第2幕 ヒュースケンの素顔
第1場 ロンドン-チャイナ新聞のヒュースケン記事
久助 ハリス公使が日本側と結んだ通商条約が手本になって西洋五か国の商人は日本政府にはばかることなく絹糸を西洋へ持ち出せるようになった。ロンドンとその近郊の縫製業がますます盛んになったよ。リヨンの絹織物も活況を呈する。生糸を織り生地にしてミシンを踏み衣服を作るのは近郊の村から町にやって来る貧しい女性たちだ。
ヌイ殿 私なら代々縫殿寮を守ってきた家業からして女性従業員の監督官になっているな。フフフ。
久助 ワーグナーの歌劇「さまよえるオランダ人」に神の罰で地上と地獄の間をさまよい続けるオランダ人船長の幽霊船が出てくる。喜望峰の港に幽霊船が現れて寄港する商船を震え上がらせるんだ。経済バブルのヨーロッパ。パリ、十九世紀後半。パリにあこがれパリに潰された青年たち、女たち、子供たち。産業革命で潤う欧州は、実は貧しい人々の地獄の街だ。セイロンのゴールに寄港して乗り継ぎの船を待つ日々に「私たち西洋人の野蛮なふるまいを(地獄を)日本へ持ち込んでいいものか」と自問したのはそのときです注2。ハリス公使の言うように自由な貿易は日本を救済するだろうか。それとも貧しさを踏み越えようとする人々を新しい資本主義が地獄へ突き落すか。
ヌイ殿 そこが君らの西洋文明の泣き所。新しい貿易も新たな植民地も地獄の蓋を開くことになる。
治平 何だい、悪いことばかりかい。
ヌイ殿 しかしだ、我城主の文明公はハリスの進言を受けて茶の輸出を藩の産業策とした。八重洲に茶ノ木神社を建てて、私は城代として江戸に寄れば城下に茶木の育つよう願を掛けに行った。
ヨシチロウ 私は文明公に従い安政五年の開港に備えて柏倉陣屋の農家に茶の栽培を勧めて回った。田畑の周りに茶木を植えて茶摘みをする。アメリカに輸出すれば農家には願ってもない現金収入になる。
久助 ハリス公使は戦争で他国を支配するなと言っている。国と国の友好は互いに利益を得ることに始まる。文明公は蘭癖と言われるほどのオランダびいきだから私にはよかったが他の公使たちには閉口していた。江戸湾に並べた軍艦から大砲を江戸城に向けると喚き散らすから。
治平 あんたも幕府の外国掛に向かって、戦艦を江戸城へ向けるよ、なんて怒鳴って脅したと聞いたけど。
久助 あれはいつまでたってもこちらからの問いかけに返事を返してこないから、つい。
治平 ね、そうなんだよ。久助さんは奥方が日本人だから日本の空気も読めるだろうけど。みんながみんな、ハリス公使のように我慢強いわけでもない。えびすさんたちが腹立てればいつ何時、江戸湾の黒船から大砲の弾丸が雨あられと飛んでくるか、ひやひやしている。
久助 西洋文明国の民よ、白い肌の人々よ、あなたたちはセイロンの人々を野蛮人と呼び、彼らにどれだけ多くの紛れのない蛮行を行ったことか。アジア人を野蛮人と呼ぶのは西洋人が犯し、これからも犯そうとする卑劣なアジアでの盗賊行為を隠すための言い逃れだ。1856年3月6日、ゴールにて注2。
ヌイ殿 君は日記にそう書いたの?
久助 そうだったかな。忘れたかも。ゴールは暑かったから。雨季の前の剛直な暑さだった。オランダの砦が白く、硬く、海せり出していた。
治平 ヴィクトル・ユーゴーがバトラー大尉に宛てた手紙で久助君がゴールで記した事と同じ事を言っている---君らが中国人の国で行った略奪の蛮行は君らが野蛮人と蔑む中国人以上に野蛮なことだ。君たちだよ、野蛮なのは。ありがとうバトラー君、君のおかげでそのことが鮮明になった---ユーゴーはそう書いた注3。
治平 1860年の10月6日さ。忌まわしい。野蛮だ。スコットランドのジェームス・ブルース。エルギン卿の仕業。英仏が清に仕掛けた二度目のアヘン戦争だ。
久助 われらがユーゴーはそれを糾弾した。
ヌイ殿 でもね、エルギン卿は江戸ではおとなしかった。武力を使わなかった。
久助 不思議だよね。円明園であの海賊まがいの略奪を率いたジェームス・ブルース・エルギン卿でさえ、日本はすばらしい国だと私に言った。ほかのアジアと違うと感嘆した。ついでに私のことも褒めてくれた。それがビクトリア女王に伝わって私は金の小箱を女王から頂いた注4。
治平 ここにフランクレスリーの新聞があるんだけど、君の死亡記事が載ってるよ。
久助 何年の?
治平 1861年6月1日付だ。この38頁だけど、久助君、君の肖像が載っていてね。かなり男前だ。だけど、記事は当り障りない中身だな。あの時の君の暗殺が招いた緊迫感が伝わってこない。
久助 どれどれ。でも、私のイラストは十分に素晴らしさが伝わってくる。
治平 君の肖像はパリの凱旋門で称賛を受けようとする兵士のように神々しい。
久助 どれどれ。何度でも見返すぞ。
ヌイ殿 ほう、ほう。
治平 ロンドン-チャイナ通信の記事だけど。ヒュースケン暗殺に抗議して江戸を離れる4か国公使らの行動をアメリカ公使ハリスは拒絶した。ロンドン-チャイナ通信はそれを「ハリスの私情による行為」と記した。
治平 でもねえ、わざわざ葬列へ加わらないのはハリス公司の個人的な理由だなんて、なんて新聞が書く?
久助 そこ、大事なロジックがあるんです。
治平 君の暗殺記事、ロンドン・チャイナ新聞は何度も書いてるね。ハリス公使のことも随分と踏み込んで様子を知らせてくれてる。
皆がググっとロンドン・チャイナ新聞に顔を寄せて集まる。寄せたって読める分けねぇだろって、やっかみで指摘してはいけない。意識を集中すると英字新聞が日本語に化けるものだ。それにこの新聞はずいぶんとハリス公使に肩入れしている。純真なんだな、ハリス公使も、この記事を書いた記者も。
久助 そうそう、公使は通商条約に依る利益の確保、双方にとっての利益、通商にはそれが大切だといつも言ってた。
治平 青臭いこと考えてんだね、ハリスさん。私と同じ年ごろなのに。せっかくアメリカ公使として日本へ来たのだから自分の金儲けをもっと企めばいいのに。あまりに純真だ。
> 久助 日本人にはない信念です。
治平 そうとも言えないよ。ここに加わったカン君は、青臭くてしょうがない。マルチルドムにぞっこんだ。そこを見込んでベストセラーを書かせるつもりなんだ。惣五郎、マルチルドムの男一代記。
ヌイ殿 治平さん、ちょっとこんがらがるから惣五郎のことはひっこめといて。我朝倉藩の恥だし
久助 ハリス公使は私の葬儀行進に加わらなかった。公使は慎重だから。私を狙った連中とその仲間が私の棺の周りにうようよしていたから。
治平 そんなの見えるの?
久助 もう死んでるからなんでも見える。見えても、それをみんなには伝えられないのが歯がゆい。だけどね、ハイネには伝えたんだ。ハイネは写真機持っているから写真撮って、それをもとにイラストを描いている。だから、私はハイネが撮った写真に心霊を加えて、お福さんを棺のそばに子供と一種に立たせて、私を狙った連中も影のように浮かび上がらせて、私のボーイになった少年も写っている。オイレンブルグ伯爵の日本での三年間を記録した日本遠征回想記にはハイネの描いた葬儀行列イラストが寄せられると思うよ。
治平 お福さんが葬列の脇にいたって? 久助さんの棺に寄り添ってかい? そうだったかねト訝シ気ニ思イ起コス仕草デ腕ヲ組ム。幕府と通商交渉をしているプロシアの軍隊が楽隊を並べ、各国は国旗を掲げ、盛大な送別式だった。そこへお福さんがいたって? 帯をだらりと垂らして。そんな女性いたかな?
ヌイ殿 文学的に言えば、居る。必ず居る。お福さんの意地だね。強い女性だね。帯のだらり結びで表現する花街の女の意地。私はそういう女性を尊敬する。
治平 上野不忍の池畔の料亭に花街の女性を連れて行ったって評判ですよ、ヌイ殿。江戸詰め佐倉藩士シチローがそう言ってる。
ヌイ殿 葬列の後ろから江戸の町人が腰をかがめて覗き込むようにお福さんの後姿を見ているね。浮世の男の興味はぶしつけであざといものさ。ハイネさんはそこをあざ笑ってあの町人らを描いたんだね。
久助 ハリス公使なら、日本人は半文明人なのだと貶すでしょう。
ヌイ殿 お福さんを花街の妾と見下げたんだよ、そいつらは。だからお福さんは花街の女を演じて見せつけてやったのさ。花街こそが大江戸の華だとね。
久助 男と女の関係は平等でも自由でもない。フランスでもオランダでも女性は社会から置き去りにされている。でも、私はお福さんを愛する。私たちは平等な関係です。そして、互いに自由だ。
カン ニューヨークのレスリー・イラスト新聞のヒュースケン君は粋だ。
ヌイ殿 浮いた噂がいくつも流れてくるわけだ。へぇ、レスリー・イラスト新聞とやら、こいつはニューヨークの瓦版かねぇ注4。
西洋の文明はほんとうにお前のための文明なのか?
久助 私はこんなことも言った---いまや私がいとしさを覚えはじめている国よ、この進歩はほんとうに進歩なのか? 西洋の文明はほんとうにお前のための文明なのか? この国の人々の質樸な習俗とともに、その飾りけのなさを私は賛美する。
(一同、黙して久助の言葉に聞き入る)
久助 この国土のゆたかさを見、いたるところに満ちている子供たちの愉しい笑声を聞き、そしてどこにも悲惨なものを見いだすことができなかった私に!おお、神よ、日本の、この幸福な情景がいまや終わりを迎えようとしており、西洋の人々は彼らが生んだ取り返しのつかない悪徳をもちこもうとしている。
ヌイ殿 そこまで言うか、文学者久助殿。
治平 西洋人の重大な悪徳。アジアの富と平和の略奪。そこを糾弾するとは。まさにヴィクトル・ユーゴーだね、君は。
ヌイ殿 そこまで日本大好きの君が何で攘夷のテロリストに狙われたんだ? 君の思想の根底にあるのは攘夷そのものだ。イムタ君からはむしろ教祖とあがめられていいのだが。その君がイムタ君らに狙われた!
治平 西洋の悪徳を持ち込んだのは君自身だからだ。
久助 私たち二人は大君の前に胸を張って進み出た。大君の廷臣はだれ一人私たちを引き下ろさなかった。私たちの非礼に対して刃を振りかざして襲い掛かる者はない。旧態に身動きしない日本を変えるのは私たちだ。そう信じた。神は使命を実行する私たちを守る。
ヌイ殿 いや、君たちを守るのは黒船に積まれた大砲だ。イムタ君のように血に飢えた野良犬は江戸城にもたくさんいる。しかし、なぜだろう?なぜ君は狙われた?
治平 仮名書が書いた「ゑひすのうわさ」のような下世話だけど、久助さん、あんた女のことで恨みを買うようなことはなかったかい?
久助 ええ?まさか下田にいたときに女風呂を覗いた事とか言ってるの?
治平 ほかには?
久助 茶屋に出入りしていた娘に声を掛けたとか?
治平 いやいや、まだまだ。善福寺の娘に手を出して娘が尼寺へ身を寄せたと手塚オサム先生は歴史漫画に書いている。今東光管主はイムタの同僚から同じ理由で君は恨みを買ったと物語を作っちゃうし---
久助 えええ? 何のこと? 後世、私はそんなこと言われるの? 私の棺に寄り添うのはお福さん一人と、そして我が息子。
治平 久助さん、あなた人気出ちゃったんだよ。後世のヒュースケン通があることないこと、いろいろ言うんだよね。エッセイとか学術論文とかで。あんた、えげつなく言われてるよ。おッとッとッ、こいつはまだ先の出来事かあ。そうなら、まあ予言として聞いてほしいんだけど、あんたの人格を貶すようなことを何も言わずにあなたの墓を訪ねたのは永井荷風先生だけかな。あなたの墓のそばに梅の花が壱輪咲いている、なぁんてしゃれてね。いや、まだ咲いてなかったか?
(ヌイ殿、この会話には黙して加わらず。アブサンを傾けては天井を見上げ不忍池の茶店に連れて行った娘さんの透き通る唇を思い出していたような)
久助 「太陽の文明を運び、夜空の星に進歩の光をともしてあなたはこの国に人間が厳かで美しく生きる権利をもたらした」
治平 モリエールの古典主義のような詩だ。
久助 荷風先生は私の墓の前でそう呟いていたよ。
治平 そうかい。荷風先生があなたと詠うのは久助さんだね。あんたを同じタイプの男とでも感じてたのかしら。そうかも知れないね。荷風さんはリヨンで毎晩浮名を流していたようだし。江戸へ帰っても市川八幡から浅草に東武電車で毎夕通って大黒屋のとんかつを食べてからロック座の楽屋へ入り浸りだったから。嬉しそうで穏やかで平和だったよ、踊り子さんたちに囲まれて。(と、幕末の治平さん、まるで昭和を肌で感じていたかのような口ぶり)【つづく】
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注1
1857 年 6 月 17 日水曜日付のタウンゼント・ハリスの日記。 原文
To-day we signed the Convention, having been some nine days in settling the wording of the Articles, which by the way is a work of much difficulty, as the Dutch of the Japanese interpreters is that of the ship captains and traders used some two hundred and fifty years ago. They have not been taught a single new word in the interim, so they are quite ignorant of all the terms used in treaties, conventions, etc., etc. This, joined to their excessive jealousy and fear of being cheated, makes it excessively difficult to manage such a matter as the present one. They even wanted the words in the Dutch version to stand in the exact order they stood in the Japanese!! Owing to the difference of grammatical structure this would have rendered it perfect gibberish.
注2
1856年3月6日、ゴールにて。Hyusken Japan Diary原文とその訳---
Oh,you civilized nations, fair-skinned people,how many lessons of true barbarism you give those aborigines of the two Indies, whom you call savages! You use the term as a sort of excuse for the outrageous thefts you have commited and will commit against them.
文明化した国の人々よ、肌の白い人々よ、野蛮な未開人と君たちが言うインドの先住民に君たちは真のバーバリズムと呼ぶべき蛮行をどれだけ沢山重ねて来たことか!彼らを野蛮な未開人と決めつけるのはこれまでに犯してきた、そしてこれからも犯し続ける君らの蛮行への、途方もなく大きな盗人行為への恥ずべき言い訳でしかない。
Japan Jouenal 1855-1861 March 6, 1856 Henry Heusken Traanslated and edited by Jeannette C.van Der Corput and Robert A. Wilson / Rutgers University Press New Brunswick New Jresey1964
注3
ユーゴ―のバトラー大尉への手紙はヒュースケンがセイロンのゴールで西洋の蛮行を嘆いた四年後に書かれた。ユーゴーは、エゲレスとフランスが手を組んで北京の円明園を襲って財宝を盗み取った、野蛮なのは文明化していないアジアの人々ではなく文明化した西欧の人々だと糾弾した。
The sack of the Summer Palace / To Captain Butler / Hauteville House, 25 November, 1861
注4
その野蛮を指揮されたエルギン卿は英国使節の一員として江戸にやってくる。卿は中国には敵意にも似た憎悪を抱いたが日本へは好感を抱いた。英国の日本との通商条約締結に助言をしていたヒュースケンと関わり、ヒュースケンの褒章を英国政府に進言した。ヒュースケンはこの時、英国女王から感謝のしるしとして黄金の嗅ぎ煙草入れを贈られた。
-- her Majesty's Government presented Mr. Heusken with a gold snuff-box with the Queen's cypher in diamonds, as a token of gratitude. /London and Chaina Telegraph Article titled "Japan Kanagawa" April 13,1861 No.58
注5
ロンドンチャイナ通信が英国公使ラザフォード・オールコックとタウンゼント・ハリスを取り違えたかのように記事を繋げたのは1861年4月26日号VolⅢ-no.59の「極東からのニュースの要約」だった。「江戸に残り、襲撃を恐れもせず、江戸を離れよと諭す幕府の忠告をも撥ね退け果敢に騎士道を貫いたオールコック公使」と、ロンドン・チャイナ通信は報じるのだが、はて。13日号ではより客観的な報じ方をしてもいる。
以下、1861年4月13日と23日の記事抜粋。
the London and China Telegraph: Japan herald,and Journal of the eastaern archipelago.published on the arraival of the mail (via Marseilles) Vol.Ⅲ-No.59. London, Friday.April 26,1861 241p Summary of News from the Far East.
日本からのニュースは予想以上に好意的である。オールコック氏をはじめとする江戸から逃れた代表団は、政府の保護を保証されて江戸に戻ってきた。幕府が受け入れた条件は以下の通りである。
•大君陛下は帰国の招待状を特別に送付すること。
•江戸の砦は21門の大砲でフランスとイギリスの国旗に敬礼し、軍艦は日本の国旗に返すこと。
•大君の護衛兵、省、そしてすべての高官は、上陸の際に正式な儀礼をもって使節を迎えること。
•日本が条約を結んでいる諸国の力と文明を知るために、日本は大使をヨーロッパへ派遣すること。開港における貿易のあらゆる障害は一掃される。
•税関におけるスパイ活動と締め付けは廃止され、これらの目的のために横浜に設置された駐屯地は撤去される。
•領事公邸は神奈川から移転し、『ブラフ』と呼ばれる場所に新しい公邸の敷地が選定され、残りの土地は外国人の個人住宅として割り当てられる。
•今後、領事館は横浜に置かれる。
•これらの提案の検討と受諾のために7日間の猶予が与えられ、その期限前に2回目の会談が行われた。この会談で、日本の担当者はいくつかの修正を試みたものの、失敗に終わった。そして、最終的にはすべてをありのままに率直に受け入れた。こうして、ちょうど5週間の首都不在の後、公使たちは3月2日に江戸に戻った。
我々の特使の召還は、16日付のチャイナメールによると、米国代表ハリス氏がとった前述の立場によるところが大きい。ヒュースケン氏殺害後、ハリス氏のみがその職に留まったことは記憶に新しいところである。また、最近の抗議活動において他の外務大臣から共同行動の要請を受けた際のハリス氏の返答からも、彼が自らの立場の重要性をいかに深く理解していたかが窺える。彼の毅然とした態度こそが、前号のロンドンチャイナ通信によってもたらされた知らせによって致命的に脅かされたと思われた我が国の日本に対する利益を確保する手段となったに違いない。ハリス氏がオールコック氏に宛てた、1月に江戸の英国公使館で開催された会議の報告書の受領を知らせる公式書簡は、極めて有益であり、この問題全体に大きな光を当てている。オールコック氏はアメリカ公使に、議定書に署名するよう要請し、この議定書は前述の会議の正確な記録であると述べた。これに対しハリス氏は、1月21日の会議には彼が出席するよう要請されておらず、したがって出席もしていなかったため、報告書の正確性について判断できないと答えた。そして、オールコック氏と他の公使らが出した結論を要約して、次のように述べた。「日本政府の誠実さを信頼することはできない。各公使館員は、この上海に留まることによって暗殺の危険にさらされている。」
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1月10日のラウドン郵便は3月4日に上海に到着した。ここでは、デント商会の汽船、ライムーン号が到着するまで、すべてが驚くほど静かで不穏な状態にあった。楊子江沿岸の市場における外国貿易に1ヶ月以内にもたらされるであろう利益について、ある程度の判断を下すことができるだろう。これらの問題はおそらく解決されるだろう。最新の報告によると、楊子江の遠征隊は南京から先に進んでいなかった。外国人の善意に寄り添い、貿易を促進したいという希望を表明した反乱軍の首脳たちと何らかの連絡が取られていた。
<揚子江遠征の進捗状況>
…そして、彼らの個人的な安全を確保するという二重の目的と、この政府に目に見える影響を与えるという二重の目的のために、「公使館は横浜に撤退するのが望ましい」と述べ、かなりの力と能力をもって反論している。ハリス氏の議論は、我々の考えでは反駁の余地がない。彼は、政府が常に外国人にも日本人自身が採用しているのと同じ予防措置を講じることを望んできたことを示し、日本人に自らの安全対策以外の手段で我々を守るよう要求するのは正当であるのかと問う。ハリス氏は、ヒュースケン氏の殺害は、夜間に常に身をさらしていたことに対する政府の警告を無視したことが原因であると指摘する。そして、過去数年間の政府の外国人に対する対応と、政策変更によって生じた困難について、広く賢明な見解を示している。障壁が突然取り除かれ、多くの高位の政治家や政治家、日本国内の有力者がこの革新に激しく反対すると、敵意が掻き立てられ、政府の感情がどれほど友好的であろうとも、排外主義派の激しい感情を制御することは不可能である。この論理は明白であり、ハリス氏が次に示唆する点について、どのように答えられるかを見極めるのは容易ではない。
ハリス氏は、閣僚たちが会議で犯した大きな過ち、つまり江戸からの逃亡というさらに大きな過ちにつながったことについて言及している。彼はこう書いている。「前述の会議における議論はすべて、日本政府が西洋列強と同等の文明を代表しているという前提に基づいているように思われる。これは重大な誤りである。日本人は文明人ではなく、半文明人であり、この国の情勢はヨーロッパと全く類似している。したがって、中世の日本政府に、文明国で見られるのと同じ遵守事項、同じ迅速な司法執行を求めることは不可能を要求するに等しい。そして、いかなる国際法によっても全く支持されないと私が信じる私人の独断行為について、その政府に責任を負わせることは、単に不可能を要求するに等しい。この原則は西洋世界では実行されていない。ずっと昔、ロンドンの陪審はフランス皇帝暗殺を企てた陰謀者を大喜びで無罪放免にした。私は、この司法の失敗の結果、ロンドンのフランス公使館がドーバーに撤退したことを知らなかった。また、ナポリの最も大きな大通りの一つでフランス公使は正午に激しい襲撃を受けたが、数百人がこの襲撃を目撃したにもかかわらず、暗殺未遂犯は逃亡し、今日に至るまで逮捕されていません。犯人逮捕に失敗したため、フランス公使館はナポリから撤退するのでしょうか?
昨年3月、日本の摂政が暗殺されました。これまでのところ、暗殺犯の一部しか逮捕されておらず、そのうちの一人も処罰されていません。摂政のような高位の人物に対する犯罪の処罰が遅れていることは、日本の手続き方法が西洋諸国とは異なることを示しています。私は、日本政府が推奨し、日本人自身も使用している予防措置を講じる限り、横浜に行くことは完全に安全であると確信します。日本政府に影響を及ぼす目的で横浜に移ることは、間違いではないと思います。アメリカとの条約の中で、江戸に住居を確保するための条項ほど難しい条項はありませんでした。アメリカ合衆国の外交代表として、この件についてお話しました。その時、日本の公使たちは、江戸に外務大臣の住居を置くことが必ずや重大な困難をもたらすだろうと私に警告し、私が神奈川か川崎に永住し、任務上必要であればいつでも江戸に出向く権利を得ることを強く希望しました。
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最後に、ハリス氏は忍耐と寛容が望ましい効果をもたらすと信じており、「この平和な国民と幸福な国に戦争の惨禍がもたらされるのを見るよりも、この国との条約がすべて破棄され、日本がかつての鎖国状態に戻るのを見る方がましだ」と付け加えています。
ハリス氏が日本を「平和で幸福な国民」と表現することにほんの少しロマンチックな色合いを感じても、私たちは異論を唱えるつもりはありません。事態には二つの側面があり、今のところ彼は太陽の光に輝く側面を見つめているのです。彼には、彼が一貫して条約交渉を進めてきた国を至福の視線で見る権利がある。そして、条約がもたらす彼らの幸福を過大評価しているとしても、我々が友好関係を維持することの重要性を少しも誇張しているわけではないのです。
【上記の参考資料はネットで確認できます】
The London and China Telegraph /Japan Herald,and Journal of The Eastaern Archipelago. London Satueday,April 13, 1861 VolⅢ No.58
Frank Leslie's Illustrated Newspaper New York June 1,1861 No.289-Vol.XIL p38
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