に目覚めてしまったカンはがちがちの教養をひけらかす兄とは一線を画し、ひょうひょうと文学者の武士道を行く。重税を課すサクラ藩に「農民をいじめるな」と直訴し貼り付け獄門にされた庄屋の佐倉宗五郎を福沢諭吉がマルチルドム殉教者と呼んで喝采絶賛したことで二百年前の宗五郎事件が幕末に喝采を浴びている。治平がそこを素通りするはずがない。新たな書下ろしを治平はカンに依頼した。惣五郎物語は歌舞伎でも大入り間違いなしとされていた。英国では惣五郎物語がノンフィクションとして出版され、ぺリーの公文書日本記録には最終ページに瓦版に描かれた藩主を呪う惣五郎幽霊の絵が載っている。
ペリーの一行が下田で手に入れた朝倉東吾一代記の瓦版だが、通訳のMが何食わぬ顔でこの芝居絵の意味をはぐらかしたのでペリーたちはこの絵の意味を理解していない。
また、ペリーの航海記では初版のみに掲載され2版以降からは省かれた。朝倉東吾は佐倉惣五郎である。カンは治平に促されマルチルドム惣五郎をノンフィクションとして書き下ろすのだが、どうにも途中から筆の勢いがかすれてしまう。ヌイ殿の息がかかる儒学一辺倒の右派秀才依田百海に脅されたか。
ヌイ殿 サクラ藩城代。藩主文明公は老中首座で欧米諸国との通商条約折衝を統括する外国掛兼任し多忙を極めたためヌイ殿は江戸屋敷とサクラ城を繁く通って城代として藩主を支える。藩主文明公正睦がハリスとの通商条約締結に勅許を求めて京に出向いたが、そのまま薩摩のサムライによって幽閉されてしまう。殿を救わんがため西村と共に京都へ向かい幽閉された文明公を救い出そうと試みるもヌイ殿重久こそ重罪人と京の辻の札に薩摩の輩が書き立て、夜半、命からがら西村と共に暗闇坂を下って逃げ延びた。不思議な知性を持った城代で惣五郎をマルチルドムと呼ぶのは正しいとヌイ殿はカンに漏らしてもいる。自由のためには命を惜しまない百姓農民がヌイ殿には輝いて見えていたのだ。
M モリヤマという名だが久助ヒュースケンはモリヤマ通辞が気に召さないのか彼の日記にMと記す。ハリスにも、ヒュースケンにもMは好人物には受け取られなかった。オランダ語通辞のくせにオランダ語に関しては250年前の知識しか持ち合わせていない。オランダ語文法は全然知らない。ハリスはそう評する。ハリス、ヒュースケンが下田にやって来た時、お前ら、早く祖国へ帰れ、と言い猛々しく港でどなったことがMの印象を悪くしている。かと思えばモリヤマは下田、出島にやって来る外国船の船員と話慣れしているので俗語英語をポンポン切り出す。まったく、扱いにくい人物だ。
ハリスもヒュースケンもmoneyのことを「セニseni」と日記に記しているが、これは彼らと折衝を重ねるMの言葉の反映か。九州人訛りで英語を語るMは銭をzeniではなくseniと発音する。カネ勘定には疎いがいつも何かしらお金の話を持ってくるのがMだ。Mはモリヤマの頭文字を表すと同時にマネーmoneyを暗示したに違いないか。
注1
www.https://www.pcgs.com/coinfacts/coin/ 1860-50c/6299
コイン・マニアを集めるpcgs.comのサイトで紹介されているアメリカの50セント貿易銀。銀本位が機能する中国、日本がこの貿易銀流通の柱だった。市場で使われる期間が短かった貿易銀には今、世界中のコインマニアが集まる。仮名垣魯文が幕末期に出版した「ゑひすのうわさ」に掲載したのはこのハーフダラー・コインの拓本。
注2
タウンゼント・ハリスは1856年9月4日の日記に「終わりの始まり (the beginning of the end)」と記した。
At half past two p.m. of this day (Sept. 4, 1856) I hoist the first consular flag ever seen in this empire. Grave reflections. Ominous of change. Undoubted beginning of end."
(本日の午後2時半、私はこの帝国に初の領事旗を掲げる。それは重大なことを映しだす。変化の前兆。間違いなく、終わりの始まり。)
下田の玉泉寺にアメリカ領事館を開設した(星条旗を掲げた)ことが日本の鎖国の終焉を告げる歴史的な転換点であるというハリスの感慨を示した文です。彼はこの一文で、自らの行動が日本の将来に不可避な大きな変化をもたらすことを予見していました。タウンゼント・ハリスの感慨は多くの人が言うようにEvery end is a new beginningなのでしょうか。もしや本当に救いようのないThe beginning of endだったのでは。
注2
玉泉寺にて

左からヒュースケン、村山滝蔵、ハリス、中央下は益田孝/豆州下田郷土史資料館蔵・「幕末写真の時代」筑摩書房1994/p80掲載から一部を拡大・写真説明も。益田孝が本文のタカシ
【参考文献】
Japan journal 1855-1861 Henry Heusken January 1, 1964 by Rutgers University Press
Complete Journal of TOWNSEND HARRIS BY MARIO EMILIO COSENZA, PH.D.
https://libsysdigi.library.illinois.edu/OCA/Books2012-12/completejournal0harr/completejournal0harr.pdf
「幕末写真の時代」小沢健志 筑摩書房1994
益田孝(前篇) 三井広報委員会 https://www.mitsuipr.com/history/columns/014/
『ゑひすのうわさ』五,写. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/11223270 (参照 2024-03-08) ※作者著作年等不明とされるが仮名垣魯文の作か
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